→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   075.夕暮れのヴィーナス

「黄昏、ちゃんと覚えて来てるかな」
 ステージの上でドラムセッティングを続ける千夜に声をかけてみたら、こちらを無視して黙々とドラムの高さを調節していた。悲しい。
 今日の夜、このフロアは僕達だけを観に来た客で埋まる。さほど広くない印象を受けるのに、ライヴの時になると地平線まで続いているような不安感がよぎるから不思議。多少涼しいくらいに感じるこの場所も、数時間後に暑くて息苦しいくらいに変わるなんて想像しづらい。
「おら、ぼーっと突っ立ってないでこっち来いって。打ち合わせすっから」
 フロアの袖口からイッコーに呼ばれ、ステージから飛び降りる。
 ワンマンだと普段はそれほど気にしない照明とか音響に対しても念入りに打ち合わせをする。と言ってもこの辺に関してはほとんどイッコーに一任していて、僕は隣で頷くか首を横に振るかだけ。それにラバーズのライヴハウスは一番馴染みの店でもあるので、スタッフとの呼吸も取れているからさほど心配する必要はない。
 演奏する曲についてはリハーサル後に改めて伝えると言う事で、話し合いを済ませた。
「たその奴は?」
「さっき電話かけたら今出る所だって。心配ないと思うよ」
「まー、心配なのはこっちに来てからだけどな……」
 そう言ってイッコーはドラムの調節を終えた千夜を横目で見る。
 ライヴ当日なのにまだ、黄昏がステージに立ち歌うかどうかは決まっていないのだ。
 今日のワンマンは、3人でのここ数ヶ月の活動の集大成と言う事にしチケットを販売した。それでも前売で十分利益が出るほど捌けているのだから、わざわざ黄昏を今回ステージに上げる必要も無いようにも思える。けれど、メインの歌い手がいるといないとじゃ大違いだろう。
 全てはこの後のリハーサルでの、黄昏の出来次第。でも、千夜がOKを出してもプログラムの全てを黄昏の曲で埋めるつもりは無い。久し振りのステージで息も保たないだろうし、何も知らずに3人でのステージを観に来てくれた人に申し訳無いから。
 一通りセッティングが終わった所で、千夜とイッコーが楽屋に引き上げる。僕は一旦受付にチケットの売行状況等を確認しに行ったり、地上の店でマスターと色々話をしたりしてリハーサルまでの時間を潰した。じっと待っているのが嫌だったんだろう。
 黄昏が到着したのをスタッフに聞いてから楽屋に戻ると、妙な空気が漂っていた。
「もうみんな揃った?あ、ちゃんと黄昏もいるね」
「自分からやるって言い出したんだから来てて当然だろ」
 いつものYシャツに黒のズボン姿の黄昏が、僕に減らず口を叩く。その顔には数ヶ所ガーゼや絆創膏が貼られていた。と言うか昨日僕が手当した。
 雨の日、ミーティングから別れた後にまたどこかで喧嘩をしたらしい。幸い、唄うのに影響が無かったからいいものの。しかしその責任の一端は僕にもあると思うので、素直に怒れなかった。愁ちゃんがそばにいれば回避できたたのかと考えると少し歯がゆい。
 昨日寝ろと言ったのにまた徹夜で歌っていたのか、黄昏の目の下に少しクマができている。それでも目には光が漲っていて、気力は充実しているように見えた。
 ただ、物凄くささくれているようにも見える。
 椅子に座った千夜が無言で煙草を吹かしている。手元の灰皿には吸い殻が結構あり、楽屋の中にはメンソールの匂いが漂っていた。早速喧嘩したのかな?
