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「千夜!」
大声でスタジオの扉を開け室内に飛び込むと、ドラムを叩いていた千夜が演奏を止め、首を伸ばし何事かと確認した。僕の存在に気付くと、そのままドラムの陰に隠れるように溜め息と共に背中を丸める。
ギターを投げ捨てるように置き、早速近くに駆け寄ると、それはもう酷い頭痛で悩んでいるような顔でうなだれたままこちらを見上げた。そしてまた一つ、溜め息。
「逃げないんだね」
「……逃げたところで、どこまでも追いかけて来るだろう、貴様は……」
全くもってその通り。千夜も僕のお人好しな性格をよく分かっているから、逃げ出す真似はしなかった。
「……で、何しに来た?」
汗で額に張り付く前髪を払い除け、いつものように厳しい視線を僕に送る。硬い表情の後に、少しでも触れればその場から逃げ出してしまいそうな危うさを感じるのは気のせいか。
「何しにって――用事で近くを通ったから、寄ってみただけ。千夜がいたのも偶然だし、今日は練習しに来た訳でも無いから顔見せだけで帰ろうと思ってたんだけど」
「なら今すぐ帰れ」
千夜は吐き捨てるように言うと、僕から視線を外し演奏を再開しようとした。
「ちょ、ちょっと待って」
「何だ!帰るんだろう?なら早くここから出て行け」
苛立ったように命令口調で扉を指差す。とは言え、はいそうですかと従う訳にもいくまい。会うのはライヴでの酷い演奏以来だから、聞いておきたい事が山程ある。この機会を逃すと、次はいつ捕まえられるのか分かったものじゃない。
「ちゃんと連絡をキュウや僕と取れるようにして、会う機会を作ってくれると約束するならこの場は引き上げてもいいよ。練習の時間を使わせるのも勿体無いしね」
両手を万歳し抵抗するつもりが無い事を示すと、千夜は再び大きく項垂れ、手にしていたスティックを横の椅子の上に投げ出した。
「……分かった、キュウとは連絡を取るようにしておく。でもそれで今日は勘弁してくれない?頼むから」
額を押さえ、呟くように答える。僕と出会ってしまったせいで集中力が途切れてしまったか。しかしそれも無理もない。
そうは言っても、とにかく何も無しで帰ってしまうなんて真似もできない。
「……おい、何をしている」
ソフトケースからギターを取り出し、アンプにシールドを繋ぎ出す僕を見て千夜が言った。見れば解る通り、これから一緒にセッションしようと言う事。
「最近僕も腕が鈍っててさ。せっかくだからちょっと練習しておこうかなって」
頭の片隅で溢歌が怒鳴っている姿が浮かぶ。しかしそれほど遅くなる訳でも無いから、何とか許して貰おう。それに、自発的にギターを弾きたくなる感覚も久し振りだったから。
「止めろ。私はそんなつもりは――」
「どうせバンドの練習に出て来るつもりも無いんでしょ?それならこんな機会にでも音合わせしておかなくちゃね。前回の出来のままクリスマスライヴなんてやったらそれこそ、非難囂々だろうから」
さすがに二度も客の前で酷い演奏をする真似はできない。千夜本人はそんな事全く関係無くても、僕自身が一番それを許さない性格だと言う事も彼女は解っている。だからそれ以上反論する事も無く、渋々スティックを握り直した。
「まだスタジオの時間あるよね?演奏する曲目は決まってあるから、順に演奏しよう。ベースはいないけどね」
以前からメンバーが足りずにテープで練習している時に感じていた。このバンドはリズムがしっかりしているから、片方がいなくてもギターを弾く時にさほど苦にならない。
練習で黄昏がいない時は、代わりに僕が歌う。昔は凄く嫌だったのに、今はもう自分の歌声を否定する事自体に疲れて来た。文句を言っていられない状態で好き嫌いなんて言っていられないと言う事。なので、歌の技量が上がっているなんて事は無い。
マイクの前に立ち、ギターを弾きながら、ここに溢歌が立っていればどうなるだろう?なんて少し考えてみた。いつもは黄昏が歌っている曲を溢歌が歌えば――一度でいいから目の前で聞いてみたい、なんて事を思った。
