→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第2巻

   032.ホーム

 プラットホームの一番端には、僕と千夜さんの二人しかいない。
 肩で大きく息をしていると、次第に呼吸も落ち着いてきた。
 千夜さんは何も言わずに、僕に突き刺すような視線を投げ掛けて来る。
 いつもは中央で分け整髪料で横跳ねさせている黒髪も、多少癖は残っているけれどストレートに下ろしている。薄茶色のカーディガンを羽織い、首まで隠れた(腕は隠れているけれどおそらく)同色のタンクトップを身に纏い、それに合わせ下もベージュのストレッチパンツを履いていた。普段首元から覗かせている黒紐のネックレスの姿も無い。
 けれど靴だけは黒の革靴のままで、良く見ると服と不釣合い。でもそこまで気にして見る人は少ないだろう。左の足元には愛用しているドラムの黒のスティックケース。右には黒の紙袋が置いてあり、中から先程まで着ていた黒いスーツが見え隠れしていた。
 でも――
「ジロジロ見るな」
 そうは言うけれど、どうしても千夜さんの姿から目が離せない。
 普段の――僕達の前に出る時の印象とは180度違って見えるから。
 もう一度上から下まで順に眺めてみる。スーツの黒の印象が強いせいで、余計に違って見えるのかも知れない。丸眼鏡もかけていないし、千夜さんをよく知っている人でも街ですれ違う分には同一人物と気付かないだろう。
 僕が千夜さんだと分かったのも、荷物が足に当たり謝って来た時に顔が間近にあったから。それと見慣れたスティックケースが決定的になった。
「……笑え」
「え?」
 痺れを切らしたのか、千夜さんがぽつりと言った。
「わざわざ笑いに来たんだろう?いつもとあまりに変わり過ぎてるこの格好を」
 片手を広げ、自嘲気味に突っ掛かって来る。予想外の対応をされ、僕はどう言っていいものか分からなかった。
「嬉しいだろう、私の素性が分かって。ドラムを叩く時にはあんな格好で身を固めた奴が、こんな姿で街中を歩いてると知って、嬉しいだろう!?」
 語尾の調子を荒げて千夜さんが詰め寄って来る。そう言われても、はいそうですと素直に答えられる状況でもない。
「に……」
「何!?」
「に、似合ってると思うよ。すごく。可愛いと思う、僕は」
 なので正直に胸の内を明かした。目が離せなかったのも、いつもと違った魅力のある千夜さんが見れたと言うのもあるけれど、それ以前にとても僕の目を引くから。
 可愛い。
 と一言で言ってしまうと語弊があるようで、美人と可愛いの中間点?普段の触ったら切り傷がついてしまうような刺々しさのある魅力とはまるで違い、どこか内包的で優しげな感じを受ける。眼鏡を外しているためもあってか、目元の印象が随分変わっている。
 慈しむ感じと言うか……そんな感じ。
「そうか……」
 けれど、いいことを言ったつもりでいたのに千夜さんは眉を細め俯いてしまった。あまりに唐突に様変わる態度に、僕は一体どうしていいのか分からない。
「……知られたく、なかった」
 考えていると、千夜さんが目線を下に落としたまま消えてしまいそうな声で呟いた。
「この姿をバンドの私を知っている人間に、誰も――」
 ――どうやら僕は、見てはいけないものを見てしまったらしい。
「ご、ごめん……」
 僕はただ、口に出して謝ることしか出来なかった。慰めようと肩を抱いたら確実に殴られるし、言葉を並べ立てて反論することもできない。でも謝りながら、どうして自分が頭を下げているのかよく分からなかった。
 ほんの少し高度を下げた太陽が、真横から僕等に日光を浴びせ掛けて来る。先程走って吹き出た汗が喉元を伝っていく感覚が酷く煩わしく思えた。
 しばらく千夜さんは思い詰めた顔でアスファルトのホームをじっと見つめていたけれど、思い立ったように両手に荷物を抱え、僕を無視し横を通り過ぎて行く。
「どっ、どうしたの千夜さん」
「話かけるな」
 呼び止めようとすると、背中からキツい口調で怒鳴られてしまった。それでもプラットホームを大股で戻って行く千夜さんの後を慌てて追う。
