070.明日に向かって走れ
店の戸締りを終えたイッコーが参った顔をしてテーブルに戻って来た。
「こりゃダメだわー。しょーがねー、千夜おめー、泊まってくしかねーよな」
判っていたとは言え、千夜さんは吸っていた煙草を灰皿に押し付け溜め息をついた。
店のFMラジオからは台風情報が逐一流れている。予想以上に台風が上陸するのが早く、路線も今は運転を見合わせていた。この調子だと雨風が収まる頃には終電も終わっているだろう。今も雨風が吹き付け建物を襲い、店があちこちで音を立てている。
「朝まで待って、キュウと一緒に帰ればいーぜ。おれ達はここで寝袋敷いて寝るから、上のおれん部屋使っていーし。キュウがベッド占領しちまってるけど毛布はあるしよ」
「……どうしてそんなに、私に気遣ってくれる?」
少し間を置いて飛んで来た質問に、イッコーは目を丸くした。
「どうしてっておめー、おんなじバンドの仲間なんだから当然っしょ。別におめー一人優しくしてるわけじゃねーっての。酔っ払ったキュウだって上で寝かしてるしな」
さも当然のように言うと2階を指差す。変な質問をしてしまったと思ったのか、千夜さんは黙って新しい煙草で口を塞いだ。心なしか顔に疲労の色が出ている。
今日はここ二ヶ月の週一での連続ライヴの最終日で、僕達全員相当疲労が溜まっていた。キュウもいつになくはしゃいでいたから普段よりお酒を多めに空け、呆気無くダウン。いつもなら止めてくれる相方がいるのに、ここ2回顔を見ていない。
用事があると言っていたらしいけれど、黄昏と喧嘩でもしたのかもとはキュウの弁。僕は黄昏と連絡を取っていないので(電話を入れても面倒なのか出ない)近況については愁ちゃんから遠回しに聞いている。だからここ2週間の黄昏は何も知らない。
再会してからこれだけ顔を合わせないのも初めてで、どこかむず痒い気分。
「ま、明日は休みだから気の済むまで寝てていーけどな。んじゃおれ、ひとっ風呂入ってくるわ。千夜はシャワーいーのか?」
「貴様が出てからでいい。疲れが取れるまで長風呂にでも浸かって来い」
お言葉に甘え、イッコーは僕達に断りを入れ店の奥へ引き上げて行った。姿が見えなくなってから、眉間を抑え千夜さんが盛大な息を吐く。
「疲れた?今にも寝てしまいそうだけど」
「そう言う青空も、自分では気付いていないかもしれないけど相当顔色が悪く見える」
うんざりした顔で僕に答えると、椅子に背を預け煙草を吹かす。僕もここ最近の忙しさでバイトの日数を減らしているとは言え、疲れが溜まっているのには変わりない。以前から疲れていても無理矢理体を動かしているので相当ガタが来ているのかも。
「来週は休みだから……ここ一週間、じっくり体を休めるといいよ。もう学校始まっちゃってるから忙しいとは思うけど。そう言えば、千夜さん今年受験じゃないの?」
ふと気になったので訊いてみると、目を閉じ額にかかる前髪をうざったそうに分ける。
「今はまだ構わない。バンドも一つだけだから前よりも勉強する時間も持てている。それに実技が中心だから、それほど構えていなくても――」
そこまで喋り、慌てて身を起こした。
「へ、変な質問をするな!ぼうっとしてたらつい口が滑って……!」
真っ赤な顔で僕に怒って来る。疲れで頭が回らなかったんだろう。
「別に言いたくないのならそれでいいよ。でもどこか受験するのなら、『days』の活動もその期間中はお休みしておかないといけないからね。そろそろ考えておかなくちゃ」
僕の説明に納得したのか、前のめりになっていた千夜さんは再び背を預けた。
「……一応、2,3校。推薦で私立を受けるけれど、本命は国立の一般入試。これまでみたいにスケジュールを詰めなければ別に構わない。準備はいつもしてあるから」
と言うと推薦は11月、一般は年明けか。結構近いけれど大丈夫なのかな?
