072.トライアングル
しかし黄昏と二人で並んで歩くのも随分久し振り。
「愁とキュウが来てからいっつも金魚のフンみたくつきまとってくるもんな」
「金魚のフンって……」
もう少し他の言い方は無いものかね黄昏君。言いたい事は分かるけれど。
しとしと降りしきる雨の中、『龍風』へ向かう。空を覆う灰色と水色を混ぜたような雲が過ぎ去ってしまえば、秋の到来を感じるようになるだろう。
隣を傘を並べて歩く黄昏の顔は、再会した頃より随分大人びていた。髪を伸ばしていた最初は女の子にも見えなくも無い顔立ちをしていたのに。時の流れを実感する。
僕もおそらく顔付きも変わっているだろうけれど、自分の外見なんて普段特別気にもしないので年を取った感じはしない。毎日が忙し過ぎ、精神的に老けた印象はあっても。
途中黄昏をバンドに誘った想い出のT字路を抜ける時、こちらから特別何も言わないでいたら黄昏も口にしなかった。表情だけだと何を考えているのか微妙に分からない。
「そう言えば、最近あの岩場に行ってる?」
想い出の場所で思い出し訊いてみると、目を見開き僕の顔を見た。な、何?
「一応……。バイクでひとっ走りすれば着くから、気晴らしに」
そう答えると、また元の少し眠たそうな顔に戻った。今の表情は何だったんだろう。
「僕、最近忙しいから行ってないんだよね。時間があれば曲の事ばかり考えてるから」
「それはそれでいいんじゃないか。行っても何もあるわけじゃなし」
「うん、今はとても充実してるしね。センチメンタルな気分に浸る暇も無いって言うか」
今はそれ以上に練習やライヴで物凄くスリリングな生活を続けていたので、十分過ぎるほど心が揺さ振られる瞬間を体験している。むしろ今は忙しさや疲れすらも愛しく感じる。
とは言え、太陽の光を受けガラスを散りばめたようにきらめく海を見つめ歌詞を考えるのはそれはそれで有り。最近は理詰めで物を考えるようになって来た所もあるので、たまにはバイトの休憩中にでも足を運んでみるのもいいかも知れない。
自宅から岩場目当てで行くなんてあまりしないので、機会のある内に行っておかないと。次回のライヴの出来如何で、僕も色々と考える事になりそうだから。
「バイクはどう?ちゃんと手入れしてる?」
「愁を乗せて走る事が多いから、その時にしてる。自分一人じゃあまり乗らない」
「気をつけないと駄目だよ。車よりも事故の危険性が高いからね、バイクは」
バイクで自ら大型トラックに突っ込んだり、崖のある山道でガードレール向こうに転落する黄昏の姿をちょっと想像して気が沈んだ。まさかとは言え、それはない事を祈ろう。せめて散るなら前もって僕に言って貰いたい。
ネガティブなイメージは頭の中からすぐ消し去るよう努力する。以前は99%悪い方向にしか物事を考えていなかったけれど、それだととても心が疲れるし、嫌な方面に現実が流れて行く気がして、なるべく+のイメージを持つよう心掛けている。
でないと、綱渡りの毎日からあっさり落っこちてしまう。
バンドに集中し、見たくないものに蓋をしている自分がいる事は分かり切っている。でも、日々の疲れに心が押し潰され、全てを放棄してしまっては何も残らない。
だからいい音楽を聴いたり自分達の生み出した新しい物に触れたりして、エネルギーを胸の中に蓄積していく。そうして僕は少しずつ前へ進んでいると信じたい。
ただこれが、一生が終わるまで繰り返される輪廻なのかと考えると気が滅入ってしまう。
黄昏も似たような考えに達し、今はステージから降りている。
今でもきっと黄昏は、僕よりも先をほとんど見ていないと言うか、一瞬一瞬を生きている。自分の未来なんて想像もできないほど毎日崖っぷちに立たされているに違いない。
でもそれは他人から見ればただのまやかしで、何故脅えているんだろうと考えてしまう。
僕も同じ経験をしているので黄昏の苦悩は分かる。そこをもう僕はくぐり抜けた。自分一人の力では無く、様々な人の手を借りて。その中に勿論黄昏もいる。
