093.果てのない底
僕の中で、時間が止まっている。
深い深い闇の中へ沈んでいるような感覚。堕ちる、とはこう言う感じなのか。
ひたすら溢歌と肌を重ね合う日々。文化祭の日、溢歌が僕の胸に飛び込んで泣きじゃくったあの夜以来、僕の家に居候している。だからバイトや練習の時間以外は、ずっと溢歌と一緒。あの日以来、僕達の距離が若干近付いた感じがする。
昨日はバイトを休んでしまった。溢歌と一緒にいたくて堪らない気持ちを抑えられなかったから。スタジオには疲れで熱が出たと言っておいた。本当は体調なんてどこも悪くないけれど、かなり疲れが蓄積されているのも嘘じゃない。まだ若いとは言え、休みの日にもずっと溢歌の相手をしているし、毎日精魂尽き果てているので回復させる暇も無い。
ただそれ以上に、ここ二年間同じような生活をずっと続けて来た分が今になって反動となっているような気がする。バンドを続けて来て肉体的にも精神的にもかなり磨り減っていたんだなと、溢歌と出会い音楽に対し客観的に見られるようになってから思った。
まだまだ若いし、今が一番充実期だから体は何とか持っている。最近やけにスタミナがついてきたように思えなくもない。溢歌の作るバランスのいい料理の効果もあるのだろうか。独り身だと食生活がどうしても偏りがちになってしまうし、好き嫌いも激しいから。
しかし溢歌と一緒にいると、個人の時間が減ってしまうのも事実で、水海に出て楽器屋を散策するなんて事がすっかりできなくなってしまった。ただ家でギターを弾く事が無くなったから、特に問題は無い。
それでも不意にギターに触りたくなる瞬間が訪れたりして、溢歌が寝ている時にこっそりと持ち出しベランダで軽く構えてみたりする。多分溢歌も気づいているだろうけれど、ヒステリー気味に文句を言う事も無くなっていた。
普段は溢歌の躰を楽器に見立てまさぐっている。ずっと一緒にいるおかげで、敏感で官能的な溢歌の躰を責め立て、思い通りの嬌声を上げさせる事はできる。それだけで音楽への欲望は幾分昇華されるとは言え、自分自身の想いを体現できるギターとは全然違う。
結局、奏でるメロディは溢歌との愛の日々を音色にしたものだけど。
「家に一旦戻らなくてもいいの?」
「そうね。着替えだけでも持って来た方がいいのかしら。それとお金も」
僕の家にずっと泊まり続けるようになると、さすがに困る部分も増えて来た。せめて最低限な部分で不自由な思いをさせないように。
別に僕は溢歌に関し、自分の懐からお金を出す事に何のためらいも無いんだけどな。
普段から結構切りつめていて、無駄金は使わないせこい性格をしていると思う。でも好きな人の為にだったら自分の生活が厳しくなろうがいいかなと考えられるようになったのは、いい傾向かな。この考えをもっと他の仲間にも回せればいいのに。
とは言え全てを新たに調達すると僕の懐も結構痛むので、溢歌の言葉は正直嬉しかった。本来は家族に心配かけないようにと言う意味で、僕は言ったつもりだったんだけど・・。
溢歌が家に帰りたくないのは解っていたので、なら一緒に家までついて行った方がいいかと提案してみた。別にご両親の顔が見たいとかと言う訳じゃない。溢歌の心の負担を軽減させたいと思っただけ。
雨上がりのよく晴れた日の午後に、溢歌を連れて出かけた。
案の定あまり乗り気じゃないようで、歩いている間中ずっと難しい顔をしている。
「今日は止めておく?」
「そうやってずるずる引っ張るのはもう嫌。雨降りで大分伸びたじゃない」
心配そうに覗き込む僕の視線を振り払うように不機嫌な顔のまま言う溢歌。本人も早く済ませてしまいたいのだろう。
