→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第2巻

   040.夕闇に染まる空の下、秋の風の匂い。そして始まったもの

「引っ越すんです、母親の田舎に。だから……すいません」
 もう一度柊さんが謝ると、僕の方を振り返り大きく頭を下げた。
 言葉を失くした僕の目に、太陽が沈み行く赤銅色の空と遠くに見える公園の木々、そして色を変え始めた芝生を背にした白いコートの彼女の姿が映っている。
 まるで世界の本当の姿をそのままパッケージにしたような、美しい絵が目の前にある。
「気持ちは嬉しいですけど、もう、ここには……いられないんです」
 胸を打たれて見惚れていると、抑揚の無い清らかな声で柊さんが言った。
 初めて会った時にもそれを匂わせることは言っていたし、別れの時にも『days』のライヴをもう観られないと言い残し帰って行った。
 残された時間は少ないのは分かっていた。だから僕はこうして彼女の想い出に残るような大切な一時を作ろうと、アコースティックギターまで用意して過剰過ぎるほどのファンサービスを行おうと決めていた。結果楽しかったし、僕にとっても大切なものを見つけられて、かけがえの無い1日になった。
 でも一緒にいる内に、柊さんをファンの一人とは思わなくなっている僕がいた。
「……一体いつ、引っ越すの?」
 ジャケットの左ポケットに入れたピックをその中で転がしながら尋ねる。
「今日、これから……7時に水海駅から電車に乗るんです」
「それってもうすぐじゃない!」
 僕は思わず興奮して立ち上がってしまった。あまりに急過ぎる。もっと時間のあるものだと思っていたのに。
「あ――」
 そうか、だから今日の日に待ち合わせをしたんだ。
 この街での最後の想い出を創るために。
「昼過ぎまで荷造りに追われてて……それで来るのが遅れたんです。ホントはもっとゆっくり話をしたかったんですけど……」
「あ、髪を留めていたのは――」
「ですね。作業のジャマになるからつけていたんです。慌ててて外すの忘れてましたけど」
 柊さんは笑い、肩にかかる自分の髪の毛を摘むように撫でた。
「急――って訳じゃないんだ」
 前もってこの日だと分かっていたから、僕にお願いして来たんだろう。
「ええ、いきなりじゃないです。引っ越すのは、一月程前から決まってて――」
「だから、僕に声をかけたの?」
「……はい」
 地面に視線を落としたまま柊さんが恥ずかしそうに答える。
「引っ越す前に……一度でいいから、青空さんと話がしたくて。この機会を逃したら、二度と会えないかもしれないと思って……」
 その言葉を聞き、無性に悲しくなった。柊さんが声をかけてくれたおかげでこうして話ができたのに、それも今日限り。まだたったの2回しか話せていないのに。
「……勇気いりましたけど。でも、よかったです、声かけて。こんな……一ファンの私のためにいろいろ気を遣ってくれて……とっても嬉しかったです」
 もう一度お礼を言い、僕に頭を下げて来る。
「いいよ。楽しんでくれたなら……僕もわざわざ重いギター持って来た甲斐もあったしね」
「すっ、すみません!わざわざ……」
「そんなに謝らなくていいよ。何だかこちらが悪いことしてるみたい」
「いっ、いえ……」
 また謝ろうとして慌てて口を塞ぐ柊さん。その仕草がとても可愛かった。
「何だかあっというまでした」
「僕も」
 ギターを弾いていたせいもあってか、まだまだ話し足りない。冬至が近いから、太陽が沈むのもとても早い。これが夏だったなら、もっと一緒にいられたのかも。
「7時って言ったら、後2時間もないよ」
「……です。でも完全に日が落ちてから、行きます。そう言う約束、しましたもん」
 暗くなり始めた東の空を眺めてから、僕達は何とも言えない気持ちで微笑み合った。
「母親と駅で待ち合わせ、してるんですよ。このまま、直接向こうで合流するんです」
