041.When I Look At The World
「いくぜ――っ!!ラストぉっ!!」
どうしてライヴが終わった後なのにイッコーはこんなに元気なんだろう?
くたびれた体に気持ちを引き締め、僕は備え付けの機材の再生ボタンを押した。
頭の中でカウントを取り、『夜明けの鼓動』のイントロを全力で掻き鳴らす。1小節が終わるとカセットテープに録音してある千夜さんのドラムがアンプから激しく鳴り響く。そしてもう1小節が終わると待ってましたとばかりにイッコーがピックを振り下ろした。
狭く小さな10畳程度の広さのスタジオに、熱気と音の塊が充満している。外はすっかり11月の終わりにふさわしい季節を迎えていると言うのに、目の前が揺らめいて見えるほどここは暑く、熱かった。
割れんばかりの声で僕は熱唱する。聴かせるための唄声じゃなく、カラオケで鬱憤を発散するように出来る限りの声を張り上げ、髪の毛を振り乱しながらマイクに食らい付き、ギターを掻き毟る。多少間違ったりした所で構わず突っ走る。
イッコーもスタジオの中を縦横無尽に動き回り、飛び跳ね転がりながらベースを弾く。どれだけ動いてもリズムが全く崩れないのを横目で感心しながら、僕はマイクに叫んだ。
もう、訳が分からない。ライヴ後の余韻がずっと頭にこびりついているせいか、ナチュラルハイを通り越してぶっ飛んでいる。いや、お酒は開けているか。部屋の片隅にはたくさんの500mm缶が並べられていた。僕達が並べたんだけど。
本日のラバーズでのライヴが終わった後、突然イッコーが、
「これから練習に行くぞー!!」
と言い出した。自分なりに手応えがあったのか、それともリベンジを果たしたいのか。
多分後者だと思う。上手く行っているようでどこか抜け切らないもどかしさ。
11月は先月の振替を含め、2度ライヴを行った。そのどちらとも何かを掴めそうで掴めない、不完全燃焼なステージに終わった。けれど周りの人間は褒めてくれたので、ぱっと見はいいライヴだったんだと思う。それでも夏前までのような、上昇する感覚はない。
あの頃の方が雑だったと思う。でもそれ以上にバンドにエネルギーがあった。失敗を恐れずに、曲を届かせようと必死に客席に投げ掛けていた。
良くも悪くも、今はまとまり過ぎている。千夜さんがこれまでの曲にも口を出すようになり、アレンジも変わったのにまだ慣れていないせいもあると思うけれど、何より黄昏の声が本気じゃない。風邪を引いた後から、唄うことに迷いが生じているように見える。
それを敏感に感じ取り僕もギターを懸命に弾くけれど、黄昏のパワーを補えるほどのものはさすがに無い。イッコーの弾く音も以前と変わっているせいで感覚がしっくり来ないのもある。音を変えても状況が好転しているように僕には思えなかった。
マイナスだらけなのにそれが良いライヴに見えるのは、千夜さんが一人奮起しているから。練習で口を挟み他の二人にひんしゅくを買うことが多いけれど、他人に言う以上は自分もきちんと役目を果たさないといけないと考えているのか、これまで以上にいいドラムを叩いてくれる。だから僕達も文句の言い様が無かった。
幸い新曲の『ciggerate』は予想以上に好評で、それだけが救いと言えた。この曲は煙草をテーマに描いている。勿論僕は煙草を吸わない。
『ciggerate』は千夜さんをモデルにして書いた曲。これまでも『幸せの黒猫』等のナンバーで物語を描こうと登場人物を出したりしていて、これも同じように煙草を吸う人達がたむろする場所で始まるストーリーを描いている。
この曲が受け入れられたのは本当に嬉しかった。千夜さんと共同で創り上げた、と言う事実が僕の中でとても大きなものとして残っているから。誰かと共作するなんて初めてのことだったし、不安も大きかった。
しかし勢いで次の曲がすぐに書けるかと言うとそうでもなく、僕はまた没続きの日々を送っている。こうしてお酒の勢いでマイクにかぶりつくように怒鳴っているのも、そうした煮え切らない気持ちを一度全部ぶちまけたかったから。
