082.天国と地獄
気が重い。
僕は今、背中を丸め夕暮れの街並を歩いている。隣に溢歌はいない。
家に置いてきた。すっかり疲れ、今もゆっくり眠っているはず。
夕方まであのまま、携帯の電源を切り溢歌と二人でずっと部屋の中にいた。体を弄り合いながら他愛無い話をしたり、更に新しい世界を体験したり。シーツは半日も経たない間に、僕達の汗と液ですっかり湿り切ってしまった。
時間が経つほど、行為も激しくなっていった。部屋の時計は全て見えないようにしておいた。時間を忘れ、ただひたすら溢歌の事だけを見ていられるように。
片方が気を失った後も、相手の体を愛撫し続けた。端から見れば、さかりのついた二匹の犬がじゃれ合っているように見えたと思う。溢歌の反応は見ていて楽しかった。溢歌も経験の少ない僕にからかいながらも、手取り足取り色々な事を教えてくれた。
このまま二人、何もない世界でいつまでも抱き合えていたらいいのに。空気が足りないほど熱気に包まれた部屋の中、そんな夢染みた事ばかり僕は考えていた。
様々な難題やしがらみが重石や足枷になる現実の世界で苦労して生きるより、夢うつつのまま好きな人と身も心も溶け合えるまで一緒にいたい。それが無理な話で、逃避なのも解っていたけれど、僕にとってとても幸せで濃密な時間だったから。バンドをやっている時にも感じないような興奮と充実感が、絶え間無く僕の身と心を包んでいた。
でも、現実はそう簡単に切り離せるものでもない。
溢歌が果ててしまい一息ついた頃、静かに部屋を抜け出し、支度を整えこうしてアコギを手に、ギター二本を肩から提げ、スタジオへ向かっている。結果的に溢歌に嘘をついてしまった事になり、後悔してしまうけれどバンドの事も見捨てられない自分がいた。
「せーちゃん!!一体どーしたのよもー!心配してたんだから!」
家を出る前キュウに携帯電話で連絡を入れると、泣いているのか怒っているのかよく判らない声で、受話口の向こうで叫んだ。
昨日は親に急用の頼まれ事をされ行けなくなった、出かけた先で携帯電話の電池が切れて充電できなかった、みんなの電話番号は携帯にしか保存していないので連絡の取りようが無かった等、無い知恵を絞り考えた言い訳を逐一並べ立てる。胸の中で何度も謝罪の気持ちを述べながら弁明すると、キュウは何の疑いも持たず僕の言葉を全て信じてくれた。その素直さが余計に僕の心を締め付けたのは言うまでも無い。
「でも、せーちゃんいてもいなくても一緒だったけどね」
「え、どうして?」
「あれ、アタシ留守録に残さなかった?だって、たそも来なかったんだもの」
思いがけないキュウの一言に、頭の中が一瞬真っ白になる。
「ちょ、ちょっと、どういう事?」
「今言った通りよ。連絡取ろうにも全然だったもの。アタシてっきりせーちゃんと二人でどこか行ってるのかと思ってたんだから」
ふと、昨日の岩場から黄昏の姿を見たような気がした事を思い出す。あれはやっぱり黄昏だったのかな?でもそんな、ショックを受けるような事でもあるまいし……。
また持病が再発したのかなと心配になる。それでも愁ちゃんは数ヶ月振りに練習場所へ来たとキュウは言った。黄昏とスタジオで待ち合わせする事になっていて、一足先に来ていたみたい。ただ解散後に愁ちゃんが黄昏の家に行ったらそこに本人がいたとキュウの電話に連絡があったそうなので、僕は胸を撫で下ろした。
黄昏は黄昏で何かあったんだろう。でも、深く追及する真似はしたくなかった。僕も今日、無断で休んでみんなに迷惑かけちゃったし。
「ちょうどタイミングよく今日の夜にスタジオが開いたから、せーちゃんの意見も聞かずに入れちゃったけど大丈夫?スタジオの店長から、せーちゃん休みって聞いてたし」
溢歌とずっと一緒にいたいのに、二日連続で迷惑をかける訳にはいかない、何より黄昏の事が気にかかる。
「愁も、たそ大丈夫そうって言ってるし、問題ないわね?」