「お父さんは?姉妹とかいないんだ?」
 口に出してから、しまった、と思った。
「それで――引っ越しするんです。上に姉が一人いて、もう結婚してますけど……」
「あ……」
 まただ。どうして僕はこういつも土足で相手のそっとして欲しい部分に立ち入ってしまうんだ?もう直す云々じゃ無く、自分の業とさえ思えて来た。
「い、いえ、いいんです。……話そうと思ってましたから。――いいですか?」
「……いいよ。だってその為に僕を呼んだんでしょ?聞き役は得意だし」
「す、すいません……」
 どうやら気を悪くしなかったみたいなので、心の中で安堵の息をついた。
 空は一分毎に色を変えて行く。もうすぐすれば公園の街灯も明かりを灯すだろう。
 柊さんが顔色を見られないように、ベンチに腰掛ける僕に背中を向けた。
「――先月、お父さんが亡くなってしまって。今の家でお母さんと二人で暮らすのに無理が生じてきたんです。だから引っ越すんですよ」
 無理矢理悲しみを飲み込み調子良く言う。しかし憂いを帯びた声は隠せなかった。
 身近な人が亡くなったことの無い僕にはあまりピンと来ない。ニュースで聞くように、ブラウン管の向こうのような手の届かない場所の出来事に思える。
「私一人で生活するのはまだ無理ですから……一緒に田舎に帰ることにしたんです」
 ただ、同情して貰いたいから話している訳じゃないのは解っているので、僕はその言葉を淡々と受け止める様にした。余計な同情は相手を悲しませるだけ。
「柊さんは、この街に思い入れは無いの?」
 問い尋ねてみると柊さんがゆっくりと振り返った。その横顔は暗がりのせいか、どこか泣いているようにも見える。
「もちろん――あります。物心ついた時から、ここでずっと暮らしてきたんですし……」
「でもそれなら、友達もいるでしょう?僕なんかより、最後の日はみんなと過ごした方が良かったんじゃないのかな?」
 謙遜している訳でもないけれど、いくら憧れの人だからと言い、この日を選んで再び会うのは悲しい気がする。周りにもっと大切な人はいくらでもいるはずだから。
 当然の疑問を投げかけてみたら、僕に向き直りすまなそうに言った。
「その……私、昔から引っこみ思案で――いないんです、友達」
 彼女の雰囲気や性格を察するに、薄々そんな気はしていた。
「だからって、一人や二人はいない?近所の幼馴染みの人とか、学校の友達とか」
 何だか尋問している気分になり、少し嫌になった。
 質問を受け柊さんは難しい顔を見せ、ぽつぽつと思い出すように言葉を返す。
「……小さいの頃の友達とは、大きくなると疎遠になったですし……学校の友達とも放課後や休日に遊ぶのは、ない……です。学年変わると、話さなくなるし……」
「――僕も似たような感じだけどね」
 ほとんど他人事とは思えなくなって呟くと、はっと顔を上げ僕を見て来た。そのすがるような目線がどこか痛く、目を泳がせながら弁解するように説明した。
「ゼロってことはなかったけどね。子供の頃はガキ大将だったけど、中学高校になると控え目になってあまり学校の友達とも遊ばなかったし」
「あ、じゃあ私と一緒ですね!」
 仲間を見つけたと思ったのか、両手を合わせはしゃぐ柊さん。
「そこで喜ばれても困るけど……」
「あ、す、すいません、つい……」
 参った顔の僕を見て、慌てて頭を下げて来る。良い部分で他人と繋がるのは嬉しいけれど、駄目な部分で仲間探しをしていると慰め合っているようにしか思えなく、どうにも喜べない。僕も歌詞を書く時も、他人と弱音で繋がりたいとは考えていないから。
 類が友を呼ぶと言うのはきっとこう言う状況のことなんだろう。
「近所のトモダチって言っても今でも一緒にいるのは、ヴォーカルの黄昏一人だけだから」
「幼なじみ、なんですか?」
 暗くなって来てこちらの表情が見えなくなって来たからか、柊さんがベンチに戻り僕の隣に腰掛けた。微妙に先程より距離が近く緊張する。
