071.雨に唄えば(Singin' in the Rain)
空には雨雲が立ち込めている。
季節遅れの台風が過ぎ去ったとは言え、ここ一週間太陽が僕の前に姿を現す事は無かった。今も小雨が降り続いていて、青空を見なくなって久しい。
傘を差し、黄昏のマンションへと歩を進める。不思議と心は落ち着いていて、言い訳を考え逃げ出そうと言う気にもならない。肝が据わっているのか、こうして説得に向かうのにいい加減慣れたのか。余計な事を考えず、MDのイヤホンから流れる音楽に耳を傾ける。
ここ最近は妙に洋楽に凝っていて、レンタルで気になっているものを借りる事が多かった。国内の音楽ばかり聴いていると、いくらいい物であっても耳が肥えると言うか、マンネリになって来る。なので名前を知っていても聴いた事のない洋楽アーティストの楽曲を手にし、名曲との出会いに目から鱗が落ちる日々を送っていた。
この世にはまだまだ僕の耳にしていない至極のメロディが山程ある。それを見つけるのが最近の僕のこだわりになっていた。音楽の幅を広げられるし、何より心を動かされる瞬間が欲しい。心の鐘が打ち鳴らされる度、自分の中で何かが生まれている気がする。
それと、外国語が解らないので意味を考えずに音と声だけに意識を集中できるのが良かった。ただただ音楽の海に身を投げ出していられるのは、結構気持ちいい。
鼓膜に届く曲を一緒に鼻歌で歌いながら、傘を回し水溜まりを避けて歩いた。長靴でもあれば雨で喜ぶ幼稚園の子供みたいにスキップしたい気分だけど、履いているのは今週卸し立ての新品のランニングシューズ。厚底でも汚れるのは勘弁したい。
今日はギターを持って来ていない。話し合いの時に楽器が手元にあると黄昏も気を悪くするだろう。最近はケースを担いでいないで外に出る時の方が少ないくらいなので、肩が軽く変に落ち着かない。その代わり、黒のリュックにイーラを括り付けて来た。彼がそばにいてくれるだけでお守りになる。
それと傘の反対側の手には、行き掛けのスーパーで買って来た料理の材料。以前は黄昏の家に行く時に野菜やらレトルト食品やら代わりに買い出しておいたりした。本当に愁ちゃんと喧嘩しているのなら冷蔵庫の中も空に近くなっているだろう。面倒臭がりだもの。
水海に着いた時に黄昏に電話を入れてみても、思った通り出なかった。昼間から寝りこけているに違いない。突然襲撃した方がいいのかと思い、連絡はそれきりにした。
白い11階立てのマンションに到着すると、蔦の絡まる隣の廃ビルが目に入る。薄暗い空をバックに並ぶとかなり不気味で、気持ちのいい絵面ではない。
そう言えば最初にここを訪れた時は黄昏が出て来なくて、通い続けて5度目でようやく再会できたんだっけ。あの日を境に僕の人生が変わり始めたと思うと、感慨が湧いて来る。
ここで立っていても濡れるだけなので、構わず雨を凌ごうと正面玄関に入った。雨が降っているとこの付近でよく見かける黒猫の姿も見当たらない。
エレベーターの中はやけに静かで、入口上の表示パネルを眺めていると最近黄昏のおばさんと会っていない事に気付いた。今でも相変わらず一人暮らしの息子の事を心配しているのかな。忘れてなければ後で黄昏に話をしてみよう。
