060.春の夜風
「青空チャン、頼まれてた絵できたから」
一日しか経っていないのに電話の向こうでいきなりみょーさんにそう言われた時は、さすがに度肝を抜かれた。
向こうの都合もあるだろうから一週間位は待つ事になるだろうと腹を括っていたのに、頼んだ翌日の朝、バイトに行く前に電話がかかって来るなんて思いもしない。おかげ様で寝起きで動かない頭がいっぺんに醒めた。
あいにくバイトのシフトが数日続いて入っているので愁ちゃんに貰っておいてくれるように頼んでおこうかと思ったけれど、あまりに突飛な物の場合フォローに困るので直接大学まで取りに行く事にした。
バイトが終わったその足で直接桜花美大まで向かう。今日は部室でずっと絵を描いているから遅くなっても大丈夫と電話で言っていた。駅前に着いた頃には時刻が夜9時を回っていて、空にすっかり夜の帳が降りている。今日は曇りなので星一つ見えない。
一度電話を入れてみると、電源が入っていないと女性の声のアナウンス。たまたまなのかも知れないけれど、いつも電話に出て来ない誰かさんの顔が脳裏をよぎった。
夜中でも入れるのか不安なまま大学に向かうと、門も開いていて意外と学生の出入りが多く安心した。夜間の部がある訳ではないみたいだけど、結構オープンな風紀なのかも知れない。それでもちょっと緊張しながら、暗くなった大学の門をくぐった。
部室への道を途中逸れて行くとみょーさんと初めて出会った桜林へ出るのは覚えていたので、少し寄り道してみる。ご丁寧にライトアップされている――なんて事はなく、校舎も周りにないので暗くて夜桜の美しさをはっきりと見る事はできない。
街中の公園ならこの時間が一番盛り上がっているはずだけど、構内でそれは無理なのか並木道から桜を見上げる学生の姿をちらほら見かけるだけ。目の前に広がる風景だけをただ見ていると、ここが学校の中と言う事が信じられなくなってしまう。
桜が広がる下で草むらに包まれて眠るのは最高なんだろうな。
そんな誘惑を振り払い、僕は急いで踵を返した。
部室があるのは一階建ての小屋みたいなコンクリート製の建物で、通路から明かりが漏れていた。どうやら他の部室の人達もまだいるみたい。
他の部員さんもいると面倒そうなのでみょーさん一人だといいな、なんて思いつつ部室に顔を覗いてみると、中央に並べられた机の上に布団が敷かれてあった。
誰かが寝ているみたい。他に人影は見当たらないので、恐る恐る近づき布団の中身を確認してみる。入り口の陰になっている側からみょーさんが頭を出し、熟睡していた。
がっくりすると同時に、わざわざ待たせて貰い悪い気持ちになる。
気持ちのいいくらい満面の笑顔で眠っているので部屋の電気を消し退出しようかとも思ったけれど、二度手間を考えると起こした方が正解と思った。でもさすがに気が引けるので、しばらくそばの椅子に座り自然に起きるのを雑誌でも読みながら待つ事にした。
布団の横に備えられたキャンバスには無数の色の絵の具が縦横無尽に塗りたくられている。まだ途中で、いいアイデアが浮かばなかったのか、それともこれが狙いなのか、ヤケクソに筆を走らせているようにしか僕には見えなかった。
まさかこれがパッケージの絵じゃないだろうと少し不安に思いつつ、雑誌を読み耽る。
15分後。
「うわわっ」
突然机の上にあった鐘付き目覚し時計がけたたましい音を経て鳴り出し、心臓が喉から飛び出そうなほど驚いた。慌てて鐘の隙間に指を挟み止めると、今ので目が覚めたのかみょーさんが布団の中からゆっくりと体を起こした。それを確認しスイッチを止める。
「ああ、来たんだ。仮眠のつもりで目覚ましかけたのに全然眠気取れてねーし」
それは机の上なんかに布団を敷いて寝ているからじゃ……。