「うん、と言っても去年の梅雨頃に久し振りに会ってから、また仲良くなったんだけどね」
「そうだったんですか……」
 ステージ上で名前の紹介はすることはあっても、結成のいきさつをどうのこうのと話す真似は勿論しない。フロアで見ている人にはお互いの人間関係も音でしか解らないだろう。
「いいな、私、そんな人いなかったから……」
 遠くの煉瓦の石畳に視線を落としながら、柊さんが羨ましそうに呟いた。眼鏡の向こうに見える淋しげな目の中で、夕闇の残した微かな光が揺れている。
 手を伸ばせば肩を掴める位置に柊さんがいる。不意に抱きしめたくなる気持ちを懸命に堪え、同じ石畳に視線を移し次の言葉を吐き出した。
「でも大変なだったけど、僕も。高校の時は誰も助けてくれる人がいなくて数ヶ月家に引き篭もったこともあったし」
「えっ」
 大きな声で驚くと同時に街灯の明かりが灯り、僕達のベンチを照らす。目を丸くした柊さんと目が合うと真っ赤になり、大きな身振り手振りで否定した。
「あ、わ、私は違います違います違いますっ。引きこもってません、引きこもって」
「それは……良かった」
 そう言う目で見ていた訳じゃないけれど、安心した。でも明かりがついたおかげで、慌てふてめいた拍子に後ろに下がった柊さんとの距離が開いたままになってしまった。もう少し街灯のつくのが遅ければもっと近づけたのにと思うと残念な気持ちになる。
 落ち着いた柊さんはかしこまり、肩にかかった横髪を手櫛で梳いた。
「――でも、やっぱり変な目で見られます。いじめられはしませんでしたけど……」
「けど、引っ越しするなら一からやり直せないかな?」
 環境が変われば、やり直すチャンスが生まれる。でも柊さんは悲しい顔で目を伏せた。
「……多分、無理ですよ。学年が一つ上がるたびに考えてますけど、いつも一緒で……」
 僕も悲しくなったけれど、その気持ちは同情とは少し違った。
 何も変わらない日々を繰り返して来た過去の自分を、彼女の姿に重ねたから。
 そして、そんな弱い自分を受け入れている柊さんがとても悲しく思えた。
「――助けてくれる人は、いないです。だから、音楽ばかり聴くようになって」
 逃避の為の音楽。たくさんの曲を聴く僕も、似たような気持ちで触れていたことがある。
 でも自分がギターを手にしてからは、その姿勢は大きく変わった。
「同じ匂いを感じたんです……『days』に。でも……私と違って、とても強いです」
「強くなんて無いよ」
 スーパーマンを見るような目で僕を見て来る柊さんに、返す刀ではっきりと言い切った。驚いた顔で、大きく肩を震わせる。怯えたその顔を横目で見てから、僕は口にした。
「虚勢張って、自分に言い聞かせて。強がってる振りをしているだけだよ。弱い自分のままいるのが嫌だから、無理矢理にでも強くなろうと音を鳴らしてるんじゃないかな」
 僕は他人が憧れるような強い人間なんかじゃない。でもそうなる為に日々努力をして生きているつもり。ギターは襲い来る波のような日常を乗り切る為の大切な武器で、親友。
 弱いままの自分でいるのはもう嫌なんだ。
「――僕はね、何も誰かにメッセージを届けようと思って音楽をやってる訳じゃないんだ」
「え、じゃあ……」
 僕の言葉を勘違いして受け取ったのか、柊さんは悲しい目を見せる。
「あ、そう言う悪い意味じゃなくてね。僕達の曲を聴いてくれた人が、自分の考えで何か行動を起こしてくれればみたいな気持ちがあるんだ。多分、柊さんは――」
 正直に言っていいものかどうか迷ったけれど、彼女の為を思い、踏み切った。
「柊さんは、僕達に引っ張って貰いたい――心のどこかでそう思ってる気がするんだ。『days』の曲で自分の気持ちを誤魔化してるとか――違うかな?」
「…………」
 僕に言い返すこと無く、柊さんはただ口を閉ざし俯いていた。