「今の私はドラムを叩く時のChiyoじゃない。放っておいてくれない?」
 完全に頭に来ているのか、横に並んでも僕の顔を少しも見てくれない。
 まさかこんな所で僕と出会うなんて思ってもみなかったんだろう。でもそれは僕も同じだし、後を追い駆けただけでこれほど怒られるなんて。 
 とりあえず、理由を説明しなきゃと思った。
「……そんなこと言われても、電話かけても千夜さん出ないし、前の話もうやむやのままになってるから一度話しておかないと思って。練習に来なくなったらこっちも困るし」
 僕がそう言うと、千夜さんは足を止め恐い顔で睨みつけてきた。
「そんな真似はしない」
 断定的に返され、尻込みしてしまう。取り付く縞も無いと言った感じで、泣きたくなってくる。でもここで引き下がると、まともに話をできる機会は次いつになるか解らない。イッコーや黄昏のいる前だと話がこじれてしまうこともあるので、一対一できっちりと千夜さんの本心を聞いておきたかった。
 千夜さんの前に回り、道を阻む。
「……解った。話を聴くからその目をやめろ」
 あまりに真剣な目をしていたのだろう。大きく一つ溜め息をつき、千夜さんは呆れた顔で僕から目線を外した。ちょうどホームのチャイムが駅構内に響き渡り、僕達のすぐ横から電車が走り出す。乗るはずの電車だったのか、走り去り空っぽになったホームを見て、千夜さんが参った顔でもう一度溜め息をついた。
 とりあえず立ち話も何なのでギザギザの屋根の場所まで二人で戻る。横並びに備え付けられた端の椅子に千夜さんが腰を下ろすと、紙袋の中から黒い眼鏡ケースを取り出した。
 いつもの丸眼鏡を中から出してかける。こうすることできっと気持ち的にドラムを叩く時の自分になれるんだろう。髪の毛を下ろしていても、眼鏡は似合っていた。
「素顔もいいと思うけど、眼鏡をかけてる千夜さんの方がしっくり来るかな」
「うるさい」
 褒めたつもりだったのに、思い切り冷たくあしらわれてしまった。悲しい。
「何か飲む?おごるよ」
「……勝手にしろ」
 何だか1年前に出会った時と変わっていない気がする。そんな疑問を抱えつつ自動販売機の所まで戻ると、ちょうど次の電車がホームに入って来た。
 もしかして僕がいない内に乗ってしまうかも。内心冷や冷やしながらアップルティーとレモンティーの缶を買って小走りで戻ると、千夜さんは膝に両肘を乗せ遠くを眺めていた。ほっとすると同時に、ちょっと嬉しくなる。
 二つの缶を差し出すと、何も言わずにレモンティーを受け取った。そして紙袋の中から財布を取り出そうとしたので、慌てて止める。千夜さんは釈然としない顔をしていたけれど、何も言わずに財布をしまった。
「変に律儀だよね、千夜さんって」
「……恩を売ったと思われるのが嫌なだけ」
 だんだん千夜さんの性格が分かってきた気がする。
 僕だけ立っているのも何なので同じ列の椅子に座った。男同士なら一つ間を空けてで十分だけど、千夜さんの場合なら二つでも煙たがられる気がしたので5つ並ぶ席の一番端にした。3つ分空いている椅子の距離が、僕と千夜さんの距離を表しているように思える。
「でも、どうして私服なの?いつも同じ格好で帰っているのに」
 いきなり話の核心に持って行くとまた逃げられる気がしたので、気になっている所から訊くことにした。
「あの姿だと、否が応にも目立つ」
 千夜さんはきっぱりと言い、缶のプルを空けて目を閉じて口をつけた。その横姿は見ていてとても絵になっていたけれど、肝心の喉元が服で隠れてしまっているので無念。
 でも本人もあの格好は目立つと解ってやっているんだと知って安心した。あれが自然にだと言われるとさすがにこちらも身構えてしまう。
「特に今日はライヴ前に出て行ってしまったから……もしライヴを観に来る客が私を見つけたら、と思うと――」
 その話が出て、4月の雪の日に情けない思いをしながら水海の街を徘徊った記憶が僕の脳裏に甦った。あの時の後ろめたい気持ちは多分二度と忘れない。
 おそらく千夜さんもあの日の僕と似たような気持ちを今抱えているからこそ、ドラムを叩く時のChiyoの名前を下ろしたかったんだろう。その心境は痛いほど良く解った。
