→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第2巻

   044.ANGRY FIST(怒りの鉄拳)

 狭いスタジオの中に、千夜さんのドラムが反響していた。
 僕は扉のそばに置いてあった丸椅子に座り、ドラムの音に耳を傾ける。千夜さんはこちらのことなんてお構い無しで、集中して曲を叩き続けていた。
 何の曲を演奏しているのかは知らない。でも他にリズムを刻む物は何も無しに正確無比なドラムを叩く様は見ていて圧倒される。乾いたスネアの音が肌を切り裂き、時折激しく鳴らされるシンバルの音が心に亀裂を走らせる、そんな錯覚が僕を襲う。
 スタジオの内装も一面薄暗いねずみ色ベースで、とても質素。まさに練習するだけの場所と言った感じで、叔父さんのスタジオとは雰囲気が全然違っている。
 千夜さんのドラムを聞き惚れながら、僕は曲が終わるのを待ち続けた。
「仕事のジャマになるだけだから、明日休んでいいよ」
 叔父さんにそう言われたのはライヴ明けで仕事に出た昨日。
 イッコーに言われたことが気になり、ここしばらく根詰めて曲創りに取り組んでいたせいで、日々の疲れで集中力が欠けてしまい単純なミスを連発してしまった。
 カルボナーラを階段で躓き台無しにしたぐらいならともかく、女性アーティストのレコーディングの際にギターとベースの配線を間違えてしまいアンプを一台オシャカにしかけて危なかった。あれで壊れてしまっていたら僕は二月以上タダ働きしないといけない。
 それもあって見るに見かねた叔父さんが、終業時間の2時間も前に僕を早退させた。
「おまえって昔から疲れててもがむしゃらに動くところがあったからな、ウチのせがれとくたびれるまで遊んだりとか。顔だけじゃなく兄貴とそっくりだもんな、その辺も」
 笑って叔父さんは言ったけれど、素直にその行為に甘えていいものなのかどうか迷った。
 その点は自分でも自覚している。学校に通っていた時だってあの精神的に煮詰まった頃以外は一度もさぼらずに登校していたし、少しくらいの風邪なら構わずに動き回っている。それで悪化させて休む、と言うのがいつものパターンではあるものの。
 本当に気を失い倒れる時以外は、何をやっても大丈夫と思っている節が僕にはある。そのせいで多少辛くたって動くけれど、今回は心労も重なったのかかなり駄目らしかった。
 結局お言葉に甘えさせて貰い、休みを取った。叔父さんの好意が身に染みる。
 素直に家で寝ていても良かった。でも心労が原因ならその悩みを取り除くのが一番快方に繋がると思い、千夜さんの元を訪れた。
 シンバルの余韻を残し千夜さんの演奏が終わる。納得いかなかったのか、つまらなさそうな顔で額に汗で貼り付いた前髪を振り払った。
「今の曲は何?」
「後でこれから合わせる曲。貴様には関係ない」
 尋ねるといつものように突っ撥ねる千夜さん。嫌われていると解っていながらあえて話題を作ろうとする自分の努力に泣けてくる。
「ギターは?持って来なかった?」
 そばのスタンドにかけてある白いタオルで顔を拭きながら、今度は千夜さんの方から尋ねて来た。少し嬉しい。
「うん……お医者さんに安静にしとけって言われたから」
「――そう。悪い事聞いた」
 冗談のつもりで言うと目を丸くされ、低めのトーンで謝られた。どうやらギターの弾き過ぎで腕を痛めていると思ってしまったらしい。僕は誤魔化すように左手の腱を押さえ、乾いた笑いを浮かべてみせた。嘘だと知れたら何を言われるか分かったものじゃない。
 水海から東に伸びる地下鉄で2駅程離れた場所の、別の地上を走る路線の高架下にある地下スタジオ。ここで千夜さんが夕方から他のバンドと練習するらしく、その前に個人練習で2時間入ると昨日電話したら教えてくれたので、僕一人手ぶらでやって来た。隣に他の二人がいると、またややこしくなるから。
「テスト終わったの?」
 本題に入る前に何気な話題をしようとすると、また目を丸くされた。
「昨日終わった。今日からテスト休み」
 一息つき、千夜さんは近くの椅子に置いたペットボトルに口をつける。よく見るとたくさん汗をかいていて、僕が入って来る前にもずっと叩き続けていたみたい。
