→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   092.波にとけて

 飛行機雲が見えた。
 白みがかかった空に一本の線を描き、海の方角へ真っ直ぐに伸びている。まるで僕に岩場へ行けと伝えているようにも思えた。
「……待っていても、仕方無いか」
 溜め息混じりに小さく独り言を呟くと、ギターを担ぎ直しその場から移動を始める。少し冷え始めた空気に汗の引いた体に堪え、舞い散るイチョウの葉が秋を感じさせた。
 大学構内の一角にある、色とりどりの花壇に囲まれた円形状の噴水のベンチでライヴ後に溢歌と待ち合わせをしていた。しかし待てども待てども来る気配が無い。半分予想していた事とは言え、気まぐれな行動に毎回やきもきさせられる。
 ライヴが終わった後、バンドのメンバーとみょーさん達とで構内の喫茶店で打ち上げがてらにお茶をしようとしていた所を、僕だけ一足先においとまさせて貰った。みんなとゆっくり話をするいい機会でもあったのに、そうしなかったのは溢歌の事が頭から離れないから。
 千夜とはこの後、受験まで会えないので話をしておいても良かったなと少し悔やむも、毎度の事のように僕が白い目で見られ何の話題も咲かないまま終わり、と言うパターンだろう。次のライヴまで、練習は千夜抜きで行う事になる。
 一つ難題を乗り越えたと思ったら、すぐにまた次がやって来る。自分で選んだ道とは言え、なかなかに厳しい。何も考えなくていいくらい、長い休みが欲しい。空を見上げていたら子供の頃の夏休み、母親の田舎へ長い間遊びに行っていたのを不意に思い出した。
 大人になればそんな時間を作るのにも、先立つものがいる。何と世知辛い事か。貯金なんて全然貯まっていない僕にはまだまだ夢のような話。
 5分程のんびりと同じ場所で構えていた後、思い立ったようにその場から離れた。どうせ溢歌の事だから、どこにいるのかなんて容易に想像つく。
 一時間弱かけて美大からいつもの岩場へ移動すると、案の定溢歌のワンピース姿が見えた。日射しが柔らかくなり始めた秋の海は穏やかで、優しく黄金色にきらめいている。
 朝に別れた時と同じ姿で、溢歌は岩場の先端にいた。足下を取られないように細心の注意を払い、岩場を登って行く。持っていたギターは通り道のスタジオへ置いて来た。また一々ギターの件で言い合いもしたくない。
 頭の中をバンドモードからプライベートモードに切り替え、溢歌の背中に声をかける。
「気持ち良いよね、ここ」
「そうね。花の香りも緑の匂いもいいけれど、私には潮風が一番合っているわ」
 長い髪をなびかせるその横顔は、言葉とは裏腹にやや尖っていた。開放的で柔らかい顔をしているかと思ったら、そうでもない。少し体が冷えるのか、肩に羽織ったジャケットの両袖をくるまるように摘んでいる。
 機嫌の悪いのは僕のせいか。今朝からそうだったから、仕方無い。
 溢歌の機嫌を悪くさせるのはどうも僕の得意技のようで、悲しい。良くさせる方法も知っている事は知っているけれど……それ以上、何も広がっていかないのが。身体だけじゃ無く、もっと心で溢歌と繋がってみたいと思っていても、なかなか上手く行かない。
 今日は一体、どんなやり取りを繰り広げるだろう。正直、ライヴ前より緊張する。
「待っててくれなかったんだ」
「やっぱり私には、人の多いところは駄目みたい。自然が多くてもね」
 溢歌が顔に張り付く髪を払い除けながら答えた。それだけの理由で不機嫌なのかどうかは僕には判らないけれど、嘘はついていない。
「一人で時間潰しているのもつまらないだろうしね……ごめんね」
「いいわ。私がついていくって言い出したんだもの。それに、時間をつぶすのは得意よ」
 謝ると、僕の顔を見て笑顔を返した。ただ何か、奥歯に物が挟まったようなはにかみ方。僕達のライヴを観て、不快な思いでもしたのだろうか。それでもここに来れば後で僕がやって来る事も分かっているはずで、こちらの事を拒絶している訳でもなさそう。
