079.beginning
ゆっくり振り向いた少女の顔を見た時、鼓膜に届くほど大きく心臓が高鳴るのと同時に、遠い過去に置き忘れて来たものに再会したような感覚が僕を襲った。
少年時代に思い描いた空想の一つと出会ったような、少しくすぐったい感じ。そしてすっかり記憶の底にしまい込んでいた大切なものを思い出し、感謝と後悔の念が渦を巻く。でも、その感覚が新鮮で心地良かった。
「…………。」
鳥肌が立つほど目の前の光景に酔いしれていると、少し驚いた表情を見せる相手の目線に気付いた。我を取り戻した僕に、うっすら微笑みかける。
本物の妖精に出会ったような気さえした。
「何泣いてるの?」
問いかけられ初めて、僕は目尻を拭った。顔の筋肉が緩んでしまったように、両目から涙が流れ落ちている。思いがけないものを見て、感情のリミッターが外れてしまったみたい。言われて途端に恥ずかしくなり、慌てて両袖で涙を拭いた。
「や……何でだろうね。僕にも解らないや」
言葉にすると長くなるし他人には伝えられない感覚なので、適当にごまかす。そもそも見知らぬ他人の前でこんなに泣いている所を見られたのは初めてなので、後になって恥ずかしさが増して来た。
「そんなによかった?」
「え?」
「うた。私の歌」
突然尋ねられ、戸惑う。歌っている時とは違う、凛とした声が僕の胸に響く。
感想を表すのに何かいい美辞麗句を考えたけれど、咄嗟に思いつかなかった。答えるのにしどろもどろしていると、猫のような目で僕を見つめて来る。
「う、うん。涙が出るほどにね」
「それってどっちの意味よー」
応答が悪かったのか、頬を膨らませ顔を突き出した。子供染みた仕草に驚いてしまう。
「良かったって事。どう良かったのか上手く説明できないけど、良かったよ」
「……そう」
不満に思ったのか僕の目も見ずに冷静な顔で呟くと、さっさと背中を向けてしまった。自分でも最大級の賛辞を送ったつもりなのに、気に障る所でもあったのかな……。
何でもいいから言葉をかけなきゃと思っても、ただ声をかける事もできずにいる。彼女は岩場の一歩踏み出せば落下しそうな先端に立ち、大海原を眺めていた。
「何?」
やがてじっとしている僕が気になったのか、上体だけ振り返り僕を見る。誰もいない自分だけの場所のつもりが、よそ者が入って来たからうざったく感じているんだろう。
「あなたがどこかへ行ってくれないと、歌えないじゃない」
「いいよ、気にしないで。何ならそこの段差の下で聴いておくから」
「……」
百歩譲って言ったつもりだったのにお気に召さなかったみたいで、何も言わずもう一度背中を向けた。裸足で一番先端に立っている姿を見ると、まるで身投げをする前の人間のよう。それでも僕には教会の壁画のような、神々しい光景にしか見えなかった。
会話をしなくても、ここで夕日に照らされる少女の後姿を眺めているだけで胸一杯になる。まるっきり怪しい人だけど、本当にそうなんだから仕方無い。
昔岩場ですれ違った、前に波止場から見かけたあの少女が眼前にいる。それだけで僕の心は胸躍った。
「本当にどこか行かないのね」
いい加減しびれを切らしたのか、強い視線を送って来る。その目の光にどこか浮き世離れした違和感を感じた。異国の血でも混じっているんだろうか。背中が隠れてしまうほどボリュームのある淡い髪は染めているのかな。
「キミだって帰らないじゃない」
ドラマとかのパターンなら最初に来た方が怒ってその場から立ち去るものなのに、サンダルを履く様子も無く、動こうとしていない。
「それに……僕は別にここからの夕暮れを観に来た訳じゃないから、今日は」
昼間観た夢に導かれるように、ここを訪れた。そしたら、いたんだ。
「いや、そうじゃないから」
