085.爪弾くように
「ハタから見ればデートしてるみたいよね、アタシ達」
「そう言う事は言わないでよ……」
他人の目から見たらその通りなのかも知れないけれど、勿論僕とキュウは恋人でも何でもなく、バンドのリーダーとそのコアなファン兼マネージャーとの関係である。
夜になり賑わい始めたサンドイッチのチェーン点。まだバンドが3人の時、千夜に加入して欲しいとここで食事をしながら説得した思い出が印象強い。嫌がるのを無理矢理後をつけて行った、今からして見れば物凄く怪しい行動だったと客観的に振り返って思う。
叔父さんのスタジオへ行く為にここの駅前は数え切れないほど来ている。たったの2年で随分街の景色も変わったと、大きな窓ガラスの外に広がる夜の街並を眺め感じた。
店の移り変わりが激しいのは、最近の景気のせいなのか。潰れる店の横を通り過ぎる度に、心優しい僕は胸が痛む。とは言えそこで買い物なんて一度もした事が無いくせに……。
「いたたた」
物思いに耽っていると、腕を伸ばして来た向かいの席のキュウに耳を引っ張られた。
「女の子といる時にヨソ見はいくない」
「すいません……」
とは言え、久し振りのキュウとの一対一、みんなが周りにいない分、相手の顔ばかり見ているのも照れ臭い。溢歌と出会ってからでも、根本的な性格は変わっていない自分。
「どうも、その服だと余計にね……」
目を反らしながら言い訳混じりに呟く。学校からの帰りでそのまま来てくれたから、キュウは緑の制服(ブレザー)を着ていた。
「そんな、援交してるワケじゃあるまいし」
笑ってキュウが言うものの、僕はもう学生でもないので、やっぱり援助交際なのではないだろうか。やましい気持ちがある訳でも無いのに後ろめたい気分が付き纏うので、事務的に用件を手早く済ませ、早く帰りたかった。
今日は約束通り溢歌と休憩時間中に会えた。往復するだけでも10分程度かかるので、岩場で出会うとそのまま洞窟へ向かい、そこから昨日と同じ流れ。おそらく明日は陸地から見えない位置でもしてしまいそうで、最後には岩場の上で人目構わず繋がりそうで怖い。
「む〜、これは難しい問題だわね……」
僕の渡した手紙――委員会からの封筒に入っていた物――とにらめっこしながら、難しい顔でキュウが呟く。どうも喋らないと僕も溢歌との逢瀬ばかり思い返してしまうので、気を入れ直した。鼻の下を伸ばしている所を見られるとまた何を言われるか……。
「そうは書いてあるけど、断る事はできると思う。強制力なんて無いし、向こうが勝手に決めつけて書面で送って来ているだけだから」
自分で説明しながらどこかの詐欺事件のように感じてしまう。実際は詐欺でも無く、社会を知らない学園祭執行部が一方的に悪い。
仕事前にかけた電話でキュウにはとりあえず一通り説明してある。
「で、他の出るバンドは何て?」
「みんな怒ってるみたいだけど、学園祭には出るつもりでいるって。でも、その前の土曜のライヴはどうするか、考え中。チケット払い戻しで、別のライヴをその日に入れるか、突発的なイベントをやるか――それは他のバンドの人達が店の人と話し合っている所。今回の対バンは僕達、元々お呼ばれで組んでいたものだしね、任せるしかないよ」
難しい問題なので、僕達だけでも決められない。もし出る事になっても、4人揃わないかも知れないから困っている。
「千夜には電話を入れた?」
「それがね、おねーさまと全然連絡が取れないの」
キュウは困った顔で首を横に振る。僕の方を指差して来たので、同じ仕草で返す。
「せーちゃんもムリ?留守録はよくあっても、電源まで切ってるみたいだし……」
前にも連絡が取れない時があったっけ。家がどこにあるのかも知らないから、向こうから切られるとこちらからは連絡の仕様が無い。それを言うなら、僕も同じか。
言うべきかどうか少し迷ったけれど、いい加減隠していても仕方無い。
「多分、千夜は邪魔されたくないんだと思う。キュウには言ってなかったけど……」
口止めされているものの、キュウにだけは言っておいた方がいい。
「大学行くの!?おねーさま」
驚きの表情で目を丸くするキュウに、千夜が大学を受験する事と、推薦入試が間近に控えている事、そして年明けには一旦バンドを休ませる事を打ち明けた。
