038.17歳
「ふうっ」
僕は灰色の折り畳み椅子の背もたれに体を預け、クリーム色天井を見上げながら嫌になるくらいの溜め息をついた。
一緒に対バンしたバンド仲間も全員引き上げてしまっていて、熱気の残る狭い楽屋には僕一人しか残っていない。せっかく一人になれても、全く気分は落ち着かなかった。
今日の代替ライヴは散々な出来で、今までで1、2を争うほど悪かった。ここの所練習で集まる度に3人が喧嘩して、ちっとも身にならない日々ばかり送っていたから。
ここ前後1、2週間はバイト先のスタジオの方が忙しくなるから僕もほとんど休みを取れずに詰めて出勤していたせいか、今日のライヴは日常の疲れで集中力が切れてしまい単純なミスを連発してしまった。3人のグルーヴも今一つで、実力の半分も出し切れなかったかも。
バイトの都合で僕だけライヴ前の音合わせにも出れなかったのも影響がある。ライヴ前に一応僕抜きで合わせたけれど、喧嘩だらけですぐお開きになったらしい。
上手く行かないのも当然と言えた。
千夜さんも黄昏も、ライヴが終わると何も言わずにすぐさま引き上げた。みんな打ち上げをやる気さえ起こらないみたい。
イッコーは今、外でスタッフの人達と話をしている。僕も明日はバイトを休めないので、早めに引き上げたっぷり睡眠を取らないと正直体が保たない。
まだ疲れているので、スタッフに帰れと言われるまでここで休憩していようと目を閉じ、糸の切れたマリオネットみたいに力を抜いて座っていると、いきなり楽屋の扉が開いた。
「うわっ」
井上さんの小さな悲鳴が入口から聞こえたので、ゆっくりと上体を起こすとオレンジ色のセーターが見えた。向こうも僕だと解ったのか、ほっと胸を撫で下ろす。
「何だ、青空君か……誰か死んでるのかと思った」
「まだ死んでません」
勝手に殺さないで下さい。疲労困憊で死にそうですけど。
「ちょうどよかった。青空君、君にお客さんが来てるよ」
「お客?」
誰かな?他のバンド仲間なら客なんて呼び方はしないだろうし。でも、来ているのなら待たせる訳にはいかない。ふらふらと重い体を起こし扉に向かう。
「どこで待ってます?」
「受付……だけど。もう客引き終わったから、フロア突っ切れるよ。あ!ちょっと……」
居場所が判ればいいやと思い、後の言葉も聞く余裕の無い僕はよろめきながら廊下を歩いた。身だしなみを整えながらフロアに続く階段を気だるく降りる。
受付前に出てみると、そこに人の姿はなかった。
帰ったのかな?それなら早く家に帰って眠りたいと思いながら辺りを見回していると、不意に背中から声をかけられた。
「青空さん……ですよね?」
小さなその声に後を振り向くと、見慣れない女の子が漆色の鞄を両手に立っていた。
「そう……ですけど」
声をかけてくれるのは嬉しいけれど、スタッフ以外の人がここに入っちゃいけない。
「ごめんなさい、ちょっと今急いでるので」
一言謝ってからライヴハウス入口の階段に向かおうとすると、
「その子その子!!その女の子がお客さんー!」
後からやって来た井上さんが大声で僕を呼び止めた。――女の子?
てっきり男の人とばかり思っていた。けれど……。
「……誰?」
「誰って、知り合いじゃないの?」
僕が訊くと、井上さんも首を傾げた。戸惑う僕達を、女の子は苦笑いを浮かべ見ていた。
所変わって、場所はラバーズのレストラン。こちらはライヴが終わっても営業している。
「お待たせしました。オレンジジュース2つになります」
「……どうしてイッコーがウェイターやってるの」
「いや、なんとなくだなー」
興味津々に覗き込んで来るイッコーを力ずくで追い払うと、僕は席に座り直した。
二人用の丸いテーブル。目の前の席には見知らぬロングの黒髪の子が座っている。
一体何がどうなっているのか自分でも良く判らない。何だろうこの状況は?
