→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   080.今、二人だけ

 まるで自分が物語の主人公になったみたいな気がした。
 波の音、ウミネコの声、遠くで鳴る船舶の汽笛。
 遅くなった時の流れの中、少女の柔らかな唇の感触と小さな鼻息を感じている。
 これまでのキスとは違い、気が動転する事は無い。ただ、静かに胸の中で情熱の炎が燃えさかるのを感じた。
 出会ったばかりなのに、何年も恋焦がれていたような感情。ずっと心の奥底に持ち続けていた、空想と大差無い、叶うはずの無い想いが現実になったからなのか。
 うっすら開けた目に映る、目を閉じたままの彼女が眠り姫に見えた。
 そのまま眺めていると、彼女が目を開け、ゆっくり唇を離す。回した腕が離れ、柔らかな感触が無くなると酷い喪失感に襲われ、思わずその両腕で彼女の体を力任せに抱きしめた。ほんの小さく、愛らしい悲鳴が喉元から漏れる。
 何て愛しく、恋しく思えるんだろう。
 くびれた肢体に僕の腕が絡まる。唇と同じように柔らかく、抱き心地の良い肌。力を入れ過ぎてしまい彼女が少し顔をしかめたので、こちらの温もりと想いが伝わるように背中に回した手で、優しく包み込む。
 彼女もそれに応えてくれ、僕の腕の下から肩甲骨に空いた手を回して来た。頬に頬を寄せ、相手の匂いを感じられる距離まで体を重ね合う。
 心の中が柔らかな光で満たされる感覚。体の中でかがり火が灯り、隅々まで相手の体を味わい尽くしたくなる。ただそれは性欲とは違い、この子じゃないと駄目。他の女性には抱かない情欲に思えた。
 僕が異性に求めていたのは、今実感している感情だったのだとようやく気付いた。目を閉じ、心の中を満たすものに身を委ねる。
 でも、彼女は一体どうして僕にキスして来たんだろう?
 感情の激流で暴走していた頭にふと冷静な疑問が浮かび、彼女の顔を見た。するとその目は、僕の後を見ていた。その視線の先を振り返る。
 岩場から港へ走り去って行く一つの人影が見えた。あの黒髪、見慣れた上下は――
「黄昏?」
 遠い上にすぐ船舶の影に隠れてしまったので、はっきりと確認できた訳じゃない。でも、わざわざこの岩場へ足を運ぶ人間と言えば、この子以外に黄昏しか思いつかなかった。
「どうしたの?」
 少女がそばで目を大きくし、訊いて来る。
「見てなかった?今、向こうにいた人影」
「誰かいたの?知っている人でもいた?」
 首を傾げ、僕に訊き返す。走り去る人影には気付かなかったのだろうか。
「うん、見間違わなければ……」
 すぐにでも追いかけないといけない気がして、少女を抱き締める手を緩めた。携帯電話をかけ確認する手もあるけれど、普段から出ようとしないし繋がるとは思えない。
 焦って駆け出そうとすると、僕の腕を少女が掴み止めた。
「いいじゃない。放っておけば」
 いい所を邪魔されたせいで、頬を膨らませている。つい今の今まで自分に向けられていた視線が離れたから、ヤキモチを焼いたらしい。
「でも……」
「あれ、もう帰っちゃうんだ?ざんねん」
 戸惑う僕に、いやらしい笑みで言ってのける。次の瞬間、僕の頭の中で目の前の少女と、何度でも会える黄昏を天秤の測りにかけた。
 ここで帰ってしまうと、この機会は二度と訪れないかも知れない。そう思うと決断は早かった。どのみちこの岩場の段差を降りるだけで手間がかかるのだから、今更追いかけた所で追いつけるはずも無い。
 そもそも、黄昏が走って立ち去る理由も思い浮かばない。僕に嫉妬するなんて危ない性格でもないし、別人と思い込む事にした。
「まだ――帰らないよ。これからどうしよう、とも思うけど」
 抱きつかれた際によれたパーカーを直し、落ち着いた顔で微笑んでみせた。僕の笑顔を見て、少女も嬉しそうに微笑み返す。その微笑みは恋人にしか見せない表情のようで、自分にそれが向けられているのだと思うと気分が高揚した。
