083.赤い糸
ベランダから、太陽の光が射し込んで来ていた。
朝を知らせる雀も鳴いていない。と言うか、この部屋に日光が射し込むのは正午を回ってからなので、半日以上眠ってしまった事になる。
服は昨日のままで、布団の上に倒れ込んでからの記憶が無い。溜まっていた疲れと磨り減っていた神経のせいか脳が強制的に休息を取ったらしい。
――しまった!
今の状況に気付き、心臓が一際大きく高鳴った。溢歌を探しに行かないと!
……と、慌てて立ち上がるも、今岩場に行ってもいるのかどうか。それなら少し待ち、夕方に行ってみた方がいるような気がして、すぐに冷静さを取り戻した。
改めて、部屋の中を見回す。二日前までと全く同じ景色で、溢歌の存在が夢に思えてしまった。妙に心が落ち着いているのは、彼女の感触を、匂いを、温度を覚えているから。からっぽになった部屋なのに、心の中は満たされている感じがあった。
頭が回らないまま、風呂を沸かしに行く。水を貯める所から準備するので時間はかかるけれど、昨日ギターを3本持って歩き回ったせいか体の節々が痛く、動く気になれないのでちょうどいい。浴槽に水が張るまで布団の上に寝転がり、時が過ぎるのを待った。
口の中がまだ痛む。布団に染み付いていた香りはすっかり抜けてしまっている。
まだ眠気が取れずにいる中でも、今の状況は冷静に捉える事ができた。
不思議と焦りは無い。今日もまた、溢歌と会える予感があったから。顔を合わせた時にどんな言い訳をしようか、のんびりと言葉を頭の中で選んでいた。
風呂場の方から水が零れる音が聞こえたので、立ち上がり蛇口を捻りに行く。その時、机の上に置かれたままの携帯電話が視線の中に入った。
ガスを点火しながら考える。黄昏に電話をした方がいいのか。
僕を殴った理由を本人に訊くのが一番手っ取り早い。ただ、出るかどうか。留守録を入れると録音再生した時に黄昏が携帯を壊してしまいそうな気もしたので、止めておく事にした。向こうから連絡を入れて来る事はこれまでに一度も無いから、有り得ないか。何かあれば愁ちゃん経由でキュウから電話が来るだろう。
昨日はキュウに悪い事をした。イッコーにも、千夜にも。黄昏に殴られたショックは大きかったけれど、それ以上に自分が自分でいられなくなっていた。
ギターとの距離が離れてしまったような気がしたんだ。
手を伸ばし、自分のエレキギターを掴むと布団の上であぐらをかき、そのままピック無しで適当にアルペジオを弾く。アンプを繋いでなくても、このエレキはいい音を鳴らす。
楽器を手にした時にいつも感じている、切迫感に似た緊張が薄らいでいる。それがいい事なのか悪い事なのか、自分にはよく判らない。アドリブも簡単に、落ち着き弾けるのはいいけれどどこか物足りない感じがする。
これは、大人になったからなのかな?