崖下を指差されても困る。確かに疲れているとは言え、まだ人生諦めていない。
「そう言う君は?結構前からここに度々訪れてるけど……見ない顔だよね」
昨年の春に一度すれ違った時から最近まで一度も見かけなかっただけに、夢でも観ていたのかなとさえ思った時もあるくらい。昼間とか夕方にここへよく来ても、これまでに後姿一つ見ていない。彼女が今日ここに来たのはたまたまなんだろうか。
「いつからここに来てるの?」
逆に耳に響く声で問い質される。
「二年以上前からだけど、……昼間と夕方に来る事が多いかな。バイト先の音楽スタジオが少し歩いた所の距離にあるんだ」
見ず知らずの相手にかしこまらず自分の素性を喋ってしまう自分に驚く。目線が合うとつい反らしてしまいがちな癖も全く出て来ず、不思議な感じがする。
「私は来るのは、ここから見える海が綺麗な時」
そう言って手を広げ、僕に先端からの海を見せる。
「自慢の海よ」
「近所に住んでるの?」
笑顔で胸を張るものだから尋ねてみると、急にしかめ面になった。険しい顔で、足下に視線を落とすその目は、かすかに潤んでいるように見えた。
僕は戸惑うどころか、そのころころ変わる表情がとても愛くるしく思える。
「ねえ」
僕より背丈が頭一つ分程低い少女はこちらの目を見上げ、前と違う質問をしてきた。
「歌は好き?」
嬉しそうに同意を求める訊き方でなく、恨めしそうに問いかける。どう答えていいものか少し迷うも、ありのまま答える事にした。
「僕自身は歌うの苦手だけどね。聴く分には……一概には言えないかな。自分には肌の合わない声とか曲もあるし。そうだね……僕のトモダチが歌うのを隣で聴いてるのが一番好きだよ。君の歌声もそのトモダチに負けず劣らずいいと思ったけどね」
お世辞抜きに言うと、彼女はむつかしい顔を見せた。
「……よく分からない褒め方ね」
どこか素直に喜べないのか、眉をひそめたまま礼を言う。多種多様な表情を見せるその顔は、見ていて飽きさせない。年齢は中学〜高校生くらいだろうか、人を惹き付ける魔力みたいなものが全身から溢れている。
さすがに潮風が身に染みる季節になってきたからか、飾り気の無いワンピースの上からジャケットを羽織っていた。黄昏がバイクに乗る時に着ている物と似ている。
「ここに僕以外にも来る?」
まさか僕が今日来る前に黄昏と会っているのかなと思い、尋ねてみた。
「わざわざこんなところまで登ってくる人なんていないわよ、そこから飛び降りる人か、よっぽどの物好き以外ね」
口を押さえ笑うと、からかうように僕に言う。着ているジャケットも、特に柄が入っている訳でもないありふれたものだからただの偶然みたい。心配が杞憂に終わり、胸を撫で下ろした。
あれ、どうしてほっとしているんだろう?黄昏に彼女の事なんて今まで一度も話した事が無いから知らないはずなのに。
「じゃあ、君はよっぽどの物好きなんだね」
言葉尻を取って言葉を返すと、目を丸くした後、おかしそうに大笑いしだした。
「確かにそうかも。私って変わり者なのかしら」
肩に垂れ落ちた波打つ髪を摘み、指で丸め取り弄ぶ。写真に収めたくなるようなその大人っぽいセクシャルな仕草に、胸が高鳴る。
「君の名前は?」
「ナンパ?」
あまりの即答に思わず面食らう。
「違う違う違うよ。聞いてみたいと思っただけ」
「だからナンパじゃない。見たところ生真面目そうだから、本人分かってないんでしょ」
矢のような言葉が心臓に突き刺さった。似たような事を、昔千夜にも言われたのを思う出し鬱になる。
「あ、じゃあ僕から名乗るよ。僕の名前は」
「いいわ。別に名乗らなくても」
死人に追い打ち。確かに、妙に馴れ馴れしく見ず知らずの異性に話しかけられたら誰だって警戒するだろう。自分がいつもと変わりない態度でいられるから普通に質問してしまったけれど、相手がこちらと同じ空気を感じているとは勿論限らない。