「ホントは嬉しいのかも、よ?」
 いつの間にか僕のそばに寄り添って来ていたキュウが耳元で囁く。不意を突かれ背筋がくすぐったい。思わず飛び退いた所に女性スタッフがやって来て、これからリハーサルを始める事を僕達に告げた。
「よーやくか。ふあぁああああああ、あ〜っ」
 イッコーが席を立ち、背伸びして大きなあくびをした。やはり黄昏と千夜の生み出す空気は耐え難いものがあったのか、疲れた顔で全身をストレッチしている。苦笑しつつ、僕は自分のギターを手に先頭を切り楽屋を飛び出た。
 配線に足を取られないようにスタッフがステージの上を片付けるのを待ってから、いよいよリハーサル。早速イッコーが自分のベースをアンプに繋ぎ音の調子を確かめていた。
 手元に用意した歌詞の書かれたプリントを眺めていると、自分の立ち位置で黄昏がぼんやりと突っ立っていた。久し振りに立つステージが感慨深いのか、肌で空気を感じている。
 僕がギターを鳴らすと、我に返った顔でこちらを見た。
「何ぼーっとしてるの?」
「懐かしいなって思って」
 ばつの悪い顔で僕に微笑み返す。周りのスタッフも、ステージの下でパイプ椅子に座り待ち構えているキュウも、再びこの場所に立った黄昏の姿を見て嬉しいみたい。
「感傷に浸ってる場合じゃねーぞ、たそ」
 温い空気を遮るように、イッコーが口の端を歪め忠告した。戻って来たとは言え、この後ステージに立つがどうかは黄昏の出来次第だから。
「じゃあ、これから黄昏が今日のライヴに出れるかどうか、テストするよ」
 本当はこう言う事をするのも嫌なんだけどな、なんて言葉は胸の内に閉じ込め、厳しい顔で黄昏に向き直った。向こうも真顔で頷き、マイクの前に立つ。
「黄昏が休んでる間に、黄昏用に書いた新曲が3つ。これを今から、本番と全く同じ感じ
で唄ってもらうから、いい?」
 甘えが入らないように、あえて僕も自分のマイクに向かい説明する。周りにはスタッフもいるから、こうした方がより真剣になれるだろうと見越しての事。
「もちろん、僕達はイッコーが代わりに唄った音源に合わせて練習してるけど。ちゃんとバンドで合わせるのは初めてだし、黄昏が唄ってどれだけいい曲ってのも正直な所分からないから」
「おいおい、客の前で歌うんだろ、今日?」
 僕の発言に黄昏が目を丸くするけれど、構わず続けた。
「いい曲だったらね。少しでもひっかかりがあったら、たとえ上手く行ったところで今日
お披露目するのは止めようと思うんだ」
「ちょっと待てよ。全部ダメな曲だったらどうするんだ?」
「それはヴォーカルの力量でどうとでもなるよ」
 この言葉に嘘は無い。これまでたくさんの曲を創って来たけれど、黄昏が歌わなかったらここまで僕達のバンドが支持を得られるとは思っていないから。さほど技量の無い僕の歌をステージの上で鳴り響かせる事ができるのは、黄昏のおかげと思っている。
「それ以前に、僕は黄昏が唄ってこそ成立する曲を書いてきたつもりだけど?」
「……わかったよ」
 挑発するように僕が言ってみると、渋々納得した。それだけ、黄昏の持つ歌声を信頼しているんだ。だから今回持って来た3曲も、いい曲になると信じている。
「おれにも曲書いてよ、青空ちゃ〜ん」
「イッコーは自分で書いた方がいいに決まってるよ」
 猫撫で声で言って来たイッコーに返すと、参った顔で苦笑を漏らした。僕が創る曲は情緒的でミディアムテンポのメロディーが性格上多くなるので、普段アップテンポのノリのいい曲を創るイッコーには合い難い。
 二人で共作したのを黄昏が歌うと不思議と『days』の曲になるから、それだけポテンシャルの高い歌い手である事を証明している。
