→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   077.桃色遊戯

「いやあ、いいもん見させてもらったー」
 ライヴの後、みょーさんや色々な人から良かったと褒めて貰った。大成功なのかと言えば、自分では判断がつかない。直前に3人から4人編成に戻した訳だから、お客の中には不満に思う人もいたかも知れないけれど、概ねライヴ中のフロアでは盛り上がっていたから正解だったのかなと思う。
「次からライヴ後にアンケートでも取ってみっか、『今日のステージはどうでした』って」
 それをやると物凄く僕が落ち込みそうになるから、イッコーの提案は保留中。
 でも、もし今回の後にみんなから感想を貰ったなら、全員こう言っていただろう。
『アンコールは?』
「だからホントに悪かったって。このとおり」
 黄昏がテーブルに頭をつけ、今日何度目か分からない謝罪をした。
 本当なら昨日のライヴの後、久し振りに『龍風』に全員集まり打ち上げをする予定でいたのに、一日ずれてしまった。何故なら、黄昏がアンコールをボイコットしたから。
「まー、これだけ謝ってんだから許してやっか。ライヴは大成功だったんだしよ、一応」
 イッコーが椅子の背もたれにふんぞり返ったまま、白い歯を見せて笑う。大成功と言われても、どうしても苦笑してしまうのが悔しいと言うか。
 本編終了の後、黄昏がいきなりフロアにダイブし客席を掻き分けどこかへ行ってしまい、結局そのまま戻って来なかった。
「そそ。先に食べちゃいましょ。じゃ、ライヴおつかれさま!」
 キュウが満面の笑顔で乾杯の音頭を取ると、僕達は手元のグラスを重ね合わせた。
 テーブルにはイッコーが先程まで調理帽を被り作っていた料理の数々が敷き詰められていて、香しい匂いを店内に漂わせている。今日は店が休みで貸切だから、中央の丸テーブルを5人が囲んでいる以外、お客の姿は無い。イッコーとおじさん達に内心感謝。
「お客さんがいてこそ僕達のやってる意義があるんだから、ああいう裏切り方は絶対しち
ゃ駄目だからね」
 皿の上の料理を自分の皿に移しながら、僕は黄昏に文句を垂れた。お金を払って観に来てくれた人には、やっぱり満足して帰って貰いたい。以前千夜がライヴ中にステージを投げ出した時にも、思い切り怒鳴りつけたのを覚えている。
「でも、どーしていきなりあんなことやったん?血相変えてたしよ」
「ん……ちょっとな。急用思い出して」
 苦虫を噛み潰したような顔でイッコーの質問をはぐらかす黄昏。いつもは心の奥底まで見せびらかしているような黄昏が珍しく言いにくそうにしているのを見て、イッコーは次の質問をせずに手元の麻婆茄子を口に入れた。
 店内の中央の丸テーブルを囲む人の中に、愁ちゃんの姿は無い。おそらく理由はそこにあると思う。でも流石に、他人のプライベートにまで詮索するつもりは無かった。
「彼女でもいた?」
 と思ったら、キュウがど真ん中の直球を投げた。思わず箸をテーブルに落とす僕と同時に、黄昏も飲みかけのビールで小さくむせる。
「んなわけあるか」
「だよねー、たそには愁がいるもんねー」
 怒鳴り返す黄昏を見てほくそ笑むキュウ。今の『彼女』は愁ちゃんじゃなかったのかな?