「――どうせ、ラバーズから後をつけて来ただろう?貴様は」
 ねちっこい喋り方をされて横目で睨まれる。当たらずしも遠からず。
「訪ねに行ったのは確かだけどね。でもすぐ帰っちゃったから、僕も帰って練習でもしようと思ってた所で。隣で切符買ってたのは、本当に偶然だよ」
 僕の弁明を千夜さんは疑り深い目で見て来る。納得して貰えるのは最初から無理だと思っていたものの、視線の痛さに耐えられなくて振り払うように缶を開けるとアップルティーを喉に流し込んだ。体の中から冷やされ、汗が引いて行く感じがする。ラバーズで飲んだお酒はさっき走った分ですっかり体の外に出ていた。
 それにしても、千夜さんは本当に女の子だったんだな、と今の姿を見て強く思った。
 バンドを始めた時に、高校に通っていることだけは前もって聞いていた。でも、場所や名前は今も教えてくれない。
 その前知識でいろいろ制服姿を想像してみたりしたけれど、ずっとピンと来なかった。でも目の前の千夜さんを見れば全部納得が行く。
 普段からキャラクターを創っていることは薄々――と言うか当然と言うか、気付いていたけれど、じゃあ日常生活はどんな姿なんだ、と言うのはバンド界隈でも根も葉も無い噂が結構飛び交っていた。
 けれどよくよく考えてみれば、僕に今の姿を知られあれだけ動揺したと言うことは、千夜さんを知っている他の誰も見たことが無い、と言うこと。
 千夜さんの秘密を独占出来たような気になり、僕は心の中で鼻高々になった。これをネタに何かしようなんてくだらない真似はさすがに考えない。
「でも、いつもわざわざ着替え持って来るなんてしてないじゃない、千夜さん」
 僕は思っていた疑問を口にした。ずっと同じバンドでやっているのに、千夜さんがスティックケース以外の物を持っている所を見たことがない。
「している」
「え、でも見たこと――」
「ライヴの日だけ、駅のロッカーに入れている。さすがに汗で気持ち悪いから」
 なるほど、そう考えれば合点が行く。ライヴの後は寄り道せずにすぐ帰るから、そこまで知る由も無いのも当然と言えた。
「そんなことしなくても、楽屋に持って入ればいいじゃない」
 つい口が滑ってしまい、言ってしまってからマズいと思った。激しく鋭い眼光を向けて来る。今の姿を知られたくないから、わざわざそのような手間をかけているに違いない。
「……でも、汗でべたつくなら上着脱げばいいと思うけど」
 状況を打開しようと思いついたことを言うと、更に強烈なプレッシャーが向こうから圧し掛かって来た。どうやら僕の喋ることは逆鱗に一々触れるらしい。
「ごめん……」
 居たたまれなくなり、目線を外したまま深々と頭を下げた。
「貴様みたいな変な目で私を見て来る人間がいるからしていないんだ」
 どうやら僕は千夜さんに相当嫌われている。今日話していて疑念が確信に変わった。
「――今日は別の用事があったから、始めからこの服で来ていた」
 ガックリうな垂れている僕に、悪いと思ったのか千夜さんは仕方無しに言った。
「用事って?」
 励まされたと勘違いし頭を上げる僕を見て、顔に手を当て頭を振る。
「どうして貴様に一々詮索されなきゃならない。さっきから一々一々……もううんざり」
 溜まっていた胸の内を吐き出すようにぶちまけ、千夜さんは疲れた顔を僕に向けた。
「私はお前の何?お願いだからもう話しかけないで」
 ――その言葉には、作りも飾りも何も無かった。
 男言葉でもない、彼女自身の言葉の、本音。
 今まで分厚い殻に覆われていた千夜さんの心が初めて曝け出た瞬間だった。
 辛いことを言われているはずなのに、何故か僕は――とても、嬉しく思えた。
「――だって、同じバンドの仲間だもの」
 その言葉に応えるように、僕も心の内を曝け出す。
 嘘偽り無くそう思っているからこそ、僕は千夜さんのことを知りたい。
 僕を見て来る千夜さんの蔑んだ目を、正直な瞳で見つめ返した。
 街の喧騒がやけに耳に飛び込んで来る。椅子に背中を預けた千夜さんは、何も言わずに僕の目を見ていた。その黒い瞳の向こうで、何を考えているのだろう? 
