→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   078.君を待つ間

「おーい」
 目の前で手を振られ、ようやく呼ばれている事に気が付いた。
「かなりお疲れみたいだが……大丈夫か?」
「いや、何とか……歩いて家に帰れるくらいには」
「そうは言うけど、今意識飛んでたぞ。無理しなくソファで仮眠取っててもいいからな」
 そう僕に言うと叔父さんは、階段を上がって行った。ふと足下に視線を落とすと、手に持っていたはずの缶コーヒーが転がっている。どうやら椅子に座ったまま意識が飛んでいたらしい。全部飲み干していたおかげで床を汚さなくて済んだのが幸いか。
 休みの日を取っているとは言えここ最近ずっと動きっ放し、その休みもライヴや練習で埋まってあるから、疲れなんてそうそう抜けない。この前も帰りの電車で寝てしまい、終点まで揺られっ放しな事もあった。
 その上今日は夜勤で駆り出されたので、仕事中ずっと眠気が続いていた。つい先程ようやくスタジオ録音が終わり、晴れて自由の身になった所。
「今、何時だっけ……」
 首を伸ばし壁時計を確認すると、正午を10分程回っていた。今すぐ帰っても、夕方には練習が入っている。忙しさは途絶える事無く、水海に出て色々買い物する余裕さえ無い。家で何も考えずにごろごろ寝転がっていたい。最近、密度の濃い日ばかり続いている。
 スタジオの入口から、外の光が差し込んでいる。昨日来た時は傘を必要としていたのに。重い腰を上げ外に出てみると、眩いばかりの直射日光が僕の頭に降り注いで来た。
 完全に晴れ。雲の姿もほとんど見えない。ここ数日大雨で風の強い日が続いていたからか、やけに空気が澄んでいてとても気持ち良い。うんと背伸びすると、立ち眩みを起こした。そのままふらつく足でスタジオ前のベンチに腰を下ろす。そばの街路樹がいい具合に影を作ってくれていて、休憩するにはもってこい。
 体を背もたれに投げ出していると、身も心も風景に溶けていってしまいそう。
 そのままぐったりしていると、20分位意識を失ってしまった。どうやら思った以上にお疲れらしい。やっぱり叔父さんの言う事を聞き、家に帰る前に少しスタジオで休ませて貰おう。
 今の時間空いている2階の休憩所を使わせて貰い、ソファを陣取る。たまに仕事中の仲間がそばを通ったりしても、構わず寝る。あまりに眠いと体裁なんてどうでもよくなる。2時間程仮眠させて貰った後、ギターを取りに帰る事にしよう。
 しばらくまどろみの中にいると、夢が形を表し始めた。
 聴いた事の無い音楽が聞こえる。でも、それを奏でているのは『days』のメンバー達。勿論僕も、ギターを奏でていた。自分の全く知らない曲を。
 戸惑いつつも、勝手に動く自分の指を眺めている。こんなに上手く弾けたっけ?と思うくらい正確なリズムでリフを刻む僕がいた。
 ステージの上を見回してみると、黄昏が一番前でフロアに歌声を投げかけていた。見渡せばフロアは満杯で、手を伸ばし僕達の音楽を求めている。それに応えようと黄昏は懸命に唄い続けていた。まるで人が変わったように歌を届けようとしている。
 イッコーは自分の刻むビートに合わせ体をシェイクさせ、踊るようにステージの上を所狭しと動き回っている。そんな事をしたらシールドが絡むはずなのに、夢の中だからか全く問題無く、頭の上にベースを掲げ弾く曲芸を披露したりしていた。
 まるでお祭りと言った感じで、場内が熱気と歓声に包まれている。
 見た事の無い千夜の笑顔を期待して振り返ると、ドラムの向こうには騒いでいる僕達を恨めしそうな目で見ながら黙々と叩いている千夜の姿があった。
 上目遣いに嫉妬深い表情を見せる千夜と目が合う。眉をハの字にし、まるで子供のような視線を僕に投げつける。戸惑いながら視線を交わしていると、いつの間にか曲が終わり地鳴りのような歓声が狭い空間にこだました。