黄昏は自分から家族の事について口にしないから、今の今まで失念していた。
最上階に出ると、海の向こうまで雲一面の灰色の空が目に飛び込んで来た。
少し心が濁る。黄昏の家までの大して長くないこの通路にはあまりいい思い出が無い。絶望に打ちひしがれ帰ったり、先の見えない暗闇の未来に息苦しさを覚えたり。
ても今は心臓が早鐘のように脈打つ事も無い。いくつもの苦難を乗り越えて来た強さが僕の心に備わったのか、腰を落とし構えていられるようになった。
とは言え、いざ大変な状況になると混乱してしまうんだろうな。声を噛み殺し苦笑しながら、黄昏の家のインターホンを押した。
「あれ」
5回程押して待つを繰り返してみても、一向に出て来ない。まさか愁ちゃんと喧嘩して包丁で刺し殺されたりしていないよね。頭の中を緊張感の無い想像が駆け巡り、苦笑しつつドアノブに合鍵を差し込んだ。一々外から確認するより手っ取り早い。
「……いないし」
小さく呟く独り言に反応してくれる相手がいない。靴も無かったので外出中なのか。雨の中わざわざ外に出る事も少ない黄昏が、何か用事でもあるのかな?昇って来る前に駐輪場にバイクがあるかどうか確認しておけば良かった。
食べる物でも買いに行っているだけかも知れないので、しばらく待ってみよう。
とりあえず荷物を置き、適当にくつろぐ。愁ちゃんが通っているおかげなのか久し振りに来た家はこれまで以上に綺麗で、元々生活感を感じさせない住まいではあったけれど、整理整頓が行き届いていて引っ越して来たばかりの部屋かとさえ思う。
ただ、台所にゴミ袋が置きっ放しになっているのと、テーブルの上に大量のお酒の空き瓶や空き缶が置かれているのはいただけない。仕方無いので全部出せるように外のゴミ集積場へ持って行った。これぐらいはいい加減一人でして欲しい。
世話を焼かせるタイプの人間だよね、黄昏は本当に。
一息ついて何か飲もうと冷蔵庫を開けると、食べる物が何も入っていなかった。先に麦茶で喉を潤してから、先程スーパーで買って来た食材を手分けし、中に詰めておく。ここしばらくはこうして黄昏の世話を焼く事も無かったので、僕は少し懐かしさに浸っていた。
風呂場の前の洗濯機を入れっ放しの服が無いか覗き込んだり、ベランダに干しっ放しの服が無いか確認したり、毎回お決まりのチェックを一通り済ませてから部屋に腰を下ろす。芯まで女房役になっていた自分は昔と変わっていない。
冷たいフローリングの床の上に寝転び、思い切り手足を伸ばした。黄昏の部屋は僕の家と違い広いし物も少ないので、気軽にくつろげる。防音も段違いで窓を締め切っていると嘘みたいに静かになる。無音の中で自分の呼吸音だけを耳にしていると、不思議と心が落ち着いて行く。毛布を借り、そのまま眠ってしまいたくなった。
寝てしまう訳にもいかないので、体を起こし部屋の換気でもする。入った時はカーテンも全部閉め切り真っ暗で空気も篭っていたから、寒いけれど窓をしばらく開けておこう。
雨は小雨になって来てはいるけれど、遠くで雷の音がした。また一雨来るかな?