「受かってもドラムは続けるから、心配しないで」
顎に手を当て考え込む僕を見て、千夜さんが声をかけて来た。
「それなら、いいかな。じゃあこれからは練習も控え目に、ライヴも月1くらいにしておくね。ラバーズのクリスマスライヴに呼ばれれば出る可能性もあるけど――良くてそこまでしか今は考えられないね」
黄昏もいないし、と心の中で付け加える。今までのライヴ日程がおかしいくらいなので、そろそろペースを落とし曲創りを優先させていこう。イッコーの曲がかなり固まった今なら、本格的に売り物の音源を創れるようになるのもそう遠い未来の事では無い。
年明けにレコーディングの準備が始められればベストかもね。
「青空には前もって駄目な期間は伝えておく。――でも、いいのか?」
「何が?」
「私一人、しばらくバンドの足を引っ張る事になる。本当にそれで」
「イッコーだって納得してくれるよ。それに黄昏だってまだ戻って来てないじゃない。何も一人で気負う必要なんてないから。ここしばらく働き過ぎてた感もあるもんね」
千夜さんの話を遮り、僕の今感じている事を言葉に変える。
「確かにいろいろ問題があって長いインターバルで物事を考えられないバンドだけど、不思議と今、解散の事なんて一つも考えてないんだよね。ほら、今日のライヴの客席観てたら分かるけど、昔と今じゃハコの温度が全然違うもの。目に見えて僕達が受け入れられているのが分かるでしょ、千夜さんも。ここで止めるなんてとてもとても」
週末の対バンとは言え、ラバーズが満員になるなんて今まで一度も無かった。僕達のステージになると明らかに歓声の色も違うし、評判もますますうなぎ昇り。黄昏がいないせもあってか不協和音もバンドの中に起こらず、上昇気流に乗っているのを肌で感じる。
「それとも何か不満や問題でもあるかな?」
こうした質問はみんながいる前じゃ面と向かい訊けない。祝杯で多少酔っている上疲れで脳味噌が回らないので、惰性で投げかけてみた。
「あるとすれば、どこかの誰かが油を売って怠けている事」
即答、耳が痛い。納得しているとは言え相当おかんむりなのか、千夜さんから黄昏の話を振って来る事は無いに等しい。顔を見せなくなって2ヶ月以上経過している事もあり、いい加減戻って来てもいい頃なだけに余計に気が立つんだろう。
「それ以外は、特に無い。むしろ……感謝してる」
小さく言葉を続け、手の煙草を灰皿に置くと目を閉じる。
「これがバンドなんだって、今になって実感している。最初の和気藹々でやっていた頃とも違う、これが本当のバンドの形なのかって時折思うの」
そう話す千夜さんの顔はとても安らぎに満ちていた。一度も見た事の無い表情で、無防備な、女の子の顔を見せている。
手元に残っていた日本酒を一気に飲み干すと、目を開け空のお酌に視線を落とした。
「ヘルプで叩いていた頃にはなかった、自分の居場所を感じる」
呟いたその言葉にどれほどの意味が篭められているのか、僕には想像もつかなかった。
一匹狼。出会った頃の千夜さんには、そのようなイメージが重なって見えた。
自らその道を選んでいるとは言え、一匹狼には孤独が付きもの。気丈に立ち振る舞う姿の裏に、僕はいつも寂しさや悲しみみたいなものを感じていた。
泣いている音。叩くドラムの音が、僕の胸の奥底にある襞(ひだ)を揺らす。
先程イッコーに投げ掛けた質問も、バンドの一員でいる事に慣れていないからだろう。メンバーとしてどうあればいいのか、まだ模索し続けている最中に思える。
「ねえ、千夜さん」
訊いていいものかどうかしばし迷った末、意を決し口を開いた。
「今の『days』、やってて楽しい?」
答えによってはこちらが傷ついてしまう、厄介な質問だと思う。でも、千夜さんの気持ちを聞かずにはいられなかった。
前に言っていた。バンドを続けていて楽しいと思った事が一度も無いって。『days』に正式加入して随分経った今はどう思っているのか、千夜さんの胸の内を知りたい。