「何か、嫌な事でもあった?」
「いいえ。私の嫌いなもの、知っているでしょう?いつもと同じよ」
 相変わらず容赦無い。趣味やら感性やら価値観やら、大きくずれがあるはずなのにお互いに求め合っていると言う、他人から観ればとても滑稽な二人だと思う。ただ、僕達が他人様の言う『恋愛』をしているのかと言えば、自分でもよく判らない所がある。
 他人同士が人間的に付き合い始める時に必要な色々な事をすっ飛ばしているような、とてもいびつな形のコミュニケーションをしている。それはきっと、他人の愛し方が分からないと公言する溢歌と、この年まで本格的な恋愛経験を積んで来なかった僕の二人だから。
「っ」
 突然、溢歌が体を伸ばし、顔を近づけ僕の唇を奪った。
 不意打ちを食らい、気が動転してしまう。思わず後ろへよろめき、狭い岩場にいる今の状況を瞬時に判断し踏ん張った。所々出っ張りがあるので、気を抜くと姿勢を崩しやすい。
 一瞬にして沸騰した頭から血が引いて行き、重なるように吹き付ける潮風が瞬く間に僕の身体を冷やした。不意にくしゃみが出て、鼻をすする。
「これで、すっきりしたわ。ありがと」
 溢歌は晴れ晴れとした笑顔で僕に微笑み、大きく背を伸ばした。女心はよく解らない。
 そのまま膝を折り岩場に腰を下ろしたので、僕もその隣で楽な姿勢で地べたに座った。光り輝く水面を眺めていると、頭の中から余計なもやもやが晴れて行く。
 この美しい景色を形として閉じ込めておく事ができたら、どんなに素晴らしい事だろう。
 ふとそう思い、みょーさんなら難無くそれができるんだろうなと何となしに思えた。
「みょーさんの所の絵、観に行ってくれた?」
 突然のキスによる胸の動悸がようやく収まって来た所で、次の話題に移る。溢歌は一瞬目を丸くした後、僕の言葉を理解し小さく頷きながら答えた。
「絵?……ええ、ちゃんと観に行ったわよ。人が少ないからあっと言う間に見終わったわ」
 何気に厳しい一言。それでもみょーさん達の作品を観てくれた人がたくさんいると信じたい。あの感動は、そうそう得られるものじゃない。
「どうだった?」
「どうって言われても……ヘンテコな展示会だったわ。私にはよくわからないものだらけ」
 つまらなそうに吐き捨てる溢歌に、僕は苦笑いを浮かべた。確かに、変なものもたくさんあったけど……僕も芸術に精通している訳でも無いので、他人の事は言えないか。
「でも――ひとつだけ」
 何かを思い出したように、人差し指を立てる溢歌。
「白い空間に浮かんでいた、鎖の絡まった岩――あれだけは、わかったわ」
「わかった?」
 問い返す僕の顔を見ずに頷く。
「あのどろどろした色の岩はね、私なの」
 岩――あのみょーさんが描いた、いくつもの色違いの鎖に絡まれた岩が彼女だと言うのか。僕とは絵の捉え方が違う所に、興味を覚えた。
「世の中のいろーんなものに汚されちゃって、どこにも行けなくなっているの」
 どこか憂いのある表情で、足下の剥き出しの岩を指の腹でなぞりながら溢歌は呟く。
「閉じ込められてると言う事?」
「そう、いろいろね。鎖でがんじがらめにされて」
 あの絵を細部まで思い返してみるも、僕には溢歌の言葉がピンと来なかった。岩=自分と定義してみるのは理解できる。しかし鎖に閉じ込められているとは考えもつかなかった。
 すると、無数の色が塗りたくられた岩は、元々は真っ白で純粋な色だったのだろうか。
「じゃあ、あの土星の輪っかみたいな一本の鎖は?」
 僕が神様か時間かと捉えたあの鎖の事を聞くと、溢歌はしばらく考える仕草を見せる。
「さあ……何かしらね」
 困ったように呟くと、はぐれ雲の浮かぶ夕方の空を見上げた。溢歌の中で当てはめているものがあるのかも知れないし、本当に分からないのかも知れない。もしかすると、僕とは対照的に嫌なものを見た気分になったのかも。
 もう少し話を膨らませようかと思うも、溢歌は乗り気でないようなのでこれ以上は止めた。違う相手と同じ感覚を共有する事は、想像以上に難しい。
