036.風の子
「おっす」
「おっす」
黄昏が寝起きの顔で挨拶して来たので、僕もオウム返しに挨拶した。無言で玄関から引き上げて行く黄昏の後に続き、玄関で靴を脱ぎお邪魔させて貰った。
「青空、飯作って。腹減ってちょうど弁当屋にでも行こうかと思ってたところだったから」
「あれ、食材切れてた?」
「レトルトは全部食べた。作るの面倒臭い」
「もうちょっと自分から進んで料理しようよ、黄昏」
「うーっ、うるさいな。自分で作っても失敗するから嫌なんだ」
「イッコーに教えて貰えばいいのに。せっかくだから、食べに行く?」
「面倒臭い。青空が来てくれたんだから、家でいい。雨降ってるし」
「お弁当買いに行こうとしてたんじゃないの?」
くすくす笑っていると、黄昏はふて腐れ部屋に戻ってしまった。仕方無いのでギターや鞄を置き、台所で料理の準備をする。
「後でイッコーも来るって言ってたよー」
先に言っておいたけれど返事がない。できるまでもう一度寝るつもりなのかな?
「温かいものにしてくれ」
すると隣の部屋から注文が飛んで来た。けれどご飯を炊くと時間がかかるし、こまぎれ肉と野菜しか残っていない。イッコーに頼んで買って来て貰うこともできるけれど、少し遅れるとさっき電話で言っていた。
「ねえ、お昼だけど鍋でいい?野菜炒めだとご飯が無いから」
「それでいいー。寒いし」
黄昏は時間感覚が故障しているのか、朝でも夜でもお腹が空けばたらふく食べる。でも面倒臭く二日位食べないこともあるらしい。そのせいか肉はあまりついていなかった。
キムチの素を買っていたのでそれを使って簡単にキムチ鍋を作る。イッコーの分まで材料は無かったけれど食べてから来ると言っていたので問題ない。まだ鍋の季節には早いものの、ここ連日の雨で夏の残り香はすっかり洗い流されてしまったので具材は用意しておいた。少し季節外れのものを食べたくなる時ってない?冬にアイスクリームとか。
野菜をザク切りにして鍋に放り込み茹でるだけなのであっと言う間に出来上がる。黄昏の部屋には机もテーブルも無いので呼びに行ったら、案の定ベッドの上で寝息を立てていた。もう一度起こし、不機嫌そうな黄昏を引きずり台所に戻る。
「もう少し能動的になろうよ。また面倒臭がりになってない?」
「――そうかもしれない」
少しキツめの口調で言ってみると、椅子に体を預け瞼を閉じたまま力無く答えた。こうして黄昏の身の回りの世話をするのは嫌とは感じないとは言え、もう少し自分から動く気になって欲しいと母親のように思う。
本当に黄昏は、唄うこと以外には億劫で生きている。
この部屋から本気で飛び立とうと思うのなら、自分の日常生活から全て変えないとまた逆戻りするだけだと思う。僕はただただだらだらと過ごすだけの日常から抜け出し、音楽に向き合いギターを触り続けたり曲を創ったりとしているおかげで随分過去を吹っ切れた。黄昏にもそれを望んでも、生まれ持った性格上無理なのかも。
超一流の表現を生み出す人間であればあるほど、日常生活が破天荒だと言うのは世界中を見渡せば結構例がある。多分それは表現に日常の全てを注ぎ込んでいるからこそ身の回りがおざなりになったりするんだろうけれど、黄昏も同じ人間と思えた。
ただ、とても純粋なので嫌な気持ちになることは少ない。でも僕以外の人間なら嫌に思う人もいるだろう。知らない所で敵を作ってしまうタイプかも。
それでも、僕みたいに日常の態度が気に食わなくて嫌われるタイプよりは遥かにいい。
僕は知らず知らず敵を作ってしまう。バンドを初めてから今まで以上に人と接する機会が増えたので気を遣っていても、それでも冷たい目で見て来る人はいる。
「味付けが濃い」
「その方が目が覚めるでしょ?」
したり顔で言うと、黄昏は反論せずに渋々白菜を口に運んでいた。僕もコンロの鍋から自分の分を掬い反対側の席に座る。真っ赤な汁を見ているだけで辛くなって来る。
千夜さんがよく他のバンドと喧嘩するので、そこからは白い目で見られることが多い。僕が弁解しているせいもあると思う。一度僕が後で相手へ謝りに行ったら、
「貴様が謝る必要がどこにある?」
