→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   064.今日は雨のち晴れ、夕方は曇り

 ただ何もしないで、虚ろな目で自分の部屋の天井を見上げている。
 外は昨日の夜からずっと雨が降り続いていて、途切れ途切れに雨粒が音を立てる。このアパートの築年数が経っているせいか、部屋を閉め切っても雨音がやけに響いて物悲しい気持ちにさせた。ぽつぽつ、ぽつぽつ。
 今はMDを引っ張り出し音楽を聴く気になれなかった。新しく買ったヘッドホンがあまり合わなくて長時間つけていると耳が痛くなるのもある。でもそれよりも、同じリズムで落ちる雨粒の音だけに身を投げ出していたかった。
 閉め切ったカーテンの隙間越しに外を見ると、徐々に夜が明け始めていた。どうやらこの調子だと、今日もお日様を見られそうにない。
 そろそろ梅雨の季節が訪れ始めようとしていた。
 体が重い。バイト、バンド、作詞作曲と絶え間無いローテーションを続けていると、ほんの少し休みを入れた所で全快するまで至らない。
 昨日代えたばかりの白いシーツの上に寝転んだまま、四肢を思い切り伸ばす。狭い6畳間なのでカーペットの上に敷いた布団の周りにはなるべく物を置かないようにしているから、自由に体を動かせて気分が良い。
 休みの無い生活を続けていると布団を出し入れするのも億劫になり、寝るスペースも読みかけの雑誌やらCDやらで埋まって来る。一日で家にいるよりも外出している方が長く、何だか家賃が勿体無い気もするけれど、世の大半のサラリーマンは僕と同じなはずだろう。
 けれど残業有りの激務を繰り返し、休日にしか余暇を得られないと思うと社会人はわざわざ家庭を作るなんて必要がないようにも思えて来る。ただそれは父親視点の考えで、母親からしてみれば自分の子供と触れ合う時間の方が長い訳だから一概にそうとも言えない。
 全国のお父さんのみなさん、本当にお疲れ様です。
 歌詞のネタにもならない意味も無い思考を繰り返しながら、布団の上で何度も寝返りを打つ。全身はまだ疲れが残っているのに、やけに目が冴え中々寝付けない。
 だんだんと自分を取り巻く状況が変わって来たせいもあるんだろうか。
 同じ悩みを延々持ち続けている方が、思考回路にループするようになり落ち込む事にさえ慣れて来る。だからせわしなく毎日新しい状況が押し寄せて来ると、すぐに頭がパンクしそうになってしまう。今の僕はまさにそれで、随分心が疲弊していた。
 その中でバイトの時給が上がった事や、ライヴの動員が増えたおかげで予想外の収入が増えたりと嬉しい出来事もある。けれど大半は頭を抱えてしまうものばかり。
 落ち着いたと思えば次から次へ出て来る問題に、僕もいい加減辟易していた。
 とは言え何もかも放り出してしまう訳にはいかない。それが人間関係なら余計に。
 まさか千夜さんだけじゃなく、キュウともこじれちゃうなんて。
 あの日の夜にキュウはわざわざ僕に電話をかけてくれ、言い過ぎた事を謝ってくれた。ただ黄昏には本当に腹が立ったらしく、僕が言っても絶対に連絡したくないと返され、その後一時間近く一方的に愚痴を聞かされたりした。
 それでもあの後直接顔を合わせていないから、今日夕方の練習で顔を合わせた時に上手く喋れるかどうか、正直な所それほど自信が無かった。
 黄昏は愁ちゃんが無理にでも引っ張って来ると思うからおそらく大丈夫。でも、千夜さんは本当に来るのかどうか判らない。かと言って今回の出来事の前からスタジオの予約を入れてあったから、キャンセルするのはお金も勿体無い。
 幸い携帯の電源が切られていたのはその日だけで、こちらから千夜さんの留守録に連絡は入れる事ができた。キュウの方も直接連絡はつかなかったけれど、同じく留守録に声を入れている。聞いてくれていたら今日の練習の事は分かっていると思う……。
 前なら他のバンドでステージに上がる時を狙い、会いに行けた。正式にメンバーになってくれて嬉しい反面、その分直接会える機会も減った気がする。
 しかし悪いのは僕じゃないのに、どうしてこんなに気が重いんだろう。前に誤爆した気まずさなんて今はすっかり吹き飛び、早くいつもの顔を見たかった。