妙に冷めた自分がいる。その一方で、溢歌への想いは胸の大部分を占め、熱い。
興味の対象が移ったからなのか。いや、むしろこれまでが音楽に入れ込み過ぎていたのか。四六時中バンドの事を考えていた自分が遠い昔に思えてしまうくらい、心の中がこれまでと違っている。黄昏やイッコーや千夜の事も、一歩距離を置いて見ていられる。
とは言え、来週も練習がある。一月後にはライヴも控えているし、また以前までの状態に逆戻りする訳にもいかない。そろそろ千夜の受験も近いから活動はしばらく休止すると思うので、それまでに4人で何の問題も無く演奏できる状態にしておきたい。
しかしここからどうやって、黄昏と仲直りすればいいのやら。
一人で考えても解決策は見つからない。だから、相談しなきゃ。溢歌に。
「やばっ」
ふと風呂を沸かしっ放しにしていた事を思い出し、慌ててガスを止めに行く。多少熱かったので水を少し加え、適当な温度になった所で着ていた服を脱いだ。体をしっかり洗い、疲れを取る為にのんびりと湯船に浸かる。急いだ所で、頭が混乱するだけだもの。
湯船から出て仕度をし、家を出る頃にはアスファルトも暖まっていた。太陽の光と空気の色、街並の景色は秋の到来を感じても、外はほんのり温かい。昨日と違い手ぶらで駅に向かい、岩場へ目指し歩き始めた。お腹も空いていたので、途中で適当に食べ物を買う。
スタジオへは顔を出さず、一直線に沿岸へ向かう。昨日は空を覆っていた雲も随分流され、気持ちのいい青空が広がっていた。遠くに見える大海原も、昨夜の怖い顔とは違う。きっと溢歌も岩場から、穏やかなきらめく海でも眺めている事だろう。
――その予感は、つい笑ってしまうほどあっさりと的中してしまった。
「いた」
思わず声を上げると、海を眺めていた溢歌が振り向く。
「あら」
目を丸くし僕を見るその顔は、喜びも怒りも浮かばず、ただ普通に驚いていた。
「元気?何も食べてなかったみたいだけど」
「一応、来る前に……昨日一昨日は空腹も忘れるくらい大変だったけどね」
道の途中で食べたメロンパンが、実に二日振りの食事。動きっ放しでいたから、ダイエットにはなったかも。溢歌は僕と別れた後、何か食べたのかな?
「顔の傷は?」
いきなりそこに話を振られ、頭が混乱し出した。家の救急箱にガーゼが入ってなく、殴られた跡は塗り薬を塗ると余計目立つのでそのまま放置してある。
「えっと、その……」
事前に考えていたはずのパターン毎の言葉が全て吹き飛ぶ。黄昏の名前を出していいものかどうか。しかし今日も溢歌は、前と同じジャケットを――
「服、どうしたの?」
改めて頭の上から足下までを眺める。似合わない革靴、脛の部分がだぶだぶの革ズボン、同じくサイズの合わないYシャツ、そしてジャケット。
どこかで見慣れた服の上下に、思わず立ち眩みを起こした。
「借り物よ、借り物。着てた服は洗濯中」
笑って答える溢歌とは対照的に、僕の心は酷く沈んでいた。これだと、訊くまでも無い。
昨日、溢歌は、黄昏の家に、行ったんだ。僕がいない間に。
立ち眩みが襲って来て、後ろに倒れ込みそうになるのを必死で堪える。
何ならいっその事、本物の妖精であった方が良かったとさえ思えてくる。現実は容赦無く僕を裏切った。いや、裏切ったのは僕の方か。
「ごめん、昨日は……」
相手の姿を見るのも辛い。俯いたまま謝罪の言葉を搾り出すと、溢歌の笑い声がした。
「あら、謝るのは私の方よ。ごめんなさい、勝手に出て行っちゃって」
「僕の方こそ……昨日は休みだって言ったのに……」
「用事があったなら仕方ないわ。目を覚ました時は心細かったけど」
小さな棘のある言い方も、自分には深々と突き刺さる。頭を垂れているそんな僕を見て、可笑しそうに溢歌が笑っていた。
「はい。合い鍵、勝手に持っていっちゃったけど」
頭を上げる僕に優しく微笑むと、ジャケットのポケットから僕の家の鍵を取り出してみせる。手渡して来る溢歌に、やんわりと手を振った。
「いいよ、持ってて。溢歌に持ってて欲しいんだ」
「ふーん」
