→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第2巻

   047.掠れてしまった手描きの地図

「なあ、ホントに大丈夫なのか?」
「心配性だね、黄昏も。千夜さんも怒らないって言ってるんだから」
「それが心配なんだよ。あいつがそんな事守ると思うか?」
「信用するしかないでしょ?第一連続でさぼった黄昏が悪いんだもの」
「ったく……寒いのはホントに嫌いなんだ」
 ガーゼの貼った頬を膨らませ、黄昏は悪態をついた。顔のあちこちにバンドエイドや擦り傷やまだ赤くなった所が残っている。手にも包帯を巻いている指があり、痛々しい。
「ならそんな寒い夜に出歩かなければ良かったのに」
「しょうがないだろ、死ぬほど腹減ってたんだから」
 怒った調子で言い返すと、先に道を大股で歩いて行く。分厚い黒のコートの後姿を眺めながら、僕は参った顔で肩を竦めた。どうも黄昏はああ言えばこう言う。
 今日は久し振りに午前中からスタジオ入り。千夜さんの三学期の実力テストが終わった日を選んで予約していた。その方がテスト勉強のストレスを開放できると思ったから。
 暦も変わると外の景色も印象が変わる。先月とそれほど大きく気温も日照時間も変わる訳でもないのに、新年を迎えたから目の前が開けていると言う心変わりのせいか。でも三月にでもなればその気持ちもすっかり消え、いつもの景色に戻る。
 青空に何も遮る物が無いのでやけに太陽が眩しい。でも風が進行方向から吹きつけて来るので、ちっとも温かくはない。先に行った黄昏も寒くてたまらないのか足を止め、僕を先に行かせ盾にして後を歩くようにした。そこまで寒がりだと全身スーツでも着た方がいいんじゃないかな?縮こまって寒さに耐える黄昏がとても面白おかしく見える。
 いろいろあったけれど、僕達のバンドは未だに続いている。
 クリスマスライヴは大盛況だった――らしい。
 僕はその日のことは断片的にしか覚えていない。風邪で体調を崩しているのに前日まで構わず練習に明け暮れていたから余計に悪くして、半分意識の無いままステージに立った。寝たら絶対起きられないと思ったので、徹夜でラバーズに向かい、ライヴ前にいつもなら絶対に買わない高価な栄養ドリンクを一本開けた。
 途中も自分のギターの音と盛り上がる客席だけが見えていて、実の所他の3人がどう立ち振る舞っていたのかは記憶に無い。無声映画みたいに目の前に広がる映像をただただ眺め、ひたすら音に耳を傾けていたような気もする。
 背水の陣で望んだおかげか、マスターによるとここ一番の出来だったらしく、参加していたバンドの中でもベストアクトだったらしい。そう言われても記憶が無いので困るよね。結局ライヴの後僕はダウンして、しばらく休憩室で休ませて貰った。
 クリスマスライヴの後にもラバーズで参加者の集まる打ち上げはあったけれど、そちらには出ずにバンド内だけで『龍風』で打ち上げをした。起きても調子は悪いままなのに、無理矢理イッコーに連れられ。嫌がる千夜さんも強制的に参加させられていたし。
 その場で何を話したのかは覚えていない。でも気付いたらいつの間にかバンドは続くことになったみたいで、後で安堵の息を漏らした。あれだけのステージが出来るのなら、続けていないと損、そう言うことだろう。記憶にないから他人事みたいになっている。
 兎にも角にも今年に入っても、僕達は今までと変わらない日々を過ごしていた。――スケジュール的には。
「ここだね。先に二人入ってるって」
 高架下の下へ降りる狭い階段の前で足を止める。入口の前には申し訳無さそうに小さな文字で練習スタジオの名前が描かれていた。『N.O(エヌ・オー)』。
 地下へ続く階段を見下ろすと、鼻の頭がむず痒くなりさすってしまう。ここは先月、千夜さんに顔面を殴られたスタジオ。
 知る人ぞ知ると言った感じの場所で、外見だけだと怪し過ぎて何の店かも判らない。叔父さんのスタジオとは全然印象も違い、本当に同じ系統の店なのかと思う。