それに、柊さんの影を引きずりたくなかった。
今日のは柊さんと別れてから最初のライヴで、開演前もステージの上でもどこか彼女の姿を目で追いかけていた。勿論ここにいるはずがない。一緒に僕が見送ったんだから。そのせいで散漫な気持ちになっていたのも失敗の原因の一つとも言えた。
もしここにいたらと思うと、また不甲斐無いステージを続けた自分自身を呪う。口約束で終わらせたくないから、次は絶対に成功させたい。だからこうして水海から東に伸びる私鉄を使い、三駅隣にある安いスタジオにイッコーと雪崩れ込み、練習するんだ。
穴場らしく予約無しで来ても運良く一部屋開いていて、個人練習だと二人までで半額なので2時間借り、テープを使って音を合わせている。でも、千夜さんと黄昏はライヴが終わると早々に帰ってしまった。
4人が結構集まるようになった今でも、時々イッコーと二人で練習に入る。どれだけ黄昏の家が防音と言っても、アンプで床を揺るがすくらいの大音量を出せば苦情は来る。セッションをするにはスタジオを借りるのが一番いいし、大抵の場所は二人までだと料金も安い。
ヴォーカルの部分が終わると、いつもの2分近くの間奏に突入。ライヴで演る時と同じで、この曲に向かう時は今の自分の持てるもの全てをぶつけるようにしている。勿論最近のライヴのように今一つで終わることもあるけれど、はまると何かが見えて来る。
そして何故か、こうして二人の時に限ってはまったりする。
やればできる力があるのを改めて確認するけれど、どうして上手くいかないのかな?
膝が床に付きそうな位屈めた姿勢でギターをありったけの力を注ぎ込み早弾きする。聴き慣れたテープのドラミングがじれったく思えるほど、気持ちが昂ぶっていた。イッコーも同じで、一心不乱にベースを弾いている。この曲だけはベースの音は昔のままなので、僕も聴いていて非常に気持ちがいい。
「ふあーっ」
曲が終わると同時に、僕は計ったように床に汗でびしょ濡れの背中を預けた。ちっとも冷たくない。イッコーもベースをスタンドに置き、近くの壁にぐったりした顔でもたれかかった。今日のライヴでも見せていない爽やかな顔を見せている。
「どーしてこうライヴが終わってからうまくいくかなー」
「全くだね……」
悔しさをぶつけようと拳を握り締めてみても、力が入らない。床を叩いてもへなへなな音しか出なく、それが今の僕達みたいに思えて笑うしかなかった。
スタジオに入る前に近くのコンビニで買ったお酒を隠し持ち、アルコールを適度に入れつつ2時間言い合いながら楽器を弾きまくった。もうしばらくはギターも見たくないほど。
「帰るのがめんどくさい……」
「おれも」
全身汗だくで二人共動けない。近場に銭湯でもあれば寄りたかったけれど、着替えが無いので一緒だと思った。まだ十分終電まで時間はあるし、3駅ぐらいなら線路沿いに30分も歩けば水海に着くので黄昏の家で眠れる。明日はバイトも休みだからどうってことはない。
酔いと疲れで目の前がぐるぐる回っている。飲んだ分は全部体中から抜けたと思っていたら、そうでもないみたい。全身の力は使い果たしたのに頭だけは死ぬほど冴えていて、このままでいるとどうにかなってしまいそう。
ストレスは解消しているようで、イッコーと曲を演る度にいつもなら言わない、言えないような所をお酒の力でいつになくぶつけ合っていたので、ダメージは大きかった。12ラウンド戦って判定でドローになったボクサーの気分とでも言えばいいのか。
――次は頑張ってみせるよ、柊さん。
「腹減った。外でなんか食べよーぜ」
「そだね」
意気投合し、疲れた体を引きずり外へ。酔っていると物忘れをすることが多くなるから、念の為二人でそれぞれの持ち物をチェックした。多分大丈夫。
僕のギターのソフトケースにはキーホルダーの黒猫のイーラが踊っている。大切な物なので家に飾っていたかったけれど、私の代わりに街の景色を見て欲しいと言う柊さんの言葉通り、なるべく一緒に行動するようにしている。僕にとっての大切なお守り。