「どーしてそーゆー重要なコトをアタシに言わないワケ?」
「一応本番は年が明けてからの一般入試って言ってたから、それまでは普段通りにバンド活動をしたかったんだと思う。夏間にたくさんライヴを入れてたから、秋の間はゆとりを持って、間隔を開けて上手くスケジュールを組めていたんだけどね……」
僕達の事を思い遣ってくれているからこそ、千夜は自分から何も言わないんだろう。
「隠しておいたのは謝るよ。でも、千夜を責めないで。悪いのは僕だから」
謝ると、僕の言葉を聞いているのかいないのか、頬に両手を当て眼を潤ませている。
「凄いわおねーさま。ますます惚れ直しちゃう」
……この気持ちは、僕には理解できない。怒っていないみたいだから、いいかな。
「それならそーと、もっと早く相談してくれたらよかったのに」
「千夜に口止めされてたから、言えなかったんだ。勿論他の二人にも言ってないし……この事は内緒だよ。僕がキュウに喋った事も」
「ダイジョーブ、安心して」
キュウに自信満々に胸を張って叩かれると、余計に心配してしまう……。
一つ咳をして、話を本筋に戻す。
「でも、詳しい事は僕もよく知らないんだけどね。推薦入試が11月にあるから、あえてその前には入れないようにしてたんだけど……学園祭が入ると大変になるよね」
「じゃあ、10月の終わりに入れてるライヴ、どうしよっか?」
それが問題。
「そうだよね……キャンセル、って事になるのかなあ。チケットが学園祭で使えればいいんだけどね。出演するバンドがちょうど重なってるからさ」
「そんなコトできるワケないじゃない」
「だよね……。店の人が怒るからとか言う次元の問題じゃないもんね」
ここでチラシを手に色々案を出しても結論には至らない気がして来た。とりあえず、キュウにこの事を話せたから今日は役目を果たせたか。
「もし千夜に連絡ついたら、この事話しておいてくれる?僕からも電話を入れてみるし、どのみち次の練習でみんなに話はするつもりでいるけど」
色々問題はある中でも、来週は黄昏がちゃんと練習に出てくれる事を祈る。僕は怒っていないから――個人的な感情で、バンドをダメにしたくないし。何より、一番バンドの事を想ってくれていると言っていい千夜を悲しませる真似だけはしたくなかった。
話も終わったので、テーブルの上の封筒を片付ける。
「ああ、そのチラシはキュウが持ってていいよ」
コピーを取っていないけれど別に問題無い。封筒をギターケースのポケットにしまい、帰る準備を始めているとキュウが恨めしい目でこちらを見ていた。
「……何?どうしたの?」
「どーしたのじゃないっ。せーちゃんの用件はそれだけかもしれないけどアタシはまだ用があるのよ」
頬を膨らませ、手にしていたチラシを思わず握り締める。それもそうか、と僕は手にしたギターを降ろし、椅子に座り直した。普通にしているつもりでいるのに、妙に今日はキュウが突っ掛かって来る。
「そうだね、夜遅くにわざわざ呼び出したのにこれだけじゃね」
「あのねー」
キュウは肩で溜め息をつくと、赤縁のダテ眼鏡にかかった金色に染めた前髪を払い、少し怒った顔で僕の目を見据えた。
「別にね、この時間に呼び出されたのはいいの。制服で放課後うろつくのなんていつもやってるし、電話で話すより、やっぱり直接会って話したいじゃない?いつも練習とライヴの時にしか会ってないんだから、たまにはそーゆーのナシでみんなと会いたいワケ。今日誰かと遊ぶ約束なんてしてなかったけど、してても断り入れてコッチ来てたわよ。遊ぶ時間が削られたとか思ってない。わかる?アタシはココに来れて嬉しいの。わかる?思春期の乙女心くらい理解しなさい」
「はい……」
その凄みのある迫力に、僕は萎んで反省するしか無かった。
キュウの怒りも収まった所で、お腹も空いているので席を立ち、注文を頼みに行く。
「アタシもアタシも」
「サンドイッチ一つくらいなら奢ってあげるから、そこで荷物見てて」
ついて来ようとするキュウをたしなめてから、カウンターへ。甘いモノと言っていたのでいちごの生クリームの入ったサンドイッチを選んだ。自分はいつものツナを二つ。オレンジジュースも二人分頼んでおいた。
「家に帰る前に食べ物口に入れると途中で寝てしまいそうなんだけどね」