「あっ、あの……」
「はっ、はあ……」
どちらも萎縮してしまい、言葉が続かない。手元のジュースの量がやけに少なく感じる。
横目でカウンターの方を見ると、マスターとイッコーが興味深そうな目をこちらに向け何やらひそひそ話をしていた。鋭い眼光を向けると慌てて散って行く。
「あっ、あの……ですね。『days』のライヴ、いつも観に来てます……」
永遠とも思える5分間の後、ようやく彼女がまともに喋ってくれた。
「あ、ありがとう、ございます……」
今の僕は、きっと彼女と同じように顔を赤らめながら上目遣いで相手を見ているんだろう。
どうやら『days』のファンみたい。苦節1年強、長かったとは思わないけれど嬉しいもの。とは言えいざこうして面と向かうと何を話していいのやらさっぱり思い浮かばない。
ましてや相手は一回り背の低い、守ってあげたくなるくらい可愛い細身の女の子だから余計に。
「青空さんに会いたかったんですけど……どこで待てばいいのかわからなかったので、ライヴの後で受付の所でずっと待っていたら、受付のお姉さんに呼び止められました……」
客引きが終わっても受付前で困った顔で立ち竦んでいた彼女を井上さんが見つけ、僕に会いたいと言うので呼びに来たらしい。本当は店内での出待ちは禁止されているけれど、何も知らない可愛い女の子と、僕達にファンがやって来たのが初めてで特例と言うことで。
素直に喜んでいいものかこっちも困る。特に今は疲れて疲れて仕方無いから。
ちょっと疲れ過ぎたか、体の底からあくびが出てしまった。
「あ、お疲れのところ申し訳……ないです……」
「あ、こちらこそごめんなさい。悪気があった訳じゃなくて、ちょっとここの所忙しくて疲れが溜まっちゃってて……」
謝ってからもう一度小さくあくびをすると、女の子はおかしそうに微笑んだ。
お腹も空いているけれど、疲れていて食欲も無いしせっかく来てくれたお客の前で食事なんて出来っこない。停滞したこの状況を打開する為にお酒でも飲みたい気分になる。
「どうしても今日、話がしたくて……来たんですけど、やっぱり……悪い……ですか?」
「そんなことない、そんなことないよ。僕もファンの人と話するのは初めてだし、嬉しいよ」
慌てて手を振ると、伏せ目がちに笑ってくれた。言葉を交わす度に一喜一憂してしまう。
でも真っ白なコートに、枯れ葉色で合わせた上下の衣服。おかっぱを伸ばしたようなストレートの黒髪に、運動が苦手そうな白っぽい肌に気弱そうな姿。年は僕より少し下みたい。
……どこからどう見ても、ライヴハウスにロックを聴きに来るような人種には見えない。
「やっぱり……変ですか?私みたいな人間が、ここに来るのって……」
僕の視線に気付いたのか、着ているタートルネックのシャツを摘み、寂しそうに言った。
「ちっ、違うよ。そうじゃなくて、ステージから見かけたことないなって」
「よかった」
心底安堵したのか、胸の前に手を当てほっと一息をついた。僕も心の中で一息つく。
でも、彼女の姿をフロアで見たことないのは本当の話。でも毎回最低でも100人前後はお客さんがいるし、後側の方にいれば照明が届いていないので顔も見えない。彼女の性格からすれば多分一番後で聴いてくれていると思う。
「こ、こうして知らない男の人と話すのって、実は初めてで……」
両手を膝の上に置いてかしこまった顔をされると、僕までカチコチになってしまう。
「それを言われると僕もほとんど……お恥ずかしい限りで……」
「なーにお見合いしてんだー?」
僕が拳を振り回すと、イッコーは笑いながら猿のように逃げて行った。
「もう。本当にイッコーは仕方無いんだから……」
カウンターの影に隠れ含み笑いを僕に向けている。次ラバーズに来た時、みんなに絶対に言い触らされると思うと気が沈んだ。
「楽しい人ですよね、イッコーさんって。MCもおもしろいし」
「えっ?ああ、まあ……ステージの上だと頼りになるんだけど……」
普段は結構くだらなくて、悪ガキ。
「今日はごめんね。せっかくお金払って来て貰ったのに、失敗ばかりで」