ここまで言われ断る訳にもいかないし、キャンセル料だって無料じゃない。バンドの事を考えれば、ここで練習しておかないと後々に響くのが解る。千夜だって、受験勉強の合間を縫って足を運んでくれているんだから。
「はぁ〜」
駅へ向かい歩を進めながら、何度も力の無い溜め息を吐き出してしまう。
溢歌を起こそうかと思ったけれど、結局その勇気は無かった。ギターを捨ててしまうほど音楽を嫌っているのに、スタジオへなんて連れていける訳が無い。誘った所で、散々怒鳴り散らした後に僕を家から追い出してしまいそう。
「私を置いていくのね」
なんて恨みがかった言葉を真正面から投げつけられるに決まっている。
それなら黙って出かけた方がいい。結果的に溢歌に嘘をついてしまった事は悪いと思う。でも、二日連続でドタキャンなんて真似はバンドのリーダーと言う手前絶対にできないし、これ以上迷惑をみんなにかけたくない。
それに、これまで培って来たものを簡単に放棄してしまう真似なんてできるはずも無かった。溢歌との時間が、後に一時の迷いとなる可能性だって考えたくないけれどあるかも知れないのに。
そう思い、少し出かけて来ると書き置きを残しギターを背に家を出たはいいけれど、それでも踏ん切りはつかなかった。しばらく家の前で胃が痛くなるほど二者択一で悩んだし、今も引き返したい気持ちで一杯。簡単に片方を切り捨てられない自分の性格が恨めしい。
何より、丸一日ぶりに訪れた一人の時間がとても寂しい。
溢歌の温もりに浸り切ってしまったからなのか。足取りは重く、背負い慣れた二人分のギターが重石のように圧し掛かっている。つい一時間前まで、寝る間も惜しみ溢歌と体を合わせて溜まった疲労も、僕の気持ちを重くする。
まるで自分の足だけ勝手に駅前は向かっているみたい。
このままだと練習に出た所でモチベーションが無いから何の実りにもならないのが目に見えている。今からでもキュウに断りの電話を入れた方がいい気がしても、残念ながら携帯を持ち歩いていなかった。
すぐに溢歌と連絡が取れるように、自分の家に置いて来たから。けれど電話に出てくれるかな?僕の我侭で独りぼっちにさせてしまう事を、物凄く後悔している。
電車に揺られ、スタジオへ向かう。練習中に一息ついた時にでもかけ、声を聞こう。キュウが連絡を入れてくる可能性があるので着信音は切っているけれど、電話に出られるようにしてと書き置きを残している。寝ているならそれに越した事はない。
溢歌と離れるのはたったの数時間なんだから。落ち込む事はないと自分に言い聞かせる。
日が暮れた空が雲に覆われているせいか、駅前からスタジオへ続く道がやけに物悲しく思える。木枯らしに似た秋風が、僕の心を冷やすのが苦痛で堪らなかった。
「おーい!」
俯きながら歩幅半分でしばらく歩いていると、前の方からキュウの声がした。溢歌との想い出に思いを馳せている内にどうやらスタジオに到着していたみたい。
駆け寄って来たキュウが、僕の顔を覗き込む。
「連絡取れなくなったからまた用事でも入ったのかと思ったわよ」
「ごめん、携帯の調子がおかしくて……みんなは全員来てる?」
「もう集まってるわよ。せーちゃんが最後だなんて、初めてじゃない?」
「――そうかな」
常に僕が中心に動いているせいでそう思われているだけのような気もする。昨日までなら重要にしていただろう問題も、今は別にどうでもよくなっていた。
「眠い?顔色沈んでるわよ」
街の灯りの中でそう見えるのなら、相当酷い顔をしているんだろう。
「昨日今日と色々あって、ちょっと疲れたから……」
よくよく考えてみれば、丸一日何も食べた記憶が無い。蓄積された疲れと重なり、立っているのもやっと。溢歌の事を想い過ぎてしまい、胃の辺りがキリキリ痛む気もするし。
猫背で歩いていると、キュウが僕に顔を近づけ、鼻を立て匂いを嗅いでいた。
「な、何?」
「ちょっとね……気になったから」
それだけ言うと、先に駆け出しスタジオに入って行く。出かけて来る前にシャワーを浴びたから、溢歌との匂いは染み付いていないはずなのに……?
