→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   094.天使のささやき 

「何度電話かけても一向に出ないじゃないのよっ」
 凄まじい形相に思わず後ずさりする僕に、怒髪天のキュウが問答無用で詰め寄る。店の入口から階段下まで勢いで押し戻されてしまった。
 目線を合わさないように視線を反らすと、僕の視界に入るようにキュウも腰に手を当てたまま上体を動かす。スタジオの人達も何かと思い僕達二人に視線が集中する。
 キュウが怒っている理由は簡単。僕が溢歌と一緒にいるようになってから、極度に連絡を取り合う回数が減ったから。留守録にも出ないで、それでもバンドは問題無かったので放っておいたら、導火線に火がついてしまったみたい。
「と言われても……僕も忙しいから……」
「どれだけ忙しくても電話するとかメール打つくらいできるでしょっ」
「僕がメール苦手なの、知ってるでしょ」
「そーゆーコトじゃなくて、連絡入れてるんだからちゃんと返事くらいよこしなさいって言ってるの。病気か何かで家で倒れてるのかと心配しちゃうじゃない」
「あー……でも、似たようなものかも……」
「何か言った?」
「いえ、何も」
 いつも溢歌と気の済むまで布団の上でぶつかり稽古し、精根尽き果てているもの。
 しかし正直に話そうものなら、キュウの火山が噴火するのは目に見えている。
「休憩時間の間、みっちりと搾ってあげるわ」
「いや、ちょっと……悪いけど、待たせてる先客がいるんで」
 ここでキュウと長話をし、溢歌に会いに行けなかったら後で機嫌が悪くなる。僕の耳を摘み引っ張って行こうとするキュウの腕を払い除け、脇をすり抜けようと試みる。
「待ちなさい、よっ」
「うわわっ」
 上手く行ったかと思いきや、両手で右腕を掴まれ思い切り引っ張られた。いつにないほど怒っているのか、額に欠陥が浮かび上がっている。
「どこ行くつもり?アタシ学校早退してまでわざわざやってきたっていうのに」
「だから、待ち合わせが……」
「ちゃんと連絡入れてるのにメールを読まないアンタが悪いんでしょうっ」
「ストップストップ」
 首固めをかけられたので、慌てて背中にタップする。どうやら説得しないと駄目みたい。
 乱れた上着を整え、小さく深呼吸してからキュウの目を見て言葉を紡ぐ。
「あの、明日の休みにでもじっくり会って話ができないかな。待たせている相手、携帯持っていないからどうしても行かないと悪いし」
「別にいーじゃない一日くらい。後で謝れば済む話じゃない」
「いや、いつもずいぶん長い事待って貰っているからそれはできないよ」
「アタシとそのヒトどっちが大事なのよっ」
「そんな大声で誤解を招くような事……」
 周囲に変に取られてしまうので大声で喚き散らすのは非常に止めて欲しい。頭痛がして来て額を押さえていると、何かに思い当たったのかキュウの表情が突然にんまりとなった。
「はは〜ん、そーゆーコト。ズバリ、」
 鋭い眼差しで僕に力強く人差し指を向け、
「女ね!!」
大声で言い切った。口を大きく開け呆然としている僕をよそに、周囲のスタッフから拍手が湧き起こる。
「違う違う違うってば!そんなのじゃないって!」
 本当はまさしくそんなのなんだけど……。
 懸命に否定しても、全く信用してくれる様子も無い。当たり前か。
「じゃあ誰に会いに行ってるのよ。教えなさいよ。バンドのマネージャーのアタシにも知る権利があるわ」
「いや、それはプライベートな事なので……って、囃し立てないでよっ」
 仕事場で行われている修羅場を前に、スタッフのみんなが口笛やら声援を僕達に飛ばして来る。心底恥ずかしい思いに、一刻も早くキュウをこの場から連れ出したかった。
「ヨシ!それじゃ早く会いに行きなさいよ!アタシがその後を黙ってつけていくから」
「そんな堂々と公言されても……」
 こうも自信満々に言い切られると、説得なんて到底無理に思えてくる。これ以上押し問答を続け仕事場の迷惑になっても困るし、このままだと休憩時間も潰れてしまう。この場に叔父さんが用事で今いない事だけが救いと言えた。
「とにかく、相手にも迷惑になるし、悪いけど今日の所は帰ってくれないかな」
「……ひどい、ひどいわ。アタシと言うものがありながらっ」