 夕方にはみんながスタジオに集まるのに、僕一人ここで油を売っていていいのだろうか。そんな疑問は考える間も無く頭の片隅に追いやられた。
 初めて言葉を交わしたばかりだと言うのに、すっかり僕の心を少女が占領してしまった。今まで他の女の子達に抱いていた感情が、全部音も無く崩れ去っているのに気付く。
 全く、現金なものだと思う。理想の女性には、誰も適わないと言う事か。
 ドラマティックな出会いなのに、驚きは無い。むしろ始めからこうなる事が決まっていたかのような、どこか運命めいたものを感じる。
 同じような想いを、この少女も抱いたのだろうか。
「じゃあ、もう一回キスする?」
 僕の視線が自分の唇に向いていた事に気付き、少女は小悪魔な笑みで僕を誘う。
「誰彼構わずキスするのが好きなの?」
「まさか」
 口にしてまずいと思ったら、予想に反し簡単に受け流した。キュウみたいにオープンな子もいるから少し心配したので、杞憂に終わって良かった。
「でも、そんなに連続でされると、一気にクラッと来ちゃうから。それにここだと、さっきみたいに見てる人がいるかも知れないし」
 ディープキスなんてしてしまうと、このまま引きずり込まれてもう戻れなくなってしまいそうで恐い。さすがにそこは、理性が働いた。
「私は別に見られても構わないけど」
 髪をうざったそうに払い、拗ねてみせるその仕草に心がぐらついたのを懸命に踏ん張る。僕としてはそばにいてくれるだけで十分過ぎるほど心が安らぎで満ち溢れる。
 どうやら彼女を見ていると、僕と似た想いを感じているみたいで安心した。一方的に僕が熱を上げているだけかもと危惧したので。
「きゃっ」
 強い横風が岩場の上を吹き抜け、少女が小さく悲鳴を上げた。風に流されそうなジャケットが目に入り、慌てて僕が捕まえに行く。手遅れになる前にキャッチできた。
 顔を覆う髪をしかめ面で振り払う彼女にジャケットを渡してあげると、小さく頷きそれを羽織い、並べてあるサンダルを履きに行った。空の色が少しずつ変わるにつれ、風も出て来て冷え始めたみたい。
 この調子だと、太陽が沈む頃には随分冷え込んでいそう。僕も厚着をして来ている訳ではないので、ずっとここにいると辛いかも。あ、そう言えば傘を持って来るの忘れていた。
「だんだん太陽が沈む時間も早くなってきたわね」
 水平線を眺め、少女が呟く。あと一月もすれば、ここから海を眺めるのは晴れた昼間でも辛くなって来るだろう。次に黄昏と一緒にここへ来るのは、何時になるだろう?
 そんな事を考えていると遠くで、バイクのエンジン音が聞こえた気がした。
「そろそろ戻る?」
 沿岸の道路を眺めていると、彼女が声をかけて来た。そろそろ引き上げたいと言った顔で、今日はこれでお別れなのかと思った。でも、不思議と寂しさは襲って来ない。
 帰る気になれない僕は、尋ねてみる。今の心理状況で練習に足を運ぼうと言う気には、到底なれなかった。みんなを裏切る事になるけれど、全く構わない。
「君は、どうするの?」
「そうねえ……」
 頬に手を当て、考えを巡らせる。その顔を隣で眺めていると、目が合った。
「ね、私と楽しいことしない?」
「楽しい事……?」
「そ、とーっても楽しいこ・と」
 不意の誘惑にオウム返しに聞き返す僕に、少女は不敵な笑みで答える。その目は獲物を見つけた動物の眼光に見え、背筋に冷たいものが伝った。
 運命だ何だと言いながら、僕は彼女の手の中で踊っているだけなのかも知れない。
 なんて思いが脳裏を過ぎるも、流れに逆らうつもりは無かった。
 少女が緑の見える切り立った断崖の方角を指差す。
「知ってる?あっちへ行ったところに、海沿いの小さな洞窟があるの」
「知らない……」
 崖の下に小さな岩場が広がっているのが見える。でも、歩いて行けるとは思わなかった。今でも半分以上潮で隠れてしまっているし。
「満潮でも、通れる小道があるのよ」
 彼女の説明が僕の疑問を解消してくれる。その洞窟に、何かあるのかな?
