097.抜けない楔
バイトへ出かける時に、玄関扉のポストに見慣れぬ封筒が入っている事に気付いた。
「どうしたの?」
「うん……ちょっと知り合いから、手紙が来てたの」
「ふーん」
我関せずと、先に出ていた溢歌がステップを踏み路上へ飛び出して行く。今週は随分と寒いのに、相変わらず薄着で頑張っている。前に家から持ってきた衣服も冬物なんてほとんど無かったし、見ているだけで寒い。特に今日は空も雲に覆われている。
「一枚くらいなら買ってあげるよ」
と言っても、溢歌は首を縦に振らない。妙な所で意固地なのが、黄昏に似ている。
駅へ向かう途中の街路樹も徐々に色褪せ、空の色も淡くなりつつある。昼の時間も短くなり、冬の季節もすっかり到来した気配。
封筒を鞄に忍ばせ、いつものように溢歌と仕事場までの道程の些細な時間を談笑し楽しむ。話している内容に大して意味は無い。ただ、溢歌の耳障りの良い声を聞き、彼女の仕草や表情の変化を眺めているだけでいい。一緒にいる時間が多ければ多いほど、僕の心は満たされて行く。僕の心に空いてしまった黄昏の分の空白を埋めてくれている。
電車に乗っている時、溢歌はほとんど一言も喋らない。席が空いていても座ろうとせず、いつも扉のそばに立ち、扉の窓から外の景色を眺めている。主に海側を、憂いのある表情を浮かべて。僕はいつも、その横顔を眺めている事しかできない。
「何だか海が故郷のようだね」
肩を並べ歩道を歩く溢歌に言葉を投げかけると、少し思い詰めた表情を見せた。
「そんなものじゃないわよ。……ただ、還る場所があるとすればそこなのかしらって。こんな言い方をすると、まるで海に身を投げようとする自殺志願者みたいだけれど」
冗談めかして笑う溢歌を見て、背筋に寒いものが走った。いつ、一体何がきっかけで溢歌が僕の元から離れてしまうか判らない、そんな危険性を感じる。
首に縄を付けそばに置いておこうと思っても、案外首輪をかけられているのは僕の方なのかも知れない。溢歌の魅力から逃げ出せなくなってしまっているから。
いつものように仕事場近くで別れる時、溢歌が口元に手の平を当て軽く咽せた。
「やっぱり寒いんじゃないの?」
「寒くないわよ」
強がってみせるものの、時折吹き付ける突風に顔を顰める所を見ると、あまり体調が良さそうには見えない。元々、調子が良さそうに見える事は少ないとは言え。
「僕がバイトに出る日はいつも何時間も冷たい潮風に当たってるんでしょ?いくら慣れてるとは言っても風邪引いちゃうよ」
「そんな朝から夜まで海沿いにいる訳じゃないわよ」
僕が仕事中、溢歌は辺りをぶらついていると言うけれど、主に海沿いにいるのだろう。
「風邪を引いちゃうと、僕が看病しなくちゃいけないんだから。今日の所はすぐ家に帰って、のんびりとしていてよ。……何もやる事、ないだろうけどさ」
家に一応ゲーム機やテレビはあっても、溢歌は全くと言っていいほど興味を示さない。だから僕が仕事に出ている間、溢歌の時間の潰し方は僕もいつも気にかけてしまう。
「……分かったわよ。今日の所は早めに切り上げておくわ。休憩時間までいた方が……って、そんな顔しなくても良いじゃない」
僕の無言の視線に、溢歌は渋々頷いた。とりあえず僕は自分の財布から万札を一枚抜き、溢歌に手渡す。
「これで冬服でも買いなよ。その方が僕も安心できるからさ」
勿論出費は痛い。でも、溢歌の為なら何も惜しくは無かった。一緒に暮らすようになってから、バンド関係にお金を費やす事も少なくなった分、多少余っていたし。