「もう1年経つのにさ、千夜さんって僕達三人と距離が離れてるから」
「……サポートメンバーなんだから当然だろう」
 僕が続きを話すと、千夜さんはだるそうにそっぽを向いた。その口調はいつもの厳しい男言葉に戻っている。
 気持ちが伝わっているといいななんて思いながら、一度乾いた喉を潤した。
「千夜さんをサポートとして考えてるつもりは全然ないんだけどな、僕はだけど、ね」
 目の前に広がる水海のビル街を眺めながら考えを口にする。照れ臭い気持ちを懸命に隠しながら、僕は千夜さんの背中に言葉を投げ続けた。
「他のバンドは知らないよ?でも僕の中じゃ千夜さんは『days』に欠かせないバンドの一員だと思ってるし。勿論本気でね。黄昏やイッコーも、どこかでそう思ってるんじゃない?」
 二人を庇うつもりで言ったけれど、これまでの僕達のライヴで薄々気付いていると思う。だから何も言い返して来ないに違いない。
 言っていいものかどうか迷いつつ、やっぱり話すことに決めた。
「前はイッコーがあんなこと言っちゃったけれど……あの後、凄く反省してたよ」
 本人のプライドを傷つけてしまうかもと思ったけれど、千夜さんは絶対に話さないから大丈夫だろう。背中を向けていた千夜さんはほんの少しだけ振り返り、僕の顔を見た。何だか猜疑心の強い噛み猫を相手にしているみたい。
「ああやって厳しいことばかり言ったけれど、それって心底『days』のことを考えてだから。何も千夜さんが嫌いだから、って言う訳じゃないよ。かえって千夜さんのことをちゃんと考えているからこそ、真面目な姿勢で叩いて欲しいと思っているんじゃないかな」
「……つくづくお人好しだな」
 僕の言葉が足りなかったせいか、鼻であしらわれてしまった。
「イッコーだけじゃない、貴様もだ」
 他人事と思って構えている僕が気にくわなかったのか、厳しい言葉を浴びせ掛けて来る。
隣の椅子に缶をそっと置くと、コツン、とプラスチックの音が鳴った。細い指が離れる。
 そう言われても困ってしまう。僕はただイッコーのことを信じているだけなのに。
 自分のことには結構後向きに考えてしまう僕も、何故か他人のことになると簡単に信じ込んでしまう。昔から人を疑う、と言うことを知らないんだ。
 誰かにそうしなさいと言われた訳じゃない。ただ、生まれてこの方一度も他人に嘘をつかれたことがない気がする、それだけの理由だと思う。
 それって単なる単純馬鹿だと言われれば、そうかも知れない。
「あれだけ好き放題言われたら、反論するのも当然だろう」
「そうかな?僕には千夜さんから噛みついているように見えるけれど」
 図星だったのか、また鋭い目で僕を睨みそっぽを向かれた。今日何度目だろう。
 僕は手の中にある缶の中身を全部飲み干してから、その背中に尋ねてみた。
「千夜さん、何を考えてるの?」
「どう言う意味?」
 強い口調で返されるのももう慣れた。一呼吸置いてから、改めて訊く。