と千夜さんに変なものを見る目で呆れられたことがある。同じバンドだからと言うと、
「別に貴様のバンドの専属じゃない」
と払い除けられるように返された。どうやら僕は根っからの『いいひと』らしい。
しかしそのせいか、肩を持っていると思われ周りに煙たがられることもある。
他のバンドとも仲良くならないと対バンの相手が捕まらない訳だから、今まで以上に人付き合いが多くバンド活動も結構疲れる。幸いイッコーがとても人当たりが良くみんなにも好かれているので今の所大きなトラブルは無いけれど、僕は喧嘩ばかりする千夜さんや他人には興味を見せない黄昏の尻拭いばかりしているのでヘコむことも多い。
損な性格をしていると思う、自分でも。
「辛いけど、うまい。青空が作ってくれる料理は最高」
「よしてよ、これくらいなら黄昏にだって作れるから。それにそう言うのは僕じゃなくて未来の恋人さんにでも言ってね」
照れ臭く、箸を止め言ってくる黄昏を軽くあしらう。黄昏やイッコーとこうして楽しい時間を過ごしていると、日頃の精神的な疲れも大分軽くなる。
こうして世の中全ての人と楽しく付き合えたら、僕はこんなに悩まずに生きていけるんだろうけれど、それなら音楽をやる必要も無くなってしまうし、現実にはそんなことは絶対に有り得ない。残念と思うよりは、それを当然として受け止めていた。
物心がついた頃に一通りの喜怒哀楽は学んだ気がする。
「現実って思い通りに行かないことだらけなんだ」
そんなことを何かのきっかけで知ったけれど、それが何だったのかは遠い昔のこと過ぎて記憶にない。両親に欲しいおもちゃを買って貰えなくて泣いた時かも知れない。
でも、僕は一人じゃいられない人間なのは子供の時に理解していた。一人っ子だったから、家にいても遊び相手がいない。だから前に出てガキ大将になったものの、他人と付き合うのは正直あまり好きじゃなかった。
楽しいことばかりならいいけれど、嫌なことも付き纏って来るから。
「風邪は治った?」
辛過ぎるのか犬みたいに舌を出している黄昏に訊いてみる。
「今はもう大丈夫。でも精神的に尾を引きずってる」
僕の問いに答えてから、一気に器に残っていた汁を飲み干した。苦い顔をして席を立つと、流し台から少し水を汲んで来て鍋の中に注ぐ。本気で辛かったみたい。
「だからさぼったの?イベント」
「そう」
真剣な口調で言ってみると、黄昏は臆することなく返事をした。
四日前の10月に入って二度目のライヴ。リハーサルの時間になっても黄昏は来なくて、心配になった僕は前の轍は踏まないように早めに迎えに行った。前日に泊まりに行かなかったのは、黄昏が風邪を引いてしまっていたから。
ライヴ前の練習日に家に行くとだるそうに寝込んでいた黄昏がいたので、慌てて叔母さんを呼んで病院に連れて行って貰った。いつも裸で寝ているから季節の変わり目で風邪を引いて、そのまま放っておいたら悪化したらしい。そもそも黄昏の家には薬一つ無い。
点滴を打って貰って家で安静にさせ、練習は黄昏抜きで音合わせだけ行った。ライヴ前日に電話を入れてみたけれど咳も止まっていて声を聴く限り大丈夫そうだったから、当日現地入りにしたけれど見事に期待は外れた。
前に黄昏が悩んでいた時と違って風邪の後遺症で寝込んでいるだけだと楽観視していたので、家に迎えに行って人の姿が無かった時には心底焦った。思わずベランダに飛び出てマンションの真下を覗き込んでしまったほど。
書置きもなく携帯も置き残し、どこへ行ったのかさっぱり解らない。思い当たる節もない。そもそも黄昏は外にほとんど出掛けることもない。
途方に暮れていると、自分の携帯の受信音が鳴った。知らない電話番号。受話器を取ると、思いがけない声が聞こえて来た。
「青空?……悪い、今日のライヴなしにしてくれ」
黄昏は小さな声でそれだけ言うと、僕の返事を聞くのも無視して電話を切った。すぐにかけ直してみても、公衆電話なのか通じなかった。
ライヴまでの時間はあったけれど、手の打ちようが無かったのでイッコーに連絡を入れその旨を伝え、一旦ラバーズに戻るとすでに対策が講じられていて、僕達の出番はキャンセルと言うことになった。
