039.純粋
寝過ごした。
昨日で二週間近く続いた連続シフトがようやく終了し気を抜いたのがいけなかったのか、布団の上で目が覚めると枕の横に置いていた目覚まし時計は昼の12時を回っていた。
今日は柊さんと約束していた日なのに、失敗した。疲れが溜まりに溜まっていたせいで昨夜は家に帰って来ると、着替えずに布団の中に潜り込んだら一秒で暗黒の中に突入した。あまりに深い眠りのせいで夢を観ていたのかさえも覚えていない。
とりあえず真っ先にラバーズに電話してみた。僕が上のレストランで柊さんと話していたのをマスターも見ているから、顔を覚えているだろう。こう言う時、行きつけの店の人と顔見知りになっていると役に立つ。
ライヴハウスの方の番号は控えているのでそちらにかけてみると、2回目に井上さんが出た。雑談も無しにすぐさまマスターに取り次いで貰う。
「ん、青空か。どうした、今日は休みか?」
「うん、ようやく……。それよりマスター、この前僕がライヴ後に話していた女の子、いたでしょ?レストランの方にいないかな、今」
「なんだ、今日はその子とデートか?青空も隅におけねえな」
「ちっ違うってば。それよりお願い、早く」
慌てて否定して頼む込むと、電話の向こうで溜め息を一つついてから見に行ってくれた。ラバーズ特製の保留のメロディが流れている間に、僕もシャワーを浴びる準備をする。
「いねーみてーだな。来たならこっちから電話返そうか?」
「ごめん、お願い。僕も1時間位でそちらに向かうから、それまでに来たら伝えておいて」
手短に用件を伝えOKを貰うと、安心して携帯を切る。
待たせるからと言って女の子に会うのなら身だしなみはきちんとしておかないと。ライヴの日と千夜さんに単独で会う時以外はそれほど気を遣わないけれど。
すかさずシャワーを浴び、不精髭をきちんと剃る。会った後どうなるのかいろいろ妄想する暇も無い。お気に入りの服に着替えると、ギターのハードケースを手に外に出た。
走っていると半乾きの髪がなびき、頭が寒い。風はあまり吹いていなくても、全力で走るとまともに空気の抵抗を受ける。
ハードケースを持っていると自転車にも乗れない。でもこれは絶対に必要だから。
案の定、すぐ息切れして汗が出て来る。シャワーを浴びた意味が無くなるけれど、待たせる訳にもいかない。走っても走っても着かない駅までの距離をとてもじれったく感じた。
駅に辿り着き電車を待っている間に、ホームに備え付けの鏡で髪と服を整える。結局電話は水海で降りても鳴らなかった。僕が日時を間違えているのかと不安に思うけれど、それならそれで安心できる。でも今月の祝日って、今日しか残っていないから。
祝日で人混みの多い水海の駅前を抜けラバーズに向かう。心臓は高鳴っていて、あえて携帯電話の時計は見ないようにした。
近づくにつれ徐々に緊張していく。ステージに立つ時よりも緊張していると思う。それもこれも、マスターが変なこと言うから。ここに来るまでに雑念ばかり頭の中を渦巻き、他のことを考え目を背けるので精一杯。
目的地に到着し、入口の扉を開ける。これだけで今日1日を終えたくなるほど疲れた。
「おう青空。お目当ての子、まだ来てねえぜ。時間間違えたんじゃねえのか?」
カウンターの向こうにいるマスターが僕を見つけ声をかけて来る。確かに今日の約束だったはずだけど、『正午過ぎ』と言っていたので遅れているのかも。
とりあえずこの前座っていたテーブルが開いていたので、そこを選んで待つことにした。16時間以上眠ったおかげでお腹も空いているので、後々のことを考えポテトフライだけ頼む。今日みたいな日にお酒の力を使うのは卑怯な気がするので、あえて控えておく。
運ばれて来た熱々のポテトフライを全部食べ終わり、お皿を下げられしばらく待っても彼女は来ない。時間にルーズな黄昏と一緒にいるので待たされるのは慣れっこでも、こうした状況は初めてなので一分一秒が長く感じる。60秒を心の中で何度数えたことか。
店の壁時計が二時を回った頃に、一人の女の子が店に入って来た。背丈から一瞬柊さんかと思うと、頭の上で髪をまとめ眼鏡をかけているので違う。
心の中で溜め息をつきテーブルに体を投げ出していると、頭上から声をかけられた。
「青空さん、ですよね?」