 千夜さんの事だから電話一本で一方的にバンドを辞め、何気無い顔でまた別の人達と組む事も十分有り得た。ただ、何度も脱退を経験している千夜さんにとっては痛くも痒くも無くても、『days』の音楽に必要不可欠と思い信頼して来た僕達には非常に辛い。
 今後二度とこうした思いをしないように、きちんと相手の事を知っておこう。また気まぐれに同じ事を繰り返させない為にも注意しておかなくちゃ。
 この件の事ばかり考えていると目が冴えてしまったので、体を起こしカーテンを開け、紫色の空をしばらく無心で眺める事にした。少しするとベランダ向こうの線路を始発電車が横切って行く。始発だから路面電車みたいにゆっくりと走り、妙な味があった。
 そう言えばここ最近、黄昏の家から朝焼けを見ていない。愁ちゃんがお尻を引っ叩いてくれているおかげか、元々面倒臭がりで出不精な黄昏も呼べばすぐに動いてくれるようになったので、こちらから無理して行く必要が無くなったのもある。
 キュウの話だと愁ちゃんが黄昏の家にテープを渡しに行った日をきっかけに、まるで押しかけ女房みたいになっているらしい。そんな話を聞いた日にはますます家に行き辛くなる。イッコーは羨ましがっているようだけど、恋愛に対し憧れを持っていない僕には何とも思わなかった。黄昏が幸せで、ステージの上で唄ってくれればそれでいい。
 重い体を引きずり、台所からコンロの上に置きっ放しにしている烏龍茶入りの鍋を持って来る。それをこたつの上に置き、机の上の旧型パソコンを立ち上げた。機械音を立て本体が唸り始める。背もたれに体を預け、完全に立ち上がるまで外を眺めていた。
 最近また、しばらく冬眠していたパソコンを稼動させている。大してパソコンの事も詳しくないしそこまで興味がある訳でもないので親のお下がりのまま。性能が良ければパソコン上で音楽を編集できるらしいけれど、そんなお金も無い。
 半まなこでテキストファイルを開くと、文字の羅列が画面上に表示される。回らない頭で記憶の糸を手繰り寄せながら、最後の文章尻から思い浮かぶ言葉を打ち続けて行った。
 タイトルも何もない、日記まがいのテキスト。
 テープを作り終え一段落してからと言うもの、毎日パソコンの前に座り取り留めも無い文章を書くようになった。単なる気まぐれで始めた物なのに、三日坊主な僕が意外や意外、時間がある日には必ずと言っていいほどキーボードを打ち続けている。
 最初は登場人物が誰なのかも分からない一人称なテキストが、一日一時間程2ヶ月続けて打っている内に少しずつ小説みたいなな形になって来た。
 一,二回で止めようと思っていた物が、今は羽を得た魚のように次々と言葉が生まれて来る。そもそも音楽を始める前は私小説を書いていたし、歌詞を書き続ける事は絶やしていないので思った以上に文章を打つのに苦労はしない。
 今では心の緩衝材代わりに、一つの趣味として続けていた。
 歌詞を書くノートは別にある。だからここでは日常感じていながら歌詞にできなかった思いや言葉を語り口調で好き勝手に綴ってある。
 前回のライヴで自分の演奏が見えた事もあってか、最近は特に書く言葉の数も増えて来た。時々頭から読み返してみると、自分の日記を読んでいるみたいでくすぐったい。
 昔書いた『mine』みたいにきちんとした小説として新しく構想を練るのもいいと思うけれど、今そんな時間は取り様が無い。ここで書いた物が『days』の詞世界にフィードバックできればと思いながら、題名も無いテキストを打ち続けていた。
 何となく、最後に自分が何てタイトルをつけるのかは薄々予想がつく。壁に飾ったみょーさんから貰った鎖の絡まる石の絵を眺めながら、鍋の烏龍茶に口をつけた。
 適度に打っては休み、間にストレッチをしたり朝風呂を湧かしたりしながら、ちまちまと文章を進めて行く。一人暮らしを始めてから、ご飯を作ったり洗濯をしたりと家庭的な事が日常的に付き纏ってくるのを実感した。家にいる時は全部親任せで好きな事だけやっていられたから、うざったく感じる事もある。
 けれど一人暮らしを続けて行く内に、日常的な時間がバイトやバンドで疲れた自分を癒してくれる事に気付いた。何度も何度も壁にぶち当たり逃げ出したくなる時なんかに、頭を空っぽにしていられる時間はとても貴重なものとなる。