8バンドの集まったイベントだったから『days』の時間を振り分け、それぞれの曲数を増やした方が客席も喜ぶと言うスタッフ側の判断。僕達の出番の時間にはイッコーと二人でステージに上がり、黄昏が急病で風邪にかかった旨を説明して頭を下げた。半分嘘はついていないけれど、悔しいのと後ろめたい気持ちは隠せなかった。
『days』でライヴをキャンセルしたことは初めてだったから。
さすがにその日は家に帰ると、悔しさを枕にぶつけ、泣いた。久し振りのイベントだったからいつも以上に力を入れていたし、練習でも手応えがあったから。千夜さんが正式加入したこともあり、また上昇気流に乗り始めた矢先に出鼻を挫かれた感がある。
――そして、初めて黄昏に裏切られた気持ちになった。
気持ちを整理するのが大変だったから、黄昏の家に来るのも今日まで遅れた。
「千夜さんカンカンに怒ってたよ。手がつけられなくて大変だったんだから」
「そんな事言われても、本当に乗り気じゃなかったんだからどうしようもないだろ」
僕の気持ちを先に言葉にするのはためらわれたので、千夜さんの話をしたらぶっきらぼうに返された。そして音を立て口に運んだ野菜を噛み砕く。
あそこまで千夜さんが怒髪天な姿も初めて見た。僕もイッコーもスティックをぶつけられて殴られるし、他の出演者に当り散らすし。他のバンドのドラマーと殴り合いの喧嘩に発展しそうな所を止めに入って千夜さんを3人ががりで押さえに行ったら、大声を上げ喚き散らされた。手を離すとすぐに落ち着いたけれど、その時の切羽詰った凄まじい形相は忘れようにも忘れられない。
そのせいか、他の掛け持ちのバンドが出演していたのでドラムを叩いたけれど、演奏の出来は珍しく悪かった。ステージ横で見ていたら、ライヴが終わるとすぐさま大股でステージを下り、近くの壁に怒りを込めたスティックを全力で投げつけ叩き折った。無言で引き上げて行く千夜さんの迫力が凄過ぎ、僕は声もかけられなかった。
八つ当たりを貰わなかっただけでも、幸運と言えたかも。さすがにばつが悪過ぎたので、ライヴの後は一度も連絡を取っていない。
「第一千夜だって来なかったじゃないか、前のライヴ」
ニラと長ネギを口に入れたまま、当て付けるように黄昏が反論して来る。
確かに10月にはもう一度別のライヴハウスで対バンがあり、その時千夜さんは来なかった。だから結局、僕達は今月まともにライヴを行なえなかった。
「用事があったんだってば。ちゃんと電話入れて来たじゃない」
「そんなの俺が知るか。迷惑かけた事に変わりないだろ」
僕の弁解も聴かず、黄昏はぶすっとした顔で口の中に野菜をかき込む。
レストランで前もって言っていたように、千夜さんはライヴ当日に用事が入ってしまって来れなくなってしまった。前日の夜に電話して来てくれたのに、ちょうど隣にいた黄昏は一向に信用しなかった。僕から携帯を引っ手繰ると言い合いになり結局切られてしまったけれど、幸い朝に千夜さんが改めて電話を入れ、謝ってくれた。
理由を訊くとうやむやにされてしまったけれど、あの普段の格好と同じで僕達に聞かれたくないことだと思ったので言及はしなかった。その次の練習では他の二人と言い合いになったのは言うまでも無い。
ちなみにライヴの方は不幸中の幸いか、他のバンドが機材搬入に使っているバンが煙を吹いて故障してしまったために来月に延期になった。ちょうどライヴハウスのスケジュールが開いていたおかげで、チケットの払い戻しも無く僕達の被害も少なかった。
千夜さんにはきちんと理由があったし前もって教えてくれていたので許せても、黄昏の場合は突然で何も教えて貰っていないから言い訳にならない。
「かと言って黄昏も同じことしちゃ駄目じゃない」
「う……」
僕が厳しい顔で言うと、黄昏は言葉を詰まらせた。
「本当に心配してたんだから。また前みたいに悩んでたのかなって」
バンドに復帰してから、黄昏の唄に取り組む姿勢が明らかに変わった。ステージの上では顕著で、自分自身とひたすら向き合うことは止め、客席にいる人間の顔を見るようになった。別に顔色を窺っている訳ではなく、曲を届けるんだと言う意志を唄声に感じる。
