→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第2巻

   035.男の子と女の子

 待ち惚け、と言うのは僕の性分に合っていないのか、じれったく感じる。
 ほのかに橙色の照明が店内を照らし、クリーム色の壁に当たっていい感じの雰囲気を醸し出している。レストランの中はかなり賑わっていて、ソファにくつろいで談笑する家族連れや夕刊を広げ物読みに耽っている中年サラリーマンの姿も見える。
「1時間程待って。しばらく話があるから」
 バイトが終わる7時前になると、千夜さんの方から僕のそばへやって来て、そう言われた。今まで一緒に部屋に入っていたバンドの人達とライヴ前日の打ち合わせがあるらしい。
 先に駅前のレストランに行って待っておけと言われたので来たけれど、外から見ると普通の店みたいだったので30分位本屋やCDショップで時間を潰してから入った。
 バンドの話を持ちかけた時に千夜さんが入ろうとして定休日だった店。ファミレスじゃないので、普段からファストフードでばかり食事している僕が一人で入るのには抵抗があった。
 遅い……。
 千夜さんが来るのが遅い訳じゃなく、時間が経つのが。
 よくよく考えれば、こうして二人きりで店に入って話をするなんてあの時以来。練習やライヴの後はすぐ帰っていたのでそれ以外の時間にじっくりと話す機会はこれまでそれほどなかった。向こうがバンドをたくさん掛け持っていたから仕方無い。
 こうして呼び出されるのも初めてで、僕は内心どぎまぎしていた。時間が遅く感じるのもそのせいだろう。勿論デートでも無いのは解っていも、女の人に呼び出されるのは中学校で告白された時以来なので、相当気恥ずかしい。
 千夜さんはどう思っているのだろうか、このシチューエションを。訊いたら多分ぶっ飛ばされるので会っても絶対に言わないことにする。
 これから話す内容を考えていると、いつでも時間を潰せるように持ち歩いている鞄の中の音楽雑誌を開く必要すら無い。正式加入しないと言われたらどうしようとか、した場合は一体何をするのかとか言う音楽的な話題から、距離が近くなるならこれからも同じような機会が増えるのかとか、そこから先のことを妄想し過ぎて顔面が真っ赤になったり。
 気持ちを落ち着かせるために、頼んでおいたオレンジジュースでも飲んだ。少し高くても、何も頼まないで待っていて白い目で見られるよりはいい。
 早く来てくれないと、どうにかなってしまいそう。店内の壁時計を見ると、既に午後八時を回っていた。話が長くなっているのかな。
 気を紛らそうと別のことを考えようとしても、頭の中は千夜さんのことだらけ。これが恋なのかただの性欲対象なのか、どちらにしても状況は大差無い。
 先日の夢を思い返していると体の一点が激しく熱くなっていくのを感じる。こんな所でと思うけれど、一度トイレですっきりしてしまいたい。
「おい」
「うわわっ」
 気付くとテーブルの前に千夜さんが立っていて、仰天して椅子からずり落ちてしまった。周りの視線に赤面しながら、椅子を戻して座り直す。入口側を向いた席に座っているのに、全然気付かなかった。
「き、来てたんだ」
「携帯に連絡を入れても出ないから、いないと思ったけれど。最初から食事するつもりでいたから来てみれば、貴様がいた」
「ご、ごめん」
 謝ってから慌てて携帯を確認すると、どうやら電池切れらしかった。つい1時間前までは動いていたのに。恨みをぶつけるようにぶんぶん携帯を振ってからポケットにしまう。
 注文を取りに来たウエイトレスにブラックコーヒーを頼み、千夜さんも真向かいに座る。気だるそうに息を吐き、髪を両手で整える仕草が何とも格好良い。
「どうした?」
「いえ、何も……」
 見惚れているとまた夢の中身を思い出しそうになるので、慌てて冷静沈着を取り繕った。
 しかし、いざ面と向かい合わせてみると恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。罪悪感は無かったけれど、胸が高鳴ってはち切れんばかりになっている。誰も見ていないと思うけれど恥ずかしいので着ている薄手のジャンパーに手を入れ、裾を引っ張り隠してみた。
 今日スタジオに入って来たのを見た時もそうで、実物を生で見ると余計に頭に血が昇る。話に来たのに実際はそれどころじゃない。もう情け無いやら不甲斐無いやら。
『…………』
 どちらも相手の出方を窺ったまま、沈黙と共に時間が経過する。注文したコーヒーが運ばれて来て、千夜さんは黙って音も立てずにすすった。まだ秋に差し掛かった頃なのにホットを飲んで暑くないのかな?
