073.レイニーブルー
まるで僕の心の中を表しているかのように空は一面薄青い雲に覆われていて、細かな雨粒が頭上の傘の上で跳ね、小さな音色を奏でる。水面が波打つ目の前の噴水。この季節にはまだ早過ぎる底冷えするような寒さに、僕は小さく体を震わせた。
「俺、帰りたい」
「駄目」
何度目か分からない黄昏の呟きに駄目出しをする。僕の隣でつまらなそうに傘を差している黄昏は今すぐにでも帰りたいオーラを全身から発散させていた。
「ステージに戻りたいって言ったのは黄昏でしょ。なら千夜を説得できないといけないし」
「やっぱりやめる。前言撤回でいい」
「ええい往生際の悪いっ。……ほら、来たよ」
逃げ出そうとする黄昏の首根っこを引っ掴まえ抑えていると、道の向こうから傘を差したキュウと千夜がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。さすがに雨降りの日、休日なら人で賑わうこのキャンディパークも人影がまばらで、待ち合わせしていてもすぐに見つけられる。今日は特に冷え込むから、いつも以上に人の姿が見えない。
「おつー。さーむいねー今日!」
そばにやって来るなり開口一番、キュウが自分の両肩を抱きかかえ叫んだ。
「そんな薄着してるからだろ」
「黙らっしゃい」
吐き捨てる黄昏にすかさず唐竹割り。二人は大して背丈が変わらないから簡単に手が届く。しかし、この寒さでも夏のファッションと大差無いキュウもどうかと思った。
「あ、良かった……。ちゃんと来てくれたんだ」
「貴様達が呼んだんだろう」
二人をよそに千夜に話しかけると、冷たい目で睨み返された。煙草の吸殻を手元の携帯灰皿に入れ、次のを取り出し火をつける。少し濃いメンソールの匂いが鼻についた。
「そうだ、愁は?」
「愁?あの娘なら用事があるって言ってたわよ。しっかし久しぶりねー。少し痩せた?」
キュウに問われ自分の顎をさする黄昏。愁ちゃんがいないのが残念なのか、苦虫を噛み潰したような顔で眉をひそめている。誰かが深く話を訊こうとしない限り、僕の方から口を出すのは止めておこう。黄昏が僕に相談を持ちかけて来るかまではさすがに分からない。
一方で千夜は煙草をくゆらせ、どうして水海くんだりまで黄昏の為に出て来なければならないんだ、と全身で語っている。久し振りにメンバー4人揃ってミーティングしようと誘ったのはいいものの、まだ二人に黄昏のライヴ復帰については話していない。いや、言わなくても薄々感づいてはいると思う。
「とりあえず、ファミレスに行こうよ。イッコーが待ってるんでしょ?」
寒い雨降りの中、立ち話も何なので僕が促すと、キュウが千夜の手を取り先陣を切って歩き出す。その後を僕が歩いていると、真横にいたはずの黄昏は大きく離れた後で歩幅小さくついて来ていた。どうやら二人共互いの顔を見たくないらしい。
僕は乾いた笑いを浮かべ、遠くのビル群に目をやり、これから先の事をなるべく考えないようにした。ここまで犬猿の仲なのもそうそうないよね。
公園から少し離れたファミレスの階段を上り中へ入ると、トイレにでも行ってたのか茶絨毯の通路を歩いていたイッコーとちょうど出会った。
「おー来たか。ほれ、こっちこっち」
イッコーに連れられ、取っていた窓側の喫煙席へ。雨の日だからか店は少し混んでいたけれど、問題無く5人揃って座れた。男性組と女性組に分かれて座ると千夜と黄昏が対極の位置になってしまったので、二人を真向かいにさせるように通路側に場所を変える。二人とも不満そうな顔を浮かべ僕を睨むも、今日のメインはこの二人なので仕方無い。
ここに愁ちゃんがいてくれれば、話し合いも随分楽になるのに。
そんな思いをグラスの水と共に飲み込み、適当にコーヒーでも頼んだ。さすがに今日は箸を突きながら楽しくミーティングできる雰囲気ではない。
「あ、おれ、このパスタとこの丼、それとドリンクバー」
重い空気の漂っているテーブルに関係無く笑顔で店員に注文するイッコーを除いて。
