→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   096.力への意志

「どうして僕はこんな所にいるのだろう……」
 湯船に肩まで浸かった状態で、背中に勢い良く吹き出す泡を受けながら誰ともなく呟く。
「風呂に入る時くらい俗世のことなんて忘れちまえ」
 隣で笑い飛ばすイッコーの言い分は正しい。
 前回のライヴの事を思い出すだけで胃が音を立てて軋む。このまましばらくどこか遠くへ行きたい気分になる。
 頭を空っぽにしようと、頭頂部に乗せたタオルが湯船につからないようにして熱湯に顔を埋める。足元から突き上げて来る水泡が視界を歪ませる。体が火照ると、余計な事を考えられなくなって来るので有り難い。
 銭湯に来たのも随分久し振り。昔は黄昏を誘い何度か行った事はあるけれど、一人だと入浴料を捻り出すのが大変なのでなかなか行く機会が無かった。
 家の浴槽と違い、全身を気兼ね無く伸ばせるのはいい。いい汗を掻くとストレスも一緒に吹き飛んで行く。そのまま問題の根本まで連れ去ってくれればいいのに。
 今日は練習の帰りにイッコーに無理矢理連れられ、駅近くの銭湯へとやって来た。練習と言っても黄昏も千夜もいない、二人だけ。以前はよくやっていたような気がする。
 ギターや機材は番頭に預けてあるので心配は無い。着替えも下着は安く売っていたので、
家の予備を増やす意味でも買う事にした。意外と下着や靴下はおざなりだったりするもので、ゴムが伸びるか穴が開くまで使うものだし。
「何かこのままここで寝てしまいそう」
 一旦湯船から上がりタイルの上に身を投げ出していると、とても気持ち良く睡魔が襲って来る。ちょうど空いている時間帯なのか、伸び伸びしていても怒られない。
「よくそんなに長い事浸かっていられるね」
 二つある内の熱い方の浴槽に肩まで浸かっているイッコー。僕は家の風呂より熱い温度の湯に我慢できずに出たり入ったりを繰り返している。
「ん〜、銭湯はよく来っからな〜。疲れはなるべく抜かねーと、やる気が減っちまう」
 溢歌の体にうつつを抜かしギターをおろそかにしている自分には耳が痛い。僕が何もしていない間に、イッコーは着実に技術を磨いている。今日の練習で痛感した。
「イッコーは、ギターの弾き過ぎで腕とか痛くなったりしない?」
 湯船に戻り、尋ねてみると腕を湯船から出し、軽く振ってみせた。
「あんましそーゆーんはねーなー。痛いって思ったらそれ以上はやんねーし。結構ギターの弾き過ぎで腕痛めてる人間見てきたかんな、無理して続けると悪化するだけってのもよくあるパターンさね。おれは長いことやっていきてーからさ、無理は控えてるんよ」
 焦りや不安はないのだろうか、と思う。
「ははーん、おめーが今何考えてっかわかるぞ」
 僕の顔を横目で一瞥すると、したり顔を見せる。
「そんな一朝一夕で何事も上達なんてしねーって。ステージの上で失敗しない最低限のレベルのテクだけありゃーいいん。後は情熱でカバーできる、それがロックなん」
 相変わらず無茶苦茶な事を言う。でも、間違っているとは思えなかった。
「いくらテクがあっても、ダメな時はとことんダメっつーのもあるさ。千夜みたく」
 イッコーの言葉に、僕も何も言えなくなる。
 千夜があれほどステージで崩れるのは二度目か。一度演奏途中でボイコットした時には、何とか乗り切れた。しかしあの時の僕はまさに神がかっていた状態だと自分でも思うので、ああ言う芸当は二度とできない。
 勿論、練習不足の現在の僕には今回何もフォローできなかった。力が無いと、突然の不測の事態に対応できない。どんな時でもステージ上で冷静を努めている千夜の顔が苦しそうに歪むのを、観客に動揺を悟られないように僕は横目で盗み見るしか無かった。
「……やっぱり、ステージ前の一悶着が原因かぁ……」
「まだ反省してんのか?おめーさっきから俯きすぎよ」