 つい忘れてしまいがちになるけれど、こう見えても千夜さんは高校2年生。3つ学年が違うはずなのに、対等以下に見られている。僕に威厳が無いと言えばそれまでだけど、千夜さんにも高校生とは思えないほどの凄みがある。
 小学校の時にガキ大将だったせいもあるのか、結構僕は年功序列を意識している。一つでも学年が上の人には必ず敬語を使うようにしているし、年下の人間に呼び捨てにされると気に障る。でも学校を卒業してからは年下の人に対してはあまり気にしなくなった。
 子供の頃から黄昏と一緒に遊んでいたせいもあってか、自分より年齢の低い人間と同じ目線で付き合うのが楽しい。敬語を使われない方が気持ち的には楽。特に今はイッコーや千夜さんと話す時は年齢のことなんて全く考えない。ただ千夜さんは女性なので、自然に柔らかい言葉を選んで話してしまう。
「ごめんね、テスト期間中だったのにライヴ入れちゃって」
「学校の授業はきちんと受けているから心配ない。あんなもの、普段から復習していればどうと言う事はない」
 簡単に返され、つい自分の学校時代を思い出してしまい苦笑いが出た。その言葉が嘘か本当かどうかは置いておいて、僕自身は一週間前から自分の部屋に缶詰で夜遅くまでテスト勉強していたから。一夜漬けじゃない分まだマシだったかも。
「でも千夜さんってたくさん叩いてるし、そんな時間無いんじゃない?」
 ふと疑問に思い尋ねてみると、細い目を向けられた。
「そうでもない。予習復習くらいできる時間はある」
 一体千夜さんの日常のスケジュールがどうなっているのか知りたい。眠そうにあくびをしている所なんて一度も見たことも無いし。
「真面目なんだね……僕、予習なんて全然したことないや」
「貴様の事だ、どうせ遊び呆けていたんだろう」
 笑って言ったら痛い言葉を浴びせられた。図星だし、暇があればゲームや本で時間を潰していたから。今はその時間がほとんど作曲やギターの練習に回っている。
 おそらく千夜さんは一分一秒も無駄の無い生活を続けているに違いない。だからライヴや練習が終わるとすぐに帰るんだと思う。でないと予習復習なんてできないだろう。
「けど――そんなに勉強して、大学にでも行くつもり?」
 自分の言葉に、ちょっと気が滅入ってしまった。僕は結局ドロップアウト組だから。
 受験勉強は完全に辞めてしまい、もう今は大学へ行くことに何の未練も無い。辛いことはたくさんあるけれど今はとても充実しているし、音楽のこと以外は考えられなくなっているから。両親には悪いけれど、もうおそらく二度と大学を目指そうとは思わない。
 それならいっそのこと叔父さんのスタジオに就職してしまわないかと言う話も、この前久し振りの家族会議で出た。でもそうすると気持ちにゆとりが生まれてしまいバンドへの情熱が薄れる気がしたから、賃金が少なくてもバイトのままで行くことに決めた。
 ここまでやればもうプロになるしかないと思う。ただ前途は果てしなく多難。
「大学には――行くつもり」
 また気分を害し怒ると思ったら、僕の目を見て千夜さんは真顔ではっきりと答えた。
「え、でも千夜さん、これだけドラム叩けるのに――」
「ドラムは趣味。プロになるつもりもないし、学業をおそろかにするつもりもない」
 僕の言葉を遮り、淡々と言う。あまりに意外で、僕はあんぐりと口を開けてしまった。
 普通に考えたらこれだけ叩けたら今でも十分プロになれる。イッコーは謙遜していたけれど、3人共他のバンドと聴き比べても劣っているなんて僕は全然思わない。千夜さんもヘルプでレコーディングに入ることもあるし、インディーズと言ってもお金は発生しているだろうから、今の段階でもプロと大差無い。
 何より、千夜さんほどの才能を持った人間が音楽の道に進まないのは多大な損失だと思う。
「イッコーだって大学行かないじゃない」
「あんな男と一緒にしないで」
 引き合いに出したら見事に斬られてしまった。隣にいなくて安心する。
 来年3月でイッコーは工業高校を卒業してしまう。でも勉強なんて何一つやっていないらしいし音楽の道に進むのは両親も認めていて、何の問題も無いそうな。卒業したら家の手伝いが多くなると愚痴を漏らしていたけれど、親孝行と思えばと慰めてあげた。