聞き覚えのある女の人の声。慌てて顔を上げると、先程店に入って来たばかりの眼鏡の女の子が隣にいた。
「え、あ……」
何が何やら解らずに呆然としていると、目の前の子がおかしそうに笑った。
その笑顔でようやく頭の中でパーツが音を立ててはまる。
「あ、柊さん!」
外見が違うだけで別人と思い込んでしまい、声を聴くまで本人と判らなかった。慌てて上体を起こし、身だしなみを整える。恥ずかしい姿を見られてしまった。
「すいません、遅れちゃって……」
僕に軽くお辞儀をしてから、柊さんが向かいの席に座る。
「ごめん、僕も気付かなくて……。だってこの前――」
下側の縁の無いその横長の眼鏡を指差すと、笑って外してみせた。
「ああ、これですか?普段はつけてるんですけど、ああいう場所で眼鏡かけてると、変じゃないですか?だからライヴの時はコンタクトをするようにしてるんですけど……」
「そこまで気にする必要はないと思うけど……」
「あ、やっぱりそうですよね。昔から人目を気にしてしまう性格なんで……」
遠慮がちに眼鏡をかけ直すけれど、千夜さんと違い眼鏡があっても無くてもさほど印象は変わらない。でも本人にとっては重要な問題だと思うので、何も言わないことにした。
何だか柊さんと話していると語尾に『……』が多くなる。どうも知らない間にペースに巻き込まれているみたい。
「ご飯は食べた?」
「あ、まだ食べてないです。急いでたので何も食べてません」
「それなら一緒に食べようよ。僕もお腹空いてるから」
ポテトフライは食べたけれど、まだ物足りない。昨日までは疲れ過ぎで食欲が無かったけれど、十分過ぎるほど睡眠を取り、お腹に物を入れたら静まっていた胃が騒ぎ出した。
「いらっしゃいませ」
「……どうしているの」
注文を取ろうと店員さんを呼んだら、何故か店の従業員の服を着たイッコーが出て来た。
「いやな、店の手伝い終わって昼飯食いに来たら、何かおめーがデートだって言うん」
そう言ってカウンターで作業をしているマスターを指差す。どうやら僕が電話した時、隣にイッコーがいたみたい。どうして肝心なことを教えてくれなかったのか。
「デ、デートじゃないってば別に。前みたいに話するだけだよ」
自分で言いながらとんでもなく説得力が無い。柊さんも膝の上に両手を乗せ、顔を真っ赤に俯いている。
「はは〜ん。おじょーちゃん、気ーつけなよ。こいつ絶対何か狙ってるから」
「は、はあ……」
「いいから早く注文取って向こう行ってよっ」
「ま、いーけど。んじゃま、何にする?」
白い料理帽料理服のイッコーばかり見ているせいか、黒白縦縞のレストランの制服を着ている姿にとても違和感がある。体に合うサイズが無かったのか、肌に張り付いているし。
わざわざ嫌がらせの為だけにここまでするイッコーに乾杯。
こうした状況で何を頼めばいいのか良く解らなかったので、とりあえずラザニアとコーンポタージュスープを選んだ。イッコーに訊いても絶対まともな答えが返って来る訳が無いと思ったから。柊さんも同じくラザニアと、オニオングラタンスープを注文する。
ここにいるとくたびれる。食べ終わったら早く別の場所に行こう。
「遅れちゃってすいません。……待ちました?私、正午って言ってたんで……」
「大丈夫、僕も遅れたから。昨日でようやくバイト地獄が終わって、気を抜いたら昼過ぎまで寝ちゃって……それから慌てて来たけどね」
「す、すいませんわざわざ……。でも今日、もう一度絶対青空さんに会いたくて……」
む、無茶苦茶恥ずかしいんですけど……。
悶え打ちたくなるのを我慢し、冷静さを装おうと咳払いを一つ。
「……それで、今日は何の用件?」
「あ、その……お時間、あります?」
「今日は特に……元々完全休養に充てようと思ってたから……」
練習は元より入れていなかったし、連日のバイトとバンドの件で滅入っていたのもあるので、久々の休日は家で疲れを取り、ギターの練習でもしようと思っていた。
でもこうして女の子と会っている所を千夜さんに告げ口されたら、また怒鳴られるのは目に見えているのでイッコーに後できちんと言っておかないと。
「あ、それなら……日が落ちるまでお話、できませんか?」