 そんな事を言われても、嫌な事ほど回顧してしまうのは仕方無い。今回は『days』の今年最後のライヴだっただけに。クリスマスライヴはお祭りみたいなものだし、ワンマンライヴで失敗したのはきつい。しばらく活動も縮小するだけに、来年に再開した時に客離れが起きていないか心配。
 バンド的に大きく躓いてしまったのは確かで、気軽な気持ちで参加したかったクリスマスライヴが正念場となってしまった。昨年に引き続いての出演となるから、観客の期待度も大きいだろう。
「んな毎回毎回完璧なライヴなんてできねーって。千夜と音合わせも前日にしかできなかったろ?今回はたそがステージで唄えるようになったってことだけでよしとしようや」
 一週間経っても落ち込んでいる僕にイッコーが気休めの言葉をかけてくれる。
「……次の練習の目処すら立ってないけどね、今は」
 僕は自虐的に独り言を呟き、溜め息をついてみせた。
 調子を大きく崩した千夜は、本編が終わると逃げるようにステージを降りた。楽屋に戻り声をかけても、パイプ椅子でうな垂れたまま顔面が蒼白になっていて、とてもじゃないがこれ以上続けられる状態じゃなかった。隣で不安そうに見つめていたキュウが辛かった。
「アンコール、お客さん喜んでくれたかな」
「あんなん気休めにしかなってねーよ。ホントチケット代みんなに返してやりたかったわ」
 眉をハの字にして、湯船に並んだ男二人が疲れたように背もたれた。湯けむりがかったやけに高い天井を眺めながら、何度目になるか分からない脳内反省を試みる。
 黄昏も万全の調子で無いので僕達二人だけステージに戻り、お詫びの意味を込め軽く一曲『discover』のバラードを弾き語りした。千夜と黄昏には言ってない。
 楽屋に戻ると何やら騒がしかったので慌てて扉を開けると、物凄い形相でスティックを壁に叩きつけている千夜の姿があった。手当たり次第物を破壊していた千夜は自分のスティックケースも投げ壊そうとしたので、急いで男三人で止めに入った。
「あんなに千夜が暴れ回るのも久し振りだったね」
「自分のダメっぷりに腹立ってたんっしょ。物に八つ当たりしたい気持ちはわからなくもないわー。ホントキュウがいてくれてよかたって、ああいう時は思うわな」
 いつもの千夜なら止められた時点で僕も殴られていただろう。けれど千夜は僕達に押さえられると、それまで張りつめていた表情が不意に緩め、その場に膝から崩れ落ち、啜り泣き始めた。
「アタシが送っていくね。おねーさま放っておけないもの」
 顔を見合わせ困っている男性陣にキュウが助け船を出し、涙で顔がくしゃくしゃになった千夜を連れ帰った。普段は男勝りで弱音を一言も吐かない千夜が、キュウの袖を掴み弱々しい女の子の表情でいた。あの時の顔が今も目に焼き付いて離れない。
 千夜が時折女性を感じさせる表情を見せる時はある。普段は横跳ねさせている髪を下ろした制服姿も間近で見ている。でも、いつもの格好で、あんなにも気迫を感じさせない姿を見た事は無く、今でも狐につままれたような感じがする。
「あの様子じゃ時間かかりそうだわなー」
「キュウが連絡取っているみたいだけど、すっかり塞ぎ込んでるみたい」
「千夜と連絡とれねーんは前にもあったから別に何とも思わねーけど、この調子じゃ年末まで練習できる日があったらもうけものってとこかもな〜。受験もあるんだろ?」
「そうだね……最悪、当日のリハまで4人で合わせられないかもね」
 千夜にとって受験はこれからが本番だから、より時間が無くなっていくだろう。せめて1,2度は合わせておく機会が欲しかったけれど、千夜があの調子だと厳しいかも。
「そうだ、黄昏は?調子良くなってる?」
 自分で問いかけておきながら、黄昏の事がすっかりおざなりになっている自分に心の中で苦笑する。溢歌がそばにいるようになり、日常で黄昏の事もあまり考えなくなった。溢歌と言う、代わりの存在ができてしまったからか。
 しかし他人で代用できるくらいの存在でしかないのか、僕の中で黄昏は?