「だから周りのみんなを誤解させる事は……あー」
 どこからか取り出したハンカチを噛み嘘泣きをされても困る。僕一人だけなら軽くあしらえるけれど、周囲に人がいる状況だと視線の冷たさに心苦しくなる。
 第一キュウは僕の恋人でも何でもないのに。
 ――なんて事を口に出そうものならますます僕が不利になるのは明らかなので、言葉を飲み込み溜め息をついた。
 この状況じゃいくら説得してもラチが開かない。
「とりあえず、外で話そうよ。ここで言い合うと迷惑になるだけだから」
「ちょっと、まだ話は終わってないわよ」
「いいからいいから」
 スタジオのみんなに苦い会釈を振り撒き、外へ。何なのよ全くと言った顔で渋々キュウも言う事を聞いてくれた。
「で、その何とかさんにこれから会いに行くワケ?アタシ、勝手について行くわよ、いい?」
 冷めた目で相槌を求めて来るキュウ。僕が首を横に振っても後を追い掛けて来るだろう。
 説得はまず無理。しかも時間が無い。となるとここは……。
 逃げる。
「あっ、ちょっと!!」
 突然の僕のダッシュで置いてけぼりにされたキュウが慌てて声を上げるも、既に遅し。海岸へ向かい、歩道を一目散に駆け出す。視界を後ろに向けると急いで後を走って追いかけて来るキュウの姿が見え、すかさず次の脇道へ駆け込んだ。
 大声で叫びながら懸命に走っていても、やはり男と女ではスタミナも脚力も違う。普段僕も鍛えていないとは言え、ステージや練習の成果で持久力だけは保てているおかげか、差は開く一方。2,3回ジグザグに角を曲がっただけで、簡単に巻く事ができた。
 遠くでキュウの喚く声が聞こえた気もしなくもない。胸が痛まないと言えば嘘になるけれど、溢歌の事が知られてややこしい事になるよりは多少恨まれてでもこの方がいい。謝罪の言葉を心の中で何度も繰り返し呟きながら、そのまま脇道を通り海岸沿いへ向かった。
「どうして酷い汗かいているの?」
 と防波堤の下で待っていてくれた溢歌が汗だくの僕を見て尋ねて来たけれど、適当な嘘で笑って誤魔化しておいた。普段は全く嘘なんてつく気にもなれないのに、こうした状況だと考えるよりも早くでまかせが口をついて出るのは女性関係のせいだからか。
 念の為携帯電話を確認すると、キュウから留守録とメールが届いていた。気が滅入りながらも溢歌と別れた後、中身を確認もせずに謝りの返事を慣れない手つきで打っておく。明日か明後日にでも改めて話し合いができる場を持とうと。さすがにまたいきなりバイト先に殴り込んで来られると変な噂が立ってしまうので、余計居心地が悪くなる。
 休憩時間も終わりスタジオに戻った時には、キュウの姿は無かった。その後、スタッフのみんなにあれこれ訊かれたのは言うまでも無い。
 二日後、バイトが終わり溢歌を岩場まで迎えに行き、電車の駅で向かい合わせのホームに別れる。事前に用事が入ったと言っていたにもかかわらず、今日の溢歌は冷たかった。まさか女性に会うからとも言えず、渋々バンド関連と打ち明けたからか。
「わざわざ迎えに来なくたって、月が昇るまでここで海を眺めてるわ」
 昼の休憩時間に僕の好意を邪険に溢歌が払い除ける。
「そうしたら僕が家に帰った時にいるかどうか解らないじゃない。それに、溢歌を一人で放っておいたら朝日が昇るまでここに居そうだしね」
 それでもいつものように反感の色も見せずに微笑むと、渋々納得してくれた。
「なるべく早く帰るようにするから、お味噌汁でも作って待ってて」
 別れ際にそう言い残し、僕は溢歌の手をほどき笑顔で見送った。さすがに人混みの中でキスをするなんて言う映画の恋人みたいな真似、度胸の無い僕にはできなかった。
 反対のホームから電車が発車し、溢歌の姿が見えなくなったのを確認するとすぐさま水海行きの電車がやって来た。個人的な理由で水海に出かけるのも随分久し振りな気もする。
 昨日の休みにキュウと会う事もできたけれど、溢歌と一緒にいたかったので一日ずらした。
「さて、言いワケを聴かせてもらいましょーかー」
 陽も沈み始めた夕暮れ、水海駅の北口公園の広場で待ち合わせしていたキュウが出会うと開口一番、おどろおどろしく詰め寄って来た。