 まさか、黄昏が誰かに浮気したから愁ちゃんが怒って……なんて想像をしたけれど、全然絵にならなかったのでその考えはすぐに打ち消した。黄昏に限りそれは無い。
「ライヴの途中に私用で抜けないで」
 膨れっ面で日本酒を手にしていた千夜が、黄昏の顔を見ずに厳しい一言を飛ばした。せっかく上手く行っていたライヴだったのに、最後に黄昏がどこかへ行ってしまったおかげでアンコールができなかったのだから、怒るのも無理は無い。
「次から気をつける」
 珍しく、黄昏が素直に千夜に謝った。予想せぬ出来事に千夜は一瞬目を丸くすると、手元の酌の中を一気に飲み干す。酔いが回ったのか小さく頭を振ると、次のお酒を注いだ。
 先程から結構なペースで飲んでいる。受験で忙しいこの時期、わざわざ水海まで無理を言って出て来て貰ったのだからストレスも溜まるだろう。今は一日も惜しいはずだし。
 とりあえず僕も昨日は疲れでお腹の中に物を入れていなかったので、料理を摘む事にした。やはりここの店の味は満点。ゆっくり噛み締め堪能していると、イッコーも早速酔っ払ってキュウに絡んだりしていた。しかし、愁ちゃんがいないと少し寂しくもある。
 黄昏がいなくてもアンコールはできない事は無かった。でも、イッコーが唄う曲はそれほど数があるわけでもないから本編で全て出し尽くしていたし、黄昏の真意は分からないから納得の行く説明がみんなにできなかったし、もう一度同じ曲をアンコールで演る雰囲気でも無かったので、お客には申し訳無いけれど本編のみにさせて貰った。
 本当、黄昏に首輪でもつけておいた方がいいのかも。いつもはその役割が愁ちゃんなんだけれど、今回はどうもその原因になっているから困りもの。
 仕様の無い奴だねえと放蕩息子を見つめる親みたいな目を向けると、何か考え事をしているのか、隣で黄昏が箸を手に持ったまま天井の明かりを眺めていた。
「どうしたの?」
「いや、唄うしかないんだなって思ってさ」
 僕の顔を見て苦笑しつつ呟くと、グラスに注がれたビールを一気に胃の中に流し込んだ。お酒に弱いのに、もう。
 でも、その言葉にどんな意味が込められていようと、黄昏が自分の役割を認識してくれたのは嬉しかった。
「僕も書くしかないからね」
 聴く人みんなを唸らせるような曲を、これを生み落とせたから死んでもいいと思えるくらいの曲を。その為にはもっと音と言葉を使いこなせるようにならないと。
 意志とか目的とか希望とか無い方が、自分の役割を全うできるように思える。何かをするのに一々苦しさとか、その先に待っている素晴しさとかを考えるよりただ衝動のままに、どれだけ落ち込んで後ろめたい気持ちでもいても、動物が食事を得るように本能のままに動ける人間が実は一番強いのかも知れない。
 何はともあれ、この生き方を選んでしまったからには簡単に引き返す訳にはいかない。諦めるにしても、せめて一矢報いてからにしたい。何に?現実に。
「おかげさまで一般人みたいなまっとうな生活なんてできないんだけど」
「同感」
 箸を置いて呟くと、黄昏も隣で頷いていた。
「でも一般人が頑張って働いてるおかげで社会が成り立ってるんだよね」
「感謝しなくちゃな」
「どっちが幸せなのかは判らないけど」
「人それぞれだろ」
 ふと、今の自分が幸せなのかと考える。
 自分のやりたいと思う事ができて、それで少しとは言えお金を貰う事もできているのだから、十二分に幸せだろう。ただ今は、肌で実感できる暇も余裕も無い。
 人生のレールの先に何があるのかなんて分かるはずも無い。そもそも僕は、一体どんな人生の終焉を迎えたいのだろう。無に還るまでの間、ただひたすら技量を積み重ね、人間としての高みを目指す。最後には仙人にでもなりたいのだろうか。
 そこまで考えなくても、少しずつでいいから不用意な行動や心にも無い言葉で相手を傷つけたり、嫌な思いをさせないようにしたい。一緒にいて喜びを感じてとは言わなくても、僕と接した時に感じる不快感を減らしたい。と常々思っている。
 今の僕は全く逆の方向に進んでいるような気もするが……。
「わっ、こら、キュウに飲ませたろ、イッコー!」
「だってその方がおもしろいじゃ〜ん」
「たそももっと飲みなよ〜。ど〜せ明日からまた暇人なんでしょ〜」
 考え事をしながら烏龍茶を口に含み食べたばかりの料理の油分を分解していると、顔の赤いキュウが後ろから椅子に座る黄昏に絡んでいた。すっかり酔っ払っている。