何度も繰り返しちゃうな、こうした初歩的なミス。
「で、私に何か用?生真面目な泣き虫さん」
すっかり手玉に取られてしまった。けれど、悪い気はしない。
「用と言われると――」
何も無い。と言うか全く考えていない。話して仲良くなろうとかも思っていなかった。ただ会って、彼女が現実にいる事を確かめたかっただけなのかも知れない。
「じゃあ、何しに来たの」
思い切り笑われた。無理もない……。
「そうだね……じゃあ、一緒に夕日が沈んで行くのでも眺めない?ここから」
「まだ一時間以上あるわよ、太陽沈むまで」
「じゃあ、ウミネコの声と波の音に耳を傾けるとか」
「……キミが一体何したいのかさっぱりわからないわ」
「僕にもよく分からないんだ」
「あっはは、何ソレ」
正直に告白すると、腹を抱えて爆笑された。ナンパをやるにしても、普通もっと上手くやるだろう……。変な所で自分の無力さを感じてしまった。
「じゃあ、そこでじっとしてて」
そう告げると海の方へ振り向き、着ていたジャケットを脱ぐとサンダルの上に置いた。白く柔らかそうな二の腕が眩しい。
両腕を小さく広げると、ゆっくり歌い始めた。
怖い夢に泣かされたの? 震えなくていいわよ
抗う術を持たないあなたたちは ただひたすら泣くしかない
だからわたしがいる そばにいてあげるわ
夜が明けるまで 子守歌を歌いましょう
ぬくもりにつつまれて いい夢を観れるように
今はまだ おやすみ
とても、とても優しい歌。
どこかで聴いた事のあるような、懐かしさのするメロディ。先程の歌と違い、童謡のような、子供を寝かしつける時に耳元で囁くような歌。幻想的な光景と相成って、夢心地の気分で聞いていられた。心身共に疲れ切っていた僕の中へ、冷たい水のように染み渡る。
今の歌の方が、最初に聞いた歌よりも僕の心を揺れ動かした。さすがにこれは黄昏には歌えない。今の僕が欲しがっていたのは、こうした柔らかな温かい手だったんだろうか。
このまま横たわって寝てしまいそうになり、慌てて首を振った。そんな僕の仕草をいつの間にか振り返っていた彼女が笑って見ている。
「寝るのは早いわよ」
「そういや、睡眠時間が足りてないの忘れてた……お腹も空いてるし」
急に現実に引き戻された感じがして、眠気と空腹感が襲って来た。
「じゃあ、私のおっぱいでも飲む?」
「ぶっ」
「そんな過剰に反応する事ないじゃない。出るわけないわ」
真っ赤になっている僕の顔を見て、おかしそうに笑っている。
「君の歌声を聞いてるとね、何だか気持ち良くなってきちゃって。お母さんの子守歌聴いてるみたいな感じがしたよ」
「……ありがと。別に感想なんていらないけれど」
恥ずかしさを感想で紛らわせると、少女は目を反らし小さく呟いた。心なしか、照れているみたい。嫌な気分をされなくて、良かった。
「これ以上歌わない方がよさそうね。寝ちゃいそうだもの、キミ」
彼女は僕のそばへ近寄って来ると、下から楽しそうに見上げて来る。手の届きそうなくらい置にいて、思わず手を伸ばしそうになった。危ない危ない。
「残念。もっと聴いていたいのにね」
「何ならおやすみの時に耳元で歌ってあげるわ、子守歌」
「いや、そう言われても……」
もう相手の一言一言に過敏に反応してしまう、ウブな僕。向こうも冗談で言っているように見えないので全部本気に思えてしまい、心臓が脈打ちっぱなし。
黄昏ならこうした状況でもマイペースで切り返せるんだろうなあと、ふと思った。
「ほんと、真面目なのね。誰かさんにそっくり」
「誰かさん?」
「……昔の話よ」
口に出して訊き返してしまうと、少し苦い顔をして口をつぐんだ。その表情に千夜の姿が被る。女の子は過去を話したがらないものなのかな?