 眉をひくつかせながら凄みのある声で僕を脅す。ひとまず周囲の視線を確認してから、これ以上詰め寄らないようにジェスチャーした。平日でもこの時間帯だとこの石畳の広場も人通りで賑わう。幸い僕達に気を取られている人なんて一人もいない。
 正面から言い分を聞いて貰おうと、咳払い一つし言葉を返した。
「無理矢理ついて来ようとしたキュウが悪いんじゃない」
「あのね、オンナはそんな論理的なコトで納得しませんコトよ?」
 引きつった笑いに怒りが堪え切れないのが見える。駄目だ、話にならない。今回はちゃんと連絡を取って待ち合わせしているとは言え、前回の僕の不届き千万な振舞いに未だ腹を立てているらしい。当然と言えば当然で、流石にバツが悪かった。
「すっ転んで足擦りむいて制服までクリーニングに出したんだから」
「本当?」
「ウソついてどーすんのよ。ヒジも打ったのよ、ホラ」
 股下数センチしか無いスカートから生えている二本の足は普段履かない赤のストッキングで覆われていて、上に羽織ったカーディガンの左袖をめくると赤く腫れた肘が見えた。
 ついつい溢歌と対話している時の癖で冗談かどうか疑りかけてしまった自分が情けない。しかも僕の傍若無人な行動のせいでキュウが怪我するだなんて思ってもみなかった。
「ごめんなさい」
「素直に謝ればよろしい」
 心の底から頭を下げると、キュウは背筋を伸ばし寛大な気持ちで僕を許してくれた。根に持たない所も彼女らしい。
「じゃ、ちょっとついてきて。歩きながら話しましょ」
「え。あ、うん」
 謝ったのでこれで今日は終わりだとつい勘違いしてしまった。次のライヴの話もあるのを忘れていた自分が、改めて活動意欲が減退している事を痛感する。
「学校は?」
「今日はサボり。そろそろ期末試験だから、出てないとやばいけどねー」
 どこへ向かうかも分からず、ここ数日の天気やら日常生活やら他愛もない会話を交わしながら繁華街の中をキュウについて行くと、小さなビルの前で不意に足を止めた。
「……カラオケ?」
 見上げると大きな看板が2階部分に設置されている。
「気がねナシに喋れるトコに行きたかったのよ、そのへんの店じゃ人目がつくから。何、やっぱりホテルの方がよかった?」
 キュウのありえない発言に吹き出してしまい、問いかけに全力で首を横に振る。真っ赤な顔で慌てている僕をからかい声を立て笑うキュウは、とても楽しそうに見えた。
「安心しなさいよ、ココ行きつけで店員と仲よしだから、変なコトしたトコロで止めに来るなんてコトないから。むしろ喜ばれるわよ〜」
 恐ろしい事言わないで下さい。と言うかここで男食ってるんですかあなた……。
 あまりこれからの事を想像しないようにしながら、淡いライトで彩られた店の階段をキュウに続き昇って行く。少し遅れてついて行くと踊り場でキュウのスカートの中身が見えそうになり、慌てて同じ段まで駆け上がった。変な部分でまだ純情。
 どうやらこのビル全体がカラオケボックスのようで、2階の受付で女性の店員さんとキュウが手を振り何やら話し合っていた。どうやら仲がいいらしい。てきぱきと部屋を取る慣れた姿を横目で眺めていると、普段から結構通っている事が解る。
 そう言えばこの子のプライベートって、知っているようでほとんど知らないんだっけ。ついバンドのマネージャーでいてくれるキュウがその人の全てだとばかり思い込んでいた。
「えっと、これとこれ」 
 口を挟む間も無く、キュウが勝手に僕と自分の分の注文を頼む。案の定、僕の分はアルコール。年齢制限があるのでキュウは普通のソフトドリンクを注文していたけれど、部屋へ行くと交換させられるだろう。でも、今日の僕はそれを止める権限が無い。
 上の階に案内され、少人数用の狭い部屋に案内される。案内してくれた女性定員が去り際に僕の顔を見て不吉な笑いを浮かべたのが無性に気になった。
 早速キュウが浮かれ気分でリモコンを用意し、慣れた手つきで曲を入力していく。曲が始まる前の間にリモコンを手渡されても、最近の曲なんて全然知らないから歌う気にもなれなかった。下手だし。
 むしろ、キュウの歌声を隣で聴いている方が遙かに気持ちいい。
 コンビニの有線で流れている若い女性人気アーティストの新曲を、軽く振り付けなんか入れながら歌う。アイドルとかの歌なんかには全く興味が無いけれど、キュウが歌うといい曲に聞こえる。と言うか、甘い声で歌っているキュウが可愛い。