店の入口前で、自分の頬を両手で叩き気合いを入れる。溢歌の事は絶対引きずってしまうけれど、リーダーなんだからちゃんとしなきゃ。みんなに弱った顔は見せられない。
「お、行方不明者、おかえり」
意気込んでスタジオに入ると、いきなり叔父さんの声が横から飛んで来て腰が砕けた。
「別に行方不明じゃないですってば」
「「昨日店を出ていったきり戻って来なかったじゃないか。あの子に連絡取れないって聞いてたから、ちょっと心配したぞ」
「ええ、まあ、色々ありまして……」
これ以上弁明されると堪らないので、苦い会釈をし階段を上がる。すると叔父さんに呼び止められ、今日は一階だと知らされた。防音ガラス越しにみんなの姿が見える。昨日は二階で取っていたからそのままの意識でいた。
扉を開ける前に、一度大きく深呼吸する。今日の練習は何するんだっけ?記憶が絡まり、自分が立てたスケジュールが上手く思い出せない。ここで立ち止まっていても仕方無いから、どうにでもなれと腹を括り扉を開けた。
「おー、我らのリーダーのお出ましだわ」
スタジオの中は、いつもと同じ光景が広がっていた。既に全員、準備ができているのか自分の立ち位置にいる。白い歯を見せるイッコーに、済ました顔で内心怒っている千夜、今日は珍しく肌を見せない秋物の上下に身を包んだキュウ、そして久し振りに愁ちゃんの姿もあった。白い毛糸の帽子が良く似合っている。
そして――
「やあ、黄昏も――」
僕のかけた声は、最後まで口にされる事が無かった。
派手な音が鼓膜のそばで上がる。そして次の瞬間には、天井が見えていた。
――殴られた――?
ブースに入って来た僕に入って来るなり近づいて来て、利き手で本気で殴った。
「……帰る」
僕の顔も見ずに短い言葉を吐き捨てると、黄昏は一目散にスタジオから駆け出して行った。何の事か解らず、その場にいた全員が呆然となる。
「ま、待って、黄昏っ!ねえったら!」
事態を把握した愁ちゃんが、慌てて黄昏の後を追いかける。その二人の後を、イッコーが一度倒れている僕を見て歯を噛み締め、後に続く。入口の方からバイクのエンジン音と、二人の何やら叫ぶ声が聞こえた。
「せーちゃん大丈夫!?」
ショックのあまり身動きの取れないでいる僕にキュウが駆け寄って来る。千夜も椅子を立ち、介抱するキュウの後で心配そうな目で僕を見ていた。少し嬉しい。
「だ、大丈夫……」
突然の事にまだ頭が混乱しているけれど、歯が折れたとかはない。口を動かしていた途中に殴られたので衝撃で口の中が切れているくらい。黄昏は普段鍛えている訳でもないから脳震盪を起こすほどの威力は無かった。
「むしろ、打ち付けた所の方が痛いかな……」
不意打ちを喰らった格好になったので、背中と腰を壁に打ち付けた。持っていたギターケースがそばに転がっている。アコギはハードケースに入れているので、楽器は無事。他の機材を巻き込まなかったのも良かった。壊したら叔父さんに怒鳴られていた所じゃない。
「ったく!アイツ、バイク乗ってどっか行っちまいやがった……!」
肩を怒らせながら、憤懣やるかたないと言った感じでイッコーが戻って来る。
「またあの男……、勝手にしろ!!」
ドアの方を見つめながら苦々しく吐き捨てると、千夜は大股でドラムの前へ戻って行った。早速乱暴に叩き始めたので、キュウが慌ててブースのドアを閉める。
「だ〜っ、やかましい!!バカスカシンバル叩くんじゃねーよ!!」
癇癪を起こすイッコーに、千夜が手を止め強い目線で睨み返す。場の空気が一気に悪くなり、キュウが僕の頭を抱えていた手に少し力が入った。その刺激で口の中が痛む。
