→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第2巻

   050.BABY BABY

「なー、たそまだ来ないん?」
「来ないね……」
「前に首輪つけてでも引っ張ってこいって言わなかったっけ?」
「言った気もするけど、あんまり覚えてないや……」
「あーもーイライラすんなークソ」
 イッコーは手に持った水筒のコップに入った麦茶を一気に飲み干すと、テーブルの上に叩きつけるように置いた。その派手な音に驚いた僕の肩が跳ねる。
 何だか、黄昏がライヴの出番ぎりぎりまで来ないのも通例となってしまった感がある。
「あいつリハも全然来やしねーしなー。そりゃぶっつけで合うわけねーじゃんよ」
 隣の椅子に置いていたベースを膝の上に乗せ、ふて腐れた顔でイッコーが一弦一弦指で爪弾き始めた。アンプには繋いでいないので、控え目な音しか出ない。
 今日のラバーズでのライヴはいつもより少な目の3バンド。しかしお客の数はいつもの倍近くに膨れ上がっていた。クリスマスライヴのシークレットゲストで大盛況だったせいだろう、みんな僕達を観に来ているとスタッフ側は判断して出番もトリに持っていかれた。
 狭い楽屋は僕達が丸々占拠し、対バンの人達はもう片方の部屋に回されている。
「あと10分ちょっとか……」
 自分の携帯で時計を確認する。今ステージに上がっているバンドがもう少し引っ張ってくれればいいけれど、昔みたいに甘い期待もあまり抱かなくなっている自分に気付いた。
 来る時は来る、来ない時は来ない。
「青空が前日入りしれてばよかったん」
「黄昏の家に?」
「そ」
 手元のベースに目を落としながらイッコーが答える。僕は天井を見上げ溜め息をついた。
 僕が引っ張って行っても本人にやる気が無いとどうしようもないのは去年10月のサボり事件で判ったので、それからは事前に僕が黄昏の家に入り準備しておくことは無くなった。今の所一度も休まずに出ているけれど、毎回時間直前に来るのでリハーサルはやらなかったり、黄昏抜きで合わせたり。
「来ない奴は放っておけばいい」
 扉のそばに座り煙草を吹かしている千夜さんが淡々と言った。イッコーは特に言葉も返さずに黒ズボンのポケットからガムを取り出し口に放り込む。
 一箱分近く吸っているのか、千夜さんの灰皿に山のように吸殻が溜まっている。もう煙草でも吸っていないとやってられない気持ちなんだと思う。でもそれは僕も同じで、諦めにも似た気持ちで椅子にくたびれ座ったまま、何度も溜め息をついていた。
 もう3人一緒にいるだけで部屋の空気が悲鳴を上げている。バンド内の関係も今までで最悪で、限界に近い気がした。
 ――解散した方がいいのかも知れない。
 まだまだ僕は頑張れても、『days』はそろそろ潮時みたい。そう感じる。
 みんなそれぞれが自分のやりたいことをやっていると思う。練習をさぼりまくっている黄昏だって、自分の音を追究し始めているイッコーだって、前よりも『days』のことを考えながら取り組んでくれる千夜さんだって。
 今はもう、昔みたいにそれぞれの歯車が噛み合わなくなってしまった。最初から個性と我の強い人間ばかり集まって出来たバンドだから、こうなるのも十分予想がついた。
 誰のせい、何が原因だなんて言いたくない。これが運命と言うのなら、ただ素直に受け入れよう。やれるだけのことはやったはず、悔いは無い。
 来月にも一本ライヴを入れているので、せめてそこまで持って欲しいと願う。なし崩しに終わるのだけは嫌だから。きっちりとけじめをつけ、終わらせたい。
「黄昏が来なかったら――」
 僕が唄うよ、と二人に言おうとしたその時、ちょうど楽屋の扉が開いた。
「くぁ……ねむ」
 大きなあくびをしながら黄昏が入って来る。寝起きなのか瞼が半分落ちていて、髪もきちんと整っていない。椅子に座る僕達3人を眺め回してから、何も言わずに椅子に向かう。