「前みたいに食べないのか?」
 不意に千夜さんが尋ねて来た。こんな質問をされるのは初めてだから、戸惑う。
「いや、あんまりお腹空いてないから……」
 千夜さんと話すから緊張している、なんて言えない。
「心配して貰わなくても大丈夫」
「馬鹿か。貴様の心配をする必要がどこにある。気になったから訊いてみただけ」
 僕が笑って言うと容赦無く返す刀で斬られた。打ちひしがれている僕を無視し、煙草を胸ポケットから取り出すと火をつける。
 テーブルの空気がヒリヒリと肌に突き刺す。裁判で判決を待つ被告人のような気持ちで僕は肩を縮めその時を待った。
「これを渡しに来た」
 すると千夜さんがスティックケースの中から手の平サイズの黒いケースを取り出し、テーブルの上に置いた。
「テープ?」
 一言言ってから手に取って表裏を眺め回してみる。中を開けてみると、ラベルも何も貼られていないスケルトンのカセットテープが入っている。
「『days』の曲全部のドラムパートを録音したテープ。練習にでも使え」
「あ、ありがと……」
 思いがけないプレゼントに戸惑いながらも、喜んではしゃぎたくなる気持ちを抑えてお礼を言った。
 バンドの週2回の練習以外にも時々千夜さん抜きで音合わせたりする時もあり、これまではドラムマシンを代用していた。デジタルのMTRを使用して普段の練習で録音している音源からドラムのパートだけを抽出する、と言うことも可能だけど、そんな高価な機材は手元に無いしわざわざスタジオの機材を借りるのはお金がかかり過ぎる。
 一人で音合わせする時も練習の音源を使用していたので、自分のギターの音も入っていてかなりやり難かった。でもこうして一つのパートだけ貰えれば、練習に役立つだけでなくそこからイッコーのベースを重ねたりして素材の幅も広がる。
「時間に余裕ができたから、試しに撮ってみた」
 僕達のことを考えてくれたからこそ、このテープをわざわざ作ってくれたんだ。千夜さんの『days』への想いを感じた気がして、嬉しくなった。
「勘違いするな。私はただ、下手な演奏と合わせたくないだけ」
 ほころんだ僕の顔を見て、千夜さんが眉をひそめ突っ撥ねる。あまりに冷めた態度なので、照れを誤魔化しているのか本気なのか判らなかった。けれどどちらにしろ、僕の喜びは変わらない。嬉々としている僕を無視し、千夜さんは煙草をたるそうに咥えた。
 手で覆うように唇を優しく摘み、小さく開いた口元から白い煙をゆっくりと吐き出す。
 ああ、あの唇で優しく……。
 知らず知らずとんでもないことを考えている自分に気付き、慌てて妄想を振り払った。
「!」
 そんな僕の視線に気付いたのか突然千夜さんが椅子の音を立て、脅えたような表情を見せて体を強張らせた。戸惑う僕に、激しく殺意の篭った目つきで睨んで来る。
「貴様、もう一度そんな目で私を見たら消すから」
 本気の目を向けられ、僕は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。冷汗が全身から吹き出て、心臓が締めつけられる。浮かれた気持ちがすっかり押し潰され、申し訳無い気持ちで一杯になった。
 声に出して謝ろうとしても、喉が掠れ出て来ない。でも気持ちだけは伝わったのか、千夜さんは睨むのを止めてくれた。どっと疲れが押し寄せる。
 千夜さんからすれば、真面目な話をしに来たのにいやらしい目で見られれば快く思わないのは当然に決まっている。女性として見られたくない気持ちが普段の態度や格好や現れているはずなのに、浮かれ過ぎて気遣うのさえ疎かにしてしまった。
 1年も同じバンドで過ごしているのに、何を考えているんだ僕は。
 今になって罪悪感が全身を覆い尽くして行き、僕は力無く店の天井を見上げた。
「――で、私はこれから何をやればいい?」
「えっ?」
 空っぽの気持ちでオレンジ色の天井を眺めていると、千夜さんが突然切り出して来た。
「どうすればいいと訊いている。二度も言わせるな」
 苛立つ千夜さんを置いて呆けていると、ようやく思考回路が繋がった。
「じゃ、じゃあそれじゃあっ」
 勢い余って呂律が回らなくなる。突如元気を取り戻し身を乗り出す僕を見て、心底呆れた顔で千夜さんは椅子に座り直した。
「そう言う事」
 自分から口にするのか嫌なのか、僕から視線を外し煙草を吸う千夜さん。その強情な所が可笑しかったけれど、顔に出したら怒鳴られるので呑み込んだ。
「どれだけ長続きするかは解らないけれど」
 浮かれ気分の僕を咎めるように、胸に突き刺さる一言を継ぎ足す。でも僕の中では不安よりも期待感の方が遥かに勝っていた。
「どうすれば……うーん」
 しかし、正式加入して貰った所で一体千夜さんに何を頼めばいいのかあまり考えていなかった。今まででも十分過ぎるほど協力を得てると思っていたから。
「集まる回数とかは増やせないかな?」
 思いついたことを訊いてみると、あっさりと首を横に振られた。
「数は減って少し時間はできたけれど、忙しさはさほど変わりない」