僕の顔色を上目遣いで何度も窺いながら、柊さんが小声で尋ねて来る。最初から僕もそのつもりだったから、何の問題も無い。
「うん、僕は別に構わないけど……食べ終わったら、ひとまず別の場所に行こうね」
カウンターに隠れこちらを見守る男性二名を眺めながら僕は言った。
「そんな風に髪をまとめていると、遠目だと解らないね」
「あ、いつもは留めてないです。用事でつけてたんです。……下ろしましょうか?」
「ううん、今からご飯食べるから後でいいと思うよ」
「……青空さんって、ストレートの女の人が好きなんですか?」
「え?あ、まあ、別に可愛ければ髪型は何でも……」
まだお互いにぎこちなくても、初対面のこの前よりは幾分リラックスして会話出来ている。でも普通の会話をしているとつい、目の前の子が『days』のファンだと言うことを忘れてしまいそうになる。
バイト以外だと日常会話にしても、黄昏やイッコーとばかり話しているから気の休まる日は無い。こうして部外者の人と話していると日々の疲れも和らぐように思えた。
しばらく他愛も無い話を交わしていると注文した物がイッコーの手で運ばれて来る。何かまた余計なことを言わないか横で目を光らせていると、僕の視線が痛かったのかすんなりと引き下がって行った。
食べ始めると途端に会話が無くなる。異性の前で口に物を入れたまま喋ってはしたないと思われるのが嫌なんだろう。僕もだけど。
普段から僕はゆっくり味わい食事を摂るようにしているので、食べ終わるのはほぼ同時。しかし相手のことが気になり、喉を通ったご飯の味が分からなかった。
のんびりとしているとまたイッコーが何かしでかすと思ったので、お皿を下げに来る前に席を立った。すると伝票を手にレジへ向かうと所を見計らい、すかさずやって来る。
「おめーなー、おごるくれーしろっての」
「前回おごったよ。だから今日は折半。ね?」
僕が振ると柊さんは笑って頷いた。すっかり仲の良くなっている僕達を見てイッコーがつまらなそうな顔で口笛を吹く。レストランの店員の態度じゃないでしょう、それ。
後をついて来ないように強烈な視線をイッコーに送ってから、二人で店を出る。僕達のやり取りを横で見続けている柊さんはおかしそうに微笑んでいた。
「――これからどうします?行きたい所があるなら任せますけど」
店の前で丁寧語で尋ねる僕の横で、柊さんが髪留めを外した。音も無く黒いその髪が肩に下りる様を真横で見て、知らず知らず見惚れてしまう。僕の視線に気付き顔を向けて来たので、慌てて目を反らした。
「あ……あ、青空さんに、任せますよ。話ができるなら、どこでもいいです」
イッコーだったら絶対にそのまま直行するような気がした。どこへかは訊かないで。
柊さんが僕のギターケースに何度も横目で視線を落とす。どうやらお互いに考えていることはお見通しみたい。僕が苦笑すると柊さんもつられて苦笑した。
その為に僕はわざわざ大変な思いをしてこれを持ってきたんだから。
「それじゃ、ちょっと……ウィンドウショッピングでもしていかない?」
「えっ?あ、はい……」
僕の提案に素頓狂な声を上げると、肩透かしを食らったみたいな顔で柊さんが頷いた。
目的地へは遠回りしても行けるから、一旦駅前に続くこの繁華街を回ってから向かおう。
勿論自分一人だとそんな洒落た真似は出来ないし、しようとも考えない。でも女の子ならファッションやショッピングに興味があると思ったから。貧乏だから何かプレゼントするお金なんて無いけれど、僕は今とても他愛の無い話をしていたい気分だから。
この前は酔っていて気付かなかったけれど、背丈が違うと歩幅も変わる。だから肩を並べて歩いていつもの調子でいると、僕一人だけ先を行ってしまう。一緒に横並びになるには当然だけど僕が歩調を遅くしないといけない。横にいるのが女の子なら尚更。
それが分かるとそちらの方ばかり気にして、前に出たり後に下がったりを繰り返してしまう。相手の歩調に合わせて歩くと言うのは結構難しい。
でもこれって、バンドで音を合わせるのと似ている気がした。
そう考えると千夜さんと一緒に歩いていても何の違和感も無いのは、長い間一緒に演奏して来てお互いのリズムを知り尽くしているからだと思った。
だからどうした、と思うけれど、これってとても重要なことなんじゃないのかな?