まずは先に謝っておいた。どうもここ最近、バンドがギクシャクし始めている。
イッコーと千夜さんと仲も悪くなって来て、練習で言い合ってばかり。黄昏もまだやる気が出ないのか、完調には程遠い。
まだまだ問題が山積みで、考えるだけで疲れがどっと押し寄せて来る。
「いえ……、そんな。『days』のライヴを観れるだけで、私、とても満足……でした」
最後が少し含みのある言い方なのが、疲れで回転の鈍くなっている頭に引っ掛かった。
「いつから観てくれてるの?」
僕から質問されたのが嬉しいのか、彼女は笑顔で答えてくれる。
「えっと、最初からです。一番最初」
思いがけない答えに飲んでいたオレンジジュースで思い切り咽せた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「なっ、何ともないよ。熱心だなって、思って、びっくりしただけ」
涙目で答えながらカウンターに横目を向けると、イッコーとマスターが顔を揃え笑っていた。スタッフが早く追い払ってくれないかな、あの二人。
「ああ、でも、嬉しいな……常連さんの顔は何人か覚えているけど、こうして直接話をしてると、『ああ、本当に僕達の音楽を聴いてくれている人っているんだ』って安心するかな」
「何言ってるんですか。ちゃんといますよ、私もその……一人ですし」
「うん、頭では解っていたつもりだけど……やっぱりこうして直に話すと実感が湧くもの」
ステージの上でレスポンスの声を貰っていても、バンド仲間にどれだけいいって言われても、きちんと僕達の音楽が届いているのかどうかはずっと不安になっていた。
「でも君の――おかげで、随分楽になれたよ。本当にありがとうね」
「や、そんな、私何も……」
謙遜しているけれど、話しかけてくれただけでも僕としてはとても嬉しい。僕達のライヴを楽しみにしてくれている人がいる、それだけでこれからもやって行こうと言う気になる。
「僕達の音楽って他と大分違うから。形はオーソドックスなロックバンドだけど、一癖も二癖もある人ばかりだし……歌詞を書いてる僕も含めてね」
「え、でも私、凄く好きです。その……青空さんの……歌詞」
顔を真っ赤にして俯いてしまい、僕ものぼせ上がるくらい赤くなってしまった。
「あ、まあ、えっと……その……あう……」
上手い言葉が出て来ない。いいライヴが出来た後に周りに褒められたりしても、歌詞について面と向かっていいと言ってくれるのは黄昏くらいなものだったから。
「あの。自分でも……耳で聴いた歌詞、紙にまとめたりしてるんですよ」
そこまでしてくれると、逆に申し訳ない気持ちになって来る。自分で書いた歌詞には勿論自信はあるけれどそれは自分内のことで、他人には威張れるほどのものでもない。
「ちょ……ごめん」
「あ……すいません。私……」
「ううん、悪くない、悪くないけど、恥ずかし過ぎて死にそうで……」
男の人に褒められるのならともかく、若い女の子にそこまでされると……。
また申し訳なさそうにおどおどしながら、ちょうど目の上にかかるくらいの揃えた前髪を指で掻き分けるその仕草が可愛い過ぎ、直視していられない。同じ女の子なのにどうして千夜さんと話す時とここまで態度が変わってしまうんだろう、僕?
このまま照れてばかりいると彼女にも悪いので、オレンジジュースを一気に飲み干ししっかりと彼女の顔を見据えた。でも一秒も耐えられなくて、また視線を外してしまう。
「あっ、あの、それで青空さんに頼みたいことがあって……」
場の空気に耐えられない僕に、彼女の方から助け船を出してくれた。
「いいよ。僕に出来ることなら何でもやってあげるよ」
藁をも掴む思いであっさりと承諾してしまう。向こうにいるイッコーの目には絶対に今の僕が面白おかしく映っていると思う。間違いない。
「ほんとですか?よかったです……」
彼女は口元をほころばせると、力が抜けたようにテーブルの上に前のめりになった。大袈裟に喜ぶ姿に目を丸くしていると、顔を上げて恥ずかしそうに笑ってくれた。
いかん!可愛過ぎますよイッコーさん!