「連れて行ってあげるわ」
 向こうを眺めながら考えていると、少女は僕の手を取り歩き出す、その白く微かな温もりのある手を見つめる僕に、彼女は振り返り言った。
「私の名前は溢歌(いつか)。歌が溢れるって書くの。覚えておいてね」
 まさか相手から名乗って来るとは思わなかったので、驚いた。聞いても教えてくれなかったから。唇を重ねた事で、心の扉がほんの少し開いたんだろうか。
「さ、行きましょう、青空クン」
 え――?
 呆然となっている僕を引っ張り、岩場を降りて行く。不意に自分の名前を呼ばれ、頭の中は真っ白になっていた。
 本当にこの子は、僕の頭の中から飛び出して来たんじゃないか?そう思い込んでしまうほど、今の言葉には衝撃があった。
 そんな事は有り得ないから、推測するに『days』の事を知っていたに違いない。今日まで生きて来て彼女とどこかで一緒になった事も無いし、僕の名前を知るとしたら学生時代の同級生か、ライヴハウスで僕達のバンドを見たとかしか考えられない。
 すると、僕達がこの岩場に訪れているのも知っていて、ここにいたのかな?
 いや、それは無い。イッコー達にも岩場の話はほとんど口にした覚えが無い。彼女とここで出会ったのは、運命なのか偶然なのか必然なのか――とにかく、神様の仕業だろう。
 じゃあ、僕がバンドのギタリストと言う事を知り、誘っているのか。でも、そんな見え透いた下心は話している時に一切感じられなかった。僕の言葉か、外見か、歌か何かに感じるものでもあったんだろう。
 しかし――一体彼女がどう言う思いで僕の手を取っているのか、全く分からない。
 自分には自分の気持ちが手に取るように解っても、相手の気持ちは解らない。表情や仕草と会話の節々から感じ取ろうにも、手に触れようとすると舞い上がる綿花のように考えを掴む事ができない。
 言動から感じる浮遊感が、実体をあやふやなものにしていた。
 そんな中、溢歌、と言う名前だけが、はっきりと心の中に刻み込まれた。
 溢れる歌、まさに彼女の事を表している名前に思える。
「足下に気をつけてね」
 溢歌はこの岩場を熟知しているのか、全く危なげ無く先を歩いて行く。出っ張りや段差を苦にしないその姿を見ると、近くに住んでいると言う言葉は素直に信用できた。
 5分程かけ、崖下に辿り着く。港から影になった場所にあるせいか、人が訪れた気配がしない。知る人ぞ知る穴場なんだろう。
「結構大変だね。溢歌はここによく来るの?」
「気が向いた時。夏の暑い日とかに来ると、涼しくていいの」
 足下に神経を使い苦労する僕に温かい目を向け、言った。
 普通僕は女の人をなかなか呼び捨てにできないのに、溢歌には何の抵抗も無くその名前を呼べた。黄昏の名前を呼ぶ時と似た、とても自然な感覚がする。
 僕が彼女の虜になった理由の一つが、何となく分かった。
「ここよ」
 辿り着いた先に、背丈の3倍位の高さがある洞窟の入り口が見えた。
 中に足を踏み入れると、ひんやりした空気が僕らを包み込む。
 ちょうど夕暮れ時のおかげか、真横から光が差し込んでいて思ったより中は明るい。ぽっかに大きな穴の空いたような作りで、20m程で行き止まりになっていた。右手半分に池のように海水が貯まっているけれど、段差があるおかげで満潮になっても溢れる事は無いし、出っ張った岩も無いおかげで水面はとても穏やか。