時間潰しに適当に部屋の中を見回す。黄昏が使っているギターはイッコーの借り物なので、今はここに無い。こう言う暇を持て余す時に無性にギターが恋しくなるのはいい傾向なのかしら。仕方無いので本棚でも物色する事にした。
黄昏が曲を書き溜めた大学ノートは半年前の物が最新で、中を開いてみると最後に見た時より半分は埋まっているとは言え、過去と比べると随分ペースが落ちている。一人で歌って来た頃のノートの数がある意味異常と言える訳で、今が人並みなんだろう。
本棚に並んでいるノート、これらが今の僕の音楽を始めるきっかけになったんだ。中に書かれた曲を黄昏に目の前で歌って貰った時の、心が打ち震えた瞬間を鮮明に覚えている。
あれが僕の音楽に対する初期衝動。あれほど僕を劇的に変えたものは他に無い。バンドを始めてから、これまでいくつもの胸躍らせるかけがえの無い瞬間に出会ったけれど、あの時感じた衝撃は僕にとって別格のものとして心に刻まれている。
もう一度、同じくらいの心が揺さ振られる瞬間に出会ってみたい。
黄昏と一緒に。バンドのみんなと一緒に。『days』の音楽を通じて。
そう思うといてもたってもいられなくなるほど興奮し、背筋が震えて来た。黄昏を誘おうと決めた時と似たような、頭の中で未来の映像が次々に浮かび、何かが音を立て転がり始める感覚。その感覚に全身包まれている間は、想像の世界で僕は無敵になる。
無性に声を出し叫びたい気持ちになり、僕はノートに書かれてある新しいメロディを胸に溢れる感情に任せ唄ってみた。……鬱。少しばかり冷静になれた。
黄昏の音域で僕が唄いこなせる訳が無い。僕が『days』の曲のメロディを創る時はほとんどギターで鳴らしていて、口ずさむ事はあまりしない。思い浮かんだ物を鼻歌で表現しようとすると絶対に高音が出なくなる。
しかしノートに描かれているメロディはここ2年の影響もあってか、かなり成長の跡が感じられた。本人は自分の変化に気付いていないかも知れないけれど格段に進歩している。
以前より他人が歌い易いような、より相手に届けるようなメロディになっている。ノートを眺めていると先程の興奮が甦り、今すぐにでもギターで弾いてみたくなって来たので思わず鞄に詰め、持って帰ろうかと思ってしまった。でも、現在も使っているみたいなのでさすがに悪い気がして止めておく。
その代わり、お気に入りの曲を自分の携帯しているノートに写し書きする事にした。最近はここに来ていないのでしていないけれど、昔は訪れる度に本棚からノートを数冊黙って拝借して家に帰っては、そこに書かれたメロディを片っ端から弾いていたもの。
おかげさまで僕の音楽の遺伝子には黄昏のメロディがかなり刷り込まれている。
普段から歌詞やメロディがいつどんな時浮かんでも大丈夫なように手の平サイズのメモ帳と、大学ノートは携帯するようにしていた。
最初は人目を気にし、中々外で使う勇気は無かったけれど、今はもう電車の中でも歩道を歩いている最中でも思いつけばすぐペンを取り出し書き込む。白い目で見られる事は多くても、思い浮かんだ大切で重要な事を忘れ去ってしまうよりは遥かにいい。
黄昏が戻って来るまでに全部を書き留めるのはさすがに無理な量なので、発展系のメロディは無視し目に留まった新鮮なフレーズを書き殴って行った。ペンを持つ手を動かす時間さえじれったい。やはりギターは持って来ておいた方が良かった。
時間を忘れ追い立てられるように写し続けていると、突然玄関の方から物音がした。心臓が飛び出そうになるほど驚き、急いで黄昏のノートを本棚に戻す。
「ただいまー」