溢歌は黙ったままお金を受け取り、僕を路地裏まで引っ張って行きいつもの別れのキスをした。いつ仕事場の同僚に目撃されているかと、少しハラハラもの。
海岸沿いへと向かう溢歌に手を振り、仕事場へ向かった。溢歌を早めに帰したのは何も彼女の体調を心配しているからだけじゃない。
じっくりと、柊さんからの手紙を読みたかった。
休憩時間になると外も雨が降り出しそうな天気になっていて、念の為岩場へ向かうも溢歌の姿は見当たらなかった。ちゃんと言う事を聞いてくれたみたい。今の時代に携帯電話を使えない溢歌なので、居場所をがどこなのか特定できないのが困りもの。
ぐずつく天気にいつ雨が降り出すか心配しながら、適当に風をしのげる場所を探し、食事のできる店に入った。値段の安い注文を頼み、待つ間に今朝の封筒を取り出してみる。
「前略
お久しぶりです、柊です。
青空さんにこうしてお手紙を書くのは随分と久しぶりな気がします。直接会ったのは夏だから、それほど経っていないんですけどね。
メールでやりとりすれば、もっと気軽に青空さんと対話ができるでしょうけど、自分の気持ちを伝えるにはこうして手書きにした方がいい気がして、手紙にしたためています。」
人となりが伝わってくる文章と丁寧な文字が心地良い。柊さんと一緒に買い物したのも、今年の夏だったっけ。季節が一巡りした訳でもないのに、遙か遠い昔の出来事のよう。
手紙には近況がつらつらと表情豊かな文章で書かれていた。柊さんの声が耳元で聞こえて来るみたい。『days』の事、日常生活の事、学校の事――柊さんの人となりを知るには十分過ぎるほどで、思いをまとめ切れなかったのか便箋も3枚に分けられていた。
そして、読み進めて行く内、ある一節に目が止まった。
「私は今度、そちらの大学を受験しようと考えています。」
口に運んでいたグラスの水を思わず吹き出しそうになる。ちょうど昼食がやって来て、苦笑しつつ冷静を取り繕った。
食事を取りつつ、便箋を読む。便箋の内容に、初めて入った店の新鮮な味もほとんど気を取られなくなって行った。
「少し難しいところなので、自信を持って合格できるとは言えませんけど……。
自分の夢と目標へ近づくために、悔いの残らない選択をしようと思いました。
もし合格したなら、一人でまた水海に戻って来る事になると思います。その時には、よろしくお願いしますね。」
その後には、受験勉強の追い込みでてんやわんやになっている事など微笑ましい近況が書き連ねてあった。
そして、最後の一文。
「来年の大学受験でそちらへ行く事になるので、試験が終わった後にでも会えませんか?いろいろとお話したい事は山ほどあるので。
それでは、また。その時にでも手紙を送ります。」
頭を抱えてしまった。
全く予測していなかった展開。いや、あれほど僕達のバンドに入れ込んでいた柊さんなら、バンドのファンなら――そして、僕のファンなら、こうした行動を取っても可笑しく無いのだ。しかし、数回顔を合わせ、手紙をやり取りしただけでこの入れ混みようは。
便箋から目を離し、先に食事を済ませる。皿が空になった所で時計を見、余裕があるのを確認してから最後まで便箋に目を通してみた。改めて、目眩を起こす。
グラスの水を一飲みし、ひとまず気持ちを落ち着かせ、勘定を済ませ店を出る。帰り道の間も、仕事に戻ってからも、柊さんの事ばかり考えていた。
何故柊さんはこちらの大学を受けるんだろう?