楽しいか、なんて人に訊いてみる僕は自分でもまだよく分からない。音楽をやる楽しみは昔と比べ遥かにあるとは言え、心の中に確かなものとして存在しているかと言うとどうか。無理にそう思い込もうとしている節があるのも否定できない。
昔から何度も自問自答を繰り返しては、答えはいつでも後回し。考える前に行動し、そうする自分を信じるしかない。いつの日か苦しみが喜びに変わって行く事を願って。
「……知らない。前にも答えたけれど、そんな事、私には必要無いから」
少し考え込む仕草を見せ首を横に振り、千夜さんはシャッターの閉じた店の外を眺めた。台風が一番接近している時間帯なのか雨音が絶え間無く鳴り続き、時折強い風がシャッターを大きく揺らす。広い店内に二人だけでいると薄気味悪く感じる。
「だから――戸惑っている。うまく割り切れなくて……」
小さく呟いたその言葉の真意はあまりよく見えなかった。意固地になり、これまでの自分を捨てられないでいるのか。目を細めた横顔もいつに無く感傷的に見える。
かと言って僕が手助けしようにも、どうすればいいのかさっぱり分からない。無理に相手の心の扉を開こうとした所で迷惑なだけで、僕は普段通り振る舞うしかない。時間が解決してくれるか、それともまた何かきっかけになる出来事が起これば変わるのかも知れない。
黄昏が戻って来た時に、+に転じるか−に転ぶかどうか。その時に僕はどう言う行動を取るのか。また仲直りに四苦八苦するのかと思うと胃が痛む。
どうも僕は相手を尊重し過ぎる所があるように思う。多分リーダーには不向きな人間なんだろう。他人をまとめて率先し全員を牽引して行く事ができないと言うか、しない。将来への明確なビジョンを持っていないせいもあるとは思う。自分の未来を数ヶ月単位でしか考えられない性格は染み付いてしまい、中々抜け切らない。
「何か問題や困った事があったら遠慮無く僕に言ってね。力になれると思うよ」
「青空みたいに頼りにならない人間に話した所で何の解決にもならない」
励ますつもりが思い切り打ち返された。構え無しに飛んで来たからかなり落ち込む。
しっかりしていない、それが僕のリーダーとしての資質がない部分なのか。もう少し力強い人間になれたら千夜さんも僕を頼りにしてくれるかしら。大きな課題が一つできた。
それでも、随分千夜さんは自分から僕達に歩み寄ってくれたと思う。水海近辺でライヴをやる時はここでの打ち上げも参加してくれるし、練習にも必ず出てくれる。やる気と行動力は学生でない僕達3人よりあるのを一緒にいて実感する。
テーブルの上にまだ多少残っている料理を物色し、枝豆を口に運ぶ。千夜さんはイッコーが風呂から戻って来るまで暇を持て余しているのか、ぼんやりと煙草を吸い続けていた。疲れで神経を張り詰められないのか、集中力の切れた感じの千夜さんを観るのも珍しい。
長く一緒にいれば、相手のいろいろな所が分かって来るんだなと今更ながらに思った。
同じバンドのメンバーにもどうにかして感謝の念を表す事ができないものか、と時々考える。相手からしたら余計な気遣いと思われるかも知れないけれど、みんながいなければ僕は今ここにいない。いつの日かお礼をしたいと常々考えてはいるものの、今の所具体的な案は一つも出て来なかった。相手を称える曲を創った所でお客は戸惑うだけだろうし。
CDを出すなりして活動に一区切りがつけば、その時考える事にしよう。
「あ、そうそう。前から気になっていたんだけど、千夜さんの苗字、波止場だよね?」
せっかくなのでこの機に訊いてみようとしたら、逆鱗に触れたのか突然大きく椅子を鳴らし、前のめりに僕を鋭い目線を向けた。
「わざわざ調べたのか……!?」
焦った様子で目を大きく見開き、歯を食い縛っている。問答無用で袋叩きに遭う前に、誤解されないよう慌てて否定した。
「違う違う違うよ。そんなストーカー行為じゃなくって。柊さんって知ってる?二年の時千夜さんの同級生で、秋口に引っ越しちゃった女の子」
柊さんの名前を出しても、まだ疑り深い目を向けたままでいる。蛇に睨まれた蛙のように脅えながら、僕は上滑りに何とか言葉を続けた。