溢歌の家はいつも訪れる岩場の近くにあるらしい。なので迷う心配も無く、電車で一本、バイトに行くのと同じ感覚で気軽に行けた。
二人肩を並べ歩道を歩きながら、海岸へと続く11月の秋空を眺める。ここ一週間くらいで一気に冷え込んだのか、道行く人達はすっかり秋物に身を包んでいる。外に出るのは久しぶりでは無いのに、やけに開放的に思えるのは怠惰な日々ばかり送っていたせいか。
「たまには外に出るのもいいね」
「何?外でしたいの?」
「そう言う意味じゃなくってね」
休みの日に家にずっと籠もっていないで、外に出て二人でのんびりと緩やかに流れる時間を愉しむのもいい。無理に密度の濃い時間を作ろうとしなくてもいい。
いつかは黄昏と一緒にいる時のような、かけがえの無い時間を産み出せればいいな。
隣を歩く溢歌の横顔を眺める。一緒に暮らすようになってから、僕に見せる表情のバリエーションも豊かになってきたような。以前は無邪気に笑っていてもその心の中までは見通せない感じでいたけれど、今は素直に感情が伝わって来る。
僕がいる事で溢歌の不安や心労が軽くなれば、これほど嬉しい事は無い。
「青空クンって本当に面白いわね」
「いきなり、何?」
溢歌が僕の方を見て、口元を押さえ笑う。
「本人は気付いていないと思うけれど、眺めていて飽きないわ。唐突に変な事するし」
「そうかな・・」
黄昏じゃあるまいし、と言葉を続けそうになり慌てて口を塞いだ。その仕草を見ていた溢歌が小さく吹き出す。
「私も自分で自分の事を変わっている人間だと思うけれど、青空クンも相当変わっているわよ。何か行動を起こす時に、前触れがほとんど無いのよね。だから私も想像していない質問が突然飛んで来て頭を悩ませたりするの」
「それは・・ごめんなさい」
何だか釈然としないまま頭を下げる。おそらく溢歌の言っている事は正しい。でも自分だと全く気付かないので、首を傾げるばかり。千夜達に溢歌の言った事を尋ねてみるときっと同じような答えが返ってくるに違いない。
「でも、そうした部分も含めて好き。退屈しないもの」
戸惑う僕にウインク一つし、溢歌は肩にかかる横髪を指で弄んでいた。
多分僕と一緒にいる女性はみんな大変なんだろう。本人が一番普通の人間だと思っているのがまずいのかも知れない。イッコーだって時折僕の事を皮肉るし、千夜には何度も愛想を尽かされている。キュウもよく僕の為に尽力を注いでくれているものだ。
そう考えると、一緒にいて空気のように身近な存在の黄昏は、とても大切な人なんだと改めて痛感した。溢歌と黄昏、どちらかを選べと言われても今の僕には結論付けられない。
真人間になりたいと常々思う。人間としてもっと成長できたら、とドロップアウトの一個人が人生を半ば放り出し創作なんて言うものに全精力を注ぎ込む決心をしたはずなのに、どんどん人として駄目になっているような感じもしなくもない。今なんて性欲の泉に片足埋まっているようなものだもの。
全身にだるさみたいなものが付き纏っているのも原因の一つだろう。爽快な気持ちになるなんて溢歌といれば無数に襲って来る訳だけど、ライヴの時のような達成感が近頃無いせいか、気持ちがリセットされている感じがしない。「何とか乗り切った」と言う安堵感の方がここの所のライヴには多かったし。それもこれもまともなバンド活動ができていないせいではあるのだけど。
例えばイッコーみたいに、『days』以外でも音楽活動をやった方がいいのだろうか。ありえないけれど歌が溢歌、ギターが僕とか。そもそも一人で活動するような人間でも無いから、別活動しようにも様々な制約は出て来そうで実行に移すつもりにはなれなかった。
