→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   081.ホリデイ

 気を失ったように眠っていたらしい。
 カーテンを閉じた窓の外から雀の鳴く声が聞こえる。まだ薄暗く、蒼い光が隙間から見えた。そろそろ始発電車も走る頃かな。
 首を横に傾けると、小さな寝息を立てる溢歌の顔があった。幸せそうな顔で眠りについている。目が覚めている時より柔らかい、屈託の無い何もかもから解放されたような寝顔。夢の中にいるのがとても楽しそうで、このままずっと起きて来ないようにさえ思える。
 僕はと言えば眠気と全身の疲れはあるはずなのに、やたらと頭だけが冴えていた。とは言え目を閉じれば、またすぐに暗闇の中へ落ちて行くだろう。
 暗がりの中、すぐそばで眠る溢歌を眺める。裸に毛布一枚で寒いかと気にかけたら、僕に肌が触れているから温かいみたいで、今朝はそれほど冷え込んでもいないので大丈夫そう。明かりをつけ寝顔を眺めたかったけれど、無理に起こすのは止めておいた。
 豊かな髪の上に手を乗せ、ゆっくり撫でてやる。全く痛みの無い柔らかな髪が指に絡まり、撫でているこちらが心地良い。可愛い仔猫を撫でる時のような、愛くるしい気持ちになる。何だか本当に、家に転がり込んで来たペットみたいに思える。
 息を止め、その唇に短くキスをする。昨日あれだけ僕を咥えた口なのに、汚らしい思いは一切しなかった。起きたばかりと言うのに、僕の中でまた情熱の火が灯る。
 可愛らしい桃色の唇に、少しばかりいたずらをした。すると寝惚けているのか、無意識に掴むと赤子のように吸い付いて来る。今目が覚めれば凄く怒られそうな気がしたけれど、構わず好きにさせておいた。想像以上に好きものな自分を発見してしまい、苦笑する。
 でもこれも全て、目の前の溢歌が悪い。
 昨日の夜は、自分の人生観が丸っきりひっくり返ってしまった。それぐらい、様々な事を溢歌に身を持って教えられた。
 夕暮れの洞窟、女の子のからだを初めて知った。薄着でいたせいか、溢歌の体は冷えていた。けれど、肌を擦り合わせる度に、たいまつのように熱を帯びていく。
 溢歌の中はとても暖かく、一人でするより何十倍も気持ち良かった。一度夢の中で千夜と交わった事はあっても、想像の世界とは比べものにならない。
「私のからだはね、他人を喜ばせるようにできているの」
 耐えるので精一杯な僕に、溢歌が吐息混じりにそう呟く。その意味は抱いた時に解った。
 生娘じゃない。全く経験の無い僕の身と心を、面白いように嬲っていく。
 男を知っている事に関しては、別に何とも思わなかった。むしろどうすればいいのか分からない僕を、丁寧に手を取り一から教えてくれる。処女信仰がある訳でもなし、僕にとっては腕の中に溢歌の姿があるだけで何の文句も出ない。むしろ、ずっと心のどこかで追いかけ続けていた少女の温もりを感じられるだけで、天にも昇る気持ちがする。
 鼓膜に今も、洞窟の岩壁に反響した僕達の喘ぎ声がこびりついている。絶え間無く聞こえる波の音と重なり、幻覚に似た空間を作り出していた。
 初めては好きな人に捧げる、そんな僕の甘い想いは叶った。ただ、僕の中にある溢歌への気持ちが本当に『好き』と言う感情なのか、自分でもよく判らなかった。初めて抱く感情だから、形容し辛いだけなのかも知れない。
 この出会いは何なんだろう、と考える。そばで眠る溢歌は幻じゃなく、手に触れればそこにある。何がきっかけで、僕達は出会ったんだろう。
 生まれた時から初めから運命づけられていたようで、昨日までにニアミスが2回あっただけ。言葉を交わして一時間程で結び合うまで行くなんて、おとぎ話でも観ているよう。