「その子が『days』のファンらしくて、引越し前に声をかけられて少し話したんだけど。最後に『波止場さんによろしく』って。その時は何の事か分からなかったけど、千夜さんと同じ学校名なのに後で気付いて。この前久し振りに会った時に彼女に確認してみたんだ」
何も間違った事言ってないよね?とすぐさま自分に問いかける。苗字を知ったのは本当に偶然だし、喉仏につっかえたままにしておくのも気持ち悪いので。
でもやはり知られたくなかった事みたいで、今更後悔の念が湧いて来た。
「……それで?そんなに相手の事を詮索して楽しいか?」
千夜さんは大きく溜め息をつくと、気分を鎮めるように椅子に座り直した。怒りを押し殺しているのが口調から解る。また自分の悪い癖が出て、嫌になった。
「いや、そうじゃなくて、偶然もあるもんだなあと。千夜さんは柊さんと仲良かったの?」
一度口にしたものを引っ込めこちらが全面的に悪いと認めると更に落ち込んでしまうので、自己防衛の為に話題をずらし話を続ける。焦る僕の顔を見て溜め息を一つつくと、千夜さんは面倒そうに答えてくれた。悪気の無い所が余計性質が悪いんだろう、きっと。
「覚えては、いる。けれど、まともに会話した事もほとんど無かったただのクラスメート」
「これからも頑張って、だって。同級生が凄い事やっているのは励みになるって言ってた」
どう答えていいものか解らないのか、千夜さんはそのまま押し黙ってしまった。今の自分と関係無い人の話をされても迷惑なだけなんだろう。
これ以上この話題を続けて落ち込むのを避け、痛みを感じないように僕は心を空っぽにし、しばらくつけっ放しのラジオに耳を傾けていた。また何か余計な事を口走り千夜さんを怒らせるのは悪いし、向こうも僕の事もうざったく感じているだろう。
電波に乗せ様々な昔の洋楽が合間のトークと共に流れている。いつの間にかいい曲を聴いていると、自分達の曲に還元できないものかと自然に頭の回路が動くようになっていた。そしてこうした眠気が襲って来た時の方が、不意にいいフレーズが浮かんで来る。
ふと心の琴線を揺らすメロディが脳裏を過ぎったので、目を開け早速ギターを持って来ようと席を立つ。すると千夜さんが椅子にもたれ眠りこける姿が横目に入った。
……可愛い。
今の瞬間、頭に浮かんでいたフレーズは一瞬にして吹っ飛んでしまった。
椅子に静かに座り直し、小さく寝息を立てる千夜さんをテーブル越しに眺める。規則正しい雨音やラジオが子守唄代わりになっているのか、本当に寝ているみたい。キュウの寝顔だけでも真っ赤になってしまう僕なのに、無防備過ぎる千夜さんの寝顔なんて見せつけられたら目が釘付けになってしまう。
……一瞬妄想がレッドゾーンを振り切り、鼻血が出そうになってしまった。
しかし、このまま寝かせておいた方がよいものか。寝るのなら上へ行き横になった方がいい。それともシャワーの順番までそっとしておいた方がいいのかな。今日は肌寒いから、それなら毛布一枚でも持って来て体にかけておいた方が……。
と考えていると、突然飛び跳ねるように千夜さんが身を起こした。素早く左右を見回した後、驚いている僕を赤い顔で睨みつけて来る。恥ずかしいのか怒っているのか。
体の前で両手を振り何もしていない事をジェスチャーで示すと、千夜さんは深い溜め息をつき、ずれた眼鏡を上げ、椅子を支えに席を立った。
と思ったら、力の抜けたようにその場にへたり込む。
「大丈夫?千夜さん」
「少しふらついただけ。気にしないで」
テーブル越しに覗き込む僕を邪魔そうに払い除けると、よろめきながら調理場の方へ向かって行った。勝手に入って怒られないかと思いつつ見ていると、顔と口を水道水でゆっくりゆすぎ同じ足取りで戻って来た。目線に力が無く、今にも倒れそう。メイクもすっかり落ちていて、久し振りにすっぴんの顔を見た。普段からあまりつけていないけれど。
「眠いなら上で寝た方がいいと思うよ」
「ここで起きて待っているから。放っておいて」