ドアが開き黄昏の声が飛んで来た。この場を誤魔化す為に、ノートのページをめくり歌詞か小説のネタでも考えている振りをしよう。足音を鳴らし部屋に入って来るまでの数秒、冷静な顔を努めようと大きな音を立て脈打つ心臓を必死に落ち着かせる。
「あ、やっと戻ってきた。おかえり」
久し振りに見たその顔に、胸の内を悟られないよう口元をほころばせた。直で親友の顔を見ると何だかとても安心する。体調がいいのか、思っていたより元気も良さそう。少し背も伸びたかな?2ヶ月でそれは無いか。
「靴変えたのか?」
僕を見て開口一番訊いて来る。間隔が開いていても、普段と変わらない応対をするのは半ば僕達二人の暗黙のルール。
「ぼろぼろになったからね……もしかして、別の人を期待してた?」
「んなわけあるか」
茶化す僕をあしらうと、コンビニの袋を手にした黄昏は台所へ一旦戻って行く。何か冷蔵庫を漁っている間に、僕は緊張をほぐす為に大きな深呼吸を入れた。
「差し入れ買ってきておいたからね。さすがに全部おごりってわけにはいかないけど」
「わざわざ出かけなくてもよかったな……」
参った声で呟くと、冷蔵庫を閉め床を踏み鳴らし戻って来る。その手には500mmの缶ビールが二本握られていた。どうやらこの為に出かけていたらしい。
「……昼間からよく飲むよね、未成年なのに」
「二十歳なのにほとんど飲まないおまえの分まで飲んでるんだ」
僕の場合はお酒や煙草にお金を回したくない理由もあるけれどね。勿体無いし。
「牛乳買ってきたから、先に飲んでおきなよ。かなりやられてるんじゃない?胃」
「うるさい」
ベッドに腰を下ろし飲み始めようとする黄昏に助言してあげると、うざったそうに返された。何だか千夜とのやり取りみたい。
牛乳を飲んでいれば胃に膜が張られ、お酒を飲んでもそれほど痛まないと言うのを前にイッコーから習った。打ち上げでキュウが酔っ払いダウンする所を何度も見ているので、危なっかしい人にはなるべく前もって言うようにしている。
しかし面倒臭がりの黄昏が言う事を素直に聞く訳も無いので、わざわざ腰を上げ冷蔵庫から買って来たばかりの牛乳をパックごと取って来てあげた。
「……わかったよ」
相変わらず物分かりはいい。僕の手から引っ手繰るとそのまま口に流し込む。
しかし、こんなにたくさんお酒を飲む人間だったっけ?
「まあ、煙草吸わないだけマシだって思ってくれ」
僕の目が気になったのか、パックを返し僕に一言謝ってからビールを飲み始めた。あまりお酒ばかり飲むようなら後で注意しておかなくちゃ。確かにアルコールは俗世のしがらみを一時忘れさせてくれる物だけど、摂り過ぎると体に良くない。
自分が飲むとすれば、打ち上げや練習が終わった時くらい。一人でなく、周りに人がいる時に飲む。僕にとってのお酒は逃避の為の物と言うより、楽しい気分を増長させる物。それに飲み過ぎると逆に辛いだけなので、少量で気分を盛り上げるくらいがちょうどいい。
冷蔵庫に牛乳を直し戻って来ると、黄昏は目を閉じ、白いシーツの敷いたベッドの上で鉄砲に撃たれたガンマンのように仰向けに転がっていた。キュウと同じで酔いが廻るのも早いし、すぐ赤くなるんだから500mm2本なんて止めておいた方がいいのに。
吐きそうになったら僕が残りを飲んであげようと思いながら、何か書こうと開きっ放しのノートに向かう事にした。直に床に寝転ぶと体の節々がやっぱり痛いので、近くの座布団を持って来てその上にあぐらをかく。
「新曲?」
黄昏がベッドの上から覗き込んで来る。言葉ばかり並んでいるページを見られても特に焦りもしない。昔は恥ずかしかったけれど、曲を書いて渡すのも同じ事なのでもう慣れた。