カウンターに振り向くと、歯軋りしながら僕の方に呪いをこめた目線を送りつけていた。
「でも、頼みって?」
「えっとですね……その、曲の歌詞なんですけど……。教えてくれませんか?」
あまりにも簡単な頼みだったので、こちらが面食らってしまう。
「全然構わないけど……歌詞を書いた用紙は一応全部持ってるし……」
黄昏は荷物を持たない主義なので、ライヴ前に確認するための歌詞を書いたプリントはソフトケースの中に常に入れるようにしている。コピーを取ったのを全員にも渡していて、ライヴの日は演奏する曲だけ元の手書きの紙を持ってくる。深い理由は無く、ゲン担ぎ。
「あ、私も持ってます。自分で書いたの、持ってきたんです」
そう言って彼女は自分の鞄を開き捜し始めるものの、なかなか出て来ない。焦っているその姿を見て、僕は一つの結論を導き出した。
この子、似ているんだ、僕に。
それが解ると、何だか彼女がとても愛らしく見えた。
「あ、あった。これですこれです」
目当ての物を見つけ、鞄の中から慌てて取り出し僕に渡そうすると、伸ばした腕が彼女のグラスを引っ掛けた。倒れそうになる所を僕がすかさず手を伸ばしキャッチする。
「あ!すいません、慌てちゃって……」
少し中身が零れたけれど、幸い彼女の服には付かなかったみたい。
「大丈夫?」
「みたいです」
どうやらドジっ子でもあるらしい。本当にこんな子がいるんだとつい感心してしまった。
「凄いなあ……ほとんど合ってるよ。僕が添削しなくてもいいくらい」
見せて貰ったのは『幸せの黒猫』の歌詞で、違う所は2、3箇所程度で後は全部OK。
「そ、そうですか?こんなふうに、耳凝らしてじーっと聴いてますから」
「そ、そう……」
そんな耳を押さえつけるようなジェスチャーで顔をしかめられても。
どうも結構変わっている。いい子だとは思うけれど……。
でも、丸文字で柄の入った便箋に几帳面に揃え歌詞を書いているのを見ると、性格が良く判る。こう言うのはその人柄が現れるものだから。ちなみに千夜さんは綺麗な草書体。
「あ。」
いざ修正しようと思うと、あいにくペンを持ち合わせていない事に気付いた。
「お探しものはこれかね?」
どうしようか迷っていると、いつの間にか後にイッコーが僕のギターのソフトケースを持って立っていた。先に楽屋から持って来ていたみたい。
小声でお礼を言いソフトケースを引っ手繰ると、すぐに手で追い払う。気を聞かせてくれているのか僕を見て楽しんでいるだけなのか。多分後者だろう。
訂正の個所は覚えている部分だったので、自分の赤いサインペンだけ用意して添削する。紙に書いていいものかどうか訊いてみると、全然構わないと言ってくれた。
「はい、終わり。他に無いかな?」
一曲だけだと20秒もかからなかったので、これだけだと物足りない。
「ありますけど……」
「何かしながらの方が僕も話し易いし。あ、その、面と向かっているとなかなか言葉が出て来なくて……」
気を悪くされると困るので一々きちんと弁明を付け足す自分がもう、何と言うか。
「私も今、全部手元に持ってますけど……いいんですか?」
すまなそうに訊き返して来る彼女に屈託無く頷くと、その顔に笑みが広がった。
「いいよ。ちょっと時間かかるかも知れないけど、大丈夫?一人で来たの?」
「あ、はい。一人です。一緒にライヴを観る音楽好きの友達もいないんで……あ、でも、親には友達の家で遊んで来るって言ってます。……いませんけど、そんな友達」
「あ、いや……」
どうやら悪いことを聞いたみたい。いじめられそうなオーラを放っているし……。
でも引き篭もりみたいな生活を二年以上続けた黄昏と、人生後ろ向きに生きて来た僕がメインのバンドの音楽を熱心に聴くのは今目の前にいるような子達なのかも知れない。それでも僕達の音楽が湿ってないのは、きっとあそこにいるイッコーのおかげ。
