→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   074.そこにいる

「来月は少しシフトの数を減らして貰っていいですか?」
 とバイトの叔父さんに掛け合ってみたら、絶対に無理な日以外に欠員が出た場合手伝うと言う事で、何とか了承して貰えた。
 最近はバンド活動も上手く行っている分資金も多少潤っていて、練習や機材等のお金はそちらから出しているおかげで、手持ちにも余裕が出て来た。その為にバイトの時間を削り、曲創りやバンド関係に回せるようになった。
 親の仕送りを受けていない分ちっともお金は溜まらないから、後々の事を考えバイトには出ておいた方がいいとも思う。でも今の自分は音楽をやる事で頭が一杯になっているから、一日でも多く楽器に触れられる時間を増やしたかった。
 心の何処かで焦っている部分もある。でないと毎週連続してライヴをやり続けるなんて言い出さないし、そんな無茶な事を実行しようともしないだろう。
 黄昏が復帰し4人体制に戻れば、多少ゆとりが生まれるのかも知れない。
 しかし今は未来の事をあれこれ想像するより、目の前の事に集中する方が先決。まずは明後日のワンマンライヴを無事成功させないと。
 その為に黄昏の力が必要になる。対バンと違い、3人だけで長丁場を乗り切るのは結構厳しい。それはイッコーも千夜も感じていると思う。
「黄昏、頑張ってるかな」
 眩しい空を見上げ、太陽の光を瞼で受け止めながら、小さく呟いてみる。数日前の豪雨はどこへやら、今日は雲も少なくいい陽気に包まれていた。しかし一週前とは肌に感じる空気の色も、空の色も違って見え、夏の終わりと秋の到来を予感させた。
 バイトに入っている日、晴れた時には昼の休憩時間に近くの海岸へ気分転換に散歩へよく行く。港に下り、波止場で海を見ながらコンビニで買ったパンやおにぎりを頬張ると、心が幾分軽くなる。岩場の先端に往復するのは骨が折れるし時間もかかるので、最近はそこまで足を運ぶ事も無い。
 練習でこの町にバイトの日以外で来る事はあっても、黄昏と一緒でないと観に行こうと言う気になれないし、わざわざ他の人間を誘ってまで……とは思わない。
 そう言った意味で、あの岩場は僕達二人の特別な場所。
 潮の匂いを味わいながらなだらかな坂を下ると、いつもの海岸線に出る。国道からやや離れているので、平日でも渋滞を起こすほど車が走っている訳でも無い。漣と海鳥の声が良く聞こえるいい所。叔父さんの弟が近くで喫茶店を経営しているのも分かる気がする。
 石の階段を降り、船の停泊していない波止場を適当に物色し先端まで歩く。今日は水平線が良く見え、色々な船が海上を行き来しているのが見えた。暖かい日光を全身で受け止め、ゆっくり石畳に腰を下ろす。足元の海から漂う潮の強烈な香りに、少しくらくら。
 メロンパンとシーチキンと鮭おにぎりと言う変な食べ合わせで胃が心配になりつつ、眠けに任せ横たわる。このまま眠ってしまえば遅刻してしまうので、意識を保つよう気を張る。休憩時間の時にはMDを持って来る事はせず、港に流れる音を楽しむ。自然の音だけでなく、遠くから聞こえる車のエンジン音や船の汽笛も愛しく思える。
「あー、気持ちいい……」
 つい声が漏れてしまうほどの朗らかな秋空の下、惰眠を貪りたくなるのを堪える。
 最近はなるべく先の事を考えないようにしていた。
 自分一人で何とかなる事ならともかく、バンドのような個人の集合体だと思い通りにならないのが日常で、黄昏みたいに一歩先の事を眺められない人間がいると余計にそう感じる。脳内でいろいろシミュレートしても、その分気苦労が積み重なるだけであまり実にならない。だから余計なものを見ない事で自衛するように最近は自然となりつつある。
 僕自身はやる事は全てやったので、後は黄昏の地力に期待するだけ。今この時間にも黄昏はイッコーと一緒にリハビリに励んでいる事だろう。さぼり癖があるとは言え、一度火が点けば止まらなくなるのも黄昏だし、声も本番の日には戻っていると期待している。