 一曲歌い終わった所で、合間に運ばれてきたドリンクに口をつける。
「僕はいいから、色々歌ってよ。アップテンポなのからバラードまでまんべんなく」
「そんなにアタシの七色美声が聞きたいの〜?いいわよ、見ててなさい」
 アルコールが入って気分が良くなったのか、カーディガンを脱ぎ捨てると席を立ち、次々に曲を入れ熱唱して行く。一曲終わる度にお酒を飲み干し、次を頼む。
 相変わらず昼間も短くなったと言うのに、上も下も涼しげな格好。お酒が入っているから肌がほんのり赤く、色気を発散している。女性のからだのしくみを知ってしまった今でも、目を反らせてしまいたくなるくらい見ているこちらが恥ずかしい。
 何より、キュウと二人きりの空間と言うのが大きい。普段はファミレスやイッコーのお店等、他の人やみんながいるから笑って済ませられた。以前酔い潰れたキュウを介抱し、そのまま行為に及ぼうとして未遂に終わった事を思い出し、耳まで真っ赤になってしまう。
 どぎまぎしながら、興奮を抑えつつキュウのワンマンステージをそばで楽しむ。何か、前にイッコーと3人でカラオケに来た時にも思ったけれど、意外と歌が上手い。楽しんで歌っている感じが伝わって来るので、見ているだけで飽きない。
 そのまま30分位キュウが歌い続けた頃、歌う様子の無い僕にしびれを切らしたのか鼻息荒くマイクを押しつけて来た。相当酔いが回っているみたい。
「ほれ、何か歌いなさいよ」
「僕はいいよ。気持良さそうに歌っているのを横で眺めているだけでも楽しいし」
「あー?アタシが歌えって言ってるんだから歌えってのー」
 これじゃただの柄の悪い酔っ払いでしかない。押し付けられたマイクを断る事もできず、渋々カタログから知っている曲を探す。手持ち無沙汰なキュウはその間に手元のグラスの中身を飲み干し、新たにお酒をいくつか注文していた。疲れが増す……。
「ほわーいい気分―」
 未成年が学校さぼってカラオケBOXで酔い潰れていいのだろうか。僕が泣く泣く一曲歌い終わる頃には、すっかり目がとろんとしていた。動いていないと眠気が増すみたい。仕方無いのでもう一曲僕が入れると、またお酒を注文していた。
「あんまり飲み過ぎるとまた寝てしまうよ」
「いいのいいの。どーせウチ近くなんだしせーちゃんに送ってもらえば」
 人の迷惑を考えず勝手な事ばかり言う。しかしそれが男の甲斐性と言うものと腹を括る。今日の僕はキュウに逆らえない立場にあるので、素直に言う事を聞こう。遅くならなければ溢歌も許してくれるだろう。
「じゃあ、酔い潰れる前に話をしておこうよ」
「そーね。歌ってばかりじゃもったいないもの。あ、来た来た」
 ちょうど次のお酒が運ばれて来て、キュウが嬉しそうに声を上げる。飲み放題にしたからと言って、さすがに飲み過ぎではあるまいか。それと、今の言葉は一体。
 ステージ上でも僕はあまり動き回らなく、カラオケでマイクを手にした時も椅子の上で固まって歌っている。相変わらず歌唱力も黄昏のように上手く行かない。ってキュウ、じっと見つめられると物凄く歌い辛いんですけど・・。
 一曲歌い終わった後、疲れがどっと出た。
 テーブルの上を片付け、対話できる状況を作る。キュウはコップの水を一気に飲み干し頭を振り、酔いを覚ますとマネージャーの顔に戻った。
「えっとね、おねーさまから業務連絡」
 鞄から取り出したメモを開き、キュウが切り出す。
「次のライヴは前日の音合わせだけ練習に出られるだって。ホントならもっと4人で合わせておきたいんだけど、うまくいかないわよねー。受験のためだからしょーがないか」
 そう言えば、文化祭のライヴ後に僕一人早めに引き上げた後、バンドの誰とも連絡を取っていない事に今になって気付いた。千夜の事も考えてか、打ち上げなんて全く頭に入れていなかった。
「ああ、千夜も出られるんだ、それは良かった」
 自分のメモ帳を懐から取り出し、確認してみる。次はまたワンマン、それ以降に関してはライヴスケジュールは全く未定。数ヶ月前から予約を入れてあるとは言え、今回はやっぱり乗り気がしない。黄昏も本調子じゃないのに、また同じ苦しみを味わうかと思うと。