「あ〜、俺、急用思い出した」
 そう言って逃げ出そうとする黄昏のコートをすかさず引っ掴む。
「何言ってるの。毎日家でごろごろしてる癖して」
「でも、ここ二回顔出してなかったんだからさすがに気が悪いだろ?」
「自業自得でしょ。立場悪いからって逃げるのは卑怯だよ」
「卑怯でも何だっていい。あいつらと顔を合わすのが嫌なんだ」
「はいはい。文句は後で聞くからね」
「ちょ、あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 必死に抵抗するその腕を取り、構わず階下へ連れ込んで行く。黄昏の切ない叫び声は真上を走る電車の音で掻き消された。
「こんにちはー」
 中に入ると、内装も質素で余計なものが何一つない縦長の部屋。その場で待っていると、左側の受付の奥から黒のエプロンを巻いた初老の男性が出て来た。
「あ、いらっしゃい。二名?今なら片方のスタジオ、一時間開いとるよ」
「え、っと……そうじゃなくて、千夜さんどちらに入ってますか?」
「ああ、あの子の連れかい。突き当たりの方でツンツン頭の男の子とリズム取っとるよ」
「そ、そうですか……」
 何故かセクハラ臭く聞こえてしまうのは僕がいやらしいだけなのか。
 この背の低い、頑固そうな鼻の丸い人はここのスタジオの店長さん。数少ないバイトの人と切り盛りしている生粋の職人と言った感じで、みんな『おやっさん』と呼んでいる。
 クリスマスライヴ前に個人で練習する時にここを使うようになり、不思議と何時に来てもおやっさんが必ず受付にいる。予約がある場合は早朝まで店を開けているらしい。いつ寝ているのか不思議でならない。
 どうやら今日も店長一人しか従業員がいないみたい。でも2つしか練習部屋もないので、ちょうどいいのかも知れない。
「これから昼食出前で取るんだけど、あんた達も何か頼むか?」
「い、いや、いいです。食べると眠くなっちゃうし……」 
「そっか」
 それだけ聞くと、店長は広げていたスポーツ新聞に目を落とした。どうも変わっている。
 前も僕一人で練習していたらわざわざ中に入って来てジュースを奢ってくれたし、何かと面倒見が良い。好きでこの店を経営しているのが見ているだけで伝わって来る。
 料金も安いし、これから何かとお世話になると思う。
 されるがままの黄昏を引っ張り、突き当たりの扉を開けると音の塊が聴こえて来た。
 黄昏の声の入ったテープに合わせイッコーと千夜さんがセッションしている。イッコーは入って来た僕達に気付き演奏を止めようとしたので、僕が目配せすると小さく頷き曲を最後まで演り切った。
「どう?調子は?」
「いまいちだなー。同じ歌にばっか合わせてると、変にクセついちまう」
 イッコーは僕の問いにそう答え、後ろにいる黄昏にねちっこい目線を送った。本人は何事も無いようにそれを受け流している。何だか僕達が入ってしまったせいで、場の空気が悪くなってしまった。
「で、サボりグセは抜けたん?」
「サボり癖って言うな」
「どっちにしろ一緒だわ、来なかったんだかんな」
「うるさいな。俺にだっていろいろあるんだ」
 間にいる僕を無視して二人が言い合いを始め出す。僕はもう怒る気力にもなれなくて、構わずに自分の立ち位置へ行き、ギターを用意した。
 年が明けてから、クリスマスライヴの余韻を引っ張るようにすぐさま僕達は練習を再開したものの、以前と大して状況が変わっていなかった。3人は事ある毎に怒鳴り合うし、悪かった部分は何も解消されていない。
 ただ僕の言うことはみんな少しは聴いてくれるようになったみたいで、止めに入るとそれ以上手出しせずに引っ込んでくれた。そうやって今年最初の練習は大事も起こらずに何とか無事乗り切ったら、次の練習にはまた黄昏が来なくなった。
 『バンドが上手く転がりますように』