 キュウとかの『初めて出会った人間と、その晩にする』のと同じ感覚なのかな?出会って一月経たずで結婚する芸能人の話とかをたまにワイドショーで見かけるけれど、何となくその気持ちが解った気がした。体に電流が走るとは、この事を言うんだろう。
 でもとにかく、溢歌の身体は気持ち良かった。頭の中で色々巡っていたものが、全て吹き飛んでしまうくらいに。相手の汗とか、唾液とか。普段なら嫌悪感を示してしまうものも、何の抵抗も無く受け入れる事ができた。むしろ凹の部分にぴったり凸がはまったような、充実した気持ちで一杯になった。
 とても甘美な感覚。魂まで白い闇に持っていかれそうになる。黄昏やイッコーも、似たような感じを経験した事があるのかも知れない。不思議と誇らしげな気持ちになった。
 昨夕は一度だけ二人で交じり合った後、名残惜しい気持ちを抑え、早めにその場を引き上げた。完全に暗くなってからだと動きようがなくなるから。
「ねえ、このまま後をついていっていい?」
 岩場から港まで戻った所で、僕のパーカーの裾を摘み、ねだるように溢歌が言った。
 勿論僕は、そのお願いを聞き入れた。
「帰らなくていいの?」
「いいの。今日は青空クンと一緒にいてみたいから」
「家の人、心配しない?」
「しないに決まってるわ」
 念を押して訊いてみると、ぶっきらぼうに答えた。深い事情があるのかもと思いつつ、それ以上この話題には触れない事にした。余計な事を言い溢歌を手放したくなかったし、一緒にいられるならいつまでも一緒にいたいと心の底から思った。
 初めから帰る家なんて無く、文句も言わず後をついてくる、僕にとっての理想の存在。余りに非現実過ぎるその存在に、つい苦笑する。有り得ないと言っていい。
 しかし、夢は一行に覚める素振りを見せなかった。溢歌の手を取る度に確認する自分が馬鹿らしく思えてしまうほど、彼女は想像通りの美しさと愛らしさで、そこにいた。
 岩場を後にし、電車に揺られ、僕の家へ。手を繋がなくても、後を何度も振り返らなくても、僕と一緒にいる。質問攻めにはしたくなかったので会話は少なかったけれど、黄昏と話している時よりも充実感と安息を得られた。
 我が家に辿り着く頃には太陽もすっかり沈み、夜の帳が降りていた。暗くなった空に金星が浮かび、溢歌はその姿をずっと目で追っていた。
 靴を脱いでからは、もう、その時点から精根尽き果てるまで。台所で、布団の上で、洗い場で、浴槽で、そしてまた布団で。触れた個所が無いくらい、互いが互いを知ろうとした。
 途中、携帯電話の着信音が鳴り、キュウからの電話が入っていたけれど、出る真似はせず音量を最小で留守録にしておいた。後で中身を聞こうと思いつつ、まだ聞いていない。
 もっと溢歌と肌を重ね、快楽を貪りたい。そんな獣じみた欲求が僕の中で跳ね回る。どちらも飽きもせずに、相手を気持ち良くする。僕の望む事を溢歌は全て受け入れてくれたし、僕も溢歌の申し出は嫌な顔一つ見せずに応えた。
 それはそれは、溢歌はとても気持良さそうな顔で、快楽の海を漂っている。全てが演技かと思わせるくらい、腰を振り、喘ぎ、乱れた。今も寝惚けて僕に吸い付いているのも、本当は起きていて解ってやっているのかと疑ってしまうほど、性技に長けていた。
 絶頂を迎える度、僕の中で新たな扉が開いて行くのが解る。薬を使うとこんな感じなのかな。溢歌も何も持っていないけれど、尋常じゃない快楽が僕を襲う。体の刺激だけじゃなく、心がとても気持ちいいからか。老廃物が剥がれ落ち、胸の内が軽くなった感じがする。知らず知らずの内に、僕の心には重石が積み上げられていたみたい。
 ただ、ひたすら目の前の少女だけを見る。彼女の事だけを考える。一途な想いを矢のように、溢歌の胸に打ち続ける。自分の心が研ぎ澄まされ、宝石のように輝きを増して行くのが解る。もう他に何もいらないと思えるくらい、溢歌だけを見た。