 心の中で自問自答していると、イッコーの答えが返って来た。
「ん〜、あっちはあっちで苦労してるみてーよ。何とか前みてーに普通に唄えるよーになりてーって色々やってるわ。年末までには随分回復してるっしょ」
「そう……それは良かった」
 何をやっているかは知らないけれど、黄昏が頑張ってステージに立とうとしている、その前向きな行動力だけ確認できれば安心する。
「おまえ、ちゃんと連絡取ってっか〜?いくら愁ちゃんがいるから気まずいって、一々おれに訊くのもどーかと思うぞ」
 そんな事を言われても、黄昏とは半絶縁状態だから仕方無い。
 仲直りできる解決策があるなら教えて欲しいと思いつつ、湯船から出て角にあるシャワーを浴びに行った。浸かり過ぎているとのぼせて来るので、シャワーの方が落ち着く。
 しかしこれだけバンドの事を大きく考えているのに、さぼってばかりいる自分が情けない。溢歌が悪いなんて一つも思わないけれど、不甲斐無い自分に腹が立って来る。
 それでもなかなか音楽への情熱が戻らないのが悔しいし、どこか諦めの気持ちもある。
 逃げ場所があると、全てを捨ててしまいたくなる誘惑に駆られる。本当に何一つ無くなってしまう時なら、強迫観念に支えられ踏ん張る事ができた。
 表現者は常にストイックであるべきなのか、と考える時がある。常に自分自身を追いつめる状況に置いている方が、力を最大限に発揮できるんじゃないかと。常に綱渡り状態の黄昏を見ていると、そんな事をよく思った。
 ただ、今は上達しようとか、人気が出るまで頑張ろうとか、いい曲を作ろうとか、あまり思わない。いや、今までがガツガツし過ぎていて、この状態が正常なのかも知れない。
 でも調子のいい時の僕なら、千夜が大きく崩れた時に何とかできたかも知れないと思うと悔やまれる。一人で責任を背負い込むのは良くないけれど、リーダーの僕がもう少ししっかりしていれば、まだ観に来てくれた人達を満足させられたかも知れないんだから。
 シャワーの栓を止め、湯船に戻る。イッコーは横にある水風呂の方へ移動していた。よく肩まで浸かれるものだと感心する。意地悪で水面を波立たそうとしたら怒られた。
 泡が勢い良く吹き出している場所に筋肉が凝っている箇所を当て、ほぐす。楽器を弾く時はいつも同じ姿勢を取ってしまうから、結構集中して筋肉が張ったりする。整体に行くのもアリかも知れない。何だか考え方が年老いている気がしなくもない。
 たまにはこうして銭湯に来て疲れた体をほぐすのもいい。今度、溢歌と一緒に来よう。
 溢歌、怒ってるかな。
「僕だって、踏ん切りがつかないままいつも出かけてるんだよ。」
 前に一度バイトへ行く時に堪え切れなくなり、溢歌の前で思いを吐き出した事がある。
 何もしないで四六時中溢歌と一緒にいられるのが一番いい。でも、現実はそう簡単にはいかない。僕も色々とやらなければいけない事がある。簡単に全てを投げ出す訳にはいかない。後悔もしたくないし、先週の千夜の涙を見ると、僕の他にもこのバンドに賭けている人間がいるのだからリーダーの僕が止める訳にはいかないと言う思いが強くなった。
 出かける前、そして、岩場で別れる前、必ず溢歌は僕にこう訊いて来る。
「私を置いて行くの?」
 それだけの短い一言が、僕の両脚に重石を縛り付ける。その度にあの手この手で説得の方法を考え、相手を納得させる。幸いなのは、溢歌がワガママを言わずに引き下がってくれる事。僕に意地悪させようと毎回尋ねているのかも知れない。
 でも、あの日以来、溢歌が僕の家で住み着くようになってから、僕を見送る溢歌の目の色が変わっているのが気になった。瞳の奥に感じる、物悲しく寂しい光。
 岩場で毎日会っていた時は僕の方が別れる時に辛く寂しい顔をしていたと思う。むしろ溢歌は爽やかに感じるほどの笑顔で僕に手を振り見送ってくれていた。
 なのに今は、笑顔の裏に寂しさの感情を読み取れてしまう。僕が辛いと思う事より、溢歌に孤独な気持ちを与えてしまうのが辛い。
 本当なら何もかも外界から遮断してしまい、終わりの日が来るまで溢歌といつまでも抱き合っていたい。そんな終末を脳裏に思い描いてしまうほど僕は溢歌を手放せなくなっている。思い入れが強すぎるのも考え物。