 元々イッコーのおじさんは音楽を諦め店を始めた人だから、息子がプロを目指すのは大歓迎らしい。叶わなかった夢を継いでくれると信じているんだろう。おかげさまでライヴの打ち上げには、閉店後の店を使わせてくれたりと僕達をサポートしてくれている。
 おそらくイッコーはその夢を叶えるだろう。その時に僕が隣にいるかは……どうかな。
「じゃあ、大学に行って何するの?」
 また余計なことを訊いてしまったと、言ってから激しく後悔する。けれど千夜さんも諦めているのか、肩で息をつくとかったるそうに口を開いた。
「音楽」
「音楽?」
 オウム返しに訊き返すと、千夜さんは冷たい目を向けて来る。
「音大に行く。専攻はまだ考えているけれど」
「…………。」
 予想外の返答に、思考回路が数秒停止してしまった。
 その隙を見計らい千夜さんが次の曲を演奏し始める。まだ訊きたいことはあったけれど、ドラムの音が寄せ付けないのですんなりと諦めた。
 音大を目指しているなんて直に聴いても信じられない。そう言えば僕は千夜さんの家庭環境も知らなければ家の場所も、どこの高校に通っているのかも解らない。知っているのは電車の路線が同じ、と言うことだけ。
 言うのが邪魔臭いだけなのか、それとも言いたくないのか。バンドが上手く回っていたから、今まであえて訊かなかった。
 千夜さんにはたくさん秘密がある中で、一つだけおそらく僕の推測が当っている。でもそれを訊くと反感を買うのは目に見えていたから、あえて心の中に閉じ込めておく。
 おせっかいを焼き過ぎているんだと思う、僕は。だからわざわざこうして休みの日にも足を運んで来たんだろう。この曲が終われば用件を話してみる。
 しかし、千夜さんが演奏している時の集中力は凄い。上手く行っても駄目な時でも『必ずいい音を出す』と言う執着心が十二分に見て取れる。でも駄目な場合の後の機嫌は最悪で、何か言うと褒め言葉であろうと容赦無く張り倒される。
 何もしない方が美人、と言う言葉が脳裏に浮かんだ。
 周りにいるのは僕一人だけ。狭い部屋に男女が二人、なんて言うと甘美に聞こえても、そんな言葉も消えてしまうほど、音と熱気と執念の塊がスタジオを覆い尽くしている。
 でも僕にとってはドラムを叩く姿を近くで眺めていられるだけで、疲れた体を引きずって来た甲斐はあったと言えるくらい満足していた。演奏の技術もさることながら、ドラムに立ち向かっている時の千夜さんの姿は見惚れてしまうほど心を奮わせるから。
 顔は常に冷静を努めていても、心の中で冷たい炎が激しく燃え盛っているように感じる。不謹慎だけど、ベッドの上でも似た感じなのかと想像すると胸が熱くなってたまらない。
 妄想の中で僕は千夜さんを何回犯しただろうか?
 勿論現実に押し倒す勇気も無いし、そんなことをすれば殺されるのは日を見るより明らか。なら告白か、と言っても別に恋に至るほどの感情は胸の中に無い。
 現実にいそうでいなさそうなキャラクター性が僕を惹き付けているのかも知れない。
 だから僕の頭の中にいる千夜さんは、グラビアアイドルと大差無い。手の届かない場所から眺めているような感覚。しかしそれがバンドで普段接している、今目の前にいる千夜さんと重なるかと言えばそうはならない。それとこれとは違った意識がある。
 結局僕は、千夜さんの外っ面に惚れているだけなんだと思う。
 でも向こうが心を開いてくれない限り、僕の視点は変わらないだろう。
 ドラムの音がこんなにも感情を解き放っているのに、普段は鉄のカーテンで心を閉ざしている。それが僕には、ただの恥ずかしがり屋だからとは思えなかった。きっと何か別の理由があるに違いないと言うことは、1年以上同じバンドにいると薄々気付いていた。
 黄昏は簡単に心を開いてくれたけれど、こちらは時間がかかりそう。こんなに世話を焼きたがるのは仲間だからと言うより、単に僕の性格から来ているだけだろう。
 千夜さんがドラムを叩く時、よく目を閉じる。自分の中にあるものを手に握ったスティックの先端に集中させているみたいに見える。でも怒りや悲しみや苦悩と言った負の感情がその土台となっているように聴こえるのは僕だけだろうか?