だからこそ、黄昏にもいつの日か闇を見つめないで暮らせる日が来る事を信じたい。その手助けを僕ができれば最高と思っているけれど、2年続けてもまだ無理みたい。
僕に黄昏を救う資格が無いなんて事……無いよね。
「そんなに俺の顔を見るのが懐かしいのか?」
「いや、愁ちゃんが惚れるのもよく分かるって言うかさ」
「言っとけ」
軽くあしらうと、黄昏は僕を置き先を歩く。
神様に呟いてみても、答えが返って来るはずも無かった。
しばらく歩き『龍風』に到着すると、店の前には『準備中』の立て札が掛けられていた。悪いと思いつつ、傘を畳むと構わず店のドアを開ける。
「あ、お客さん今はまだ……」
香ばしいスープの匂いと共に、奥からイッコーの声が飛んで来た。足音を立て調理帽を被ったイッコーが出て来ると、僕の後ろの人物に目を留め驚いた表情を見せる。
「まーだ生きてたんか、たそ」
「ビフィズス菌だけどな」
「相変わらずワケわかんねーことばっか言ってるな、おめーは」
久し振りに見た黄昏の顔に安心したのか、白い歯を見せ笑う。
「今忙しい?お邪魔のようなら又の機会にするけど」
「構わねーよ。どーせ開いて1時間は大して客もこねーし、今日は平日だしな」
お言葉に甘え、僕達二人は調理場前のカウンターの席に腰掛けた。
「で、何にする?あいにくレパートリーは少ないけどよ」
「俺は唐揚げ定食」
「じゃあ、僕も同じで」
「あいよ、唐揚げ定食二つー!」
いつもの癖なのかイッコーが大声で注文を繰り返す。高校を卒業してからは実家のこの店の手伝いばかりしているせいか、すっかり調理師の格好が板に付いていた。衣をつけた唐揚げが油の中で跳ね回る音が、店内に流れる曲に乗せ響き渡る。
「何もここまでテープかけることないだろ……」
うんざりした顔で黄昏が頭を抱えた。今流れているのは『days』の『カシス・ソーダ』の練習中に録音した音源。勿論唄っているのは僕の隣に座っている人物。
「人より物覚え悪いから、しばらく聴いてないと忘れちまうんよ」
「身体で覚えろ……」
「まあまあまあ」
カウンターに肘をつき捻くれる黄昏の背中をさすってあげる。黄昏はずっと自分の声が嫌いと言っているし聞くに堪えないのは分かるけれど、拗ねるほど酷くもなく、むしろいい。
「会ってない間、何してた?」
フライパンで野菜を炒めながら、イッコーが黄昏に尋ねる。
「腐乱死体になってた」
「まーた愁ちゃんに迷惑かけてるんか」
「俺にばかり手かけてくるから……」
「愁ちゃんが最近来ねーのも、ぜーんぶおめーのせいか」
返事をしなくても、カウンターに力無く突っ伏す黄昏を見れば何があったのかは十分察しがつく。イッコーは声を上げて笑いながら、唐揚げの揚げ具合を確かめていた。
「やれやれ、愁ちゃんも大変なやつに惚れちゃったねー」
全く同意。でも、成り行きで僕達と付き合う事になったとは言え、家に押しかけてまで面倒を見る愁ちゃんの行動力も凄い。恋は何とやらとはよく言ったもの。
それを考えれば、遊びとは言えわざわざ遠くから僕に会いに来た柊さんも凄い。女の人ってみんなこんな調子なんだろうか?大学に行くと言っていたものの、万に一つ『days』目当てでこちらの学校を受けに来る事があれば僕はどうしていいものやら。
目先の事にとらわれ、親に迷惑をかけないようにして貰いたいと、切に願う。
2曲分流れた所で唐揚げ定食が出来上がり、イッコーが料理を盛ったお皿とご飯と味噌汁を並べて行く。言わなくても黄昏のお茶碗はご飯が山盛りになっていた。香ばしい匂いと立ち上る湯気に黄昏の腹の虫が反応する。アルコールが入っているせいで食欲が増しているんだろう。久し振りのイッコーの料理に目を輝かせていた。
「家でずっとくたばってんならデートにでも連れてってやればいいん」
早速唐揚げに噛り付く黄昏に、イッコーが仕込みを続けながら言う。
「デートって言ったって、どこ行けばいいんだ」
「あーもー!なしてこいつは自分から動こうとせんかなぁ!」