「で、わざわざこんな場所に集めて何の用?」
「まーまーせっかく久しぶりに集まったんだから、もーちょっとのんびりしてから、ね?」
「そーそー。前ん時ゃあんまり話せなかったかんな」
一刻も早く用件を済ませここから立ち去りたい千夜の思いとは裏腹に、すぐには帰すまいとキュウは僕達に世間話を振って来る。イッコーものんびりと僕の隣で窓際にもたれかかり、話題に乗って来た。千夜は更に眉間に皺を寄せ、手元の灰皿に煙草の灰をリズム良く落としている。黄昏はいい加減諦めたのか、テーブルの上にうつぶせになってつまらない顔を僕の方に向けていた。
イッコーの料理が来るまで、黄昏が休養した後からこれまでのバンドの状況を身振り手振り交えながら黄昏に説明してあげる。一応僕一人の時にも話はしたけれど、イッコーやキュウがいると更に詳しい内容になるから。ホットコーヒーを飲みながら、ぼんやりとした顔で黄昏は耳を傾けていた。勿論、千夜は何も喋ろうとしない。
「それで?この男をここに呼んだ理由は?」
一通りこれまでの話も済んだ所で、ようやく重い口を開いた。
「そんなのもちろん、たそがそろそろバンドに戻りたいって頼みこんできたからじゃない。ねー?たそっ」
「ちょっと待て、そんな無理にでも戻りたいなんて一言も言ってないぞ」
一人盛り上がるキュウに諌めるように反論する黄昏。
「え、だってそーでしょ?じゃなきゃわざわざアタシ達呼ぶなんて必要ないじゃない」
「だからだな、俺はそんな別に……」
「まーまーまー、二人共落ち着こうよ。代わりに僕が話すから」
放っておくと気分を損ねて帰ってしまいそうなので、慌てて間に割って入った。キュウにも前もって連絡を入れておいたけれど、一方的に電話を切られたから上手く伝わっていない。黄昏を呼んでミーティングをやると言っただけですっかりその気になっている。
「……と言うわけで、黄昏をバンドに復帰させようと思うんだ。どうかな?」
4人でまた始める意向を手短に伝える僕の横で、黙って黄昏は小さく頷いていた。
「そりゃアタシだって大賛成だけど。その時になって『やっぱやめた』なんて言わない?」
「言わない言わない」
少し疑いの目を向けているキュウに手を振って否定する黄昏。これまでの行いが行いだから、相手も簡単に信じてくれない。
「すぐにまた『やっぱり休みたい』なんて言わない?」
「それはわからない」
顔色一つ変えず断定する黄昏の言葉に、キュウが音を立てテーブルに顔を打ち付けた。おでこをさすりながら参った顔で旋毛を巻いている。
「あのね……モチロンアタシだってたそにバンドに戻ってもらいたいけど、そうそう移り気でいられるとムチャクチャ困るのよね……お客だって戸惑うでしょーし」
「今は完全に別形態だしなー。コロコロ3人4人に変わってたらいつ観にいきゃいーんだって話になるもんな」
イッコー達の言う事ももっとも。無理に頼んで悪い方にしか向かわないのなら、今回は見送るのが懸命なのかも知れない。
「おねーさまはどう?せーちゃんとイッコーは問題ないみたいだけど……」
これまでずっと黙って煙草を吹かしていた隣の千夜に訊いてみると、横目で一瞥してから何も言わずにグラスの水を飲み干し、2杯目を入れに席を立った。
「……どうとっていいのかしら」
「いいんじゃないかな。問題があるなら黙るより口に出すタイプだし」
困った顔で首を傾げるキュウに言ってあげる。どうやら少なくとも黄昏が復帰する事に反対している訳ではなさそう。もっと文句を言われると思っていただけに、やや肩透かし。
「おれは今すぐにでもスタジオ入りてーけど。ベースも用意してきたかんな」
隣でイッコーが満面の笑みで窓際に立てかけたソフトケースを叩く。千夜も後でスタジオに入ろうとしているのかスティックを用意して来ていて、僕だけ昨日寝泊りした黄昏の家にギターを置きっ放しにして来た。イッコーの意気込みは買っても、さすがに話がすぐついて練習に入れるなんて楽観視はして来ていない。