「っ」
 刺激が限界に達して来たので、急いで溢歌のそばから離れる。我慢し切れずに、寝顔にかかってしまった。昨日枯れるまで出し尽くしたので、数えるくらいしか出て来ない。逆に少量なら気付く事も無いだろうと、溢歌の上で零れ落ちるものをその顔に垂らす。
 可愛らしい溢歌の横顔と、僕の醜いものが一枚の絵の中に収まっている。その対比と背徳な自分の行為に、陰鬱な興奮が湧き起こる。溢歌の身体を、僕のものでどろどろに汚したくなる。彼女といる事で、自分の欲望に押さえが効かなくなってしまったらしい。
 下に敷いてあるシーツに僕達の体液が染み込き、乾いた今も微かな刺激臭がする。部屋の桃の芳香剤と混じり、室内は性欲を駆り立てる香りに包まれていた。
 このまま部屋にいると更に溢歌にいたずらしてしまいそうな気がしたので、音を立てないようにそっと戸を閉め、シャワーを浴びに行った。温まればまた眠気が襲って来るけれど、溢歌が寝ていれば太陽が昇るまでもう一度寝ておくつもり。
 シャワーの湯で全身を洗い流しながら、ぼんやりと昨日の情事を思い返す。
 童貞だった20年間で溜まったものを全てぶつけたような夜。相手を想う気持ちが性欲に重なり、抑えが効かなくなっていた。ギターですら空が暗くなると隣近所の事を考え遠慮してしまうのに、昨日は夜遅くでも構わず声を荒げた。
 夢のような時間を、心と身体に刻みつけておきたかった。
 僕の部屋は他人が入れるようにできていない。外に音が漏れないように厚紙で防音したり、手を伸ばせばギターが届く位置に置いてあったりと、僕にとって音楽をやるための要塞みたいなもの。まさしく僕一人の為だけにある空間。
 そこへ女の子を、しかも見ず知らずの子を上げるなんて想像もつかなかった。
 溢歌が何を考え僕の後を付いて来たのか、分からないし訊いてもいない。僕が気を失っている隙に金目の物を盗み、おいとまするなんて普通なら警戒する所も、全く心配する気になれない。単に僕が甘いだけであるけれど、そんな事をする子に見えなかった。
 むしろ、この世のありとあらゆるものに興味が無さそうにも見える。ただ、僕だけを見ている訳でもない。
 最中にも溢歌は、時折どこを見ているのか分からない顔をする。
 それが、悔しい。だからこちらを振り向かせようと、懸命に励む。
 後で落ち着いたら訊いてみようか。真っ最中だと行為に水を差すような気もしていたので、昨夜は疑問を一切口にせず、胸の中へ留めておいた。
 全身を伝う湯が、疲れた身体に心地良い。ライヴが終わった後のような開放的な疲れで、このまま寝るといい夢を観れそう。ステージの反省とかが無い分、セックス後の方がいい。
 溢歌が起きたら、何をしようか。また、精根尽き果てるまで身体を重ね合おうか。溢歌もそれを望んでいる気がした。溶け合うほど、一つになる事を。
 ギターを聴いて貰うのもいい、と一瞬思った。でも、あまり喜ばない気がするのはどうしてかな?僕の名前をおそらく『days』で知ったと思うから、バンドの曲を弾いてあげれば拍手してくれそうに思えても、気が乗らない。それよりただ抱き締めてあげる方が、彼女にとってもいい事なんじゃないかって。
 昨日は出会った時からずっと熱に浮かれたような感じでいたから、一晩明けた今はシャワーを浴びている事もあり、幾分冷静さを取り戻せている。相手の気分を損ねないよう、これからどうするかを溢歌とも話し合っていこう。このままずっとここにいる、なんて事は有り得ないだろうし、僕にだってこれまでの生活がある。
 離れてもまた、岩場に行けばすぐに出会えるような予感もするし。
 ――でももし、別れた後に二度と会えなくなったとしたら?