「どこをほっつき歩いてた、この馬鹿!」
 その態度が我慢ならなかったのか、千夜さんが突然いきり立つとそばに置いてあったステンレスの水筒を掴み、罵声と共に問答無用で投げつけた。
「つ――っ!!」
 慌てて構えた黄昏の右腕にぶつかり、顔をしかめてうずくまる。堪えられない痛みを我慢できずに小さく跳ね回る足元に、中の麦茶が零れていた。
「ちょっ……大丈夫!?」
 いくら何でもやり過ぎだよ、千夜さん。
 急いで黄昏のそばに駆け寄ると、僕に示すように顎をしゃくり水筒を指した。コックを閉じていなかったせいで今も水溜りの半径が広がっている。すかさず拾い上げ閉め直し、テーブルの上に置いた。
「だんだん狂暴になってくるな、このお嬢様は……痛い痛い」
 黄昏は千夜さんを煽るように呟き、右腕の調子を確かめる。少し顔を歪めていたけれどちゃんと動くみたいで、どうやら打撲で済んだみたい。ほっと胸を撫で下ろす。
「おっと」
 のも束の間、黄昏の顔目がけまた何かが飛んで来た。慌ててよけると、開きっ放しの扉に当たり、床に落ちる。
「二度とその呼び方を口にするな」
 ベースの黒ピックを投げつけたのも千夜さんらしい。いつも以上に怒っているように見えるのは、きっと黄昏のやる気の無さに嫌気が差したからだろう。
 激しく睨みつける千夜さんを無視し、黄昏は落ちたピックを拾うと持ち主へ投げ返した。しかしイッコーは受け取る気を見せず、ピックは膝上のベースに弾かれ落ちた。床に転がるピックをつまらなさそうに風船ガムを膨らませながら眺めている。
「やる気なさそうだな」
「おめーよりはマシだわ」
 黄昏に皮肉を込めて言い返すと、ベースに視線を戻しかったるそうに指で単音を鳴らし始める。どうやらもうイッコーも付き合い切れなくなっているみたい。
 絶望的な気持ちになりながら、毎度のように黄昏に訊いてみた。
「何やってたの、今まで?もう本番始まっちゃうよ?」
「部屋で寝てた」
 あっさりと僕に言葉を返すと、再度横から何かが飛んで来た。
「うわわわ」
 瞬時に反応した黄昏がそれを叩き落すと、灰が僕の方に飛び散って来た。慌てて目を閉じると、足元でアルミの空回る音が聴こえた。次は灰皿を投げつけたみたい。
 涙目で咳き込みながら自分の体を確認すると、ジャケットの右袖が吸殻の灰で真っ白になっていた。ちょうど真横にいたせいで巻き添えを食らってしまった。
「あ……」
 千夜さんは一瞬済まない顔を僕に見せ、一転し歯軋りで黄昏を睨みつけた。
「大丈夫か、青空?」
「平気平気……でも、これじゃジャケット使えないね」
 それよりも、二人の仲が更に険悪になる方が僕には辛くてたまらない。泣きたくなる気持ちを堪えながら無理に笑顔を作り、壁際のハンガーに汚れたジャケットをかけた。
「ま、そっちのほーがいーんじゃねー?ライヴ始まったらどーせ熱くなるっしょ」
 イッコーの歯を立てた笑い声を背中で聞いていると、何だか自分が情けなく思える。ここまでみんなの仲を悪くしてしまったのは自分のせいな気がして。
 部屋の隅にかけてある雑巾を取りに行き、麦茶の零れた床を拭く。千夜さんが自分がやろうと近寄って来たので、笑顔を返すと申し訳ない顔で引き下がった。尻拭いをするのは僕一人でいい。濡れた雑巾はステージに行く途中に外へ出しておこう。
「あーあーあー」
 突然黄昏が声の調子を確かめ、喉をさすり出した。
「どしたん?喉でも痛むん?」
 前に風邪がきっかけで黄昏が来なかった時のことを思い出し、内心焦り始める。最近冷え込んで来ているせいもあるから、また体調を崩したのかも知れない。幸い僕はまだ元気だけど、黄昏はエアコンだけで温もろうとするから薄着で寝ていたに違いない。
「まあ、いいだろ。無理ならイッコーに唄ってもらえばいいんだし」
 以前『staygold』でマイクを取っていたのを知っているから、あてにしているんだろう。