「こいつに飲ませたらすぐベロンベロンになるくらいわかってるだろっ!」
「ん〜、アタシはだいじょ〜だいじょぶれふ」
 よそ見をしている間に相当アルコールが入っているのか、眉をひそめる黄昏にもたれかかったまま、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。タカが外れたように笑うイッコーと目の前に並ぶビール瓶の山を見ると、どうやら飲み比べでもしていたみたい。
「どうして止めてくれなかったの、千夜っ」
「どれだけ飲むかはその人の自由」
 僕の目を見ずにあっさり返して来た。黄昏との話に夢中になっていた僕が悪いのか……。
キュウは明日、学校もあるのに。
「ま、ミーティングにこいつがいても話が進まなくなるだけだし、いーじゃねーか」
 イッコーの言葉もごもっとも。今日は集まった時間が遅いので早めに済ませようと思っていたから、かえって好都合かも。だって、キュウがいるといつも余計な話で脱線ばかりするもの。
 僕は席を立ち、隣のテーブルから椅子を持って来て一列に並べると、意識の飛びそうなキュウの両脇から腕を通し、そのまま並べた椅子の上へ持ち運ぶ。
「お姫様だっこぐらいしろって」
「無茶言わないでよ〜」
 イッコーじゃあるまいし、大して力の無い僕には無理です。
 ミーティングを始める前に、空になった皿を手分けして片付ける。いい按配でくつろいでいる黄昏を見て千夜は何か言いたそうな顔をしたけれど、自ら火種を撒く必要も無いと思ったのか無視し食器をカウンターに運んでいた。
「ねえ、千夜」
 食器を片付けながら千夜を呼び止める。
「何だ」
「随分遅くなったけど大丈夫?電車無くならない?」
 店の壁時計を見ると既に11時を回っている。このままミーティングをすると終わる頃には日付が変わっているだろう。最終電車を逃すとここに泊まるしかなくなる。僕は泊めて貰うつもりで来たからいいけれど……。
「構わない。泊めて貰うようにおばさん達に話はつけた。家にはもう連絡してある」
「え」
 今、心臓が思い切り高鳴った。
「明日は学校は休みだ。それにどうせ、早く帰った所で何も……」
 そこで千夜は目を見開き素の顔を見せると、言葉を途切れさせる。
「何?」
「何でもない、忘れろ。……それに、変な目で見るなと言ってる」
 動揺を隠すように言うと、細い目を僕に向けた。やましい想像をした自分を猛省する。
 どうやらあまり触れられたくない事情があるみたいなので、これ以上追及する真似はしなかった。プライベートまで口を挟むつもりは無い。
「それじゃ、始めようか」
 テーブルの上も一通り片付いた所で、メンバー4人でテーブルを囲んだ。キュウは完全にダウンしたのか、後ろで小さく寝息を立てている。
「昨日のライヴの出来はどう?」
「真っ先に俺に振られてもな。ただ……みんな上手くなってた」
 昨日のライヴは黄昏が主役だったようなものだから、まず最初に訊いてみると参った顔で首を振った後、昨日の事を振り返りながら答えた。しばらくバンドの音に触れていなかった人間にそう言われると、自分たちの成長が実感できて嬉しい。
「おれもやってみるまではどーかと思ってたけどよ、リハーサルの時点でもう勝ったと思
ったぜ」
 イッコーの言葉に僕も同感で、千夜も同じ気持ちなのか何も言わず日本酒を傾けていた。不機嫌そうな顔は見せていないのにお酒が進んでいて、珍しい。
「そりゃまー、久々に4人でやったからうまくいかなかったとこもなきにしもあらずだけどよ。ちゃんと練習重ねていきゃ問題なくなるっしょ。新曲も手応えあったし」
 これ以上感想を求めるとこれからの活動について首を突っ込まざるを得なくなるので、先に黄昏に気持ちを訊いておく事にした。
「で、どう?続けるの?」
 僕の問いに、黄昏は首を鳴らし目線を泳がせ、言葉を探す。その間、店内に流れる洋楽のブルースがやけに大きく聞こえた。
「まあ……手応えもよかったんだし、無理にまた止めることもないと思う。今度はどこま
で突っ走れるのか正直わからないけど。ただ……」
「ただ?」
「いや、また逃げ出したら青空に首根っこ捕まえてもらって引っ張ってくれればいいんだ
し」
 黄昏が僕の顔を見てはにかむ。少し、引っ込めた言葉の続きが気になった。