「あっ、ゴメン。そうだ、店長に救急箱出してもらうね」
僕に断りを入れ、キュウが立ち上がりブースの扉を開けて出て行く。すれ違いに肩を落とした愁ちゃんが、携帯電話を手に入って来た。
「ダメ、繋がらない……。黄昏、どうしちゃったのかな……」
消え入りそうな声で呟くその顔は見ていられない。昨日に続き二日連続のボイコットだから、心配で仕方無いんだろう。例え今から黄昏を追いかけ捕まえたとしても、今日の練習に出せる訳も無い。
僕はゆっくり立ち上がると、ギターケースを手にし自分の立ち位置へ移動した。アコギを取り出し準備を始めていると、戻って来たキュウが僕の手当をしてくれる。とりあえず、治療待ちをして貰った。殴られた個所が結構腫れているみたい。
「せっかく上手く転がったと思ったら、これかよ……」
ベースを爪弾き、イッコーが愚痴を漏らす。
「昨日はどうだったの?」
「どうっつっても、来なかったんだからわかんねー。青空と一緒」
「ごめん……」
顔を合わせると、罪の意識が再びせり出して来る。
「ま、二人来ないんならしゃーねーけどな。千夜もとっとと帰っちまうし」
そう言ってイッコーが視線を向けると、千夜は一瞥しただけで無視した。癇癪を内に溜め込んだ顔をしている。早く帰って受験勉強をしたいんだろう、試験の日時も迫って来ているから――改めて、悪い事をしたなと思う。
「千夜もごめん。無理に練習に付き合わせて……今日も無理しなくていいよ」
わざわざ予定日以外に来て貰ってすまないと謝まると、千夜は目を伏せ肩の力を抜いた。
「――無駄口叩く暇があるなら、早く治療を済ませて」
「ゴメンなさい、おねーさま〜。すぐ終わるから……ホラ、動いちゃダメダメ」
僕達の会話にイッコーが首を傾げている。そう言えば受験の事はまだ秘密にしていたんだっけ。そろそろみんなに話しておいた方がバンドの為にもいい気がする。
「よし、終わり!殴られた拍子に脳震盪とか起こしてない?」
「大丈夫、大丈夫。壁にぶつけた所も痛みは引いて来たし」
殴られた頬にガーゼを当てられ、この前の黄昏が腫らしていた顔を思い出す。
「でも上手いね、応急処置」
「他人の介護は得意なのです」
お世辞抜きで褒めると、鼻高々に胸を張る。ふと介護と言う言葉からいやらしい事を連想してしまい、まだ情欲が燻っている自分に少し滅入った。
「しっかし誰かさんの彼氏は、平気で場をかき回すわね」
救急箱を手に自分の椅子に戻るキュウが愁ちゃんに向け、当てつけるように言う。
「そんな言い方しなくたっていいじゃない」
「だってホントの事でしょ?アタシがマネージャー始めてからでも、半分くらい練習に出てないように思うわよ」
そこまで酷くは無いと思う。でも、二人と出会う前から問題は何回も出ていたし……。
「最初に会った時もそーだったけど、たそって性格悪い?」
「と言うより、自分の事で一杯一杯で他人に手が回らない感じかなあ」
弁護してみても、あまり言い訳になっていないような気もする。
「それってただの自己中じゃない」
そうとも言う。
「バンドってホント、ままならないものよね〜」
キュウが頭を掻き、乱暴に椅子に腰掛ける。隣で愁ちゃんがすっかりしょげていた。
「愁〜?たその専属マネージャーなんだから、首輪ぐらい繋いでなさいよ。第一、OKって昨日電話で言ってたでしょ?」
「言ったよ。言ったけど……」
膨れ面で詰め寄るキュウに、俯き加減で答える愁ちゃん。
「そんなっ、いきなりせーちゃん殴るなんて思いもしないもの。昨日もの凄く落ちこんでたけど、今日は自分から出るって言ってたよ」