「ううん、小説。でもどっちに思い浮かんだ言葉を持ってくるかはその時その時によるけどね」
本当はまだ何も書いていない。怪しまれないようにしばらく頭を回転させ新しい言葉を探した。勿論今の心の状態でいいものが浮かんで来るはずも無い。
「んー、今はもうやめっ」
ノートを見せてと言われないように黄昏の位置から見えない所に置いておく。ストレッチをして体をほぐすと、緊張していた心も一緒に落ち着いて来た。
何だかいつもと変わり無い気がし、ちっとも説得に来る心構えじゃない。黄昏が飲んでいた缶ビールを薦めて来たけれど、お酒に頼りたい気持ちでも無いので遠慮しておいた。
「でもよかった、元気そうで」
ベランダのそばで外に広がる水海の街を眺める。天気は悪いけれどここからの景色を見るのも久し振り。この前柊さん達と乗った赤い観覧車も見え、あの日の事が懐かしくなる。
「そうか?」
「うん、もっと腐ってるもんだと思ってた」
怪訝そうに訊く黄昏に素直に頷く。髭もちゃんと剃っているし、痩せこけるほど表情が冴えないと言う訳でも無い。ただ妙にふらついていると言うか、だらけている印象を受ける。
「世の中が腐ってるから俺も腐るんだよ」
黄昏にしては珍しい愚痴が零れた。いや、僕の前だと自己嫌悪に陥っている印象が強いせいで、上手く転んでくれない現実に嘆いていたりするのかも知れない。
「でも周りが腐ってなくても、腐る事を選ぶでしょ?黄昏は」
「もちろん」
あまりに潔い答えっぷりについ笑みが零れた。核の部分は少しも変わっていない。黄昏は手の缶ビールを最後まで一気飲みすると、目が廻ったのかベッドの上でふらついた。
「腐るの大歓迎、ってかー?」
一本開けただけですっかり酔いどれになっている。最近はこうした調子でお酒ばかり飲んでいるのかな?あまり見ていて気持ちのいいものでもない。
「ヨーグルトだけどね、キミはさ」
皮肉を言って外の景色から目を離し、ベッドに頭から突っ込む黄昏の横に座った。
「ビフィズス菌?」
「身体の調子が良くなる、ってね」
「……腐乱死体になりたかった……」
冗談なのか良く解らない言葉を呟くと、黄昏は光を遮るように頭から白いシーツに包まる。でもまだ皮肉に皮肉で返せるだけ元気な証拠。
「ホラー映画の冒頭に出て来て五分でゾンビに喰われるタマじゃないよ、黄昏は」
「世界は俺に不公平だ……」
すっかり酔っ払い相手の会話になっている。僕の前でこれほどお酒に酔うのも珍しい。
「欲しいものが無いより、欲しくないものがあるほうがましだって」
「そんなもんか」
「そんなもんらしいよ」
黄昏が腐りたい気持ちも解らなくも無いけれど、そうやってこの現実はできている。自分の求めているものが無い世界には希望なんてどこにも無い。でも、必要の無いものばかり転がっている世界にいると、本当に欲しいものだけを求め動く活力が得られる。
自分の力で物を生み出す事をしているのは、そう言う理由なのかも知れない。生き続ける為に100%自分の心を満たすものをこの手で創り上げる。それができるのも、僕一人だけの力じゃ勿論無いんだけどね。
「隙間だらけだから、みんな」
僕の言葉に反応し、黄昏がシーツを被った頭を僕に向ける。
「自分に無いものを他人に求めてびっしり隙間を埋めようと動くのが人間の生態」
今になって麦茶が体内でろ過されたので、喋りながら部屋を出た横のトイレへ向かった。
「でもって、常に一人じゃ満杯にならない心を満たしてくれるのを半身だとか恋人だとか言ったりするけど、それを手に入れた所で、人生はまだまだ続くよ、ってね」
用を足すと、気持ちもすっかり楽になる。部屋に戻ると、黄昏の横で話を続けた。