僕の忠告を野暮ったく無視し、崩れるように椅子に座る。見ている方が不安になってしまうほど疲れているように見えた。
「本当に大丈夫?相当大変そうに見えるけど」
「そう思うなら、話しかけて来ないで。喋るのも疲れる……」
気力の抜けた声で僕に言葉を返すと、やつれた感じの顔を上に向け目を閉じ、背もたれに身を預けた。放っておけばすぐに眠ってしまうだろう。
その小さい体でドラムを休み無く叩き続けているのだから仕方無い。受験も近づいているし、日常生活でも休む暇が無く疲労が蓄積していたのもあるだろう。顔が赤いとか熱があるようでもなさそうなので、本人の言う通り余計な心配はいらないのかも。
でもさすがに見るに耐えないので、手元の余ったおしぼりを千夜さんに差し出した。
「目の上にでもかけておけば?すうっとして眠気は取れるかも知れないよ」
しばらく疑り深い目線を僕に向けた後、引っ手繰るように僕の手からおしぼりを奪い、言われた通りに瞼の上にかけた。グリーン車に座る疲れたサラリーマンみたいで可笑しい。
「イッコーが出て来るまで寝てていいよ。起こしてあげるから」
「構うな。言われなくても起きている」
「寝てても誰もちょっかいなんて出さないよ。安心して寝てれば」
「当り前だ!!……私に何かしてみろ。その時は命は無いから」
話の合間に大声を張り上げると、千夜さんはふて腐れ僕に背中を向けてしまった。極度に男に触られるのを嫌がるから、僕もわざわざ痛い目に遭おうとは思わない。
さて、どうしよう。今ここで寝袋敷くのもどうかと思うし、風呂は千夜さんの後でいい。
とりあえず邪魔にならない程度にエレキギターで作曲でもする事にした。アンプがなければそれほど弦も響かないし、この距離ならそこにいる千夜さんもやかましく起きていられるだろう。
「五月蝿い」
開始5分も立たない内にお咎めを食らってしまった。じゃあどうしろと。
「何もここで待たなくても、上で休んでいれば後で呼びに行ってあげるよ」
「私がここで起きていると言った。余計な気遣いしないで」
「ここにいられると僕がギター弾けないんですけど……」
「なら歌詞でも考えていろ。前に創った曲、まだ詞をつけていないだろう」
無茶苦茶独り善がり。おまけに頑固なので、仕方無く言われるままに録音したテープを用意したラジカセで回し、歌詞を捻り出す事にした。ただでさえ眠いのに言葉なんて浮かんで来るはずもなく、ヘッドフォンをつけた頭の中を音が素通りして行く。千夜さんに視線を向けると、案の定体を動かさずに熟睡していた。悔しい。
「青空」
少しも進まないので音を切り適当に言葉の羅列をノートに並べていると、そのままの姿勢で千夜さんが僕の名前を呼んだ。不意打ちを食らい思わず肩が跳ねる。
「何、千夜さん」
「だからどうしていちいち丁寧に呼ぶ。私が女だから?」
言われて『しまった』と思った。しばらく注意されていなかったのですっかり元の呼び方に戻っている。心の中だと『さん』付けで呼んでいるから、癖になってしまっている。
「それもあるけどね。昔から女の人を呼び捨てにするのは慣れてないんだ」
「キュウは呼び捨てにしている」
「でも慣れるまでに随分苦労したよ。年下であの性格だから呼び捨てできるんだろうけど。千夜さんは年下に見えないし、うん、何だか『さん』付けで呼んでしまいたくなる感じ」
僕の言葉に、千夜さんは口元を歪めてみせた。快く思っていないに違いない。
「私はそんなに偉くない。ただ、人より多くの時間ドラムを叩いているだけ」
どこか自棄気味に言い捨てると、瞼の上のおしぼりをどかし横目で僕を見た。
「それに、いつまでもそんな目で見られると、『days』の一員になった気がしない」
――そうか、と思った。
「青空はおそらく心の中で、私や他の二人を上に見ている。けれど、二人には見た所普通に接している。――私にも、同じ姿勢でいて欲しい。そうでないと、私がどれだけ踏み出した所で、このバンドのメンバーになった気がしない」
僕にとっては些細な事でも、千夜さんにとっては大きな事なんだ。今初めて知った。