 このままずっと何も考えず、周りに見える建物や様々な物と同じ風景の一部に溶け込み、いつまでも変わらない時間を過ごしていたい、なんて逃避めいた願望もあったりするけれど、そばに置いてある目覚まし時計の針を見ると否応無しに現実に引き戻された。
 なるべく嫌な未来を考えないようにし、少し早めの時間に準備を済ませ家を出る。朝方降り続けていた雨が嘘のように止み、空には太陽が燦々と輝いていた。てっきり一日中雨模様と思っていたのに、風が強くどうやら雨雲を全部持って行っちゃったみたい。
 電車に乗ろうと駅方面へ徒歩で向かっていると、けたたましいベルの音が懐のポケットで鳴った。俗に言う黒電話の音が僕の携帯の着信音。以前電車に乗っている時に突然どこからともなく電話のベルが聞こえて来て、腰が抜けそうになるほど驚いた事があった。そのセンスの良さと着眼点に脱帽して以来、僕もあやかっている。
「あ、せーちゃん?もう家出たの?アタシ今、家でまったりしてるんだけど」
 常にテンションの高いキュウの声。名乗りもせずにいきなり用件に入るのはいつもの事。
「出たけど……練習は夕方の5時半からだよ。それより学校は?」
「あ、今日起きたの昼だったから。夜通し男友達何人かと遊んでて」
 そう包み隠さず話されると、萎えてついつい電話を遠ざけたくなる。
「愁ちゃんはちゃんと授業受けに行ってるでしょ。明日は休まないようにね」
「わかってるわよぅ。せーちゃんの頼みなら」
「前みたいに一日だけ行って次の日さぼる、って事ないように」
「バレてる……」
 小声の呟きは耳に届いたけれど、追及は止めにした。学年が変わってもさぼりがちなのは直っていないようで、こうして僕が度々注意する。とは言いつつ僕も短期間とは言え登校拒否の時期もあったので、偉そうな事は言えない。
「ところで、連絡あった?」
 訊かれたので千夜さんから返事の無い旨を伝えると、受話器越しに溜め息をつかれた。
「しょーがないわね、おねーさまを信じるしかないか。愁はちょっと遅れて直接スタジオに行くって言ってたから、先に合流してたそ迎えに行かない?」
「え?うん、いいけど……」
 久々に黄昏と二人きりで話したかったけれど、断るのも何なので了承した。
「イッコーはその足で拾えばいいでしょ。無職だから何もやってないんじゃない」
 酷い言われよう。でも夕方に店を開ける準備を手伝うはずだから、少し遅れるかも。
「ま、おねーさまが来なかったらその時はその時で次の手を打ちましょ」
「そ、そうだね」
 キュウの意気込み具合にちょっと驚いてしまった。僕は今日来なかったら半分諦めていたので、後向きにならないその姿勢に少し心が揺さぶられる。
「何よ、元気のない声しちゃって。そんなんじゃ女の尻は捕まえられないわよ」
 ――状況が間違った方向に向かっている気もする。
「もー、しょーがないわね……」
 溜め息混じりにキュウが呟くと、受話器の向こうで何やら衣擦れのような音がした。声が聴こえて来ないので、切れたのかと思い通話口に耳を当ててみる。
「……あっ……」
 と、突然甘く切ない喘ぎ声が鼓膜に届き、心臓が飛び出そうになった。
 そのまま、断続的に小さな喘ぎの混じった息遣いが携帯の向こうから聴こえて来る。
「なななななな、何やってんの!?」
 駅前の商店街を歩いている事も忘れ、僕は裏返る声を大に通話口に叫んだ。
「あれ、お気に召さなかった?せーちゃんが寂しそうな声してたから元気づけてあげようと思ったの、体張って」
「けけけ結構です。からかわないで下さい」
 何故か敬語になる自分。
「あ、今外だっけ。残念ねー、家にいたらオカズになってあげたのに」
「そう言うの間に合ってますから」
 的外れな返事をし、電話を切る。通行人の視線を一斉に浴びている気がして、出そうになる溜め息を飲み込むと足早に駅に向かった。踵が重い。
 いつに無く真っ赤になっているのが自分でも解る。胸に手を当てなくても心臓の動悸が聴こえて来て、耳先まで熱を持っている。切符を買うのに財布の中の小銭を出すのさえ予想以上に手間取ってしまうほど、今のは強烈過ぎた。