「でも、嫌いじゃないわ。むしろ好き、そういう人」
「そ、それは、どうも」
勿論好みと言う意味で好きと言う単語を使っていても、女の子に面と向かいその言葉を言われると物凄く恥ずかしい。
「そう言えば、君、音楽でもやってるの?上手いなんてレベルじゃないよね」
気になったので訊いてみた。プロでもここまで歌唱力のある人はそういない。その上、十分凄いと思える千夜よりも若い。どこかの声楽隊にでも入っているんだろうか。
「歌の話はもういいじゃない。それより、女の子と話してる方が楽しいでしょう?私がこれ以上歌うと、ホントに寝てしまいそうだもの、キミ」
僕の問いかけを流すと、指を伸ばし僕の額を軽く小突いた。足の力が抜け、その場に崩れそうになる。気を抜くとすぐに眠気が襲って来そう。
「話って言っても・・・何を話せばいいのかな」
こんな時にちっとも回らなくなる自分の頭が恨めしい。緊張している訳じゃないけれど、相手の事を質問しても軽く受け流されるようにも思えて。
「女の子の扱いに慣れてないのね」
「ごめん……その通りかも」
痛い所を突いて来る。
「それなら、君から何か話してよ。寝てないせいか、あまり頭が回らないみたい」
眠気のせいにして誤魔化すと、少女は自分の唇に指を当て、考える仕草を見せた。
「そうねぇ……じゃあ、キミは私の事どう思う?」
「え?」
「可愛い?美人?綺麗?知的に見える?お人形さんみたい?私はキミの好みのタイプ?」
唇が合わさるくらいまで接近し、矢継ぎ早に質問して来るので、後に尻餅つきそうになった。
「あ、ごめんなさい」
さすがにこの岩場の上で転ぶとかなり危ない。おかげで眠気が一瞬にして吹き飛んだ。
「タ、タイプとか言われても……」
どう答えていいものか迷いながら、改めて少女の姿を上から下、隅々まで眺めた。
猫を思わせる目の形に、長い睫毛が印象的。
真ん中から分けた淡い髪は、邪魔に思えるくらい長く、ウェーブがかかっている。
瞳の色は黒ではなくやや茶色で、(実際はどうであれ)海の向こうを連想させた。
顔立ちは整っていて、頬骨は出ておらず輪郭はしなやかな曲線を描いていて、顎も狭い。
薄桃色の唇は小さく、どこからあの響く歌声が出ているのかとさえ思う。
体型は細いが痩せていると思わせないくらいに肉がついていて、肌が柔らかそう。
背丈は千夜より少し低いくらい。それでも体のラインが出るワンピースを着ているせいか、胸の形も出て程良く膨らんでいて、少女と呼ぶには少し語弊がある。
小さい足は裸足で、それがボリュームのある髪や黒のワンピースとマッチしていた。
強い存在感と、触れると壊れてしまいそうな脆い雰囲気が表裏一体となっている感じがする。そこがとても僕の心を惹き付ける一番の部分。
「どうしたの?黙りこんじゃって」
そう。
「君は、僕の中にある『君』のイメージにとても近いんだ」
彼女の目を真正面から見据え、僕は言った。何の事なのか分からず目を丸くしている彼女に、簡単に説明を続ける。
「あっ、と……。僕、バンドをやっていて。曲を書くのも僕なんだけど、その時に大雑把に考える曲の中で出て来る、異性の人をイメージする時に思い浮かべる姿にそっくりと言うか――僕の持っている世界観、その中に常日頃からある、ここにはないどこかで生きる少女のイメージに近いんだ、君の印象が。離れているけど繋がっている、生きている内に出会う事は無いかも知れないけど、同じ心を持っているというか……って、ごめん。初めて会う人にこんな話されても、何言ってるのか分からないよね。気にしないで」
頭の中にある言葉をそのまま口にしたら、つい長い語りになってしまった。こんな個人的な事、話したって相手に分かるはずないじゃないか。
「少年の心の妄想とでも言うのかな。そんな子、どこにもいないのは分かってるんだけど」