「おれやだぜ」
 しかし案の定、思った通りの答えが返って来た。
 イッコーは唄うのを嫌がっていることを黄昏は知らない。本人がいる時には問題無いのでその話を必然的にしないから、仕方が無いとも言える。
 でも今の黄昏に言った所でどうにもならない気がしたので、相手に譲ろうと睨み合っている二人を置き、僕は諦め混じりに曲順のリストをもう一度チェックすることした。
 今日の持ち時間はいつもより長く曲数も多い。前回のライヴは失敗しただけに、今回が正念場。でも今の『days』に期待を持つのは悪いと言うより、持ちたくても持てない。
 こんな憂鬱な気分でステージに立っても、上手く行く訳ないよ。
「やる気あるのか貴様達!!」
 突然の千夜さんの怒声に心臓を鷲掴みにされ、僕は顔を上げた。ついに堪忍袋の尾が切れたのか、火のついた煙草を投げ捨て二人に物凄い剣幕で歩み寄る。
「唄うつもりがないなら帰れ、ステージに上がるつもりがないなら消えろ!」
 勢い良く黄昏のYシャツの胸倉を掴むと、そのまま掃除用具入れのロッカーまで一気に押して行った。黄昏の背中がぶつかり派手な音が上がる。
「貴様達がいなくても、私と青空の二人で十分。かえってその方が上手く行く」
 声の調子だと、どうやら本気で言っている。
「おいおい、ちょっと待てって。客はどうするんだ?ヴォーカルがいないとわざわざ客に観に来てもらった意味がなくなるじゃないか」
「やる気の無い人間に唄って貰う必要なんてない。歌が可哀相だとは思わないの!!」
 千夜さんが爆発すると、冷静を努めていた黄昏も言いたい放題言われ逆切れしたのか、掴まれていた胸倉の手を両手で勢い良く払い除けると、全力で相手を押し飛ばす。
「きゃあっ!!」
 色っぽい悲鳴が上がり、思わず僕の背筋が伸びた。今の一声で、やっぱり千夜さんは女性なんだって思い知らされたから。
「それならわざわざライヴの日程組む必要なんてないだろう!まともにバンドが回転してない状態で客の前で演奏するなんて考えのほうが甘いんじゃないのか!」
 黄昏は床に転がった千夜さんに頭ごなしに怒鳴りつけると、皺になった襟首を直し、肩を怒らせ楽屋を出て行こうとする。
「どこ行くの、黄昏!?」
「帰る」
 慌てて止めようと駆け寄った僕の顔も見ずにぶっきらぼうに吐き捨てる。
「帰るって言ったってもう、ライヴ始まっちゃうよ!」
 ここまで来られて帰す訳にはいかない。練習はよくても、今は本番だから。そう何度も何度も好き勝手にさせるほど僕も甘くは無い。
 以前と違い冷静に取捨選択出来るようになった自分に気付く。その場は苦い気分でも、後でプラスに感じられればいい。上手く行かないバンドを転がし続けている内に、いつしかそう考えるようになった僕がいた。
 明日があるから。
 そんな自分を否定したく無いから、僕は黄昏の腕を掴み、逃がさない。
「このっ」
 無理矢理僕の手を払い除けようとする黄昏の顔が、一秒でもここにいたくないと言っている。援護を求めイッコーに目線を送ると、冷ややかな目で僕等を眺めていた。
「青空、鍵閉めてそいつを押さえて。今から消すから」
 押し合い圧し合いの最中、後ろでゆらりと千夜さんが立ち上がった。
 全身から恐ろしいオーラが立ち揺らめいているのが分かる。あまりのプレッシャーに、僕も黄昏も動けないでいた。ドアノブに手をかけたまま冷や汗を垂らし、事の行方を他人事みたいに見守っている。
 千夜さんは足音を鳴らし、無言でロッカーへ向かって行く。ほ……本気ですか?
 3人の視線を背中に受けながら、ゆっくりとロッカーの扉を開けた。
「きゃん」
『?』
 突然部屋の中に、場に似つかわない声が上がった。
 全員目を丸くしていると、雪崩れのように中のものが千夜さんの足元に転がり出て来る。
「あだだだだぁ〜っ」
 お、女の子?
「重いよキュウ、重いって」
 しかも二人?