 そして、一目散に千夜がステージから駆け下りて行く。
「待って!」
 慌ててその後を追いかける。ステージ裏から階段を上がり、暗い通路を進んで行くと知らない間にいつもの岩場が見える港へやって来ていた。気付くと肩にかけていたはずのギターも無いし、ライヴがどうなったのかも分からない。夢の中での場面毎の繋がり方がおかしいのはいつもの事なので、気にしない事にしておいた。
「どうしても行くんですか?」
 港に降りようとすると、後から聞いた事のある女性の声がした。振り返ると、海沿いの道路の真ん中に白い夏服を着た柊さんが立っていた。車の姿は見当たらない。
「だって、仲間を放っておけないよ」
「本当にそれだけですか?」
 何故か涙目になって詰め寄って来る柊さん。心の中を読まれた感じがして、心臓が大きく脈打った。
「どうなんだろ……もしかすると、それ以外の感情があるのかも知れないね」
 恋愛感情はよく分からないけれど、今は目の前の人よりも大切な人がいる気がした。
「私の体、あげるって言ってもですか?」
「――うーん、そういうのが欲しい訳じゃないから……ごめんね」
 凄まじい問いかけを、あっさりとかわす自分の思考回路に驚く。起きている時なら一時の感情に流されるかも知れないのに。夢の中だと本音が出ると言う事なのか。
「よーしよくぞ言いました。ほら、ここは任せて早くおねーさまのトコへ♪」
「あっ、ちょっ……離して下さいっ。あ」
 いきなり柊さんの後から湧いて出たキュウが、羽交い締めにして顎で行くように促す。抱きついて何やら弄りまくっているのか柊さんの嬌声が上がるけれど、無視しておいた。
 岩場の方に行こうとすると、千夜の姿が見当たらなかった。慌てて辺りを見回すと、港の波止場の先端に立っているのが見えた。そういや千夜の名字、波止場だっけ。
 そばまで歩いて行くと、振り返り僕の顔を見た。何か言いたそうな顔で、唇を噛み締め睨んで来る。でもその瞳に敵意は無く、いつも見せる凄みも無い。一度も見た事も無い顔を夢の中で創造できる自分に驚きつつ、その表情を見ていると胸の中で暖かいものが広がって行くのを感じた。
 抱きしめたくなる衝動に駆られ、両手を伸ばす。
「待って」
 手が触れるより先に、柔らかな声で僕を呼び止めた。
「どうして?」
「誰にも……触れられたくない」
 その言葉で、千夜が極度に体を触れられるのを嫌っている事を思い出した。
「でも、ずっと安らぎを求めてるんじゃないの?」
「それでも、青空はずっと私を見ている訳じゃない」
 はっとなった。自分勝手な妄想に近い想像が、この夢を創り出している事を知った。
 そして、目の前の千夜がアメーバのように姿を変えて行く。キュウの姿や、柊さんの姿。呆然と目を見開きその光景を眺めていると、やがて一人の少女の姿になった。
 ウェーブのかかった淡い髪の乙女は動けずにいる僕のそばに顔を近づけ、笑う。
「ただおんなのこで欲望を満たしたいだけのくせに」
 口の端を歪めたその顔に恐怖を感じ、慌てて飛び起きた。
「……あーっ」
 溜め息ともつかない声が自分の喉から漏れる。何て夢だ。頭の中で何度も夢の内容がダイジェストで反芻されている。
 蓋をし続けていた自分の本心を夢の中で暴いてしまったようで、酷く憂鬱になった。ソファの上で姿勢を直し、次は違う夢を観ようと目を閉じる。
 そのまま誰かが呼びに来るまで寝てようかと思ったけれど、今ので頭が冴えてしまったのかすぐに目が開いてしまった。今何時かを確認すると、時刻は昼の3時を回った所。
 このままみんなが来るまで寝ていようにも楽器が無いので、早い内に帰っておいた方がよさそう。じっとしていても夢の内容を思い出してしまうだけなので、立ち上がりストレッチをして眠気を抜く。1階に降りるとみんなに挨拶を済ませ、外へ出た。