 でも今は、バンドに戻って来る事を前向きに考えているみたいで良かった。ここで『満足したからもう辞める』とか言い出すと、また千夜が爆発するのが目に見えていたから。
「そういや、まだCD出さないんだ?」
 今度は黄昏の方から質問して来た。
 春に他人に聴かせる用に初めてテープを作ったけれど、その後に黄昏が休養した事もあり、宙ぶらりんになっていた。これからは千夜の受験の事もあるから活動がスローになるし、年が明けた時にバンドが上手く行っていれば考えてみようと思う。
「『前向きに検討しておきます。』が今の回答」
 胸を張り、真面目な顔でイッコーは答えると表情を崩した。
「音源にした時点で全員構えてしまって、いいものが録れないのは解り切っている」
 千夜の言う通りかも。前回のテープは一発録りだったから、細部まで固めてレコーディングする方法は僕もまだやった事が無いので、いきなり上手く行くのは難しい。
「売り物にするなら、販売方法やらCDのプレスやら音楽以外の所で様々な問題をクリアしないといけないもの。僕達やキュウ一人の力だけじゃ限界があるしね。CDを出すと言っても、そんなに簡単な事じゃないよ。お金もたくさんかかるしね」
「そんなものなのか」
「売れないもんを作ってもしゃーねーしな。やるとしても、最初は自分らのライヴだけでテープをちょびっとだけ売って様子見るとかそんなんよ」
「第一私達は事務所も何のバックも無い。リスクも大き過ぎる」
 千夜もイッコーも、大体僕と同じような考え方でいるみたい。
「めんどくさいな……」
 うんざりした顔で黄昏は顎をテーブルに付けた。理想を叶えるには手順を踏まえないといけないのが、この現実です。2年と少しでラバーズのフロアが埋まるくらいの客が集まっているんだから、それだけで十分感謝しないと罰が当たる。
「それじゃ、次のライヴは一ヶ月後、対バンの予定が入ってるから。ここしばらくライヴづくしでみんな疲れてると思うし、しばらく練習も休みね」
「えー。もっとライヴやろーぜー。学校卒業してから暇な日が増えてしょーがねーん」
「無茶言わないでよイッコー。……一応、考えておくけど」
 一旦即答し、千夜を横目で見てからそう付け加えた。推薦入試を11月に控えているから、入れたくても入れられない。
「黄昏がやる気になってくれた所で悪いけど、ちょっと間隔が開くね。その間にまたやりたくないなんて言い出さなきゃいいんだけど」
「そうならないためにも青空が見張っててくれ」
「だね。練習の日時はまた追って連絡するから。はい、今日のミーティングは終了」
 両手で大きな拍子を打ち、今日はお開きにする。新曲についての打ち合わせとかは、次の練習の時に話し合う事にしよう。
「あり……もう終わったの?」
 今の音で目を覚ましたキュウが、惚けた目で僕達の方を見た。
「集まってる時間も遅いしね。ほら、もう」
 指差した壁時計の針は零時を回っていた。店が閉まってから始めたから。僕は泊まっていくけれど明日はバイトがあるし、早めに寝ておきたい。
「ああ〜、でも歩けない〜」
 寝転んだまま上げたキュウの片腕が、力無く椅子の下に落ちた。この様子だと黄昏のバイクで送って貰おうにも危ない。黄昏もお酒を飲んだけれど、一杯だけで時間も経つので。
「おねーさまも泊まるんでしょ〜?だったらアタシも泊まる〜」
 手足を駄々っ子のように動かし舌足らずに喚くキュウ。
「でも、年頃の女の子が男の人の家に泊まるって言うのは……」
 キュウまで泊まるとなれば……ありえない妄想が頭に浮かび、自分の顔が赤くなる。
「じゃあ千夜は何なんだ?」
「だって女じゃないもん」
 黄昏の質問に口を滑らせたイッコーが、千夜の鉄拳で椅子ごと吹き飛ばされた。
「シャワー借りるから」
 床でのたうち回るイッコーを一瞥すると、足早に店の奥へ上がって行った。僕はそう言うつもりで言ったんじゃないからね。
「仕方無いなあ……おばさんに、女性二人は上の部屋で寝かせて貰うって伝えておくね」
 店の奥へおばさんに知らせに行ってから、酔い潰れ動けないキュウをおぶさる。何度も抱きつかれた事があるとは言え、女の子の体に触れるのは恥ずかしいものがある。
「うえ?」
 酒臭い息が顔に吹きかかるのを我慢しながら、足下を踏み外さないように木の階段を昇って行った。階段の横幅が狭いので一人で運んだ方がいい。肌の感触に心惑わされないように気を引き締め、無事階上まで登り切る。