見ていられないと言った調子で、手を止め大げさに頭を抱えのた打ち回るイッコー。向こうが気のある目で見ているのに何のリアクションも起こさない黄昏に、しびれを切らしているんだろう。イッコーが喚きたくなる気持ちも解る。
「それ以前にさ……好きなのかもよくわからない相手とデートしてさ、いいのかな?」
とても純粋な、黄昏らしい質問が出るとイッコーの動きが止まった。
「お〜ま〜え〜」
地の底から響くような声と共に肩が震えているのがはっきりと分かる。次に起きる出来事を想定し、僕は黄昏から席一つ離れた所へ定食と共に批難しておいた。
「あれだけカワイコちゃんにかまってもらえてその想いを無下にするたぁふてぇ度胸だ!そこに直れ!おれがその腐り切った性根をメッタメタに叩きのめしてやるっ!」
カウンター越しに身を乗り出し、真っ赤な顔で早口でまくしたてる。イッコーにも女性関係で色々あったのは以前聞いていたから、健気に尽くしてくれる愁ちゃんの想いを正面から受け止めようともしない黄昏の態度が頭に来たんだろう。
あまり関わりたくないので、二人を無視して目の前のお皿に箸をつける。美味しい。横目で黄昏が恨みがましい視線を僕に向けているのを、気付かない振りをしてやり過ごした。
「あんなに性格良くて気の遣ってくれる女の子なんてそうそういるもんじゃねーぞ!?くう
ーっ!おれがもしおめーなら喜んで付き合ってやるってゆーのによーっ……!」
「じゃあおまえがつき合えよ」
「いや、おれにはもう想い人がいるんで」
「あっそ」
「お水」
グラスのコップが空になったのでイッコーに頼むと、二人は会話を止め僕の顔を見た。3人の間にしばらく沈黙が流れた後、イッコーが黙ってお水を注いでくれる。僕に構わず続けてくれればいいのにと思いながら、唐揚げと野菜を一緒に頬張った。
「それに……俺、あいつの家も知らないんだぜ?それでつき合ってるなんて言うのもおか
しくないか?」
結局会話が再開されたのは黄昏が半分近く食べてからで、食事に集中していた僕は既に全部食べ終わり、黙って横で黄昏の話に耳を傾けていた。
「勝手にあいつが俺の事かまってるだけで、こっちから頼んだわけじゃない。向こうは俺
が好きなのかもしれないけど、俺があいつを好きかなんてそんなの……正直俺にもわから
ないんだから」
なるほど、黄昏の言う事も解る。でもそれならそうとはっきり言えばいいのに。いや、もしかすると言ってしまったから喧嘩でもして、愁ちゃんが来なくなったのかも。
しかし黄昏と愁ちゃんの話を聞いていると、結構耳が痛かった。僕も柊さんに曖昧な態度を取り続けているし、自分の気持ちさえ良く分からない。
相手の気持ちさえ掴みかねているのに、自分の気持ちに断定なんてできない。黄昏も僕もきっと似たような想いでいるんだろう。
「でももう寝たんだろ?」
「ぶっ」
しばらく腕を組んで考え込んでいたイッコーの突然の言葉に、思わず飲んでいた水を噴いてしまう。むせ返りながら手元のティッシュ箱から何枚か取り、カウンターを拭いた。
いきなり直球を投げられると横で聞いている僕も驚くよ、イッコー。
「あんまりいいシチュエーションじゃなかったけどな」
「ははーん……愁ちゃんが来ないのもそーゆーわけか」
「そんなとこかな……でも、わかるどころか、余計こんがらがってきた」
対照的に冷めた顔で受け答えしている黄昏を見ると、僕より恋愛沙汰は慣れているのかなと思った。黄昏の恋愛話はこれまで一度も聞いた事ない。
でも、女性と肌を重ねた事はあるらしい。恋愛とはまた別の出来事らしく、その辺が恋愛下手な僕には今一つ良く分からないけれど、黄昏なら有り得るので深く追求はしない。
しかし周りの人間が、知っている人と一晩過ごしたってあっけらかんと言えるその神経が凄い。別に黄昏は言い触らしたい訳でもなく普通に答えているつもりなんだろう。
黄昏にとって、愁ちゃんは自分を満たしてくれる相手じゃないんだろうか?