「いつ戻ってきてもいーようにちゃんとたそ用の曲は欠かさず練習してんぜ」
「そりゃありがたい」
テーブルに喉を押し付け寝添べる黄昏が皺枯れた声で返す。
復帰すると決めてからリハビリに取り組んでいるせいで、やや声のトーンが低い。昨日も朝方まで声を出していたものの、しばらく唄っていなかったのか勘を取り戻せずに苦戦中。これまで休まずに毎日唄い続けて来た人間が2ヶ月唄わないと、他人の10倍位の長さに値するみたい。
「それより、ちゃんと唄えるんか?んな短期間のやっつけで」
「大丈夫だろ。間に合わせてみせるさ」
「短期間?あ、いい匂い」
イッコーと黄昏のやり取りにキュウが首を傾げていると、テーブルに料理が運ばれて来た。匂いに反応したのか、目の前を通過する皿を黄昏が恨めしそうな目で見ている。僕越しに一口頂戴と頼んだらイッコーに即答で拒否され、首をうなだれていた。
「まー、とにかく」
キュウが咳を一つついた所に千夜が水を手に戻って来る。全員が話を聞ける状況になった所で、改めて口を開いた。
「たそが戻って来たらまた前までの形に戻さなきゃいけないし、それだけで最低一月は見ておかないとダメだものね。曲に関してはそんな無理して新しいの作る必要はないけど」
「あー、それなんだけど……」
一人話を進めるキュウに、苦虫を噛み潰したような顔で小さく手を上げる。
「何?何か問題でもある?」
「んな時間はねーってこと。おれ達もうやる気マンマンだもん」
イッコーが一旦丼の箸を止め、目を丸くするキュウに言う。今確かに千夜の片眉がひくついた。僕の背筋に緊張が走る。
「えっとですね……、実は……」
「何よせーちゃん、もったいぶっちゃって」
横の黄昏に目配せするけれど、何も言わず僕を下から見上げている。話せ、と言う事らしい。千夜の顔色を窺ってみると、愛想も無く黙ってグラスを傾けている。
そんなに悪い気をしている訳でもなさそうだし、大丈夫かな。
「来週のライヴで黄昏をステージに上げようと思ってるんだけど、僕達」
このまま言っちゃえ、と意に任せ勢い良く言ってみせた。
刹那、千夜の顔が露骨に嫌な表情になった。
場が凍りつく。笑顔でご飯を頬張っていたイッコーの箸も見事に止まった。
さすがにそれは、許さないか。
千夜は無言でグラスを置くと、黄昏を一瞥して立ち上がった。
「貴様はいつもいつもどうして勝手に決めるんだ!!」
周りのお客の事など関係無しに、大声を上げテーブルに握り拳を振り下ろす。
「ふざけるのも対外にしろ。バンドは貴様のおもちゃじゃない!!」
「ちょ、ちょっと千夜」
「第一青空もこの男を放任させるから悪い!解っているのか!?」
慌てて止めに入ろうとしたら矛先がこちらに向いた。
「どうせこの男が言い出したんだろう!?こんな気まぐれだけで生きているような奴に好き勝手にさせて……!それで私達がどれだけ苦労していると思っている!!」
「おねーさま、抑えて抑えて。周り周り」
焦るキュウが横から袖を掴み、視線を店内に向けさせる。周囲の目がこちらに集中している事に気付き、千夜はキュウの手を払ってから不満げに腰を下ろした。何事かと確認しにやって来たウエイトレスに注意を受け、頭を下げる僕達。
「……千夜の怒る気持ちも解るけど、もうちょっと落ち着こうよ」
「言われなくても落ち着いている」
店内の空気が戻ったのを確認し千夜に声をかけると、うざったそうに前髪を払った。
「貴様だけでなく、イッコーも深く考えずに賛成するつもりでいるんだろう」
「ん?おれ?おれは客の一番観たいと思ってるものができりゃそれでいーん」
話を振られたイッコーがシーフードパスタを食べる手を止め、気軽に言った。
「でも、そんな短い時間で納得するものができる?」
千夜の言葉をキュウが代弁する。
「確かにその通りだけど……何とかなるんじゃないかな」
「だからその楽観的な考えがこの男を駄目にしてると何故気付かない……」
頭を抑え溜め息をつく千夜を見て、悪い事をした気分になった。でもここでライヴの日時を伸ばしてしまうと、かえって黄昏の気力を萎えさせる結果になりかねない。
