095.ジゴワット
一人の時間ほど、何も考えていたくない。心を休ませられるささやかな一時だから。
頭を動かすと、いくつもの悩みが脳裏を渦巻く。溢歌と一緒にいる時も、心が安まると言うより毎度のようにハラハラする。黄昏と一緒にのんびりと過ごした時間は、とても貴重なものだったと今にして思う。もう同じ時は、おそらく二度と戻ってこないだろう。
ギターを背にラバーズへ続く繁華街の通りを歩く。今日も溢歌はお留守番。チケットを渡したら、目の前で瞬時に塵屑にされてしまった。
何とか、クリスマスライヴには観に来て貰うように頑張ろう。決意を胸に、久々に訪れたラバーズの扉をくぐった。
昨日の音合わせに続き、本番の今日もライヴハウスに入るのは僕が一番遅かった。
ラバーズのレストランに入ると、パンクス系の格好をした客の姿が目についた。出演交渉に来たバンドだろうか。元々ワイルドな感じの店内から浮いている感じには見えないけれど、あまりパンク系のバンドは使わないライヴハウスなので若干違和感があった。
「なんだ、ワンマンだってのに浮かねー顔してんなぁ」
カウンターへ店長に挨拶に行くと、顔を合わせるなり開口一番に言った。
「あんまり練習できてないからね、前回以上の期待を持つのは止めてね」
ライヴ後に怒られるのも嫌なので、真っ先に言っておく。観に来てくれるお客には悪いけれど、今日は無難に乗り切れれば御の字だと思っている。音合わせの時間の無さや黄昏や僕の調子を考えれば、100点満点の出来を望むのは辛い。
ステージに立つ前から不安になる事はいつも。でも今日みたいに弱気で当日を迎えるのはあまりない。せめて気持ちだけでも自爆覚悟で行きたいと思っても、様々なしがらみのせいか自分自身の心を駆り立てようとしない。
音楽の事以外に問題が山積みになっている。バンドの為にコミュニケーションを取っているのかその逆なのか、後先さえも判らないまま。
溢歌の件に関しては気を揉む事は減った。一緒に過ごしている時間が増え、ゆとりが出て来たからだろう。ただ隣に溢歌がいないと、どこか浮き足立った面があるのは否定できない。自分の時間も取りたい気持ちもあるし、バランスを取るだけで一苦労する。
それに、頭を悩ませる件が一つ増えてしまった。それも溢歌以外の女性の件で。
「ひゃっ」
考え事をしてその場に突っ立っていたら、突然後の首筋にひやりとした感覚が走り、思わず上ずった声を上げてしまった。
振り返ると、オレンジジュースの入ったグラスを片手にしたキュウが声を上げて笑っている。氷の入ったそれを押しつけたのか。
「遅いわよ、せーちゃん。インタビュー終わっちゃったよ?」
「ああ……ごめん」
そう言えば、ロック系音楽雑誌のインタビューの約束がライヴ前に入っていたんだっけ。すっかり失念していた。
背筋を丸めたまま、キュウの後に続きいつもの階段を下りて行く。肩の開いた服とお尻のラインが強調される短めのスカートがいやらしい。反射的にこの前のカラオケでの事件を思い出し、思わず心臓の鼓動が高鳴ってしまった。
さすがにあれ以降、バンドの用件以外でキュウと連絡を取る事はしていない。冷静になると溢歌を置いて他の人に流れる真似なんてする気も無かったし、これ以上距離を近づけるとまた問題が増えてしまう。今はこの件について考える事は止めにした。
小さい方の楽屋で黄昏とキュウがインタビュー受けていたらしい。と言っても初めての雑誌なのでどんな掲載のされ方なのかよく分からない。
これまでにも2,3回短い雑誌の記事になった事はある。とは言え扱いも小さかったし、それで状況が変わったとも感じていないので喜びや嬉しさはそれほどでも無かった。
第一音源自体、一本のテープしか作っていないのだから紹介されてもライヴ以外では曲を届けられないのだから。バンドの状況が改善されればと思っても、年が明け千夜の受験が片付くまでは行動に移せないだろう。