ステージで唄う事と同じくらい愁ちゃんが傍にいる事が大きいから、バンドに戻って来ないのとは違うのか。そう言う部分もあるとばかり思っていただけに、黄昏の考えが見えなかった。まさか別のファンの女の子に手を出している……なんて事は絶対有り得ないし。
「形は一緒だけど、はまらない……ってやつかな」
一つの仮説が思い浮かび、口にしてみた。
「何が?」
「ほら、あの絵本」
尋ねて来るイッコーも僕が買って来た絵本の事は知っている。お勧めと言ってメンバー全員に回し読みさせたから。ある意味『days』のバイブル(僕の主観ではあるが)。
「あの1ピース欠けたピザみたいな主役を愁ちゃんとすれば、黄昏は欠片の方で……でも、その欠片は自己主張が強いから、自分から動く以外は絶対に他の人にはまろうとしない……そんな感じだよね」
自分でも的を得た意見を述べたと思った。途端、
『絵本と現実をごっちゃにすんな、この童貞っ!』
二人に同時に怒鳴られた。
そう言われるのが嫌だったから、自分から恋愛話を切り出さなかったんだよう。
「そんなにクソ単純に割り切れるもんか、現実なんてのはよお!」
今にも着ている調理服を脱ぎ、啖呵を切って来そうな勢いのイッコーに怯んでしまう。
「相手にどう受け入れてもらえる人間になるかってのを必死に考えて自分を変えてく努力
をすんのが恋愛ってもんだろがっ!そう簡単にぴったりな相手が見つかるなんて思ったら
大間違いだってんだ!」
「や……別にそんなこと言ってな……」
「生まれた時からぴったりの相手が決まってるなんて、んなワケあるかあ!そんじゃ愁ち
ゃんの努力は全部水の泡ってワケか、ええっどうなんだあ!?」
「ご、ごめん……」
言い訳も聞いて貰えないほどの迫力で凄まれたので、この場は素直に謝った。なのにイッコーは更に熱く盛り上がる。僕、そんなに間違った事言った?(涙)
「それなら最初っから形の違う人間同士が結ばれるのは無理ってワケか!?そんなの……そ
んなの絶対俺は認めねえぞおっ!!」
強く握りしめた両拳をカウンターに叩きつけて涙を流されても、返す言葉も浮かんで来ない。とりあえず分かったのは僕が横から口を挟む立場の人間でない訳で、何を言っても無駄と言う事。
暗に『出直して童貞捨ててから来い』と言われているようで、鬱になる。キュウに頼んで手伝って貰った方がいいのかと、今一瞬本気で考えてしまった。初体験は本当に好きな人と、と言う僕の考えは古臭く過ぎて何の意味も無いんだろうか。
……でも、泣きながら仕込みを続けるイッコーを見ていると、まだ女性の体を知らなくても全然構わない気がした。無理に経験し、跡になる苦い想い出は創りたくないです。
と、こう言う話をしに今日はわざわざ『龍風』に来た訳じゃない。
「あ……そうだった。用件忘れてた」
気を取り直し黄昏の方に真面目な顔を向けると、言いたい事を察したのか先に口にした。
「バンドに戻る気はないからな」
あっさり答えを言い渡すと、湯気の無くなった定食の残りを口に運ぶ。一筋縄ではいかないだろうと覚悟していたとは言え、面と向かって言われるとさすがに気落ちする。
「どうしても?」
念を押してもう一度訊いてみる。困ったような疲れた顔で、僕たちを見て答えた。
「だってさ……今はもうステージの上で唄う気持ちもないし、気まぐれで何度も練習さぼったりライヴ休んだりするんだぞ?そんな人間が戻ったところで、また繰り返すだけだ」
本当にこの前のライヴで、黄昏は燃え尽きてしまったんだろうか。それでもどうやら自分が足を引っ張っているのは自覚しているようなので、怒る気にはなれなかった。
「でも、他で唄うつもりもないんだろ?」
しびれを切らしたイッコーの問いに黄昏が黙って頷く。別に僕達とやるのが嫌と言う訳ではないみたいなので、胸を撫で下ろす。
「唄うのが嫌いになった?」
それだけはあって欲しくない。そう思いながら問い質すと首を横に振り否定した。
「そんな事はない……けど……ただ、人前で歌う事に意義を感じなくなったって言えばいいのかな……時間が経ってから気付いた事が一つあったんだ」