そう言うと、溢歌は合い鍵を握り締め、振り向き様に大海原目がけ大きく振りかぶった。突然の事に真っ青になり、慌てて後からその手を引き留める。
「冗談だってば。慌てんぼさん」
背筋が凍るほど冷汗をかく僕に、声を上げ笑ってみせる。無邪気なその顔が冗談に思えないから怖い。溢歌と一緒にいて思う事は、全身で喜怒哀楽を見せるのに、考えている事がよく分からない。そこが彼女の魅力の一つなのは間違いないんだけど……。
とにかく、また出会えて良かった。
「ここから見える景色は、好き?」
溢歌の隣へ行き、海を眺めながら訊いてみた。今日もまた、ここにいるから。
「いつもは、太陽が沈んでからここに来るの」
ポケットに鍵を直し、腰を下ろすと体育座りをする。僕も同じように岩肌に座った。太陽が出ているおかげか、お尻がほんのり温かい。
「昨日は?」
「来てないわ」
視線は真っ直ぐ海を見据えたまま、即答する。
「お月さまだってほとんど見えてないのに、危なすぎるもの。投身自殺するなら別だけど」
それもそうか。家に帰った時は岩場まで探しに行こうと思ったけれど結果的には良かったのかも。疲れた体を引きずり無理してここに来ていたら、自分が危なかったかな。
岩場の先端は横に幅があるし、海面とは高低差もあり苔も生えていないので、足下が滑り易い事も無い。ただ辿り着くまでに大回りしないといけない上、高い段差で登れるルートも限られているので余程の物好きでないと来ようと思わないだろう。
「書き置き、読んでくれた?」
「……あんな書き置き一つで、女の子をキープできたと思ったら大間違いよ」
僕の顔を見ながら意地悪そうに笑う。
「それに普段使ってる電話を持っていくわけにもいかないでしょう?」
「別に構わないけどね」
「知り合ったばかりの女の子を一晩泊めちゃって。不用心過ぎるとすぐ狙われるわよ」
からかうように言われ、僕も苦笑するしか無かった。もし彼女が泥棒なら、あっさり部屋を荒らされてたろう。
「そう言えば、お金持ってたっけ?」
「必要のない時以外、財布は持ち歩かない主義なの」
なら昨日は家を出た後、ずっと歩いていたんだろうか。
僕の家から近所の河川を下って行けば迷う事無しに海に出れるとは言え、かなりの距離がある。ベランダから海が見えてもちょうど坂になっていて周囲に視界を遮る建物が無いだけで、普通の町中と言っていい。
それに黄昏のいる水海までだと、歩いてなら2時間以上は優にかかるはず。陽の沈んだ寒い夜道を一人、延々と水海目指し歩いたんだろうか。
黄昏に会いに行く為に。そう思うと、複雑でやるせない気分になった。
――あれ、でも黄昏はスタジオから出て行った後、バイクでどこかへ……。
もしかして、溢歌を迎えに行ったのかな。でもそれだと、愁ちゃんを置いてけぼりにした事になる。あれ、でも昨日はあの後黄昏の家に行くって――それとも、今日は平日で学校があるから昨夜様子を見に行く事はしないかな?家に泊まるなんて事、もしあればキュウから内緒話を聞かされそうなものなのに。けれど、溢歌の着ている服を見ると、昨日は僕が家で意識を失っている間に、黄昏と一緒にいた事は間違い無い訳で――
まさか、二股?
思わずそこで思考が停止してしまった。女性嫌いの黄昏がそこまで甲斐性のある人間とも思えないし。それを言えば僕だって、見ず知らずの女性と一夜を過ごす性格でも無かったけれど。とは言え、僕が虜になった子が別の男性といると、勿論いい気はしない。
……はずなんだけど、普通は。
不思議と嫉妬心が浮かばないのはどうしてだろう?黄昏の方がルックスが良く、彼女を取られても仕方無い、と常日頃から思っている訳でもない。殴られた傷は今も痛んでも、やり返そうとか憎らしい気持ちや怒りの感情は起こらなかった。
僕だって大して人間ができている訳でも無い。溢歌を僕のものと主張するまでは行かなくても、持ち去られるのをただ黙って指を咥えて見ているお馬鹿さんでもない。
なのに焦る事も無く、溢歌が僕の前に姿を現してくれると思っている。そして現に今日もこうしてこの場所で会えた。僕達二人は運命の赤い糸で結ばれていると、心のどこかで信じていたりするからかな?