やはり僕には『days』しか音楽活動は考えられない。
そういや黄昏はどうしてるかな。愁ちゃんと仲良くやっているだろうか。
溢歌が僕の元に来てくれたおかげで、以前ほど黄昏の事に関して気を揉む事も無くなった。前回の練習にもちゃんと出てくれ、少しずつ調子も上向いている感じで次のワンマンライヴは何とか黄昏中心で行けそう。若干イッコーの歌う出番も多くなりそうかな。
黄昏も今頃は溢歌と会えなくなり困っているかも知れないけれど、僕の前では別にそうした様子も見せなかった。心の空いてしまった部分を埋めてくれる愁ちゃんがいるおかげか。しかし黄昏も、どちらに恋愛感情があるのか僕には判りかねる。
バンド活動も落ち着いたら、一度腹を割って黄昏と話をした方がいいんだろうな。年末まではまだ時間もあるから、今はのんびりと構え無理難題は後回しにしよう。
いつもの岩場の見える港へ出ると、海鳥の鳴き声がよく聞こえて来た。溢歌が岩場とは反対の方向を指差し、堤防の階段を先に降りて行く。普段僕が足を運ばない、なだらかな斜面のそちら側には一戸建ての古びた簡素な家が建ち並んでいて、磯の香りがきつい。この港は現在漁業には使われていないらしいけれど、漁師の住まいはまだ残っている。
「しばらくそこで待ってて。必要なもの取って来るから」
不意に溢歌が振り返りそう言い残すと、サンダルを鳴らしながら石畳を駆けて行った。僕に家を見せたくないのかな。
荷物持ちを手伝うのと好奇心で思わず後を追いかけたくなるのを堪え、ここで待つのも何なので一旦港まで戻る事にした。溢歌の家を見てしまうと彼女の幻想的な部分が一つ僕の中で潰れてしまいそうな気もしたので。第一溢歌も家へ戻るのも今はまだ不本意だろう。自分の意志で帰りたいと言い出した時に、家の前まで送り迎えしてあげるつもり。
目立つように船の止まっていない波止場の先端まで歩き、腰を下ろす。目の前に広がる昼の海と海鳥の鳴き声に、急速に叙情的な気持ちが襲って来る。どうも秋の自然は感傷的になって困るな。
今もあの岩場に黄昏と訪れる日は来ていない。愁ちゃんが僕達の前に登場してから、随分と疎遠になったものだ、以前と比べると。あの岩場を眺める度にまだ4人だけだった日々を思い出し、少し胸が詰まる。
もう一度、あの日に戻れたらなと思う僕がいる。
この状況が悪いなんて思わない。でも、恋愛もまだ知らないあの頃はただ純粋に音楽に打ち込んでいられた。年老いてしまうのはまだまだ早いけれど、余計な事を考えずに一つの事に集中できた時間と言うのはとても貴重で、技量なんて無くてもただその上を目指す確固たる意志だけで地に足が大樹のようについていた。
あの頃と比べると今の僕は、どっちつかずでふわふわした存在に思える。
気付くと溢歌と音楽、溢歌と黄昏を天秤にかけている自分がいて、嫌になる。
恋愛も自分のやりたい事も両立させる術をまだ知らないだけなんだと思う。溢歌が音楽嫌いと言うのも大きい要素ではあるけれど、それを抜きにしても。
黄昏の出来を心配している場合でもない、実の所。ライヴを演るのが内心怖いと言うか、今の自分じゃ場違いな気がして・・。それでも『days』を望んでいる人達もたくさんいる訳で、その人達の為にも止まる訳には行かない。第一僕はリーダーなんだから。
しかしその責任感が僕を中途半端に悩ませているのも確かで、にっちもさっちも。
考えていると別の意味で感傷的になってしまうので、頭の中をからっぽにし、その場で背中を地面のコンクリートに預けた。淡くなった青い空が目に飛び込んで来る。