「そもそもこんな唄うしか能の無い男、これ以上バンドに置いていても害になるだけ」
次の言葉を探していると、向こうから厳しい一言が飛んで来た。
「私と青空、イッコーの3人だけで十分。現に今はそれで問題無くやれている。横からいきなり部外者に入って来られるとややこしくなる」
酷い言い草と思いつつ、ここは我慢し言わせるままにした。先に黄昏が噛み付くかと横を見ると、テーブルから体を起こし真剣な目を千夜に向けている。
「休んでいる間、どうせ何もしていなかったんだろう。いつもいつもいつもさぼる事しか考えていない貴様の事だ。足でまといにしかならないのは誰の目にも分かる」
「だから今、急いで練習してるけど」
「4人で合わせる時間が無い!分かって言っているのか!?」
僕の反論が鼻についたか、声を荒げこちらを睨んで来る。
今週は千夜が忙しいので先週の内に音合わせは済ませておいた。千夜も推薦入試間近で内心苛立っているのも解るので、これ以上余計な時間を取らせられない。
確かにまたいつ黄昏がやりたくないと言い出すかも判らないし、今回限りの復帰と言われても周りは誰も納得しないだろう。むしろ評判を下げるだけにしかならない。
一番バンドの事を考えている千夜だからこそ、無茶な意見に乗りたくないのだろう。
「とにかく、私は絶対に認めない。気まぐれ男の戯言に付き合っていられるか」
吐き捨てるように言うと千夜はケースを手に席を立つ。
「帰る。青空、次のライヴにこの男を連れて来ないで」
「ちょっ、おねーさまっ」
「待てよ」
突然、今まで口を開かなかった黄昏が千夜を呼び止め、場の空気が静まった。
細い目で睨み返す千夜を見据え、軽く首を回してから黄昏が言葉を紡ぐ。
「おまえに何て言われようが、俺はやる気でいるからな。今回だけはどうしてもやらなきゃならないんだ。このチャンスを逃したら、また俺はダメになる」
真剣な眼差しで訴える黄昏を千夜が、その場で黙ったまま見下ろしている。半分以上信用していない感じの表情で。
「ねえたそ、どーしてそこまで今回にこだわるの?」
「言ったって俺の言葉なんてまともに聞く訳ないだろ。特にこいつなんかは」
キュウが困った顔で詰め寄ると、あっけらかんと答え親指で指差した。千夜の眉が動く。
リハビリに付き合う時に僕も何度か理由を聞いてみても、その度にはぐらかされた。いつもは本音までオープンにしている黄昏にしては珍しい。ただ、今週ステージに立ち唄いたいと言う気持ちはここ数日一緒にいて十分過ぎるほど伝わって来たので、黄昏の考えを汲んで深く追及しないようにしていた。
「普段の素行悪過ぎる人間の言葉に、耳を傾ける気になれる訳が無い」
溜め息も出ないと言った感じで、千夜が冷めた顔のまま言葉を返す。
「いいさ別に。誰かさんがいなくったって俺達3人だけでライヴやるから」
「自分から逃げておきながら、その気になった時に復帰だなんて虫のいい話があるか!!」
黄昏がさり気無く口にしたその瞬間、ついに千夜の堪忍袋の尾が切れた。頭ごなしに怒鳴りつける千夜の声がこだまし、店内はまた一瞬にして静まり返る。
「毎回毎回勝手な事ばかりしてバンドを引っ掻き回している、自分が世界の中心だと思ってるような奴にこれ以上好きにされてたまるか! 二度と戻って来るな、消えろ!!」
「あいにくそんなつもりはサラサラない。俺が戻りたくなったから戻るんだ」
背筋を伸ばし黄昏も大声で反論した。声に怒気が含まれているのがはっきり分かる。対照的に千夜はいい加減相手にするのも嫌になったのか、冷静に目線を横の僕に移した。
「青空、この男はもう必要無い。4人でこれからの事を考えよう」
「必要無いって何だよ。せっかく俺が戻って来ようと言う気になってんのに」
間を置かず千夜が手元のグラスを引っ手繰ると、暴言を吐いた黄昏の顔に容赦無く浴びせ掛けた。
――僕を含めみんな、突然の事に呆然となる。
「…このっ」
立ち上がり喰ってかかろうとした黄昏に、千夜が問答無用で怒鳴りつけた。