「寒い……のかな?」
紅く染まった街角の木々も葉を随分と落としてしまい、裸の姿で寒そうに立ちすくんでいる。枯れ葉を上から踏み締める度に無常な音が響き渡り、感傷的な気分にさせる。晩秋の風が心の隙間に吹きつけて来るようで、この季節になると夜に出歩くだけで物思いに耽ることが多くなる。
しかしアルコールと練習後の熱気のせいか、いつもより少し強い風の冷たさも全然感じない。イッコーなんて洋楽バンドのロゴが入ったTシャツの上に薄い赤地のYシャツだけ。雪の日でもランニング一枚で走り回っても全然大丈夫そう。
駅前のそばを歩いていたら屋外にもテーブルのあるラーメン屋を発見したので、中の券売機で注文を頼み外で待つことにした。中の席も空いていたけれど、やっぱりラーメンは外で食べるのが乙だから。
「あいつらも来ればよかったん」
「黄昏は寒いの嫌だからね。千夜さんだって明日は学校があるし」
「あーおれは休むな絶対。二日酔いで」
とんでもないことを言う高校生だと思う。
「でもどうも上手く行かないね、ここの所。どうしてかな?」
「まー、こーゆーこともバンド活動する上じゃあるって。気楽に構えてりゃいーんよ」
不安に思う僕に、テーブルの横角でイッコーはゆったりと仰け反ってみせる。確かに『staygold』の一員だったけれど、前と今のバンドは大きく違うと思うからその言葉を鵜呑みにしようにも出来ない。
躍起になっているのは僕だけなのかな?
疑問に思いながら大きな横長テーブルの真ん中に置かれているコップを取り、水を注ぐ。一気に飲み干すと外の冷気を感じ体が幾分冷めた気もするけれど、その分酔いも収まる。
「焦れば焦るほどドツボにはまる。そーゆーもんだわ……お、来た来た」
イッコーが喋り終わると同時に豚骨らーめんが運ばれて来た。僕は並、イッコーは麺大盛チャーシューネギ。丼の大きさが一回り違う。
『いただきまーす』
揃って食前の挨拶をしていざ食べようとすると、顔面に湯気が一杯かかった。スープを掬って飲んでみると、とても熱い。汗だくになって来た所なのにまた汗をかく羽目になるとは。けれど美味しさは予想以上で、十分満足出来た。冷めかけた体も温まる。
「でもそんなに悠長に構えてられないよ。シークレットゲストでしょ?」
熱過ぎて食べるのにてこずっている僕が訊くと、半分近く食べたイッコーが箸を止めた。
「まーねー。クリスマスライヴねえ……早過ぎると思うけどなー、おれは正直」
丼を両手に抱え音を立てスープをすする。体だけじゃなく、食べ方も豪快。
「ま、シークレットだから今断ったって大丈夫だと思うけどな。どーするん?」
まだ自分の分が残っているのに僕の分を覗き込みながら言って来るイッコーから丼を遠ざけ、こちらの考えを言った。
「来週までには答えを出すよ。僕自身としては受けたい気持ちはあるけどね……駄目なら駄目でいいから、一度でも大舞台を経験するのはいいと思うんだ。夏の千夜さんみたいに」
「かーっ、そーだよなあ……あれめちゃめちゃ悔しかったもんなー……」
両手を頭の後ろに回し、イッコーが星の瞬く夜空を見上げる。どうやら夏のフェスに千夜さんが出演したことに未だに先を越された悔しさがあるらしい。
半月前、ラバーズのマスターから僕達二人に、毎年恒例のインディーズバンドだけを集めて行われるクリスマスライヴにシークレットとして出てみないかと交渉された。
毎回そこそこのお客を集める僕達だけど、会場をスシ詰め満杯にするほどの人気なんて無いし、全国区で活躍しているバンドと比べると何枚も実力も落ちる。でもマスターが僕達を以前から高く評価しているので、シークレットで出してみてはどうかと言う話が出て来たらしい。でもこれはマスターの独断で、スタッフには反対されている。
どうやらここで、僕達の実力と潜在能力を見極めようとしているみたい。
勿論僕達にとっても願ってもないチャンスなのは間違い無い。メインのバンドに比べ持ち時間は半分だけど、『days』を広くみんなに知って貰うには十分過ぎると言えた。