こちらが相手を浮いた目で見ている限り、いつまで経っても千夜さんは本当のメンバーになった事にはならない。それがリーダーの僕の目であるなら、尚更。
「ごめん。次からはそうするよ。それが千夜さんの為になるのならね」
これからはちゃんと心の中でも『千夜』と呼ぶ事にしよう。慣れるのは大変そうだけれど、相手の事を本当に尊重するならその方がいいに決まっている。僕が彼女と対等になるのにはまだまだ時間がかかるだろう。でも、そうなれるように頑張っていきたい。
唇を噛み締め見つめ続けていたせいか、音を立て椅子ごと後ずさりされてしまった。千夜――さんは一つ咳をつき、僕を指差し言葉早にまくしたてる。
「だからと言って私は、貴様に女として見られるつもりも無い。男として見るつもりも無い。バンドの一員として一緒にいるけれど、恋愛沙汰はファンの子やキュウとしておいて」
「はい……」
今、物凄く敗北宣告された気分がする。僕は男としても見られていない……。前にうやむやになっていた告白まがい(?)の返事がここで来るとは思いもしなかった。
とにかくこれからは音楽に集中しよう。自分の気持ちさえよく判らないのに、近くの女の子達に熱を上げている場合じゃない。恋愛のれの字も知らない人間が友情と恋心をごちゃ混ぜにして考えるからおかしくなるんだろう。
周りから見ると、自分は凄く浮気性な人間なのかも知れない。ううむ……。
「あーさっぱりしたー♪千夜―、風呂空いたぜー」
腕を組んで反省していると、イッコーが鼻歌を歌いながら上機嫌で戻って来た。寝巻き姿で寝る準備満タン。
「馴れ馴れしく呼ぶな」
払い除けるように言うと、すれ違いに千夜――は店の奥に入って行った。その背中にイッコーがタオルや浴衣の場所を事細かく説明するのを構わず奥に消える。
「あいつ最近やたらと突っかかってくるよな。人の好意は素直に受けろっての」
「照れ臭いんだよきっと」
ふて腐れるのを僕が宥めると、イッコーは空いていた適当な席に腰を下ろした。汗を流し小腹が空いたのか、早速テーブルの残り物のつまみ食いを始める。
「あいつなんか言ってた?」
「何が?」
「おれが風呂入ってる間に小言でも聞かされてたんかなーってな」
言いながらイッコーが僕のそばの空いたビール瓶を指差して来るので、渡してあげる。アルコールの抜けた残りをグラスに注ぎ一気に飲み干すと、大きくゲップを出した。
「これからの事とかね。ここ二ヶ月ずっとライヴ漬けだったから、相当疲れているみたい。向こうも学校も始まったし、そろそろペースを落として平常の活動に戻らないとね。前に決めてた通り、この一週間は全休しようよ。イッコーもさすがにへろへろでしょ」
「んー?おれはまだまだイケっけどな。むしろ物足りねーくらい」
「相変わらず底無しの体力だね……」
白い歯を見せ大声で笑う姿を見ていると、感嘆を通り越し呆れてしまう。この二ヶ月で一番忙しかったのは作曲とライヴを両立させたイッコーのはずなのに、疲れた顔一つ見せていない。毎日4時間も寝ていないんじゃ?僕には到底真似できそうになかった。
「でもよー、これからどーすっかな」
鶏の唐揚げを口に運びながらイッコーが呟く。
「この夏はとことん力押しだったからなー。週一で続けたおかげで3人でやってても毎回客来てくれるよーになったけど、いつまでもこのままってわけにもいかねーしなー」
「勿体ぶらなくていいよ。言っちゃって」
促すと、テーブルの上に両手を付き身を乗り出し僕に言った。
「いーかげんとっとと黄昏連れてこい」
「はいるけどね……」
真正面から言い切るイッコーとは反対にお茶を濁す僕。
「もう十分休んだろ?甘やかせてねーでさっさと復帰させねーと、このままじゃ『days』、トリオのバンドになっちまうぞ」
元々場繋ぎで始めたはずなのにイッコーがメインになってしまえば話にならない。3人でやるのが当たり前みたいな空気が僕達やお客の中にも少しずつ漂い始めているのも感じる。あくまで黄昏がいてこそ、の『days』なのに。