「演奏がずれている」
一曲目の前奏の途中で千夜が手を止め、注意して来る。前回の内容ですっかり意気消沈しているかと思ったら、いつもの千夜と変わりない。
それはドラミングに関しても同じで、一曲合わせてみただけでも調子が下降しているなんて微塵も感じさせない、正確なリズムを刻んでいた。
「調子良いじゃない」
曲が終わった後に笑顔で振ってみても、千夜は僕の方を一度も見る事無く次の曲に入る。リズムは完全に千夜のもので一人突っ走っているので、腕の落ちている僕はついていくだけで精一杯。意地悪をしている訳じゃなく、ただ我が道を走っているだけなのが千夜らしい。溢れるほどの才能を持っているのに、常に余裕の無い所とか。
6曲合わせてみた所、千夜は演奏に前回のスランプを引きずっているなんて思えない出来で、思わず唸ってしまった。他人の心配より自分の心配をしている方が良さそう。一週間も弾かないだけで、指の皮が柔らかくなっているような感覚がある。
「何だ、全然問題無かったね。……ってあれ?帰るの?」
まだやる気の僕をよそに、千夜は自分のスティックをケースにしまい、帰る支度を整えていた。
「合わせたならこれ以上演る必要が無い」
そう言い放つと、僕を置き部屋を出て行く。慌てて僕もギターをしまい、後を追いかける。ちょうど千夜がカウンターでおやっさんと話を終え、立ち去ろうとしていた。
「待って待って待って待って」
勢いで腕を掴むと、その背中が大きく跳ねる。振り返った千夜は脅えたような表情を見せ、強張った顔に僕は動きを止めてしまった。そのまま束の間の時間の後、千夜が怒った表情に変化していき掴んだままの僕の手を大きく振り払った。そこでまずい事をしてしまったと気付く。
あんな事があったばかりなのに、男に触られるなんて普段以上に苦痛だろう。
「……少し、そこに座れ」
握り拳が飛んで来る事を覚悟するも、千夜は僕達と入れ替わるようにスタジオに入った人達が座っていた休憩所の黒いソファを指差し、不満気な顔で先に座った。僕もそれに倣い向かいの席に座る。しばらく無言の空気がこの場を支配し、居たたまれない気持ちで一杯にいる所におやっさんがスタジオの一室から戻って来て、千夜がコーヒーを頼んだ。
「――まず先に行っておく」
運ばれて来たブラックのホットコーヒーに一口つけ、こちらに強烈な視線を送り、千夜は口を開いた。
「余計な詮索や気遣いは無用だから。次のライヴはちゃんと叩いてみせる」
とは言うものの、無理な注文なのは言う本人も解っているに違いない。びっくりするほどお節介なのが、僕と言う人間なんだから。
「それだけ言い切れる元気があるんなら大丈夫だと思うよ、僕も」
おやっさんに僕もミルクコーヒーを頼む。千夜は顰め面のまま、こちらを見ていた。
「連絡しないからみんな余計に心配しちゃうんだよ。一人で塞ぎ込んでしまうと、僕達はどうする事もできないからね。キュウなんてどれだけ不安がってたか」
責めるつもりは無くても、つい厳しい口調になってしまう。それだけ千夜の事を想っている人間がいると言う事を、本人に分かって欲しいからか。
「――悪かった。本当にすまない。逃げるつもりじゃ、なかった――」
言い返して来るかと思ったら、千夜は目を伏せ、小さな声で謝った。口を塞ぐようにコーヒーに口をつける。憂いのある表情は大人びて見え、ふと解散騒動の時に謝った顔を思い出した。まだ一年経っていないとは言え、少女の顔からやや垢抜けた印象を受ける。長い間一緒にいると、相手の変化になかなか気付かないものだと思った。
「気持ちが整理できたら、連絡しようと思っていた。時間が必要で――今も、まだ、整理はついてない――だから今も、何を話せばいいのか分からないでいる」
千夜の方から自分の心境を吐露するなんて、あまり記憶に無い。黒ずくめの衣装で身を固めていても、ガードががら空きになっているような、無防備に状態に見える。
「余計な事は話したくない……でも、誰かに話してしまった方が楽なのかも知れない。自分一人で抱え込まなければならない事なんて、いくらでもあるでしょう?」