「言ってたって、来たのもせーちゃん殴るためなんじゃないの?」
「そんな……こと……」
原因を追及するように、二人の視線が僕に向いた。イッコーと千夜も僕の言葉を待っている。頭の中で状況を整理してから、溜め息混じりに弁明を始めた。
「殴られた理由なんて、こっちの方が聞きたいよ……。打ち上げの日からずっと顔も合わせてないし、声も聞いていないのに。勿論、昨日だって」
みんなは昨日、僕達二人の間に何かあったのかと勘繰ったみたいだけど、何も無い。
「それは、黄昏は突飛な行動を取る時もあるけど……何の理由も無しに僕を殴ったりしないよ。言いたい事があったら、手より先にちゃんと口に出して言う人間だもの」
長年一緒にいる相手の事だから解る。
「じゃあ何の理由があったっつーん?」
「それが解らないから……思い当たる節も無いしね……」
喋ると咥内に刺したような痛みが走る。その度に僕の心は暗く沈んで行った。
「ここにいない人間の事をいつまで話していても時間が勿体ない。練習を始めるから」
千夜が鳴らすシンバルが意識を呼び戻す。イッコーも仕方無いとベースを担ぎ直し、自分の立ち位置に戻った。キュウもスケジュール帳をめくり、最後に3人でやった時の練習内容が書かれたページを開き直す。僕もほのかな期待は胸に閉じ込め、誰かが用意してくれた自分のエレキギターを握り、チューニングとアンプのつまみを確認する事にした。
「あ、あの――家に戻ってるかも知れないから、行って連れてきた方がいいですか?」
みんな冷たいと言いたげに、愁ちゃんが手を挙げこの場のみんなに訊く。
「ついこの前まで3人でやって来た。何の問題も無い」
千夜が強い口調で言い切ると、再びドラムに向かった。呆れ果てて怒る気力も無くなったのか、いい加減愛想を尽かしている。仲間に対してのその見切り方を僕は残念に思う。でもトラブルメーカーの黄昏を許せないでいる気持ちも痛いほど良く解った。
「別に帰ってもいいけど、また戻って来るかもしれないわよ?せーちゃん殴りに」
挑発するようにキュウが言うと、頭に来た愁ちゃんが椅子に座り直した。
「わかった。わたしここで、たそが戻ってくるの待ってるから」
「そんな無理しなくてもいいわよ?たその後追いかけてきなさいよ」
「いる!!ここにいるもん!」
一度言い出した事を頑固に引っ込めない愁ちゃん。でも目線はそわそわしていて、本当はキュウの言う通り追いかけたいんだろう。頬を膨らませ怒っている愁ちゃんを見て、キュウが意地悪く含み笑いしていた。何だかな……。
ますます悪くなる空気を吹き飛ばそうと、腰掛けたままリフを一つ弾いてみる。一日経っただけで随分ギターとの関係が変わってしまったように思えるのは、溢歌と過ごした時間のせいなのか。違和感を覚えつつ、立ち位置に行くとみんなに指示を出した。
「黄昏がいなくても、代わりに僕が唄うから。曲を固めるの中心で行こう」
僕の言葉にイッコーが目を丸くした。あれだけ唄うのが嫌と言っていたからだろう。でも、溢歌に自分の歌を褒められたおかげか、わがままな反抗心が無くなっていた。それに、黄昏が殴った原因が僕にあるのなら、責任を取らないといけないし。
とりあえず、前回のライヴで演奏した新曲を合わせる。黄昏のギターパートは無視する事にした。スタジオの中に僕達3人の鳴らした音が反響する。
慣れない歌を唄いながら、どこか浮遊感を感じていた。
楽器を鳴らしている時の感覚がこれまでと丸っきり違う。鳴らしている音色と音階は同じでも、上手く気持ちがはまらない。これまでと同じようにストライクを投げようとしたら、投げる球全てがボールになっているような……。