「愁ちゃんにはイッコーの曲の入ったテープを渡してあるから、それを聴いてやる気になってくれていればいいけどね……」
いつ戻って来てもいい準備はしてあるから、後は本人の気持ち次第。
「向こうから言ってくれるのがベストと思ってずっと待っていたけど、さすがにこれ以上は待っていられないかな、と僕も考えてはいるよ一応」
「そんな自分から進んでやる性格じゃねーのはおめーが一番よく知ってんじゃねーか」
「確かにそうだけど、僕がずっと手を引っ張っていてもね、繰り返しになっちゃうから」
僕の言葉にイッコーは唸ると、難しい顔で椅子に座り直した。
本人の意識が変わってくれない事には、同じような事がこれから何度もあるだろう。その度にこちらが神経をすり減らし動くのはもう遠慮したい気持ちもある。
「休んでいる間に、黄昏の中でステージで歌いたいと思う気持ちが膨れ上がれば……と思っていたけど、高望みし過ぎなのかな。一人立ちさせたい親心はあっても、それを気付かぬ子心と言うか……ここ最近は愁ちゃんに近況聞いてないけど、今の黄昏がどんな状況にあるのかは簡単に想像できてしまうしね……」
ベッドの上で毛布に包まり動こうとしない姿が目に浮かぶ。
「僕自身、バンドを続ける内に少しずつ変わってると思うんだ。意識とか姿勢とか。でもやっぱり、同じ速度で変わって行くのを他人に望むのは余計な事なのかな?」
自分一人じゃ解決できない問題なので、我慢できずにぶつけてみた。僕一人だけじゃなく黄昏も変わって欲しいと思うから一緒にバンドを始めたのに、成長の跡がそれほど見られない相手の姿に苛立っている部分もある。
しばらく悩む仕草を見せた後、イッコーは考えながら言葉を口にする。
「青空のその気持ちはわからなくもねーけど……相手を尊重してることになんねーしな。かと言ってほっといたら何にもしねーやつだから、ムリヤリ手―引っぱってったほうが今はいーんじゃね?これからまた何かきっかけで変わってくかもしんねーし、あいつって青空を信用してるっつーか、頼ってる部分あるからな。こっちから手―取ってくれんのを心のどっかで期待してんのかもなー」
憶測に過ぎないけれど、言っている事は間違っていないように思う。
「ただ一つ言えんのは、」
前置きをしてから、僕の顔を見てイッコーは言い切った。
「このままほーっておきゃたそは腐ってく一方だぜ」
「だろうね……」
横に愁ちゃんがいようが、このままにしているとまた引き篭もり、振り出しに戻るのは目に見えている。バンドの活動にも支障が出始めるし、そろそろ限界に近かった。
「――うん、決めた。次の休みの日、黄昏の家に行ってみるよ」
ずっと踏ん切りがつかないままでいたけれど、ようやく決心がついた。
「一回で説得できるとは思えないし、戻って来たら来たでまたいざこざがあったりするんだろうけど、これ以上休ませておく訳にもいかないしね」
「首根っこつかんででも引っぱって来いよ。うだうだ言うよーならおれが行ってやっから」
「力技は駄目だよ、かえって気が立っちゃうから」
「ホント猫みてーなやつだよなーあいつ」
「猫じゃらしになるものでもあれば楽なんだけどね」
「千夜が色じかけで誘い出すとか?そりゃーそれで見ものだけどなー」
「今いないからいいけど目の前で言ったらまたぶっ飛ばされるよ」
ここ2ヶ月の憑き物が落ちたおかげで随分気が軽くなった。僕の風呂の順番が来るまで、イッコーと他愛も無い雑談に花を咲かせる。
一週間後にはまた頭を悩ませているに違いなくても、今だけは心地良い疲れの余韻に浸りたい。もう一本用意したビールを二人で空けていると、ラジオから『discover』の『rock'n roll』が流れて来た。話を止め、いつまでも変わらぬディガーの歌声に耳を傾ける。
胸に響くロックンロール。この曲を聴いているとみょーさんに貰ったいくつもの鎖の絡みついた石の絵を思い出し、頭の中で音を立て転がる景色が浮かんで来る。
全てが上手い具合に転がってくれる事を願い、冷えたビールで喉を潤した。