 栗髪の丸い目をした女の子が、赤眼鏡をかけた金髪の女の子に押し潰されていた。
「ナニ言ってんの愁、アタシこないだダイエットしたばっかりなのに」
「今日来る前にケーキたくさん食べてたじゃない、喫茶店で」
「あれは昼食なの、ちゅ・う・しょ・く。」
「朝はなに食べてきたの?」
「ホットケーキ3枚、シロップたっぷり」
「全然ダイエットの意味ないじゃない〜」
 重なり合った体勢のまま、漫才みたいに言い合っている。
 僕も含め周りの4人、状況が把握出来ず呆気に取られたまま目の前の光景を眺めていた。
 ……この子達、誰?
 お互い視線で尋ねてみると、みんな一様に首を横に振っている。
 ただ、解ったことが一つだけあった。
 楽屋に忍び込んだんだ、この二人。
「……あのう……」
 放っておく訳にもいかないので、とりあえず恐る恐る声をかけてみる。するとようやく今の状況に気付いたのか、彼女達は会話を止め僕達の方を見た。
「あ、あは、あはははははははは」
 上に乗っていた女の子が、乾いた笑いを浮かべながら近くの壁まで後ずさる。
 左目の上で分けた金髪が目に眩しい。やや横幅のある髪型で、後ろは肩まで伸びていた。いかにも『遊んでいる』と言う言葉がぴったりの今時の女の子で、高校生くらい?
「ほらやっぱり見つかったじゃない。最後まで隠れてるなんて最初から無理だったってわかってたのにさ」
 かたや押し潰されていたこちらはリスを連想させるような、はつらつとした女の子。足の細さが出ている深緑のズボンについた埃を落としながら文句を言う。
「だってしょーがないでしょー、まさかバンド内がこんなに険悪だなんて知らなかったん
だもん。わかってたらこんな危険冒してまでロッカーの中に隠れないわよっ」
 金髪の子が口を尖らせ言い訳する。縁のある丸い赤眼鏡からは赤い紐が垂れ下がっていて、トレードマークに見える。
「ロッカーに隠れようって誘ったの、キュウじゃないのさ。あたしファンでもなんでもな
いのに」
 栗髪の子が胸に刺さるようなことを言う。中央で別れた栗色の髪が顎下で揃えられていて、尻尾のように首元から伸びた髪が何束にも分かれ肩にかかっている。
「そりゃーライヴハウスに初めてやってきた可愛い愁ちゃんに隅から隅まで丁寧に教えて
あげようというこのアタシの聖母マリア様のような心遣いが……」
 膝丈のある赤茶のブーツを履いていて、デニムのジャケットを羽織っている。上下はピンクで固めていて、スカートの丈も短い。
「素直に一人で隠れるのが怖かったって言おうよ、キュウ」
 胸元の開いたベージュのシャツにカーディガンを身につけている。二人共薄着に見えるのは、ロッカーに上着を入れているからかも。
 なんて二人の姿を細かくチェック出来るくらい、僕達は彼女達によって塗り返られた場の空気にすっかりあてられていた。こちらを無視し、自分達のペースで話し込んでいる。
 そばにいる千夜さんは平熱に戻ったどころか、手に負えないと言った感じで二人を眺めていた。隣にいる黄昏も場の状況に頭が追いついていないみたいで、ドアノブにかけた手も離し呆然と立ち尽くしている。イッコーも口を開けたまま事態を呑み込めないでいた。
 猛吹雪の中を抜けたらお花畑でした、みたいな唐突な変化に僕も思考回路がエンストしている。楽しそうに話す二人を見ていると、沈んでいた自分が何だか馬鹿みたいに思えた。 
 って、いけないいけない。
 例え僕達のファンであろうと、早く追い出さないと。
「あの……お客さんはここに入って来ちゃ駄目なんだけど……」
 機嫌を損ねないように僕が柔らかい物腰で二人に近づき、説明してみる。
「あーっ、本物の青空だっ!」
 すると金髪の子が突然僕の顔を指差し、大声を上げた。
「わわっ」
 と思ったらいきなり両手を広げ、抱き着かれる。まさか飛びつかれるとは思ってなかったので、かわす間も無く体を預けられ後ろによろめく。
「わっ」
 我慢しようと踏ん張ろうとしたら、ちょうど麦茶が零れた場所に足を取られた。
 きちんと拭いたつもりでも、まだ濡れてたんだ――!