「あ……うん」
今日の千夜はやけに饒舌で、無理にこちらから言葉の端々に突っ込まない方がいい気がした。知りたい欲を出さず、聞き手に徹した方がいい。
一度ポケットから携帯を取り出し時間を確認し、溢歌の事は頭の片隅にしまった。
「聞かれる前に言っておく。ドラムを叩きたくなったから、今日はここに来た」
「個人練習もしていないと思ってたから安心したよ」
おやっさんが淹れたミルクコーヒーを頂く。砂糖抜きだとちょうどいい。
「……でも、バンドの為に叩きに来た訳じゃない。鬱憤を晴らしたかっただけ。次のライヴの事なんて、何も考えていなかった」
「叩いているのは『days』の曲でしょ?なら何も問題は無いよ」
僕のフォローに千夜は黙ったまま、眼鏡を外し軽く両手で目尻を拭った。いつもなら顔を拭う時は横を向き僕達に素顔を見せないようにするのに、気付かないほど余裕が無いのか。
「期末テストはいいの?それより受験の方が大切だと思うけど」
「ここまで来ると内申なんてテストの一つ二つで大きく変わるものでも無い」
それもそうか。僕も千夜と同じ学年の頃は大して気にしていなかった。それ以前に半ば現役で大学に受かるなんて諦めていた節があった。
「受験のアドバイスなんて――いらないよね、今更」
「大学に行っていない人間に諭された所で何の意味も無い」
確かに。結構耳に痛いけれど、減らず口を叩いている方が千夜らしい。
「何にしても、問題無く過ごしているなら安心だよ。これまでに色々ステージ上でトラブルがあったりしたけど、さすがに前回はフォローできる状況になかったからね……黄昏も不安定な出来だし、僕もそれほど調子が良い訳でも無いし」
「……迷惑だったか」
「え?」
「私が叩く事で、みんなに迷惑をかけてしまうのか――?」
千夜のその問い掛けは、自分自身に向けているように聞こえた。
「どうして?千夜にはいつも助けて貰ってるよ。『私をフォローする前に自分の心配でもしたらどう?』くらい言ってくれなきゃ、千夜じゃないよ」
我ながら酷い言い草だと思う。
「そんな、他人に構ってなんていられない」
怒声が飛んで来るのを覚悟で言ってみたのに、予想していない言葉が返って来た。
「今は、自分の事を考えるだけで精一杯……」
そこで首を左右に振り、飲みかけのコーヒーに視線を落とす。
「今だけじゃなく、多分今までも、これからもずっと、自分の事しか考えていない――」
眉間に皺を寄せ、思い詰めたような表情を見せる。以前、同じような千夜の表情を見た事がある。
「前だって、そう」
千夜がライヴ中に演奏をボイコットした、あの後。僕の前で謝っていた時と同じ。
「自分の家庭の都合でまともに叩けなくなって、そのまま逃げ出した。あの時と全く変わっていない。青空がどれだけ許してくれたところで、私は反省一つしていない。肝心なところで自分のせいで、他人を引っ張ってしまう。頭では分かっているのに――」
生き方を変えようとしても、同じ過ちを繰り返してしまう。そんな自分に悩む千夜の姿を見て、彼女も僕と同じ人間なんだと思った。何でもできてしまう完璧人間であるように見えるのに、実はとても脆い。その弱い部分を、ひたすら外へ向かう攻撃性で覆い隠しているんじゃないか。
「あれは、仕方の無い所もあると思うけどね……。苦手なんでしょ、男の人。普通の女の人は引きずっちゃうよ、あの出来事は」
気の強い千夜だから、とつい考えてしまいがちだけど、あれは他の人でもショックを受けてしまう出来事だろう。ジゴに自分の事を悟られてからは、明らかに態度がおかしくなっていた。彼等に弱みがあると言う訳ではないみたいだったけれど――
「そうじゃ……ううん、そういう事で構わない……」
何かを言い返そうとして、そのまま千夜は言葉を引っ込めた。本人は気付いていないのか、かなり冷静さを失っている。この状態で色々と深い所を質問するのはまずい。
「でも、許せない。他からの要因でいとも容易く潰されてしまう自分が」
