062.たくましい生き物
地下へ続く狭い階段を下りる時の靴の音が、妙に心の鼓動を早くする。
入口から入り込んだ雨露に足を取られ転ばないよう、恐る恐る一段ずつ歩を進め何とか扉の前まで辿り着いた。装飾も何も無いそっけない扉を開けると、見慣れた風景が目に飛び込んで来る。賑わう扉横の傘立てにビニール傘を差し込み、すかさず中へ。
「おー、青空。千夜はもう来とるよ」
ほうきとちり取りでフロアを掃除していたおやっさんが僕に振り返り口髭をさすってみせた。いつもと変わらない笑顔。いついかなる時に来ても、ここ『N.O』のスタジオだけはまるで時が止まっているような錯覚を覚えるのは地下にあるせいかな?
カウンターの記帳を見て、千夜さんが入っている部屋を確認する。
「あれ、片方の部屋開いてるの?」
「まだ平日の昼時だろう、そんなに繁盛してる店じゃないよ、ここは」
気になって質問してみると、そっけない答えが返って来た。傘立てにたくさんあった傘は、きっと利用者が忘れていった物をほったらかしにしたままなんだろう。
「何か飲むかい?」
「あ、じゃあレモンティーお願いします。僕の分だけでいいんで」
大して喉が渇いている訳じゃないけれど、面倒見のいいおやっさんの申し出を断るのはすまないのでつい頼んでしまう。僕が知っている中じゃ一番安いスタジオだから、ジュースの一杯や二杯くらいケチケチする必要はなんだけど、貧乏性なせいか。
ロビーのソファに荷物を下ろし、体にかかった雨粒を黒のリュックから取り出したタオルで拭く。そろそろ梅雨の季節がやって来る。今月頭はすっかり春の陽気にあてられていたのに、一月もすれば随分気候が変わるなあ。
スタジオ内には机も無いので先にレモンティーを頂き、用も済ませておく。少しでも長い時間千夜さんと一緒にいたいから、と言う下心に似た考えがあるせいか。
最近思ったけれど、自分って想像以上の女たらしなんじゃない?
そんなつもりは全然無くても、他の音楽仲間達と比べると身内も客席も女性の比率が高い。ファンの人達と飲み会に行ったりとかはしないから実際はどっこいどっこいのはずだけれど、僕達を余り知らない同業者から白い目で見てしまう事も無きにしも非ず。
千夜さんを僕達が引き抜いたと見られている節もあるようで、好き嫌いが両極端に分かれているみたい、うちのバンドは。でも他人に何を言われようと、どれだけいいステージを見せるかが大事だと思っているのであまり雑音は気にしないようにしている。
ただでさえバンドを切り盛りするだけで十分過ぎるほど労力を使っているのに、外の声まで耳を傾けていたら身動きが取れなくなってしまう。
とは言え、その気苦労も最近は随分減って来たかな?
おやっさんにお礼の一言をかけ、千夜さんのいる部屋へ。扉を開けると中から一気にドラムの音が飛び出して来た。ちょうど曲の終わりで一番盛り上がる所だったので、思わず音圧に仰け反ってしまう。
「青空」
ドラムを叩き終えると、汗でへばりついた髪の毛を振り払った千夜さんが僕の名前を呼んだ。ずっと叩いていたのか、ほんのりとトレードマークの丸眼鏡が曇っている。
「良かった。早速だけど『8月10日』合わせるから、用意して」
いつもと変わらず的確に指示を出して来る。時間の勿体無い気持ちも良く解るので、僕も早速担いでいたエレキギターを準備し始めた。
「ごめんね。テスト期間中にライヴ組んじゃって」
演奏に入る前に千夜さんに声をかけると、面倒そうな顔で溜め息を吐かれた。
「もうその言葉は何度も聞いた。これ以上謝るな」
「そうだね」
千夜さんのテスト前後に練習やライヴが入る度にこうして頭を下げている気がする。その度に向こうが嫌な顔を見せるのも分かっていたので、手短に切り上げた。
「今は叩きたいからやっている。学校のテストより、今は叩きたいから」
独り言のように千夜さんが呟くと、僕が返事する間も無くカウントを取り始めた。ウォーミングアップもバックの音源も無しにいきなり曲に入ったので戸惑う。
でも、全員が揃っていない時にも僕一人で練習ばかりしているおかげか以前よりも難無くついていけた。ベース音の無い分は千夜さんのドラムでリズムを取り、曲は自分が唄う。ヴォーカルの代役をこなす事も昔に比べ大分慣れて来た。
カラオケに通い喉を鍛えるなんて事はしていないけれど、家で弾き語りするや曲創りの時には自分で唄うし、音域とか声の響き方ぐらいはきちんと把握している。他人に聴かせる為に唄っている訳ではないから勿論大したレベルじゃない。
しかし音に合わせて唄う、しかも自分が奏でている音だから解放感は大きい。酔いしれているとすぐにギターがおざなりになってしまうからストレス解消までは行かないけれど。