「どうしてそんなに躍起になってるのかなって。どこか焦ってるみたい」
「私は別に焦ってなんか――」
「聞いたよ。僕達のバンドだけじゃないんでしょ?正式加入したの」
「…………」
 咄嗟に席を立ち反論しようとした千夜さんの言葉を遮るように言うと、次の言葉を失くし苦い顔で俯いたまま席に付いた。この顔だけ見ると、女の人なんだけどな。
「かけ持ちしてる数も減ったって言ってたけど、それって本当?」
「……だからどうした」
 追い討ちをかけるように次の質問をすると開き直ったように言い返し、ゆったりと椅子に足を組み座り直した。
「貴様ももう知っているだろう?今日も一つ減った。これで残りは4。――逆にゆとりができて、せいせいする」
 冷静な顔を努め軽口で言う千夜さんの姿を見て、僕は無性に淋しくなった。
「嘘でしょ」
 すると自然にその言葉が口を突いて出た。しまった、と一瞬思うけれど、気持ちに嘘はついていないのですぐに頭を切り替える。
 当然千夜さんは頭に血が昇り、目を大きく見開き素早く腰を上げた。
「貴様っ……!!」
「何も考えずに千夜さんがそんなことする訳無いよ。理由があってのことだと思うもの」
 殴られるの覚悟で臆せずに言う。どうせ最初から嫌われているんだから。
 どうやら僕は腹の中にものを溜めて置けない人間らしい。前にも千夜さんと似たような状況があったような気がする。
 淡々と話すこちらの態度が気に食わなかったのか、千夜さんは目の前まで肩を怒らせ歩いて来て僕の襟首を強く掴んだ。
「いい気になるな!見透かしたつもりだろうが……!!」
「だって千夜さんってとても正直だもの。ドラムの音聴けば分かるよ」
「っ……!」
 逃げずに目を見てはっきりと言う。すると振り上げた左手を止め、僕の襟首を掴んでいた手から力が抜けゆっくりと離れた。下唇を噛み締め何とも言えない顔を見せる。
 冷静を装っていたけれど、本当は心臓がバクバクしていた。心の中で大きく安堵の息を吐いて、Tシャツの襟が伸びてないか確認する。どうやら大丈夫そう。
 項垂れ僕の前で立ち尽くす千夜さんを見上げ、言った。
「だから協力したいんだよ、千夜さんに。僕で良ければいつでも相談に乗るよ」
「どうしてお前はいつもいつもそう……!!」
 僕の言葉を聞いているのかいないのか、また間髪入れず食って掛かって来る。しかし完全に激昂しているせいか、その後の言葉が続かない。するとよろめくように僕から離れ、眉間に皺を寄せ困惑したような顔を見せた。
 咳払いを一つしてから、僕は千夜さんに微笑みかけた。
「だって、同じバンドじゃない?他のメンバーが悩んでれば、助けるのは当たり前だよ」
 結局の所、僕が固執している最大の理由はそれ。一緒にいる仲間のはずなんだから、何かあればすぐ駆けつけたい。甘い考えかも知れないけれど、僕は手助けしてあげたいんだ。
 ぎゅっと自分の右腕を強く握り締めている千夜さんの姿が、たまらなく愛しく思えた。
 んっ?