 イッコーの部屋を開け、真っ暗な部屋の電気をつける。打ち上げの前にここで話をしていたから多少片付いている。半分眠っているキュウを背中から降ろし、ベッドの上に寝かせた。両手をうざったく投げ出し、無防備に開いた胸元が露わになる。
 キュウはいつも肌を多く露出させているから、かなり目に毒。色っぽい太股とか、柔らかい二の腕とか……。変な気を起こさない内に、ベッドの奥にある毛布を一枚引っ張って来てキュウの上にかけた。
「んにゃ……ありがと」
 毛布を与えられ目を閉じたまま笑顔で呟く。その可愛げな姿に見とれていると眼鏡をかけたままなのに気付き、僕が取ってあげた。
「せーちゃん、せーちゃん」
 机の上に眼鏡を置くと、キュウが小さく僕を手招きしていた。水でも持って来てあげた方がいいのかなと思いながら、用件を聞こうと近づき耳を傾ける。
「何?……っ」
 突然キュウの顔が面前に迫ったかと思うと、広げた両腕を首元に回され勢い良く引き寄せられる。
 ――そして気付くと、僕の唇とキュウの唇が重なり合っていた。
「むぐぐ」
 慌てて振り解こうとしても、回された両手が僕の後頭部を力強く抑えていて離れようとしない。首を何とか左右に振っても、唇に全体重を押し付けて来る。
 こ、これはどうしたらいいのか。
 自分の心臓が高鳴っているのが解る。このまま身を任せた方がいいのかと一瞬考えたけれど、早く下に戻らないとイッコー達に怪しまれる。と言うか、気持ちの整理が、覚悟ができていないのにどうすれば!?
 唇はお酒の味がし、アルコールの匂いが鼻にかかる。キュウは目を閉じたまま、一心不乱に僕の唇の感触を愉しんでいた。しばらく押し付けられていると、少し息苦しくなる。
 呼吸しようと口元の力を緩めると、今度はキュウが舌をこじ入れて来た。僕の口内を味わおうと、丹念に舌を伸ばして来る。初めての感覚に背筋が震え、逃げ出したくなる。でもこれは気持ちのいいものなのかも知れない、と思うと不快感も抑えられた。
 床に尻餅をつき、呆然としたままの僕を練習台のようにキュウがキスを続け、ビールの味が口の中に広がる。初めてのディープキスなのにさほど気持ちも盛り上がらないのは相手じゃなく、場所と状況が悪いせいか。他人の部屋だし……。
 しばらくされるがままの状態が続いた後、ようやく唇が離れた。胸を撫で下ろすと同時に、口の中をキュウに全部食べられた気分がする。押し倒されなかっただけ良しとしよう。
 十分堪能したキュウが穏やかな表情で僕から手を離し、ベッドに背中を預ける。そして憂いのある表情でこちらを見つめ、僕の頬に左手を伸ばした。
「せーちゃん、好きにしていいよ……」
 自分の頭が噴火したかと思った。胸に必殺の一撃を食らったような感じを受け、一瞬目の前が桃色に染まる。こ、これは、これは……!
 全身の毛穴から物凄い勢いで汗が吹き出している。理性と欲望が激しく自分の中で交錯しているのが解る。そして今目の前で起こっている状況を冷静に把握しようとした。
 キュウが安らかな顔で目を閉じ、ベッドの上に肢体を投げ出している。手を伸ばせばすぐ抱きしめられる場所で、キュウが僕の事を待っている。
 いきなり訪れた大変な状況に、もう一人の僕も戸惑っていた。まさか本当にキュウを抱く機会が来るなんて思いもしなかったので、どうすればいいのか。
 伸ばされた左手に指を触れてみた。柔らかい。勿論、僕の手より小さい。ふにふにした感覚に、思わず吸い付いてしまいそうな衝動に駆られる。
 短いスカートから生えた素足は、蛍光灯の光を受け眩しく輝いていた。夏でも日焼けをしていなかったせいか、素肌が白くうっすらと血管の色が見える。
 胸は呼吸に合わせ、緩やかに上下に動いていた。キャミソールで大きく開いた胸元に目が行く。鎖骨の辺りが色っぽく、舌を這わせた時の艶やかな声を想像すると堪らない。
 ……すぐ終わらせられるなら、構わない。
 たとえイッコー達に見られたとしても、その時考えよう。
 魔が差し、欲望が競り勝った。千夜はシャワーを浴びているし、イッコーも黄昏も二階に上がってくる気配は無い。階段も木でできているから足音で気付く。
 余計な事は考えず、今はただ目の前に横わたるキュウと繋がりたかった。
 意を決し、膝をつきこちらからキュウの眼前に顔を近づける。その寝顔は本当に可愛く、今度は自分の意志で唇を奪おうと思った。
 ――寝顔?