「あ、重いですか?ギター」
僕が歩調を乱しているのはギターケースのせいかと思ったのか、柊さんが尋ねて来た。
「ううん、大丈夫。こう言うのって、ちょっと慣れてないだけ」
ダブルミーニングで言ってみると、彼女は照れ臭そうに肩を縮める。その一々赤くなる様が横で見ていてとても胸をくすぐられる。育ちがいいのかも知れない。
ラバーズのある繁華街を抜け水海駅から北に伸びる路線目指して歩くと、やがて高架下に横一列に店が立ち並ぶファッション専門の繁華街が見えて来た。
線路の高架下の両側に洋服やアクセサリを取り扱う店が列挙していて、500m近くの縦長なファッション街が創られている。この中の90%は女性用の品物を並べてある店なので、この周囲一帯は女性の人を圧倒的に見かける。
僕もここは通路にしか利用していない。反対側に出るとイッコーに勧められ利用している馴染みの楽器屋のビルがあるから。
このファッション街は外側に店の入口は無く、数ヶ所中の通路に入る扉があるだけ。後は全部ショーウィンドウになっていて、道行く人の目を楽しませてくれている。
「女性の人って、みんなファッション雑誌とか読むの?」
「読みますよー。学校でみんなで回し読みしたりとかしてますけど。男の人は違います?」
「あまり……。学生時代は興味無かったし、音楽を始めてからは気が回らなくなってるし」
「だ、だめですよ。女の人ってそういうところ、ちゃんと見ますよ……?」
「やっぱり気をつけないと駄目かな……ビジュアル系じゃないけど……」
ウィンドウの中に飾られてある売り物を眺めながらとりとめも無いことをあれこれ喋る。二人共それほど立ち止まらないのは、少ない時間を潰してしまいたくないからだろう。
柊さんがウインドウに見惚れている隙に、僕は彼女の横顔を盗み見したりする。本音の話、洋服を着たマネキンよりは生身の女の子を見ていたい。
彼女の髪は一本一本とても細く、髪をまとめていたのに櫛を使わなくても癖っ毛も無く真っ直ぐに全部下りている。千夜さんみたいに一目で美人と言える感じとは違い、仕草や言葉遣いに愛嬌がある所が魅力を補っている。顔立ちだけでも十分可愛いけれど。
でも柊さんの隣にいても、いやらしい気持ちは全く湧いて来なかった。
出会ってから今日までの間、夢に出て来ることも無かったし淫らな姿を妄想して果てることもなかった。生身の女の人に対してはどうやら今までと変わらなく接しているみたい。
十分ウィンドウショッピングを楽しんだ後、やや少し北に離れた位置にあるキャンディーパークに足を運ぶ。太陽は少し高度を下げていて、太陽の熱もそれほど感じなくなった。
夏には緑真っ盛りのこの公園も、少しずつ枯れ木が目立ち始めている。緑を残した木々の区画もあるけれど、煉瓦の道には木の葉がたくさん舞い散っている。
冷め難いホットの紅茶のペットボトルを公園内の自動販売機で買い、公園の中心部に向かった。円形の煉瓦の広場には大きな噴水があり、周りを取り囲むように休めるベンチがいくつも備え付けられてある。