 それよりも不安なのは、千夜が出した3つの課題。
 黄昏が見事乗り越えてくれるかは、正直判らない。半信半疑と言ったところ。
「練習中の新曲3つを、一つも間違えずに全て合わせられる事ができたら考えてもいい」
 と昨日の電話で千夜は言ってくれた。留守電ばかりで捕まえるのには結構骨が折れた。
 3人で活動している間にも黄昏用の曲は休まず作っていた。今の所3曲分ストックがあるけれど、勿論黄昏が唄った事は無いので曲の良し悪しは不明瞭な所がある。今朝バイトに行く前に僕の唄うデモテープを渡しておいたとは言え、全く千夜も難しい事を言う。
 2日で完璧に覚えるなんて無茶にも程がある。僕なら絶対にできそうにない。
 望みがあるとすれば黄昏がギターを弾く必要が無いので、歌だけに専念すればいいと言う事だけ。ただ1曲だけならまだしも、3曲はさすがに厳しい。
 当日本番前のリハーサルで合わせてみて無理と判断すれば黄昏をステージに上げない。それで千夜と合意した。でもよくよく考えてみると、できっこ無いと思ってるからこそ無理難題を吹っかけて来たに違いない。
 その事を伝えたら黄昏は俄然やる気になっていたけれど、ここ連日の無理がたたり喉を痛めているし、今回は諦めた方が……と言ってしまいたくなる。
 黄昏がやる気になってくれ嬉しい気持ちや、千夜の冷たさ(仕方の無い事だけど)を残念に思う気持ちや何やら、たくさんの感情が胸の中で渦巻いていてそれだけで疲れる。
 チケットも思った以上に好調で、さすがに満員とはいかないまでも十分利益が出るくらいはさばけているのも気の重い原因の一つ。黄昏がいなくても僕達のバンドに期待してくれている人達がいる証拠だし、ワンマンだから失敗した分は全て自分達に返って来る。
 勿論毎回毎回ライヴが成功するなんて訳は無いのは分かっている。でも黄昏が失敗し3人でステージに上がる事になった時に、隣で歌を唄う黄昏がいない事をどれだけ引きずってしまうのかを容易に想像できるのが辛い。つまり当日の僕の出来も、黄昏次第。
 つくづく僕は黄昏のパートナーなんだな、と思う。
 体を起こし、うんと背伸びをし眠気を吹き飛ばす。視界に飛び込んで来る深い青色の海。水海が近い事もあり、透き通るほど綺麗な海ではなくても、海側が開けていて水平線を遮る物が何も無いおかげで、晴れの日には太陽の光で水面が宝石のようにきらめく。夕日も海岸線と真向かいとは行かないまでも海側へ沈んで行くので見応えがある。
 今回創った3曲の中で、ここから見える海を思い浮かべ作った曲がある。
 明後日のライヴが上手く行ったら、久し振りに黄昏を誘ってみてもいい。バイクで一人で観に来てる事はあったとしても、二人一緒は久し振りだから。
 前みたいにもう一度、黄昏と一緒にここで海を眺めていたい。バンドや歌の事だけじゃなく、もっといろいろ他愛無い事とか喋ったりなんかして。
 僕の存在が、今の黄昏には重荷に感じている所もあるだろう。自分は大切なパートナーと思ってるけれど、もっとくだけた……互いを空気みたいに感じれるような、再会した頃のそうした感じが最近は薄れて来たように思える。
 その原因がバンドにあるのは言わずもがな。
 一度解散でもしたらまた立ち位置も変わってくるんだろうけれど、それは考えたくない。
 自分がよかれと思いやっている事でも、相手にとっては不快に思う事だってある。そう頭で解っていても、自分のおせっかい病は全然治る気配も無い。千夜に毎度の事のようにうざったがれる原因もそこにある。
 世話焼きなのか、他人に尽くしたいなんて心のどこかでいつも思っているのか。いや、単に「自分がこうであれば最適なのになあ」と考えている環境を周りの人間に押し付けているだけのような気がする。相手の事を真っ先に考えている振りで。
 ……どうも最近は自分と向き合うと、沈んでいくばかり。
 周りの人間に不快感を与えている原因が全て自分のような錯覚に陥りそうになる。突発的に線路に飛び出したり海に身を投げてしまいたい衝動に駆られる。