「第一どうして私達3人が休まずバンドを続けたと思う?それすら分からない奴と一緒に組みたいなんて人間はこの中にいない!!」
「そんなこっちの気持ちを考えないおまえらの考えなんて知った事か!!」
「自分の事しか考えてないのは貴様だろうが!!」
「それはおまえだって同じだろ!バンドからいつも一歩距離置いてる奴が偉そうに俺に言うな!!」
そう黄昏が怒鳴り返すと、頭に血の昇っていた千夜は頭を振り、怒りに満ち満ちた目で腹の底から声を搾り出した。
「……貴様といると反吐が出る。もう一度言う、私達の前から失せろ」
「そんなに俺とやるのが嫌ならそっちが出て行けよ。なら一緒だろ」
黄昏は頭を掻き襟を正すと、上目で相手と同じ目で睨み返す。
「こんなバンドとっとと辞めて、別の奴らと組んでりゃいいだろ!!」
そう叫んだ瞬間、千夜の左フックがまともに相手の右頬に入った。
テーブルに乗り出していた黄昏の体が勢い良く仰け反り、椅子に音を立て尻餅をつく。
「……こっの、野郎っ!!」
少し呆けた顔で目を見開いていたのも束の間、黄昏はすぐに立ち上がるとテーブル越しに千夜の胸倉に手を伸ばし、襟袖を掴んで拳を振り上げる。
「わあっ!!ストップストップ黄昏!!」
「やめっ、やめてってば、ホラ!!」
これまで二人の迫力に止めに入れなかった僕とキュウも、あまりの大事態に体を張って二人を止めにかかる。店員が慌てて僕達の元に走り寄って来るのが見えた。
「おいこら、離せっ!!あいつだけは絶対許さねえ!!」
「いいから!!これ以上ここで暴れちゃ駄目だって!」
凄い剣幕で喚き立てる黄昏を後から羽交い絞めにしたまま外へ連れ出す。黄昏は体を普段から動かしていないせいか思ったほど力も無く、イッコーの手を借りるまでも無かった。
レジの店員に謝りながら店を出て、耳元で何度も静まるように諭す。ガラス扉を開けると、今の事態を表すように外は猛然と雨が降り注いでいた。
「はー、なー、せーっ」
「駄目!こんな状態じゃ話にならないよ」
「俺は冷静だっ!先に殴ってきたのはあいつだろっ!!」
「黄昏の気持ちは解るけど、これじゃ何にもならないでしょっ」
「何にもならないって……!……いや、そうだ……青空の言う通りだ……」
ようやく落ち着いて来たのか、剣幕も静まった。力が抜けたので両腕を離すと、黄昏はよろめきながら自分の足で立ち、疲れた顔で僕に向き直る。
「口の中、大丈夫?」
「血も出てない。こんなのちっとも痛くない」
まだ興奮状態にあるのか、赤くなった右頬の痛みも感じていないらしい。
「とにかく、今日の所は一旦下がった方がいいよ。店の中に戻っても同じ事の繰り返しにしかならないし。後で連絡入れるから、先に帰ってくれないかな。ごめん」
今は諦めるしかない。謝る自分が少し惨めに思えた。
「……や、悪いのは俺のほうだ。ごめんな」
「いいよ。千夜には僕が話をつけておくから。大変だろうけど、頑張ってみるよ」
「…………。」
黄昏は何か言いかけ言葉を詰まらせると、僕に背を向け店の階段を下りて行った。
「ねえ、傘は!?」
「いい、頭冷やして帰る」
慌ててその背中を呼び止めるけれど、振り返りもせずに降りしきる雨の中に消えて行く。
あそこまで自分勝手な黄昏の姿も見た事は無かった。心のどこかで焦る気持ちがあったんだろうか?もう少し、黄昏の気持ちを汲み取ってやれれば良かったと苦虫を噛み潰す。
何だかとても悪い事をした気分で重い溜め息をつくと、僕は店内に戻った。すれ違う店員に何度も頭を下げながら自分達のテーブルに戻る。少し周りに気が引けた。
「あれ、せーちゃん、たそは?」
「帰って貰ったよ。もう今日は話し合いにならないもの。ごめんねみんな」
「青空が謝る必要なんて無い。全てあの男が悪い」
憮然とした表情で椅子に座る千夜が断定する。僕は苦笑いを浮かべるしか無かった。
「千夜の怒る気持ちもわかっけどよー、もーちょい頭柔らかく考えてもいーんじゃねー?」