 そう願いを託し初詣の際に絵馬を神社に奉ったのに、全く効果が無く神様に文句の一つも言いたくなる。一体あの日のライヴは何だったのか。
 全てがいい方向に上手く噛み合っただけの、単なる偶然だったのかも。
「とにかく、やる気があるのなら早くマイクの前に立て。時間が勿体無い」
「――わかった」
 冷めた顔で命令して来る千夜さんに一瞥くれると、渋々黄昏が上着を脱き定位置に立った。スタジオが禁煙じゃ無かったら、絶対に千夜さんは煙草を吸っていただろう。
 みんないろいろ言いたい気持ちを抑え、半月振りの練習に望む。次のライヴは二月の頭で、久し振りに間隔が開いている。なのでその間を利用し以前イッコーが言っていたように曲の練り直しを中心に今はやっていて、今の所なかなか上手く行かないのが現状。
 特に、ここ二回連続で黄昏が休んだのが痛い。
「どーもダメだなこりゃ。ちょっと別の構成試してみっか」
 3曲合わせてみても、案の定どうも上手く行かない。
 イッコーの提案に頷き、一度楽器を置くと全員部屋の真ん中に集まりミーティングを始める。今年に入ってからこうしてやり始めたけれど、黄昏だけは部屋の片隅でぽつんと眠そうな顔で椅子に座って待っている。久し振りなのもあり、ばつが悪いのか。
「おーい、たそも来て意見出せよ」
「めんどくさい」
 少し強い口調で呼びかけるイッコーを無視し、椅子を並べ横になる黄昏。度胸があるのか本当に面倒なのかはともかく、肝が据わっている。
「どうせ歌詞が短くなる訳じゃないんだろ?俺の範疇外ならおまえ達に任せる」
「んなこと言ったって曲の構成覚えてなきゃ話になんねーだろ」
「覚えるのは完成形だけでいい。出番が来たら呼んでくれ」
「おめーなー。もーちょっと」
 話を取り繕わない黄昏に怒り席を立つイッコーのTシャツの裾を、僕が引っ張る。
「いいから。それよりこっち」
「……わーったよ」
 腑に落ちない顔で、イッコーは床にあぐらをかき座り直した。
 僕がぶち切れみんなを怒鳴りつけた時以来、ようやくバンド内でリーダーシップを取れるようになって来た気がする。どうやら僕は怒ると手がつけられなくなるみたい。
 みんなが控え目になった所もあるかも知れないけれど、それ以上に僕自身が能動的になって来た。実力や才能が無いからって嘆いている自分を振り切り、音楽に立ち向かえるようになった。去年までの意識とは明らかに変わったのを感じる。
 バンドの状態は相変わらず最悪でも、泣き寝入りするつもりは毛頭無い。時間の経過で修復しないのなら、壊れるの覚悟で挑むまで。
 気力に今は満ち溢れていても、僕自身好調なのかと言うとそうでも無い。新曲は出来ないし、曲を練り直した所で方向性が自分の中でも見えないので迷うことだらけ。風邪で頭が回らなかったおかげか余計なことを考えずに上手く行ったクリスマスライブは、諦めずにこれまで続けて来た神様のプレゼントだと思うようにしている。
 本当に重要なのはこれから。今は僕も吹っ切れ、しっかりした気持ちを持てるようになっていても、いつまた現実に打ちのめされてしまうか分からない。一刻でも早く立ち直らないと解散だってまだまだ有り得る。
 相変わらず危機感を持っている僕と対称的に黄昏は気力を無くしたのか、また練習を休んでしまった。今度は連続で休んだので、今日は嫌がる黄昏を無理矢理連れて来た。これ以上休まれたらバンドも先に進まなくなる。
 黄昏の気持ちも解らなくも無い。年末のライヴでようやく長かったトンネルから抜け出せたと思ったのに、練習に戻ると今までと変わらないバンドがいたから。
 でも泣き言を聞いていられるほど僕も余裕が無い。ここは嫌々でも乗り切らないと、本当にバンドの未来が無くなってしまう。愚痴なら後でいくらでも聞くから、今は我慢して。
「これで一回試してみっか」
 とりあえずある程度の形がまとまった所で、それぞれ自分の場所に戻る。呼んでも黄昏が返事しなかったので近づいてみると本当に寝ていて、額を軽く叩くとようやく起きた。頭を掻きながら、眠そうな顔でマイクの前まで行く。