苦笑してから、サンドイッチを口に含む。今は体力よりも精力を使い果たしていて、体の芯からだるい感じがしている。溢歌を悦ばせる為にはたくさん食べ、充実した状態でないといけないんだけどなあ。少しは控える事も覚えよう。
「何かはみ出るわね、コレ」
キュウがかぶりついてはみ出た生クリームを指で掬い、舐める。口元にもついているのを見て、思わず卑猥な想像を浮かべてしまう。……駄目だ……。
「ジュースもらうね。どしたの、せーちゃん」
目を閉じ渋い顔をする僕を見て怪訝そうな顔を浮かべるキュウ。どうも今の僕は性欲の扉が開き放しになっているのか、下半身の疼きが止まらない。溢歌がいてもこう言う反応をする僕は、ただの節操無しなのか健全な男子なのか。
頭を振り、目の前の食事に集中する。今のキュウが冬の制服で良かった。夏服なら視線を合わせるだけで尻尾を振っていたと思う。
「……で、キュウの用件って何?」
一つ目のツナサンドを食べ終わった所で、訊いてみた。僕に合わせてくれているのか、キュウはまだ半分ほどしか口にしていない。
「あー、まー、たそのコトなんだけど……」
手にしていたクリームサンドを置き、キュウが難しい顔で口を開いた。やっぱり。
「どう?愁ちゃんから何か聞いてる?」
身を乗り出してしまいそうなのを堪え、尋ねてみる。テーブルの上に置いてある自分の携帯を人差し指で小突きながら、答える。
「おのろけばっかり。こないだまで拗ねてたクセにねえ」
「仲が良くなったのはいい事だよ」
「愁って、ホント恋愛中心で世界が回ってるってゆーか、良し悪しがそのまま表に出ちゃうのよね。引っ張り回されるコッチの身にもなって欲しいわホント」
愚痴を呟くキュウのその顔は、まるでお母さんみたい。普段から遊んでおちゃらけているように見える反面、案外母性的な面がある。
「最近はお泊まりしてるらしいわよ?やりまくりってヤツ?」
いやらしい笑みを浮かべ、指で摘んだストローをカップの注ぎ口で素早く上下させてみるキュウ。……時々、オヤジ臭くなり下ネタに走る時もある。
「一緒に遊んだりしないの?」
「たそとつき合い始めてから、ちょっと少なくなったかな。学校に行けばいっつも一緒にいるけど、そりゃもークラスメートからアヤシイって思われるくらい」
……残念ながらそちらの方面は、なかなか想像ができない。
「あんまり学校の友達いないから。いても別のクラスとか学年が違ったり――そーね、言ってみれば学校よりも街の友達。それにあのコも引っこみ思案なトコあって、周りと仲よくするのが苦手なのよね。多分アタシが一番、仲いいんじゃない?アタシも愁が休む日には学校行かないもの。と言っても、皆勤賞に近いけど」
キュウは楽しそうに愁ちゃんの事を語ってくれる。こうした話はバンド活動の合間には聞く機会も少ないので、新鮮で僕も楽しい。二人一緒なら絶対にしない話だもの。
「たそのコトも、アタシから訊かないと話そうとしないもの。でも、先々週かな?自分からイロイロ話すようになっちゃって。そんな詳しいトコまで根掘り葉掘り聞いたワケじゃないけど、ヨリが戻ったみたいよ。喧嘩してた時は幽霊みたいに落ちこんでたのに」
話していて思ったけれど、どうやら他人の恋愛話と言うのはとても面白いものらしい。溢歌と出会った事でゆとりが出てきたせいか、聞いていて頬笑ましくなる。
「じゃあ、たその私生活には問題無いんだね」
「問題ないって言えばアレだけど、今はラブラブみたいよー?でなきゃ二人で練習に来ないでしょ」
それもそうか。
「だから不思議なのよねー。せーちゃん、最近バンドの日以外にたそと会った?」
携帯に付いているマスコットを弄りながら僕に疑問を投げかけて来る。すぐさま僕は否定しつつ、ここ一月前後の黄昏との記憶を思い出す。
「なら何でたそがせーちゃん殴ったのかわかんないのよね〜。……嘘ついてない?」
「ついてないついてない」
テーブルの上に身を乗り出し、片手伸びをしているキュウに慌てて手を振る。
「本当にね……僕にも分からないんだよ……」
店内の天井を見上げ、溜め息混じりに答える。しかし内心には確信めいたものがあった。とは言うものの、溢歌の事をキュウに話す訳にもいかない。口から出る溜め息は、僕の事を心配してくれる人に対し嘘をつく罪悪感から来ていた。
全く、ここ一週間で何年分の嘘をついているだろう。