 あまり活動していないバンドやライヴ間隔の長いバンドを抜けたと言うのを僕も小耳に挟んでいたので、それは仕方無いのかも。
「別にバンドを減らした所で、ヘルプで叩くのは辞めないから」
 それを聞いて僕は少し椅子からずり落ちた。
 バンドは半分に減った訳だけど、臨時のヘルプはまた別の意味合いらしい。実際、千夜さんはその類稀なるリズム感と記憶力で音源さえあればすぐに音を合わせられるので、ソロで活動している人やドラムの都合がつかなくなったバンド等によく頼まれている。
 減らしたのは掛け持っていたバンド、と言うことらしい。横から見ればサポートもヘルプも同じに見えるけれど、千夜さんの中では大きく意味合いが違うんだろう。
「そうなんだ」
「叩く機会が減ると腕が鈍る」
 手首をスナップさせ言うけれど、今までだって過密過ぎるくらいのスケジュールでドラムを叩いて来たと思うんですが……。
 千夜さんにしても黄昏にしても、普通に四六時中ドラムや唄に接しているから天才に見えるんじゃないかな。ただ才能がある訳でなく、経験量が絶対的に豊富なのでそこまで凄くなれたと思う。それに気付いてからは、嫉妬よりも尊敬の念の方が強くなった。
「けれど、バンドを優先させるからヘルプの数はこれまでより減らす。安心して」
 そう言ってくれるなら問題はないと思う。
「となると――やっぱり……曲創りかな」
 僕が呟くと、千夜さんは吸いかけた煙草を灰皿に置き、訊いて来た。
「私が創るのか?」
「ううん、そうじゃなくて曲を創る上で一緒に意見を出し合って欲しいなって」
 今まではドラムパートのリズムと展開を大まかに伝えるだけで後は全て千夜さん任せで、いいか悪いかをこちらが判断するだけだったから。それでも十分満足していたけれど、もっともっと曲を追究して行きたい欲が出て来た。
 1年が準備期間だとすれば、これからは本番。技量が無くておざなりにしていた部分にまで全て手を伸ばせるようにして行きたい。
「だって、しっくり来ないフレーズでも言われれば千夜さん叩くでしょ?」
「それが役目だから」
 そんなにあっさり言われると困る……。
「だ、だから駄目な部分があればきちんと指摘して貰って、こうした方がいいと思ったら口を出して欲しいな。千夜さんの方が音楽もバンドも経験あるもの」
 曲をレベルアップさせる意味でも千夜さんが加わってくれると有り難いし、負担は減るはず。それに何より今まで隣でドラムを見て来て感じたその感性は必ずバンドの武器になる。
「どう?」
 念を押すように訊いてみると、千夜さんは無言で頷き煙草に火をつけた。
「あ、それと、僕に曲の創り方をいろいろ教えて欲しいけれど……どうかな」
 嬉しくなり、ついでに欲を出してみた。目を向けられ尻込みしたくなる気持ちを抑え、視線を泳がせながら話を続ける。
「今言ったけれど、千夜さん音楽に詳しいみたいだから。コード進行とか展開のさせ方とかメロディとか。まだまだ僕、勉強中だからね」
 どれだけこの1年ちょっと懸命にやって来たとは言え、長年のキャリアを積んでいる人間に勝てるなんて思っていない。せっかく出来る人がそばにいるのに、協力して貰わない手は無い。
「…………。」
 考え込んで煙草を吸い続ける千夜さんの返事を、店内のインストの有線に耳を傾けながら期待半分に息を止めて待つ。苦しくなって来た所で煙草を灰皿に押し付け、ようやく口を開いた。
「私のコードはピアノのだけれど。それでもいいなら、デモテープを持って来れば手伝ってやってもいい」
 OKの返事が出て、僕は一つ吸ってから安堵の息を吐いた。
 ギターとピアノはそれぞれのコード進行が若干違う。ギターは楽器の形状上、一度に押さえる弦が多くなるから。でも却って他のギターバンドとの区別化を計れると思うから、好都合とも言えた。
 でもそれ以上に、千夜さんと一緒に物を創れることが嬉しくてたまらない。
 女の人だからと言うのもあるけれど、それ以上に自分が尊敬して認めている相手と共同作業が出来るのは物を創る上でとても刺激になる。
 これを機に……なんて馬鹿な考えは嬉しさの前だと隅に置いておける。
「良かった。でも千夜さん、ピアノやってるの?」
「少し」
 言葉少なに憮然な表情をされても、感嘆しているから僕の口が止まらない。
「凄いなあ。他にもいろいろ出来るんだ?小さい頃からやってたりして」
 僕が言い終わると同時に、千夜さんが握り締めた拳をテーブルに強く打ちつけた。
「余計な質問をするな。私はバンドの話をしに来たんだ」
「すいません……」
 静まる店内の視線を一斉に浴びながら、自分の首を突っ込みたがる性格を激しく呪った。
「でも――どうして、正式加入するって決めたの?」
 堪え切れなくなる前に、理由を尋ねてみる。そして言ってからすぐ自分の手で口を塞いだ。一体この口はどこまで相手を不快にさせれば気が済むのか。
「……貴様達なら信じられると思った。それだけ」
 しかし千夜さんは思いにふけるような顔をして、小声で答えた。そしてまた次の煙草を箱から取り出し、僕を無視して吸う。
 ――今の言葉の意味は、いったい?