「黄昏も歌う気でいるし、今度はドラムマシンを使う必要もないから、いつも通りの練習でいけるわね。おねーさまがいない間に一度合わせておく?」
「そうだね……どうするかな」
 ぼんやりと答える。集合をかければイッコーも黄昏もすぐに集まってくれるだろう。しかし、進んで練習をしようと言う気にはなかなかなれなかった。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、ごめん。考え事をしてて」
 横からキュウに強い口調で言われ、我に返る。
「イッコーも今月は特に用事が無いみたいだし、練習入れるなら連絡しておくわよ。何かちょくちょくバンド仲間のライヴに飛び入りしてるらしいけど」
「そうなの?」
 初めて耳にした話題なので、少し気になった。
「あら、前も結構やってたんでしょ?夏とかライヴたくさん入ってる時なんか全く余裕なかったけど、暇になってきたからまた始めたんじゃない?そんなかけ持ちやってるワケじゃないんだから、目くじら立てなくたって。――もしかして、妬いてる?」
「別にそんな。ただ、今のバンドの空気が悪いから、羽を伸ばしたいのかなって思って」
 そうか、イッコーも自分なりにやれる事をやっているんだ。僕と黄昏に挟まれ気分も悪いだろうし、千夜も受験があるから一番割を食っているのはイッコーなんだろう。
 ……何だか、今更とても申し訳ない気持ちになった。せめてイッコーにだけは、事の顛末を話しておいた方がいいか。ああ見えて、僕より遙かにしっかりした性格だし。
「年が明けてからはもっと動き難くなると思うし、好きにやらせてみるのもいいんじゃないかな。勿論最終的には僕達のバンドに還元してくれれば言う事無しなんだけどね」
 何も目くじら立ててイッコーに文句を言う事は無い。『days』で今まで通りベースを弾いてくれれば、他で何をしようと一切口を挟むつもりは無かった。
「そのままどこかへ行っちゃったりしてー」
「はは、まさかね。あるとすれば、『days』が解散した時だよ」
 と笑い飛ばしてみるものの、解散=黄昏が抜ける、と同様の意味なので、楽観視はできない。これまでのようにただ黄昏の気力が減退しただけならまだしも、僕との仲が悪くなってと言うのは過去に無い。勿論黄昏の事を信じている。でも、その原因が第三者の存在にあるのでこれまでのようにスムーズには絶対行かないのが分かり切っている。
 溜め息をつく僕の横顔を見て、キュウも僕が何を考えているのか解っているよう。
「とにかくせーちゃんが全面的に謝っちゃえばいいのよ。それで何とかなるんじゃない?」
「それで納得してくれればいいんだけどね……」
 この話はもう終わりにしよう、僕もキュウに溢歌の事を話すつもりは無いし、何の解決にもならない。残っている自分のドリンクを飲み干し、気持ちを切り替える。
「とりあえず一度くらい、スタジオの練習入れておきましょーか。それでいい?」
 断る理由をでっちあげる訳にもいかず、渋々納得した。ライヴの事を考えれば、やらないよりやる方がいいのは間違い無い。ああ、一年前の情熱が欲しい。
「……何だか妙に浮かない顔よね。他に問題でもあるの?」
「んー、いや、そう言う訳じゃないんだけどね……自分でも不思議と言うか……」
 キュウの視線が僕の目を射抜き、僕は歯切れの悪い受け答えをした。
「どうも実が入らないような、どこか締まりの無い気分でいるんだよね……。以前ほどガツガツになっていないと言うか。張り詰めていた気持ちが緩んでしまったようでさ」
「あら、安心するのはまだ早いわよ?夏は大変だったもの、その反動が来るのは当然じゃない。クリスマスライヴもあるんだから、ここからまた気合いを入れ直さないと」
 励ましの言葉に、少し気分が軽くなった。確かに、僕もどんな時でも全力を出し切らないといけないと考えてしまう所がある。人間なんだから好不調のバイオリズムはあるし、いつでも最高の結果を残すなんて到底無理な話。
 それは解っていてもいつまで経っても考えが変わらないのは、真面目な性格から来る。今は全く楽器を握る気になれないのも、緊張の糸が切れてしまったせいか。
 とにかく、お金を払い観に来てくれる観客には言い訳なんて通用しないから、最低限やれる事はやっておこう。受験生なのに勉強以外の時間をほぼバンドに費やしてくれる千夜にも申し訳が立たない。