箸を置き、僕達の顔を交互に見ると語り始める。
「前にやったワンマンライヴで、それこそくたくたになるまで力を出し切って……胸一杯になるくらい、満足した。でも、その時どれだけ満たされていても戻る場所はいつも同じで……得たもの全部、繰り返される毎日に吐き出されてしまう。客も入るようになって、バンドの状況は変わってきてるけど……俺の中は、昔とたいして変わってないんだ」
黄昏の独白を、イッコーと僕は黙って聞いていた。店内に流れている黄昏の歌声がそうした気持ちで唄われているものと思うと、胸が痛む。
「後に見えるものが振り払えるかと思ったら、全然離れてくれない」
力無く頭を振ると、心から疲れたように溜め息を吐いた。残っている唐揚げを一口頬張ってから、気を取り直し話を続ける。
「でも、昔みたいに気が狂うほど切羽詰まってもないんだ、今は。飼い慣らしてるとでもいうのかな……見て見ぬふりをしとけば、向こうから飛びかかってくる事はないから。それを覚えたから……無理にステージに立つ必要もない気がするんだ。どんなに喜んだって一時のもので、気付いたらすぐ目の前から消えてなくなってしまってるんだもんな。それって結構、辛い」
ああ、だからこそ黄昏は唄う事を止め、部屋に閉じ篭ってしまったんだ。
今の話を聞いて、僕の中で全部が繋がった。
「バンドが始まった頃って、とにかく苦しい毎日から抜け出したくて、もっと素晴らしい明日に出会いたくて唄ってた気がするんだよな。でも今は、そんなもの本当にあるのかなって思う。思い描いてたものが実は幻で、毎日はどこまでも変わらず淡々と続いていくのかもしれない。そう考えるとさ、唄う事がそれほど必要ないっていうのか……唄わなくても生きてけるんだ、今はな」
「サボるのに……慣れた?」
「みたいだ」
あっさり言われると訊いた僕も苦笑するしかない。
黄昏の胸の中には、もっと素晴らしい毎日を思い描かれていたに違いない。自分と言う人間が生まれ変わるほどの理想を持っていたからこそ、どれだけ頑張っても大した変化も見せない世界に嘆いたのかも知れない。
手に入れたのは小賢い日々の乗り越え方と、バンドを通じて出会った人達との仲。
それに僕達苦楽を共にする仲間に出会えたとは言え、却ってそれが黄昏を縛り付ける足枷になっているのも事実だろう。仲間と思っているのかは別として。
いつまでも引っ張られ続けている事が嫌になり、逃げ出したくなったのもあるはず。
おそらく黄昏は、改めて現実に嫌気がさしてしまった。光を求め外へ歩き出したはずなのに、現実は思い通りに動いてくれない。そこの格差に嘆いたのだろうと思う。
今はきっと、昔みたいに何かに追い立てられるように部屋で一人唄う事も少なくなっただろう。何もしないままで、一体どれだけ生き続けていられるのかを自分自身で試しているようにも見える。
未来を見る事を放棄した。僕の目に今の黄昏はそう映った。
「いい加減、俺の代わりに新しい奴でも入れたらどう?ずっとベース弾きながら唄ってる
んだろ、イッコー?」
箸を突きながら提案する黄昏に、イッコーは難しい顔を見せた。
「でも、おめーの曲は3人のライヴじゃやってないぜ。全部おれの曲」
「そうなんだ。別に義理立てしなくてもいいと思うけどな」
愁ちゃんに聞いていなかったのか、黄昏は呆れた様子で肘を付いた。
「おめーを心待ちにしてるファンもいるんだって。今はおれのレパートリーを増やしてやってっけど、あくまでメインはおめーだかんな」
イッコーの言葉に溜め息をつくと、定食の残りを口の中に掻き込む。そんなに期待されても困ると言うのが黄昏の本音だろう。
他人に期待されると言う事は、実は自分の存在意義を一番確認できる事なのに。どうも黄昏は前から期待される事を厄介に感じている節がある。
「……なら一旦解散して、3人でやればいいんじゃないか?」
全部食べ終わった所で、黄昏が言ってはいけない事を口にした。
一体誰の為にこんなに苦労して頑張ってると思ってるの!