「失敗した時の事なんて何にも考えないのね」
 千夜が両手で前髪を掻き上げ、呆れた口調で呟いた。早くこの茶番を終わらせ楽屋に戻りたいと顔に出ている。無駄話は止め、僕は説明を続けた。
「『地下街の砕けたガラス戸』、『yourself』、そして『宝石』の3曲。黄昏のギターパートはどれも無いから、唄う事だけに専念していいよ。僕達3人で事前に新曲の練習はしてあるから、後は黄昏が歌を合わせるだけ。どの曲からやるかは黄昏が決めていいよ」
 黄昏には無理難題を押し付けているけれど、自分も新曲を演奏する時にはかなり緊張する。リハーサルとは言え、間違えずに一曲通さないと不安でたまらなくなる。
「じゃ……『宝石』から行こう」
 弦を鳴らし、指の動きを確認していると黄昏が合図を送った。途端にフロアが静かになり、背筋が張り詰める。少し不安に感じながらも、弱い心を内に押し込め大きく深呼吸してから、僕はイントロのアルペジオを弾き始めた。
 『宝石』は最初に創ったバンドの曲である『貝殻』と同じく海を題材にしている曲なので、緩いテンポでも被らないようにとドラマティックな構成とアレンジを施してある。今回の3曲は、どれもこれまでやった事のない曲調に挑戦していた。
「冷たい素足にきらびやかな蝶が/いのちを持ったようにうごめきつづける/片方の羽根だけでも飛べるのなら/黄金色のうみの中へ」
 息を呑む。
 初めて全員で合わせる歌なのに、黄昏は動じずに視線を前に向け、曲の世界を僕の予想以上に表現している。一番が終わった所で、冷汗が背中を伝うのを感じた。
 曲を鳴らしている間が永遠にも一瞬にも思える。演奏の最中は自分達が響かせる曲の世界に僕自身飲み込まれてしまったようで、今がリハーサルなのを忘れる瞬間もあった。
 最後のサビを黄昏が唄い終えた時に、一つの山を乗り越えたんだと思い、安堵する。
「うん、この曲は行けそうだね」
 曲を全て演奏し終えた後にみんなの表情を確認しようと思ったら、間を置かず千夜が『地下街の砕けたガラス戸』のイントロを奏で始めた。フロント3人で顔を見合わせるも、小さく頷き演奏を続けた。
 歌詞も長い上に、早口で唄い回す部分も多いので、息切れし呂律が回らなくなるのではと心配したけれど、それも杞憂に終わった。ブランクを感じさせない黄昏の歌声がフロアに良く響く。曲が固まっているから一気に最後まで通せた。
 何の問題も無し、むしろ想像以上の出来映えで2曲終わると、もう黄昏を心配する必要は無くなった。最後の曲も間違えず唄い通してくれるだろうし、むしろ自分が失敗しないかと気を遣った。指示する本人が足を引っ張っていたら世話が無い。
 『yourself』はこれまであまり使った事のない英語に挑戦してみた。僕が英語が苦手と言うのもあるけれど、イッコーや千夜に手伝って貰い何とか。黄昏の英単語の発音は流石に正しいようには思えないけれど、声にした時のメロディの流れを優先しているからか、ちょうどいい感じに聞こえた。
 黄昏がそばで唄っているからか、いつも以上にイッコーも張り切りベースを弾いている。様々なベースのリズムを容易く弾きこなす芸当は僕にはできそうに無い。
 千夜はと言えば、いつもと変わらず演奏中も鋭い表情で正確なドラミングを叩き出していた。3人で続けていた成果が出ているのか、先走っていた演奏も僕達と呼吸が合うようになっているのを実感する。それでも黄昏の唄声とは以前と同じで少し馴染んでいないか。
 予定の3曲を終えると、額に汗の浮かぶ黄昏が呼吸を整え、ステージ下で目を丸くしているキュウに感想を求めた。