 彼女の弱い気持ちを責めるつもりは無い。でもそのままだと、何も変わりはしないんだ。
 柊さんに、僕が感じて来たような苦い気持ちを抱き続けて欲しくない。
「それも一つの聴き方だと思うし、否定するつもりはないけど……結局、自分自身を変えられるのって自分自身しかいないんだよね」
 頭から今の彼女を悪いと決めつけないように慎重に言葉を選びながら、言った。
「僕はずっとそれを待っていたけど……いつまで経っても来なかったし」
 もしかすると誰かが僕を救いに来てくれるかも知れない。
 そう思い続け、どれだけ布団の上で寝転がっていたか分からない。
 黄昏にとっては僕がその救世主なのかも知れないけれど、自分自身に変わりたいと思う気持ちがあったからこそ、暗闇を振り払えた。
「でもね、自分から動き始めたら、仲間が出来たんだ。それから僕の生き方も変わって来たかな?それを曲にしているつもりでいるけど――でもそれも、結局僕の生き方でしかなくて。柊さんは柊さんで、新しい場所で新しい生き方を探して欲しいと思うな」
 自分のハートに住むランプに火を灯すんだ。
 強く望みさえすれば、歩く為の勇気にだってなる。
 最後の術はこの手の中にあるんだから。
「あ……」
 強い気持ちで柊さんに向き合うと、言葉を失くし固まっていた。酷いことを言ったと思い、慌てて目を反らす。
「……ごめん。悪気は無いんだ。――でも、僕達の音楽がその後押しになってくれればいいなと思うよ。あ、その前に早くちゃんとした音源を作らないとね。人に偉そうに言う前に自分がしっかりやらなきゃ」
 意識を高く持つように夕闇の空を見上げる。少しずつ、星が瞬き始めていた。
「だから待ってて。近い未来にきっとレコーディングして、柊さんにも音を渡すからさ」
 自分自身に言い聞かせるように口にして、隣に座る彼女に笑いかけた。
「……柊さん?」
 見ると、俯いたまま肩を震わせている。顔を覗き込むと、目に大粒の涙を溜めていた。
 膝の上に揃えた両手の甲に一滴零れ落ちると、堰を切らしたように大声で泣き始めた。
「〜〜〜〜、〜〜、〜〜〜〜〜〜」
 しゃっくりが酷くて泣き声は言葉にもならない。横にいる僕に見られまいと、両手で顔を覆ってうずくまるようにして泣き続ける。初めてのことで、どうしていいものか分からない。肩を抱き寄せて慰める訳にもいかない、涙を拭うハンカチだって持っていない。
 僕はただ横で阿呆面して、彼女が泣き止むのを待ち続けるしか無かった。
 なんて……情けない奴。
「すいません、泣くつもりはなかったんです……けど。すいません」
 しばらくすると、ようやく柊さんが落ち着いた。空はその間に大部分を夜空に変えていた。先程携帯の時刻を確認するとまだ6時前で、晩秋の昼の短さを痛いほど感じた。
 僕の心は風化した砂漠の岩山みたいに、彼女の鳴き声ですっかり芯まで削られていた。人生でこれまで惨めな気持ちになったことは無いくらいに。
「どうも……自分の言いたいことを言わないと気が済まない性質なのかな。こんなことだから、結構嫌われたりするんだろうね、僕」
 千夜さんにそうやって何度と無く睨まれたことか。黄昏にもイッコーにもそれで気を悪くさせている。
 柊さんに何もしてあげられなかった自分を無理矢理納得させようとする僕自身が情けなくてたまらない。嫌がられてでも抱きしめる方が良かったとさえ思える。
「あ、でも……嬉しかったです、私」
 ――けれど、柊さんは僕に優しい言葉を投げてくれた。
「そうやって言ってくれる人、今までいなかったですから……」
「……ごめんね。きついこと言ってしまって」
 言葉だけじゃ無く、心の中で何度となく謝る。
 どうして柊さんが泣いたのかは解らない。僕の言い方が酷かったのかも知れないし、彼女の気持ちを代弁したからかも知れない。指摘された自分の弱さを情けないと思ったのかも知れないし、もしかすると僕の言葉が後押しになったのが嬉しかったのかも知れない。