「なーんか違うんだよなぁ」
僕の違和感をイッコーも微妙に感じ取ったのか、一曲終わった後に首を傾げていた。
「せーちゃんが唄ってるからじゃない?」
「ん、ま〜、それもあんだけど……」
歯切れの悪い言葉を残し、イッコーが次の曲のベースを弾き始めた。
しかし曲調の違う曲を演奏しても、3人共どうにも乗り切れない。千夜も怒りのせいか無理に力が入っていて、僕達と同じリズムにならない。全員苛立ちを抱えたまま、3曲目に突入した。キュウも厳しい顔で僕達を見つめている。
たった一日のブランクが、一年以上休んだような違和感を感じてしまう。そんな短期間で演奏技術が落ちるはずも無い。なのに真新しいギターを使っているような、手に馴染まない感覚が付き纏う。むしろ僕の体そのものが、意識に追いついていない。
――いや。どうも、いつも抱いていたはずの音楽への情熱が僕の中で薄らいでいる。
これは溢歌のせい?全力を出しているつもりでも、70%ぐらいしか発揮できていない。
もがけばもがくほど悪い方向へ流されて行く気がしたので、別の事を考えるようにして意識を違う方向へ向けさせるようにした。これまで何度となく不調を経験しているので、こう言う場合にはどうすればいいか自分でも分かっている。
だけど今日の場合、その逃げ場所が無かった。
黄昏の事ばかり考えてしまい、余計に手が覚束なくなる。
どうして黄昏は僕を殴ったの?これまでに不満があった?いいや、それならとっくの昔に殴られているはず。前回のライヴ後でも、充実した顔を見せていたじゃない。そんな昨日今日で180度考えが変わってしまうような黄昏じゃない。
なら、僕が殴られる事をした?今日会うまで、バイトに出ていただけ。バンドのみんなを休ませる意味でも、連絡は取らないようにしていた。この一週間近くの間、大きな事があったと言えばバンドとは全く関係無い、溢歌との出会いだけ――
もしかして……。
そこまで考え、頭の中に引っ掛かっていた何かが繋がった。
「せーちゃん?」
「あ、ごめん……」
いつの間にやら、二人が演奏を止めていた。キュウが難しい顔で僕を見ている。どうやら考え事に没頭し、完全に口と腕が止まっていたらしい。
「じゃあ、もう一回頭から……」
「ダメダメダメダメ」
僕の言葉にすかさずキュウが駄目出しした。席を立ち、僕達に指示を与える。
「この曲は後回し。で、違う曲をイッコーが唄って。やるのはモチロンたその曲ね」
「ちょっ……なしてオレなん?」
「今の半分魂の抜けたせーちゃんに唄わせてもしょーがないじゃない。イッコーの曲、3人でやってる時に散々練習してたし、たそが戻ってきたんだから無理に合わせる必要ないでしょ。新曲だってないんだから」
「おーい、それじゃおれの曲がサブって言ってるよーなもんじゃねーか」
「言ってないわよ。練習する必要ないって言ってるだけよ。ライヴ前でもないのに」
「まー、そーだけどよー……なーんか暗に言われてるよーな気がしねー?」
「愚痴はいいから早く唄え」
「うるせえなっ!……わーったよ、つくづくオレっていいように使われてるよな」
千夜に文句を言われ仕方無く折れたイッコーが、不満を呟きながら別の曲のフレーズを弾き始めた。でも、イッコーの気持ちも解る。気の毒に思いつつ僕も後に続いた。
気の乗らないイッコーの歌声を耳にしながら、ぼんやりと考え事の続きをする。黄昏が僕を殴った理由、一つだけ思い当たる節があった。
もし黄昏が、僕より先に溢歌と出会ってしまっていたら?