 心の中でそう叫びながら、僕は盛大に背中から転んだ。
「ん”っ」
 床の固さを背中で感じ、悲鳴も飲み込んでしまう。
 でも、声を上げられなかったのは痛みのせいじゃなかった。
「おい、大丈夫か青……」
 心配して近寄って来た黄昏が途中で言葉を失った。
 かく言う僕も絶句していた。
 目の前に、抱き着いて来た女の子の顔がある。
 唇に、柔らかい感触があった。
 ――突発的な事故。それが僕の、ファーストキス。
「…………。」
 頭が真っ白になる瞬間、と言うのは誰にでもあると思う。何も考えられなくなり、目の前のものをただ受け入れるだけの時間。
 今の僕が、まさにそれ。
「きゃー、唇奪っちゃった♪」
 金髪の女の子が、僕の上に乗りかかったまま頬に両手を当て嬉しそうにはしゃいでいる。
 僕はと言えば、嬉しい所か何が起こったのかさえ理解できていない。
 違う。理解はしているけれど……認めたく無い。
 20年と少しの間大切にしてきた最初の唇を、突然ロッカーの中から現れた名も知らぬ(キュウって呼ばれていたけれど)女子高生くらいの女の子に奪われるなんて。
 それもしかも抱きついた拍子にと言う、漫画でしかありえないようなシチュエーション。
 恥ずかしさのあまり長年女性から遠ざかる生活を続けてきたので、せめてファーストキスと童貞だけはロマンチックに終わらせたいと言う変な願望を抱いていたのに、その片方が不意にあっさりと終わってしまった。
 余韻も何もありはしない。
 キスをしたと言うより、倒れた拍子に唇同士が当たった、と言った方が正しい。だから今も歯茎の周りが衝撃で痛い。でもどさくさに紛れぶつかった後に、短い間だけど女の子の方から唇を押し付けて来たような感触はあった。
 何と言うか……凄く僕らしいファーストキスのような気がする。
 ああ、こんなことなら無理にでも柊さんとキスしておくんだったとか、これまでの人生で関わって来た女の子達の顔が脳裏を横切って行く。後悔と自責の念が激しく僕を襲った。
 言うほど胸は締め付けられなくても、立ち上がれる気力も無い。
 上に跨っている女の子がぶりっこぶる度、スカートに包まれたお尻が押し付けられる。
 あ、あの、そこ……。
「お……何なんだ貴様達はっ!」
 動くに動けないでいると、千夜さんが金髪の子の肩を掴み引き離してくれた。
「きゃー、千夜おねーさまだーっ♪」
「きゃっ、ち、ちょっと、やめ……!!」
 と思ったら今度は千夜さんにじゃれ始めた。僕や男の人が体に触れると血相を変え反撃するのに、相手が女の子なので殴るに殴れないでいる。
 でもそれよりも、僕がファーストキスを奪われたことの方が大きい。
「真っ白に燃え尽きてます」
 そばに寄って来たイッコーが僕の頬を指で突っ付いて来ても、反応すら出来ない。僕はただ呆然と目の前に広がる楽屋の風景を、瞬きもせず眺めている。
「キスされた……」
 自分で呟いた言葉が更に重みを増し僕の胸を押し潰す。
「初めてだったのに……」
「そりゃーよかった。お幸せにな」
 絶望的な気分で頭を押さえ項垂れている僕にイッコーが軽口で慰めると、派手に大笑いした。久々に聴く笑い声は嬉しかったけれど、その代償はとても大きかった。
「ふうっ。本番まで10分も無いのに……」
 溜め息混じりに千夜さんが頭を掻き毟ると、無断侵入の彼女達を睨みつける。僕が呆けている間に引き剥がされた金髪の子は、片割れの子と不安な顔で肩を寄せ合っていた。
「まーまー、そんなに怯えさせてどーすんだわ」
 いつの間にか二人の後に周っていたイッコーが、安心させようと二人の肩に大きな手を置いてやった。望んで役得に回ったようにも見える。
「おれたちのファンなんだろ?だったら大切にしなきゃなー」
 笑顔でこちらに同意を求めるイッコーを千夜さんはしばらく睨むと、興味無さそうに視線を外し黙々と自分の準備に取りかかった。僕達に任せるつもりだろう。
 ふと気付くと、騒ぎが落ち着いた後も楽屋の空気は和らいでいる。彼女達が場にいるだけで随分変わるものだなと感心した。無断侵入はいけないけどね。
 僕の心はまだ穴が開いていて、でもこんなに穏やかな気持ちになったのは久し振りな気がした。さしずめ彼女達二人は、迷える子羊の前に舞い降りた天使と言った所?