 妄想の世界と直接耳にするのとでは、破壊力が違い過ぎる。
 平静を取り戻そうと駅のホームで深呼吸をしていると、またキュウから電話が来た。
「ゴメンゴメン、前もってやるって言ってればよかったわね」
「そ、その時点でお断りしてます」
「何だ、つまんないの。じゃ、観覧車の下で待ってるから来てねー♪」
 一方的に言うと通話が切れる。何気に言われた『つまんない』の一言が僕の男としての存在を頭から否定されている気がして、沈んだ気持ちのまま電車にゆらりゆられた。
 なるべく今の出来事を振り返らないように外の流れる景色に目を移し時間を過ごし、終点の水海で他の乗客と一緒に降りる。この地域で一番大きな街なだけあり、若者だらけ。南側の改札口を出てショッピングモールの方へ向かうと、女性達で道が賑わう。
 信号待ちで男に声をかけられる綺麗な人達を不憫に思いながら、横断歩道を渡り約束の場所へ出た。見上げれば赤い観覧車が目に飛び込んで来るこの石畳の広場はいつも10代20代の若者でごった返していて、同年代の僕は少し引いてしまう。ファッションや流行にお金をかけず、ひたすら音楽に身を捧げているせいもあるだろう。
「あれ、先に来てたんだ、早いわねー」
 後から声をかけられ振り返ると、体に張り付いた緑のキャミソールですっかり夏モードのキュウが立っていた。髪飾りで金髪を後でまとめていて、いつもと違った感じを受ける。眼鏡もサングラスのような色眼鏡で一風変わった印象を受けるけれど、垂れる赤紐は同じ。
 こうした玄関開けたら3秒でごはん、みたいな露出度の高い服装は目に痛い。春でも開放的な姿をしていたから夏だとどうなるかと前々から思っていたけれど、この子には羞恥心なんてないのかとさえ思ってしまう。今日は風があっても蒸し暑いとは言え……。
「相変わらず、凄い格好してるね……」
「あ、コレ?若いうちはスベスベしたお肌見せてナンボだもの。シャワー浴びた後だし、上から着て汗かいたら嫌じゃない?」
 湿った気分も吹き飛ばす笑顔で言われると頷くしかない。第一こんな女の子と知り合う事自体いけない事をしているようで、不謹慎な気さえする。
「じゃ、どーしよっか?まだ時間あるけど、たそ迎えに行く?」
「そうだね……そうしようか」
 キュウを連れて楽器屋を廻っても向こうがつまらないだけだろうし、早めにスタジオへ行っても待たないといけないはずなので素直に頷いた。
「何よ?その浮かない返事。せっかくこんな美少女が横にいるってのに」
 僕の顔を下からキュウが覗き込んで来る。ラインの浮き出る胸につい目が行ってしまい、慌てて目を逸らした。電話の声を思い出してしまいそうになるから今日はずっと直視せずにいたのに、近寄られるともう理性を保てなくなりそう。
「ダイジョーブ?近くだし、何ならアタシの家で休んでいってからでもいいけど?」
 甘い誘惑が脳裏に響き、懸命に妄想を吹き飛ばそうと目が廻るくらい頭を左右に振った。もし誘いに乗ってしまったら、千夜さんの事を忘れてしまいそうで怖い。
「そっ、それはともかく、行こう、行こう」
 周りに誰かいないと僕一人だけじゃ限界がある。大股で逃げるように先を急ぐと、走って来たキュウが僕の右腕に飛び付いた。
 予想外の行動と漂う香水の匂いとで、視界が眩んでしまう。
「ちょ、ちょっとちょっとちょっと」
「いいじゃない別に。いい思いさせてやってるんだから黙ってなさいよ」
 無茶苦茶な言い分な気もするけれど、諦めて好きなようにさせておいた。勿論死ぬほど恥ずかしい。でも、昨日男友達と何かあって寂しい思いをしているのかも知れない、なんて勝手な想像をしてしまうと、こちらの気分だけで突っ撥ねる訳にもいかなくなる。
 そう言う訳で黄昏の家までの道程、まるで恋人みたいに右腕にしがみつかれたまま道を歩き続けた。それ以上変な真似をして来なかったから良かったけれど、内心ずっと気が気で無い。でもその分、千夜さんの事を考え頭を悩ませる事も無かった。
 僕の事を考え、キュウはこうした真似をしてくれているのかな。
 普通ここまでされると気があるのかと勘繰ってしまうけれど、不思議とこの子に対しては全然恋愛感情も浮かばない。その立ち振る舞いでこちらが割り切っているせい?