 溢歌との時間を作る為に働きお金を稼ぎ、ライヴをやり人気を得てお金を稼ぐ。と目的意識を変えてしまえば割り切れるだろう。勿論世の大多数の人間はそうやって生きている。
でも僕の胸の中を溢歌と言う存在が大部分を占めてしまった。寝ても覚めても溢歌の温もりと感触と心を欲しがる。まるで愛に生きる激情家のよう。
 今日も帰りの遅くなった僕を一人家で寂しく待っているに違いない。そんな映像が脳裏をちらつくとすぐにでも湯船を出て帰路につきたくなる。
 年も暮れが近づくにつれ、寒さも徐々に堪えるようになってきた今、溢歌も岩場へ行く機会は減っている。昼は良くても、夜になるとかなり冷え込むのでバイトの終わりが遅くなる時は先に帰って貰っている。普段から薄着で寒さには慣れているみたいとは言え。
「むつかしい顔して風呂入ってんなー」
 目を閉じ考え事をしていると、イッコーが僕の向かいにやって来た。これじゃ体の疲れは取れても心の疲れは抜けないな。
 いい機会なので、イッコーに尋ねてみたかった質問を振ってみた。
「キュウに聴いたよ。他のバンドに顔を出してるって」
「あん?あー、最近ヒマだしなー」
 首を鳴らしながら答える。少し申し訳無い気持ちになった。
「今は何だかんだでたそが戻ってきて4人になってるっしょ。自分の曲作る気にはなんねーし、練習も回数減ってっから新しい刺激が欲しくてよ。今年は他のバンドでクリスマスライヴに出る気はさらさらねーけど」
 なるほど。以前も他のバンドに顔を出していた時もあったので、今回も同じようなものだろう。特に心配する必要も無いし、むしろ心強い。バンドの中で今一番力を出しているのはイッコーだし、ここは好きなようにやらせているのがいい。口を挟む必要も無い。
「そーいやそっちは最近、曲作ってるん?」
「え?」
「新曲、新曲。ここんとこスタジオ入っても練習で手一杯だかんなー」
 痛い所を突かれ、受け答えできなくなる。溢歌と出会ってからは、曲作りなんてすっかり止まってしまっていた。時間はあるんだから今が一番作り易い時期でもある。女にうつつを抜かすなと言う事だろうか。
 溢歌が隣にいる時はギターも弾けないし、僕は天才でも無いから意識しないとメロディを中々作れない。ふとした拍子に音が脳裏に浮かぶなんてそうそうある訳でもない。
「千夜が年明けて大学受けるんだろ?そんならその間にいろいろ書きためておかねーと」
 その言葉はもっともで、CDを作る事を考えれば新曲もあった方がいい。それはそうと、イッコーも千夜の受験の事を既に知っているんだね。
「イッコー、千夜に聞いたんだ」
「ん、こないだの学園祭ライヴの時にちょろっと話してた。さすがにおれ達が大学なんて行くな、なんて軽々しーこと言えるわきゃねーしなー。そんぐらいの分別はちゃんとわきまえてるわ。バンドにとっちゃ痛手だけどな」
 千夜が練習の時間を作れなくなった事から、事前に察していたんだろう。イッコーの場合は卒業したらバンド一本で行くと決めていたので、特に問題は無かった。
「けどその間にちゃんとした音源作るための準備とかできるっしょ」
「出すの?CD。イッコーはずっと嫌がってたけど……」
 音源の話がイッコーの口から出るのが意外で驚いた。キュウが何度もちゃんとした音源を作ろうと話題にする度に、うざったそうに打ち切っていたのに。
「そろそろ頃合いなんじゃねー?短期間でびっしりやってきたから随分バンドの体力も上がったしなー。たそが本気を出してくれるようになりゃミニアルバムくらい出してもいーんじゃねーの。つーか千夜の受験終わるまで待ってるだけなんて暇だわ」
 確かに。今の調子は悪いけれど、また歯車が上手く噛み合った時に音源を残したい。バンドも3年近くやって来たんだし、そろそろと言う感はある。
「それはいいけど……最終的な決定は、年が明けてからにしようよ。クリスマスライヴが終わってからでも遅くないもの。録音するのは新曲じゃなくてもいいかな」
「3:1くらいでいーっしょ。急ぐこたねーさ」
「だね。調子が上がってくればいいけど――」
 勿論、僕も含め。一つ溜め息をつき、小さく呟く。
「何だか、最近やる気がね……」