「どう?」
「あ、あはは……ねえ、休んでる間、どこかで唄ってた?」
「いや、この五日間徹夜漬けしただけ」
「だよねー……」
 乾いた笑いを浮かべ、一人納得するキュウ。おそらく僕達3人と同じ気持ちでいるだろう。それくらい、今日の黄昏は調子が良かった。むしろ休む前より歌えているかも。明確な意志を持って歌えている事が、好結果に繋がったのだろうか。
「おかげで少し喉が痛い」
 それでも連日の喉の酷使が堪えたのか、歌い終えた後は声がしわがれていて、足下に用意していたスポーツドリンクで早速喉を潤していた。
 今日のライヴの後は、ゆっくりと休んで貰おう。
「やーっぱおめーがいないと始まらんわ、このバンド」
「思ってた以上だったね」
 笑顔で上機嫌なイッコー。僕と同じように相当の手応えを感じただろう。後にライヴが控えているのに、事前の練習だけで精魂使い果たしてしまいそうなほど充実したリハーサルの時間を過ごした。黄昏もやり切った顔で僕に親指を立てる。勿論結果は言うまでも無い。
「何とか様になったみたい」
 いつの間にか席を立ち楽屋に引き上げようとしていた千夜が、僕達を見て淡々と口にした。どうやら認めてくれたみたい。
「先に戻ってるから」
 場に流れた和やかな空気が嫌なのか、汗で貼り付いた前髪を振り払うと早々とステージ裏に引っ込んでしまった。人前で素直に喜ばないのが千夜らしい。
 ともあれ、これで久し振りの4人のライヴができると言う訳で、嬉しさと安心と疲れが一度にやって来て腰が砕けそうになった。ギターを降ろし、一息つく。
「んじゃ、改めてよろしく、ヴォーカルさん」
「完全復帰するなんて言ってない」
 ベースを置き、笑顔で手を差し伸べたイッコーに黄昏がそっぽを向く。照れ臭いのかその顔は少し赤かった。
「じゃあ、その時までお預けってことで」
 黄昏の真意を読み取ったイッコーがおちゃらけて手を引っ込める。黄昏自身が今のリハーサルでかなりの手応えを感じたのを、僕もイッコーも読み取っていた。このままライヴも上手く行けば、次に繋げられそう。
 ステージ前で足を投げ出しキュウと談笑する黄昏を置き、僕はスタッフと今日のプログラムの打ち合わせに入った。勿論、黄昏がステージに上がるのを前提の上で。井上さんやマスターと事務室で話し、今日は4人編成でライヴをやる事をお客に事前に知らせておく事にした。いきなり不意打ちで登場させるのも演出の一つと思うけれど、今回は正攻法で。黄昏が唄う曲は半分強と言った所か。みんな喜んでくれれば、と祈るように願う。
 僕達のリハーサルはいつも遅いので(黄昏が遅刻ばかりするから)、開演まで時間も無い。楽屋に戻り、千夜やイッコーとプログラムの確認を取る内に開場時間も迫って来て、外へ少し人の入りを見に行こうと腰を上げた所にちょうどキュウと黄昏が騒がしく戻って来た。
「あれ、お客さん?」
 二人が人を連れて楽屋に入って来たので珍しいと目を丸くしていると、低い腰で入って来たその人を見て僕は更に目を丸くした。
「どもども。へーっ、楽屋って意外と広いんだねー」
 愁ちゃんの兄さんの、みょーさん。黄昏に兄さんを紹介するくらい愁ちゃんと仲良くなっているとは思っていなかったので、思わず腰が抜けそうになった。
 みょーさんの顔にも黄昏と同じようにいくつも絆創膏とガーゼが貼られている。黄昏は言葉を濁していたけれど、もしかすると愁ちゃんの問題で二人が喧嘩したのでは、と変に推測してしまった。
「ん、せーちゃんどーしたの?」
「え、いや、何でも」
 キュウに突然声をかけられ、慌てて想像を振り払うと手元のオレンジジュースに口をつけた。ここの所愁ちゃんの姿を見なかったのはそのせいかと考えると、気まずくなる。