「……隙間を埋めようと他人に関わる度一喜一憂してさ、そこで軋轢が生まれて歪みが生じて腐っていくって言う、そんな仕組みだね、最初からこの世界は」
自分一人で何もかもできてしまうほど、僕達人間は万能じゃない。常に心の何処かで他人を求めていて、隙間を満たそうと躍起になる。その中で喜怒哀楽を感じ、心が疲弊するとまた違う何かを求め開いた穴を満たそうとする。勿論僕も、その繰り返し。
今の黄昏は、その穴を自分の意志で閉じていないように僕には思えた。
「歪んでない正常な世界ってあるのか?」
黄昏がシーツを払い除けると僕の顔を見て訊いて来る。本当に堕落しているなら目の色は濁っているはずなのに、それどころか瑪瑙のように黒い瞳が輝いている。その目を見て、黄昏はいつでも悩み続け日々を乗り越えているのを感じさせた。
何もかも自分の思い通りに行く世界じゃなく、誰もが心を満たし暮らせる世界。そう言う世界を黄昏は望んで今の言葉を言っているんだろう。
「みんなの心の中にあるんじゃない?だから腐っても腐ってもずっと続いてるわけだしね」
上手く何もかも転がる世界なんて、心の中にだけあればいい。僕は窓際の本棚から一冊の本を取り出しながら話を続けた。この前黄昏に貸したままでいた本。
「普通ならそんな理想郷なんてあっさり見捨てて心の隅に追いやるんだけどね、みんな。
でも、黄昏は違うじゃない」
「とっくに諦めてるんだけどな」
参った顔で頬を掻く。
「だから他人と極力付き合わない事で理想郷を作ろうとしてるでしょ?自分だけのものだけど」
「その方が手っ取り早くて、楽だもんな」
あまりに黄昏らしい答えに、思わず声を上げて笑ってしまう。
「そう思っててもやらないし、できないのが普通だよ」
「普通じゃないもん、腐ってるから」
「格好いい腐り方してるよね」
「どーも」
どうも黄昏は自分からこうした暮らし方を選んでいるみたい。僕が横でいろいろ言っても根に染み付いてしまっているようで、あまり効果の無い気がする。
バンド活動の合間に、ここに来ては二人で色々と話をしていた。今みたく主に黄昏が日々の中で感じた疑問を投げ掛け、それを僕が受け答えする。黄昏の口から出て来る疑問はとても純粋な心の持ち主からの視点で、苦笑してしまう事もいくつかあった。
閉じ篭っている分世間の荒波に呑まれていないと言うか、子供みたいな目線で物事を捉えている。だからこそ面白く、魅力があるとも言える。
僕には無い純粋さを黄昏は持っていて、そこに惹かれている。外へ連れ出し2年以上経った今も、社会に染まった感じは全く受けない。多少ひねくれ者になった所はあると思う。でもそれも本来の性格と言うか、昔から自分の考えに筋を通す所があったから。
しかし最近は音楽の事ばかり考えていたので、こうして雑談に花を咲かせるのも悪くない。むしろ雑談の中から生まれる疑問や考えを最初は歌詞にしていた訳で、夢中になり過ぎて変わっている自分に気付かない面があった。
黄昏はやっぱり、僕にとって一番影響のある人物なんだね。
台所へ水を飲みに行った黄昏が今度はカクテルバーを持って戻って来る。用意していたもう一本を開けると吐いてしまうと思ったんだろう。そこまで無理しなくてもいいのに。
僕は座布団の上に座り、本棚から取り出した例の白い表紙の絵本を開き読み始めた。数ヶ月振りに読むと改めて中の話に考えさせられる。語られている事は今黄昏と話をしていた事と同じで、人間本当に満たされてしまうと先が見えなくなってしまうんだろう。
絵本の主人公に黄昏を当てはめて読むと、無性に可笑しくてたまらない。
それで今の黄昏は、この状況に満足しているのかな?