とりあえず5枚ずつ渡して貰い、自分の持っている歌詞と照らし合わせる。口が淋しいのでドリンクを頼もうとウェイターを呼んだら、またイッコーがやって来た。
「こいつ純情そーに見えて、結構スケベなとこあるかんな。注意しなおじょーさん」
「いいからイッコーは向こう行ってっ」
ジントニックを置き様に余計な告げ口をして来るので、怒って追い返す。彼女は頬を染めたまま少し警戒したような顔で僕を見て来るけれど、あえて否定も肯定もせず平静を努めた。慌てて変に誤解されるよりはよっぽどいい。
「他の人のライヴにも来てるの?」
「や、いえ、あんまり……人の多いところ、どうも苦手なんです……」
「僕も最初、イッコーに連れられて初めてライヴハウスに来た時は怖かったものね。今は忙しくてあまり来てないけど、でも毎回フロアの異様な雰囲気に圧倒されるよ」
「あ、私もです……入るの、大変だったです。怖くなって入口で引き返してばかりいて」
「あはは、僕と同じだね。初めてのライヴの時、やっぱり帰りたくなったもの」
「でも、今は堂々とステージに立ってるじゃないですか」
「そんなことないよ。僕、猫背がちにギターばかり見てるもの。客席観ると緊張するから」
談笑しながら手元の歌詞を一つ一つ確認し、間違っている部分を書き直す。早口で唄う部分や僕が黄昏にあえて楽器っぽく唄ってと頼んでいる箇所とかは訂正が多いけれど、中にはこちらの方が良くないかと思うものもある。
この便箋の中に『days』に対する想いが込められているのだと思うと、心の底から嬉しくてたまらなかった。疲れでお酒もすぐに回り、舌の滑りも滑らかになる。
「どの曲が好き?」
「あ……『黒猫』です。私も、歌詞に出てくる黒猫みたいになれたらなって」
その言葉を聴き、少し驚いた。てっきり女の子なら『こんな黒猫、飼ってみたいです』みたいな悲しい意見を言われるか、飼い主の女性に感情移入するかと思っていたのに。
僕の表現した想いがきちんと届いているようで嬉しかった。
「でも、これで完璧!とは思わないんだよね。後もう一捻り出来るかなと思ってたけど、書いてた時は実力がなかったからそれ以上練れなくて」
「あ、そ、そうなんですか、すいません……」
「謝られると、こっちが悪いけれど……でも近々曲を見直そうかと思ってるかな」
「ああ……で、でも、今のも好きですよ。こう……青空さんの伝えたいものは、ちゃんと出てると思うんです。だから私……」
顔を真っ赤に懸命に話すその姿が、必死に自分の気持ちを相手に伝えようと曲を創り続けている僕の姿と被り、とてもいじらしい気持ちになる。
「うん、別にガラリと変えようとしている訳じゃないから、安心してくれていいよ。でも、曲の中の気持ちをもっともっと相手に効率良く、効果的に伝える方法があると思うんだ。だから落ち着いてから、じっくり考えてみるつもりだよ」
僕の考えを伝えると、安心そうに肩で息をついた。
「その………」
彼女が何か言おうとし、恥ずかしそうに言葉を呑み込む。僕が顔を上げ目で促すと、意を決したのか小さいけれどはっきりとした声で言った。
「その、必死でやってる姿が凄く好きなんです。あ、すいません、そういう意味じゃなくって……えと、そのですね……」
肩を縮こめ呼吸を整えてから、言葉を選びながら話を続ける。
「他のバンドの人達もそうだと思いますけど……その、何て言うんだろ……。青空さんも……他の人も、みんな一切の妥協を許さない感じじゃないですか。こう、生きるために必死に音を鳴らしてるみたいな気がして――そこが、私、うらやましいです」
一旦僕はペンを置くと、ジントニックを口に含んだ。僕の態度を気に障ったとでも思ったのか、彼女が顎を引いて身構える。