 でも、僕なんて勿体無いくらい相当に可愛いと思う、キュウは。もし柊さんや千夜さんと出会っていなかったら、迷う事無く付き合っていたに違いない。
 少し愛くるしい気持ちになり、僕は猫みたいに喉を鳴らしているキュウの頭を撫でた。突然の事の驚いたキュウが目を丸くし見上げて来る。
「ど、どしたの?」
「ん、何となくね」
 更に撫でてあげると、嬉しそうに顔をほころばせた。
 久し振りに黄昏のマンションへ来てみると、隣の廃ビルは相変わらず不気味にそびえ立っている。商店街の脇道を抜けた場所にあるから建て替えるのも不便なのか。
 赤錆のついた金柵を眺めていると、下の隙間から一匹の黒猫が飛び出して来て向こうに走り去って行った。早くてよく見えなかったけれど、最近住み着いた仔猫なのかも。
 僕のアコギのハードケースにいつもぶら下げている黒猫のマスコット、イーラを連想して、つい笑みが出た。今日はあいにくエレキ一本のみで、イーラは家でお留守番。
「キュウは来た事あるんだっけ?黄昏の家」
「あるわよ、大抵は愁のつき添いだけど。一人で来たことはないけどね」
 意外だなあと思ったけれど、人懐っこいキュウでも黄昏の相手は疲れるのかも。それに親友の恋愛相手に手を出すなんて真似は絶対にしないだろう、この子の性格なら。
 上昇するエレベーターの中でそんなやり取りをしていると、最上階に着いた。
 突き当たりの左手にある黄昏の家のインターホンを押し、しばし待つ。先に電話を入れた方が良かったかなと思っていたら、大して待たずにドアが開いた。
「あれ。てっきり愁だと思ってた」
 この時間には珍しく上下普段の服に着替え、やけにさっぱりした黄昏が出て来て少し面食らった。僕の後ろにいるキュウの姿を見つけ、物珍しい顔を浮かべている。
「やっほー。駄々をこねる前に迎えに来たよ」
「……一言多い」
 手を振る僕に溜め息をついてみせると、黄昏はぶっきらぼうに奥へ引っ込んで行った。上がれと言う合図なので、戸惑っているキュウに声をかけお邪魔させて貰う。
 久々に訪れた黄昏の家は思っていた以上に整理整頓が行き届いていた。玄関に出し掛けのゴミ袋が置かれていた事以外、洗濯物も洗い物も掃除も全部できている。
「あの子が結構来てるから。すっかり家政婦みたくなっちゃってるのよ」
 目を丸くしている僕にキュウが教えてくれた。なるほど、愁ちゃんがかまってくれるおかげで規則正しい生活を強いられているみたい。僕が何度言っても聞かなかったのに、相手が女の子だと聞き入れてしまうのは男の性なのかも。
「千夜は?来るんだろ?」
 自分の部屋に戻りベッドに背中を預けた黄昏がじれったそうに訊いてくる。いつもなら自分から千夜さんの話を振りたくない黄昏も、前は言い過ぎたと反省しているみたい。
「気になるんだ?」
「そりゃ……まあ。俺もさぼる気持ちはよくわかるから」
 分かって欲しくない。多分愁ちゃんに謝れ謝れとどやされているんだろう、へそを曲げているのが声を聴くだけでも良く判った。
「愁はまだ学校か。……まだ時間あるよな?じゃあ、俺ちょっと寝るから」
「寝ちゃダメだって。黄昏って少しでも寝るとすぐ稼働率悪くなるんだから」
 眠りの体勢に入る黄昏を引き止め無理矢理起こすと、不機嫌な顔であくびをついた。
 コーヒーでも煎れ眠気を覚まさせようと台所へ向かうと、キュウがテーブルの椅子に腰掛け携帯のメールにいそしんでいる。
「わざわざそこに座らなくても、向こうへ行ってくつろげばいいのに」
「え、あー……そうね。これ打ち終わったら」