「キュウから愁ちゃんに頼んでおいて、黄昏に理由を訊くの」
「どうでしょ。今はそっとしておいた方がいいかも?」
キュウがそう言うので、それ以上僕も念を押せなくなった。
「でも、来週も引っぱってでもたそを練習に連れてくるように言っておくわよ。ライヴのコトでごたごたしてるんだから、せめて練習だけはちゃんとやっておきたいもの」
胸を張って答えるキュウに、僕も同感。限られた時間の中で、できる事はしっかりとやっておきたい。そう思いつつも、最近は個人練習も疎かになりつつある。
どうもギターを弾いていてしっくり来ないのは、溢歌と一緒にいてネックを握る時間が減ったのもあると思う。仕事場にいつもの癖で持って行っても、昨日も今日もケースから出さず終いでいた。やる気が減退している部分も若干ある。
「リーダーの僕がこんな調子じゃなあ……」
力無く呟きテーブルに額を押し付け、疲れた様に体を左右に振る。周りが改善されても、僕一人だけまた置いていかれるような気もしなくも無い。
「せーちゃんはよくやってると思うわよ」
「ありがと……」
本音でもそうじゃなくても、優しい言葉は気休めになる。今は落ち込む前に、目の前のツナサンドを平らげる事を先決にしよう。
サンドイッチの味やら好きな飲み物の話をしつつ、食事を済ませる。携帯の時計を確認すると、ここに来て一時間弱が経過していた。これからの睡眠時間を条件反射で逆算する自分に少しうんざり。
お腹も一杯で椅子にもたれ休憩していると、キュウが口を開いた。
「ねえ、せーちゃん家遊びに行っていい?これから」
不意打ちを喰らい、思わず盛大に仰け反ってしまう。周囲の視線が痛い。
言葉を返せずに額に汗を掻いている僕をよそに、話を続ける。
「だって、このまま帰ってもつまんないんだもん。一々家に戻るの面倒じゃない?せーちゃん家とアタシの学校って数駅しか離れてないもの」
泊まる気満々ですか、あなた。
紙ナプキンで額の汗を拭ってから、何度も手を振り断った。
「駄目駄目駄目駄目、明日もバイトが入ってるし、帰ったらすぐに寝たいんだよ」
「そうみたいね。最近お疲れのようだし」
バレてる!?
いやいやいやいや、確かにバイトの合間、限られた時間で溢歌と逢瀬を重ねているけれど、さすがに倒れる寸前までは行っていない。それでも顔に疲れは出ているのか。
「やつれてるようには思えないんけど……」
「そう?顔が前よりスカッとしてるわよ。もう少し輪郭丸かったのに」
男性ホルモンの出し過ぎ?自分で顔の周りを触ってみてもピンと来ない。
「精の出るモノでも作ってあげよっか?」
「食べたばっかりだよ」
ワザとボケているのかよく分からない。とにかく家に来てみたい熱意は伝わって来る。
「そもそも遊ぶと言っても、家には何にも無いんだけど……ギターだって近所迷惑だから夜中は弾けないし」
ゲームは高校までで卒業したし、漫画本すら月日が経つにつれ買わなくなって来た。替わりにMDだけが山のように積もって行く。黄昏の家みたくあそこまでシンプルとは行かないまでも、音楽に没頭するにつれ徐々に洗練されてきた。パソコンもほぼ置物状態。
第一女の子が、一人暮らしの男性の狭い部屋に夜中行って何をすると言うのか。
「いやね、やらしい意味じゃないわよ。単にどんな部屋に住んでるか見てみたいだけ」
とおばちゃんみたいな手付きでキュウは言うけれど、いまいち信用できない。
それに今の僕の家には、溢歌と一緒にいた記憶が留まっている。一人でいても、とても安らかな気持ちになれる神聖な場所を、他人に汚されたくなかった。特に女性に足を踏み入れられ、万が一の事があれば溢歌に対し後ろめたい気持ちをいつまでも抱えてしまう。
「今日は駄目。忙しくて部屋も片付いてないし、また別の機会にしてよ」
本当はとてもすっきりしている。そうでも言わないと引き下がってくれそうにない。
「じゃあ、せーちゃんがアタシの家に来ない?母親紹介するわよ」
盛大に額をテーブルに打ち付けた。
「意味解って言ってる?キュウ」
「あら、アタシはいたってマジメよ。もっとも仕事で夜勤明けになるかもしれないけど」
余計に駄目です。
「いいよ、今日はキュウにこの件を連絡する以外に何も考えて無かったから。キュウの家には今度みんなでお邪魔するよ。水海なんでしょ?」