「開演は何時?7時?それまで時間潰してんだ、ここで?」
「他のバンドの奴とか、近くのマンガ喫茶で時間潰したりすっけどな。うちはリハ遅いから、ここでのんびりしてるほうがいーんよ。客に見つかったらうるせーだけだし」
「はー、人気モノなんだなー」
「そりゃそうよ。ウチのバンドはこの界隈じゃかなりの人気者なんだから」
「そうなの?」
「俺は知らない。そういうのはキュウ達の役割だから」
 しかし二人は怒るような素振りも見せず、椅子に座りイッコーやキュウと談笑し始めた。わざわざ楽屋まで黄昏に怒りに来たのかと思えば、そうでもないらしい。だとすると二人の顔の怪我は?考えれば考えるほど分からなくなってきた。
 余計な疑惑が頭をもたげ、会話に入りづらい。部屋の端で黙々と文字だらけの文庫小説を読んでいる千夜が少し羨ましく思えた。
 そう言えば、二人は同い年になるんだっけ。並んで座っていても、とてもそうは見えない。みょーさんが大人っぽく、黄昏が子供っぽい。……どちらも年下なのに。
「あ、そうだ。開演まで後何分ある?」
 居たたまれなくなり少し席を外そうと思った時、ふと黄昏が訊いて来た。
「あと一時間くらいってとこかな……」
 ライヴ用のファッションで付けている自分の腕時計で確認する。
「ごめん、ちょっと俺出かけてくる」
「え、今から?」
 いきなり何を言い出すの。
「大丈夫、開演までには戻ってくるから」
 呆気に取られていると、黄昏はバイクのメットを手に急いで出かける準備を始めた。
 ここまで来て黄昏に逃げられたら話にならない。
「そんなこと言ったっておめー、今外に出たら客のやつらにもみくちゃになるぜ」
「顔にバンソウコウ貼ってるから大丈夫だろ」
 もうちょっと止めようとしてよイッコー。
 慌てて席を立つ僕を余所に、黄昏は取り残され困惑顔のみょーさんに一言声をかけ、部屋を出て行く。
 そこで突然、後ろで何かを叩きつけたような大きな音がした。
 全員が息を呑み、振り返る。そこには拳をテーブルに叩き付け、今にも手元の灰皿で殴り殺しそうな目で黄昏を睨み付ける千夜の姿があった。
 僕の何十倍も怒っているのがありありと分かる。
「……じゃ、そういう事で」
 灰皿が飛んで来る前に、黄昏はすまなそうに一言残すと扉の向こうへ逃げ出した。
「ちょっと黄昏っ!!」
 大声で呼び止め急いで廊下に出ると、その背中はすぐに見えなくなっていた。姿が無いのを確かめ、腹の底から溜め息を吐く。と同時に、楽屋の中から盛大な物音が上がった。
「どうしたの!?」
 慌てて部屋に戻ると、壁際にスチール製の灰皿が転がっていて、吸殻が全部白い床にぶち撒けられていた。頭でお湯を沸かせそうなほど真っ赤な顔をした千夜が、大きく肩で息をしている。堪忍袋の緒がまた切れてしまったらしい。
「あいつは……あの男は、何も学習してないのかっ!!」
 再びテーブルに千夜の鉄拳が炸裂する。真っ二つにならないのが不思議なくらい。昔ここの楽屋の灰皿が陶器製で、他のバンドとの喧嘩で千夜がそれをぶん投げて壊したせいで安物に替えたと言う逸話を思い出した。
「まあまあ落ち着いて、おねーさま。開演までに戻って来なかったらその時に処分を決めればいいじゃありませんか」
 時代劇のお目付役のような言葉で怒り心頭の千夜をたしなめるキュウ。怒鳴り散らすかと思っていると、キュウを一度睨んだだけでロッカーに向かい、ほうきとちり取りを進んで取り出した。それを見ていたキュウもはにかむと、一緒に手伝い床に散らばった煙草の灰を掃除し始めた。こんな時、キュウがいてくれて本当に良かったと思う。