「緊張感の欠片も無いのか」
 見かねた千夜さんが吐き捨てるように言うと、黄昏がぐるりと首を回した。
「一回で決めればいいんだろ?そんなの楽勝だって」
 意気揚揚と言ってみせるけれど、果たして大丈夫なのかな?唄に関しては、一度言えば黄昏はほとんどすぐに覚える優れた記憶力を持っている。でもここ二回練習に来ていないし、前もってテープで渡した分とは大きく変えてみたから……。
 不安を覚えつつも、構成を変えた『バースデーケーキ』を演奏してみる。
「あの娘が微笑んだ/摘んだ苺をその唇に/そして口移しで僕にくれた/時計の針は回り続ける/君との時間が音を立てて――」
 前半は調子が良かった。何も変更して無かったから。でも二番に入ると――
「何が楽勝だ!!ふざけるのもいい加減にしろ!!」
 千夜さんの罵声が容赦無く黄昏に浴びせ掛けられる。
 Aメロのリフレインがなくなったのを忘れ、そのまま唄ってしまったせい。異変に気付いた千夜さんはすぐに叩くのを止め、立ち上がり右手のスティックを投げつけた。
 今のは明らかに黄昏が悪い。3人の視線が集中し、黄昏はへの字の口で黙り込んだ。
「仕方無いよ。もう一度頭からやろう」
 ここで黄昏を追及してやる気を削ぐのも問題だから、僕はお咎め無しでギターを構え直した。すると千夜さんがこっちに向けてもう片方のスティックを投げて来る。あまりに不意だったので、まともに頭に貰ってしまった。木製なのでかなり痛い。
「貴様が甘やかすからそんなことになる!!それくらい解らないのか!!」
「別にそんなつもりはないよ!文句をつける暇があるならやり直そうってこと」
 痛む側頭部をさすりながら僕が反論すると、千夜さんは言葉を詰まらせた。
「イッコー、すまないけどもう一回最初から始めてくれないか?今度は間違わないから」
「しゃーねーなー。わーったよ」
「……!!」
 のんびりと受け答えしている黄昏を見て千夜さんは頭に血を昇らせたまま、何も言わずに投げつけたスティック二本をその足で回収しドラムの前に戻った。前に僕が言ったことを守って我慢してくれているみたい。
 これ以上人間関係を悪化させるのはバンドの為にならないのを千夜さんも承知している。
 あの後一度も大爆発は無い分、練習以外のミーティングで煙草を吸う量が多くなった。特にここ二回は黄昏が練習に来なかったから、なおさら。
 何とか2テイク目は上手く行ったので、千夜さんも黄昏に怒ることはなかった。感触としては可も無く不可も無くと言った感じで、とりあえずこの曲は保留にして別の曲を次に合わせるためにその場で相談し合う。
 長時間スタジオを借りている訳でもないので、20曲以上ある持ち曲を各々練り直そうと思うと時間が掛かり過ぎてしまうからライヴで演奏する曲中心に話し合う。どうしても散漫にならざるを得ないけれど、仕方無い。とにかく今は変化するのが大切だと思う。
 でもまた、黄昏は自分から蚊帳の外に出て部屋の隅で一人休んでしまう。もう諦めて僕が曲の構成について話をしていたら、我慢出来なくなったのか千夜さんが席を立つと肩を怒らせ寝転ぶ黄昏の前まで歩いて行き、容赦無く背を預けている椅子の足を蹴飛ばした。
 黄昏の体が床に落ち、派手な音が上がる。
「たっ黄昏っ!?」
 突然の出来事に慌てて駆け寄ると、どこか打ち付けたのか声も無く悶えていた。
「やる気がないならさっさと帰って。気が散る」
 床に転がる黄昏を冷めた目で見下ろし淡々と告げると、何事も無かったように千夜さんはドラムの前へ戻って行った。それを見たイッコーが軽く口笛を吹く。
「……待てよ」
 ようやく声を出せるようになった黄昏が、苦しい顔のまま呼び止める。
「貴様、もういらないから出て行け。ここにいられると邪魔になるだけ。テープと合わせている方がよっぽどマシ」