練習でも千夜さんは本番と変わらず全力で叩く。だからこちらも手を抜くとすぐに文句が飛んで来るから、本気でギターを鳴らす。さすがにいきなりだったから指がおっつかない部分もあったものの、何とか乗り切れた。
「今日はいつになく気合入ってるよね」
適当なフレーズで指の運動をしながら、大きく肩で息を吐く。テープを録ってからと言うもの、千夜さんの『days』に対する力の入れ様が半端じゃない。
「くだらない事言っていないで、次」
厳しい一言が飛んで来て、僕はギターを構え直した。
始めた当初は自分の事だけで精一杯だったけれど、今は相手の事も見れるようになっている分、どのくらい力量を持っているのかと言う測りも自分の中にできて来る。
出会った時から千夜さんは凄く叩ける人間で、特にここ半年くらいで更に懐が広がって来た印象がある。たくさんのバンドを掛け持ちしていた分、ロックだけの叩き方に囚われずに曲に合ったアレンジで演奏してくれる。
攻撃的で鋭角のあるドラミングが主流なのは変わらない。でもそこから深みがあると言うか、多少柔らかくなったと言うか、緩急のある叩き方を見せるようになって来た。
以前は頑なに引かなかったから。
前へ出る姿勢はそのままに、自分を一番出せる所を虎視眈々と狙っている感じかな?
これまでの『days』の音楽は4人が全員「前へ前へ!」で衝突し合い創り上げて来たグルーヴで成り立っていたのが、千夜さんの正式加入からまた変わって来た。
黄昏は相変わらずと言いますか、常に自分と向き合い闘いながら唄い続けていて、イッコーは他のメンバーの楽器を引き立てようと――と言うと正確じゃないか。相手の旨みを引き出す演奏、を心掛けるようになっている。お陰様でこちらの負担は軽くなった。
ずっと周りに追いつこう追いつこうと必死になってギターを掻き毟っていたから、僕は。イッコーに言わせればそれが味になっていたらしい。
その分、より自分のギターに集中できるようになれた。
最初の頃、僕のギターは黄昏が気持ち良く唄えるように後ろでコードを鳴らしているだけで、それが実際効果があったのか良く判らなかった。そう思えるほどに黄昏は歌に集中して声を張り上げていたから。
だから周りの事よりも曲に合うギターを、と思って鳴らし続けていたけれど、自分のレベルがまだまだ低かった駆け出しの時は上限の力を出しても周りの3人におぼつかない。そう悟った時からは、とにかくがむしゃらに周りに追い付く事だけを考えていた。
そしてここまでやって来た。
そう、僕はまだ他の3人と違い自分にとっての『ギターでの表現方法』を知らない。
「暑い……」
2曲目の『ブルーベリー』を終えると着ていた白のウインドブレーカーを脱ぎ、そばのマイクスタンドにかけた。密閉されているのはどこのスタジオも変わらないけれど、『N.O』は地下にあるからそれだけで換気されていないイメージを受ける(実際はしている)。
ちょっと千夜さんに断りを入れ、フレーズのイメージを掴もうとしばらく時間を貰う。
寝る直前までギターを握っていたとしても一度寝てしまえば頭の中のイメージはリセットされてしまうので、翌日また組み直さないといけない。
夢の中でも延々ギターを引きまくり、ちっとも思ったようにできず疲れた気分のまま目が覚める、なんて事もしょっちゅうありますが。
今は一時期みたいに新曲をたくさん持って来る事はなく、厳選された曲の強度を上げる事に励んでいる。客受けが良く、まだまだ曲自体のレベルを引き上げられそうな物を選び、ライヴでも演奏する曲を今はなるべく固定する方向で。
幸いにもラバーズ以外のライヴハウスで対バンできる機会が多く、今日この後入っているライヴで音源を作ってから3度目。一度肩の力が抜けたのが大きかったのか、今の所順調に事を運んでいる。黄昏だけは毎回同じ歌を唄うのは面白くないと言っているけれど。
どのくらいのペースで新曲を作っていけばいいのかが2年近くやっても全然見えて来ないから、今はひたすらストックを貯めるように心掛けている。イッコーの唄う分は増やしてもいいと思うので、そちらにも回せるようにリフやフレーズは常日頃から生み出す努力を怠っていない。
反復練習も大事だけど、それだけだとアドリブが効かなくなるから。ましてや他の3人なんて反射神経で動いている部分も多々あるので、僕も本番で臨機応変に対応できるようにならないと。その為にも懐の引き出しを多くしようと言う意志を常に胸に留めている。
ただやっぱり、周りに合わせよう、ついて行こうと言う意識がこれまで強過ぎたせいか、今はまだ我を出すまでには至っていない。
ならそこで一体自分の『我』って何?と考えるけれど、これがまた……。
曲調だとか、ギターのフレーズだとか、歌詞だとか。そう言う部分で自分、青空の色は出ているとは思う。でもそこから先が見えない。
色は判ったから、じゃあどうすればいいの?