 何もかも投げ出し、全て無に帰ればいいのに。
 なんて思ってしまうのはやはり逃げだろうか。つくづく甘く弱っちょろい人間だと思う。
 でも、僕には『days』を始めた責任がある。これからどうなって行くにしても、自分がやり始めた事に最後まで付き合っていくしかない。途中で放り出してしまう事だけは絶対に嫌だから。最期の時が来たなら、自分の手で引導を渡してやりたい。
 いつの間にか、自分が創った『days』と言う枠組の中に囚われてしまっているんだな、僕も。ちょっと不思議で、つい苦笑してしまう。
 近頃はずっと人生の大事な分岐点に何度も立っているみたいで、気が落ち着く暇さえない。こうして気晴らしに羽を伸ばしてみても、心の片隅にこびりついているものからは目を反らせない。
 それが人生なんだと言えばそれまでだけど。
 何も人生をやり直したいとか言わないから、一度頭の中のリセットボタンを押し、空っぽにしたい。無理なのは解っていても、ついつい現実逃避してしまいたくなる。
 志を胸にバンドを始め、何とかここまでやって来れた。これだけでももう十分過ぎるほど出来過ぎていると思うし、このまま続けてもしプロにでもなれ、音楽で生活できるようになれば、語弊があるけれどもうそこで人生が終わってもいいくらい幸せな事だろう。
 どうも僕の人生は初めから失敗なんだ、と言う意識がいつからか心の中にある。高校の時に自分自身の存在に悩み、2ヶ月程引き篭もった時からだろうか。
 わざわざロープまで用意したのに、実行しようと言う気にさえならなかった。あの時点で死に損ねた自分は、現実世界に不必要な存在として息耐えるまで苦しんでいくんだ。そんな落伍者の烙印を胸に押された感じが今もある。
 でもそれを認めたくないから、自分が何もできない人間だと認めたくないから、小説を書いてみたり、黄昏を誘ってこれまで触れた事も無い音楽を始めてみたりした。
 得たものはたくさんあった。でもそれらに対し、心の底から感謝する余裕はまだ無い。今の季節を冷静に振り返れる目線を持った時に、初めてそう思うのだろう。
 今は流れに身を任せ、後悔を恐れずに前に進む時期。
 どうも自分は何度も道程を振り返り、区切り区切りをつけたがる。それだけ自分に価値があるのかどうか不安に感じている証拠でもある。いっその事、誰かが「青空は絶対にそばにいなくちゃいけないんだ」と言ってくれたら楽なのに。勿論自分から質問するなんて真似は怖くてでじゅないから、他愛無い話の合間にでもチョロッと言ってくれないかな。
 黄昏だったら、普通に質問しそうだけどね。愁ちゃんとかに。
 ……彼女とか作った方がいいのかな?自分も。そんな事を考えてみた。
 自分の事を大切に想ってくれる大好きな人がそばにいれば、また意識の持ちようも変わって来るのだろうか。周りの女性3人の顔を思い浮かべてみても、誰も微妙にしっくり来ないように思え、少し萎えた。
 千夜は僕の事を嫌っているし、キュウはどんな人ともお遊びで付き合いそうな印象があるし、柊さんはバンドの曲を好きでいてくれているとは言え、まだ会話が少な過ぎるので本当に波長が合っているのかどうか不明瞭な所がある。
 一度、キュウと寝て童貞を捨ててみれば物事が違って見えるようになるのかな。
 ――なんて無意識に考えた自分を恥ずかしく思い、雑念を振り払った。お腹が膨れ頭が回らなくなっているから、理性のリミッターが外れてしまっていたみたい。
 今のが本心で無い事を祈りつつ、潮の匂いを胸一杯に吸い込み、大きく息を吐いた。冗談でもキュウに相談したら、すんなりOKが出てしまいそうで怖い。
 周りが全員男性なら、不必要な悩みを持たずに済むのに。どれだけ性別を意識しないようにしても、千夜やキュウにはやはり男の人とは違う接し方をしてしまう。それが当然とは言え、相手に対する遠慮や自分を良く見せたいと思う邪な気持ちは少し厄介。
 しかし一番身近な存在の黄昏とかにも、一々その人に対する接し方を細かく考えてしまうのは僕の悪い癖と思う。周りのみんなみたいに余計な気を遣わずに話せたらと憧れる。