「満員だね……場所、移すしかないね」
まだ肌寒くは無いせいか、公園の周りは賑わっていた。鳩に餌をやるおばさんや、噴水を眺めながら談笑する老夫婦のカップル等、それぞれに自分達の時間を楽しんでいる。今日はここ数日と比べてやや気温は低いけれど、祝日と言うせいもあるんだろう。
仕方無いので少し歩き、右手に芝生が広がる場所に出ると空いている木製のベンチを見つけたので、柊さんと話してそこに決めた。人気も少なくていい感じ。
「風が止んでてよかったー」
これなら座ってじっとしていても耐えられなくなるほど寒くは感じないだろう。ベンチを手で払ってから腰掛けると、Gパンの下に短パンを履いているおかげで冷たくなかった。柊さんもベンチの冷たさを確認してから僕の左側に座ると、冷やっとしたのか驚き少し腰を浮かせ、僕の顔を見て照れ臭そうに笑った。
「随分歩いたから眠気覚めちゃった」
笑いながらてきぱきとハードケースを開け、愛用のアコースティックギターを取り出す。一度鳴らすとチューニングは大丈夫で、僕達は顔を見合わせ微笑んだ。
約束が無くてもどの道練習はするつもりでいたので、せっかくなら彼女の前で弾いてあげようと考えた。会話が途切れた時に間を持たせることもでき、喜ぶと思ったから。僕も気分転換になるし、ステージ以外の場所で気の知れた人以外の前で弾くのも後々いい方向に繋がるはず。
やましい心は付いて来るけれど、それを一々否定するつもりも無い。
「何か要望があれば弾くよ。こんな機会ってあまり無いから失敗するかも知れないけど」
「あ、ありがとうございますっ。……嬉しいです、ホントに」
だって、こんなに喜んでくれているんだもの。
以前この公園でイッコーに黄昏の件で相談に持ちかけた時に、エレキギターを僕の前で弾いてくれたことがある。心から嬉しかった。
あの時の恩を今、僕が柊さんに受け渡そうと思う。それが人と人との、つながり。
「その前にちょっと一曲、弾かせて」
いきなりやって失敗すると恥ずかしいので、準備運動がてらに『貝殻』を演奏してみる。喉の調子を確かめるにはもってこいの曲。ギターの6弦をはじくと、ポーンと綺麗な音が秋の公園に吸い込まれて行った。苦労してアコギを持って来た甲斐がある。
「いつの日か僕が消えてしまって/何も残らないとしたら/この世界に生まれ落ちた理由は/ なくなってしまうから/この手紙を詰めた瓶を/海に流しておくよ……」
黄昏を真似してみても絶対に敵わないので、自分のキーに合わせてギターのおまけのつもりで唄う。何度かステージの上で弾き語りをする人をライヴで見ているけれど、いざ自分が人前でやってみると結構度胸が必要だし、慣れていないので早々様にはならない。
間違わないように心掛けてやっていると、ギターに集中し過ぎてしまい柊さんの顔を見れない。誰もいない芝生に向かって声を張り上げ唄っている。人通りもここ一帯は少ない。
これって、柊さん一人のためにライヴをやっているのと変わり無いよね?