 何にせよ柊さんを泣かせてしまった事実は変わらない訳で、僕は僕を呪った。人気の無い公園に響いた彼女の泣き声が鼓膜にこびりついている。
 僕の横で柊さんは潤んだ目のまま、指紋のついた眼鏡を白いハンカチで拭き取っている。泣き腫らした目の周りが痛々しく逃げ出したくなるけれど、初めて出会った時と同じその素顔にもう一度見惚れ目の離せない情けない自分がいた。
 柊さんが僕の視線に気付き、心配させまいと優しく微笑んで来る。その笑顔を見ながら、自分の気持ちを心の中で確かめていた。
 きっと僕は彼女にほのかな恋心を抱いてしまったんだ。
「……あの、これ……受け取ってくれますか」
 ぐずっていたのも治まると、柊さんが改めて僕に向き直り両手を差し出して来た。
「え?でもそれ、大切な――」
 その手の中で、手乗りサイズのキーホルダーの黒猫が背筋を反らし座っていた。瑪瑙色の瞳で僕の目をじっと見ている。
「いいんです。青空さんに……受け取って欲しくて」
 断ろうとすると、念を押すように柊さんが眼鏡越しに僕の目を見て言った。
「昔から……ずっと愛用して来た物なんです。いつも鞄の横につけていたんですけど、引っ越せばこの猫の目に映る景色も変わってしまうから、寂しくなると思うんで……」
 困ったように微笑み、手の上に乗っている黒猫に視線を落とす。
 宝石のようなその両の瞳には、彼女と一緒に過ごして来たこの街の景色がたくさんたくさん映っているんだろう。キーホルダーなのに、まるで置物と変わり無いくらいの精巧さがあり、今にも動き出しそう。でも突っ撥ねているように見えるのは、きっとご主人を泣かせた僕のことを気に入っていないからだろう。
「だから、青空さんに持っていて欲しいなって、思ったんです。私の代わりにここでの新しい想い出を創り続けて欲しいなって……変ですよね。やっぱりこんな考えって」
 自分の意見を引っ込めるように苦笑するけれど、柊さんのその気持ちは良く解る。
「ううん。凄く――僕は好きだよ、そう言う考え」
 まだ僕達は若いんだから、いろんな夢を見たっていい。鼻で笑うリアリストよりも、想像の世界を夢見てるロマンチストの方が僕は好きだし、自分もそうだと思うから。
「……ほんとですか?よかった――」
 笑われずに済んで良かったのか、柊さんは心底胸を撫で下ろした。僕は柊さんの手からそのキーホルダーを摘んで受け取ると、早速黒猫に挨拶する。
「よろしくね。……柊さん、この子に名前ってあるの?」
「えっと、『イーラ』って言います。……好きなアーティストのCDのタイトルから、取ったんです。パッケージが一面黒模様で、ぴったりって」
「ふうん……今度僕も、聴いてみようかな」
 早速そのアーティストとCDの名前を柊さんに教えて貰った。すっかり二人共元の調子に戻っている。お互いに内心はぐしゃぐしゃのままだと思うけれど、それを見せまいとする相手の心遣いがとても胸に響いた。
「ありがとうね。まさかまたプレゼント貰うなんて思ってなかったから、何も用意してなかったんだけど……こんなことなら、もっと気を利かせれば良かったよ」
「あ、い、いいです!青空さんには、いろんなものをもらいましたから……」
 今日の付き合った時間(デートとはあえて言わない)がプレゼントになったと思いたいけれど、貰ったものと渡したものが全然釣り合っていない。
「でも、形のある物がやっぱり――」
 今僕が持っている物と言えば、ギターのピックと替え弦、調律を会わせる道具とアコースティックギターだけ。歌詞を書いた紙もあるけれどそれは前回交換を済ませてある。
 一番いいのはギターなんだろうけれど、これは叔父さんに貰った大切な物なので。
「あ、あのっ、それじゃあ」
 頭を捻って悩んでいると、柊さんの方から切り出して来た。
「もう一度……最後に、『幸せの黒猫』、弾いてくれますか?」
「――お易い御用です」