フォークを口に運ぶ手を止めイッコーが笑って言うと、すかさず睨み返され手元の皿に視線を落とした。今日の千夜はいつになく迫力があって恐い。
「……いろいろ問題はあるけどさ、黄昏もやる気になってるから何とかならないかな」
「まだその話か。もういい、私は帰る。道草食べてるほど暇なんて無いから」
顔色を窺いながらもう一度頼み込んでみると、いい加減付き合い切れなくなったのか千夜は自分のケースを手に席を立った。隣でキュウが呼び止めようとして、難しい顔で伸ばした手を引っ込める。
「でっ、でもさ、次回以降も黄昏が続けるかどうかは別にして、来週のライヴはベストの状態で立てるようになれれば問題無いんでしょ?来週のには」
慌ててテーブルに身を乗り出し、立ち去ろうとする千夜に呼びかける。
「……とにかく、私は絶対に認めない」
しばしの無言の後、冷ややかな顔でそれだけ言うと僕達を置いて一人店を出て行ってしまった。いつもなら後を追いかけるキュウも今日ばかりはその背中を黙って見送る。
「あー、ようやく息苦しさから開放されたわ」
二人がいなくなった事で張り詰めたテーブルの空気が解きほぐされ、僕とキュウは揃って大きな息を吐いた。
「そんな気張ることねーって。さすがにおれも千夜がブン殴ったのはびびったけど」
料理を全て平らげたイッコーが白い歯に爪楊枝を立て、笑顔を見せる。
「何でそんなに肝据わってんのよ」
「そりゃ高校じゃケンカなんて日常茶飯事だったかんなー。男子校だったしよ」
呆れたキュウがテーブルに胸を押し付けてへたりこむ。さすがにキュウまで今回の事に巻き込むのは申し訳無いと思ったけれど、謝った所で笑って返されるのがオチなので言葉と一緒に手元の水を飲み込んだ。
「けどよ、マジで千夜の奴認めさせることなんてできんのか?さっきおめー何か考えでもあるよーな訊き方してたけど」
「それをこれから考えなきゃね」
僕の答えにイッコーが盛大に椅子からずり落ちた。
「おいおい、あのなー……」
「とりあえず帰ってから考えるよ。こう見えて今、結構参ってるから。あ、すいません。ビール一つお願いします」
タイミング良く横を通り過ぎる店員を呼び止め、アルコールを頼む。
「珍しいわね、せーちゃんがお酒頼むなんて」
「僕だってアルコールに頼りたくなる時はあるよ。昼間っぱらからなのはそうないけど」
黄昏じゃないけれど、お酒でも飲んで胸の中のわだかまりを全部吐き出したかった。まだ手元に残っていたコーヒーを一気に飲み干し、口の中に広がる苦味を噛み締める。
「じゃあこれからカラオケでも行かない?3人で。今日雨降りだし買い物する気も起きないし、アタシ何にもするコトないのよ。パーっとやってヤな気分吹っ飛ばさない?」
「とか言ってっけど、どーする?」
「そうだね……うん、今日はちょっとダメージ大きいし……たまにはいいかな」
「やった、キャッホー☆ようやく長年の夢が一つ叶ったわ!」
「握り拳で目を輝かせて喜ばれてもねえ……」
カラオケなんて何年も行ってないからあまり気乗りはしないものの、そこまで喜んでくれるなら構わないかも。とにかく今は、この憂鬱な気分をどこかへやりたい。
「ま、いーんじゃね。おめーいっつも根詰めてっから、息抜きするのもいいって」
白い歯を見せるイッコーに横から指摘され、僕は少し首を傾げた。
「そうかな?自分じゃ普通にしてるつもりだけど」
「そー言ってっけど、おめーもたそと同じくらい一人で抱えこんじまうタイプだかんな」
「そ、そうなの?」
言われて初めて気が付いた。正直結構ショック。
「ま、困ったらおれ達二人にいろいろ言ってくれってこと」
「そーよー。呼んでくれたらアタシがイロイロ力になってあげるわよ〜」
「その手つきで言うのやめてくれないかな……」
まさか黄昏に言ったのと同じ言葉を、他の人に言われるとは思いもしなかった。
これが『助け合う』と言う事なのかな?
そんな事を考えながら、談笑する二人を横目に運ばれて来たばかりのビールを口にした。
さて、次はどうしよう?