 言ってから、キュウが黄昏の頬を引っ叩いた時の事を思い出した。あれ以来顔を合わせていないのなら避けたくなるのも仕方無い。それでも文句の一つも言わずに黄昏を迎えに一緒について来たキュウに感謝しながら、僕は3人分のアイスコーヒーを用意した。
 それから一時間弱、あまり会話は弾まなかったけれど黄昏の部屋で時間を過ごし、3人でスタジオへ向かった。深い話はできなかったし千夜さんの話題もあえて避けたので、最近の黄昏の身の回りについての話がメイン。愁ちゃんの話をする時にうざったそうに喋りながらもまんざらでもないような黄昏の顔が印象に残った。
 しかしやっぱり、男の部屋に女の子と一緒にいるのは恥ずかしくてたまらない。丈の短いピンクのデニムスカートを履いていたから、キュウが足を崩す度に隣で座っていた僕は目線のやり場に困って仕方無かった。
 イッコーに連絡を入れたら、案の定開店準備の手伝いで一緒に行けないとの事。長々と話して千夜さんへの不信感を増やすのも良くないと判断して、手短に済ませ電話を切った。
「それにしてもこの組み合わせってあんまりなかったわね」
 スタジオへ向かう為地下鉄への道を歩く途中、キュウが突然僕達に振って来た。
「俺が出歩く時は愁がいつも引っ張ってくるからな」
 眠そうな顔で僕の後を歩く黄昏が面倒臭そうに答える。
「前から黄昏はあんまり出歩くタイプじゃないから……」
 僕がフォローすると、疲れた顔でキュウは肩を竦めた。
「ったく、そんなんじゃ愁がカワイソーじゃないの、身の回りの世話ばっかりさせて」
「向こうが勝手にやってるだけだろ」
「そんな言い草ないでしょ。少しくらい感謝の念を見せたらどーなのよ」
「急にそんなこと言われても何すればいいんだ」
 まただんだん二人の間に不穏な空気が漂い始める。僕は黄昏がこう言う人間だと解って接しているから特別何とも思わなくても、キュウみたいな人付き合いを大切にする人間には黄昏の振る舞い方が頭に来るらしい。
「そんなの自分で……!って、たそには無理か」
「人の目の前で呆れ顔でため息つくな」
 頬を膨らませる黄昏にキュウは目を向けると、歩み寄って鼻先に人差し指を突きつけた。
「あのね、人の親切心は黙って受け取りなさい。そしてちゃんと、返すコト」
「あ、ああ……」
 剣幕に押し切られたように、小さな声で頷く黄昏。
「ったく、デートの一つや二つくらいしてあげなさいよ、アンタ暇人なんだから。バイクあるんでしょ?遊園地でも何でも連れてってあげれば、あの子単純だから喜ぶわよ」
「そういうものか……?」
 目で助けを求められても、経験の無い僕は困った顔で肩を竦めるしかなかった。
 今日のスタジオは『N.O』。予約も取り易く値段も安いから、夕方や祝日にも気軽に入れるのは大きい。何より、千夜さんが好んで使っているから簡単に会える。
 スタジオの扉を開ければ何事も無く先に入ってドラムを叩いていそう。不安を押し込もうといいイメージで頭を一杯にしながら、地下鉄で店に向かった。
「お、いらっしゃい」
 階段を下りて店の扉を開けると、いつもの顔でおやっさんが出迎えてくれる。僕達と同じ順番待ちの利用者のグループだろう、休憩所のソファを占領していて珍しく店内が賑わっていた。予約の確認にカウンターへ。
 千夜さんのサインがあるかと思ったけれど、帳簿には別の名前が記入されていた。平日で学校があるはずだから当然と言えば当然なのに、どこか期待していた僕がいる。
 狭い中で待っていても何なので、一旦3人共外に出る。適当な話題で間を作らないようにしながら3人が来るのを待った。少し蒸した昼時の空気が肌に纏わり付く。
 コンビニ前のベンチに腰掛けうだる黄昏を横目に見ていたら、キュウの携帯に愁ちゃんから連絡が入った。どうやら用事で少し遅れるらしい。