 紳士のように頭を下げてみせると、柊さんがおかしそうに笑ってくれた。僕は貰ったイーラを一旦柊さんの手に返し、早速ギターを用意する。
 これが一緒に唄う最後の時間と思うと、とても寂しい気持ちになる。ならその4分半を精一杯楽しもうと、僕は持てるだけの力を込め弾き語り始めた。柊さんが隣でリズムに合わせて手拍子を打ってくれる。
 キーの違う声を揃えて一緒に唄っていると、不意に泣きそうになる。嬉しさと悲しさがごちゃまぜになったような感覚を噛み締めながら、最後までしっかりと唄い続けた。先程まで泣いていた柊さんの笑顔がより一層素敵に見える。たった一曲の中で、お互いに何千の言葉を交わしているように思えた。
 曲が終わると、寒さも吹き飛ぶほど心地良い熱気に包まれていた。ライヴが終わった後よりも――いや、この時間が今までで最高のライヴと言えた。
「これ、あげるよ。大した物じゃないけど」
 余韻に浸る前に、使っていたピックを渡す。愛用の物でも無いけれど、今日と言う日がその小さな薄いプラスチックの中に丸々刻み込まれているから。幸いとても喜んでくれたので、申し訳無い気持ちが幾分和らいだ。
「それと……携帯電話、あるのならメールでも送るよ」
「あ……引っ越すので、ついこないだ解約したばかりなんです、すいません……」
 プレゼントついでに訊いてみると、間が悪く謝られた。ここは深く付き合い過ぎるなと言う神様の啓示と受け止めておこう。でもこれからもし他のファンの子と接する機会があったとしても、ここまでしようとは思わない。相手が柊さんだから、やるんだ。
「それなら、これ――暇な時には手紙でもくれれば。そんなにすぐ返事を書けないとは思うけど……」
 半分自虐的な気持ちで僕の住所の書いたメモ用紙を渡す。こんなことをしたって本当に手紙を出して来るとはあまり思えないけれど、万に一つの希望を込めて。それと書くのに使った愛用のサインペンも彼女にあげた。もう何かサービス満点な感じ。
「あ、ありがとうございますっ」
 電話番号とかも書きたかったけれど、あえて止めておいた。柊さんも僕に気を遣ってかそれ以上詮索して来ない。そこにファンとの垣根を感じる。
 これが恋人同士なら、何のためらいも無く向こうに全部教えてあげられるのに。
 もう一ファン以上の親密な時間を過ごしたとは言え、その一線だけは超えられなかった。
「まだ……間に合いそうだね」
「あ、あの。えっ駅まで、送ってくれませんか!?」
「――いいよ」
 満面の笑顔で僕は答えた。彼女の方から誘ってくれたのがとても嬉しくて。
 遅れないように急ぎながら、緩やかな足で歩こう。そんな気持ちで僕達二人は日の落ちてすっかり様子を変えてしまった公園の来た道を引き返して行った。
 僕が歩を進める度に、ギターのハードケースに付けたばかりの黒猫のキーホルダーが合わせて揺れる。柊さんはイーラの姿を微笑みながら見ていた。
 街の明かりがどこかいつもよりきらびやかに見えるのは、隣に柊さんがいるから。同じ歩幅で歩きながら、来た時とは違ってなるべく彼女の顔を見ながら話すように心掛けた。それに応えて柊さんも僕の顔を見てくれる。離れてもその顔をいつまでも覚えておけるように、しっかりと細部まで目に焼き付けるようにして帰り道を歩いた。
「どこに引っ越すの?」
「本州の北の端っこの方です……私も子供の頃にしか行った記憶がなくて、あんまり覚えてないんですけど」
「なら、本当に水海とは今日でお別れなんだ」
「そう……ですね。でももしかすると、こちらの大学で受験して、受かれば……」
「あれ、柊さんっていくつ?まだ訊いてなかったよね?」
「17です。高校……2年生ですね。――樫之木女学院って言う、女子高なんですけど。レベルの高い私立ですけど……向こうでは普通の高校に通います。家の事情もあるんで」
「頭いいんだ、柊さん。僕なんてドロップアウト組だからなあ……」