「もうリハやるから先に黄昏一人でインタビュー受けさせたけど、ライヴ終わってからもう一回改めてせーちゃんにもインタビューするってさ」
黄昏には悪い事をした。歌以外で前に出るタイプじゃないから。でも、向こうも黄昏と僕の二人にインタビューをするつもりだったらしく、結構真面目な内容だったそうな。
階段を下りた先の大きな楽屋に入ると、イッコーと千夜がそれぞれ自分の空間を作っていた。トイレにでも行っているのか、黄昏の姿は見えなかった。
ベースの弦の感覚を確かめているイッコーはいつものように笑顔で、こちらは何の心配も無い。千夜は黙々とカバーのついた本を読み耽っていた。参考書だろうか。
自分の荷物を置き、そっと千夜のそばへ近寄る。昨日は音合わせをしたとは言え、スタジオに入った時間も短かったので無駄話をする暇さえ無かった。
「受験はどうだった?」
小声で耳打つように尋ねてみると、こちらを一瞥し、読んでいた本を閉じた。
「……一応、何とかなったつもり。まだ本番が残っているけれど、青空が気にしないでいい。今日は羽を伸ばすつもりで演奏する」
そう言うと、横の椅子の上に開きっ放しのスティックケースから黒のスティックを一組掴み、一足先に楽屋を出て行った。
「貴様達も私をがっかりさせるような演奏だけはするな」
最後に手厳しい一言。いつもの攻撃的な発言にイッコーは口元を押さえ笑っていた。
「ピリピリしてんのはしょーがねーべ、あんま練習してねーし。おれだってちょっくら不安だけど、黄昏さえまともに唄えればなんとかなるっしょ。昨日はそこそこ唄えてたし」
イッコーの言葉通り事が上手く運べばいいんだけど。確かに、一人でリハビリしていたおかげなのか前日での黄昏の声は随分と戻っていた。気持ちで唄う所があるから、前向きになってくれたのは心強い。
黄昏が不安定になってしまった最大の原因は僕にあると思うけれど、今はこちらからは何もできないのが悲しい。傷口を広げる結果になってしまったら目も当てられない。
千夜の受験が終わる頃には解決とはいかなくても、一通り決着がついていればなと思う。
二人分のギターを用意し弦の張りを確かめ、今日のプログラムに目を通していると、黄昏が楽屋に戻って来た。イッコー曰くマスターと廊下で立ち話をしていたらしい。千夜が先に行った事を話し、自分達も出かける準備を始める。
「はい」
目線を反らせるようにし黄昏のギターを手渡すと、小さく頷き受け取ってくれた。どうも黄昏に申し訳無い気持ちが一杯で、まともに相手の顔を見れない。こんな調子だからかえって気を遣わせる事になるんだと内心猛省する。
「愁は?」
「まだ来てない。和美さん達と一緒に来るんじゃない」
キュウが黄昏の問いに答える。黄昏と険悪な状況でも取っ組み合いに発展しないのは、いつもそばにいる愁ちゃんの存在が大きかった。以前は邪険に扱っていた黄昏も、今は愁ちゃんを困らせないように振る舞うようになっている。ここ2ヶ月位で親密な関係になっているのは横で見ていて十分に判った。
ただ、溢歌の事もあるので黄昏の心境がどう言うものなのかは全く想像できない……。
「んじゃ、そろそろ行くとすっか」
イッコーに続いて全員楽屋を出る。自分達以外に他のバンドがいないのは何だか変な気分。まだワンマンも二度目なので、慣れていないのは仕方無いか。
扉を出ようとした所で、髪の毛の後を引っ張られた。何事かと振り返るとキュウが上目遣いで僕の顔を覗いている。その目の奥には情熱の火がほのかに揺らめいているように見えた。
身の危険を感じたじろぐ僕に、キュウは肌が触れ合うくらいにじり寄って来る。
「今日のライヴうまくいったら、アタシを一晩貸してあげてもいいわよ?」
「……何か、誘い方が露骨になってきたね」
「だって、後は肉体関係さえ持てばっていうトコまで来たじゃない」
僕の目を見てキュウは舌なめずりをする。その仕草に声も出せず背筋が震えてしまった。
しばらく見つめ合った後、キュウは表情を崩し、僕の額を軽く指で小突いた。