いいことだと思いつつ本人がまだ戸惑いを感じているのも事実で、状況が変わるほど身を結ぶまでには至っていない。そのせいでまた悩みを一人で抱え込んでいるんだと思った。
電話をかけて唄うのが嫌だと言われるのも怖かったので、面と向かって問い質そうとこうしてバイトの休日に来てみたけれど……。
「僕も随分悩んでたんだけどね……でも、あっさり中に入れて拍子抜けしてる、今」
手に持っていた器を置き、僕は一緒に沸かしておいた緑茶を少し飲んだ。
前と同じ腹構えで玄関の扉を叩いたのに、いつもと変わらない顔で黄昏が出て来たから。相撲で言うはたき込みを食らった感じで、僕もこうして普段と同じ態度で黄昏に接している。意を決してエレベータで昇って来る時には一緒に鍋をつつくなんて想像もしなかった。
本当、僕のこの気苦労した時間を弁償してと冗談の一つも言いたくなる。
「悪かったよ」
怒っているつもりはなかったけれど、先生の前でしゅんとなる子供のように黄昏は肩を縮めて僕の目を見て謝った。そしてうって変わり攻撃的にまくしたてる。
「第一2、3ヶ月前からライヴの日時が決まってるのがいけないんだ。その日に合わせて体調とか気分を持ってくるなんて、オリンピックの選手みたいな真似できるか」
「それもそうだけどね……」
でも、そう言う決まりだから仕方無い。こちらの都合だけでライヴハウスのスケジュールを変更させる訳にもいかないから。黄昏が怒るのも解るけれど、向こうにも都合がある。
黄昏は空になった器に鍋の中身を掬い席に付いてから、目を伏せ言った。
「風邪でまいっていたのはホントなんだ。何もやる気しなくなってた」
湯気の立った赤い汁を重い面持ちですすり、焼き物の器をそっとテーブルに置く。
「前みたいに不安に押し潰されそうになってたわけじゃなくて……凄い疲れてた。風邪もあってか、精神的にかなりきつくて……考えるのがうざったくなるくらいになってたな」
頬をさすりながら、隣の自分の部屋を眺める。その横顔はとても疲れて見え、僕はまた風邪でもぶり返したのかと心配してしまう。
「だって、戦えなくなってたもんな。唄えないし、完璧に戦意喪失してるし。何かもう、闇に向き合う事すらめんどくさくなるような気分」
笑い飛ばすように黄昏は言い、もう一度器を口につけた。
「でもな、解った」
僕の目を見てうっすらと笑う。
「俺、まだまだ死ねないみたい」
嬉しさと寂しさを半分こにしたような顔で、諦め混じりに呟いた。
その顔の意味は良く解る。
死にたくないと言ってたって、現実を見限っている心も勿論あったと思う。逃げ出したいのに逃げ出せない、檻の中に閉じ込められた感覚は常に僕の中にも付き纏っている。
「40度近い熱で風邪で寝こんでる時に思ったんだ、人間簡単に死ぬなって。自分が思い悩んだ末に死に場所決めなくても、何かのアクシデントであっさり逝くんだって思った」
さらりと黄昏は話す。『死』を巨大なものとして捉えていた自分が、実は意外とあっけないものだと知ってしまったせいだろう。
死を望んでいる人間にほど、向こうから暗闇はやって来ない。自分から踏み出せない人間だった僕は、飼い殺しされている気分で布団の上に寝転がっていたから嫌になるほど解る。
「その時、『死にたくない!!』って心の底から思ったかもしれない。それぐらい怖かった。寝てれば治るって思ってたけど……今さら叔母さんに電話するのも悪いし、何とか自力で直そうとしたけどな」
「あの時は本当にびっくりしたよ」
最後に会った時には元気だったから余計に。ベッドの上でぐったりしているのを見た時にはまたいつものことだと思っていたら、本当に高熱を出していて慌てふためいた。
「人生で点滴打ってもらったのなんて、俺も初めてだ」
黄昏は軽口を叩くけれど、そこまで酷い風邪だったと言うこと。僕も病院に連れて行かないといけないほど風邪の症状が悪化した人を見たことが無かった。
「病院行ってから、体調は嘘みたいに回復したけど。唄える体にはなってたと思うし」