「それと、次のライヴの日はもしかしたら急用が入るかも知れないから先に言っておく」
「えっ?」
 考え込もうとした途端に千夜さんが話して来て、思考が霧散した。
「正式に決まったわけじゃない。曜日が確定していないから、大丈夫な場合もある」
 落ち着いた口調で言うけれど、それって非常に困る。
「そう言われても……予約してあるし、千夜さんが来なかったら僕達ライヴできないよ」
 千夜さん以外の人間とドラムを合わせたことが無いし、特にドラムパートは千夜さんに任せっ切りなので、ヘルプを頼もうにも同じドラムを叩ける人間がいない。
 黄昏の歌声と同じように、千夜さんのドラムは『days』にとって掛け替えのないものになっていた。勿論イッコーのベースも。
「2、3日前連絡があったばかりだから……」
 僕の言葉をよそに、千夜さんは横を向いたまま小さく呟いた。
 素の表情で。
 胸が高鳴ったと思うと、僕は無意識の内に尋ねていた。
「誰から?」
「誰だっていいだろう。貴様には関係無い」
 怒った口調で言い返して来る時には、今のが幻だったみたいに元の顔に戻っていた。
 その相手が気になりつつも、僕は疑問を胸にしまい込んだ。
「とにかく、前日まで判らないから駄目だった場合は謝る」
 謝ると言われても……。
「心配するな、当日には電話を入れる。そうならないように祈ってくれればいい」
 千夜さんは白い息を吐き、僕の頭上に広がる天井を眺めた。
 あまりに一方的過ぎて言いたいことがあるとは言え、今口にするのは先程から怒らせてばかりの状況的にも良くないと判断して、又の機会に回すことにした。
「もちろん悪いとは思っている。でもその場合は運が悪かったと思って諦めて」
 言葉数多めに謝ると、灰皿に置いた煙草を口に戻す。けれど僕が押し黙ったままでいるからか、顔色を窺うように僕の顔を見て、煙草を持った手をそっとテーブルに下ろした。
「すまない」
 一言、目を伏せ、小さな声で言った。
 憂いのあるその顔が、とても女性らしく、優しく見えた。
 その言葉が聴けただけで、僕は全てが許せる気がした。勝手なものだ。
 気が済んだのか、千夜さんは火のついたままの煙草を灰皿で消すと、席を立った。
「用件は以上、これで終わり。それと、正式加入や私がバンドを減らした事は絶対に黄昏に言わないで。喧嘩の火種が増えると疲れる」
「う、うん……」
 さばさばした口調で言われ、僕は頷くしか出来ない。スティックケースを持つと、僕を置いて千夜さんはさっさと帰ろうとした。
「もう帰るんだ?」
「何故貴様と顔を合わせて食事しなければならない」
 反射的に尋ねると、思い切り嫌そうなな顔で怒鳴られてしまった。
 今日何度目だろう?つくづく自分が嫌になる。もう溜め息すら出て来ない。
「最後に言っておく」
 立ち去ろうとした千夜さんが足を止め、背中を丸めて嘆いている僕に振り返った。
「何?」
 ほのかな期待を胸に顔を上げて訊き返すと、感情を露わに言う。
「私は貴様が大嫌いだ」
 止めを刺された気分になった。


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