 昨日までの生活に逆戻りしたらと脳裏を過ぎり、背筋が凍えるような思いがした。溢歌を失う事、今までの日常に戻ってしまう事。二重の恐怖が僕を襲う。
 一日も経たない時間の中で、溢歌の存在が僕にとってはかけがえのないものとなっている。音楽よりも、『days』よりも、そして、黄昏よりも。
 まさか僕の中で黄昏以上の存在が見つかるなんて思ってもみなかった。言い方は悪いけれど僕はずっと黄昏に尽くし、自分の中の半分は黄昏絡みで成り立っていると言っていい。黄昏がバンドを辞めたとしても僕は音楽を続けて行くだろう。でも、おそらく半年も保たない。生きるのに絶望して現実から完全に逃げてしまったら、悲しくて僕も後追いするかも知れない。そう誇張も無く思えてしまうほど、僕にとっての黄昏は大きなもの。
 でも今は、どうしてそこまで必死になって想っていたんだろう、と思う。いや、ただ対象が変わっただけで、溢歌がいなくなればまた元に戻るはず。しかし完全に元通りと言う訳にはいかない。きっと胸の中に、埋められない喪失感がいつまでも残る。
 とんでもない拾いものをしてしまった。
 今日からは想像もつかない日々が待っていそうで、期待と不安が入り交じる。
 シャワーを浴び終わり、身体を拭いてから部屋に戻る。溢歌はまだ、気持良さそうに眠っていた。ちょうど外を、始発の電車がゆっくりと音を立て通って行く。走り去り、静かになった後で少しカーテンをめくると、遠くに見える水平線が明るくなっていた。
 朝日は山側から昇って来るから、光は射し込んで来ない。けれど夕方になると、茜色に大海原が染まるのをここから眺める事ができた。
 窓の外に広がる世界の色は、昨日までと全く違って見える。本当の意味で世の中の全てを悟ってしまったような、残念な気持ちが胸の中に広がっていた。女性のからだを知らなかった分、無限に想像できる領域があったから。
 それでもいつも以上に今日も生きていたいと思えるのは、溢歌がそばにいるから。この少女がいれば、また新しい世界が僕の前に現れる。知らないものを教えてくれる、見せてくれる。なんて胸躍る気持ちになるから。
 睡眠時間なんてほとんど無いはずなのに、全力で動けそうなほど気力が漲っている。常日頃から感じていた気だるさが抜け、前向きに今日の日を迎えられる。
 部屋の扉を閉め、台所で昨日キュウが入れていた留守録の内容を聞く。昨日僕が来なかった事にカンカンに怒っていたのは言うまでも無い。今日もこちらが休みを入れている事をスタジオで叔父さんに聞いたのか、昨日の練習は今日に振り替えになったらしい。
 リーダーのいない時に勝手に決められても困る、と思うも、スタジオに行かず連絡を取ろうとしなかった自分が一方的に悪いので、仕方無い。怒り口調の留守録を全て聞く気にはなれなかったので、今日の夜に練習がある事だけを確認し、全て消去した。
 興味が無くなってしまった訳じゃなく、バンドの事を考えられない。常に新しい歌詞やメロディを考えていた思考回路も、すっかり停止してしまっている。でも、ギターを持てばまたいつもの調子に戻るだろう。
 とりあえず今はそれ以上考えないようにし、寝間着を着ると椅子の背もたれに身体を預けた。毛布を替え溢歌の隣で寝たかったけれど、風呂上がりだから。起こすのも悪い気がして。
 雀の鳴き声を聞きながら、椅子にもたれ溢歌の寝顔を眺めていると、不意にどこからともなくメロディが流れて来た。こんなにも無意識に、あっさりと曲が浮かんで来るなんて初めて。でも、それを現実のものとして残そうと言う気にはなれなかった。幸せな気分で、このままゆっくりしていたい。後でいくらでも、メロディなんて生まれて来るから。
 つい昨日までの焦る気持ちはどこにも無かった。日常で曲の断片が生まれて来たら、例え仕事中でも一音として忘れないように必死に記憶し、書き留めるようにしているのに。
 まるで小学生の夏休みのように、心に大きなゆとりがある。久しく忘れていた感覚を全身で愉しみながら、全身の力を抜き目を閉じた。
「起きて」
 暗闇の中、遠くで溢歌の声が聞こえる。ああ、もうそんな時間なんだ。早く起きなきゃ。
 そう思い目を開けてから、寝惚けていた自分に気付いた。
「起きた?」
 僕の顔の前で溢歌が手の平を振ってみせる。いつの間にか眠っていたみたい。薄い毛布を体に巻き付けた溢歌が僕の手を取り、椅子から引き上げた。滑らかな髪からシャンプーの匂いがする。僕の使っている物と同じはずなのに、香りが全然違うのはどうしてかな?