「――なんてね。何だかぼーっとしちゃってるからさ、ごほうびでもあげないとやる気にならないかなーって思って。ちゃんと集中できてる?」
「う……うん、今の一言で目が覚めた感じ」
「やだ、本気で受け取らないでってばー」
大きく目を見開き瞬きをして答えてみせると、おかしそうにキュウは笑った。
「……もしかして、本気?何なら、リハの後に一発抜いてあげてもいいけど?」
「いい、いい、結構ですっ」
逃げるように僕は楽屋を出て、イッコー達の後を追いかけた。後でキュウが溜め息をついたような気がしないでもないけれど振り返りはしない。
ステージ裏へ降りる階段の所で、何だか場内がざわめいているのに気付いた。
「何だろう」
「ケンカかしら」
罵声が飛び交っている。その内、一人だけすぐ聞き分けがついた。千夜だ。
「ちょっと、どうしたの一体」
「見てのとーり、千夜が他のバンドの奴らとケンカしてる」
イッコーが親指を向けるその先、ステージの上で千夜とパンクファッションの丸坊主の男性が口喧嘩を始めていた。舞台の袖で眺めている僕達と同じように、やや離れた位置で向こうのバンドのメンバー達が二人のやり取りを見ている。
先程上のレストランで見たパンクスの連中みたい。ここ最近は千夜も他のバンドとの喧嘩は控えるようになっていたのですっかり安心し切っていたけれど、元々頭に血が昇りやすい。女性の上にドラムテクニックもあるので、他の男連中から嫉妬の目を向けられる事が多いから。
「どーするの、せーちゃん」
「決まってるでしょ、早く止めなきゃ」
黄昏もイッコーも我関せずで眺めているので、止めるのは僕しかいない。スタッフの人に怒鳴られる前に止めないと、また店長にどやされてしまう。
いざ踏み出そうとすると、男が大声で何やら叫んだ所に、千夜が大振りで手に持っていたドラムスティック二本を相手の顔面めがけ全力で投げつけた。
派手な音が上がり、静まり返った場内に転がるスティックの音が大きく響く。
「っの……、やりやがったなクソアマぁ!!」
「貴様みたいなクズに好き放題言われる筋合は無い!!」
取っ組み合いになる前に、急いでスタッフと僕達が二人を引き剥がす。頭に血が昇っている時は男に触られても千夜は過剰に反応しないので、こちらが殴られる心配も無い。イッコーが後から羽交い締めにしてくれたおかげで、千夜は喚くだけで済んだ。
同じように相手もスタッフ数名に取り押さえられているものの、向こうのバンドのメンバーは面白可笑しくこの状況を眺めているだけで、止めようとする気は無いみたい。その態度が、少し鼻についた。
羽交い締めにされたまま、千夜は今にも相手を叩きのめしそうな目つきで唸っている。舞台袖に目をやると、暗幕の後で脅えた顔をしたキュウの姿が見えた。
「あれ、どーしたの?」
「お、ジゴちゃん」
未だ一触即発の所に、刺青だらけの上半身裸の男がステージに上がって来た。背がイッコーよりも高く、筋肉隆々でアクセだらけの黒の革パンを履いている。いかにもな容貌で、プライベートでお近づきになりたくないタイプ。
彼も仲間なのか、そばにいた似たような風貌の相手に状況の説明を受けていた。顎を上げ、見下ろすような目線でこちらを見ている。せり上がって来た恐怖心を飲み込む。
「ここは貴様等が来るような場所じゃない!」
千夜が大声で言い放つ。久々に敵意剥き出しの姿を見た。
「ちょっとばかりデカいライヴハウスだからって来て見たら全然凄くねーじゃねーか!こ
っちから願い下げだ!」
「わかってるなら二度と来るな!まともに演奏も出来ない奴等が!」
「うるせえ!てめーらみてーなおままごとでやってる連中と一緒にすんじゃねーぞ!!」
「誰がおままごとだとっ……!」
もう今日のライヴが最悪なものになるのは、この時点で容易に想像がついた。これだけ頭に血が昇ってしまった千夜がこの後まともに叩けるとは思えない。とにかく止めないと。