「ライヴ、観に来てくれた?」
「行ってないわ。前もってそう言ったでしょ?」
 話題を本題に移すと、またもや返す刀でばっさり切られた。十分予測できた事とは言え、ショックは大きい。僕に嘘をついていてくれたらと願うも、溢歌の性格からすると有り得ないだろう。ほんの少しずつ、距離が縮まっているかと思ったらそうでもなかった。
 深く溜め息をつき、背中に体重を預け岩場の上でくたびれた格好をする。遠くに見えるシルエットだけの船舶から聞こえる汽笛に耳を傾けながら、ライヴの事を思い返した。
 文化祭ライヴ自体は予想以上に上手く行った。千夜も後半から合流してくれたし、最後の黄昏が歌った一曲も好意的に受け止められたみたい。
 ドラムマシンをライヴで使う事自体初めてで、やはり一曲目を終えた時点で観客の反応は悪かった。これまでと全く違うステージの立ち位置にしていた上、僕達の前のバンドが結構盛り上がっていたみたいだから呆気に取られていた人も多かっただろう。
 それに、黄昏が歌わずにイッコーがマイクを取っていたのも大きい。でも、場を沸かせるは黄昏よりもイッコーの方が上。じっくり聴かせるタイプの黄昏より、騒げて踊らせる事ができるイッコーにこの場を任せたのは正解と言えた。手持ち無沙汰な黄昏が客席にダイブしたり、予想外な出来事もあり場内はかなり盛り上がっていた。
 特に千夜のあの格好は……。
「何?」
「いや、ちょっとね。ライヴの事を思い出して」
 思い出し笑いで顔がにやけていたのか、少し引いた顔で溢歌が僕を見ていた。
 4曲目が終わった後に遅れて来た千夜は、到着したのがぎりぎりの時間だったせいなのか黒髪を整髪料で横跳ねさせる暇も無く、前に僕が呼び出された時と同じ格好――つまり髪を下ろした制服姿でステージに登場した。客席も静まり、しばらく気付かなかったイッコーがまた余計な事を口走りスティックを顔面に投げつけられていたのが面白かった。
 しかもドラムセットをいつもより前に、ヴォーカルの位置に置いていたので制服姿が更に目立ち、最後まで不機嫌そうに叩いていた。しかし制服姿でドラムを叩くのもなかなか乙なもので、演奏途中についつい見とれてしまいそうになった。眼鏡をかけていなかったのは、せめてもの抵抗か。確かに学校で話題になると何かと問題になりそうな。
「そんな上手く行ったとかどうかははっきりと言えないけど、楽しかったよ。また機会があると思うから、その時にチケットあげるよ」
 溢歌だけ除け者でいるのも嫌だから、優しい笑顔で改めて誘ってみたけれどやはり徹底的に無視された。悲しい。空っ風が身に染みる。
 彼女が僕に欲しがっているのは、ただ真正面から抱き締めてやる事なのかな。
 それはそれで誇りに思えるし僕の存在意義も一つ増える訳だけど、それだけで溢歌の全てを支えてやれない気がする。僕に力が足りない訳じゃなくて、それだけでは何の解決にもなりはしないのではないかと――
 音楽を無性に嫌っておきながら、並外れた歌唱力を持つ部分に謎が隠されているように思える。第一、それを表に出そうとしない時点で僕にはもうどうしようもない。
 相手の心を開くのには、途方もない時間の積み重ねと労力がいる。それは千夜とのやり取りで痛いほど学んだ。2年以上一緒にいても、千夜もなかなか僕に心を開いてくれない。それ以前に性格の不一致と言う大きな壁が立ちはだかっているからでもある……。
 それなら相手の望む自分になれば良いのか。そう考えても素直に相手の要求を飲めないのが僕と言う人間で、ある意味黄昏以上に思いやられる人間なのかも知れない。イエスマンにはなれなくて、相手を自分色に染めようとする。本当に手に負えない人間だと思う。
 自分の性格が恨めしい。まともな人間的成長をしていない点では、黄昏と大差無いか。それでいて自分自身の事を普通の凡人だと思っている所が厄介。黄昏や千夜の事を笑えない。実際バンドのリーダーの資質は、イッコーの方が遙かにあるように思う。