 考えごとをしていると、あっと言う間に曲が終わった。間を狙い話し掛けようとすると、僕の考えを見透かしていたのか千夜さんはすぐさま次の曲を叩き始めた。悲しい。
「――ただ私のドラムを叩く姿を見に来ただけ?」
 3曲目が終わった後に、じっと椅子に座って耳を傾けていた僕を見て煩わしそうに訊いて来た。このまま練習時間が終わるまで無視され続けるのかと思っていたので嬉しくなる。
「そうじゃなくて――最近千夜さんがあの二人とかなり仲が悪くなってるから、心配して」
 いちいち千夜さんの顔色を窺いながら話す自分が情けなくなる。
 一昨日のライヴも散々な出来で、いつまでも上昇気流に乗れないことに嫌になるくらい。ここの所練習で集まる度に3人が喧嘩するので、ちっとも身にならない日々ばかり送っている。
 クリスマスライヴを残し今年の分は終わったけれど、後半から徐々にバンドの人間関係は下降線を辿る一方で、各個の技術は上がっているのにバンドそのものは停滞している。普段なら仲の良い黄昏とイッコーの間もギクシャクして来て、みんなも僕に八つ当たりする回数が増えた。このままだと空中分解するのも時間の問題かも知れない。
 喧嘩の起こるきっかけも大体は千夜さんだから、こうして一人で説得しに来た。少し控えてくれるだけでも、バンドはまた転がり出すと思ったから。
「どうして一々貴様に言われなきゃならない?」
 しかし僕の気持ちもよそに、千夜さんは馬鹿な人間を見る目つきで僕を睨んだ。
「他人同士がどう思っていようが、貴様には関係無いだろう?わざわざ横から口を出して来る必要なんて無い」
「そんなこと言ったって……同じバンドの仲間なんだし」
 引き下がりたくなる気持ちを堪え言い返すと、鼻で嘲笑ってみせた。
「私は別に仲間意識なんて持ってドラムを叩いてなんていない」
 その言葉が僕の心に重く圧し掛かる。
「え、でも……」
 一緒に音を出したいから正式加入したんじゃないの?
 そう口にしようとする前に、千夜さんが僕に向き直って言った。
「何か勘違いしているようなので、きちんと言っておく」
 自分の言葉を飲み込み、僕は次の台詞に対して身構える。
「ただ与えられた曲を叩くだけじゃない、より深く追究した所でドラムを叩きたいから私は正式に加入しようと思った。馴れ合いでやるつもりなんて一つも無い。いい曲をより良く演奏する。それ以外何の興味も無い」
 その言葉に、とても物悲しくなった。上を目指すその姿勢はいいことだと思うけれど、周りに誰もいない孤独の道を歩くなんて寂し過ぎると思わない?
「でも――でも、だからって人間関係が悪くなり過ぎてせっかくいい曲を叩けるバンドが駄目なライヴしか出来なくなったら、どうしようもないでしょ?」
 相手を逆撫でしないように感情を抑え反論すると、心の底から溜め息をつかれた。
「貴様は自分が作ってる曲が本当にいいと思っているのか?」
「あ、いや――それは、他人から見たら出来がまだまだ悪いかもしれないけど……」
 言葉のあやを突っ込まれ、しどろもどろに答えてしまう。
「これからいい曲が出来るかも知れないじゃない。曲はともかく、黄昏やイッコーみたいな力のある人と一緒に演る機会までなくなってしまうんだよ?解散しちゃったら」
 解散。
 自分でこの単語を口にし、改めてその重さを痛感する。
 『days』は音楽を始めて最初に組んだバンドだけど、自分でも最高だと思っている。これ以上のメンバーでバンドを組むなんてもうこれからの人生で二度と無いとさえ思える。
 だからこそみんなを繋ぎ止めておきたい。想像のつかないほど素晴らしいものが、これから先の未来に僕達の手で生まれてくるかも知れないんだから。
「僕達3人にも甘い所はたくさんあるよ。特に僕なんてまだ初めて1年半位なんだから。でもね、悪い点を指摘してくれるのは嬉しいけれど、何度も言われていたらこっちだって気を悪くすることぐらい分かるでしょ?イッコーや黄昏が怒るのも無理ないと思うんだ」