 しかし、同じ高校生にしても目の前にいる女の子と大きな違う、たった一歳違いなのに。
「そうだ。キュウは来年が3年生だっけ」
「どーしたの、突然」
「千夜の事を考えていたら、ちょっと気になってさ」
 別に変な意味は無いのに、いやらしい目線を返された。
「どう、マネージャーを半年以上続けてみて」
 余計な詮索をされる前に、素早く僕の方から会話を振る。
「どうって。面白いわよ。最初からお金欲しさでやってるワケじゃないもの。確かにその場のノリみたいなトコはあったかもしれないわ。でも自分から言い出したんだから簡単にやめるなんて許せなかったし、アタシの『days』に対する気持ちはホントなんだから」
 片肘をつきグラスを傾け、中の氷が音を立てるのを楽しみながらキュウは答える。その言葉には彼女の本当の気持ちが乗っているように感じた。
「でも、マネージャーやり始めて分かったコトが一つあるの」
 お酒が入っているせいか、やけに饒舌になっている。僕は余計な茶々を入れずにキュウの言葉に耳を傾け、相槌を打つよう心がけた。
「アタシがせーちゃん達と知り合う前は、ロックバンドの『days』が好きなただの一ファンだったの。メンバーのルックスとか、演奏してる曲の好きな。でも今はね、メンバーその人のファンになってるの。近くにいて人となりを知って、ああ、この人達のためにアタシができるコトないかな、応援できないかなって。相当のおせっかい焼きよね」
 恥ずかしそうに照れ笑うキュウの表情が、部屋の柔らかいライトに照らされ僕にはやけに眩しく見えた。
「別物じゃなかったのよ。『days』の音楽と、それを奏でてる4人の人間味っていうの?アタシが好きな音楽を演奏する人を、素直に好きになれたの。だからこーしてせーちゃんや、おねーさま達の力になれているのが嬉しくって」
 そこで満面の笑顔で僕に微笑んでみせる。あまりに可愛いその笑顔に、胸が熱くなった。
「今じゃ、アタシの一番の趣味ってカンジ?いっつもチャラチャラ生きてるだけのアタシでも、結構やれるもんだわねーって実感するの。コレ続けてるから、ただの遊び回ってる頭悪いジョシコーセーにならずに済むのよ」
 結構今の生活スタイルを気にしているんだと思った。相方(?)の愁ちゃんが規則正しい学園生活を送っているだけに、モラルにあまり気を留めず好き勝手に水海の街で遊び回っている自分をどこか懐疑的に捉えていたんだろう。
「『days』が続く限り、アタシもできる限りの面でサポートして行きたいわ。解散の危機とかになっても、4人だけで片づけないでアタシにちゃんと相談してよね。そんな時にだけのけ者にされるなんて絶対やーよ」
「分かってるよ。ありがとう」
 思わず握手をしたくなる気持ちを抑え、心の底から感謝の気持ちを述べた。普段からどこか感謝の言葉に心が篭もっていないと感じる自分が、こんなにも相手を敬う事ができるなんて思いもしなかった。
 ただ素直にキュウの心遣いが身に染みて、嬉しかった。こんなにも『days』を、僕達4人の事を想ってくれる人がそばにいるんだから、自分達の勝手な都合だけで物事を片付けるのだけは避けよう。僕は目の前のこの女の子に、受けた分以上のお礼をまだ返してない。
 僕の感謝の言葉にキュウは真正面から喜びの笑顔を返し、手元のグラスの中身を一気に飲み干す。そのまま横に倒れそうになるのを堪え、ソファの背もたれに体を預ける。
「アタシが学校卒業して、何になるかなんて全然考えてないわ。進路なんて決まってないから、きっとブラブラとファッション街でバイトして毎日遊び惚けるかも。……けど、そんな中でも『days』のマネージャーは続けて行きたいのよ。せーちゃん達がアタシを必要としてくれる限り、ね」
 きっと、それはキュウにとっての存在意義の一つなんだろう。そして、もう僕達は運命共同体なんだと改めて思い知った。今後キュウがどう行った将来の進路を取るのかは分からない。それでも、彼女が最良の道を進めるよう僕や周りのみんなで助け合って行こう。
 もう僕達は、素直に友達と呼べる関係なんだ。