考えながら弾いていたギターを止め、千夜さんの方を見る。この長方形の部屋、二人の距離が離れているのは相手の事を考慮しているから。一番嫌われていた頃よりは随分軟化したとは言え、性格そのものは以前と変わりない。
千夜さんは念入りに普段余り叩かないフィル・イン(小節の区切りを違うリズムで叩く手法)を繰り返している。元々直線的なビートを刻む事が多く、技巧に頼る事をしない。変則的なリズムも得意なのは他のバンドで叩く所を見ているから分かっているけれど、作曲する方が8ビート以外ほとんど無理だから、フィル・インでその味を出していたりする。
しかし、いつ見ても千夜さんのドラミングは惚れ惚れしてしまう。
奏でる音もそうだけど、叩いている姿がとても美しい。背筋もしっかり張っていて、スティックの先端まで意識が伸びているように映る。
僕も一度真似してドラムに座った事があるけれど全然叩けず、大苦戦している姿をイッコーに笑われて以来人前で叩く事はしていない。一人で練習スタジオに入った時に気分転換で基本中の基本、8ビートを刻むくらいで、手足を別々に動かすなんてもっての他。
千夜さんにとってドラムは唄うのと変わりないんだ、きっと。
そこまで僕のギターも行ければ新しい世界が見えて来るだろう。でも現実はかように難しい。時々可能性と言う無限の広がりをギターの中に感じ、目が眩む事もある。
それでも、昔より少しずつギターに触れるのが楽しくなって来ている自分がいるのも確か。できる事が増え形が様になって来ると、胸を張れるようになる。
「おめー、ほんとギター弾いてる時おもしれーよな」
練習中に指を差されイッコーに言われた事がある。
あまりに真剣な顔をしているからかと思ったらどうやらそれだけじゃなく、喜怒哀楽がそのまま顔に出ているらしい。上手く弾けない時は悔しい顔をしているし、予想外にいい演奏ができた時にはとても生き生きしていたりと。見てて飽きないと言われた。
そんな僕とは対照的に、千夜さんは口を真一文字につぐみドラムを叩いている。
冷静を努めその表情はかなり多彩――なんだけど、眉間に皺を寄せていたり、ムキになっていたりと攻撃的かつ負の感情で溢れている。底抜けに明るいパーティーチューンなんかの時には、ノリのいい跳ねの利いたリズムを刻みながらも笑顔を見せない。
笑顔?
ふと大きな疑問が頭をもたげ、僕は咄嗟に振り向いた。
そう言えばこの娘は、僕達の前で笑顔を見せてくれた事があったっけ?