 カーテンが全開していて、外は眩しい位の太陽が地面を照らしている。開いたベランダから入り込んで来る柔らかい風が気持ち良い。玄関の向こうで洗濯機が回っている音が聞こえた。
「何だか、別の部屋にいるみたい……」
 シーツも洗ったのか、新しい青の物に替えられている。その上に溢歌は倒れ込むと、猫みたいにごろごろと寝返りを打った。溢歌がいるだけで、この部屋の景色も丸っきり別物になる。一度寝てもまだ、世界の色が違って見える。
 ……あれ?ギターが無い。部屋の中を見回していると、溢歌があっさりと言った。
「粗大ゴミに出したわよ」
 慌てて家を飛び出し、アパート横のゴミ捨て場へ行く。僕のアコギとエレキ、黄昏が使う借り物のイッコーのエレキ、そしてギターケースが塀に立てかけられていた。背筋の凍る思いがし、急いで全部抱きかかえると、ダッシュして家に持ち帰る。今日の日がゴミの日じゃなくて本当に良かった。もし捨てられていたら言い訳もできない。
「何するの!!」
「何って、邪魔だから捨てただけ」
「どれも僕の大切なギターなんだよ。借り物だってあるんだし」
「そう。それはごめんね」
 本気で怒鳴る僕に、枕に頬を埋めながら他人事のように答える溢歌。彼女がここにいたら、知らない間に色々捨てられてるんじゃないだろうか。
 大きく溜め息をつくと、全部を部屋に持ち運んだ。机の上にハサミが置かれていて、それで律儀に全てのギターの弦を切ってある。新しいものに張り替えるのに余計な出費がかさむなあと心の中で嘆きつつ、溢歌と一夜を共にした代償と割り切り予備を持ち出した。
 椅子に座り、ギターを太股の上に乗せ弦を張り替る。
「ねえ、そんなつまらない事やめて、こっちに来ない?」
 溢歌が布団を叩き、そばに来るように色っぽい声で誘う。少し心がぐらついたけれど、弦を張る手を止め、溢歌の顔を見て言った。
「君にはつまらない事かも知れないけど、僕にはとても大事な事なんだ」
 緊急事態になると、自分の本当の気持ちに気付くみたい。練習に行く気が起きなくても、叔父さんに貰ったアコースティックギターと僕が一目惚れした海色のエレキギターは、どんな事があっても手放したくない。例え僕が道の途中で力尽きてしまったとしても、この二つは戦友かつ勲章として、いつまでも手元に置いておいてたい。
 構ってくれない事に腹を立てたのか、頬を膨らませそっぽを向く。嫌われてしまったようで、苦笑が漏れる。僕だって溢歌のそばへ行っていちゃいちゃしたいけれど、何時だってすぐに弾ける体勢にしておきたい。音の出ないギターはただのガラクタだから。
 昔は時間がかかっていた弦の張り替えも、イッコーまでとは行かなくても手際良く済ませられるようになった。しばらく間を置き、イッコーのギターが終わった所で問いかけた。
「どうしてこんな事したの?」
「何となくよ」
 その何となくには思えないから訊いているんだけどね。
 溢歌の行動にはどうにも一貫性が無い。音楽が好きなのか嫌いなのかもよく判らない。本当は好きなのを無理矢理否定しているような子供染みた行動にも見える。
 二本目のエレキに取りかかっていると、ジト目で溢歌が呟いた。
「また、青空クンが見ていない時に捨てるかもね」
「さすがにそれは勘弁してよ。本当に僕の大切なものなんだ、このギター。君だって、他人に知らない間に命の次に大事な物を捨てられたら怒るでしょ?」