「まだたそに殴られたこと気にしてんのか」
 深い溜め息をつく僕を見てイッコーが呆れたように笑う。気持ちの転換の早いイッコーと違い、僕は結構引きずるタイプの上に問題が未解決だから仕方無い。
 でも、光は見えてきた気がする。解決策なんて特にありもしないけれど。
「それはもう、多分大丈夫。確かに黄昏とはまだギクシャクしているけど、向こうが昔みたいにやる気を出してくれているし。順調に行ってる時はすぐさぼりたくなる癖に、調子の悪い時は奮起するみたいで。少しずつ状態もよくなっているし、今の僕にとっては逃げ出さずにバンドに出てくれれば他に文句はいらないよ」
 口にしながら、「だから自分も逃げ出さずに頑張れ」ともう一人の僕が脳裏で囁く。
「んじゃ、やる気がでねーのは?」
「僕個人の理由かなあ……キュウは夏頑張りすぎた反動って言ってるけどね。千夜の受験の事もあるし、これまでみたいに行け行けで活動できなくなる事もあるしねえ。でも音楽とかバンドの事以上に、考える事が多くて」
 他人に話せる事でも無いし、難しい問題。
「悩みがあるなら相談に乗るぜ。千夜との不仲だったら仲裁できねーけど」
「千夜は別に問題無いけどね。それ以外の女性関係と言うか……」
 何気に呟いた僕の言葉に、イッコーが物凄く驚いた顔で目を丸くしている。
「どうしたの?」
「おめーの口からそんな言葉聞くなんて思ってもなかった……」
「僕から望んだ訳じゃないんだけどね。色々と、あっちゃって」
 昔の奥手の僕ならここで顔を赤らめて口をどもらせていたろう。あっけらかんと口にできるのも、溢歌と濃厚な日々を送っているせいに違いなかった。
「まさかおめー、愁ちゃんに手―出したとかじゃねーだろーな〜」
 予想外の問い詰めに、思わず吹き出した。
「ないない、それはないよ。そんな事したら黄昏が怒るし、お兄さんのみょーさんに迷惑かける事にもなるしね」
「あー、あいつな〜。和(なご)姉に手出してやがるし……」
「え、何?」
「こっちの話。おれも女性関係でいろいろあるんよ」
 そう言って、顔半分を湯船に埋める。自分の事よりもイッコーもそうした面で悩みがあるなんて意外で内心驚いた。人受けのいい性格だから、普通に彼女とかいても何も可笑しくは無いのだけど。硬派な面がそう思わせるのだろうか。
「もしかして、何かキュウにされたか?」
「バっ……そんな、馬鹿な事……!」
 不意にイッコーが切り返して来て、いきなり核心を突かれたので自分でも意外なほどうろたえてしまう。これだと後でいくら誤魔化そうがどうしようもない。
「いーって隠さなくたって。あいついつか絶対おめーに手―つけると思ってたから」
 やっぱりか、と言った顔でイッコーは頭の上に自分のタオルを乗せ直した。周りから見ればキュウが僕にアタックをかけているのは分かり切っていたんだろう。
「で、どんなかんじだったよ?おにーさんに教えてみなさい」
 いやらしい顔でイッコーがにじり寄って来る。結局これが目当てか。
 こう言う話はした事が無いので、さすがに人前だと恥ずかしい。仕方無く、周囲の目を気にしてから恥ずかしさを堪え耳打ちする。
「ぶわははははははははは!!」
 そこまで笑わなくていいのにと言うほど豪快に笑われた。
「セクハラじゃん、もろそれ!」
「まあ、そうなんだけどね……実際」
 気持ち良かったのは否定できない。多分相手が止めなかったらおそらく本番まで行ってたろう。童貞の頃なら懸命に逃げたに違いない。溢歌にめろめろにされてからは、どうも性的な方向に随分考え方が開けてしまっているみたい。
 次、襲われたら、跳ね除けられる自信はあまり無い。
「しっかし力業で行くとはなー、キュウもやるわな〜」
「他人事だと思って面白がらないでよ」
 イッコーがライヴの時でもあまり見せない笑顔を浮かべている。僕の身にもなって。
「その割にはこないだも普通に話してたな、おまいら」
「向こうは大した事じゃないと思ってるのかも知れないけど、僕としては平静を努めるのに必死だったよ」
「ま、あいつのことだから仲間内で経験ありなんて毎度のことだろーしなあ」
 その姿は容易に想像できた。思わず興奮し頭に血が昇ってしまいそうになり、慌てて妄想を打ち消す。