「あらザンネン。でも、ラバーズから歩いて行ける距離にあるもんね。今度イッコーの家じゃなくて、アタシん家でパーッとやらない?」
「みんなと相談してからね」
「ちぇーっ。あの日の続きしたかったのにな〜」
何気無いキュウの言葉に驚いてしまい、再び凄い音を立て椅子からずり落ちた。店内の視線がこちらに集中し恥ずかしい。椅子を直し、周りにお辞儀をしながら着席する。
「つ、続きって……?」
「あらせーちゃん、何かしたの?打ち上げの日、あのまま酔い潰れた後記憶なくなってたのよね。せーちゃんが介抱してくれたってイッコー言ってたからそのお礼でもしようと思ってたんだけど……実はもう、しちゃってた?」
僕は全力で首を横に振った。あの日の過ちは未遂とは言え、記憶から抹消したい。
「何だザンネン」
「恐ろしい事言わないで下さい……」
心臓が激しく脈打ち過ぎて寿命が縮まるかと思いました。
「ねえ」
胸を撫で下ろしていると、突然真顔になったキュウが身を乗り出して来る。
「な、何?」
「そんなにせーちゃん、アタシにイチャイチャされるのが嫌?」
とても冷めた本気の目に、僕は唾を飲み込んだ。
「嫌なら、もうしない。アタシだって嫌われたくないもの、距離を置くわ」
「いやいや、そうじゃなくて……その、ごめん」
瞳の奥にある悲しみの色を見つけてしまい、慌てて誤解を解こうと謝る。
「……慣れてないんだ、そう言うの。キュウが気にかけてくれるのはとても有り難いんだけど。その……キュウってとても無防備だから。どう接していいのか分からなくなる時があるんだ。僕の見ている距離とか構わず飛び越えて来るからさ」
例えば黄昏ならいつだって心の奥底まで他人に見せているような生き方をしている。単に自分を隠す事ができない性格とも言うけれど、他人に対し接する時も0か100しか無いので付き合い方が解れば互いの距離なんて全く気にしないでいられる。
「僕から見ればキュウは、ノーガードで両手ぶらりとさせて間合いを取ってるボクサーみたいなものでさ。無防備なのを見てこちらが一歩踏み込めば、隙を見て一気に間を詰めてパンチを当てて、また離れるみたいな――そんな所があるんだよ」
嫌われないような言葉を選びながら本音を話す。キュウは黙ったまま、僕の瞳を見つめ聞いていた。
「そう感じているのは僕だけかも知れないけど。だからついつい警戒して身構えちゃうんだよね。でも、少しずつその距離を詰められればいいと思ってるよ」
最後の言葉に嘘は無い。僕は女の子の扱いは不器用だから、じりじりとにじり寄るような付き合い方しかできないもの。なら溢歌は?彼女は例外。互いの距離が0に近く感じられるから、僕は心を許せる。ただ、そばにいてもなかなか捕まえられる気はしないかな。
キュウは固まって口を開けたまま、言葉を発せないでいる。二人の間の沈黙を紛らわせようと、氷の溶けたジュースに口をつけた。水分の取り過ぎでトイレが近くなる。
やがてキュウが溜め息をつくと、同じようにストローに口をつけ、上目遣いに僕を見た。
「せーちゃんって相手の事正確に分析してるのね」
「正確かどうかは判らないけどね」
「だってアタシがずーっと感じてて言葉にできなかったモノをズバッと説明しちゃうんだもん。目から鱗粉が落ちた気分だったわ」
「普通にウロコでいいと思うよ」
どうやらこちらの想いが無事に相手に伝わったようで良かった。女の子の考えている事は顔だけ見ても読み取る事ができないから、黙っていられると冷汗ばかり出て来る。
場の空気が朗らかになって良かった。さて、トイレに行く為に少し席を外そう。
「じゃ、遊びに行っていいのね?」
今度は立ち上がろうと思った所で足を滑らせ、腰を思い切り椅子に打ち付けた。痛い。
「だ、だから今日は……」
「ジョーダンよ。またの機会にするわ、チャンスはいくらでもあるんだし」
旋毛を巻く僕を見てキュウが笑い、小さく舌を出した。
「とゆーワケで、駅のホームまで送るように」
「え?ああ、うん」
水海とは逆のホームになるけれど、それでキュウが機嫌を良くしてくれれば安いもの。トレイを片付けて貰い、その間に用を済ませに行く。
トイレから出て来る前、鏡の前に映った自分を見た。
多少顔付きは良くなっても、まだまだ女の子の扱い方を知らないらしい、僕は。