 今の感情は一体何だろう。
 じっくり考えるといけない気がしたので、矢継ぎ早に次の言葉を口に出した。
「音がどうとか曲がどうとか以前に、バンドが一つになればいいなって思ってるんだ」
「?」
 疑問の目で見て来る千夜さんに、構わず話を続ける。
「黄昏が戻って来てから、そんなことを強く考えるようになって。イッコーともそうだけど、僕達3人って音楽以外でも繋がっている所って、あるから」
 バンド内が険悪であろうと、音で繋がって物凄くいい音楽を生み出す人達もいる。けれど僕はいい関係の中でこそ、本当にいいものを創り出せる気がしている。
 春に行った黄昏の復帰ライヴの時に、そのことに気付いた。
「何て言ったらいいのかな……『絆』?うわ、クサっ。今のナシ、ナシね。言ってて自分で恥ずかしくなってきちゃった」
 真面目な話をしていたせいか普段なら絶対出ない言葉が口をつき、僕は真っ赤になった。でも、あながち間違いじゃない。
 絆は信頼になる。信頼があれば、お互いのいい所を引き出せる。   
 おそらく僕は、自分の置かれている立場や状況に応じたものしか作れない。それだけ自分と作品との結び付きが切れないほど強固なのは『mine』を作った時に解ってしまった。
 だからこそ、いいものを生み出せる条件に自分を置いておいてたい。そしてそうすることで、結果的に理想的な関係を作り出せる気がする。
「だ、だから、千夜さんともそうなれればいいなって。だから千夜さんの加入に僕は賛成なんだ」
「今日のバンドみたいになってもいいのか?」
 間を置かず突っ込まれ、僕は苦笑いを浮かべた。
「うーん、大丈夫だと思うんだよね。根拠はないけれど。何故かな?」
 そう喋りながら、不思議な既視感に包まれる。前にもあったよね、こんなこと?
「あの後じっくり考えてみたけれど、千夜さんの言ってたことは正しいことばかりだったよ。それって正しい目を持っていたってことじゃない?そんな人が正式に入ってくれれば、上手く行くの間違い無しじゃない。あ、これが根拠か」
 自分で喋りながら自分に突っ込みを入れてしまった。
 僕は千夜さんの言う通り生粋のお人好しに違いない。僕は僕のことが大嫌いだけど、唯一この性格だけは好きになれていた。だからいいんだ。
 幸せな顔で微笑んでいる僕を千夜さんは呆れた顔で見下ろしている。悪い気はしない。
「千夜さんが手伝ってくれれば、また前みたいにガンガン行けると思うんだ。どうかな?」
 もう一度改めて誘ってみた。気が早いけれど、千夜さんが正式加入してくれればまた新しい段階に到達できる、そんな気がして。
 冷たさの残った空き缶を手の中で転がしながら、僕は返事を待った。千夜さんは今までに無いくらい難しい顔をして、プラットホームに視線を落としたまま考え込んでいる。
 すると僕達の話に割り込むように、目の前のホームに停車している電車の発車アナウンスが聞こえて来た。
「あ」
 ためらいも無く千夜さんが自分の荷物を手に取り、逃げるように僕の前を駆け足で横切って行く。慌てて席を立とうとする僕に一度振り向き、きっぱりと言い捨てた。
「帰る」
「帰るって、どこへ?」
「家に帰るに決まっているだろう。馬鹿か貴様は」
 間の抜けた質問をすると、思い切り冷たい言葉を浴びせられた。それを言うと、僕はどこに住んでいるのかも知らなかったりする。
 千夜さんは僕に構わず出発の準備を始める電車の1両目目掛け、急いで駆けて行く。僕はその背中を大声で呼び止めようとした。
「あ、待って……!」
「この件は……保留にしておいて。じゃ……」
 一度足を止め背を向けたまま元気無さそうに呟くと、千夜さんはまた走り出した。ちょうど先頭車両の一番前に駆け込んだと同時に、発車のチャイムと共に扉が締まる。
 呆然と立ち尽くしていると電車が出発する。ホームの番号を確認すると、どうやら隣の県まで続く急行らしい。目まぐるしい速さで、電車は僕の目の前を通り過ぎて行った。
 最後の言葉をどんな顔で言ったのかは残念ながら判らない。
 僕はぼんやりと、千夜さんを乗せた急行電車の後姿を見送っていた。


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