「イッコーは、何もされてないよね?」
「時々モーションかけてくっけど、いっつも笑ってっから冗談にしか見えねーんだわ。それに前にも言ったっけ、タイプじゃねーって」
 意外とイッコーって一途なんだと思う。僕なんて目の前の見知った女性が一番可愛く見えてしまうような所があるようで、どうにも困ってしまう。
 のんびりと湯船に大きくもたれかかり、イッコーが朗らかに言う。
「第一、おめーら出会ったその日からいきなりキスしたり抱きつかれたりしてたっしょ。おれ達3人の中でキュウが青空を選ぶことくれー確定的だったわけだしなー」
「確定的って……当て馬じゃないんだから……」
 キュウがそう言う下心であの日僕に近づこうとしたのは間違いじゃない。
「そりゃ好きでマネージャーやってんのはわかっけど、そんなバンドの音楽のことしか純粋に考えてねーって思ってたん?女なんだから他の目論見があるに決まってるわ」
「まあね……お金欲しさでやっている訳でもないしね、彼女」
 でも、それを認めるのは何だか歯痒いと言うか、認めたくない。男の女の間に友情なんて無いなんて言ったのは、どこの誰だったか。
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていたのか、イッコーが僕の顔を眺めていた。
「んで、もういつでもOKなん?したら一発やればいーのに。童貞なんだから女の味知れば考え方も変わってくるってもんよ」
「そうは簡単に言うけどね……」
 イッコーは知らないだけで、もう両手両足の指じゃ数え切れないくらいの回数を溢歌とこなしている訳で……。本当の事を話したらきっと驚くだろう。
「なーに一発やったとこであいつとの関係なんて変わんねーって。たまーに話聞いてると普段飯食うのと同じ感覚で男とやってるしな、アイツ」
「でも僕の方もキュウと同じように尻軽になれる訳がないよ。他の人を困らせたくないし」
「他の人?」
 思わず口が滑った。誤魔化す為にすかさず口元まで湯船に沈める。
「もしかして、去年一緒にいた女の子?」
 柊さんの話題を出され、反射的に否定した。と同時に、心の中で安堵を漏らす。
「違う違う、あの子はもう引っ越したし……ファンの子ともつき合うつもりもないよ。ただキュウと深い関係になったら、それはそれでバンドの中もややこしくなりそうだから」
「そーか?別におれは構わねーけどな。やることやってくれりゃ文句もねーし。たそだって愁ちゃんいるし、千夜なんてとことん男嫌いだぜ?」
 確かに、キュウの誘惑さえ振り切ってしまえばバンド関係で恋愛感情を持つ事は無い。
「それとも千夜を気にかけてるん?」
 平泳ぎでそばへ来たイッコーが含み半分に僕に訊く。
「まさか。勿論千夜に関しては常に細心の注意を払うようにしてるけど……バンドが上手く回るようにって思っているからだよ。恋愛感情とかそう言うのは、無いと思う」
 100%とは言い切れないだろう。それでも彼女に対する想いと言うのは、溢歌やキュウに対するものとは異質に思える。手助けしてやりたい、千夜の力になってやりたい。それは溢歌のそばにいてずっと守ってあげたいと思う気持ちとは似ているようで異なる。
「イッコーはどう?千夜もタイプじゃないの?」
 僕ばかり追及されるのも悔しいので、反撃を試みる。
「いくら美人でもなー。あーゆーケンカっ早くてじゃじゃ馬な性格の女はおれ苦手」
「だけど結構ちょっかい出して殴られてるじゃない」
「あんないっつも顔つっぱってるようなやつを見るとついからかいたくなっちまうんだよなー。千夜だってスティックぶん投げてくっけど、ずっと根に持たねーしな。鼻が折れたり口ん中切ったりしねーから、やり返されても腹立たねー」
 イッコーの言うように、千夜との間に確執なものを感じたことはこれまでに一度も無い。バンドがばらばらになっていた時でも、イッコーの考えを否定している事は無かった気がする。それだけ、一人の演奏者(プレイヤー)として尊敬しているのだろう。
 僕の場合だと結構根に持たれている気がするのは、しつこいからなのか……。