咎めようと思った訳じゃない。そう言って貰えるのは嬉しいけれど、言葉のニュアンスのせいか、彼女自身が自分を卑下しているような気がして悲しくなったから。
他人と比べた所で、それって結局自分がどうあるべきかだと思うんだ。
「青空さん達って、みんな自分に厳しいですよね」
「そうかな?あまりそう言う感じは自分でもしないけど……」
言われてもどうもピンと来ない。
「他人から見るとそうなのかも知れないけど、自分達にとっては当たり前と言うか……自然過ぎて別段意識してないと言うか……そんなの別に誇れるものでもないよ。それに厳しかった所で、それが全部自分の力になるかと言えばそうでもないだろうし……」
感覚がすっかり麻痺しているのか、僕は現実が辛く苦しいものだと信じ込んでしまっている。だから自分が打開しようと思ってしたことは全て努力でも何でもないと思っているし、立ち向かう辛さよりも嫌な現実に耐えている辛さの方が僕には我慢できなかった。
「確かに僕は音楽の力を借りて僕自身を生かそうと頑張っているけど……僕以外にも自分の居場所で同じ思いをしながら戦っている人はたくさんいると思うよ。ただ僕等はステージの上に居場所を求めているから目立って見えるだけで。きっと――他人に何かを伝えないと駄目な人間なんだよ。だから逃げ出したくなる気持ちを抑えて、人前に立ってやってる。同じ想いを抱えてる人達にも僕達の音楽が届けばいいなって、思ってるけど……中々そうは上手く行かないよね。まだ始めたばかりだもん」
何だかしんみりした話をしてしまったので、最後は茶化し笑ってみせた。お酒が入るとつい語ってしまうのは僕の悪い癖。でもお酒の力とは言え、まともに女の人と話せるのは常日頃から千夜さんに鍛えて貰っているから?
「あんまりこう言う場所でする話じゃなかったね。ごめんね」
UKロックの流れる店内を見回しながら僕は謝った。みんな楽しい時間を過ごす為にこうした雰囲気のある店で笑い合っていると思うのに、つい地が出てしまった。
「あ、いえ、そんな……よかったです、青空さんの話聞けて」
彼女が僕にはにかんで見せる。作り笑いだけどその気持ちはちゃんと伝わって来た。
「ねえ、この紙貰っていいかな?」
「えっ?」
半分近く校正し直した所で彼女に訊いてみると、思いがけない言葉に目を丸くされた。
「勿論タダじゃなくて、僕の持ってる今日ライヴで演った曲目の手書きのと交換でどう?」
きちんとまとめられた便箋を眺めていると、無性に自分の物にしたくなった。本当は全部欲しかったけれど、それはいくら何でも悪い。
僕の物と交換だから、彼女も喜んでくれるだろう。悪い提案ではないと思う。
「初めて僕達のファンの人と話した記念に欲しいんだ。どうかな?」
「え、あ……こちらからも、お願いしますっ!」
思った通り喜んでくれて良かった。早速今日演奏した7曲の用紙を抜き取りまとめる。
「結構使ってるからボロボロだけどね。いろいろ書き込んでいるから汚いし」
「そんな……全然OKです。あー、よかった、最後まで待ってて……」
彼女も嬉しさを顔に表しながら自分の分を整理し、僕に渡す。ひとまず今作業している分を置いてそれらを先に優先させ、全部でき上がると僕の分7枚を彼女に渡した。
「す、すいません本当に!ありがとうございます」
「価値なんて多分出ないけど。僕が持ってるよりはいいと思うんだ。これ、大切にするよ」
貰った分を軽く叩いてみせると、何度も何度も頭を下げてくれた。そこまでされるとこっちが恥ずかしくなってしまう。でも、この子のおかげでライヴ後の疲れた心もすっかり癒された。ここの所黄昏の件で大分参っていたけれど、肩の荷が随分軽くなった。
残りの物を修正している間、彼女は僕のあげた歌詞を穴が開くくらいじっと目を凝らし熱心に読んでいた。読んでいるだけで僕といる時間を過ごさせるのは勿体無いと思ったので、僕の作業が全部終わるまでバンドに関する雑談を途切れ無く交わした。