ふとその事実に気付き凄まじく恥ずかしくなりつつ、何とか最後まで演り切った。
「ど、どうかな?」
『うわー、駄目だー!!』と叫びながら悶え転げたい気分を心の中に隠しつつ、上ずった声で隣に座る柊さんに訊いてみた。
「あ、その、あ、ありがとうございます!こんなに近くで青空さんが演奏しているところを見るの、初めてで、その……」
嬉しさのあまり舞い上がってしまい、何を言えばいいのか分からなくなっている。
「そう言えばいつも後ろで見てるんだっけ」
「あ、は、はいっ。だから間近で見られて、凄く感激して……しまいました、すいません」
何故か謝って来る柊さん。僕の上手下手は関係無く、ただこうして『days』の曲を聴ける、きっとそれだけで幸せなんだ。
ただのファンにそこまでする自分もどうかと思う。初めてファンの人に声をかけられ、それも相手が女の子だから余計に浮かれているのもあるだろう。
でもそれだけで、いくらお人好しの僕もここまではしない。他に理由があるから。
「原型は大抵ギターで作っているから、一応どの曲も弾き語りは出来るよ。でも人前に公開するものでもないから、アレンジなんて手癖でしかつけてないけど」
「あ……、じゃあ『黒猫』もできますか?」
「勿論。これでしょ?」
「それです!そのリズム」
「ライヴみたいに早く弾くのは大変だから、少しスローテンポで……」
どちらかと言うとテンポ早く跳ねるのを弾くのは苦手な部類なので、やり易いテンポまで落として演奏してみる。
「ひとりぼっちの彼女/猫を見るたび声かけた/昔飼ってた仔猫に似てて/面影思い重ねてた」
2番に入ると突然柊さんが小声で唄い始めたので、驚いて演奏が止まりそうになる。顔を向けると照れ臭そうに唄いながらこちらに視線を送っていたので、そのまま僕も唄い続けた。
後になればなるほど調子が出て来て、唄声が大きくなる。僕もノリに乗ってギターを奏で、声を合わせる。僕一人で唄っている時は下手さに唄声も遠慮がちになってしまうけれど、二人で唄えばハーモニーが生まれ、怖さが無くなる。
僕達のユニゾンが済んだ空気を震わせ、夕方の公園にこだまする。柊さんの唄声はキーが高く、横で聴いているととても耳心地が良かった。
『相手を想って寄り添い/悲しい運命を振り払った/かけがえのない存在が/やっと見つかった気がした』
一緒に僕達の歌を唄ってくれる人がいる、それって何て素晴らしいことなんだろう。今の今までこの喜びを知らなかったことがとても勿体無く思えるほど、この瞬間が楽しく、愛しかった。
間奏の合間に柊さんの方を見ると、鞄から外した黒猫のアクセサリを膝元で握っていた。僕の視線に気付いて恥ずかしげに微笑む。彼女のこの曲に対する愛情を感じた気がした。
『彼女は猫をこう呼んでやった/幸せの黒猫 幸せの黒猫』
余韻無く言い切るように曲を締める。と同時に柊さんの拍手が飛んで来た。
「最高だね。ライヴでもこんなに上手く行ったこと、ないよ」
言われる前に僕が先に感想を述べる。実の所、唄っていてちょっと泣きそうになった。
曲を届けることの本当の意味が解ったような気がして。
「わ、私も、今のが今までで一番良かったです。とても楽しくて……」
そう言うと、嬉しそうな顔で目尻を指で拭った。感極まったのか、ぱちりとしたその目が潤んでいるみたいに見える。そこまで感動されると嬉しいような困ったような。
「柊さんって、声いいよね。カラオケとかで言われたりしない?」
「あ、あんまりカラオケは……。家で口ずさむのはありますけど……勉強する時とか」
「一緒に唄っていて気持ち良かったもの。音程もぴったり合ってるしね」
「そんな……お、音楽の成績も良くないです。文化系の授業、昔っから全然だめで……」
「何だかちょっと、意外。運動とかは得意なの?」
「そ、それもあまり……。ば、バトントワリングとかはできますけど。習ってたんで」
5分位雑談して、また別の曲を演奏しては雑談、そしてまた弾き語り。どちらかに偏らないように有意義な時間を過ごそうと見えない努力を続ける。太陽が落ちるにつれて、僕達の心の壁は少しずつ取り払われて行った。
僕にはギターを弾く時はいつも身構えてしまう癖があった。
上手くいかなかったらどうしよう、ちゃんとやらなきゃ。僕の気持ちを込めるんだ。心に響くものを弾くんだ。弾き始めた当初からそう何度も心の中で呟きながら弾いていたのが未だに染みついている。
『君がこの夜に/手を差し伸べてくる/泣き笑いの笑顔/今日も明日もずっと』
でもこうして一緒に唄っていると、そんなわだかまりも溶けていく。自分のギターとやっと心から触れ合えた気がして、奏でる音が胸を震わせる。
『見てくれないからって/喚くなよ/まずはここまで/来て叫ぼうって』
何を僕は偉そうになっていたんだろう?自分の持っている世界を唄にして聴かせてやる、黄昏の凄さをみんなに思い知らせてやる、この僕を絶対にみんなに認めさせてやるんだ。そんな噛み付くような意識だけで今日まで音楽をやって来たんじゃないか、僕は?