でも僕達の状況はこんな調子。夏頃は呑気に構えていたはずなのに、だんだんと余裕が無くなって来ている。何かをきっかけに、光を掴めそうな気はするんだけど……。
「今週末の練習を見てからだね。じゃないと結論は出せないよ」
「だなー」
とりあえずこの結論は保留で、僕達は冷める前にラーメンを食べることにした。焦ってチャンスをフイにはしたくない。
量は全然違うのに、食べ終わるのはほぼ同時。お腹が膨れてほんわかとなっている所で、食後の話にそのまま突入した。
「へーっ、そんなことがあったんか」
喋るつもりは無かったけれど、今月頭の黄昏との会話の一部始終をお酒の勢いで話すのをイッコーは真顔で聞いてくれた。ちなみに柊さんのことは既に話してある。
「つーかホント生真面目過ぎるよな、おめーら」
「そう?」
自分だとあまりよく分からない所はあるけれど、もうちょっと楽に生きたいとは思う。
「千夜もそーだけどよー、こう、自分の精神的な甘さを音楽でズバッと切り捨てようとしてるところがあるん。ま、だからこそおれも信用してバンドやれるんだけどなー」
イッコーは感慨深げにそう言い、爪楊枝で歯に詰まった物を取ろうとする。
僕達は素直に音楽に向かうことが生きることにリンクしているから、絶対に嘘をつけない。趣味でバンドをやっている人間もごまんといるだろう。でも僕達は常に切羽詰ってしなければならないので、優越感よりも羨ましさの方が先に出る。
そんな僕等にイッコーが付き合っているのも、本気で音楽をやっている人間と共に行動したい気持ちがあったからだと思う。趣味だけで終わらせたくない、大舞台でステージに立って演奏するのをずっと夢見ているんだ。
「でもイッコーも、何もただ有名になりたいとかお金儲けしたいとか、そう言う理由でやってる訳じゃないんでしょ?」
今まで訊いたことのない質問が自分の口を突いて出るのに驚く。完全にお酒の力だけど、イッコーも嫌な気はしていないみたいなので深い話をするのもいい。
「うーん、そーだなー……」
腕を組んでしばらく考え込むのを、僕は期待満々の目で見ながら答えを待った。
「何でだろ?」
思い切り肩透かしを食らい、丸太椅子から横にずり落ちる。酔っていると何をするにも大袈裟になる。そばのイッコーに手を貸して貰い、座り直した。
「いやな、そんなこと考えてやってねーからなーおれ実際」
そう言い声高らかに笑う姿がまるで偉人のように見えてしまうのは僕だけだろうか。
「んー、だから、『好き』だからやってんだわ。そんだけじゃねーかなー」
頭の中から他の答えを捜してみても、どうやら見つからないみたい。
「まー、好きだから手ぇ抜きたくないってのもあるし、本気になってんだよな。たそやおめーみたいに大そうな理由を掲げてやってるわけじゃねーけど、それはそん人だし。理由に上も下もないもんなー。だから……そーだな、音楽が好きって気持ちだけは誰にも負けねーくれー持ってんだわ。つーか宇宙一?」
自分を親指で指し、また大声で笑う。その度に周りから視線が集まるのが、恥ずかしい所か面白い。いつも歯磨きのCMに出てくる人くらいの白い歯を見せ笑うのが、酔っているせいでリミッターが外れて馬鹿笑いになっている、イッコーも僕も。
そもそも自分で宇宙一と言う人はまずいません。
「こう……昔から競争心だけはムチャクチャあるんだよなー。学校の体育会のリレーとか、ずっとアンカーだったし。おれ、ガタイいーからさ、昔から運動はできたんでいろいろやってたよなー。まーでもやっぱ、音楽には、ロックにはどんなものも敵わねーっつーかさ。だから部活やらずにギターばっか弾いてたし。聴いてるだけじゃだめだったんだわ」
まさにイッコーな話だと思う。多分何かスポーツを続けてやっていればその方面でも大成していたに違いない。でもロックの魅力にすっかり取り憑かれたんだ。
その一途な心が今のイッコーを創り上げたんだと思う。
「あー、でもやっぱこいつにゃ勝てねー無理だーって思う時はもちろんあるぜ」