どうして今まで疑問に思わなかったんだろう?いや、思った事は何度かあるはずなのに、あまりに無愛想な態度にすっかり慣れてしまい、疑問を頭の片隅に押し込めていたのか。
例えばキュウはいつも満面の笑みを見せてくれる。その笑顔は見ているこっちが元気になるくらいの、夏の太陽の下で咲くヒマワリみたいに明るい。
なのに千夜さんが楽しそうに笑うのは一度も見た記憶が無い。ライヴが上手く行った時とかに、微笑みくらいなら見た事があるけれどそれも数える程度。心を許してくれた瞬間は幾度かあっても、笑顔を向けてくれた事は一度も無い。
きっと笑った顔は最高に可愛いんだろうなと思いつつも、想像できない自分がいる。そういや昔も同じ事を考え、結局思い浮かばなかったっけ。
「…………。」
僕の視線に気付いた千夜さんが腕を止め、こちらを睨み続けている。また怒られるのかと思ったら、何も無かったように練習を再開した。前みたいにいい加減相手にするのもうんざりだからなのかも知れないけれど、少しずつ当たりが弱くなってる感じもする。
単に突っ張っているのに疲れたからなのか、距離が多少縮まったのか、どちらにしろ物腰が柔らかくなってくれれば僕の不安も随分解消される。『days』の2大不安要素の一つが千夜さんだから。もう一つは勿論黄昏。
怒鳴られるのに慣れ過ぎているせいかほんの少し物足りなく感じてしまうのは、僕がマゾだからなのかしら。これ以上胃を痛めるのは正直ご免だけどね。
「他のみんなは?」
何曲か合わせ終え、小休止を取った際に、向こうから口を開いた。
「直接ライヴハウスに向かうよ。キュウや愁ちゃんは学校があるし、ここには来ないよ」
「そう」
僕が答えると安心したように、小さく安堵の息を漏らす。3ヶ月経った今でも千夜さんはキュウが苦手。正反対に近い性格なのに向こうが一方的に慕っているから、かなりうざったがっている。その分僕への矛先があちらに向いた訳で、安心するような可哀想な。
彼女達がいるおかげで黄昏と千夜さんが取っ組み合いの喧嘩を起こす事も無くなったし、いい事ずくめ。それでも二人の仲がましになったかと言えば大差無く、毎度のように練習やステージで火花を散らしている。もうその件に関しては遠目で見守っておく事に決めた。
無理に仲良くさせようとした所で徒労に終わるのは日の目を見るよりも明らか。なら二人をなるべく近づけさせないように、事前に対策を練っておくしかない。
磁石の同極のように二人は反発し合う。似た者同士と言えば似た者同士だからか。共に自己中心的で譲らない性格だもの。
「そう言えばさ」
少し気になったので訊いてみる。
「千夜ってどうして黄昏を嫌ってるの?」
「嫌いなものは嫌いだから」
即答され面食らう。僕が眉間に皺を寄せていると千夜さんがスティックをドラムの上に置き、小さく息を吸い込むと一気に喋り出した。
「こちらの神経を逆撫でする事ばかり言う、バンドに対するやる気の無い姿勢、自意識過剰で高慢な態度ばかり取る、周りの人間の気持ちを分かっていない、時間にルーズ、いつもあくびばかりしている、サボり癖が染み付いている、自分で動こうとしない……」
「わ、分かったから、もういいよ」
放っておいたら打ち止めになるまで出てきそう。本人に当てはまる事柄がいくつかある事にも自分自身気付いているのかな?
今日改めて、二人の仲はどうにもならない事を思い知らされた。
疲れた心を引きずり練習を再開する。千夜さんはさっきよりもドラムを叩くのに力が入っていて、これ以上余計な事を口にして爆発させるのはご免だから僕も黙々と指定された曲を順に演奏して行った。
『days』の持ち曲は現在20曲も無い。ギターとコーラスが増えた事による曲の再構成で没になった物も多く、第一対バンだと5、6曲演奏するのでやっとだからたくさんあった所で人前で聴かせようにも限界がある。
けれど創らない事には作曲の技量も上達していかないので、常に創り続けるようにしてはいる。千夜さんと相談し合いながら作曲しているのも数曲ある。でもまだ4人で演奏するには時期が早過ぎると思い、現在は納得の行くまで試行錯誤を繰り返している途中。
昔よりは、物事を長いインターバルで捉えられるようになってきた。とは言え相変わらず、上手く行かない事にぶち当たった時は人生やめたくなるくらい落ち込んだりもする。
そろそろギターを初めて2年。昔からは考えられないくらい上達したと思う。
本当に、ギターにはいろいろ教えて貰った。
人間繰り返し練習する事で何事も上達できる事、何事も始めは上手く行かない事。