無理矢理照れ笑いし、気恥ずかしさを紛らわす。よく考えれば物凄い事を告白しているような……好きな人に恋心を打ち明けるのと同じ気もする。
それでも平静でいられるのは、この状況にどこか現実味が無いせいか。目に刺さる夕日の光やすぐ真下から漂う潮の香り、時折強く吹く気まぐれな風や少し冷えて来た空気が僕にこれは現実なんだと教えていても、今も夢の続きにいるような感じが付き纏う。
「でも、ずっと探していたんでしょう?」
「うん、だから今日……ここに来たんだ。夢の中に、君が出て来たから」
僕のその言葉はさすがに予想していなかったのか、彼女は思わず顔を赤らめた。自分もどうも実感が無いせいか、もうどうにでもなれと思って喋っている。
「まさか正夢になるとは思わなかったけどね。――いや、半分以上はもしかして、と言う想いがあったかな?ここに来れば、会えるような気がしたんだ」
ふと、運命と言う単語が脳裏を過ぎった。黄昏と再会した時のような、人生を変える日になりそうな予感があった。
「それで、夢の中の私はその後どうなったの?」
僕の話に耳を傾けている彼女が、興味半分と言った顔で尋ねて来た。
少しためらった後、正直に答える。
「いや、それが――。最後に一瞬姿を見せた所で、目が覚めちゃった……」
正確には、彼女の姿が出て来たのはほんの一瞬の事。しかし、それまで観ていた夢の内容が一瞬にして端に追いやられるほど、衝撃が大きかった。
少女は僕の答えに黙ったまま、思慮に耽る素振りを見せる。その表情に気味悪がる所が無かったのが幸いと言えた。ここでそっぽを向かれると、後でかなり落ち込んでそう。
やがて一つ小さく息をつき、うなじ付近の髪を大きく払うと、僕の目を見て言った。
「じゃあ、夢の続きをここでしましょうよ」
淫靡な匂いを感じさせる目線で挑発して来る。突然年齢の上がったような表情を見せる彼女に、思わず腰が引けた。
「抱きしめて頭なでなでしたい?一緒に食事とかしたい?デートとかしてみたい?」
「そ、そんな事……」
僕との間を詰めながら誘って来る少女。話が一気に現実的になり、頭がついて来なくなる。この先の事を全く考えていなかったから、どうにも場面が想像できない。
「それともHとかしたい?」
突然声色を変え、胸元を強調する姿勢で色っぽく目の前で囁く。
「そそそ、そこまで考えてないっ、全然!!そんなやましい気持ちは」
「そこまで慌てなくてもいいじゃない?冗談なんだから」
笑顔で答えるけれど、僕には彼女の心が全く判らない。掴み所が無く、頑なに他人を拒んでいる千夜よりも内面が見えない。そのせいか、怖さに似た妙な不安感があった。
「……ははーん。そ〜ゆ〜事♪」
僕の態度に何かに気付いた表情を見せ、いやらしい顔を向けて来る。今ので、未だ女性経験の無い事を勘付かれてしまったか。物凄い敗北感が僕を打ちのめして来る。
「まー、まー、そんなに落ちこむ事ないってば。元気出して生きましょう」
余計なお世話です。見ず知らずの女の子に慰められるのは、結構辛い。しかし、少し話を交わしたおかげで互いが持っていた最初の壁が取り除かれたような感じで、嬉しかった。彼女が想像の中から現実に降りて来たように思えて。
気付くと、随分太陽の位置が下がっていた。やがて世界の色がオレンジ色になるのもそう時間はかからない。海の表面はステンドガラスのように綺麗にきらめいていて、手を伸ばし掴みたくなる。
どこか物悲しく、だけど暖かい。
写真とか映像とかあろうと、この光景だけ切り取り手元に保存して置く事はできない。今この瞬間に立ち、全身で感じているものを形にして残す事はできない。
だからこそ、移り行く季節の中での一瞬一瞬を、忘れないよう脳裏に刻み込む。その想い出は、同じく形の無い『音楽』と似たもののように思えた。