怒鳴りたい気持ちを押し殺し、強烈な視線を浴びせ掛ける。イッコーも僕と同じ気持ちなのか鋭い目で睨んでいて、僕達のプレッシャーに黄昏は肩を縮めた。
「まともにバンドに出てない人間がそう言う事言わないようにね」
「悪かった」
頭を下げて謝って来る。僕達にとって、黄昏はいてもいなくてもいい人間じゃない。掛け替えの無い大切な仲間なんだと言う僕達の気持ちに気付いて欲しかった。
『days』は黄昏がいないと始まらないんだから。
「まあ、昔みたいに唄わなきゃ息ができないような、そんな感じがまとわりついてきたら
戻るよ」
これ以上色々言われるのは勘弁と思ったのか、言い訳がましく弁解するとグラスの水に口をつけた。僕とイッコーは顔を見合わせ、参ったように肩を竦める。
思った通り、説得するのは時間がかかりそう。この調子だと、待ち続けた所で黄昏の方から戻って来る事はまず無いだろう。とりあえず数回僕とイッコーで説得と続けてみて、駄目なようなら愁ちゃんに頼んだり、キュウや千夜を引っ張り出して来るしか無い。
骨の折れる作業に気が遠くなるのを感じ、長期戦を覚悟した。
「わかった、じゃあ今回は……」
「次のライヴっていつだ?」
話を締めようとした途端、突然黄昏が身を乗り出して訊いて来た。つい数秒前には無かった目の輝きに思わずたじろぐ。、
「え、いつ……って……来週だけど」
「その次の保証はできないけど、俺、唄っていいかな?」
『え?』
我が耳を疑った。イッコーも驚いた顔で、僕と目線を交わす。間違い無い。
「いいのっ!?」
一体何の心境の変化なのか、黄昏がやる気になってくれた。理由はともかく嬉しさのあまり、訊き返す声が裏返ってしまう。
「って、おめーもう一週間もないんだぜ、大丈夫なんか?」
冷静にイッコーが疑り深い目を黄昏に向ける。次はまた長丁場だし、前回ですら一杯一杯で切り抜けたのに休養明けでいきなりワンマンに挑むのはちょっと無茶な気もする。
「今まで寝てたぶん、変な癖とかついてないから逆にいけるんじゃないかな」
「まーた自分勝手な考えで……」
深く考えずに言ってのける黄昏が素敵。イッコーは笑って肩を竦めるしかなかった。
しかしついさっきまで渋っていた人間とは思えないほどの心の変わり様に驚く。でも余計な事を訊いてやる気を削ぎたくは無いので、黄昏の意志を尊重する事にした。
とは言え、僕達二人がOKした所で最大の問題が待ち構えている。
「でも、千夜はどうするの?」
『う……』
僕の言葉に二人が言葉を詰まらせる。いきなり黄昏が唄いたいと言った所で、すぐに許してくれる千夜とは思えない。
「いきなりは絶対許さないと思うけど」
「俺もそう思う……」
本気で頭を抱える黄昏。犬猿の仲なのは昔から全然変わっていないので、また今回も激しくぶつかり合うのが目に見えている。黄昏曰く「向こうが勝手にぶつかって来る」らしいけれど、僕からしてみればどっちもどっち。でも喧嘩をした後毎回僕にうんざりと愚痴をこぼす所を見ると、したくてやっている訳でもないらしい。
「とりあえず、一回みんなでミーティングするしかないわなあ」