 キュウの左手を取り、上下に動かしてみる。反応が無い。
 ……寝ていた。
「はああああああああああああ〜」
 盛大な溜め息が漏れ、全身の力が抜けて行った。思わず床の上に横たわりそうになる。
 最後の言葉を囁いた時には、ほとんど意識が無かったんだろう。あの様子だと僕の唇を奪った事も目覚めたら全部忘れていそうで、かなりがっくりきた。急激にやる気が萎み、今しがた自分がしようとしていた行為を振り返ると冷汗が出て来る。
 危ない危ない危ない。完全に理性が押し負けていた。もしキュウが起きていればと思うと、背筋が寒くなって来る。男の本能は怖いと、心の底から痛感した。
 素早くキュウの上に毛布をかけると、背を向け大きく深呼吸をし心臓を落ち着かせる。変に気が動転している所を見られると二人に何言われるか分かったものじゃない。汗も引いた所で、キュウの寝顔を目に焼き付けてから部屋の電気を消し、階下に降りた。
「ふぅ、やっと寝ついてくれた」
 店内に戻り、今の事を誤魔化そうと独り言を呟く。
「もう暴れて暴れて……抱き着いてきて離さないんだから。だからキュウちゃんにお酒を
飲ませると……」
 自分の席に座り、口に残った唾液とアルコールの味を取り除こうとグラスに水を注ぐ。
「あれ、口紅ついてんぞ」
「うわわわっ」
 イッコーの言葉に、僕は盛大に慌てて服の袖で自分の唇を擦った。しまった、完全に拭き忘れていた。
「じょーだんだじょーだん!」
「なっ……!?」
 取り乱す僕の姿を見て、イッコーが腹を抱え大笑い。どうやら舌を絡めている時に唇を舐め過ぎたおかげか、幸い口紅の跡が残らなかったみたい。大きく息をつくと、二人に背を向け見えない所で素早く口の周りを確認した。助かった……。
「なーなー、何回キスされたん?」
「うるさいなーっ。からかわないでったら」
「わりーわりー。いつ食われるかわかったもんじゃねーから気―つけておけよー」
 イッコーの忠告が身に染みる。これからはもっと注意しておこう。
「でも、そのまま押し倒してもよかったのによ」
「酔ってる女の子と無理矢理やるほど獣じゃないよ」
 二人の前で強がってみせるけれど、ごめんなさい、しようとしてました。
「童貞のくせに一丁前な事言うねぇ」
「だっ……それは、好きな人に捧げたいな、なんて思ったり……」
 反論してみても、自分の言葉が虚しく響くだけ。それは、キュウの事は勿論好きだけど……恋まで行かなくても、好意があればそれでいい尻軽な人間なのかも知れない、僕は。
「普通逆だろー、それ。抱くのは最初で最後の人だけってねー、んな子供じみた事を言い張って実行してんのって青空ぐらいだぜ」
「いいじゃないっ!僕の主義なんだからっ」
 その主義も、しばらく経たない内に崩れてしまうかも。キュウがそばにいると、いつの日か誘惑に負けてしまいそうで怖い。それに、キュウ一筋と言うわけでもないのに……。
 手元の水を口に流し込む。今のキスの感触がまだ脳裏にこびりつき離れない。
「でも、べつにキュウのことは嫌いじゃねーんだろ?ならいいじゃんか」
「……キュウちゃんは遊んでる感じがする」
 搾り出した僕の言葉に二人は何も言えず、店内の空気が重くなった。
 もしキュウに入れ込んでしまったら、大変な事になるのは目に見えている。なのに一時の感情に流され行為に及ぼうとしてしまった自分を心から恥じる。
「……別の意味でも怖いもんな……」
 イッコーの言葉に、場の空気が更に沈む。変な病気とか移されそうで怖い……。
「した?」
「した?」
 黄昏とイッコーが互いに訊き合い、二人は首を横に振る。目の前の誘惑に負けた自分がが情けない。
「したい?」
 気になったので恐る恐る訊いてみる。先程と同じように二人は無言で首を振ると、僕を指差した。大きく両手を振り、懸命に自分の気持ちを否定する。