その理由は便箋に記されていなかった。小説を書いているので、勉強のために語学をもっと学びたい、みたいな事を言っていたような記憶がある。
それなら別に地元の大学でも構わないのでは、と思う。家族の都合で引っ越したのだから、親御さんの傍にいるべきじゃないのかなと思ったりもする。この街に強い思い入れがあるからなのかも知れない。
僕を追いかけて、なんて真似では無いと思いたいけれど、結局、推測の域を出ない。まさかこちらの大学一本に絞るなんて酔狂な真似をする事は無いだろう。
すぐさま連絡を取れる手段が無いので、僕の方から一度手紙を書いた方がいいだろうか?まともに送ったのは今年の年賀状ぐらいなので、多少気恥ずかしい。考え直して欲しいとか、僕が強要できる立場でも無いし。急ぐ必要も無いなら、年が明けてからでも十分構わないだろう。こちらのバンド活動も一段落ついてから、この問題に取りかかろう。
雑念を捨て、仕事に集中する。一人で悩んでいても堂々巡りで、集中力もおろそかになる。昔ほどバイトに身が入らないとは言え、手を抜けばそれだけ他の仲間に迷惑がかかる。
今、手元に何もせず一年間暮らせるお金があれば、何もためらわず家に引き籠もり、溢歌との蜜月を過ごしているだろう。簡単にお金なんて稼げないから、そんな夢を見る意味も無いんだけど。
もう少し気持ちを入れないと、本当に仕事への情熱が無くなってしまいそうで怖い。スタジオで働き続け、結構音響関連については知識を得たけれど別段バンドに活かされてはいない。録音機材にほとんどお金を回さないし、バンドで録音もあまりしない。音の善し悪しもデモテープだと大して気にするものでも無い。
かなり惰性で仕事をしているのも事実。これではまずい。
かと言ってここを辞めた所で、お金なんて数ヶ月で底を突く。次どこで働くのかなんて分からない。音楽でお金を稼げれば一番いいけれど、生活費を穴埋めしてくれるくらい稼いでいる訳でもない。ここ2年では多少ゆとりは出ているものの。それに、バンドが動かない時はそちらでの収入も無いんだから。
何だか二十歳にしてお先真っ暗な自分の人生が辛い。ドロップアウト組だから仕方無いのか。かと言って大学に行けていたとしても、似たような境遇になっている気もする。
音楽をやれて、溢歌もいて、端から見れば幸せに思える境遇にいるはずなのに、どうしてこんなにも僕の心の中はどろどろとしているんだろう。心の底から晴れ晴れとした瞬間なんて、バンドの中でしか、ステージの上でしか見出せなくなっているようで。
仕事を終え、帰る支度を済ませ、休憩室のソファで柊さんの便箋を読み返す。
別に柊さんの生き方が悪いと言っている訳じゃない。
僕自身の行動で人一人の人生を変えてしまう事がある。その重みを、その言葉の本当の意味を、今になって初めて知った気がする。
溜め息をつき、便箋を鞄にしまう。溢歌の元に早く帰りたくなった。
今日はやけに一段と寒い。丸まる背筋に色々なものが圧し掛かっているように思える。この件については溢歌に話すのは止めておこう。余計な心配をさせる必要は無い。
身の回りだけで手一杯なのに、柊さんまで絡んで来ると対応仕切れない。
それに、今の僕は柊さんを必要としているのか?
バンドに夢中になっている時には、自分のやっている事が本当に誰かの胸に届いているのだと言う事を教えてくれた。とても嬉しかったし、それが僕の力にもなった。一方的ではなく双方向、解り合える瞬間を感じさせてくれた。
しかし正直僕の柊さんへの想いは、昔憧れていた初恋の相手のような、そんな想い。つまり溢歌が現れてくれた今となっては、昔の人――と言う位置付けになってしまっていた。
溢歌と出会っていない状態でこの手紙を貰ったのなら、もっと違った気持ちで受け取れたんだろう。一歩置いた距離でバンドに接するようになっている今だと、柊さんの考え方が少し危険なものに感じられるのがよく分かった。
彼女の持っている僕への想いは、何となく察しがつく。直接僕と対話する事で、憧れや一つの希望だった感情が、恋愛に似た想いへと変質しつつあるんだろう。乙女心はそう簡単に断定できるものでもないけれど、『days』への、そして僕への思いが心の中で大きなウェートになっているであろう事は、便箋の内容を見れば明らか。