お尻のポケットに入れている財布と携帯電話が邪魔なので、取り出し顔の横に置いた。ついでに留守録が入っていたりしないか確認する。溢歌と一緒にいるようになってからは着信のバイブもOFFにしているので、一々確認しないといけない。
何も着信が無い事を確認し、今月のスケジュール確認の為カレンダーも見てみる。
ああそうか、とその時気付いた。
確か今日から、千夜の受験があるんだっけ。前回のライヴから千夜の事なんてほとんど思い出しもしなかった。半年前からずっと気にかけていた筈なのに。
私学は第一志望では無いと言っていたけれど、受かっていて欲しい。万が一落ちたのなら僕達のせい。本人はそう言わなくても、僕はずっと後悔の念に捕らわれるだろう。今の僕にできる事は心の中で頑張れと言う以外に無い。
千夜の結果次第でバンドのスケジュールもまた大きく変わる。もし今回駄目で、本命の国立も万が一駄目なら千夜はどうするつもりだろう。僕みたいに大学目指すのを止め、バンドに打ち込むつもりでいるのか。
言ってみればバンドは運命共同体みたいなもので、僕一人だけの人生が圧し掛かっている訳じゃない。なんて事は当たり前なのに、改めて考えてみるとかなり重いものを背負っているんだなと痛感する。いくらリーダーでも、本来はそこまで深く考える必要なんて無いと思うけれども。このバンドが駄目で全ての道が断たれるなんて事は無いもの。
黄昏と、僕の二人を除いては。
きっと溢歌や愁ちゃんが横にいてもいなくても、僕達の生命線である事に変わりは無い。だからこそ黄昏も万全には程遠い状態でも振り落とされないように必死に僕の裾にしがみついて来たんだし、僕も黄昏と一緒にステージに立つ事への想いを捨て切れずにいる。
いや、捨てようなんて言うつもりは毛頭無い。溢歌と音楽どちらかを選べと言われれば、片方自分の手の平から零れ落ちてしまう事があると言うだけ。
単に溢歌とずっと一緒にいたいと言う僕の弱い心のせい。おそらく溢歌は僕がどんなに駄目な人間になっても、自分の事を見てくれれば他に何もいらないと言うだろう。そこに知らず知らずの内に僕は甘えているのかも知れない。
今の所この状況を円満に解決する方法はどうやら無さそう。なので何かのきっかけによって状況が変化するまで、自分から動く事は止めておく。
手の携帯を横に置き、寝転びながらうんと背筋を伸ばす。身体の芯から大きく息を吐き出し、障害物の無い場所で四肢を大きく伸ばすと気分も晴れる。
次のライヴの日も近い。そう言えばここ最近は全然まともなミーティングをしていない気がする。昔の黄昏みたいに、遅れてスタジオに入って来ては終わると真っ先に帰るもの。
女の為、と言えば格好はいいけれど、僕も他人の事を言える筋合いじゃないよね。
柔らかい太陽の光を浴びながら冷たいコンクリートの上に横たわっていると、脳内の幸せ回路が全開になり、物凄く気持ちいい。うちの家は狭いから、人が二人以上いるとどうしてもなかなか気軽にくつろげる状況でもないし。
そのままうっすらと目を閉じていると、どこからか睡魔が襲って来て半分夢を見ているような状態になった。起きていようと言う意志と眠気が重なるとよくこうなる。見ている夢と意識は別々で、自分がどんな夢を見ているのかもよく判らない。でも夢は続いて行く。
意識が完全になくなるまでぼんやりしていると、突然顔に物が降って来た。
「わぷっ」
「何呑気に寝てるの、待っててって言ったでしょう?」