「そうなの?」
「……おめー、おれのこと過大評価し過ぎ」
多分今の僕は瞳をキラキラ輝かせているんだろう。変な目で見られてしまった。
「たそとかなー。おれがヴォーカルやりたくねーのも、やっぱあいつにゃぜってー勝てねーと思ってんのもあるし」
「へぇーっ」
唄いたくない理由が他にもあったのと、イッコーが素直に負けを認めているのがとても意外に思えた。どうも僕は劣等感が強いせいか、どんな凄い人を見てもその人には何も悩みなんてないんだろうなって思っても、どうやら僕と同じ人間らしい。
「まーでも、どーにかしてほしーけどなあの性格。サボりクセあんだろ、あいつ」
「うん。黄昏の保護者として言うけれど全くもってそう」
いつ自分でもなったのか分からないけれど、良しとする。
「それって日常生活だけだったけど、今は歌にも飛び火してっしなー」
「え?」
イッコーの呟きに、僕は初めて気付かされた。
「ん?そーじゃねーの?おれはそーだと思ったけど?」
目を丸くしている僕に訊き返して来る。そう言う考えは、頭の中に全く無かった。
確かに最近の黄昏は、唄う時に以前より集中力に欠けている気がする。でもそれはただ風邪を引いた時に思ったことをまだ引きずっているだけと思っていて、僕は時間が経てば元に戻るものだとばかり考えていた。
でもどうして、そんなに楽観的に構えていられたんだろう?
胸の内で急速に不安が広がる。でもそれは以前のものとは違った。
――黄昏が、本当に歌を必要としなくなったとしたら?
僕が必要無いと言われるのは悲しいけれど、黄昏が唄うことを止めてしまうよりは遥かにいい。だって、歌を唄うことは黄昏の生命線なんだから。
でも、唄わなくてもそれが暗闇に呑み込まれることには素直に結び付かなかった。
「もしかして、俺がずっと見てる暗闇なんて最初からなかったのかもしれない」
黄昏は僕にそう言った。
「俺が何もしなくても、勝手に時は過ぎてくんだ。生きようと思わなくったって飯食って寝てれば生きてけるし、唄わなくたって多分俺は死なない」
もしその通りだとしたら、黄昏は昔みたいにまた閉じ篭ってしまう。
生きる為に唄うこと無く、ただ時が過ぎるのをベッドの上でひたすらに待つ。
いつか訪れるであろう死を望みながら。
「それは……いけない」
僕は知っているんだ。
それが、どんなに苦痛な日々だったのかを。
黄昏を、僕と同じ目に遭わせたくない。目の前に広がる天井を延々と眺め続けていても、何も得られない。夢も観なくなるくらい惰眠を貪り、自問自答に飽きるほど考え続け、ありもしない未来と絶望を期待しながら毛布に包まる。
自分の中で、一番憎むべき、忌々しい日々。
僕はそこで自分自身のために物を創り続けることで、何とか抜け出せた。
でもそれは、それまで何一つ武器を持っていなかった僕が初めて力を得たから。
「駄目だよ」
しかし黄昏は僕とは逆で、自分の持っている絶対唯一の武器を捨てようとしているのかも知れない。そしたらもう、戻って来れなくなる。
そんなの嫌だ。
僕は黄昏を助け出すことで、もぬけの殻になった自分自身を甦らせようとした。
伸ばした手を掴んでくれたから、僕はここまで来られたのに。必要が無くなったら、手を放してさようならだなんて勝手過ぎる。
黄昏は僕の気持ちを裏切るつもり?
「おーい、大丈夫かーっ?」
目の前でイッコーに手を振られ、ようやく我に返った。
「あ、ごめん……」
悪い考えが頭を巡ってしまい、すっかり酔いが抜けてしまった。このままだとまた思い詰めてしまうから、帰る途中でお酒を足し余計な思考回路を止めよう。
「ここにいると寒くなってきちゃった。そろそろ移動しない?」
「そーだな。おっちゃーん!!ごちそーさーん!!」
僕の呼びかけに賛同しイッコーも席を立ち、ガラス戸の向こうの店内に大声をかける。続いて僕もごちそうさまを言い、丼をその場に置いたまま荷物を抱え夜の街へ出た。
今年は雪が降るのかな?
星座の輝く夜空を見上げながら、僕は白い息を一つ、吐いた。