「おれはあいつのこと認めてる。向こうも同じだってのがリズムを合わせればわかるかんな。それがお互いわかってっからそれ以上深入りもしねーし、うまい具合に関係保ててるんだと思うわ。あくまで音楽で繋がってるって感じだわな。冷たい言い方に聞こえるかもしんねーけど、その割り切った距離がおれと千夜にはちょーどいいんよ」
 互いに認め合っているからこそできる心地良い関係。そう言えば二人は自分自身の考えを相手に押しつけるような事はほとんどしない。一人で自立できる力を備えているからだろうか。相手に歩調を合わせようとするのと、一人で突っ走るのと、大きな違いはあるが。
「だから普段一緒にいても全然ドキッとすることなんてないわ。バンドやってる時はそんな感情一切抜きにしてっから。そりゃまー、オカズにすることは……たまにある」
「あるのですか」
 物凄くのっぺりした表情で淡々と言葉を返した自分がいた。
「そりゃ〜、遠くのアイドルより身近な女の子ってやつ?」
「僕に同意を求められても」
 思わずこちらも赤くなってしまう。僕も、一度いやらしい夢を見てからはたまに……今はしていないよ?溢歌がいるもの。
「ちょうど抱き締めたら両腕にすっぽりはまる感じってのがいいわな。おれとしちゃもーちょっと背ぇ高くてばいんばいんなのが好みなんだけど。でも、毎回同じ妄想ばっかじゃ飽きるかんなー、ちょっくらこう、身近にある刺激っつーか」
「ジェスチャーしながら言われても」
 こんな会話、本人の目の前でしていたら顔面変形するまで殴られる。
 いい機会なので、長年疑問に持っていた事を尋ねてみる事にした。
「イッコーはそんな……身近な女の人を頭の中で脱がしたりする訳?」
「ま、健全な男子だしなー。中学の時とかクラスの女子とかきれいな先生にドキドキしたりダチとどの子がいいか話し合ったりすんだろ。それと大差ねーよ」
 僕自身そうした話は苦手だったので、口を開け頷く事しかできなかった。健全な男子とはそう言うものなのか。僕がいかに不健全な学生時代を送っていたか思い知らされる。
「じゃあ、イッコーの頭の中じゃ千夜があられもない姿になったりしているの?」
「バスタオル越しはあっても裸なんて見てねーから想像でしかねーけどな。例えばだなー」
 とくとくと、想像するのもはばかられるような内容を2分程。
「……他人の性癖を聞くのって、ちょっと引くよね」
「引くな。恥ずかしーだろ。そーゆーおめーだって一緒だろー」
 ごもっとも。さすがに溢歌にも、自分の性癖の全ては見せられない。
「一回だけ夢の中に出て来た事はあるけど……」
 思い出したら確実にのぼせてしまいそうなので急いで映像を頭から消去した。しかし、今日ここで話した内容が後々夢に出て来そう。
「ま、向こうかがやらせてくれるなら喜んで受け入れるつもりでいるわ。ありえねーけど」
「キュウみたいな性格の千夜なんて全く想像できないけどね」
「おれと青空で乱交するんか?しまいにゃ全員穴兄弟になりそーだ」
 二人で泡風呂に打たれながら、気の抜けた溜め息をついた。男って阿呆な生き物。
「アホな話はおいといて、実際どーなん?キュウに恋してたりするん?」
 面と向かって問いかけられると、思わず周囲を見回してしまう。恋話は他人に聞かれる所でするのは恥ずかしい。幸い今の時間は人も少なく、周囲には誰もいなかった。
「あんな事されたけど、そう言い切れるものまでは別に……大切な友人かな」
 嘘はついていない、僕の正直な気持ち。この関係はいつまでも壊れる事は無いだろう。
 そんな僕に呆れたのか、イッコーは指を突き出し更に問いかけをぶつける。
「んじゃ究極の選択。キュウと千夜、どっちを選ぶ?」
 難し過ぎて咄嗟に答えられる訳が無い。戸惑いつつ、訊き返す。
「そんないきなり……イッコーなら?」
「おれならキュウ。別れる時も後腐れねーし」
 何と解り易い。そういやイッコーは最初につき合った女性と別れる時に結構苦労したと、かつて酒の席で言っていたような。それに、気の強すぎる千夜は好みとはずれるんだろう。
 しばらく顎に手を当て悩んだ末、僕は問いに答えた。
「僕なら……千夜かな。二人同時に告白された時の状況を想像したら、だけど」
 予想外だったのか、イッコーが意外な顔で僕を見ていた。無理もない。