そして――ふわりふわりと現実から浮いている溢歌の存在が、肌を重ね合った今でも幻のように思えてしまうから。
僕の気持ちに気付かず、溢歌はただ海を見つめている。表情の無いその顔の下はどんな気持ちでいるのか、知りたくても読み取る事さえままならない。
肩を寄せ合うように、一歩分溢歌の方へ近づく。すると溢歌もお尻を上げ、同じ間隔を取ろうと離れた。更に間合いを詰めると、また逃げて行く。何度か繰り返していると、このまま行けば横側の切り立った崖に転落してしまう位置まで詰め寄った。
「落ちるじゃない」
「だって、君が逃げて行くから」
「何も言わずに近づいてきたら、逃げるわ」
「じゃあ、肩を組ませて」
恥ずかしがらずに答えると、最初の位置で希望に応えてくれた。パーカー越しに溢歌の柔らかく豊かな髪の感触を腕で感じる。思わず喉を撫でたくなり顎下を指でくすぐると、猫みたいに喉を鳴らし僕に体をすり寄せて来てくれた。わざとなのに、その仕草がとても可愛らしい。僕の気持ちを全て読んでいるかのようで、目が離せなくなる。
昨日感じていた後悔や自分への怒りが、嘘のように静まっていくのが解る。季節は秋なのに、春が訪れたような錯覚を覚える。溢歌といる事で、こんなに満たされた気持ちになるなんて。この感情が恋なのか、愛なのか。心の空白の部分にぴったりとはまる。
まだまだこの少女と交わした会話は数えるほどで、内容を全て記憶しているくらい。なのに何年も一緒にバンドを組んでいるイッコーや千夜よりも、幼馴染みの黄昏と同じくらい僕の気持ちを掴まえ、離さない。
溢歌の事をもっと知りたい。出会わなかったこれまでの時間を埋めるように、隅から隅まで、大切な秘密の扉さえこじ開けてしまいたい。そこまで相手に圧し掛かると嫌がられてしまうと思うけれど、僕の秘密なら全て彼女に打ち明けてしまってもいい。
でもその前に、きちんと整理をつけておかなければならない事が一つあった。
「ねえ、溢歌」
「何?馴れ馴れしく名前で呼んでくれちゃって」
「あ、ゴメン。つい……」
「いいわよ。もう私達はかしこまる間柄でもないでしょ?最初の日からだけれど」
相手の口からそう言われるとかなり恥ずかしいものがある。照れ隠しに薄水色の空を見上げていると、また訊きそびれた事に気付いた。
「今日は定期船の数が多いわね」
「そうだね。たまに汽笛が聞こえる事があるよ。昨日よりも暖かくて、いい天気」
「そろそろ冷え込んでくるわ。冬なんて昼間でも立っていられないくらい」
「冬場に来る事は無いね……春までこの岩場の事も忘れちゃうんだ」
なかなか、黄昏の事を言い出せない。向こうから話してくれる様子も無いので、このまま押し込めてしまおうかとも思う。肝心な時に駄目な意気地の無い自分が情けない。
「たまにね」
一言置き、溢歌が水平線を指差した。
「海の向こうへ行ってみたいと思うの。ひたすら泳いで、世界の果てへ」
他人が聞けば自殺願望にも取れるその言葉を、僕はとても空想的に捉えた。黄昏が僕と出会う前、何度も何度も現実が来ない事を願いながら眠りについていたと言っていたのを思い出す。その言葉に隠された意味は、逃避なのか。
「あるのは別の大陸だよ」
「それでもいいの。何か新しい事が待っていそうな気がするじゃない?」
溢歌に言われると、素直にそう思えて来る。僕が新しい自分に生まれ変わりたくて、ギターを手にした気持ちと同じなのかも知れない。
と言う事は、常に溢歌も何かに悩まされているの?