布団から出てきたみょーさんはパジャマにスリッパと完全武装。どうやらこの部室には何でも揃っているみたい。
「ちょっと歯―みがいてくるわ」
僕の横で机の上を探り歯磨き道具を手に取ると、ふらつく足取りで部屋を出て行った。
この調子だと、他の部員も同じくらい変わった人間ばかり揃っている気がする。彼女の和美さんは物凄くここの色に合わなさそうな感じだったけれど、実際どうなんだろうか。
何だか、みょーさんが起きた代わりに僕が眠たくなってきた。絵を貰ったらその足で直帰し、また明日バイトが入っている。今は音源創りを終えたばかりだからバンドは短期間休業中で、久し振りの虚脱感を満喫している所。最後にこんな気分を味わったのはいつなのかすぐに思い出せないくらい、ずっと頭をフル回転させ今日まで乗り越えて来た。
この、何も無い感じが不安に思える時もある。『mine』を書き終えた後はあまりに満足し過ぎて、結果半年以上空白の期間を過ごしてしまった。今はバンドだからみんなと合わせる義務があるから、半ば強制的に動かないといけない分安心できる。
ああ、もう一度小説でも書いてみようかな。
ふとそんな考えが脳裏を掠めた。文字だらけのロック雑誌を読んでいたせいかな。
落ちてきた瞼を擦りぼんやり待っていると、みょーさんが清々しい顔で戻って来た。
「わりーわりー、ちょっと煮詰まってたからふて寝してたんだ」
すまなそうに顔を掻き、冷蔵庫の方へ向かう。紙パックの烏龍茶を取り出すと、口付けで背中を仰け反らせ豪快に喉を鳴らし始めた。僕も飲むかと手のパックを差し出されたけれど、駅から降りた所で水分補給はしてあるので遠慮しておく。
「あー、心配しなくてもいいぜ。今描いてるのは違うヤツ。頼まれてるモンはこっちよ」
僕の不安を察したのか、みょーさんはスリッパを鳴らし壁際に立て掛けてあった雑誌大のボードを取って来た。絵を保護するためか上に白い布がかけられている。
「あんまり大きなサイズだと時間かかるからB4サイズのボードにしたけど、問題ある?」
「え、まあ、縮小コピーできれば……」
紙のサイズについて訊かれても、知識が無いのでとっさに言葉が浮かばない。
「コピーはもうしてあるけどさ。この時間じゃ大学のコピー機閉まってて使えないから。ウチの部にゃねえからなー、カラーででかいサイズ取りこめるヤツって」
代わりにたこ焼き器やらバーベキューのセット一式なんかは揃っていると思った。
「ほい。自分で見てみなよ」
ボードを手渡されたので、恐る恐る被せてあった布を取る。
――すると、たくさんの色違いの鎖が絡まった球形の石が現れた。
あまりに心奪われたのか、観た瞬間開いた口から声が出て来なくなる。
真っ白な空間に鎮座する、柔らかい黄土色した岩とも呼べるごつごつした石。淡いテイストで塗られていて、荒野のイメージとは対照的にその中に温かみを感じる。
絡まっている鎖はそれぞれが鮮やかな色彩を放っていた。石と使用した画材が違うのか、その分一本一本の鎖に目が行く。真っ黒な物もあれば光り輝いている物もある。
鎖一つ一つも細かったり太かったり、錆び付いていたりひびが入っていたり、緩くかかっていたり石を握り潰さんばかりに締め付けていたりと、それぞれに個性があった。
「何だか、とても不思議な絵だね」
僕は万感の想いを込めそう言った。
「そう?」
「うん……不思議な絵。それしか言葉が出て来ないなあ」
絵を見ていて目が離せなくなるなんて事、今までに無かった。この石の絵を観た瞬間から、僕の胸の中に生まれて初めての感情が流れ出している。
感極まって泣くのとは違い、温かなで穏やかな、でも皮膚がぴりぴりするような。既視感があるようで、初めて女性の体のしくみを知った時のような。身構えて絵を見なくても、自然と心の中に感情が広がって行く。