手に持っていた器を置き、左腕をぐるぐる回してみる。今は顔色も良くなっているけれど、当日の体調は会っていないから解らない。でも、黄昏は嘘を言わない人間だから。
「それなら……」
どうして、と言葉を続けようと思ったけれど、理由に気付いたので呑み込んだ。
「やる気なくなってたんだ、完全に。一昨日からまた、唄い出してるけど」
そう言って喉に手を当て、調子を確かめる。いつもの声で、治っているように見えた。
気力を無くしていたのは、風邪のせいもあると思う。ライヴはキャンセルになったけれど、黄昏が本当にちゃんと唄えていたのかと考えると、正解だったのかも。
けれど、実際の所は僕の考えていたよりも深刻だったらしい。
「咳が止まらない時とかさ、俺の覚悟ってこんなもんだったのかって思った。今まで本気で生きようと思って唄ってたのかって思うくらい、凄いんだ、自分の意志がさ。何もない壁見て脅えてるよりも何倍も」
淡々と黄昏が話すのを、僕も黙って聞いていた。
「こんなんで生き死になんて言ってたのか俺って。本当の死なんて知らないくせに何言ってたんだってさ。馬鹿みたいだって思ったホントに。世の中には俺よりも切羽詰って生きてる人なんていくらでもいるわけだし、末期症状の病人とか、戦争の場所にいる人とか」
病床で自分の甘さを思い知らされ、黄昏は唄えなくなったんだ。タイトロープの上で綱渡りしていると思っていた自分の足元は、実はたったの1mしかなかったような。
そうは言っても、全然そんな生易しいものじゃないのはすぐそばで黄昏の唄声を聴き続けて来た僕が一番良く知っている。心の底から生きようと暗闇と闘い続けていたのは本当のことで、覚悟が足りないとかそんなことは全然無い。
でも結局それも横から見た人間の言葉なだけで、本人にとって甘く感じるのは確かなのも解っていたし、反論しても無駄に決まっているので口には出さなかった。
酷い言い草だけど、僕より遥かに高いレベルで生き死にを感じている黄昏が羨ましい。
「青空の言ってた事がわかった気がしたんだ」
前触れも無く僕の名前が出て驚いた。でも何のことだか全然判らない。
「僕、何か言ってたっけ?」
「ほら、夏のフェスで。考え過ぎなんじゃないかって言ってただろ?」
言われて思い出した。キャンプ場の柵を乗り越えリフトの中継地点まで昇った所で、そんなことを黄昏に言ったのをはっきりと覚えている。
「多分その通りなんだ。俺が何もしなくても、勝手に時は過ぎてくんだ。生きようと思わなくったって飯食って寝てれば生きてけるし、唄わなくたって多分俺は死なない」
椅子の腰掛けに腕を回し天井を見上げる黄昏の姿が、とても寂しく見えた。
「じゃあどうして唄うんだって、思うのが普通だろ?」
投げ遣りに言うその姿が痛々し過ぎ、僕は視線を泳がせた。自分の生きる為の手段が取り上げられたら自棄にもなりたくなる。それだけ黄昏は唄に賭けていたんだ。
「それは……」
「点滴の後もまだ風邪の感じは残ってて。唄うとすぐ喉が辛くなるから温かい格好して、毛布に包まって天井見上げてたけど。その時何で唄ってるのかなって考えてた」
台所の天井を見上げ、虚ろな目で黄昏は寂しそうに笑った。
「もしかして、俺がずっと見てる暗闇なんて最初からなかったのかもしれない」
それは違う。
「もしかして、唄う必要なんてなかったんじゃないかって」
「そんなことないよ」
黄昏の弱気な発言を遮るように、僕は力強く言い切った。
「だって、今も見えてるんでしょ?幻だろうが何だろうが、襲って来るのなら弾き返さなきゃ。黄昏がこうしてここに元気な姿でいられるのも、唄い続けて来たからじゃないの?」
生きる目的を見失ったら、きっと黄昏はここからいなくなってしまう。
だから僕は言葉に願いをこめて言った。そんなことでへこたれてどうするって。
「……そうだよな」
その気持ちが通じたのか、黄昏の目にゆっくりと光が戻って行った。視線を落とし僕の顔を見ると、照れ臭そうに頬を掻いた。
「ごめん、わからなくて。本当にわからなかったから、ぼやけた頭の中であの日は街中をぶらついてた。どこかに答えが落ちてないかって思って」