 っと、これからステージに立つ所なのに満足してどうするの、僕。
 気持ちを引きずらないようにしようと、僕も自分の準備を始めた。しかし転んだ時に打ったお尻や背中の痛みは全く気にならないくらい、心身のダメージは大きい。
「なあ、どうしてここに入って来たんだ?」
 落ち着いた黄昏が二人に訊いてみる。彼女達のことはイッコーと黄昏に任せよう。僕は相手にできるほどまだゆとりが無い。とりあえず残りの麦茶でも飲み、気を落ち着かせる。
「えー、『days』のみんなに会いに来たかったから。もちろん本命は千夜おねーさま♪」
「ぶ」
 金髪の子の言葉に僕は飲んでいた動きを止めた。吹き出しそうになったお茶をコップの残りと共に一気飲みすると、小さなゲップが出る。何てことを言うのかこの子は。
 言われた本人は聞かなかった振りをし、冷静な顔で使うスティックの状態をチェックしていた。ほんの少し眉がひくついているようにも見える。
「それといろいろ訊きたいコトとか言いたいコトとかあったもん。手紙とかでもよかった
けど直接会いたかったしー。アタシこのバンドの追っかけだからね」
「そりゃあ嬉しいけど、もう本番なんだから後で聞くよ」
 えっ?
 黄昏のその言葉に僕は瞬時に反応した。
「わー、唄ってくれるんだ!?よかったー、黄昏帰らなくて」 
 金髪の子が両手を挙げ喜びを全身で表現すると、隣の子の手を取りはしゃぐ。取られた方は一緒になって喜んでいいのかどうか、目を丸くして困った顔を見せていた。
 黄昏はしまったと思っているんだろう。軽くあしらうつもりで言ったに違いない。
 苦虫を噛み潰したような顔を浮かべていたけれど、イッコーのいやらしい含み笑いや喜ぶ彼女達を見ていると、諦めたのかやがて腹を括った。
「わかったよ、唄えばいいんだろ。せっかく俺達に会いに来てくれてるのに、目の前で期
待を裏切っちゃダメだからな」
「ホントー!?やったねっ、愁♪」
「う、うん……」
 金髪の子は握った手を大きく上下に振って笑顔で喜んでいる。戸惑った栗髪の子との対比を見ているだけで、二人の性格が手に取るように判る気がする。
 でも、黄昏がやる気になってくれて本当に良かった。
「んじゃおれも、ちょっくら本気出すとしますか」
 二人に感謝し胸を撫で下ろしていると、活気の戻ったイッコーが笑顔で屈伸運動を始めた。目の前に可愛い女の子二人が出て来たからか、俄然やる気になっている。お調子者なんだから、イッコーは。
 僕もファンの人と間近に接するのはこれで2回目。柊さんの時は自分でも振り返ると笑えるくらい舞い上がっていたのに、今日は落ち着いた気持ちでいられた。
 と言うか、内心キスのことをまだ引きずっているんです。
 ぼんやりと椅子に腰掛けていると、準備の終わった千夜さんが僕の前にやって来た。
「ぶっぶっ」
 そして突然、僕の両頬を平手で勢い良く何度も叩く。
「なっ、何するの千夜さんっ」
 痛む頬を押さえ泣き顔で反論すると、千夜さんが僕を見下ろし肩を竦めた。
「腑抜けている場合?」
 どうやらキスをされてのぼせてしまったように見えたらしい。でも確かに、穏やかになった楽屋の雰囲気に張り詰めていた気持ちが途切れてしまった感もある。
 まだ何も上手く行くと決まった訳じゃない。この好機を活かすも殺すも僕達次第なのに。
 自戒を込める意味で小さく微笑んでみせると、千夜さんは冷めた顔で何も言わずにスティックを取りに戻った。また嫌われてしまったみたいで悲しい。
 兜の緒を引き締め、僕もギターのチューニングを再確認し始めた。その間に黄昏は女の子二人と何やら話している。
 気の知れた人間以外に笑顔で話す黄昏を初めて見た。てっきり人見知りが激しいとばかり思っていたけれど、意外とそうでもないみたい。
 多分面倒臭いからなんだろう、普段話したがらないのは。金髪の子に腕を取られ頬を赤くして照れている黄昏を見ていると、そんな気がした。
「それじゃみんな、頑張ってねー。さ、行こ、愁」
「う、うん……」