「今何時?ああ、もうこんな時間」
20枚以上の作業が終わりうんと背伸びをすると、遠くの店の壁時計が目に入った。今日は僕達のライヴがトリだったから、すっかり10時を回ってしまっている。
「それじゃ、僕もそろそろ引き上げないと。君も家の人、心配していると思うし」
「すっすいませんわざわざ!頼みを聞いてくれただけじゃなく、大切な物まで戴いて……」
「いいよ。僕も君の分貰ったしね。楽しかったよ……あいたたた」
席を立ってにこやかに笑顔を返すと、横から突然イッコーに耳を引っ張られた。そのまま勢い良く店の隅まで連れて行かれる。
「なっ何なの?さっきから」
「送ってけ、な?」
口を尖らせ反論する僕に、満面の笑顔でイッコーが両肩に手を置いて来た。
「……絶対イッコー、からかってるでしょ、僕のこと」
ジト目を向けてみても、一向に気にしない様子で浮かれている。ついさっきまで楽屋でライヴの散々な出来に愚痴を言い合っていた二人の間柄はどこへやら。
「それに出待ちの女にロクな奴いないって言ってたじゃない、この前」
前に黄昏の家に打ち上げで雪崩れ込んだ時、出待ちの女性から一度一緒に寝てしまった後からストーカーまがいに付き纏われた話を夜通し延々聞かされたので、てっきり彼女を追い払うのかと思っていたら丸っきり態度が違う。
頬を膨らませ反論すると、イッコーはレジの前で伝票を済ませる彼女を親指で差すと首を大きく横に振った。
「あれは違げー。おれのこのツンツン頭がそう反応してる」
「アンテナなの?それ」
今年度で卒業なので控え目にしているせいか普段は黒色だけど、ライヴの日は必ずオレンジに染めている。頭のトンガリ振りも出会った当初と全然変わっていない。
「横で見てる限り純情そーだし、おめーにピッタリじゃねーか。じっくり攻めこめば童貞喪失だって夢じゃねーぜ」
「ばっ馬鹿!変なこと言わないでよ。それに彼女、純粋な僕達のファンなんだから」
「まー今はふてくされてっけどな、すぐおめーにも解るって」
顔を寄せてしたり顔で言うと、僕の肩を強く叩いてから店の袖に引っ込んで行った。
確かにイッコーの言うことは理想かも知れないけれど、今は彼女の気持ちを大切にしたいし、僕自身も今日のこの喜びを大事にしたい。
レジで勘定を済ませ、僕を待っていた彼女の元に自分の荷物を担いで駆け寄る。
「ごめん。イッコーが変なこと言うものだから。払ってくれた伝票貸して」
目を丸くして言われるままに渡してくれた伝票を確認すると、僕はお尻の右ポケットから財布を取り出し全額分のお金を渡そうとした。
「あ、いいです……!私、払いましたから」
「いいよ、僕におごらせて。大切な物貰ったしね。今日の分のお礼はさせてよ」
半ば強引に押し通すと、彼女の手にお金を握らせた。困った顔で突き返そうとしたけれど、僕が笑ってみせると渋々納得し、気持ちと共に受け取ってくれた。
「これから帰るんでしょ?駅までなら送るけど、どう?」
「わっ、わざわざすいません。私、地下鉄なんで……。近いんですけど」
「じゃあ水海の駅前までだね。僕は別路線だから」
地下鉄も地上の路線も、街の中心にある水海駅の周りに密集しているので方角は同じ。店を出ると僕達は肩を並べ、1キロ程離れた駅前に向かい歩き始めた。
『…………』
こうして女の子と並んで歩くなんて初めてな気がする。僕は初心(うぶ)だったから、学生時代はわざと女の子に嫌われるような態度ばかり取っていた照れ臭い記憶がある。
話かけられないで顔を赤めていると、向こうも同じなのか地面に視線を落としたまま手提げ鞄を両手に歩いていた。
鞄の横についている小さな黒猫のアクセサリが歩調に合わせ揺れている。精巧な黄色の両目がこちらをじっと見ている気がして、何だか背中がくすぐったくなった。