悪いとは思わない。でもお客さんを大事にしているようで、自分勝手な考えだけで続けて来た。いつも気遣っているつもりでいながら、本当に大切に思っていたのか?
『慣れてない歌で/高い声が掠れていてもいいさ/おかしそうに笑う/君の顔が見れるなら』
一緒に唄っている時は、しっかり柊さんの顔を見ていられる。勿論恥ずかしいけれど、合わさる唄声に相手の存在を強く感じることができるから。
『あの日の景色を胸に/やがて訪れる雪の空を待ち焦がれて/待ち焦がれて』
『雪の空』の最後の歌詞が、秋の夕暮れに吸い込まれて行った。
楽しい時間は過ぎるのがあっと言う間で、空は茜色に染まり、夜の訪れを知らせ始める。
人の数も少なくなり、数えるくらいしか見えなくなる。気温も下がり、唄っていても肌寒く感じ始めた。僕はギターと柊さんをベンチに残し、一旦近くの自動販売機にホットコーヒーを買いに行った。
暗くなり始めた公園で、白いコートの女の子がベンチに腰掛け待っている。僕はふと立ち尽くし、一枚の写真のようなその光景を目に焼き付けていた。
戻って缶を渡し、ベンチでコーヒーを飲みながら、二人夕闇の広がり始める空を眺める。どちらからも時間のことは何も言及せずに、楽しい話に明け暮れていた。
「あっ、青空さんって、本とか読みます?」
「ロック雑誌だけは毎月買ってるけれど……小説とかはあんまり読まないかな。活字読むの苦手だもの。あ、でも……国語の成績だけは昔から良かったけどね」
「ああ、やっぱり。歌詞読んでると、そんな気がしたんです」
「あ、ただ、小説は書いたことあるよ、一本だけ。私小説」
「そ、そうなんですか!?」
何と無しに言うと、柊さんが驚きの声を上げる。僕の中で『mine』は自分の血肉となっているので、他人に打ち明けるのは何にも照れ臭くもない。
「そう驚かれても困るけど……音楽始める前にね。でも別にどこかに応募しようと思った訳でもなくて……日の目を見ることはないよ。ただ今の歌詞の原点にはなってるかも」
「あっ。そっ、それ、私、読みたいです!」
身を乗り出して叫ぶと、勢いで柊さんの右手が僕の左手に触れる。ドキッとして、僕達は慌てて手を引っ込めた。真っ赤な顔を見合わせ、二人揃って照れ笑う。この年でラブコメしてどうするだと内心思いつつ、話を戻した。
「ああ、それなら持って来れば良かったね。荷物かさばらせたくないから、ギター以外持って来てないんだ」
「そう、ですか……」
僕の言葉に肩を落として落胆する柊さん。『days』の歌詞が好きなんだから、きっとも好きになってくれるに違いない。自分の思慮の足り無さを悔やんだ。
「『mine』って言うタイトルの物だけど。読みたいのなら、次にでも持って来るよ」
「あ……」
笑顔で返すと、柊さんは戸惑った顔を見せ――悲しい表情で、俯いた。
その理由には、僕も察しがついた。何も言えなくなり、コーヒーを喉に含む。強い風が辺りを吹き抜け、音を立て木の葉を舞い上がらせた。一気に寒さを肌に感じる。
柊さんは左手に持っていた缶コーヒーをそっと横に置きベンチを立つと、2、3歩前に出て東の方から暗くなり始めた空を見上げながら、謝るように言った。
「すいません。私……今日でこの町からいなくなるから、次はないんです、すいません」