「…………」
「言ってなかった僕も悪いけどね」
 まさか自分もギターを捨てられるとは夢にも思っていなかっただけに、ついカッとなってしまった。壊されなかっただけ運が良かったと思おう。
「捨てないと出て行くって言ったら?」
 しばらくの間黙っていた溢歌が、難しい取引を持ちかけてくる。
「そうだなあ……」
 手を止め、少し頭を巡らせた後、こう答えた。
「そしたら僕が君の家に行くよ。手ぶらで」
 小さく口を開け、溢歌が目を丸くする。本人は二者択一のつもりで僕に振って来たんだろうけれど、どちらかを選ぶ気にはなれなかった。だから、僕の方から行く。それで何の問題も無いもの。
 参ったのか、溢歌は布団の上で正座をすると、慎ましく僕に土下座した。
「……ごめんなさい。もうしません」
「いいよ、もう怒ってないから。理由だって言いたくないなら訊かないしね」
 根掘り葉掘り質問し、相手を怒らせる事だけは避けたい。少しは他人との付き合い方も上手くなって来たかな?でも調子に乗ると、すぐに落とし穴にはまるんだろう。
 二本目も終わり、最後のアコギに取りかかる。ただ弦を通しただけで、余剰分も切っていないしチューニングもしていない。ずっと集中していると、取り残される溢歌が可哀想。
「青空クンって、筋金入りのお人好しね」
「よく言われるよ、みんなに」
 自分でもどうしてこんなに馬鹿正直なのかとさえ思う。おそらく、普段から嘘をつくと言う考えが頭に無いから。でもそんな自分がちょっとだけ好き。
「よし、っと……できた」
 3本張り終えるだけでも結構神経を使う。一所懸命作業している僕の方を、溢歌は全然観ようとしなかった。ギターに何か恨みでもあるんだろうか。
 試しに、優しい声で言ってみる。
「一曲弾いてあげようか?」
「いらない」
「だよね……」
 あっさり断られたので、意気消沈。弦を切るくらいだから、聞きたくないのも当然か。
 ギターを全てケースに入れ、元の位置に戻す。今の事件で眠気がすっかり覚めてしまった。そう言えば昨日から全然食べていなくて体を動かし過ぎたせいか、お腹がぺったんこ。
「何か食べる?」
「いらない」
 また断られ、涙。一瞬何も食べなくても動き続けていられる宇宙人を連想してしまった。前に親が差し入れしてくれた果物があるから、後で適当に見繕って食べよう。
 一旦台所で顔を洗い、すっきりした顔で戻って来る。窓の外を向き布団の上で寝転がる溢歌の横に腰を下ろし、僕も同じ格好で横になった。
「いい匂い」
 柔らかに波打つ溢歌の流れる髪を手に取り、その香りと手触りを堪能する。背中に顔を埋めると、溢歌が赤い顔をして寝返りを打った。残念。
「そんなにしたいの?」
 一寸先、唇が当たりそうな距離で僕の目を射抜き、訊いて来る。その瞳に胸が疼き、落ち着いていた情熱が再び目を覚ますのが解った。
 まだ昼にもなっていない時間から、精に励むなんて頑張りやさんな自分。唾を飲み込み頷くと、溢歌は小さく笑みを浮かべ体を起こし、自分の毛布を脱ぎ捨てた。
「昨日はよく見ていなかったんじゃない?」
 ベランダの前で肢体を見せびらかす。未成熟な、幼さのある体のライン。外から入り込む日の光が部屋の影とコントラストを生む。肌の色は白いと言っても、病的に感じるほどでは無く、血が通い生気がある。その場で華麗に一回りしてみるその背中に天使か妖精の翼が生えていないのが残念に思えるほど、可愛らしくそして美しい。