 今日はキュウの心の内も聴けたし、わだかまりも随分解けたし、会って良かった。僕の事をこんなにもそばで見てくれている人がいるんだから、溢歌一人さえいれば他に何もいらないだなんて絶対に思っちゃ駄目と自分に言い聞かせよう。
「わわっ」
 心の中で決心している間に、いつの間にか右手の長ソファに座っていたキュウが靴を脱ぎ、ソファの上を猫のように四つ足でそばまで擦り寄って来ていた。慌てて一歩左に後ずさると、構わずキュウは僕の体へと迫って来た。
「せーちゃんは、アタシが必要?」
 お酒が入っているからか、目線は鋭くない分余計に恐かった。何のためらいも無く、肌が密着するそばまで近寄って来る。直前まで飲んでいたレモンサワーの匂いが鼻についた。
「それは……勿論」
 以前キュウに唇を奪われた数々の思い出が脳裏を過ぎり、全身が紅潮するのを感じながら脅迫されたような気持ちで答える。
「じゃあ、そんなアタシを置いてこないだ会いに行ってた人は誰?」
 この展開は予想していなかった。
 突然滑舌良く問われ、頭がこんがらがる。咄嗟に上手い嘘も思い浮かばなかった。言葉に詰まり答えられないでいる間も、キュウは僕から視線を反らさない。
 とりあえず、素直に謝る事にした。
「……ごめんなさい」
「その人とアタシ、どっちが大事なの?」
 そう訊かれ、思わずキュウの顔を凝視する。まるで恋人みたいな問いかけに、僕の思考回路が停止してしまう。
「――彼女でしょ」
 固まっている僕の間近で囁かれ、息が詰まった。心臓が一際大きく高鳴り、嫌な汗が全身から滲み出て来る。
 いや、当然なのかも知れない。僕の行動が近頃変なのは、僕以外の人間には判っていたはず。自分から言わなければいつまでも隠し通せると思っていたのが大間違いなんだろう。
「最近のせーちゃんを見てればわかるわ。どこかあか抜けちゃってるもの。アタシの色目仕かけにも反応しなくなったし」
 キュウが僕から離れ、頬を膨らませふて腐れてみせる。以前は知らぬ間に反応していたのかと。露骨な誘いは普段から毛嫌いしていたっけ。
「電話に出なくなったのも彼女にイレこんじゃって、他のコトぜーんぶおざなりになっちゃってるんでしょ。あ!それでギターに実が入らなくなってるのね〜」
 一人で勝手に推論を進め、手で包みを打つ。鋭過ぎる。これが女の勘と言うものなのか。
 もういっその事、キュウに全てを打ち明けた方がいいのかも。その方が心も軽くなるし、相談相手ができる。けれど、僕に好意を寄せている子に他の相手との恋愛相談だなんて、火薬庫に松明を投げるのと同じような気もしなくもない。
「ダメよせーちゃん。バンドと彼女、どっちが大切なの?」
 あれこれ悩んでいると、またキュウが僕の目を射抜いたまま詰め寄って来た。あまりにピンポイントな質問の連続に、ステージ上ですら経験した事の無い危機を感じていた。
「それは……それは」
 言葉が続かない。嘘をついていいものかどうか、正直に答えた方がいいのか。
 いや、それより自分の本心がよくわからない。わざと秤にかけずに曖昧にしているのを自覚している。一度結論を出してしまうと、その考えに引っ張られてしまいどちらを選んだ所で上手く行かないと思ったから。
 でも、キュウと溢歌なら比べられる。但し、恋愛対象としてなら。
 僕がキュウに脈の無い事を、今ここでちゃんと伝えておいた方がいい。昔ならともかく、溢歌がそばにいる状態で心が揺れ動くなんて考えられないもの。
 言葉にしようと決心し、一度口の中に溜まった唾を飲み込む。
「ふーん。なら、こーしちゃえばいいのね」
「っ!ちょ、ちょっと!!」
 いざ、と言う所で、しびれを切らしたキュウが僕の両腕を掴み、体重をかけて来た。ソファの上でマウントポジションの体制になり、視界の天井のライトがキュウで遮られる。
「あら、慌てなくてもいいじゃない。アタシのテクで彼女を忘れさせちゃえば、全てうまくいくんだから♪」
「何言って……うわわっ」
 そのまま全体重を僕の上にかけて来た。押し潰されるような形で横になる。服越しとは言え肌が完全に密着していて、キュウの柔らかさが伝わって来る。
「何なら、アタシがせーちゃんの彼女になってもいいわよ。彼氏募集中だもの」
 色目を使い甘酸っぱい声で囁くと、僕の耳たぶを噛む。くすぐったさに背筋が震えた。
「そんな、冗談はよしてよっ。僕も困るし……」