笑って言うけれど、黄昏は本気で探しに行ったんだと思う。ありふれた光景や道行く人の姿から、答えを見つけられればなんて。
僕の言葉がその答えだとしたら、とても嬉しいけれどね。
「……どうなんだろうな。何が正しくて何が間違いなのか、俺にはわかんなくなった」
しばらく間を置いてから、黄昏は考えるのも億劫そうに呟いた。
「いいんじゃない?黄昏は唄い続けてれば」
軽口にその問いに答えたけれど、それしか黄昏には道が無いのは分かり切っていた。
「僕は何も黄昏に唄うのを止めて欲しいからあんなことを言ったんじゃないよ。ずっと唄っていて欲しいから、そのためには少し休むのもいいよってこと」
どうも少し誤解しているみたいなので、キャンプ場での言葉の意味をきちんと言い直した。一杯一杯の黄昏を見ているのが辛くなってきたからあんなことを言った訳なのに、逆にそれが唄う自分を迷わせるきっかけになっていたのだと思うと、悲しかった。
僕の言葉は近くにいる人にさえ届かないのか。
ふと、自分の存在意義さえ疑問に感じてしまいそうになる。
「黄昏の『唄う』ってさ、『生きる』とイコールなんでしょ?」
これ以上考えて足場が崩れる前に、早口で黄昏に問い質す。答えが返って来る前に、僕から自分の考えをぶちまけた。
「だったら迷う必要なんてないよ。新しい答えだって唄っている中で見つかるかも知れないじゃない。前に黄昏も言ってくれたでしょ、ステージに立ってみんなの前で唄っていたいって。伝えたい気持ちがあるなら、黄昏はいつでも戻って来れるよ」
親身になってこうして説得するのは何度目だろう?以前は黄昏の気持ちを汲み取っているのか、それとも自分の気持ちを優先させているのか心の中でずっと葛藤していたのも、今はどうでもよくなっていた。
黄昏が戻って来てくれればそれでいい。
その方が二人にとって絶対にいいはずなんだから。迷う必要なんて無い。
春の時よりも構えていられるのは、それだけ時を積み重ねて来た想いがあるから。
「戻ってくる、か……」
黄昏は僕から視線を外したまま呟き、冷めた緑茶を少し口につけた。そして湯呑みを置くと、ガッと強い眼差しを僕に向けて来た。
「じゃあさ、俺が唄えなくなったら青空はどうする?」
「えっ?」
突然の質問で、すぐに返答出来なかった。その間が悪かったのか、怒った顔で黄昏は腰を上げ、疑り深い顔で僕を見て来る。
「おまえ、ステージの上に俺を立たせようと思ってそんな事言ってない?」
「それは……」
勿論そうだけど、何も自分のことだけ考えている訳じゃない。言葉の詰まっている僕に、黄昏はテーブルに両手を置き猜疑心の強い目で言って来る。
「自分のために、俺が隣にいないといけないって……利用してるだろ?」
――黄昏にそんなことを訊かれるのが、悲しかった。
「……うん、そうだよ」
目を反らさずに僕は答えると、黄昏は動揺を見せた。それだけだと誤解されてしまうので、すぐ言葉を続ける。
「でもそれは悪いことじゃないと思うよ。どちらの利益にもなる訳だし、『利用』って言う言葉の響きは悪いけれど、『協力』って言い換えてもそうした面は絶対拭えないし」
自分で喋りながら歯の浮いたことを言っているなと思う。もっと違った言葉があるはずなのに、冷静を努めている自分の性格が腹立たしかった。
「でも、それだけじゃない。黄昏を救いたい気持ちは本当なんだから。だから誘ったし」
気持ちをもっとぶつけたいと思っているのに、泣くことも怒ることも出来ない。どれだけ言葉を並べ立てても、自分の心が伝わらない気がして辛い。
「迷った時には助けてあげようと思ってる。だからこうして家に来たんだから」
嘘は言っていなくても、本当に黄昏に届いているのか?もどかしくてもどかしくて、たまらなかった。
そのまま、お互いに相手の目を見続ける。そして、黄昏が沈黙を割った。
「俺が必要ないって――言ったら?」
耳元で足場の崩れる音が聞こえた。
「……悲しいな、もう。そんな言葉を聴きたくて来たんじゃないんだけど」
自分の前髪をくしゃくしゃに掴み、懸命に声を絞り出した。
――裏切られた訳じゃなく、僕が信じ過ぎただけか?