 千夜さんは僕の話を黙って聞いていた。ここぞとばかりに畳み掛ける。
「みんなだっていい演奏をしたい、そう思ってるよ。でも力が足りなかったり些細なミスがあったり――全てが完璧に行くことなんてそうそうない。常に100点満点の力が出せるなんてサイボーグじゃあるまいし、到底無理だよ。ただ、できるだけそうしようと思って何度も何度もスタジオに篭って練習してるんじゃない。それに、普段より良かった所だってどこかに毎回一つはあるはずなんだから、そこもちゃんと見てくれないと言われる方も疑心暗鬼になってきちゃう。千夜さんの言葉は鞭だけだから、余計に嫌なんじゃない?」
 嫌われているのは解っているから、言いたいことを言ったって構わないだろう。僕は今までたまっていた自分の鬱憤を吐き出すように言葉を並べ立てた。
「馴れ合いでやってる訳じゃない、それは僕も解るよ。ならお互いに相手を尊敬する気持ちがないと、一緒にいるなんて無理なんじゃないかな。喧嘩ばかりして嫌な気持ちが胸に溜まっちゃうと、敬う気持ちさえ忘れてしまうと思う。そうしたらもう離れるしか方法は残らないし。常に相手のことを考えないと、指摘しても余計に傷つけたり怒らせたりするものだもの。千夜さんだって自分の駄目な所ばかり何度も言われると腹が立つでしょ?別にやめろって言ってるんじゃないよ、もっと人の気持ちを考えて欲しいだけ、千夜さんに。そうしたら自分も嫌な気持ちにならずに済むし、全ていい方向に向かうと……」
「解った解った、もう止めろ」
 一度に言われさすがに疲れたのか、うざったそうに千夜さんが頭を押さえ手を払った。でもこれだけは言っておかないといけない。
「千夜さんはもっと他人にやさしく出来る人だと思うよ」
 その言葉がきちんと届いたのかどうか。だるそうに千夜さんは腰を上げ、ペットボトルを片手にこちらに歩いて来て、僕の近くにある背もたれのついた椅子に座る。
 千夜さんの真意が解らずに内心冷や汗で待っていると、やがて口を開いた。
「貴様」
「な、なに?」
 真顔で睨まれて、つい声が上ずってしまう。拳を握り締めて、僕は次の言葉を待った。
「私をいちいち『さん』付けで人を呼ぶのは止めろ」
「…………」
 あまりに予想外で拍子抜けしてしまった。てっきり怒られるとばかり思っていたから。
「そんなこと言われても……」
 千夜さんは女の人だし、少しも年下とは思えないから自然に呼んでしまう。気が乗らないで優柔不断な顔をしていると、激しい視線を僕に送って来た。
「わ、解ったよ。出来るだけ努力してみる、千夜さん」
 言った先からこれまでと同じ呼び方をしてしまうと、案の定思い切り呆れられた。
「どうせ、貴様も私を女性として見ているに決まっている。その考えが死ぬ程嫌」
 そう吐き捨てペットボトルを口につける。確かにライヴハウスの世界じゃ女性メンバーは珍しいから、どうしても見る目が変わってしまう。でも本人が嫌だと言っているんだから、僕もこれからは注意しよう。もうすっかり染み付いてしまっているから大変。
「あ、それなら、僕も青空って呼んでよ。いつもいつも『貴様』呼ばわりだと僕も悲しいし、同じバンドのメンバーなんだから」
「貴様は貴様でいい」
 僕が提案したら、あっさりと跳ね除けられた。せっかく親密になれると思ったのに。
「――でも、貴様の言う事はもっともだと思う」
「え?」
 訊き返す僕をよそに手の中のペットボトルに視線を落とし、千夜さんが呟いた。
「私だって、何も好きで他人を嫌っている訳じゃない――」
 その横顔に、僕は声一つかけられなかった。
 あまりに寂しい顔。
 仕方無く、仕方無くやっているんだ。そう彼女の横顔が語っているように思えた。
 少しの間、部屋に沈黙が走る。自分が変なことを言ってしまったのに気付いたのか、千夜さんは慌てて咳を一つつき、僕を睨んだ。こっちのせい?