 千夜さんは振り返らずにあしらい、ドラムの前に座ると早速叩き始めた。もう完全に呆れてしまったみたいで、相手にするのもうざったいんだろう。
「何言ってんだ、せっかく来てやったってのに!」
 激しいドラムの音に負けないくらいの声で黄昏が叫んでも、完全に無視されている。
「別にそんな頼んででも来てもらおうなんて思ってねーっての」
 黄昏の横暴振りにイッコーも我慢ならなくなったのか、喧嘩を売るみたいに言い返した。
「やる気がねーんだったら無理して来なくてもいーぜ。怪我してんだから家で寝とけ。ライヴの前には呼んでやっから」
「これくらいの怪我、どうってことない。うるさいガキをぶちのめしただけだ」
 反論して立ち上がると、包帯を巻いている右手を握り締めてみせる。黄昏の話だと一昨日の夜に買い出しに出掛けた時に、家のマンションの下でたむろして近所迷惑を顧みずバイクのエンジンを吹かしていた五人の若者がいたから、自分から喧嘩を吹っかけたみたい。
 多勢に無勢なのでかなり痛い目に遭い、ダメージを貰う覚悟で3人程返り討ちにしたら逃げて行ったらしい。そう言えば昔から黄昏は喧嘩の時に泣かされても、どんなに体格が違っても常に一撃必殺を狙うように立ち向かって行った。
 その気持ちでバンドもやってくれればいいのに。
「あのな、たそ」 
 首を鳴らしてから、イッコーは黄昏に改めて向き直った。
「この前うまくいったくれーでいい気になんなよ。どれだけおめーがすげー唄うたいだからって、やる気のねーやつとはおれもやりたくねーから。そこんとこわかってな。これからちゃんとやるんだったら構わねーけど」
「だからちゃんとやろうと今日来ただろ。何で怒るんだよ」
「ならそんなとこで寝転がってんなよ。別におれらはおめーのバックバンドじゃねーぞ」
「でも俺がいないと機能しないんだろ?だから青空も俺を連れて来たんじゃないのか!」
 言いたい放題言われた黄昏が怒鳴ると、千夜さんが演奏を止めゆっくりと腰を上げた。
「二人共、そいつを押さえて。自惚れたその根性ゼロになるまで叩き潰してやるから」
 顔は平静だけど、強烈な殺気を放っている。自分の態度を棚に上げ暴言を吐き続ける黄昏を心底許せなくなったんだろう。
 しかし言われるままにすると、本当に病院送りになりかねない。イッコーもそれが解っているのか、苦笑いを浮かべ成り行きを見守っていた。
「うおっと」
 危険を感じた黄昏が逃げ出そうとすると、間髪入れず千夜さんのスティックが飛んで来た。軌道が見えているので、二本共嘲るように大きく仰け反り、かわす。その態度が余計に頭に来たのか、今度は自分の座っていた丸椅子を手にして前に出ると、ぶん投げた。
「ちょ、ちょっと千夜さんっ!?」
 もう完全に頭に血が昇ってしまっている。幸い横に逸れマイクスタンドに当たり、倒れた拍子に黄昏の足がケーブルに引っ掛かり転んでしまう。罠に掛かった獲物を狩らんばかりに、今度はハイハットの足を掴み引きずると思い切り投げた。
「おいたそ、早く逃げろ!!」
 イッコーが自分のベースを抱え込むようにして、大声で促す。ただの喧嘩の時なら止められたけれど、今の千夜さんだと逆に返り討ちに遭う。
 ここは黄昏を逃がす方が先決。しかし、入口の方にハイハットが転がったので出口が塞がれる形になる。円を描くように部屋の中を逃げる黄昏を千夜さんが追い駆け、手前にあるものを引っ掴んでは投げ、引っ掴んでは投げつけた。周りにある機材も巻き込まれ壊れて行く。
「ちょ、待て、悪い、俺が悪かった!!」
「今更言い訳なんて誰が聞くかっ!!」
 泣き顔で逃げる黄昏目掛け、シンバルスタンドを放り投げる。これもかわしたけれど、部屋の角に追い詰められる格好となった。
「おい……嘘だろ?」
 好機とばかりに一番大きなスネアを頭の上まで持ち上げると、全力で投げつける。僕も覚悟して目を瞑ると、盛大な音が上がった。
「……黄昏?」
 恐る恐る目を開けると、尻餅をついた黄昏が口を開けて固まっている。スネアはすぐ後にあったアンプに直撃して、手元に転がっていた。