引き返したくなる気持ちは経験を積み重ねて得た自信で抑えられる事。
才能なんて無くても自分がやりたいと思えば続けていられる事。
新しい発見で僕の中にある世界が少しずつ広がり、より鮮明になっていく事。
ギターを握る度に思う。これは僕が世界とアクセスする為の手段なんだと。
言葉や文字と同じで、奏でた音を通じ、僕は目の前の世界に手を触れられる。そして同時に、自分の内にある世界にも指が届く。
後先じゃなく、自分と現実が並列して存在している事に、僕は気付いた。
昔小説を書き始める前に思った事がある。誰かに向けて伝えたいからこそ、自分の中にあるものを形にするんだって。自分一人で完結してしまうものなら、ずっと頭の中だけに閉じ込めておけばいい。
けれどそれは間違いで、自分が吐き出した物に心を動かされる事もある。それを知った時に、現実と僕の距離を考えるようになった。
僕がいるからこそ現実があるのか、現実があるから僕が存在するのか。
その答えはどちらも正解で、二つは密接に繋がっている。
自分の奥底には、延々自問自答しているだけじゃ深く潜れない。目の前に形にして、そこで新しい何かを得られる。そうして心の中に情報と経験を積み上げて行くんだ。
ギターを弾き、見えた世界がある。音楽に触れていなかったら、一生知る事のできなかった感覚がある。それを知れただけでも僕は続けて来て心底良かったと思っている。
「そろそろ時間」
千夜さんが壁時計を見て呟いた。どうやら音色の海にたゆたっていて、すっかり時間の経つのを忘れてしまったらしい。
最近ギターを握っていると、だんだん哲学的な方向へ思考が行ってしまう。抜け出せない深みにはまっているようで、イッコーの弾く開放的な音色とは全くの正反対。
ずっと冷房を入れないままで楽器を弾いていたのでアンダーシャツが凄い事になっている。中を脱いだ所で寒く感じる気候でもないから今の内に着替えておこう。
ギターを荷物の所へ持って行き服を脱ごうとすると、ちょうど千夜さんが椅子に腰掛け眼鏡を布で拭いている姿が目に入った。中々見られない光景に視線が釘付けになる。こちらの目線に気付くと、慌てて椅子を半回転させた。悲しい。
「前々からずっと気になってたけど、そんなに目悪いの?」
千夜さんの背に疑問を投げかけてみると、細目で睨み返された。
「悪いか」
「悪いって事はないけど……ドラムの時もずっとしてるから。外れそうにならない?」
「そんな我を忘れるほど滅茶苦茶に叩かない。そんなにおかしい?」
眼鏡を外している時でも視線の鋭さは変わらない。
「いや、似合ってると思うよ、トレードマークで。キュウがかけてるのは伊達メガネだから、どうなのかなーって思っただけ」
僕の言葉に千夜さんは口を丸くした。てっきり近眼だと思っていたらしい。いつもキュウににじり寄られていても、自分から相手に何か訊くなんてほとんど無いものね。
千夜さんがまた後を振り返った隙に、素早く縞模様のYシャツのボタンを外し汗だくのTシャツを脱ぎにかかった。
「何をしている!!」
半分脱いだ所で突然背中から千夜さんの怒声が飛んで来た。慌てて振り返るけれど、首を通している所で視界が遮られている。
「ごめん、ちょっと後向いてて。Tシャツが汗だくで」
「何の断りも無しに私の前で脱ぐな!」
ごもっとも。女性がいる場所なのにうっかり普通に服を脱いでしまった。
「やるなら外で着替えて来い!」
おこられた。
仕方無いので一旦脱ぎかけの服を戻し、部屋を出て行く。着替える人が外へ出るのは逆なような気もしつつ、頭のてっぺんまで茹で蛸になっている千夜さんの顔を見ると何も言い返せないので渋々引き下がった。ロビーで順番待ちをしている人達に見られ恥ずかしい。
「これから二度と私の前で服を脱ごうとするな。判ったか」
脱いだシャツを手に中へ戻ると厳しい顔で千夜さんに言い付けられてしまった。それを言ったらライヴ中にすぐ暑さで上半身裸になるイッコーはどうなんだと思っても、口に出すのもはばかられるほど頭に角を生やしていたので素直に従う事に決めた。
こう言う時、やっぱり男同士って楽だなあと思う。でも女性の立場になってみれば、閉め切った部屋で男性と二人きりの時に相手に突然服を脱がれたら驚くのは当然だろう。
女性の扱いって本当に難しい。
ダウナーな気持ちを引きずりつつ荷物を手に部屋を出て、カウンターで請求を済ませる。ギターよりドラムの方が全身を使う分運動量は格段に多いはずなのに、大して息も切らさずに済ました顔でいる所は凄い。男性と女性の汗のかき方って違うのかな?