 水海の方角に目を向けると、巨大なビル郡が落ち始めた夕日を背に受け輝いている。それは夏の夕暮れのようで、また新しい季節が訪れるのを教えてくれた。ベンチで待ちくたびれた黄昏がうたた寝をしている。僕は無理に起こさずに、キュウとの談笑に勤しんだ。
「あれ、まだ千夜来てないん?」
 そろそろ下に降りようと思った時に、ベースを抱えたイッコーがやって来た。
「みたい……だね。とりあえず来るまでテープで練習して、待っていようよ」
 励ましのつもりでかけた声に元気の無いのが自分でも判る。いつもなら平日でもできるだけ早く来るはずの千夜さんが、今日に限り始まる10分前にも来ない。もしかして、と脳裏によぎる嫌な考えを押し殺し、無理矢理笑顔を取り繕った。
 店前ですれ違いに退出するバンドの人達に会釈し、空いたばかりの部屋に入る。普段通りにケースからギターを取り出し、アンプにシールドを繋ぐ。準備している間、4人の間に会話は特に無かった。ムードメイカーのキュウでさえ難しい顔で黙っている。
 黙りこくっていても仕方無いので、ドラムパートの入ったテープをセットして練習を始める事にした。何もせずに待つよりは音を鳴らしている方がいい。
 来る時は来る、来ない時は来ない。余計な事を考えると演奏に身が入らなくなる。
 イッコーは真剣な表情で音の出を確かめている。どこか厳しい顔付きに見えるのは僕の感情のせいだろうか。黄昏は大きなあくびをし、首を鳴らし眠気を振り払いマイクの前に立っている。今は冷静でも、いざ千夜さんを前にした時食って掛かるのかな。
 ふとそこで、周りばかり気にかけていて自分自身を見つめていない僕自身に気付いた。
「あ、アタシ外で来るの待ってるね」
 居たたまれなくなったキュウが苦笑してノブに手をかけようとした時、ドアが外に開き千夜さんが中に入って来た。目線が合い、僕の心臓が大きく跳ね上がる。
 待ち焦がれていたその姿。なのに、嬉しさは込み上げて来なかった。
 突然の事で声も出ないキュウの横を素通りし、奥のドラムの前に行くと構わず準備を始める。僕の隣でイッコーが疲れたように息を吐いた。
 別に気張っている訳でもなく、唇を真一文字に閉じたいつもと変わらぬ表情で黙々とドラムの調整をしている。普段通り、僕達に関せず黙々と。
 それが、気に食わなかった。
「あ、なーんだ、おねーさま。来るんだったら連絡入れてくれればよかったのに……」
 僕は笑顔で近づこうとしたキュウの前に割って入ると、ドラムの調整を始めようとしゃかみ込んた千夜さんの隣に立った。鋭い目でこちらを見上げて来る。
「何だ、どうした」
 容赦無く、僕は千夜さんの左頬に平手を打ち放った。
 乾いた音が狭い部屋にこだまする。叩かれた方は何が起こったのか判らないと言った顔で、目を見開き放心していた。
「ちょっ……いきなり何するのよっ!」
 血相を変えたキュウが僕を突き飛ばし千夜さんに駆け寄る。構わず僕は二人のそばに近寄り、睨み返すと大声で怒鳴りつけた。
「少しくらい、みんなに謝ったらどうなの!!」
 あまり見ない僕の怒った姿に怯えるキュウの隣で、叩かれた頬に手を当てこちらを激しく睨みつけてくる千夜さん。言い返して来ないのをいい事に構わず僕は続けた。
「何事も無かったような顔で入って来て、準備始めて。まずは迷惑かけたみんなに謝る事が先でしょ。そんな自分勝手過ぎる態度を見せつけられたら、さすがの僕だって怒るよ」
 勿論来てくれて安心したのはあるけれど、それとこれとは話が別。