イッコーの言う通り、練習に入る前にミーティングの場を設け、話し合うしかない。時間が無いのでその時に結論を出すしかないか。
「今話してても仕方無いしね。じゃあ、千夜に連絡だけは入れておくよ、ごちそうさま」
これ以上長居をすると開店準備の邪魔になる。僕は席を立つと、食べ終わったお皿をイッコーに手渡しした。黄昏の分も渡してあげる。
「勘定は次回でいいぜ」
「了解」
「じゃ、そろそろ帰る。ごちそうさん」
一足先にお腹を膨らませた黄昏が店を出る。
「あ、たそ」
ドアを開けて出ようとする所を、イッコーが呼び止めた。
「金は次の時だろ?」
「ちげーよ。なあ、なして急にやる気になったん?」
あえて僕が訊こうとしなかった事を、単刀直入に疑問を投げ掛けるイッコーに乾杯。
黄昏は少し考え込む素振りを見せると、口元を上げ面白そうに答えた。
「ジャケット返してもらいたいからかな?」
何の事を言っているのか分からず顔を見合わせる僕達を置き、店を出て行く。
「ジャケットって何だ?」
「さあ、僕にもさっぱり」
取り残された僕達は揃って肩を竦めた。愁ちゃんに貸したままなのかな?
「とにかく、これからまた忙しくなりそうだね」
「たそのことだから一筋縄じゃいかねーと思うけどな」
同感。ステージに上げるにはまだまだ難問が待ち構えていそうで、精神的に疲れる。
次に集まる日時を二言三言で決め、千夜には僕から、キュウにはイッコーが連絡を入れる事にした。愁ちゃんがいれば穏便に事が運ぶと思うけれど、多分今は無理。もし喧嘩にでもなった時はキュウに頑張って貰う事にしよう。
「ところでさー、たそって何か感じ変わったっぽくね?」
不意にイッコーが僕の顔を見て尋ねて来た。しばらく考え込んでみる。
「愁ちゃんに構って貰ってばかりのせいか随分だらけているみたいだけどね。それでも中身は全然変わってないよ。横で見てると放っておけない所も一緒」
「休んだ分、しゃきっとしてくれりゃーいーんだけどな。ケツ叩いてりゃまた元に戻ると思うけどよー、あいつの考えてることってわかるよーでわっかんねーかんなー」
どうやら他人から見た黄昏の印象も僕と大差無いらしい。
「新曲とか唄えそうかな?」
「どーかねえ。全然唄ってねーんだったらちと厳しーかもな。物覚え早えーからそっちは問題ねーと思うけど」
「じゃあ今日から早速勘を取り戻して貰う為に唄わせておいた方がいい?」
「だなー。ま、おれも店の手伝い終わった後ならそっち行けっから。多分何とかなんじゃねー?あんま深く考えなくていーって」
「おーい、何やってるんだ青空―」
意見を交わしていると、外で待っていた黄昏がドアの向こうから顔を出して来た。
「あ、悪ぃ。んじゃまた後でな」
「こっちこそごめんね、忙しい所」
「ちゃんとメシ代払ってくれりゃかまわねーって」
そう言う所はしっかりしてるね。苦笑しつつ、イッコーにお礼を言い店を出た。
「何話してたんだ?」
気になったのか帰り際に黄昏が訊いて来る。
「これから黄昏をどうやってしごこうかなって。ライヴに向けて特訓しなきゃね」
「マジかよ……勘弁してくれ」
うんざりした顔で背中を丸める姿を横で見ながら、僕はまた石が転がり始めるのを実感し胸躍らせた。