「そ、そんな。社会的には冷たい目で見られるかもしれませんけど、一つのものに打ちこむことって、とても……カッコイイじゃないですか。……何言ってるんだろ、私……」
 何だか凄く初々しい僕達二人。どちらかが言葉を発する度に新しい話題に繋がって行って、お互いの一面を知ることが出来る。この幸せな時間がいつまでも続けばいいのにと、心の底から思った。
 人通りの増えた駅までの道程を一秒も無駄にすまいと意識をしっかり保つ。ライヴでも無い位凄い集中力をしている、今の僕。
 駅のそばに見えるライトアップされた観覧車に近づいて行く度に、会話のレスポンスが早くなる。時間の無さを痛感していると、柊さんが突然何かを思い出した。
「あ、そ、そうだ。波止場さんに頑張ってって柊が言ってたって、伝えてあげてください」
「波止場?」
 一体誰のことだろう?そんな苗字には記憶が無い。
「誰かと勘違いしてないかな?」
「え、あ、じゃ、じゃあ私の勘違いなのかな。す、すいません。てっきり同級生の波止場さんだと思ってたんで……ずっと遠目でしか観てないから、勘違いしてたみたいです」
 僕の隣で頭を小突き、照れ笑いを浮かべる柊さん。これで舌を出していたら完全にK.O.されていると思う。
 ――んっ?
 彼女が言っている人物に一人だけ思い当たる節があった。その考えが急速に胸の内で膨らんで行き、焦って訊き返す。
「え、もしかしてそれって――」
「――着いちゃいましたね」
 僕の言葉を打ち消すように柊さんが残念そうに呟くと、車の行き来する4車線の大通りの向こうに水海駅が見えていた。悲しい気持ちが広がり、質問の中身も霧散してしまう。
 車の排気音と賑わい始めた街の喧騒がやけに大きく聞こえる。歩道の先頭に立ち並ぶ僕の横で、柊さんが横断歩道の赤信号をじっと見つめていた。
 時間は巻き戻らないし、止まらない。
 青信号の後、駅の中に入り改札口の前に到着するまでお互いに何も喋れなかった。せめて手を繋ぎたいと思っても口にする勇気も無く、あっと言う間に別れの時は訪れる。
「ありがとうございました、青空さん。ほんとに……こんなに楽しいのは、初めてでした」
 柊さんは僕の正面に立つと、今日何度目か判らないお辞儀をした。
「きゃ」
 照れ笑いを浮かべていると、彼女の体に男性の道行人の鞄が当たってよろめく。
 吹き抜けホールの真ん中付近に立っていたので、人通りが多くて邪魔になる。ひとまず切符売り場近くの柱のそばまで移動した。周りの人は僕達の名残惜しさ等知る由も無い。
 改めて正面を向き合い、柊さんの姿を上から下まで眺めた。
 膝丈まで延びた真っ白な清潔感のあるコートに、茶色のシューズ。ボタンを留めているので中のセーターは隠れているけれど、コートの下から覗く白く細い足が目に眩しい。
 小さな鼻と唇が、くっきりとした目をより印象強く見せていた。
 ……駄目、長時間見ていられない、可愛過ぎて。
「す、すいません。今日1日つき合ってもらって……疲れました?」
「あ、うん、大丈夫。何ともないよ」
 顔を抑えよろめいた僕をお疲れと勘違いしたみたい。ギターケースを持っていた腕は明日確実に筋肉痛になっていると思うけれど、おかげで楽しい時間を過ごせた。
「向こうに行っても、元気で頑張ってね。まずは友達創りから始めようよ」
「え、あ……大丈夫です、多分……」
 ほんの少し意地悪っぽく励ましの言葉をかけると、戸惑いながら返事をした。その困った顔も僕の胸を綿毛のようにくすぐる。
「貰った黒猫、大切にするから。それと、年賀状でも送ってくれれば、その時に僕の書いた小説もコピーしたのを送るよ。携帯かパソコンがあれば便利なんだけどね」
「あ……なるべく早く、買うようにします、はい……」
 『mine』は父親に貰ったパソコンで打っているので、メールが使える。あまり詳しく無いので今はそれほどパソコン自体を使わなくなった。