「どう?これでいける?」
「えっ?あ、うん」
見とれ過ぎて、これがジャケットの絵と言う事さえ思わず忘れてしまっていた。
「いや、でも……」
「ん?何か問題でもあった?」
「あ、そう言う訳じゃないんだけど。ちょっと、びっくりしちゃって」
慌てて手を振り誤解を解く。やっぱり心のどこかに頼んだ所で仕上がって来るのはそこそこの出来栄えの物だろうと言う考えがあったから、これほどまでにしっかりとした絵が出来上がって来るとは思いも寄らなかった。
嬉しいと同時に、この人の才能を過小評価していた自分が情けなくて仕方無い。
「けど、一日でこれだけの物仕上げられるんだ……」
「ああ、それなんだけど」
感心している僕に苦笑しながら、みょーさんが切り出して来る。
「テープ聴いても何描いていいかさっぱりわかんなかったから、適当に描いたんだけど」
椅子からずり落ちそうになってしまった。
「て、適当……?」
「ああ、他人にゃ違うか。昔っから、こーゆー鎖に絡まれた石の絵描くのが習慣になっちゃってて。あんまりオレ自身何でなのかよくわかってねーんだけどね」
みょーさんが、冷や汗を垂らしている僕の横で楽しそうに笑う。
「あのテープ聴くと、何描いても中身に負けちゃう気がしてね」
「え?」
目を丸くする僕の前に回り込み、みょーさんがボードを手の甲で軽く叩いた。
「青空ちゃんが言うような、曲の感じから連想してってのはやらねーほうがいい気がした。そんなのって結局聴く人それぞれじゃん?オレ、あんまり音楽って聴かねえ方だけど、こりゃすげえなって素直に思ったからさ」
「そ、それはどうも……」
僕達の音楽を知らない人が褒めてくれるのはとてもくすぐったく、相手の顔をまともに見られない。身内以外に完成したテープを聴かせたのはこれが初めてだから、手応えを感じ嬉しかった。
「だから、オレも意気ごんで自分の得意技で勝負してみたってわけ。いっつも描いてる絵だから、一番自分が出せる気がしてさ。ま、結果的に中身と全然関係ない絵になっちゃったんだけど、どう?やっぱりちゃんと注文もらったほうがよかった?」
「とんでもない!いいです、これ、すっごく」
これだけいい物を描いて貰ったのに文句を言ったら罰が当たる。浮かれ気分で絵を何度も眺めていると、元絵を縮小したコピーを渡してくれた。後はこれをコンビニのカラーコピーで縮小してジャケットのサイズにすればいい。手間かかりそう。
「ああ、お礼に何か持ってくれば良かったなあ」
「いいっていいって。そんな大袈裟なモンじゃないから。テープくれただけでOKOK」
そう言ってくれると気が楽になる。相変わらず気配りが足りないな、僕は。
「いきなり愁が頼んできた時にはさすがに驚いたけどなー。今ちょうど学校始まる前でヒマだから、夕方家に帰ってからテープ聴いてすぐ取りかかってさ。どーせここ部員集める準備なんてしねえし。一発勝負でスイスイ描けたから、そんなに時間かからなかった」
「そういや、みょーさんって一体いつから始めたんですか?絵」
これだけの作品を短期間に仕上げられるなんて相当手慣れているに違いない。気になったので尋ねてみると、素っ気無く返された。
「んー、物心ついた時からかなー、ちょっとわかんないけど。そんな大したモンじゃないって、絵描くなんて。特別なコトしてるつもりなんてないもん」
人はこう言う人間を天才と呼ぶのだろうか。自分の才覚の無さにがっかりする。
「それよりさー、その絵よっぽど気に入ったみたいだけど、せっかくだからいる?」
「えっ?」
突然の事に驚き固まっている僕に、あっけらかんとみょーさんが言った。
「オレが持ってるより、気に入ってくれた人のそばにあるほうが絵も嬉しいっしょ」