 しばらく自分の世界に浸っていると、溢歌がこちらをじっと眺めているのに気付いた。いけないいけない、バンドの事は一人でいる時にでも考えていよう。
 少し肌寒く感じて来たので、溢歌の隣に近寄り肩を手に取り、胸元に引き寄せる。溢歌も何の抵抗も無しに、僕に体をすり寄せて来た。澄ました顔のままなのが、猫っぽい。
 右手を取り触れてみると、肌はやけに冷たかった。また潮風に当たり過ぎていたのだろうか。僕が両手を擦り合わせると、溢歌は目を丸くした。温めてあげようと目配せを送ると、納得したのかされるがままに右手を差し出す。
 溢歌の身体はまるで松明のようで、普段は体温が低いのか触れても現実感が無いくらい冷たく感じるのに、肌を重ね合わせるとすぐに火照り、燃え上がる。夜の事を思い出していたら思わず興奮して来たので、慌てて脳裏から溢歌の悶える姿を振り払った。
「そう言えば、溢歌っていくつだっけ?」
 不意に素朴な疑問が気になり、話題を変えようと尋ねてみた。思い返してみると一度も年齢に関しては触れようともしていなかった。外見で自分より年下なのは判るし、知った所でより溢歌が現実味を帯びてしまうと思ったから、無意識に避けていたんだろう。
「あら、言ってなかった?15歳よ。遅生まれで、来年16」
 ……一瞬、いいのかと考えてしまった。でもいいのか。やましい事をしている訳でもなし。でも、外見や顔の造りから受ける印象と、さほど違いは無い。学年的には愁ちゃんやキュウと一つ下になるのか。背丈が低いので、キュウとは年が離れて見えてしまう。
「そっか……結構年が離れているんだね。僕と4歳違いか」
 言葉にすると、世代のずれを感じてしまいそうな年の差。
「そんなに、年齢の差が気になる?私は青空クンのこと、全く意識しないで観ているわよ」
「僕もそうだけどね。そんな、年の差なんてどうにでも思えてしまうような……」
 魂同士が繋がっていると言うか惹かれ合っていて、相手の事を同列にしか観ていない。年の差なんて現実に存在している時間の違いなだけで、話していて世代差を感じた事も全く無いし、人生経験の密度なんて向こうの方が僕より遙かに大きく思えてしまう。
 溢歌を年下と感じる時は、抱き締めて優しく頭を撫でる時とか、拗ねて背中を向ける時。つい温かい気持ちで見守りたくなる。年下と言うより、親が娘を愛でる気持ちのような。
「無理もないわ。こんなに若いのにいやらしい女の子なんてそうはいないもの」
 色目を使い、僕を誘う素振りを見せる。脳裏にキュウの姿が浮かんで来たけれど、口にはしない。しかしこの年で、随分経験豊富だと思った。出会ったばかりの僕と肌を重ね合ったとは言え、手当たり次第に貪るような軽々しい子とは思えないのに。
 女性のセックスの価値観はあまり良く分からない。男の僕が考えた所で、生きて行く上で付き纏うものが全く違うし女性の方が問題も多いと思うので、永遠に理解できないだろう。
「いやらしい女の子は嫌い?」
 僕の胸に指を立て円を描きながら、意地悪な質問をして来る。
「それは……性格にもよるけど……清楚で魅力のある人もいるし」
 ふと、柊さんや和美さんの顔が脳裏に浮かんだ。ただ彼女達が清楚なのかどうかなんて、僕の知る由も無い。和美さんなんてみょーさんと同棲している事を臆面も無しに話すし、外見とは裏腹に凄いのかも。そんな他人の性への価値観を妄想した所で、下世話でしかないけれど。僕自身昔からほとんど、そう言う目で女の人を見た事は無い。
 近くにいる人を性欲のはけ口に使うなんて……千夜以外にこれまで無かった。
 不思議と柊さんを思い浮かべても、劣情を催す気にはなれない。キュウも然り。普段から千夜には冷たくされている分だけ、想像の余地も大きいと言う事なのか。……深く考えるような事では無いので、これ以上は止めておこう。
 いやらしいうんぬんを引っくるめて僕は溢歌の事が好きだし、その生き方を否定するつもりは無かった。