 これなら結構訪れる人も多そうに見えても、ゴミは一切落ちていなかった。
「この季節にここへ来る人なんていないわ。お魚もいないし、釣り人もいないの」
 洞窟の中央付近にテーブルのようにせり上がった岩があり、そこへ腰掛けながら溢歌が言った。洞窟内には潮の匂いが充満していて、しばらくいると染み付いてしまいそう。
「でも、暗くなると物凄く怖そうだよね」
 海沿いだから陽が沈むまで時間はかかっても、自然の光が無くなれば身動きが取れなくなりそう。他に明かりとなるものは何も無いし。
「そう。だから早く済ませましょ」
 野暮ったく言うと、溢歌は髪を掻き上げ、ジャケットを脱ぎ捨て岩から降りると足下でひらつくワンピースの裾をたくし上げた。その光景に思わず心臓が高鳴る。しかしそれに反し、心はやけに落ち着いていた。
 こうなる事が、何となく想像ついていたからか。初めての体験に胸躍っているのは解る。それでも拒む理由は無かったし、むしろ僕もそれを望んでいた。
 溢歌が腰より上の辺りでずり落ちないようワンピースの裾を結ぶ。その下には白くしなやかな裸体が晒されていて、エロスよりも美しさを感じさせた。
 岩の上に両脚を置き股を広げ、僕をいやらしく手招きする。娼婦のようなその仕草が表情と相成ってとても艶っぽく見えるはずなのに、少し幼さを感じさせる体のつくりにギャップがあり、笑いがこみ上げて来た。
 何だかとても可愛く、愛おしい。
「何笑ってるのよ」
「いや、凄く展開早いなあと思って」
 冷静に今の状況を考えてみると物凄い。数えるほどしか言葉を交わしていないのに、まるで恋人同士みたいな心の通わせ具合。千夜やキュウ、柊さんとの間に感じていた距離の間が溢歌には全く感じられない。ただ、相手の心に触れているのかどうか分からない不安はある。
「遅かれ早かれ、こうなるでしょ?」
 純愛だろうが結局、行き着く所は同じな訳で……。心を交じり合わせる事はコミュニケーションの一つだから、思うよりその手法の数も少ないような気がする。
「でも、本当に気持ちいいのかな?」
 ふと頭に過ぎった疑問が口をつく。悩む顔を見せる僕に、溢歌は言った。
「私がキミを気持ちよくするから、キミも私を気持ちよくしてくれればいいの」
 当たり前の事に気付き、目から鱗が出る。想像じゃなく目の前に他者がいるんだから、相手に尽くす気持ちが無いと。音楽をやっている時に常に他人に想いを届けたいのと思っているのと同じ、肌を重ねるのもコミュニケーション。
「それともキミは、ただおんなのこで欲望を満たしたいだけ?」
 身を乗り出し、溢歌は僕の耳元で囁いた。
 夢の中、最後に出て来たこの少女の言った言葉が思い出される。
『ただおんなのこで欲望を満たしたいだけのくせに』
 繰り返し頭の中で反芻される言葉に、拒絶したい感情が湧き上がって来た。
「私は」
 勢いに任せ押し倒そうと前に出かかった所で、溢歌がそっと僕の手を取る。
「青空クンを体で感じてみたいな」
 ――慈愛に似たその言葉が、僕の心を包んで行った。
 溢歌と同じように、体で相手を感じてみたい。もっと、溢歌の事を知りたい。
 その想いさえあれば、十分な気がした。
 肌を重ねる、その時までは。


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