「愁ちゃんは?元気?」
黄昏の心の隙間を埋めてくれるであろう一人の事を訊いてみた。相手の目を見ながらだとスルーされる可能性もあるので、絵本を読みながらさりげなく。
「元気って……楽屋で毎回会ってるだろ?」
「二月程、週一でライヴをやってるんだけど……ここ二回、顔を見てないんだ」
「キュウは?」
「さあ……用事があって行けないって言ってたらしいよ、詳しくは知らないけど」
だから質問している訳であって。愁ちゃんが通っているらしいこの家の中には、女の子の匂いを感じさせるものが置かれていない。黄昏が嫌ってそうさせているのかな。
「ふーん、珍しいな。でも、十分元気だよ」
目線を泳がせながら質問に答えると、開けたカクテルバーを口につけた。何かあったのは黄昏の挙動を見ていれば簡単に分かる。僕と同じ、相変わらず嘘をつけない性格と言うか。
「ま、いいけどね」
言いたくないのなら無理に聞く必要は無いし、僕も考え込むだけだから。手元の絵本を最後まで読み終えると横に置き、体を捻った。あぐらの姿勢で本を読むのは疲れる。
「何か食べた?」
もう食べて来たかも知れないけれど、一応訊いてみた。僕は今日何も口にしていない。
「ほかほかの肉まんだけ」
「じゃあ外に食べに行こうよ。カルボナーラでも作ろうかと思ってたけど、久々に会った
んだから豪勢にね」
この時間なら『龍風』に行けばイッコーが店を開ける準備をしているはず。どうせ話をするのならイッコーも一緒にいた方がいいと思った。本当ならもっとゆっくりしたいけれど、店が始まると邪魔になってしまうので思い立ったが吉日、早速行動。また戻って来るとは思いながら、一応鞄は持って行こうと自分のノートを中に仕舞う。
「……ヴォーカル?」
どこへ連れて行こうとしているのか勘付いた黄昏が、疑り深い目で呟いた。
「正解」
分かっているなら話が早い。僕がただ様子を見にわざわざ家を訪れたなんて事が無いのは黄昏だって分かっていただろう。本当なら鈍っていないかどうか、何曲かここで再会した時のように唄って欲しいけれど、のんびりしている暇は無いから。
「ほら、くつろいでないで早く早く」
「わかったよ……」
急かす僕に苦笑いを浮かべ、アルコールの回る頭でふらつきながら出掛ける仕度をする。愁ちゃんと出会い、もう少し背筋を正した人間になるのかと思っていたら、昔と何も変わっていない。むしろ愁ちゃんが世話焼きな分、余計にナマケモノ化している。
やっぱりまだまだ僕がそばで面倒見ておいた方がいいのかな、なんてこの前のイッコーとの会話を振り返りながら思った。甘やかすよりお尻を引っ叩くくらいがちょうどいいのかも。
黄昏がこの二ヶ月の間に何を感じ、何を得ようとしていたのか。それとも全てを放棄して、ただ眠る事だけを選択したのか。言いたい事訊きたい事は山のようにあるけれど、今日一日で全て訊くのは僕も相手も大変だろう。幸い追い返される事も無く普通に対話できているので、休日にでもまた訪れてみればいい。
何も僕は黄昏を追い詰める為に足を運んだ訳じゃない。今回はじっくり時間をかけ、口説いていくつもり。
既にライヴは来週にも組んでいて、ラバーズでの2度目のワンマンが入っている。おそらくこの時期に黄昏が復活しているだろうと見越し、前もって取ったけれど、それが無理でもここ2ヶ月続けていた3人トリオでの活動の一区切りをつけたいと思っていた。
ライヴの内容がどうなるかはこれからの黄昏次第。でも、不思議と断られるイメージは頭に浮かばなかった。初めて黄昏を誘った時と同じような高揚感が僕の胸の中にある。
それと、今の黄昏を見ていると何かスイッチが入ったような、だらけた見た目は前と変わらないのにやけに目の奥に光が宿っているような印象を受けた。ただ、一体それがどうしてなのかは僕にも全く推測できない。
黄昏は黄昏で、この二ヶ月に色々あったのかな?
「ほら、ぼーっとしてると置いてくからな」
考え事をしていると突っ立っている僕に黄昏が急かして来た。変わっているようないないような、何だかこれまでに無い姿を見ている気がして苦笑してしまう。
「傘はあるよね?あまり降ってないけど」
「心配しなくても、愁に買ってもらったやつがある」
再会した時も確か雨が降っていて、『龍風』に食べに行こうとした時に黄昏が傘を持っていなくて困ったのを思い出す。念の為確認を取ると、自身満々に傘を見せ付けられた。
「これくらいの雨ならまだしも、雨の日に自分から外出るなんて絶対にありえないけどな」
こうした少し天然じみた所も、また黄昏らしい。