 柔らかくほのかに黄色い日光が街並を照らす。今日は人通りが少なく、遠くに見える海の波音がここまで聞こえて来るように思えた。周りの景色が映画の1シーンに思えてしまうほど綺麗に見えるのは、大雨と風のおかげで不純なものが全て吹き飛んでしまったせいか。
 今度、叔父さんの弟の経営している海沿いのレストランにでも行ってみようかな。ふと思うと、僕の足は自然に駅とは反対方向に進んでいた。今日の練習は夜なのでまだ時間は十分あるし、手ぶらで歩けるのも足を運んでみようと思うきっかけになった。
 こんな日には、陽が沈むまできらめく海面を眺めていたい。せっかくなので黄昏に電話をかけて呼んでみようと思ったけれど、スタジオへ早く来るのは面倒って言いそう。一度手にした携帯電話はポケットにしまった。
 秋の初風に揺られながら、夢の中身をうっすらと思い返す中で、先週黄昏達と話していた絵本の内容を思い出す。主人公が探し続ける、自分を満たす為の欠片。
 僕にとっての欠片は一体何なんだろう?
 真っ先に思い浮かぶのが、黄昏の顔。幸いにも僕にとっての欠片はすぐそばにいてくれた。なかなか上手く言う事を聞いてくれないけれど、ある意味自分以上に大切な存在。
 だからなのか、女の子に対しては特別そうした重要な意味を求めていないのが本音で、童貞は好きな人に捧げたいなんて堅い事言っておきながら、実際は夢の通りただ僕は性欲を満たしたくて仕方の無い人間なのかも。
 最後に恐怖を感じたのは、相手の笑った顔が恐ろしかったからじゃない。他人の事を常に気遣っているようで、相手の心の中まで見ようともしないで自分勝手な妄想を押し付け、行動しているだけの自分を改めて知ったから。結局は自己満足の世界で、全然相手を大切にしていない人でなしの態度に気付いてしまったから、だ。
 千夜といる時に、心のどこかでいつもその事を考えているからこそ夢の中で本人に面と向かって言われたんだろう。バンド仲間として、友人として大切に思っている面はある。でもその中に千夜を女性として見ていて、相手に自分をいい男だと思われたい気持ちとか、やましい面も含まれているに違いない。
 そう言う意味では自分の恋人にしたい人は、気に入った相手であれば誰でもいいのかも。既に一度キュウに襲いかかろうとしてしまった訳で(未遂に終わったが)、あの夜もし結ばれていたとして、千夜や柊さんにもアプローチをかけるような態度を取ると考えると……。
 何て尻の軽い、最低な男なんだろう僕って。
 半ば無自覚のまま二股三股をかけているようで、ドラマとか漫画の軟派な男には凄く嫌悪感を示す癖して、自分もそんな男の仲間入りをしている事に気付かないとは。
 バンドもまたいい感じに動き始めたし、この事はもう少し真剣に考えてみよう。
 あれこれ考えている内に、海岸がすぐそこまで来ていた。思わず柊さんの姿を探してみたものの、夢と違い現実にいるはずがない。そういや彼女も、千夜と同じで受験が近いはず。どこに行くかとかは手紙に書かれていなかったけれど、どうするのかな。
 今日もここから見える海岸沿いはとても綺麗。山並を背に、右手に見える水海の街、眼前の港、左手に見える岩場と緑。ここに来る度に、いい街だなと思う。本当はこの周りに引っ越したかった。海沿いは値が張り厳しいので、いつかお金を貯めて……と思う。でも裕福になった自分をあまり想像できないのは、今の生活に慣れ切ったせいなのかな。
 とりあえず、何か食べよう。また眠くなって動けなくなるかも知れないけれど、仕事中は忙しくておにぎり二つしか食べれなかった。スタジオのより、本場仕込みのカルボナーラが食べたいな……。
 なんて頭の中が食欲で一杯になっていると、岩場の先端に人影を見つけた。
 もしかして、黄昏かな。この時間帯は太陽が海側から照り付けているので、眩しく良く見えない。別にあそこは僕達二人の場所と決まっている訳でもないから釣りでもしている珍しい人でもいるのかも――
 そんな馬鹿げた事があるかっ!