次々に顔に被さる物を払い除けると、寝ている僕を覗き込む溢歌の姿があった。降って来たものは溢歌の衣服らしい。周囲に散らばる衣類を海に落ちる前に慌てて拾って行く。
「思ったより少ない量だね」
「必要ならまた取りに戻ればいいわ。半日分の距離が離れている訳でも無いもの」
溢歌の持っていた片手の袋を取り、衣服をしまう。荷物も両手の普通サイズの紙袋分だけで、普段から溢歌が着替えに無頓着なのが分かる。僕が手伝う必要も無かったみたい。
「片方持つよ」
財布と携帯をポケットにしまい、ズボンの汚れを払い溢歌の荷物を片方貰う。
「優しいのね、青空クンは」
帰ろうとする僕の背中に溢歌が声をかけ、こそばゆい気持ちで照れた。
「多分ね、人の事を気にかけるのが好きで好きでたまらないんだよ、僕は」
自分でそう思った事は大して無いけれど、そんな所じゃないかな。
臭い台詞を言ってしまい赤い顔で視線を泳がせていると、溢歌が額を僕の背中にそっとくっつけ、小さな声で呟いた。
「ありがとうね」
言葉にならない気持ちがこみ上げて来て、溢歌の頭を優しく撫でてあげた。
そこで家族の事を訊こうかと一瞬思ったけれど、止めた。実家に帰ったのだから口喧嘩していて当然だろう。理由は向こうから話してくれる時まで、待っていよう。
「どうする?岩場、行く?」
ここまで来たのでせっかくだからと誘ってみると、恥ずかしそうに頷く。時折妙に甘えた所を見せるね、溢歌は。ころころ変わる表情や仕草が、一緒にいて全く飽きない。
少し湿った岩場に足を取られないよう注意しながら剥き出しの岩肌を登って行く。海側から刺す太陽の光はとても優しく、何度も立ち止まりきらめく海を眺めた。
「この眼に映るものを切り取って、額縁にでも納めておきたいね」
「そう?思い出なんて薄れて行くだけよ。眼だけじゃなく、耳に聞こえる波の砕ける音とか肌に感じる潮風の冷たさとか、潮の香りとか。体中を使って感じるこの瞬間が全てよ」
目の前の景色に見とれて呟く僕に、溢歌が目を細め言った。
「刹那的なんだね」
「別に・・ただ、止まっているものよりは動いているものの方がいいのよ。それだけ」
僕は否定的に言ったつもりは無い。溢歌の言葉も、音楽をやっているとよく解る。
「いっその事、この景色と同化してしまえたらと思う時もあるわ」
先端まで辿り着くと、まだ溢歌が話を続けるので僕も乗った。
「飛び込むの?」
崖下を指差してみせる。何度もここに来ている僕も、海面を覗き込む勇気は無い。
「まさか。痛いじゃない」
「それもそうだね」
「だから、妖精にでもなれたらと思う時があるの。それならいつまでも一緒でしょう?」
妖精のような印象を受ける溢歌にそんな事を言われると、正直戸惑う。
「僕の中では初めて出会った時から妖精のように見えるよ、溢歌の事」
「・・馬鹿ね、こんなに人間じみた妖精なんている訳ないじゃない」
最大級の賛辞を送ったつもりなのに、照れる事なく溢歌は簡単に流した。
「ごはんも食べず、お水も飲まず、ずっと生き続けられる訳なんてないもの。人間の欲望って厄介よね。どれだけ邪魔に思っても、いつまでも付き纏ってくるんだから」
吐き捨てるように言うと荷物を下ろし、全身で大きく息を吸い込む。
「寝るにしても食べるにしても・・そこに幸せを感じないとね」
「身体の無い、意識だけの存在になれたらいいのに」
「幽霊って事?」
「違うわ。いなくなってしまえばそれまで。何もかもなくなってしまうじゃない。だから、地球――自然の一部になれたらなって。永遠とも思えるような永い時を、ずっと見守り続けるの。だから妖精なのよ」