「いい加減黙ろーね、っと」
「ぐえっ」
千夜を下がらせようとした時、向こうのジゴと呼ばれた男が口喧嘩していた相手を後から首元を太い両腕で締め付け、口を塞いだ。唖然としている周囲をよそに、ジゴは相手の意識が落ちるまで有無を言わせず締め続けた。
「おいおい、やりすぎだろ……」
イッコーだけでなく、その場にいた全員が静まり返る。あれだけ頭に来ていた千夜も、ジゴの行動にただ絶句していた。
そしてジゴは、気絶した男を仲間に投げ渡し、こちらへ近づいて来る。緊張が走る。
今度は千夜と睨み合いになり、間に割って入ろうかと唇を噛み悩んでいると、突然相手が表情を緩め、背筋を丸め平謝りした。
「いやーごめんねー」
先程とのギャップと意外な展開に、僕達全員目を丸くする。
「何しろ血の気が多くてさ、大して上手くないくせにやたらと絡みたがる奴なの。今度か
ら気ぃつけるよーに言っとくからさ、許してやってね……ん?」
外見とは裏腹に人当たりの良さそうな雰囲気で話していると何かに気付いたのか会話を止め、顎に手を当て千夜の姿を眺め回した。珍しい風貌に興味が湧いたのだろうか。
「お前、波止場?」
「!?」
と思うと、手を打ち鳴らし千夜の名字を口にした。突然の事に、千夜は目が飛び出そうなほど驚く。固まっているその隙に、ジゴは千夜の黒眼鏡を摘み取り、笑ってみせた。
「ほーら、やっぱり波止場じゃない」
「か、返せっ!」
物凄い形相で千夜が眼鏡を奪い返す。こうした場所で自分を知っている人間に出会うとは思わなかったのか、いつになく動転している様子が見て取れた。
「ジゴちゃーん、そいつ知ってんの?」
「知ってるも何も、こいつ中学ん時の同級生だし」
後の仲間に訊かれ、ジゴが千夜を指差し答える。
「私は貴様なんて知らない!」
本当に知っているのかどうかはともかく、顔面蒼白な千夜が心配でならない。
「ま、思い出せなくて全然構わなくてよ。オレも全然違うし、まさか波止場ちゃんがこん
な気の強い男勝りになってるだなんて思いもしなかったもん」
自分の過去を知っている人間を目の前にし、言葉に詰まった千夜は明らかに冷静さを失っていた。イッコーが抑えていなければ殴りにかかっていたかも知れない。
「知ってる?こいつ結構学校じゃ有名だったのよ、何しろ――」
「黙れっ!!」
ジゴが何かを言おうとした瞬間、空気が震えるほど凄味のある大声で千夜がそれを遮った。そして力の緩んだイッコーの腕を振り払い、相手の顔目がけ利き腕で殴りにかかる。
拳が相手の頬に入ったと思った刹那、ジゴは間一髪でかわし、そのまま千夜の腕を取る。
そして動きの止まった千夜の胸を、服の上から大きな手で撫でた。
「このっ……!」
それを見た瞬間、頭で考えるより早く、僕の体は動き出していた。
転がっていたドラムスティックを手に、ジゴに殴りかかる。瞬時に「やばい」と思うけれど、動き出した体は止まらなかった。
「いいかげんにしろーっ!!」
振りかぶった腕を下ろそうとした所で、場内にマスターの大声が響き渡った。その声で僕は我に返り、マスターの方を見る。
「全く……喧嘩はご法度だって言ってんのに。ほら、下見に来ただけなんだったからさっ
さと帰った帰った。次問題起こしたら出演禁止にするぜ」
「ごめんなさーい。やっぱりここは場違いだったみたいなんで元のハコに帰りまーす」
反抗する気も見せずジゴは笑顔で平謝りし、千夜から手を話した。他のメンバーは納得いかないのか反論する素振りを見せたけれど、ジゴが凄味のある目線で睨むと舌打ちし、素直に引き下がった。大喧嘩は回避でき、胸を撫で下ろす。
「……。」
安心していると引き上げるジゴと目が合い、鋭い目線に視線を外せなくなる。
「威勢がいいのは認めるが、相手は選んだ方がいいぜ」
僕に顔を近づけドスの効いた声で呟くと、仲間達の元へ戻って行った。その時にようやく、自分が無茶な事をしたと気付く。マスターが止めなかったら、確実に返り討ちに遭っていた。咄嗟の判断とは言え、改めて背筋が寒くなる。