「ほら、また手が止まってる」
また曲の途中でフレーズを弾き忘れ、キュウに怒られる。こんな時こそ僕がしっかりしないといけないのに、ピックを持つ手はますます重くなっていく。一度頭を過ぎった考えは、なかなか奥に引っ込んでくれなかった。
「だ〜っ!これならデモテープ相手に合わせてる方がマシだっつーの」
イッコーが頭を掻き毟り叫ぶこの言葉が、今日の出来を見事に表していた。
「かと言って昨日みたく時間ムダにするつもり?ハイハイ、次の曲!」
一つ歯車が狂うだけでこんなにも息苦しくなるのか。不安そうに僕達を見つめる愁ちゃんが不憫でならなかった。何度か帰るように促したけれど、黄昏が戻って来るかもと首を横に振った。おそらく自分が帰ってしまったら、全員の気持ちが切れてしまうと思ったからだろう。僕達はその気持ちに応えるように、終わりの時刻まで必死に練習を続けた。
「やっと終わった」
時間を使い切ると、疲れた顔でキュウが呟いた。結局今日は何の為に集まったのかよく分からないほど練習にならない一日で、全員の顔に疲労が濃く滲んでいた。
「来週、あの男が来なかったら私も練習に参加しないから」
それだけ言い残すと、千夜は労いの言葉も無しに早々と引き上げてしまった。普段からそんなものかけてくれないけれど、こう言う時には結構堪える。
「あ〜も〜、いっぺん殴った方がいいかな、あいつ。……って、じょーだんだって」
横から愁ちゃんに厳しい目で睨まれ、イッコーが笑って誤魔化す。
「ホント、『days』って躁鬱の激しいバンドよね〜。せーちゃんが気を落とすコトないわよ。また来週にでもなれば、みんな仲良くやってるはずだもの」
キュウの慰めの言葉が気休めにしか聞こえない。本人も分かって言っているのか、苦々しい顔を浮かべていた。僕の殴られた頬が染みるように痛む。
今日はこのままみんなでファミレスに行く事も無く、現地解散する事に決めた。来週もスタジオの予約は取っているけれど、この調子じゃ先は暗い。
最後まで付き合ってくれた愁ちゃんは黄昏の後を追いかけるように、イッコーはこれから別のスタジオで一人で練習して来ると言って帰ってしまった。キュウは手当した僕の頬を休憩室で改めて手当してくれた。汗でガーゼが剥がれ落ちそうになっていたらしい。
「……ねえ、今までにないくらい意気消沈してるけど、歩いて帰れる?このまま線路に飛び込みそうな顔してるわよ」
「大丈夫、平気平気。こう言う修羅場は慣れっこだし」
笑って言う自分の声がすっかり沈んでいるのが、恥ずかしいったらありゃしない。
「――何なら、一緒に帰らない?」
恐らくキュウは、単に僕の事を心配して言ってくれたんだろう。でも今の僕はありもしない言葉の裏を読んでしまい、家にいるはずの溢歌の顔が脳裏を過ぎった。
「いや、遠慮しとくよ。この後、用事があるから……」
思わず目を反らし、申し出を断る。その場から逃げ出すように席を立つと、店の電話を借り自宅へ連絡を取った。しかしどれだけ待てども、溢歌が電話に出る気配は無い。
寝ているのかな?そうは思いつつ、嫌な予感めいたものが胸の中に湧き起こる。
様々な種類の負の感情が胸の中に渦巻くのが分かる。受話器を握る僕の表情が余程切羽詰まっていたのか、キュウが心配そうに見つめていた。
別れの挨拶も無しに、自分のギターケースを引ったくるとスタジオから飛び出した。
――何をやってるんだ、僕は。
苛立ちと後悔に苛まれ、一秒でも早く家に向かって走る。
全身から嫌な汗が滲み、呼吸は乱れ、背中に担いだギター二本と手に抱えたアコギのケースがやけに重く感じ、今すぐにでも投げ捨てたい気分になる。全部無理して持って帰らなければ良かったと後悔しつつ、歩幅狭い駆け足で歩道を走り続けた。
早く帰って溢歌に会いたい。そばにいる事を確かめたい。でももし、いなかったら?