昔は僕も人生に行き詰まりを感じ、ただ流れ行く時が僕と言う存在を消してくれればいいと思った事はある。けれど溢歌の言うような事を考えた事は無かったと思う。
溢歌は両手を広げ、海側から吹き付ける風を全身で受け止め、柔らかく微笑む。
「ここに来るとね、自分が妖精になった気がするの。風の音、波の音――この身体が消えてしまって、感じるもの全てになれた感じがするのよ」
幸せから来る笑顔なのか、諦めから来る自分自身への嘲笑なのか、僕にはよく判らない。
ただ、僕や黄昏と一緒にいる事よりも、本当はその想いが一番強く望んでいるように思え、不意に手を伸ばしそうになる。
「――それは、自分自身がいなくなってしまえばいいと言う事?」
僕の問いに溢歌は首だけ振り向き、他人事みたいに答える。
「存在理由とか、意義とか、自分じゃ私にはよくわからないの。私をこの世界に縛り付ける人がいるから、ここにいるのよ。そういう意味だと、私はもう妖精なのかもね」
ダンスするように、その場で優雅に一回転してみせる。勢いでそのまま崖下に落ちてしまいそうで、はらはらする僕を見て溢歌はおかしそうに笑いを堪えていた。
「今の私は、青空クンの妖精なのよ」
その言葉は僕が望んでいた事なのに、いざ口にされると思わず吹き出す。
「笑う事ないでしょっ」
「ごめんごめん、おかしくってつい」
顔を真っ赤にし、駄々っ子みたいに叩いてくる溢歌が可愛く、僕の頬も緩んだ。
そのまま太陽が赤くなり始めるまで僕達は岩場の先端で景色を愉しみ、帰宅した頃にはすっかり日も暮れていた。日に日に昼間の時間が短くなり、秋が深まるのを感じる。
そろそろジャンパーを出す季節だけど、溢歌は外出する時はいつでも黄昏に貰った物を羽織っている。本音としては僕が貸してやりたい。でも、無理に反感を買うような事は止めておいた。僕も徐々に気にならなくなってきているもの。
その後カルボナーラを作り二人で食べ、風呂に入り、日付が変わるまでいつものように布団の上で交わった。愛し合い過ぎると、いけない事が段々愉快になって来る。
僕が妖精になるなら、溢歌の妖精になりたいと願った。
翌日、カーテンの向こうで太陽が昇っている時に目覚め、隣で無防備に眠っている溢歌のほっぺにキスをし、バイトへ行く支度を始める。以前は遅めの入りで、最近は朝方にシフトを回して貰った。それだと休憩時間に岩場で溢歌と会える。
僕がバイトに出ている時、溢歌は色々な場所をぶらついているらしい。休憩時間と終わりの時に、いつもの場所で待ってくれている。家から少し足を伸ばせば川や山等、簡単に自然に出会えるから、家に籠もっているよりいいのだろう。自転車の鍵は貸してあげていても、徒歩で散策するのが好みなのか使っている様子は無い。
とにかく今日も、溢歌の事ばかり考えながら身に入らないバイトの仕事に入る。このままだと使えない奴としてクビにされそうな気がしなくもない、店長が身内でも……。
何とか仕事の前半を終え、今日もまた昼食を溢歌と取ろうと岩場へ向かう。ここの所ずっと休憩時間は溢歌との逢瀬に取っているから、仕事仲間と雑談する機会も自然と少なくなり肩身が狭い。
しかし自分の中では溢歌と一緒にいる事が一番なので、天秤にかけるまでも無かった。
急いでスタジオを出て、海岸へ向かおうとする。と、入口の前に人影が立ち塞がった。
「…………。」
あまりの驚きに言葉も出ないでいると、目の前の人物は僕を見下ろし言った。
「どこへ行こうとしてるのー、せーちゃーん?」
制服姿のキュウがそこに立っていた。腕を組み、険しい顔で丸眼鏡の向こうから僕に鋭い目線を投げかけている。
「ちょっと、どーゆーつもり?」