 手と手が触れるだけでこちらの考えが正しく相手に伝わるテレパシーが欲しい。それができたら千夜にも今みたいに嫌われる事は無いだろうし。
 ふと、肌と肌を重ね合わせればいけるのかも、と思った。以前観た千夜と絡み合う夢の映像が脳裏に浮かび、頭に血が昇る。食欲が満たされた次は性欲、と言う事なのだろうか。何だかキュウに頼み込み童貞を捨てさせて貰った方がいい気もしてきた。
 冗談だけど。さすがにそこまで尻の軽い人間として見るとキュウに悪い。
 友達付き合いと大差無い子と恋仲になる……と言うのはどうも自分の描いているものと違う。結婚だとか恋愛だとか、変に崇高なものとして考えてしまっているせいか。
 勿論僕にだって理想の女性像はある。たださすがに、寸分無く当てはまる女性なんてこの世に存在する訳無い。いざ実際理想の女性がそばにいたとしても、何の軋轢も無いままで逆に物足りなく感じてしまう気がする。
 自分の好きになった人を理想の女性と思う事ができれば、それが一番幸せな事なのかも。
 しかし理想像と言っても僕は常日頃からそのような妄想はしないので、結構どうでもよかったりする。顔立ちが綺麗で、自分より背が低く、普通の体型であれば。性格に関しては千夜と長い間一緒にいるせいか、人の道を踏み外しているとか平気で他人を傷つけるとか、自分が嫌がる事でなければ付き合っていける自信ができた。有り難い。
 どことなく浮遊感が漂うような、一緒にいて夢を見させてくれる人がいい。この現実の世界が輝いて見えるように思える人がそばにいれば、と思う。
 言ってみれば、黄昏もイッコーも千夜もそこに当てはまる。みんながいなければ、僕は今でも後向きで現実に毒づいているだけの人間でいたかも知れない。
 とどのつまり、誰かに恋焦がれると言う気持ちがまだよく解っていないのだ、僕は。
 多分それはみんなといる時とはまた違った感情なんだろう。女の人と一緒にいる時の照れと似たものなのか。長年の知人が隣にいる時の空気みたいな息苦しさを感じないものとは違う、心の中に温もりを常に感じているような――自分で言ってて解らなくなってきた。
 あれこれ想像しても、おそらく実際のものには遠く及ばない。だからこそ人間は愛し合いこれまで歴史を築いて来たんだろうし、歌でも映画でもドラマでも愛を求めるんだろう。そこに関し穿った見方をしているのもあるけれど。
 正直、恋愛を唄った歌はピンと来ない事が多い。あまりに世の中にそればかり溢れ過ぎている為にしばらく毛嫌いする日々も続いたほどで、僕も恋愛の歌を自分で作る気はほとんどしない。歌詞に『君』が出て来ても、それは自分だったり恋愛とは関係無い意味での他人だったりする。そんな恋愛だけで世の中が成り立っている訳でもないのだから、他にも歌にできる物事なんて山程ある。
 ただやはり、恋愛が一番誰もが理解し易い事なのは確か。
 今はそうでなくても、好きな人ができれば恋愛ばかり唄うようになるのかな。僕はまだまだ人生経験が足りないから、ひねくれているだけの気もする。
 歌にしたくなるほどの人がいつか僕の目の前に現れる時が来るのかな。近くにいる千夜の事はもう歌にしているけれど……。でも、待っているだけじゃ何にもならないとは思うよ。今はそれよりも他に大切な事がいくつもあるから、これ以上考えないようにしておこう。
 考え事をしていたら、随分時間も経ったかな。潮を含んだ空気を胸一杯に吸い込み、勢いをつけ上体を起こした。太陽の光が瞼の裏に差し込んで来て軽い目眩が襲う。昼食の袋のごみを片付け、スタジオに戻る仕度を済ませる。
 もう一度あの岩場で黄昏と笑い合えるように、心に残るライヴができればな。
 そんな事を思い岩場に目をやると、先端に人影が見えた。ここからは少し離れているのではっきりとは判らないけれど、長く鮮やかな色の髪が風を受けたなびいているのでどうやら女の人らしい。あそこへわざわざ足を運ぶのは僕と黄昏位なものと思っていたので、物珍しさにしばらく見とれていた。まさか飛び込んだりはしないよね。
 ――!