「無茶するわね」
立ち尽くしている僕のそばに来たキュウが、心配そうに呟いた。
「ほら、喧嘩売ってないで帰るわよ。それじゃ、お邪魔さまー」
何事も無かったように気軽な挨拶を残し、気絶した男を担いだジゴが仲間と共に引き上げて行く。と、途中で振り返り、千夜に向かい手を上げる。
「ああ、そうそう。そのカッコも似合ってるわよ。『女』だけどね」
その言葉に、千夜の体が震える。目を見開き、相手を執拗に睨み付けてはいるものの、表情に生気は無く、膝が笑っていた。
彼等の姿が見えなくなるまで、周囲にはずっと緊張が張り詰めていた。安堵の空気が戻って来ると同時に、千夜が崩れるように膝を落とす。
「おねーさま、大丈夫!?」
慌てて僕達がそばに駆け寄る。千夜の表情には単に大男に手玉に取られただけではない、それ以上のショックが滲み出ていた。幽霊でも見たような、信じがたい表情で荒い呼吸を繰り返している。肩を貸そうとキュウが近寄るも、乱雑にその手を拒む。
「なんでも、ない、なんでも……」
ふらつきながら、床に転がるスティックを拾いに行く。もう一本が僕の手に握られているのを見ると、無言で握り締め、引っ手繰った。憔悴した顔つきに、僕は何も声をかけられなかった。
イッコーと黄昏がマスターと話をしている。マスターの話によると、あの連中は大きいステージを求め出演交渉に来たハードコアのバンドらしい。金銭面等の条件が折り合わなかったから止めたとか何とか。とにかく、彼等とは二度と関わり合いたくない。
ライヴが終わった後、マスターにこっぴどく叱られるだろうな。
溜め息をつき、振り返ると千夜がドラムの元へ向かっていた。この状態で叩くの?と心配したのも束の間、椅子に座ろうとした所で姿勢を崩し、盛大な音を立て転げ落ちた。
「千夜っ!? 大丈夫?休んだ方がいいんじゃない?」
慌てて駆け寄り手を貸そうと背中を支えてあげると、電流が走ったように肩が跳ねた。ジゴに体を触られた影響か、引きつった顔で僕を睨んで来る。その痛々しい表情に、脅えよりも憐れみが先に浮かんだ。
「あ……ごめん」
「心配するな、やれる……から」
こちらに八つ当たりする事もせず、転がったスティックを手に拾い直し改めて椅子に座る。これからリハを始めるとは言え、まともな演奏ができる精神状態に見えなかった。
これは無理だ。休ませよう。せめてライヴが始まる前だけでも。
「キュウ、千夜を楽屋に連れて行って」
「青空!」
キュウを呼び寄せると即座に、千夜が僕の名を呼んだ。振り返ると真っ直ぐな目で僕の顔を見つめている。その瞳の奥にいつもの気丈な強さは無かった。必死に音楽にすがるだけの、ひ弱な一人の女の子に見えた。
何故これほどまでに千夜が脅えているのか、僕には分からない。でも、今は彼女に無理をさせるべきではないと思った。その瞳は深く僕の心を打ったけれど、千夜の事を想うが故に無理はさせられなかった。
「……本番でちゃんと叩ければいいんだから。ね?」
なだめるように僕が言うと、千夜は唇を噛み締めスティックを握り締めた自分の両手に視線を落とし、小さく頷いた。自分でも解っているんだろう。反論する事無く、僕の言葉を受け入れてくれた。きっと内心では悔しい思いで一杯に違いない。
「キュウ、お願い」
キュウを呼び、楽屋まで千夜を連れ添って貰う。男より女性がそばにいた方がいいだろう。引き上げて行く二人にスタッフの女性陣にもついて行って貰った。
ステージから去る時、弱々しい千夜の横顔に涙が見えた気がした。
その涙に胸が締め付けられるも、今はその想いを胸にしまっておいた。僕まで感傷的になってしまうともう成り立たなくなる。この状況でまともにリハはできない。本番でもまともに叩けるかどうか……。
「こりゃ、覚悟しといたほーがいーぜ」
いつの間にか隣にいたイッコーが呟いた一言が、妙に重く圧し掛かった。