「妙に気にかけてしまうタイプではあるんだ。どこか放っておけなくて、力になってあげたい気持ちを抱いてしまうような。独りぼっちに見える部分もあるからなのかもね」
「あー、言ってること何となくわかるわ。ダテに同じバンド2年やってねーし」
 僕の言わんとしている事がイッコーにも伝わっているようで良かった。
 千夜はとても孤独に見える。他人と決して肩を並べようとしない。
 誰かの為に音楽をやっている訳じゃないんだろう。全て自分自身の為。ひたすら音楽を求道する姿はドラムの音色にも表れていて、ヒリヒリして、痛々しい。
 そこまでする理由も、近くにいる僕達にも話してくれない。避けるように、一定以上の距離を置いている。自分は一人で生きて行くんだと言わんばかりに。
 そんな一人で背負い込む姿が、とても苦しく見えるんだ。
「もうちょっと心を開いてくれたらと思うよ。でも今はそれどころじゃないかな」
「受験も終わりゃ、練習の回数も増えてつき合いもよくなるっしょ。浪人したらたまったもんじゃねーよなあ。絶対とばっちり来んぜ」
 二人で乾いた笑いを浮かべる。さすがにそれだけは勘弁して欲しい。
「ま、おれは青空がキュウと千夜、どっちとつき合おうが温かい目で見守ってやっから。何なら二股かけても構わねーぜ。拍手してやる」
「そんな無茶な」
 そんな事をすれば千夜に殺されるのは目に見えている。キュウはそれでもOKしそう、むしろそのまま三つ巴に突入しそうな気もしなくもない。
「妙にしおらしくなった千夜なんて見たくないよ。いつも牙剥いてるくらいの方がこっちとしても扱い易いし、調子狂わないで済むから」
「まーな。あいつの場合感情が演奏にそのまま出るからな〜。リズム崩れなくてもな、何つーかこう……攻めの姿勢が音に出たり、冷静努めてリズムマシンっぽかったり」
 そんな自己主張の激しい音が『days』だとバランス良く取れてしまうのだから、本当に僕達は一癖も二癖もある人間ばかりと言うか。
「調子の良し悪しなんて誰でも出るけどなー、ウチはそれに左右されるメンツばっか揃ってんだよなー。青空はまだマシなほうだけどよ」
「どうだろう。僕もこんな調子じゃ先が思いやられるよ。クリスマスライヴは絶対成功させておきたいから。あと一月もあるし、最初のワンマンで演ったのと同じレベルでできれば文句は無いよ。四人集まって練習できる機会があるのかは分からないけどね」
「千夜も勉強し過ぎで腕鈍らなきゃいーけどな。ま、大丈夫だろ」
 まだまだワンマンをするには僕達、力が足りないのかも。曲数が減るのはプラスに働くから、クリスマスライヴは気楽にやろう。その方が僕もいい演奏ができるはず。
 いい加減のぼせて来たので、二人で湯船から上がり脱衣所へ出て行く。多少視界がぐらつくのが、妙に気持ち良い。湯冷めしない内に体を拭き、服を着る。
「青空の女性関係なんておれが口出しする問題じゃねーからキュウでも千夜でもファンの子でも好きにすりゃいーけど、」
 シャツに首を通しながらイッコーが僕に言う。
「あんまり女にうつつ抜かし過ぎてバンドおざなりになるのだけはかんべんな」
 返す言葉もありません……。
「だいたいバンドやるヤツなんて、最初はモテたいとか女目当てだったりすっし、ファンだからって自分とこの打ち上げに連れてきて持って帰るヤツだってたくさんいるだろ?そんなバカな女にゃつける薬なんてねーけど、女関係でバラバラになったバンドなんて腐るほどあるしな。ま、おれらみたいにファンの子とつき合い全然ねーってほうが珍しいかもな、こんだけ人気出てて。おれ達4人の性格の成せる業ってか」
 一足先に着替え終わったイッコーが、オレンジ色の頭を拭きながら笑って話す。何となく後ろめたい気持ちになりつつ、僕も着替えを急いだ。
「彼女作ったら、おいおい報告してくれや。からかいに行ってやっから」
「余計なお世話っ」
 結局、今日もまた溢歌の事をイッコーには言い出せなかった。勘違いしてくれているのは助かるけれど、正直に話した方が事態も好転する気もする。
 何だか僕、自分で自分を駄目にする魔法をかけているみたい。


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