思わず訊いてしまいたくなるのを堪え、適当に違う話題を探し出す。
「外国へ行った事は無いの?恥ずかしながら僕はこの年でも、無いけどね」
「――何とも言えないわ」
気軽に訊いた質問が、溢歌の何かに触れたのか急にだんまりを決め込んだ。千夜といい溢歌といい、女の子は他人に触れられたくない秘密を持っているのかな。
互いの距離は近いのに、しばらくどちらも言葉に詰まり、会話が無くなる。岩場に打ち付ける波の音と、後で車の行き交う音が気まずい間を和らげてくれるのが有り難い。空を見上げると、随分太陽の位置が低くなっている事に気付いた。夏の時はどれだけ手を伸ばしても届かないほど高い位置から地上を照らしているのに、季節が移り変わるにつれ高度が落ち、日射しも柔らかくなる。家を出てから随分時間が経っているみたい。
「それより、恋しくならない?」
「えっ?」
不意に呟いた溢歌が、横から僕の膝上に頭を埋めて来た。この後の展開をすぐに想像して、体内の血液が一気に沸騰する。こ、こんな所で!?
「駄目だよ、まだ明るいし、人目もあるし……!」
「遠くから見てると、男女が寄り添っているようにしか見えないわ」
問答無用で僕のジッパーに手をかける。慌てて360度首を回してみると、幸いにも肉眼で確認できる部分に人影は見当たらなかった。
段取り良く手慣れた動きで開放すると、熱い息を吹きかけてから、一口で食べた。混乱と興奮と快感で気が狂いそうになる。大声を上げたくなるのを我慢し、息を殺した。
誰かに見られているかもと言う焦りと、何も遮るものが無い所でする解放感、溢歌の頬の裏と舌の動き。それらが何重にも重なり、僕を果てへ導いて行く。
もう、黄昏の事なんてどうでもよくなってしまった。何て現金なんだろう、僕は。
それが溢歌の狙いなのかも知れない。でも、この気持ち良さには逆らえなかった。
――全身の力が抜け、後に倒れそうになる体を両腕で支える。女の子って、卑怯。男の子をこんなにも簡単に気持ち良くさせるなんて。
息も絶え絶えになっている僕から離れ、溢歌が垂れ落ちた髪を手で払う。
「今日の、お昼ごはん」
一度大きく喉を鳴らすと、僕の目を見つめ満足げに笑ってみせる。歪んだ唇は行為の後なのに一つも汚れていない。その表情と言葉だけで僕の頭は臨界点に達してしまい、何かが爆発する音が聞こえた。したい、したい、したい。
「焦らないで。キミの食事はちゃんと別の場所に用意してあるから」
この子は、男に意地悪するのが上手い。生まれつきの天性なのか、たくさんの経験の賜物なのかは判らない。でも悔しいけれど、簡単に僕は屈服してしまう。
立ち上がり先に岩場を降りる溢歌。僕も衣服を正し、今すぐにでも後から飛びかかりたい気持ちを必死で押さえ込み、後に続く。まるで世界が薔薇色に見えた。
「そう言えば、学校は?今日は平日だけど」
「私にはそんなもの、関係無いわ」
「もしかして今、家出してる?」
「そんなところ」
「髪の毛、綺麗だよね」
「ここまで長いと手入れも大変なのよ。痛めると戻すのに時間かかるもの」
洞窟への道程の間、気分を紛らわそうと話題を振る。色々と重要な事を言っているような気もしたけれど、冷静で無い今の僕は全ての問題を後回しにしてしまう。
ひんやりと冷えた洞窟。一歩踏み入れた所で、僕は我慢できずその背中に抱き着いた。
「そんなにがっつかなくても、逃げはしないわ」
後はただ、二人欲情に流されたまま、悦楽の果てへ。
何て自分はいやらしい人間なんだろう。こんな姿、千夜達に見られたら心の底から幻滅されてしまうに違いない。場数を踏んでいるキュウだって引いてしまうかも。