そう言って貰えると有り難いけれど、元の絵まで貰おうなんて厚かましい事は考えてなかったから無性に気が引けてしまう。上手く言葉を返せないでうろたえていると、背中を勢い良く何度も叩かれた。
「そんな顔すんなって。そりゃ手元に置いときたいくらいいい出来だけど、後でそれよりいいもんを書けばいーだけの話なんだし」
「あ……じゃあ、頂いておきます」
「ったく、どっちが年上なんだかわかりゃしねえよ」
みょーさんは椅子に座り、気持ちのいい笑顔を見せた。背丈も風格も僕よりあるから年上に見えてしまう。大学生だからと言うのもあるんだろうか。
早速家に帰ったらジャケットの作業をしよう。明後日の休みにはみんなに配れるように。
「いやー、しっかし愁もオレの知らないトコでやるねぇー。あいつ人見知りなとこあるから、ライヴハウスに足しげく通ってバンドの人と仲良くなるなんて考えもしなかったわ」
やはりお兄さんだから思う所があるのか、僕はつられて笑うしかなかった。
「まー、キュウが連れてったんだと思うけど。また、何があれば呼んでちょーだい。ライヴ告知のポスターとか、CDのジャケットくらいならタダで手伝ってやっから。愁に変なコトたらしこもーと思わなかったら、だけど」
「だ、大丈夫でしょう」
釘を刺され、僕は苦笑いするしかなかった。危ないのは僕よりも黄昏の方とは思うけれど、実際どうなんだろう、黄昏の女性との付き合い方って?長い事一緒にいても全然そう言う話をした事がないから分からないや。
何はともあれ、違った分野で才能のある人と知り合いになれたのは嬉しかった。流れで妹の愁ちゃんも何かやっているんじゃないかと思っていたら、みょーさんの話によると習い事もせず大した特技も無く、家庭内仕事ができるだけだそうな。愁ちゃんらしい。
携帯の時計を確認すると、時刻は10時前になっていた。開いている入口や窓から外気が部屋に入り込み、ひんやりする。そろそろ暖かくなってきたとは言え夜はまだ寒い。
「あっと、それじゃそろそろおいとまします。明日もバイトがあるんで」
「そう?じゃ、オレも続きやっかな。ちょっと映研のポスター頼まれちまって、全然ネタが浮かんでこないんだよね。どーしたもんか」
「イメージソングでもあれば閃く……かな?」
テープに引っ掛けたアドバイスをすると、椅子の足を浮かせおかしそうに笑った。
貰ったボードをどうやって持って帰ろうか悩んでいると、みょーさんが絵を保護するシートと紐をくれた。多少かさばるけれど手で持って帰るしかない。いつも抱えているギターとセットで、今日は帰るまで大変な思いをしそう。
「ん……?」
最後に目に焼き付けて置こうとしばらくボードを凝視していると、絵の中に何かが物足りない気がした。少し頭を捻り、その理由に気付いた。
「あの、ちょっと色鉛筆、貸してくれません?」
「ん?いいけど」
既にキャンバスの前に座り描き始める準備をしていたみょーさんに断りを入れ、用意して貰った。自分のイメージする色の鉛筆を手に取る。
「どーする気?あんまり手は加えて欲しくねえんだけど」
「あ、ちょっと足りない部分があったんで……コピーの方にやるんで、大丈夫」
憮然とした顔を見せるみょーさんに説明してから、絵の中心、ちょうど鎖の絡まっていない石の空間に、僕は手早く茜色の鉛筆で『days』と拙い絵文字を描き加えた。
下地の淡い黄土色が重なり、文字がはっきりと浮かび上がる。少し離して絵を眺めると、これ以上無い完璧な出来に僕は何度も強く頷いた。
これで、本当の意味で、『days』のジャケットの出来上がり。
「ん?それ何?」
僕の後ろから覗き込んで来たみょーさんに、笑顔で答える。
「おまじないみたいなものかな。みんなに音が届きますようにって」