黄昏は僕やバンドを必要と思わなくなってきているのかも知れない。でも、僕や『days』には必要なんだ、黄昏のことが。
泣き出したくなる気持ちを必死で堪え、言い返す。
「何も黄昏を必要としてるのは僕だけじゃないよ。僕は代表で来てるようなものだから。イッコーも君に期待してるしさ、せっかく千夜さんだって……!」
そこまで言って、慌てて口を塞いだ。
「せっかく――何?」
「ううん、何でも」
危ない危ない。思わず正式加入してくれたことを言いそうになった。言って悪いこととは思わないけれど、千夜さんに対する義理もあるから。
昂ぶった感情を深呼吸で抑え話を続けようとすると、黄昏が疲れた顔で椅子に崩れ落ちるように座った。額を押さえ、力無く首を左右に振る。
「――悪い。ちょっと最近俺おかしくなってる。ひどい事言ったと思うから謝る。ごめん」
どうやら黄昏も頭に血が昇っていたようで、何度も僕に謝って来る。
「いいよ。僕は気にしてないから」
手を振って湯呑みのぬるい緑茶を一気に飲み干すと、僕も気分が落ち着いた。
でも心の中は台風が過ぎ去った後のようにぐちゃぐちゃにかき乱されている。激昂していたとは言え、黄昏の口にした言葉はおそらく本当の気持ちだから。
「もう少ししたら元に戻ると思う。次はちゃんと行くし。それでいいだろ?」
「うん……いいけど」
複雑な気持ちのまま、僕は頷いてみせた。気持ちの整理がつくには時間がかかりそうだけど、黄昏がバンドに出てくれないよりは遥かにいい。
身近な人間とさえ、いつでも笑い合っていられない。
現実はどこまでも残酷だと思う。でもそれを受け入れなければ生きてはいけない、先に進めない。楽園なんてどこにもありはしないんだから。
こうして感情が揺れ動く度、生きている自分を強く感じる。喜びを手に入れるために悲しみをくぐり抜けなきゃならないなんて、皮肉としか言い様が無い。
「こんちゃーっ」
重く沈んだ場の空気を割るように、玄関からイッコーの声が聞こえて来た。ばたばたと音を立てて上がって来るのを見て、沈んだ気持ちもどこかに飛んで行ってしまう。
「制服のまま来たの!?」
「だって午後の授業さぼって来たかんな。ガッコーから直行で」
肩にソフトケースを担いだイッコーはそれがどうしたと言う顔で僕の顔を見て来る。今日は平日なのをすっかり忘れイッコーに電話してしまった。
「あれ、メシ食ってんの?まだ残ってる?」
「食べて来たんでしょ?イッコーの分作ってないよ」
「かー、まじー?昼メシパンあんま買えなくて、腹満タンじゃねーんだよなー。しょーがねーなー。ちょっくらコンビニ行ってくるわ」
鞄と荷物を置き、またばたばたとイッコーが出て行く。すっかり場の緊張感がほぐれてしまい、取り残された僕達は顔を見合わせ肩を竦めた。