岩場の上で溢歌が誘ってしまったせいで、脳味噌のネジが外れてしまったらしい。一度自分の手から離れてしまったものが戻って来たから、余計に離したくない気持ちが強くなった。溢歌に対する情熱が、そのまま性欲に移し替えられていく。
もしかすると溢歌は、今の僕みたいにここで黄昏と交わったのかも知れない。その身体と唇で、たっぷりと味わい尽くしたのかも知れない。
普通なら引いてしまうその考えも、むしろ僕には快楽を増す一要素に過ぎなかった。
変な意味になるけれど、溢歌に黄昏の姿を重ねている。もし黄昏が女性だったら――
一度は考えた事のある馬鹿げた妄想が、とても似た雰囲気を持つ溢歌と重なり合っていると現実のものとなってしまったように思える。我ながら、どこか変態染みている。
溢歌は僕の性欲を全て受け止めてくれる器になっていた。そして溢歌の方も、底無しに僕を求める。このまま精根尽き果てるまで、ここで交わっていたかった。
けれど、そう言う訳にもいかない。先に、溢歌が切り出した。
「私、帰らないと」
僕の上に跨っている最中に突然冷静な顔で呟くものだから、こちらも我に返った。外に見える空の色も随分変わっている。このまま続けると、日が落ち帰れなくなるまで抱き合っているに決まっている。状況を見つめ、頭を冷やした方がいい。
――でも、溢歌は一体どこへ帰るつもり?
「一緒にはいられないの?」
「今日は、無理なの……」
僕の願いを少女は聞き入れてくれなかった。その理由は訊かなくても解る。
今まで抱かなかった黄昏への嫉妬心が胸の中に生まれて来る。ただそれは溢歌を奪われてしまうかもと言う危惧じゃなく、一緒にいる時間を奪われてしまう悔しさと怒り。
けれど、僕は彼女を止める事をできないと知っていた。溢歌は、溢歌だから。まだ僕のものじゃないから。それはまるで、掴まえては手の中をすり抜けて行く綿花のよう。
彼女を繋ぎ止める足枷が欲しい。そう思い、僕の身体の良さを相手の心と身体に刻みつける為に全力を使い、溢歌を抱いた。どんな時も僕を忘れずにいて欲しいと願って。
「安心して。明日もまた、ここに来るから」
燃え上がり墨になってしまった僕に、溢歌が服を着ながら優しく諭す。その言葉を疑いも無しに心の底から信じられる自分がとても愚か者に思えた。
「そうなんだ……。じゃあ、今と同じくらいの時間でいいかな?バイトの休憩時間に、走って会いに来るよ。それに、僕が休みの日にはまた、家にでも気軽に来ればいいし」
つい先走ってしまう悪い癖が出てしまう。けれどそれだけ、今は溢歌と一緒に時を過ごしたいと思う気持ちが一杯に膨らんでいる証でもあった。
答えを待っていると、溢歌が近づいて来て僕の耳に小さく息を吹きかける。
「青空クンって、本当に優しいのね」
耳が赤くなるまで照れてしまう。これが千夜なら、お節介と言われ嫌われていただろう。
「そ、そうかな……」
「優しすぎて、もたれかかっちゃいそう」
そう言って本当に僕の胸にもたれかかる。帰る準備はできているのに、飽きもせずこのまま押し倒してしまいそうな衝動に駆られた。
と、冗談で言っているはずの溢歌の表情がどこか曇って見えた気がした。
「いいよ。僕の肩ぐらいならいつでも貸してあげるよ」
「プロポーズの言葉みたいな事言うのね」
慰めのつもりで声をかけると、今の表情はどこへやら、鼻歌交じりにあしらわれた。けれど溢歌のその言葉も真に受けてしまいそうなほど、僕の頭は彼女で一杯になっていた。
洞窟を出る時に、溢歌へ僕の手を差し出す。プロポーズとは行かないまでも、君を求めている。僕の気持ちを精一杯にその行動に表した。