嬉しい反面、複雑な気持ちになる。何故なら、僕は柊さんの気持ちを正面から全て受け止める事ができるとは思えないから。音楽を発信する側にいて、酷く身勝手な言い分だと自分でも思う。けれど、自分の伝えているものに責任が持てるのかと言うと、どうだろう。
勿論僕は自分の気持ちに嘘をつきながら音楽をやっている訳じゃない。ただ、それを受け取った側の行動まで責任を持てと言われても、戸惑うしかできない。『days』の音楽に触れ、感じたものを自分の生き方に活かしてくれるならこんなに嬉しい事は無い。でもその気持ちを、ほとんどこちら側に向けられてしまうと、何だか悲しい気持ちになる。
人気者になりたいのに人気者になりたくない、なんて矛盾した考え。
こうした考えも、柊さんを前にした時に口に出して言えるのかな。キュウみたいに体で迫られたりしたら、呆気無く欲望に負けてしまいそう。
優柔不断でずるずる行く前に、曲を届ける側とファンの線引きをはっきりしておこう。今後第二、第三の柊さんが現れてもおかしくないもの。
家に帰ると、溢歌が夕飯の支度をしていた。室内に漂う味噌汁の匂いが肌に染み渡る。一人分だと簡単に余るので、一人暮らしの時には自分で作るなんてほとんどしなかった。特に今日は冷え込んでいたので味噌汁の温かさだけで幸せな気持ちになれる。
「何か可笑しい?僕の顔」
「今、物凄く無防備な顔してたわよ」
真向かいに座る溢歌が箸を止め、僕の顔を楽しそうに眺めていた。かなり恥ずかしい。
「そんなに僕、変わってるかな」
自分の顔を撫でてみる。黄昏ほど喜怒哀楽が激しいつもりは無い。
「出会う前にどんな性格をしていたかなんて私が知るはずもないわ。でも、見ていて飽きないわよ。凄くでこぼこな感じがして」
「でこぼこ?」
「丸くもないし、尖ってもいないの。変に頑固なところがあったり、とても無防備なところがあったり。私と同じね」
言われてみるとそうかも知れない。しかし溢歌も、自分の性格を自覚しているのか。突っ込むとまた機嫌を損ねてしまいそうなので、味噌汁で口を塞ぐ。
「あと、女の子に凄くやさしい」
不意打ちを食らい、思わず咽せてしまった。
「そ、そう?そんなつもりはないんだけど」
「普段青空クンが他の人といるところなんて見ていないから、分からないけれどね」
「誰にでも優しくしているつもりなんだけどね……」
最近思いもかけず尻軽な所のある自分の性格に気付き始めていた所に、溢歌の言葉は結構効いた。首輪でもかけて貰って尻に敷かれていた方が、安全なのかも。
「結構人気あるんでしょ?青空クン」
「な、何に?」
「ファンの子に」
いやらしい笑みを浮かべる半目の溢歌が怖い。柊さんの事まで見透かされているようで。曇りの無い綺麗な瞳が、鏡のように僕の心を映しているみたい。
僕は身を乗り出し、溢歌の両肩をしっかり両手で掴んだ。
「大丈夫、僕には君しか見えていないよ」
突然の事に固まっていた溢歌の顔が、間を開け耳元まで赤く染まった。
「ご、ご飯食べてる最中なんだから、口説くのは後にして」
動揺したのか僕の手を払い除け、むっつり顔で手早く白米を口に放り込み始めた。普段は溢歌がリードしているから、今みたいに予想してない行動を取られると動揺を見せる。そんな所に幼さが残っていて、可愛い。
「そう言えば、服は買ってくれた?」
「……ちゃんと買って来たわ。ご飯食べた後に、着替えてみせるから」
「楽しみにしてるよ」
「可愛いからってそのまま襲いかからないでね。皺になるもの」
食事が終わった後、溢歌の買って来た服を見せて貰う。男物と違い、冬用でも薄く感じてしまうのは普通なんだろう。少し渋めで大人が着るような物を選ぶ所が面白い。実家から持って来ていた服も、シンプルで大人しめのデザインのが多かった。
キュウや愁ちゃんが着ているような服は、あまり似合わないみたい。ボリュームのある髪のおかげで制服も似合わないだろう。お人形みたいな奇抜な服の方が合うのかも。
「これで風邪は引かないわよ」
なんて笑っているけれど、やっぱり寒そう。この季節になると夕方の海は体に非常に堪えるので、これからも休憩時間を一緒に海辺で過ごした後は好きにして貰う事にした。僕の帰りを待っていると日が暮れてしまう。安全も考えるとその方がいい。