 瞬間、脳裏に突然電流が走った。
 思わず駆け出しそうになり、コンクリートから足を踏み外しそうになる。もう少し近づいて相手を確かめようと焦りながら、岩場に目を向けたまま港に戻る。停泊している船に遮られその姿が見えなくなった所で時刻を確認しようとポケットの中から携帯を取り出すと、もうこれ以上道草を食うと遅刻する時間になっていた。
 心の中で舌を打ち、なるべく相手に近づけるように整地されている所まで全力で走る。剥き出しの岩場を登っている時間は無いから、コンクリートの部分で一番岩場の先端がよく見える所を何度も足を止め、探す。
 やっぱり、あの子だ。
 海を見ているので顔は見えないけれど、判る。ウェーブのかかった髪、黒のワンピース。記憶の底に眠っていた姿が甦って来る。
 昔、黄昏とここに来た時に一度だけすれ違った事がある中学生くらいの女の子。ほんの一度、たった一度だけど、岩場から降りて来るその姿は鮮明に覚えていた。
 どこか浮世離れしていて、まるで小説の中から飛び出して来たような。普段は忘れているけれど、時々不意に思い出す。
 しかし、まさか今も同じように海を見ているなんて。まるで時間を飛び越えそこにいるように思える。ここにはよく来るけど、昨年の春に見て以来見かけた事が無かったから。
 興奮した頭を鎮めようと深呼吸し、目をこらす。今がバイトの休憩時間じゃないなら、すぐにでも先端まで駆け上って行くのに。
 いや、行った所でかける言葉なんて何も思い浮かばないだろう。ただ近くで、その存在を確かめたい、それだけが僕の心を動かしていた。
 刻一刻過ぎる時間にじれったい思いをしながら首を伸ばしていると、不意に彼女がこちらを振り向いた。じたばたしている僕に気付いたのか。まさか僕の方を見るとは思わなかったので、思わず呆然となった。
 じっと、僕の方を見ている。でも、強い日差しのせいもあってかここからでもその顔立ちはよく見えなかった。おそらくその吊り目で僕の姿を確認しているのだろう。
 一瞬大声で呼びかけようかと思ったけれど、止めた。何を言えばいいのか分からなかったし、時間も無いから。もう一度携帯のディスプレイを確認すると、走って戻らないとまず遅刻する時間になっていた。
 岩場の先端に立ち、僕の方を見るワンピース姿の女の子をまばたきせずにしっかりと目に焼き付ける。名残惜しさに何度も振り返らないように。
 彼女の姿を見れるのはまたしばらく時間が経った後かもしれないし、もう二度と見る事が無いかも知れない。だから今目に映っている風景をいつでも鮮明に思い出せるように、後で歌にできるように五感全てでこの瞬間を脳裏に焼き付ける。
 潮の匂いを、海の漣を、遠くに映る緑を、そして、一人の少女の姿を。
 お腹一杯になるくらい自分の中に取り込んだ所で、岩場の彼女がこちらに向かい大きく手を振り、手招きした。その誘いに思わず心がぐらつくものの、すぐに思い止まる。
 僕は小さく彼女に手を振り返すと、勢い良く駆け出しその場を離れた。全速力で堤防の階段を駆け上り、一度も振り返らず海を背に帰り道を全力で走る。
 胸がドキドキする。心の底から嬉しさがこみ上げて来るのが分かる。スキップして叫びたくなる気持ちを堪え、足がもつれそうになりながら息の続く限り走り続ける。
 相手の顔がどうとか、名前は何なのかとか、本当に彼女は昔見た少女だったのかとか、細かい事はどうでも良かった。不意に訪れた夢の瞬間が、とても素敵なものに思えたから。
 海岸から遠ざかるにつれ、現実に戻って行く。もしあそこで彼女の呼び掛けに乗っていたら、夢の世界にずっと連れて行かれたような気がする。それはそれで素敵な事だとしても、今の僕にはまだやらなければいけない事がある。だから立ち去るのが正解に思えた。
 自分の中で今の瞬間が形を変え、曲の形になって行くのが解る。しっかりとそれを胸の中で育てつつ、遅刻しないように急いでスタジオへの道を駆けて行った。


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