そんな不安をかき消すようにひたすら走る。息も絶え絶えで顎が上がり、視界に夜空が飛び込んで来る。分厚い雲が三日月を完全に覆い隠し、辺りは真っ暗になった。やがて限界を感じ、一旦休憩してその場でしばらく夜風に晒される。
一旦、頭を冷やそう。流れが悪い方向へ傾いてしまい、冷静に考えるのもままならなくなっている。何も焦る事は無い。溢歌はきっと僕の事を待っててくれている。
視界に移る街の灯りがやけに眩しく、虚ろに見える。とても現実感が無く、幻想的な溢歌と一緒にいる方が僕の中では現実に思えた。
こんな事なら、溢歌を連れて来れば良かった。いやそれ以前に、練習に出なければ良かった。黄昏に殴られる事も無かったのに。
嫌な汗が噴き出る。祈るように願いながら、家路を急いだ。
しかしその想いも、現実は容赦無く切り捨てた。
溢歌は家にいなかった。思わず手に持っていたギターケースを落としてしまう。
電車の窓から家の裏庭を横切る時に目を凝らし灯りを確認した時には、電気はついていなかった。まだ寝ているものと思い、胸を撫で下ろしていたのに。
玄関に辿り着いた時、扉の向こうに人の気配はしなかった。ただ鍵はかけられていたので、鍵を外しドアノブを引くのももどかしいくらい勢い良く自宅に雪崩れ込む。部屋の閉められたスライド扉を力一杯に開けると、そこに人影は見当たらなかった。
胸の中に空洞が開いたような気持ちになり、心の底から肩を落とす。一旦その場で気持ちの整理をつけてから、閉められたカーテンを開け、部屋の電気をつけた。
夕方までの熱さが嘘のように抜け切った空間が広がっている。その中で孤独な自分を感じ、言い様の無いほどの後悔の念が僕に襲いかかった。
そのまま壁に頭を打ち付けたい気持ちを抑え、溢歌がいない事を改めて確認する。まるで最初からここへ来ていなかったように、部屋の中はからっぽ。
呆然となりつつ力無く周囲を見回すと、携帯電話が目に入った。書き置きも一緒に残されていて、手つかずのまま。部屋の中は何も荒らされてなく、大事な物には手を付けた形跡も無い。溢歌の姿だけが、ただそこから消えていた。
どこへ行ったのか。書き置きを見ているなら、僕を捜しに外へ出たなんて事は無いだろう。何か買い物でもしに出掛けているのか。でも財布は持っていないはず。
考えを巡らせていると、一つの事に思い当たった。しかしそれは、信じたくない。
大きく深呼吸をし、ベランダの外を覗く。掛けてあるはずの、出会った時に羽織っていたジャケットが見当たらなかった。
やっぱり……。
まさかと思っていた事が現実のようで、ショックを受ける。殴られた頬の痛みが増し、僕の頭の中を何度も切り裂く。全ての事が一つに繋がり、溜め息も出ない。
でもまだ推測の域は出ないし、本人に訊くまでこの事で気を落とすのは止めよう。更に暗くなるばかりで、このままだと自分の心が壊れてしまう。
今すぐ後を追いかけた方がいいのか。でもどこにいるのか……もしかするとあの岩場にいるかも知れないと思い、自転車の鍵を掴むとすぐさま出掛ける準備をする。
そこでふと、戻って来た時に玄関の鍵が掛かっていた事を思い出した。
確認してみると、いつも小棚に入れてあるはずの予備の鍵が無くなっていた。溢歌が出る前に、鍵をかけてくれたらしい。念の為玄関前に残ってないか探してみても見つからなかった。
と言う事は、またここへ戻って来る意志があるのか。ほんの僅かな一縷の望みが僕の心を落ち着かせる。
今日の僕は、間違えた選択をしてしまった。でも、これで終わりじゃない。
少し休んでから、岩場へ行こう。彼女を探しに。きっとあそこにいるはずだから。
安心したのか気力が途切れ、ガソリンが切れたように敷きっ放しの布団の上に倒れ込む。そのシーツには、シャンプーの匂いが今も染み込んでいた。
ごめんね、溢歌。
心の中で何度も謝りながら、シーツに頬を埋める。かつてない後悔の念と罪悪感に包まれているうちに、いつしか僕の意識は途切れていた。