真上に広がる夕焼け空を眺めると、飛行機雲が一筋、水海の方向へと伸びていた。
「ねえ、一曲歌ってくれない?」
彼女の言葉に、我に返る。ようやく訪れたこの時間に、彼女の事を忘れるほど周囲の風景に目を奪われていたのが悔しく思えたけれど、この素晴らしい瞬間と、彼女の存在は同じ位価値のあるものだと考えると、それも納得できた。
「で、でも僕は……」
「下手でもいいの。メロディを口ずさむだけでもいいわ。おねがい」
優しい顔で頼み込む彼女を見て、どうしたものか戸惑った。凄い歌声を聞かされた所なのに僕の下手な歌を聴かせるのもどうかと思ったし、今日はギターを持っていないので、それだけで武器が無くなった気がしてまともに唱える気がしない。
それに、どうも彼女の歌に対する意識の持ち方が分からなかった。何だか、歌に対しいい感情を持っていないような気がする。
――でも、大きな目で催促して来る姿を観ると、断る気にはなれなかった。
「見られてると、ちょっと恥ずかしいけど……」
前にキュウとイッコーの3人でカラオケに行った時の事を思い出した。あの時もずっと僕一人だけ、引け目を感じながら唄ってたっけ。キュウが意外と歌上手くて……。
雑念を振り払うと、大きく一度深呼吸してから、大海原と彼女に向け唄い始めた。
「ああ/僕が消えてしまう前に/この気持ちを/君に託したいと思っているから……」
今の気持ちを唄うなら、『貝殻』しか無い。『宝石』もここから観た景色を題材にしている曲だけど、海に飛び込むとか唄っているのでそれはさすがに。
間奏は省略して唄う。少女は目を閉じ、僕の前で拙い歌声に耳を傾けていた。視線が気にならない分、相手の心に届かせようと懸命に声を出す。余計な事は考えないように、僕の今感じている心がそのまま歌声に乗るように。
ああ たとえいなくなったとしても あの願いが いつか叶うとずっと信じているから
ああ 僕が消えてしまう前に この気持ちを 君に託したい
ああ 君が消えてしまう前に この想いを
夢の話をした後でこの歌詞を歌ったら、本気で愛の告白をしているようにしか思えなかった。でも、嫌われなければどう取って貰っても構わない。
僕の胸の中に、感謝の気持ちが生まれていた。今この時、この場所に立てている事を。神様なんているのかどうかも分からないけれど、誰かが僕を導いたような気がするんだ。
歌い終わると一気に全身の疲れが出て、肺の中の空気を全部吐き出した。緊張せずに唄えたのは良かった。やり遂げた想いが強く、もう感想なんてどうでもよく思える。
その場で立ち尽くしていると、少女がゆっくり目を開け、僕の目を見て微笑んだ。
――そのほのかな笑顔に、やられた。
「いい歌」
泣き笑いのような、潤んで見える瞳が宝石の輝きのよう。笑っているのに、どうしてそんな悲しい顔に見えるんだろう。柔らかな笑顔が、どこか切ない。
「また、悲しそうな顔をしてるわ」
彼女に指摘され、自分がそんな表情をしていたのかと思う。
「多分それは、君のせいだよ」
「私?」
自分を指差す少女に、唇を噛み締めながら頷く。泣き虫になってしまうのも、君のせい。
すると、大きく口を開けて笑い出した。可笑しくて溢れた涙を白い手で拭っている。
「そんな、悲しむ必要なんてないわ」
その場でくるりと一回転し、ワンピースと髪をたなびかせる。口端を緩めると、跳ねるように僕の半歩前まで近づき、顔に両手を伸ばして来た。
突然の事に動けずにいる僕の目尻を指で拭うと、そのまま後に手を回し、体を預ける。柔らかな髪が僕の顔に触れた。
「ほら、キミの求めてた子はここにいるじゃない」
少女は耳元で艶のある声で囁くと、そのまま顔を近づけ、僕の唇を唇で塞いだ。
「――――」
見つけた。
この瞬間、僕は悟った。
探していたのは、この子なんだって。