「ともかく、これからはなるべく気をつけるようにする」
 強い口調でそれだけ言うと、照れ隠しなのか僕に背中を向けた。何だか可愛い。
 とりあえず問題が一つ解決したようで、僕は胸を撫で下ろした。千夜さんも機嫌を悪くしていないみたいなので、調子に乗ってもう一つの問題を相談してみる。
 イッコーに言われたこと。今でやって来た曲を本当に全部練り直すのかどうか。もしするのなら千夜さんにも協力して貰う方がいいと思ったから。先月黄昏に訊いてみた時は僕の判断に任せると言ってくれたので、千夜さんにも助力を頼みたいと思った。
 けれど説明し終えた後、うって変わりあからさまにしかめた顔で僕を見た。
「それは私の範疇じゃない」
 もう曲創りを手伝って貰っているから、これも素直にOKしてくれるとばかり思っていたので面食らってしまう。
「どうして?同じバンドの話じゃない。みんなで協力して曲を練り直すのだって、いい考えだと思うけど、何が不満なの?」
 焦る心を押さえ尋ねてみると、千夜さんは大きく溜め息を吐き背もたれに体を預け、蔑むような目を僕に向けた。
「いいな貴様は。そうやって人前で弱音ばかり吐いていられればどれだけ楽か」
「えっ?」
 そんなつもりはないのに、何を言うんだろう千夜さんは?これが最良の策だと思ったから相談しているのに、そんな冷たい目で見られると心苦しい。
「弱音を曝け出す事で何でも解決するとでも思っているだろう、貴様」
「そ……そんなことないけど」
 どもりながら反論するものの、そうした気持ちは心のどこかにあるのかも知れない。自分の苦しみを少しでも減らしたいから、他人を頼る。
 でもそれって、そんなに悪いことかな?
「正直、反吐が出る」
 思いがけない言葉を千夜さんが吐き捨てたので、僕の中の何かがはじけた。
「ちょっと、言い過ぎだと思わない?」
 勢い余って席を立つと、驚いた様子で千夜さんが僕を見た。椅子に座ったまま固まっているその前まで行き、上から怒鳴るように言い放つ。
「バンドのことを想って動くのがどこが悪いの?千夜――さんだっていい曲を演奏したいんでしょ?なら他人に任せてばかりいないで自分で動くことも考えようよ!正式に加入したのなら、今までみたいに自分の役割だけ果たしていたって逃げにしか聞こえないよ」
「私がいつ逃げた!」
 僕の言葉に反応して千夜さんも席を立ち、怒鳴り返して来た。怯んでしまうけれど、ここで下がると自分の非を認めてしまうことになるので懸命に言葉を選んで言い返す。
「自分の責任はきちんと自分で取ろうってことだよ。もうただドラムパートを叩くだけのメンバーじゃないんだから、千夜さんは。ケチをつけてばかりいるなら演奏だけじゃなくて曲の方でも働いてくれないと。僕からだけじゃなくそっちからも自発的に動いてくれないと、いい物になるはずの物も駄目になっちゃうよ」
「貴様が勝手に押し付けて来たんだろう!?自分の弱さのせいで曲を創れないくせに、他人を巻き込むな!!私は私の考えがある!」
「じゃあその考えを教えてよ!それを言わないまま反論することが逃げになるんだよ。僕達はこのバンドに命を賭けてやってるんだから、ちゃんと訊いておきたいしね」
「だから押し付けるなと言っている!!解らないの!?」
「どうせいつでも抜けられるとでも思ってるんでしょ!?自分の思い通りに上手く行かなかったら、辞めてまたヘルプだけ続ければいいんだから。楽でいいよね」
 僕が吐き捨てると、千夜さんは押し黙った。そして、
 バキッ!!
 一呼吸の間を置き、左の鉄拳が僕の顔面を捉えた。不意に拳が飛んで来たので構える余裕も無く、そのまま僕の体は後に倒れ込む。背中をスタジオの床にそのまま打ち付け、蛙を踏み潰したような声と共に肺の空気が全部抜け出た。
「帰れ!!二度と顔を見せるな!!」
 痛みにうずくまる僕を見下ろし千夜さんが怒鳴りつけ、ドラムの元へ戻って行く。その後ろ姿に声をかけようとしたら、背中が痛く声も上げられなかった。
 何とか立ち上がり顔を拭うと、幸い鼻血は出ていない。千夜さんの方を振り向いたら、僕を無視して激しいアップテンポのナンバーを演奏し始めた。シンバルの音がやかましい。
 これ以上今日はここにいても無駄なので、僕も素直に引き下がることにした。とは言えそう言われても、簡単に諦めるなんて出来ない。
「また今度、電話するから」
 スタジオを出る前に千夜さんに言うけれど、ドラムの音で完全に掻き消されてしまう。頭を下げてから重い扉を閉めても、昂ぶった気持ちは収まらなかった。
 帰路に着く途中ずっと今の出来事を思い返してみても、どちらが悪いのかはっきりと解らなかった。ただ、止まらない鼻の痛みがやけに煩わしく思えた。


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