 あれは気の迷いだったんだ、気の迷いだったんだ……繰り返し心の中で呟く。
『……はー』
 3人の揃った溜め息がますます空気を重くした。
「まだ話してたの」
 振り返ると、千夜がタオルで頭を吹きながら戻って来た。髪を乱雑にしているのは、整髪料をつけていないからか。服も同じままの長袖長ズボンで、キュウとは対照的。
 もし僕を誘って来たのが千夜だったなら、迷わず飛び付いたんだろうか。……もう、頭の隅に追いやろう。考えるだけ沈んで来る。
「何かあった?」
 疲れた顔の僕達に訊いて来ても、誰一人として返す気力が無い。気にしない事にしたのか、千夜は自分の席に戻ると涼しげな顔でくつろいだ。
「じゃあ、俺もそろそろ帰るとするかな」
「えー、おめーも泊まってけよー」
 きりのいい所で黄昏が席を立つと、イッコーが不満げに声を上げた。その声を無視し帰る準備を始める。泊まっていけばイッコーに付き合わされるのが目に見えているから、早く帰りたいんだろう。その気持ち、よく分かる。
「あ、そういえばあの後みょーはどうした?」
「ああ、黄昏の連れて来た人?キュウと一緒に帰ったよ」
「そういえば知り合いだって言ってたっけ」
 僕の返答に納得する黄昏。昨日あの後打ち上げができていればこの席に誘っていたのに。明日も学校があるらしいので、今日は遠慮しておいた。また次の機会にしよう。
「ねえ黄昏。昨日みょーさんを誘ったのって……」
「携帯」
 愁ちゃんの事で?と訊こうとした所に、横から千夜の一言。黄昏の携帯電話の蛍光アンテナが点滅している。
「一体誰だよ、こんな時間に」
 邪魔臭そうに自分の携帯に目線を落とすと、慌てて引ったくり店の隅に移動した。どうやら知り合いらしい……愁ちゃんかな?
 結局昨日、怖くてみょーさんには愁ちゃんの様子を聞けなかった。キュウの話では学校には登校しているけれど、今も付き合いが悪いみたい。
「じゃ、行って来る」
「車に気をつけてね」
 電話先との話を終え、バイクのメットを脇に抱えると僕の言葉を聞かずに早足で店を出て行った。恋愛って大変だなあと、黄昏の背中を見ているとしみじみ思う。
「んじゃ、俺も風呂入ってくるわ。後でいいっしょ?」
 僕に一声かけてから、イッコーも店の奥へ上がって行った。夏の台風の時と同じように、音楽の流れた広い店内に千夜と二人っきりになる。
「昨日の新曲」
 何を話そうか話題を探そうとすると、千夜の方から話を振って来た。
「私は『宝石』が一番良かったと思う」
 珍しい。千夜なら『地下街〜』の方がドラムの手数が多く好みと思っていたのに。
「でもあれをやると、同じ方向性の『貝殻』ができなくなっちゃうんだよね。けど、後々CDとか出すのならいいのかな」
 笑って僕が言うと、千夜は少し顔を緩め烏龍茶を口にした。普段から化粧は薄く、ニキビの跡一つ無い綺麗な素顔をしていてつい見惚れてしまう。
 本番でも一番最初の曲だった事もあってか、いつに無く気合いが入っていたのは間違いない。千夜に褒められるのはなかなか無い事なので、励みになる。
 『宝石』の話題が出て、ふと岩場の少女の事を思い出した。そして、女性の事ばかり考えている自分に気付いて鬱になる。仕方無いか……あんな事があったんだから。
 天井を見上げ、キュウとのキスを思い返す。舞い上がっていたのか、感触をあまり覚えていない。されるがまま呆然と、映画の1シーンを見ているような感じがした。
 せっかくバンドの問題が解決したのに、また別の問題が生まれてしまった。気の休まる日はいつ来るんだろうと思いながら、疲れた体を起こし烏龍茶を一口含んだ。


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