「僕達だけじゃなくて来てくれた人達にも迷惑かけて。黄昏みたいにさぼるのよりも性質が悪いよ、調子の悪いのをいい事にライヴの途中で抜け出すなんて。僕だって、いつだって逃げ出したくなる気持ちを一所懸命抑えてみんなの横でギター弾いてるんだから。あんなステージの降り方をする人間が、ステージの上に立っていい訳がないよ、そうでしょ?」
 まくし立てながら、どうしてこんなにいきり立っているのか自分に問い質す。怒るのは他の二人で、僕は落ち着かせる役割のはずなのに。
 でも、部屋に入って来た千夜さんの態度を見ていると一気に頭に血が昇った。
 反省の色が全然見えなかったから。
「どうせいい演奏でもして挽回すればいいとでも思ってるんでしょ。確かにそれでいいと思うよ。でもね、態度より先に言葉で示しておかなきゃいけない時だってあるんじゃないの?いつも迷惑かけてる黄昏だって謝る事ぐらいは知ってるよ」
 罰の悪い顔で黄昏は僕の言葉を聞いている。いつもなら反論してくるキュウも今日ばかりは言い返せず、少し泣き出しそうな顔で千夜さんに視線を送っていた。
 それでも歯を食い縛り反抗の目を見せ続ける千夜さんに向かい、僕は言い切った。
「3人共バンドに必要な人間だと思うけど、僕は誰も特別扱いしないからね」
 これでも十分言葉を選んでいる。もっと嫌みったらしく感情をぶつけてやりたい気持ちもあったけれど、余計にこじらせたくないので控え目にしておいた。
 本人に自覚は無くても、千夜さんはどうも自分を特別扱いしている節があるように僕には見える。いくつものバンドを掛け持ちしている分、そうした考えを保険代わりにこれまで自分の好き勝手に動き過ぎていたんじゃないか。勿論勝手な憶測でしかない。
 けれど正式なメンバーになったのなら、ある程度は我慢を覚えて貰わなきゃ。黄昏にも言えるけれど、泣き言は構わなくても甘えだけは許したくない。
 逃げ出したい気持ちを閉じ込め、毎日を生きている僕の気持ちも解って欲しい。
 怒鳴り返されるのを覚悟しながら、脅える心を表に出さずに千夜さんの目を見つめる。喉笛に喰らいつきそうな目で黙ったまま僕を睨んでいたので、唾を飲み込み、負けじとこちらも睨み返していると、徐々に相手の表情が変わって来た。
「……千夜さん?」
 場の空気の変化に気付き思わず声をかけると、千夜さんは素早く顔を逸らしすかさずスティックを片付け始めた。慌てて止めようとするキュウを邪険に払い除け、乱暴にケースを閉じると何も言わず大股で部屋を出て行く。
 僕は第三者にでもなったような気分で、去って行く千夜さんを眺めていた。
「ちょっとおねーさま!おねーさまってばあ!」
 部屋を飛び出して行った後をキュウがすかさず追いかけ、扉が閉まる。やけに静かになったスタジオの中に、男3人が残された。
 何とも言えない表情で顔を見合わせる。僕以外の2人も思ったより平然としているのも、何となく分かる気がした。黄昏なんて眠そうにあくびを浮かべている。
「追いかけなくていいん?行っちまったけど」
 イッコーが僕に訊いて来る。参った顔で、僕は両手の平を上に向けてみせた。
「仕方無いよ。また、次の手でも考えてみるしかないよね。ああでも、後で絶対キュウに怒られるんだろうなあ……」
 数分後の未来を想像し、げんなりする。とは言え悩んでいる時間も勿体無いので、気持ちを切り替えすぐさま3人で曲を合わせ始めた。
 こればかりは、本人が取り組む姿勢を変えてくれないと意味が無い。どれだけキュウに罵られようが、心を鬼にしてけじめをつけないと。
 なのに僕の頭からは、一瞬垣間見せた千夜さんの曇った表情がずっと離れなかった。


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