「あー、おっかねー。このねーちゃん怒らせたら怖いねー」
 冷汗顔のみょーさんが僕のそばに寄って来て、耳元で囁く。
「今日は特におかんむりなようです……」
「しっかしあいつのバンドがせーちゃんのやってるバンドだったとはねー、ちょいびっくりした」
 薄地のストライプのYシャツを羽織り直し、隣に座るように椅子を引いた。先ほどまで黄昏が座っていたその席に腰掛け、もう一度溜め息をつく。
「前に言いませんでしたっけ。バンドの名前」
「うーん、春先の事なんてとっくに覚えてねえかも」
 僕に笑いかけると、黄昏が飲み残したコップの烏龍茶をためらいなく喉に流し込む。もしかすると、渡したテープもすぐに引き出しの奥底に押しやられたのでは……。
「その代わり、今日はステージの袖で聴かせてもらうから。期待してるぜ」
 なんて言っているけれど、いいの?と指を差してキュウに訊いてみると、大丈夫でしょと簡単に返された。対バンの時に他のバンドが音楽仲間を楽屋に連れて来ていたのは頻繁に見る光景だけど、『days』ではこれまでほとんど無かったかも。
「んじゃちょっとトイレ」
 場の空気が悪くなっていて居心地が悪いのか、みょーさんが席を立ち楽屋を出て行く。床の掃除が終わった千夜はハの字になった眉のまま元の椅子に座ると、早速メンソールの煙草を吸い始めた。これはもう、ライヴが始まるまで話しかけない方が良いかも知れない。
「ま、そんな深く考えなくていーって。気楽に行こーや気楽に」
 イッコーが沈んだ空気を笑い飛ばそうとすると、思い切り千夜に睨まれ縮こまった。
「僕もちょっと、人の入りを見て来るよ。ワンマンだと余計に気になるしね」
 丁のいい言い訳と自分でも思いつつ、4人には広い楽屋を出て裏口の階段を昇る。お客と入口で鉢合わせにならないから結構便利。階段を昇るとちょうどマスターと鉢合わせしたので店の裏口を使わせて貰い、外へ。
 空は夕暮れに差しかかり、橙色に染まっていた。ライヴが始まる頃には陽も沈んでいる事だろう。体を伸ばし大きく息を吸い込むと、都会の味がした。あまり美味しくない。
 ライヴ後に飲む為のジュースでも買って来ようと通りに顔を出す。離れた位置からラバーズの入口を眺めると、ちらほらとお客らしき姿が見えた。もう入場は始まっているから、並んでいた人達は中に入っているんだろう。店の前を通ると顔を見られると思ったので、逆方向に向かう。自惚れている訳ではないけれど、知らない人と話すのは苦手だから。
 脇道に入り、駐車場横にある自動販売機へ。前に千夜とここで話した時に飲んだエスプレッソは季節が変わったせいか見当たらず、少し残念に思った。
 一応飲み物は用意してあっても、スポーツドリンクと烏龍茶だと物足りないのでとりあえず自分の分だけレモンの清涼飲料水を買った。つい、その場で缶を開けてしまいそうになるけれど、今飲むとライヴ中にトイレに行きたくなるので駄目。ステージの上で汗をかいて水分が多少足りなくなるくらいがちょうど良い。
 ふと、黄昏がどこへ行ったのか気になったのでラバーズの駐車場へ足を運んでみる。真上には高速道路が走っていて、行き交う車の排気音が五月蠅い。
 いつも停めてある所に黄昏のバイクの姿は見当たらなかった。よくよく考えてみればヘルメットを持って出て行ったんだから、当然かな。
 しかし一体どこへ?黄昏の使うギターは僕が持って来ているし、自宅に取りに帰る物なんて特にないだろうに。わざわざこんな重要な時に出かけないといけない用があるのかな?まさか愁ちゃんを迎えに行ったとか?