 栗髪の子を連れ、二人は笑顔で部屋を出て行く。扉を閉める前に愁と呼ばれた子が振り返って、僕達に小さくお辞儀をした。
 あの子達とはライヴ後にまたじっくりと話をしよう。無断侵入の件は黄昏が聞いていたみたいだけど、後でスタッフの人と口裏合わせておけば問題無い。
「あ、そーそー」
 二人の出て行った扉を穏やかな気持ちで眺めていると、もう一度扉が開き金髪の子が顔を出して来た。
「今日もこれまでみたいな演奏なんてしたら、アタシ怒るからね」
 棘のある笑顔でそう言うと、手を振って扉を閉めた。場の空気がしんと静かになる。
 楽屋に残された僕達はお互いの顔を見合わせると、揃って苦笑した。
「見せてやるか、あいつらに」
 黄昏は意気揚々と着ていた黒のジャケットを椅子の上に放ると、強い眼差しで呟く。いつに無く力の漲っている黄昏を見て、僕は心の底から溜め息をついた。
「……本当に、さっきまでみんなでいがみ合っていたなんて思えないよ」
 正直な気持ちを口に出すと、イッコーと黄昏は睨み合い、お互いに突っ撥ねてみせた。似た者同士の二人を見て微笑ましくなる。
「浮かれている場合か。私は先に行く」
 付き合っていられないのか、千夜さんはスティックを持つと一足先に楽屋を出た。僕も機材の準備に付き合えるように、アコースティックギターを持って後を追う。今日はいつもよりステージ時間が長いから、エレキ以外にもう一本用意して来ていた。
「そう言えば千夜、あの子に抱き着かれて大丈夫だったの?」
 仲直りについて話すと『本番前なのに気を抜くな』と怒られそうだから、あえて別方向で先を行く千夜さんに訊いてみたら、足を止め思いっ切り睨み返されてしまった。
「……余計なこと訊いて、ごめんなさい」
 千夜さんの体を心配してのことなのに、誤解されてしまったみたい。でも女の子に触られても大丈夫と言うことは、単に男嫌いなだけなんだろう。
「――変な目で見なければいいのに」
「えっ?」
「気持ちを切り替えろ。行くぞ」
 意味ありげな言葉に呆けている僕を叱ると、一足先に駆け足でステージへの階段を降りて行った。相変わらず千夜さんの考えていることは良く解らない。
 ステージ裏に着くとちょうど僕達の前のバンドが本番を終わった所で、楽屋へ引き上げるすれ違い様にメンバー6人が声をかけて来る。手応えが良かったようで、一様にいい笑顔を見せていた。ステージで設置作業が始まっていてもまだフロアから歓声が飛んでいる。
 ここで失敗すれば、泣きを見るのは必至。
 緊張しながら出番を待っていると、残りの二人もスタッフの人に連れられやって来た。
「さながら人気バンドってとこだなー」
 イッコーはざわめくフロアを袖で眺めると、白い歯を見せながら戻って来た。客席を見渡すと、明らかにこれまでの倍近く入っている。
「関係ない。俺はあの娘達に唄うだけだ」
 興味無さげに黄昏は吐き捨てると、OKの合図と共に先陣を切りステージへ上がった。いつも最初に出て行くはずの千夜さんがちょっと面を食らった感じでいるのが可笑しかった。こみ上げる笑いを押さえていると、鋭い目を僕に向けてから黄昏の後に続く。
「まー、どっちにしろしくじるとアウトってわけね」
 イッコーが今の状況を楽しんでいるように舌舐めずりしてみせる。
「青空」
「えっ」
「足引っ張んじゃねーぞ。今回おれ、サポートに回んねーから」
「……イッコーだって、僕の後ろに隠れないようにね」
 意志の強さだけは負けないように強い眼差しで言い返すと、上から軽く頭を小突かれた。
「へっ。いっぱしのこと言うよーになったじゃねーか。しゃあっ!!いくぜえっ!!」
 鼓舞するように吠えると、イッコーは勢い良くステージに飛び出して行く。僕も汗ばむほど両拳を握り締め、自分の立ち位置へ上がった。
 あの二人に、今日来てくれたみんなに自分の全力を見せるんだ。
 ギターを手にフロアを見渡すと、照り返しのライトがとても眩しかった。


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