今までに見た事の無い照れた表情を浮かべ、恥ずかしさを隠そうと視線を反らしたまま、その手を受け取ってくれる。思わず飛び上がりたい気持ちを堪え、僕は無限大の喜びと感謝を笑顔に込めた。頬を膨らませ顔を背けるその仕草が、とても女の子らしく見えた。
実の所、手を繋いでいると危ないからと笑って断られるものと思っていた。現に岩場を歩く途中、慣れない行動に何度もバランスを崩してしまう。それでも大きな段差以外では、溢歌の方から手を取ってくれていた。その温もりが僕の心に光を当ててくれる。
港に降りた所で、溢歌が僕の手を離した。楽しかった時間も、もう終わり。
「昨日は本当にごめん。次、同じ事があった時には、一緒にいるから」
別れる前にもう一度頭を下げる。何度口にしても心の中の罪悪感は拭い切れない。それでもあの時の行動は間違っていたと伝えておきたい。
「大切なものを捨ててでも?」
真剣な顔で問われ、脳裏に様々な人の顔と、思い出が過ぎる。
「――うん。」
二つを天秤にかけ、すぐに結論が出る訳が無い。ただ、言葉に詰まり返答するのが遅れると自分の言った言葉が嘘になるので、勢いに任せ頷いた。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。上目遣いに僕の目を真っ直ぐ見つめて来るので、口の中に溜まる唾を飲み込み視線を反らさず見つめ返した。僕の心の中まで見透かされているようで、冷汗が出て来る。
「ダメよ、そこまで断定しちゃ。相手がますますつけ上がっちゃうわよ?」
いい加減耐え切れなくなった時、溢歌が満面の笑みを見せた。何だかキュウに言われてるみたい。
「でも、嬉しい。ありがとう、青空クン。好きよ」
不意のその言葉に、全身の血が逆流した。頭が眩み、後にバランスを崩す。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……。ちょっと今の言葉、破壊力があり過ぎたみたい……」
面と向かい女の子にその意味で言われるのは初めてかも知れない。地面に片膝を付き鼻を押さえている僕はどこまでも純情なんだと思う。口元を押さえ可笑しそうに笑う溢歌を見ていると、それでもいい気がした。
「それじゃ、そろそろ行きますか」
随分高度の下がった夕日を眺め、溢歌が言う。洞窟の中にいたせいか、時間が飛んだ錯覚がする。とても長く、あっと言う間の二人の時間。
これから黄昏の家に行くの?と訊きたかった事を、口にはできなかった。電車かバスで行くのか、歩いて行くのか、自分の家に帰るのか。どれかは判らないけれど、今日はここでお別れらしい。後を追いかけるのも野暮だろう、男なら。
「じゃあ、ここで見送るよ。僕はもう少し、ここで夕日を眺めていたいから」
「気を遣ってくれてありがと。明日はちゃんと、ワンピース着て来るからね」
溢歌のその言葉を聞き、はにかむ。素直に喜べないのは、僕の気持ちを察してくれたから。有り難いのはこちらの方だよ。
立ち尽くす僕の首に溢歌が腕を回すと、傷のある頬に軽くキスをして、離れた。
「早く治るおまじない。また明日、会いましょう」
済まし顔で手を振り、早足で堤防の階段を駆け上がって行く。その姿を僕は下から見えなくなるまで眺めていた。やっぱり、ワンピースの方がいいな。
溢歌の姿が僕の視界から完全に消え去った後、ちょうど海の方から貨物船の汽笛が聞こえた。オレンジ色に染まった空を見上げれば、金星が輝いて見える。
寂しさは不思議と感じなかった。むしろしばしの間お預けを食らった分、明日への期待で胸が膨らんでいる。全身を取り巻く身体の疲れも、今は心地良い。
水平線の上で大きく輝く赤い夕日と同じように、僕は溢歌から目が離せないでいる。