 僕からは引っ越し先の住所も電話番号も訊かなかったから、返事が無ければ柊さんとはそれまで。でも向こうから何も言って来ないので、こちらから動くのもルール違反な気がしたし、柊さんが望んでいるなら僕も返事をするように決めた。
「わっ私、これからも応援してますから。『days』のことも、青空さんのことも。いつか……雑誌やテレビで活躍している姿が見れたらいいですね」
「そうなれるように――頑張るよ。もし音源が出来たら、柊さんにも送るから」
「すっすいませんわざわざ!多分向こうだとそんな大きなCD屋も、ないと思うんで……」
 嬉しげにお辞儀をするその姿が、今日が終わりで無いことを教えてくれる。『days』や僕のことを忘れられないように、早く上昇気流に乗らないと。
「あ」
 ちょうど場内に流れたアナウンスに柊さんが反応する。どうやらこれから乗る電車のことを言っているみたい。7時までにはまだ多少時間は残っているけれど、直前まで引っ張る訳にもいかない。楽しかった夢ももうすぐ醒めようとしていた。
「……それじゃ、母親待たせてますから、これで……今日1日、ほんとにありがとうございました。私、一生忘れませんから」
「お、大袈裟だなあ……」
 丁寧にかしこまり90度に頭を下げて来る柊さん。でも自分の気持ちを懸命に相手に伝えようとするこの姿が、彼女の良い所だと思う。友達がいないと言っていたけれど、きっと感情表現が不器用なのを自覚して閉じ籠っているからじゃないかな?
 多分都会よりは、田舎の学校の方が打ち解けられると思う。朗報を期待していよう。
「青空さん」
 柊さんが顔を上げ、僕を見つめながら言った。
「また、いつか……会えますよね?」
 何のためらいも無く、その問いに力強く頷く。
「この先、どこかでまた会おうよ。」
 僕達のバンドが大きくなり、いつか彼女の町をライヴで訪れる時もあるかも知れない。柊さんがこの街へ遊びに来ることもあるかも知れない。
 希望だけじゃなく、いつの日かきっと再会しよう。
 その時、僕は――『days』はどうなっているんだろう?例え解散したとしても、決して恥じないよう悔いの残らない日々を過ごそう。
 再会した時、胸を張って誇れていられるように。
 照れる気持ちを必死に抑え、僕も柊さんの顔をしっかりと見つめた。
「じゃ……行きます、青空さんもお元気で!」
「あ、柊さんちょっと待って」
「あわわ」
 出鼻を挫かれ、改札口へ振り返ろうとした柊さんが姿勢を崩してこけそうになる。慌てて腕を掴み支えると、真っ赤な顔で僕の顔を見上げていた。
「えっ、え……?」
「握手してくれないかな、最後に」
 今度は僕の方から柊さんに頼んだ。今日と言う素晴らしい日を僕にくれた彼女に感謝の気持ちを込めて。
 突然のことに柊さんは戸惑っていたけれど、最高の顔で笑ってくれた。
「は、はいっ」
 手を繋いで歩く勇気なんて無くても、こうして握手しているだけで幸せに思う。外の風に当たっていたせいか冷たく感じたけれど、心の中はとても暖かかった。
 もう一度、この手を握れる日が来ますように。
 黒猫のイールに願いを込め、僕は柊さんの手を痛くない程度に握り締めた。
 柊さんが僕のことをどう想っているのか、なんてはっきりと分からない。でも、好きでいてくれるとこんなに嬉しいことはない。遠くに離れた、これからも。
 距離の遠さは熱した僕達の気持ちを簡単に冷まさせるだろう。これが後々、いい想い出に変わってしまう可能性だってある。
 だけど、僕が今日得たものはきっと忘れないだろう。絶対忘れるもんか。
 離れて行く柊さんの姿を見送りながら、心の中に強く言い聞かせる。彼女は何度も何度も立ち止まっては振り返り、別れを惜しむように僕に大きく手を振っていた。
 次のライヴ。
 そこに柊さんの姿を見かけることは、無かった。


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