「黄昏、早く!!」
 千夜さんが固まっている隙に、黄昏は入口目指して四つ足で逃げ出す。僕が入口を塞いでいたハイハットをすぐさまどけて扉を開けると、一目散に駆け出した。
「逃がすか!!」
 それを追うように千夜さんのぶん投げたスティックケースが扉の角に当たり、中身が辺りに散らばった。イッコーがコートを黄昏に投げ渡すと、振り返らずに逃げる。黄昏が部屋を出るのを確認すると、僕は急いで扉を閉めた。これで何とか一安心。
「うわっ!!」
 と思ったら、今度は僕目掛けてマイクスタンドを投げつけて来た。太腿の外側に当たっただけなのでそれほど痛くなくても、このまま僕も中にいると危ない。
「イッコー、任せたよ!!」
「おい!ムチャゆーな!!」
 僕は大声で叫ぶと、黄昏の後を追うように外へ出た。多分僕達だけじゃ千夜さんの大暴れは止められないから、最終手段、おやっさんを呼んで来る。
「おやっさん、どこ〜〜〜〜っ!!」
「そんなに大声出さんでも聞こえとる」
 受付へ駆けて行くと、ちょうどおやっさんがもう一つのスタジオから出て来た。どうやら黄昏が逃げて行ったのには気付かなかったみたい。
「千夜さんが暴れてるんだ!!早く来て!」
「あ、ああ……」
 血相を変えている僕に戸惑っているおやっさんの手を掴み、急いで部屋に戻る。
「やめろって!おい!死ぬだろーが!!」
「うるさい!!奴も貴様も一緒だ!!」
 扉を開けるとちょうど自分のベースを抱きかかえてかばっていたイッコーが、タムを両手で抱えた千夜さんに壁まで追い詰められていた。
「やめんか―――っ!!」
 おやっさんがそばで鼓膜をつんざくほどの怒鳴り声を上げると、中の二人が一斉にこちらを向いた。残響音が室内にこだまする。
「あ……」
 我を取り戻した千夜さんが呆然とした表情でこちらを見つめている。おやっさんが睨み返すと、手に持っていたタムをそっと床に置いた。顔中から大量の汗を吹き出していて、目を見開いたまま肩で大きく息をしている。自分自身をまだ理解出来ずにいるみたい。
「しかしまあ……ハデにやってくれたなあ」
 部屋の惨状を見回してから、おやっさんは悲しげな顔で溜め息を一つついた。愛着のある機材を壊されたことに嘆いているんだろう。
 幸い必要最小限の機材しか部屋に置いてなくて、レコーディング機材も入れていなかったので大損害にはならなかった。でもスネアも破けシンバルも曲がってしまい、アンプも穴が開いてスピーカーにマイクスタンドが突き刺さっている。カセットデッキも何かが当たったのか、表面に大きく傷が入っていた。一目見ただけでこれだから、きっちりと全部確認したらもっと酷いだろう。
「マジ殺されるかと思った……」
 入口まで退避して来たイッコーが、顔面蒼白で呟いた。いつもなら喧嘩を止める役目のイッコーがこれほど脅えているんだから、千夜さんの暴れっぷりが窺い知れる。
「大丈夫か?ケガはないか?」
 おやっさんが千夜さんに近寄って優しい声を投げかけると、その手を振り払いうつむいたまま無言で部屋の外へ駆け出した。
「っと。待ってて、僕が行くから!」
 呆然と背中を見送っている場合じゃない。残された二人に声をかけ、急いで後を追う。
 店を出て階段を上がった所で、千夜さんの背中が見えた。慌てて駆け上がると、僕の階段の足音にも構わず一番上で立ち尽くしていた。
「大丈夫?」
 気遣うように横から覗き込むと、僕は息を呑んだ。
 ――千夜さんが、その目に大粒の涙を溜めていたから。
「私が加入したと思ったら……何で……!」
 肩を震わせ両拳を握り締め、悔しそうに唇を噛み締める。
 僕は何も言えなくなり、その横顔を隣で見つめていた。
 電車が乾いた音を立て、二人の頭上を通り過ぎて行った。


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