「へー、私は清楚な女の子に見えないのね」
 僕の言葉を悪戯っぽく額面通り受け取り、言葉を返して来る。
「そんな事……当てはまる言葉が無いんだ、君の場合。不思議ちゃんとでも言うのかな」
「でも、謎のある女の子は魅力あるでしょう?」
 それはまあ、そうかも。そのまま黙ってしまう自分が情けない。同じく謎の多い千夜に対してもだけど、僕のウィークポイントなんだろう。ツボと言うか。
「清楚で魅力と言ったって、いやらしい想いを隠し持っていたら興奮するじゃない?」
 全くもって言い返せなかった。自分がとても単純な健全男子に思えて来る。でもそれでいいのかと自問自答してしまう僕もいた。
 言葉も返せず押し黙っていると、溢歌が僕の股ぐらに優しく手を置き微笑む。
「女の子はみんなスケベニンゲンなのよ。男の子もね。それが正常なの」
 僕は引きつった笑いしか返せなかった。このままだとまたこの場所で絡んでしまいそうなので、慌てて溢歌と間を取る。真っ赤になっている僕を見て、溢歌はおかしそうに笑った。
「い、溢歌は制服着ないの?」
 甘い雰囲気になって来たので慌てて話題を変える。年齢の事を聞いたのでそこから派生して尋ねたつもりでいたら、
「もしかして、コスプレでいやらしいことでもしたい?」
違う意味で受け取られてしまったので全力で否定した。僕にそんな性癖は無い……と思う。
 溢歌はその場で座り直し、あっけらかんと言った。
「だって、もう学校へ行っていないもの」
「でも、学年的には高校生なんじゃ」
 反射的に尋ねると、言葉に詰まる事無く答えを投げ返す。
「家庭の都合よ。私の都合でもあるけれど。……今、私のこと頭悪い子って思った?」
「思ってない思ってないよ」
 別に学歴に関しては高一で学校を辞めてしまった黄昏がいるので、驚きも嘲る目も無い。最初に出会った時から浮世離れしている所があったので、学校へ行っていないと言われてもすぐに納得できた。この年頃の普通の女の子から感じる面と言うのが全く無いから。ずっと僕と一緒にいるし、言われなくてもそれは気付いていた。
 ただ、家庭の都合――その点だけが引っかかった。ちっとも家に帰っている様子が無いし、かと言ってただの家出少女にも見えないし、分からない事だらけ。
 様々な推測を脳裏で巡らせていると、いつの間にか僕の前に立っていた溢歌が背筋を反らし、鼻高々に言った。
「このまま馬鹿に思われるのもしゃくだから、一つ教えてあげるわ。何とこの私、時計坂 溢歌は飛び級で高校レベルの授業はもう受けているの」
 本題のカミングアウトより、ある一言の方が衝撃を受けた。
「名字、時計坂って言うんだ……」
 今の今まで知らなかった。口を開けっ放しの僕を溢歌は怪訝そうに見つめている。
「――何?名字なんてないと思っていたの?」
「半分、そうかも。妖精みたいなものだと思っていたから」
 実の所、溢歌の名字がどうかだなんて一度も考えた事が無かった。普段から僕自身、周りの人間を名字じゃなく下の名前で呼ぶ事の方が多いし。
「あはは、バカね……私はここにいるわ。まさかどれだけ中に出しても、妊娠なんてしないとか思っていたんじゃないでしょうね?」
 ……図星過ぎ、顔面を冷汗が大量に流れ落ちる。
「すいませんでした」
 頭を岩にぶつけるくらい深い土下座。いや、そんな事は無いと解ってはいたけれど……。
 事前も最中も事後も溢歌も何も言わないし、避妊だとか今まで一度も素振りも見せていなかった。ただ今日は駄目と言う日だけは、口しか使わなかった。
 これからは気をつけよう。頭のてっぺんから背中まで冷汗が大量に流れ落ちている。
「私だって、かけられるよりはからだの中に出してもらった方が気持ちいいわ。他人のが交じり合って、自分が自分でなくなっていくのが。けれど、女性ってそんな簡単にできてないのよ。自分の都合ばかり考えている男を見ると、吐き気がするわ」