 これ以上好き勝手にされると僕までおかしな気分になってしまう。何とか押しのけ上体を立て直すと、キュウが僕の顔を真剣な瞳で見つめていた。
 潤んだ瞳の奥には真っ直ぐな光が見え、キュウの心の声が伝わって来る。
「ジョーダンなんかじゃないわよ。アタシ、せーちゃんならいいもの。証明してあげるわ」 
 強い眼差しでそう言うと、有無を言わさず僕のズボンに手を伸ばした。慌てて抵抗するものの、ほんの少しの誘惑に負け、あっさりと防衛ラインを突破されてしまう。
 キュウの素手が僕のものに触れた時、理性は欲望にあっさり屈してしまった。
「駄目っ……カメラ、あるし……」
「普通にしてればいいのよ。ちょうどテーブルに隠れて、見えないわ」
 慣れた手つきでキュウが僕を弄ぶのを、まるで他人の行為を眺めるような気分で目を見開きまじまじと見つめていた。
 抵抗しようとしていた自分はどこへやら。大切な女性は溢歌しかいないと思っておきながら、慣れ親しんだ相手との初めての経験に、その考えもいとも容易く崩れ去る。
 静かな室内に、二人の息遣いがいやらしくこだまする。テレビの画面は淡々と今月の新婦を紹介していた。
 キュウは唇を近づけ、触れるか触れないかの位置で熱い息を吹きかける。寸前で匂いを嗅いだりするも、片手で丹念に舐るだけでそれ以上は踏み込んで来ない。それでも僕にとっては耐えきれないほどの衝撃で、呼吸が荒くなっている自分に気付く。
 すぐに出してしまえば楽になるのに、もっと続けて欲しいと僕の脳が勝手に我慢を始める。キュウとすると言う事が、こんなにも僕を興奮させるとは思わなかった。出会ってから幾重にも積み重なった時間の波が押し寄せてきているよう。
 溢歌と今以上の行為なんて毎日のように行っているけれど、また違った快感がある。僕の事を長い間求めていた女の子が攻め寄って来たのだから。
 頭の中が熱で霞んで行くのが解る。こんな場所でするのは初めてだし、本当にカメラに写ってないのか、扉のガラスから覗き込む人間がいないかとか考え、恥ずかしさで火を噴きそう。キュウは僕の顔と下半身を交互に見つめ、反応をじっくり愉しんでいる。他の男友達とも似たような事をやっているのだろうかと考えたら、余計に下半身が固くなった。
「っ……」
 やがて耐えきれなくなり、僕が達したのを瞬時に察知したキュウが被せるように手の平で覆う。僕は出せるだけのものを全て彼女の手の平にぶつけた。
 出し尽くした後、キュウは自分の掌に弾け飛んだ僕の欲望をまじまじと見つめ、一度僕に視線を向けてから飛沫に赤い舌を伸ばした。呆気に取られている間に、嫌な顔一つ見せず一滴残らず綺麗に舐め取って行く。僕に見せつけるように。
「――生しぼり、おいしい……」
 全部口の中に平らげた所で発したその甘い声が、僕の欲望メーターを一気に臨界点まで振り切らせた。
 そこまで誘惑されたら、僕だって間違いを起こしてしまう。以前未遂に終わった事もあり、今回こそは所構わずキュウに僕の欲望をぶつけてやりたくなった。
「あたっ」
 キュウの胸に飛び込もうとしたら、ちょうど眼前に手があった。チョップがめり込む。
「あら、そんな物欲しそうな目をしてもダーメ。今日はここでおあずけ。アタシを昨日おいてけぼりにした罰よ」
 得意気に笑ってみせると、キュウは氷が溶けたグラスの中身を一気飲みした。アルコールで少しふらつくも踏ん張り、両手を腰に当て声を上げ笑う。室内に充満していた甘い空気は一瞬にして吹き飛んでしまい、今の自分の格好に気付いた僕は慌てて衣服を整えた。
 ちょうどタイミング良く部屋のフォンが鳴り、キュウが応対に出る。いつもと変わらないその横顔を、僕は何も考えられない頭で見つめていた。
「じゃ、帰りましょ。わざわざつき合ってくれてアリガト」
 まだ1曲歌う時間は残っているけれどそんな気分じゃないのか、自分の鞄を抱え帰る支度を始める。精気の抜けた人形のような顔で後片付けを始めた僕に、キュウは机を跨ぎ首を伸ばすと、その柔らかい桃色の唇を短く重ねた。
「――続きがしたいなら、明日以降連絡入れてくれればいつでも構わないわよ」


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第4巻