僕達二人、ちらちら横目で相手を見ては、視線が合うとお互いに目を反らす。何だか初恋同士の小学生みたい、今の僕達。
肉眼で水海駅が確認できる場所に出ると、地下街の入口が見えた。意外とあっさり着いてしまい拍子抜けする。結局ラバーズからここまで、中身の無い短い言葉を交わしただけ。
「あっ、あの。ここで……」
「うん、今日はありがとう。本当に楽しかったよ」
心の底からお礼の言葉をかけると、恥ずかしそうに俯いてしまった。これで幸せな時間が終わってしまうのかと思うと、とても寂しい気持ちになる。
でも、これからもライヴ場所で会えると思うから。
「次の月末のライヴは楽しみにしててよ。今日の借りはしっかり返すから」
弾みをつける為にも僕は自信満々に言ってみせた。
でも、返って来たのは思いがけない言葉。
「すいません。私、もう、観れないんです……『days』のライヴ」
「え?」
目を伏せて聞こえないくらいの小さな声で呟くと、僕に向かって頭を下げた。
「そう……なんだ」
今まで消えていた体の疲れがどっと押し寄せ、思わずふらつきそうになる。
あの時含むように言った過去形には、きっと人には簡単には言えない事情があるのかも知れない。僕が話を聞いても全然構わないけれど、初対面の人間に話しては貰えないだろう。素直にその事実を受け入れるしかない。
「残念だなあ……せっかくファンの人と話が出来たと思ったのに」
「わ……私も、です。楽しかった、です、けど……」
声が震えているのが分かる。僕はその顔を見る勇気が無かったから、街の光を帯びた薄明るい夜空を見上げその場に立ち尽くした。
「あっ、握手してくれませんか!?」
いきなり下から大声を振り絞り言って来たので、道行く人達の視線が僕達に集中する。二人俯いて真っ赤になっていると、顔を上げてもう一度僕に言って来た。
「握手して……くれますか?」
「うん……いいよ」
別にそれほど僕は大した人間でもないけれど。
余計なことは言わない方がいい。その言葉を飲み込み、僕は差し出された右手をそっと握った。最後に他人の手を繋いだのはいつだったろう?
その手は男の人の物とは全然違い、ごつくもないし、汗ばんでもいない。指の一本一本がとても細くなめらかで、とても女の子らしい手をしていた。
冷え始めた11月の夜の空気が僕の体を冷やすのに、握っているその手だけは温かい。
強く握り過ぎないように何度か小さく上下に振った後、その白い手を離した。
「あっ、ありがとうございました。それじゃ!」
握手の余韻に浸る間も無く、彼女は笑顔を浮かべると急いで小刻みに駆け出した。まるで今の瞬間が幻に思える中で、握り締めたその右手は感触が残っている。
「あっあの!!」
ぼんやりとその後姿を見送っていると、入口の階段の前で彼女が振り返りもう一度こちらへ駆け寄って来た。
「来月また、会ってくれますか!?次の祝日の正午過ぎ、ラバーズのレストランで!」
突然のことに呆然としていると、その表情を曇らせた。
「無理……ですか?」
「あ、大丈夫。絶対行くから安心して」
ちょうどバイトの忙しさが終わる頃だと思うから、何とか大丈夫だと思う。
「あっ、ありがとうございます。じゃ、その日に!」
深々と頭を下げると、手を振ってまた走り出す。忙しい子。
あ、そうだ。
「ねえ、君の名前はー!?」
浮かれ過ぎていて、今の今まで訊いていなかった。
「柊です!青空さん、柊 祈砂(ひいらぎ きずな)です――っ!!」
足を止めて笑顔で大きく手を振ると、駆け足で地下街への階段を降りて行った。目の前からその姿は消えても、鼓膜の裏に今の声はしっかりと残っている。
何故だか分からないけれどこみ上げて来る暖かい気持ちを胸の中で転がしながら、眠気の襲って来た体を引きずり僕も岐路の道を急いだ。