 痛いです、溢歌さん。唯一の救いと言えば、僕より先に求めて来る事が多く、性関係は溢歌が主導な点だろうか。その小さな身体を抱き締められればそれでいいと思っているから、僕は。……嘘じゃないよ。
「大丈夫、青空クンは違うわ。そういう人間もいるってことよ」
 汚らしいものを侮蔑するような目を遠くに向け、溢歌は吐き捨てた。そう、本当に、敵意に満ちた恨みのある目で。彼女の瞳には一体誰が映っているのだろうか。
 僕が知らない溢歌の秘密がまだまだあるのだろうか。
 立ち尽くしたまま海を眺める溢歌の姿を見つめていると、百面相のように数秒前とは別人の笑顔で振り返り、おちゃらけた調子で言った。
「それに、私は自分の意志で自由自在に妊娠させることができるの」
「え?」
 その言葉に呆然としている僕を見て、声を立てて溢歌が笑う。目を丸くしたままの僕の額を軽くデコピンで小突き、さばさばした表情で言った。
「馬鹿ね、薬も使わずにそんなことできるはずないじゃない。冗談よ。第一、こんなに若いのにお母さんになっちゃってどうするの?面倒なんて見切れないわよ」
 子供……か。溢歌に子供ができたとすれば僕が父親になる訳で、そんな事考えもしなかった。当然の事なのに、想像もつかないどこか遠くの出来事のように思える。
 しかし恋愛の行き着く先はそこな訳で、かと言ってまだまだ未成熟な僕はそんな事も全く考えられない訳で、だから今の若者はまともに子供も育てられない無責任な親が多いとかよく言われる訳で……。
 何はともあれ、もう少し溢歌の身体を思い遣ってやらなくちゃいけないと痛感した。ただ溢歌は、自分が母親になる事を望んでいるのかどうか僕には解らない。
 僕はまだ、溢歌と今の関係でいたいな。
 でももし、できてしまったら?
 その問いを溢歌にしようと思うも、口には出せなかった。どんな答えが返って来るのか、怖かったから。どうも僕は覚悟を決める所か覚悟の『か』の文字も知らない若造らしい。
 心を落ち着かせる為に一度深呼吸する。冷たい潮風が僕の肺を満たし、思わず咽せた。
「飛び級って?やっぱり外国育ちなんだ」
 先程の名字以外の個所で気になった所を尋ねてみると、溢歌は頷いた。
「そうよ。2年前に帰って来たの。途中だったから最後まで卒業できなかったけれど。今はもう、自由の身よ。まさに人生ドロップアウト組ってところね」
 笑って言うけれど、結構凄い事のような。外国育ちなのは、異国の血が混じっていそうな外見や微妙に世間を知らない所とかで勘付いてはいた。妖精っぽく思えるのもそう。
 どうやら、黄昏以上に複雑な家庭事情があるみたい。でもそこを深く追究するつもりも無かった。心が通い合えば、自分から話してくれる機会も訪れるだろう。
「これから、どうするの?」
 とても漠然とした問いが僕の口を突いて出た。まるで自分にも問いかけているようで、虚しく響く。
「風の向くまま気の向くまま。明日は明日の風が吹くって言うじゃない」
 溢歌は両手を広げその場で軽やかに一回転してみせると、元気にはにかんでみせた。今は僕も、深く考えないでいよう。この先二人がどうなるかなんて、分からなくても。
「学校は行かないんだ。溢歌の制服姿、ちょっと見てみたかったな」
「この髪だとあまり似合わないわよ。束ねるのも昔から好きじゃないの」
 僕の隣に溢歌が腰掛け、楽しそうに言葉を交わす。気付けば空の色も随分と赤くなり、青い月も空に浮かんでいた。さすがにこの季節だと寒くなるのも早い。
 赤い空を見上げると、同時にあくびが出た。
「お疲れのようね」
「本当、かなりバテバテかも。明日は休みだからゆっくりするよ」
「ごほうびはいらない?一日経ったから補充されているでしょう?」
「帰ってからで……今日はこの後ぐっすり寝て、それからにしようよ」
 溢歌の肩を寄せ小さな身体を抱き締めて上げると、幸せそうに微笑んだ。これまでに僕が見た事が無いような穏やかな笑顔で、それを見せてくれて嬉しく思えると同時に、何故か心のどこかが小さく痛んだ。
「ねえ、一曲歌って」
「え?」