 僕の体は慌てて飛び出していた。車が通る隙を狙い全速力で道路を横切ると、もつれそうになりながら港への階段を駆け下りる。
 あの人影が黄昏じゃなかったら――考えられるのは一つしかないじゃないか。
 岩場の先端にわざわざ昇って行く物好きはこれまで僕を含め、3人しか見た事が無い。
 別に黄昏ならそれでもいい。一度呼ぼうとしていたんだから、むしろ有り難い。
 じゃあもし、あれが黄昏じゃなかったら――?
 昼間見た夢が予知夢である事を祈りながら、急いで走った。港が途切れ岩場に入る所で、相手の輪郭が確認できるようになる。
 やっぱり!!
 全身の血が高騰して駆け出そうとしたら、岩場の出っ張りに躓き倒れそうになった。一旦深呼吸をし、目標から目を反らさずに進んで行く。
 どうして自分がこんなにも見ず知らずの他人を追いかけているのか分からなかった。ただ、夢の内容に突き動かされているだけのようにも思える。 
 ただ、一度だけしか見た事のないはずの人が夢に出て来るくらい、ずっと心のどこかに引っ掛かっていた。岩場から見える海の輝きと同じように。
 会って話したい事とか、何も浮かんで来ない。幻を追いかけるように走り、僕はただひたすらその存在を目の前で見てみたいと思った。前はバイトの合間だったから諦めたけれど、今日はこの後もう何もない。眠気も空腹も全て吹き飛んでしまった。
 岩場の段差を昇って行くのが今日以上にうざったく感じる日は無い。行き止まりなんだからどこへも逃げやしないのに、心臓が喉から飛び出るくらい焦っている僕がいた。暑くも寒くもない程良い季節なのに、冷汗が背筋を伝うのを感じる。
 近づくにつれ――歌声が僕の耳に届いた。
 今まで聴いた事の無いその旋律に、焦っていた僕の心が嘘みたいに、平静を取り戻す。そのまま聞き惚れていたい衝動に襲われたけれど、早く顔が見たい。一呼吸置き、僕は最後の障害を登り切った。
 そこに、少女がいた。
 真正面から照らす夕日を浴び、波打つ淡い髪をたなびかせた少女が、後ろ手を組み大海原に向け唄っている。思いついた言葉を口にするように、途切れ途切れに。黒のワンピースの足下から覗かせる素足は裸足で、横にサンダルが揃え並べられていた。
 まるで絵画のような光景に、見とれて立ち尽くしてしまう。自分が夢の中へ迷い込んでしまったように思えるこの時は、おそらく錯覚じゃない。僕達が創った『宝石』で描いた音の世界が今そこにあるような、凄く幻想的な光景に僕は言葉も無かった。
 少女の口から発せられるのは、異国の言葉。意味は解らないのに、何故か凄く胸を抉られる。綺麗に唄おうとか 上手く唄おうとか全く考えていない、ただ自分の心臓から捻り出したような重く深みのある声。なのに背中をすり抜けて行くような感覚がある。
 しかし聴く者の心には、大きな爪痕を残す。
 この感じは、覚えている。
 黄昏の歌声と同じなんだ。声質は違っていても、その中に篭められているものが。
 次の瞬間、僕の頭の中に様々な過去の想い出が甦って来て、不意に涙腺が緩んだ。何故なら、黄昏の抱えている想いは、僕と同じだから。
 そして、同じ深い悲しみを、目の前の少女も胸に抱えている。それが、悲しかった。
 何とかしてやりたい。
 そんなお節介な僕の気持ちが生まれた。言葉も交わした事のない少女に。
 きっとそれは、初恋に似た感情だったのかも知れない。


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