 考えても答えが出る訳でもないから下手な詮索は止めておこう。時間が近づけば携帯に連絡を入れればいいし、戻って来なかったらまたその時考えよう。……いい加減、最悪の状況を想定するのに慣れて来て、変に肝が据わった自分がいる。
 ――無意識の内に溜め息と共に缶を開けてしまい、口をつけていた。仕方無いので少しだけ口に含み、喉を潤す。拍子に見上げた四角い空には金星が顔を覗かせていた。
 さすがに都会の中心部は騒がしい。風も温いし、少しずつ移り変わる空の色を眺めていると海を眺めたくなる。水海は潮に囲まれているけれど、ここからだと歩いては遠い。黄昏も気晴らしに潮風でも浴びに行ったのかなと思った。
 僕もバイクでもあれば、なんて言ってみると千夜にまた怒鳴られるだけなので、寄り道せずに高速道路の下を伝い、ラバーズの立ち並ぶ通りへ戻る。夕暮れ時は車の交通量が多く、排気ガスも凄い。僕の住んでいる場所とは全然違う。もし自分が免許を取ったとしてもこの街では車を乗り回す気にはなれなかった。
 通りに差しかかった所で、左手の高速沿いの横断歩道が赤になる。駅前まで通りは続いているので、この時間帯になると人で賑わう。信号が変わり、せわしなく駆け足する多くの人達を少し辟易しつつ眺めていた。
 その人混みの向こう、待避所を挟んだ対岸の歩道に見知った人影を見かけた。気がした。
 今のは――?
 見間違いかと目を擦り、再度目を凝らして眺めてみるとその間に目の前を車が行き交いし始め、その隙間から何とか探し求めるも、その人影は幻のように消えていた。
 明るいウエーブがかった髪で、大きな目をした女の子。
 あの岩場の先端で僕に手を振った少女が今、道の向こうにいた……なんて、そんな訳は無いか。夕暮れの空を見上げていて、潮風が恋しくなったのかな。
 第一、海が似合うあの少女がこんな人の垢だらけのコンクリートジャングルにいるはずも無い。似たような髪型の人と見間違えたんだろう。
 今のがきっかけに、先程鳴らしたばかりの『宝石』の曲が頭の中で再生され始めた。
 あの曲は、今回の直前に歌詞を全て書き換えてある。この前の岩場での一件で、新しい歌詞が浮かんで来たので急遽差し替えた。曲はできていたけれど歌詞だけは仮のままでいたので、さして問題は無かった。事前に練習を始めていた黄昏には悪い事をしたかな。
 でも、後で渡した歌詞の方がいいと言ってくれたので安心している。あの出来事の後にはいくつものメロディが生まれたけれど、さすがに数日で新曲としてまとめてライヴでやるのは周りに迷惑がかかるし無謀極まりないので、今後の為に取っておく事にした。
 しかし、あの時のように自分の胸の内から湧き出るようにメロディが生まれて来る感覚はこれまで体験した事が無い。ラバーズに向かい歩を進めながら、そんな事を考えていた。
 まさか、本当に幻だったのかな?でも一度、黄昏と一緒にいる時にすれ違っているし……ただ、彼女についての話は口にした事が無い。
 それに、僕は一体あの少女にどんな想いを重ねているのだろう。今振り返ると、自分の中にある何かが具現化し、あの岩場に存在したようにさえ思える。
 ――そんな事、ある訳無いよね。
 中学生の妄想じみた考えを振り払い、手に持っていたジュースに一口つけた。通りの向こうの空が暗くなり始めていて、落日の橙と夜の群青を混ぜ合わせた雲が駅ビルの上を緩やかに流れているのが見えた。
 何だ、この街でも綺麗なものは見られるじゃない。


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