 その身体を堪能できる事僕は、何て幸せ者なんだろう。
 今すぐにでも抱き締めたい気持ちを抑えその裸体を眺めていると、溢歌がベランダのガラス戸とカーテンを閉めた。静かな空間が訪れ、外界と遮断された感覚に陥る。
「明かりはつける?」
 電気を灯すと今の時刻を感じられなくなるので、やんわりと首を横に振った。明るい中でするのは、夜になってからでいい。ふと、夜の練習の事を考えてしまい、軽く沈み込む。目線を手元に落とす僕に溢歌が近寄り、そっと短いキスをした。
「ねえ、溢歌」
「何?」
「今日も、一緒にいてくれる?」
 余計な邪念を打ち払いたくて、溢歌の事情も考えず無理な頼み事をする。
「――いいわよ。青空クンが望むのならね」
 けれど彼女は、嫌な顔一つ見せずに僕の願いに応じてくれた。嬉しさのあまり、笑いがこみ上げて来て勢い任せに温もりのある身体を抱き締める。無邪気に笑い過ぎたせいか、子供を諭すような感じで溢歌が僕の頭を撫でた。とても安らかな気分になる。
 いざ始めよう――と思った所で、突然携帯電話の着信音が鳴った。
 おそらくキュウからだろう。夜からの練習にはまだ時間があるけれど、当日は前もって全員と連絡取るようにしているから。
 僕はあえて、そのままにしておいた。
「出なくていいの?」
「いいよ」
 身を起こし携帯を掴むと、台所へ持って行った。まな板の上に置くと、部屋に戻り戸を閉めた。後で電源を切っておこう。
「用事があるなら、私に構わなくたっていいのに」
「ないよ?だって休日だもの」
 ここまで自分はさらりと嘘をつけるものかと驚いた。好きな人の為に平気で嘘をつける、恋心って怖いものだなとしみじみ思った。
 僕の溢歌に対する気持ちは、恋とも愛ともつかない、形容し難い感情だけど……。
「携帯電話って、図々しいから大嫌い。相手の空気読まないもの」
 黄昏みたいな事を溢歌は言う。今からの事を考え、あえて何も言わない事にした。
 そう言えば、溢歌の着ていたジャケットはどこだろう?外に日干しでもしているのか、見当たらない。あれを見ると黄昏の事を連想してしまうから、目に入らない所に置いてあるのがちょうど良かった。
 あれこれ余計な事は考えず、ただ溢歌だけを見て、二人だけの時間を過ごしたい。
 けれど、今は悪気は無くても夜が近づくにつれ、罪悪感も生まれて来るんだろうな。溢歌に用事は無いと答えてしまった以上、今日の練習に出るのは止めよう。後で電話を入れておいた方がいいかな……でも、何だか面倒臭くなってきた。
 僕がバンドのリーダーだけど、僕一人いなくたって練習はできるんじゃない?
 ふと、頭の片隅に追いやっていたはずの疑問が形を成し始めた。
「あの」
 次の考えが浮かんで来る前に、切迫した口調で溢歌に頼む。
「後で、唄ってくれないかな。子守歌でいいから」
 それだけで、僕は随分安らげる気がするから。例え溢歌が歌うのが好きじゃなくても、彼女の歌を聴いていたい。
 僕は歌を唄う溢歌に、心の底から一目惚れしたんだから。 
「その前に、私を満足させてくれる?」
 彼女の妖艶な笑みに、迷う事無く頷いた。


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