「何ぼさっとしている。行くぞ」
疲れた体の僕を置き、千夜さんは一足先に出口の階段を駆け上がって行った。一体あの小さな体にどれだけのパワーがあるんだろう?ただただ感心する他無い。
「これからどうするの?」
「どうするも何も、ライヴだろう。今日は私もリハーサルに出れる」
「じゃなくて、まだ時間あるし。ご飯とか食べた?朝から食べてないからきつくて」
「コンビニのゼリーで済ませる。どこかの誰かみたいに食いしん坊じゃないから」
「どこかで一服していきたいな……。この辺のお店って知らないけど」
「そんな呑気な事ばかり言って遅れたらどうするつもり」
「そうだね。じゃあ先に荷物置いてからどこか探そうよ」
会話しながらライヴハウスへの道を歩いていると、前を行く千夜さんが足を止めた。
「貴様、素かそれとも、確信犯なのか?」
「え?そんな事、急に言われても……」
しどろもどろで答えられない僕を見て、見限ったような目で苦い顔をした。
「……もういい。とにかく、ナンパするつもりならキュウでも引っ掛けて」
どうやら、また同じ過ちを繰り返してしまったみたい。僕としては普通に千夜さんとバンドや音楽の話でもしたかっただけなんだけれど……。
「別にそんなつもりで言ったんじゃないってば。もし千夜さんをデートに誘うんだったら、バンド以外の所でちゃんと約束を取り付けるし」
「ふさけた事を言うな!!」
弁解したら、間髪入れずに千夜さんが真っ赤な顔で怒鳴り返して来た。
どうしてそんなに怒るんだろう?とよくよく考えたら、とんでもない発言をしてしまった自分に気付き、頭のてっぺんまで一気に血が昇ってしまった。
「ごごごごめん!今の無し、今の無し」
「今ので貴様の私を見る目がよ―く解かった」
「例えだってば今のは。単なる言葉のあやで、別にデートしたいと思ってた訳じゃ全然なくて、あ、でもかと言って千夜さんに魅力が無いのかって言えばそうでもなくて、3人の中じゃ一番美人だと思う訳で――ええと、何言ってるんだろ」
話せば話すほどボロがこぼれ出すようで、自分でも何が何だか。すっかり気の動転している僕を眼鏡のレンズ越しに、凄まじく冷ややかな目で見つめ返している。
「一つ訊く」
上手く言葉を繋げずに四苦八苦している僕に、千夜さんは真剣な面持ちで訊いて来た。
「私をメンバーの一員として見ているのか、それとも女として見ているのか、どちらだ?」
これまた凄まじい二者択一を投げつけられた。
「そ、それは勿論ドラムを叩いて欲しいから誘った訳で……女性だからどうかなんて言うのは二の次三の次で……だからついそんなの意識するの忘れてしまう訳で……ああ、でも女性らしさを感じないかと言われれば全然そんな事は無くて……」
出て来る答えはひたすら曖昧なものでしか無い。今は昔と違い仲間意識が自分の中に育って来ているから、特別扱いして考える事が無くなり始めているのは確かに感じる。
とは言え千夜さんの中に女性を感じなくなったなんて事は無論無く、むしろ今まで出会って来た女の人の誰よりも僕に女性を意識させる。それはメンバーの中で唯一異性だと言う事と、男らしい立ち振舞いと言葉遣いにあるから。
だからこそ何気ない仕草に知らず知らずの内に目を奪われている事も多々ある。
「だっ、だからっ」
これ以上何を弁解しても泥沼にはまって行くのが目に見えたので、一気に結論付けた。
「『days』のメンバーとしても一人の女性としても、ずっとそばにいて欲しいと思うよ」
「なっ……!?」
――自爆した。
「うわあああああああああ、今のっ、今の聞かなかった事にして!!」
「あっ、おい……!」
千夜さんの制止を振り切り、僕はギターケース片手に全速力でその場を離れた。そりゃもう、お尻に火が点いた位の全速力で。
こっ。言 葉 を ま ち が え た。
両方を肯定しようとしただけなのに、気が気で無くてついプロポーズまがいの発言をしてしまった……!ああああああああああ。
徳永青空、20年間生きて来て、人生最大の恥を曝してしまいまった。(←錯乱気味)
やっ、やたらと、春の風が胸に染みるなぁー……。
しばらく迷走の後、リハーサルの時間でライヴハウスに到着した時には勿論、その日は最後まで千夜さんの顔をまともに見られなかった。
ライヴの出来?そんなの、全く覚えちゃいないです。