「要するに、家に帰って来たらすぐにご飯食べられる状態がいいのね」
笑顔でも言葉の端々は尖っているが、仕方無い。溢歌の言うように、帰宅後すぐに食事で体を温められる方が、僕も有り難いし。
冬が徐々に深まるのを感じる。一日ずつクリスマスライヴまでの日付が迫っていると言うのに、昨年のような緊張感はあまり無かった。バンドの仲間とも連絡取る事が無く、淡々と日々を重ねて行く。キュウからのメールは毎日のように来るけれど、手短に返信しているだけ。前回で迷惑かけたのかと思っているのか、突然仕事場にやって来るような事はしなくなった。期末テスト前だから余裕が無いだけなのかも知れない。
「ちょっと、おつかい頼まれてくれないかな」
ある日仕事を終え、いつものように真っ先に家に帰ろうとしたら、叔父さんに呼び止められた。急用で今日中に荷物を届けなければならないらしい。
「バイク便でいいじゃないですか」
「お金かかるでしょ。そんな多くもないし、頼めるかな。家と反対方向になっちゃうけど」
目的地は水海方面なので、電車だと逆になってしまう。今日は朝から入っているのでまだ日が完全に沈むには時間があるけれど、一刻も早く帰りたいのが本音。
しかし、ここ最近の自分の素行を顧みると、ここで断ればますますバイトでの居場所が無くなる気がした。僕の帰りを待つ溢歌には悪いけれど、仕方無いので渋々引き受ける。
「……分かりました。場所はどこですか?」
教えて貰った場所は『N.O』の近くだったので安心した。そう言えば、溢歌と出会ってからは一人で足を運ぶ機会が無かったか。家で溢歌が待っているので練習する気にはなれなくても、ちょうど通り道なので帰りにでも顔を出しておくことにした。
頼まれ物の用事は道に迷う事も無く、思っていた以上に呆気無く終わった。音楽業界の会社だったので多少萎縮したものの、本当に荷物を届けるだけだったので。
「すいませーん」
帰りにスタジオへ顔を出すと、カウンターでうたた寝していたおやっさんが顔を起こした。暇だったのか眠ってしまっていたらしい。そういやここでおやっさん以外の従業員を観た事無いけど、もしかして毎日休まずやっているのかな?
それほど大きな場所でも無いし、知る人ぞ知ると言った感じの店ではある。
「おお、久し振り」
「近くを通ったから寄ってみたんだ。眠そうだね」
「寒くなると体に堪えるからな。微妙に効く暖房も眠気を誘うんだよ」
おやっさんはそう言い天井付近のエアコンを指差した。スタジオに熱気が籠もる事も多いからか、それほど暖房を強くかけているわけでもない。
「最近調子はどうだい?年末にラバーズのクリスマスライヴに出るんだって?」
「うん、今年も――そんなに期待されると困るけどね。昨年もたまたま上手く行っただけだし……バンドも結構酷い状況だったもの。今年も別の意味でボロボロだけど」
「ほんと、ずっと喧嘩ばかりしてるなお前さん達は」
「あはははは」
返す言葉もありません。特に千夜さんと口論している所ばかり見られている気もする。
「そう言えば、機材壊したのもこの季節だったっけ」
「あの後、大変だったんだぞ」
「申し訳ありませんでした……」
今でも僕の中に大きな爪痕として残っている、あの大喧嘩。あの時に初めて千夜の涙を見た。あの悔しそうな表情を思い出す度に、胸が締め付けられる思いがする。
結局機材の弁償はバンドの稼ぎと、千夜の懐から折半した。高価な機材は破壊されなかったけれど、それでも軽く6桁は行っていた。責任を感じていた千夜が、一人でかなりの額を負担する事になったのだが――足りない分は個人練習で訪れる度、少しずつ返済しているらしい。
「運がよかったからいいものの、レコーディング機材まで壊していたらお前達全員にここでタダ働きしてもらわないといけなかったぞ」
「タダ働きは、きついなぁ……」
そんな事したら一人暮らしできなくなってしまう。しかし、試しに一度くらい働いてみたくなるようなスタジオでもある。叔父さんの仕事場とは、また違う。
「それじゃ、そろそろおいとましますね」
放っておいたらこのまま長々と話し込んでしまいそうな気がしたので、自ら切り上げる。するとおやっさんが奥の扉の一つを指差し、言った。
「もう帰るのかい?そこで千夜が練習しとるよ」
その言葉を聞いた途端、僕の足は扉の方へと駆けていた。