 予想だにしない溢歌のお願いに、思わず間抜けな顔を浮かべてしまう。固まっていると、溢歌は僕に顔を近づけもう一度言い直す。
「風の音で聞こえなかった?一曲歌ってって、お願いしているの」
 ……周囲を見回し、ある筈の無い自分のギターを探してしまった。いや、ギターを持っていないからこそお願いしたのか。
 本心はどうか解らないけれど、溢歌が冗談を言っているようには見えなかった。
「どう言う風の吹き回し?」
「一々相手の気持ちに探りを入れているようじゃ、嫌われるわよ」
 僕の真剣な目線を軽く受け流す。相変わらず、本心だけはこちらに読ませない。美大で何かあったのだろうか。まさか黄昏と何か――でも、黄昏の隣には今日は愁ちゃんがずっといたから、特に何もなかっただろう。
 しかし自分で歌う事も大嫌いな溢歌が、僕の歌を聴きたがるなんて。
「ここからは、夢。明日目が覚めたら、きれいさっぱり忘れているわ」
 溢歌の呟きは迷っている僕の心を見抜いたのか、自分に言い聞かせているのか。
「夢の中で聴いたメロディは泡になるの。でも、その音色は胸に染みついているのよ」
 膝が枕になるように僕に身体を預け、目を閉じる。言葉の真意はよく解らない。でも、今の溢歌になら僕の歌を心の中にまで届けられるかも知れない。そう思い、腹を括った。
「僕の曲じゃないけど……今はこれを、歌いたい気分だから」
 指でカウントを取り、すうと息を吸い込む。前奏無しに唄う歌は、『路地裏の天使』。
 今日のライヴ、最後に少しステージ時間を延長して貰い、黄昏が中央で『路地裏の天使』を歌った。ほとんど合わせる時間も無くアレンジもままならない状態で、簡単なコードに適当な飾りを付けただけのシンプルな構成。むしろ歌詞の内容からすればその方が正解だったのかなと思う。
 前奏の間、僕は祈るような気持ちで黄昏の方をずっと見ていた。しかしその心配も杞憂に終わり、黄昏は今まで歌えなかったのが嘘みたいに伸び伸びとした歌声を奏でた。
 嬉しい反面、複雑な気持ちでもあった。これは僕が創った曲じゃない。昔黄昏が、自分自身を救う為に書いたものだと曲を歌う前にマイクで説明していた。
 初めて人前で演奏する新曲は、やはり緊張する。黄昏の熱の篭もったMCも良かったのだろう、いつも以上に好意的に受け止められたように思う。
 でも今回の文化祭ライヴは拙い部分が多かったのも事実で、決して心の底から満足できる内容では無かった。もし初めて今回のライヴで僕達のバンドを知ってくれた人がいて、これから先のステージを観に来る事があるとしたら、その時には最高のパフォーマンスで迎え入れてあげたい。そしてこの曲をもう一度、みんなに届けたい。
 ただ、今は、僕の膝の上で目を閉じている大好きな女の子の為だけに、優しく歌を聴かせてあげる。万感の思いを乗せ、自分の胸の気持ちを全て届けるように。
 勿論僕が黄昏みたいに上手に歌えるはずもない。歌っている最中に何度も照れ臭さがこみ上げて来て歌うのを止めたくなった。でも、溢歌に歌を届けたい。ただそれだけの想いで臆する事無く、途切れさせる事無く最後まで歌い切った。
 慣れない歌に、息が切れる。満足し切った爽快な気分で大きく肺呼吸していると、膝の上の溢歌が震えているのが解った。
「溢歌……?」
 声を掛けると、戸惑う僕の顔を見上げる。緩んだ涙腺は今にも決壊しそうで、動けないでいる僕の胸に飛び込むと、そのまま顔を擦り付け大声で泣き叫び始めた。
 僕が泣かせてしまったのだろうか。涙の理由は解らなくて、僕は沈み行く夕暮れを眺めながら、溢歌の熱いほどの温もりを胸に感じていた。
 力になろう。溢歌を不安にさせる全てのものから守ってあげよう。
 その為に、僕がそばにいればいい。
「お願い、そばにいさせて……」
 胸の中で泣きじゃくる溢歌の頭を、僕は何度も何度も優しく撫でてやった。


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