跳ねた黒髪を右手でくしゃくしゃにし、絞り出すように呟く千夜。自分の不甲斐無さを外に求めずひたすら自分を責めている姿は、見ていて痛々しい。
「ライヴは――きちんと叩ける自信はある。もう大丈夫、次は同じヘマをしない。そう思っていても、また奴らが目の前に現れるかと思うと――」
今にも泣き出してしまいそうなほど苦痛な表情で、千夜は体を背けた。これが、千夜の本質なんだろうか。近寄り難い外見とは裏腹に、肩を抱いてやりたくなるくらいひ弱で、脆い。
不安定な千夜の態度に戸惑うのを隠し、冷静を努め答える。
「大丈夫、その辺はラバーズのスタッフに頼んでおくよ。だから千夜は、ライヴにだけ集中していればいい。他の余計な事を考える必要は無いよ。メンバーの最高のコンディションを作る状態にするのも、リーダーの役割だと思うしね」
千夜の不安を取り除いてやらない事には、僕達も最高の演奏ができない。もし本当に彼等がまた現れたらと思うと不安より先に、まずは仲間を落ち着かせないと。
「……つくづく、青空はお節介」
僕の弁明に、千夜は僕に目線を向け呟くと、少し落ち着いたのか姿勢を直した。
「私には、その性格が分からない。初めから誰かに何かをするなんて考え方を持っていないからか……どうしてそんなに、他人に優しくする?」
「それは……」
いきなり難しい質問をぶつけられ、言葉に困った。しばらく悩んでみるもののすぐに結論が出せるものでも無いので、考えながら順に言葉にする。
「それは、単に自分の性根じゃないかなぁ。困っている人がいると助けたくなる、それだけだよ。放っておけないんだ。多分、自分が同じ状況に陥った時に、誰かの手が欲しくなるからじゃないかな。それが自己満足なのか、よく分からないけど」
前に僕は千夜に、みんな結局自分の事しか考えていないんだと言った。他人に尽くす事で、結果的に自分に返ってこればいいと言う考えから口にしたんだけど、今もその考え方に大きな変化は無い。簡単に言えば、単に見過ごせないだけ。見過ごしてしまうと、自分の中で引きずってしまうと思うから。
「千夜を助ける事で、演奏している周りの僕達もやり易くなるし、いい演奏を見せればお客さんも楽しんでくれる。誰かが損をする事なんてないもの、やらないと損でしょ」
自分の言っている事にそれほど間違ってないと思うんだけど、僕の話を黙って聞いている千夜は難しい顔で首を傾げていた。解ってくれないなら、それでいい。
「深く考えなくていいよ。僕も、それにみんなも、千夜がドラムを叩く事で迷惑に感じているなんて人は誰一人いないと思うよ。一度キュウに尋ねてみれば?」
笑って言うと、千夜はやや引いた顔ではにかんだ。
「千夜も、自分とは反りの合わないものに一々食ってかかり過ぎじゃない?」
「……なのかも知れない。全て、自分の物差しで考えてしまうところがあるのは私だって分かっている。だからと言って、自分に向き合っていない人間を許せる気にはなれない」
その言葉で、千夜の性格が掴めた気がした。
「頑固なんだ、千夜は」
「私が?」
思いがけない事を言われ、目を丸くする千夜。
「どうしても譲れないボーダーラインがあるとして、それが千夜は自分の中でとても高くて、相手にもそれを求めてしまうんだよ。別にわざわざ下げろって言う訳じゃないけど。千夜の演奏レベルが高いのは、そのストイックさから来ているんだろうし。ただそれを外に向けてしまうから、色々周りと問題を起こしてしまうんじゃないかな」
面と向かい相手の性格を指摘してしまう事は、結構厳しいと僕も思う。おそらく本人も僕の言っている事は頭のどこかで感じているだろう。
千夜は大きく溜め息をつくと、項垂れた頭を後にゆっくりと振った。
「――でも、それは譲れない。そこを譲ってしまうと、私は私でなくなってしまう……」
どうしてそこまで千夜は頑なに自分を作ろうとするんだろう?自分で自分を追い込めているようにしか見えない。苦しくて心の中で悲鳴を上げているのに。
「自分でも、分かっているの。無理をしているんだなって。でも、そうしないと、私の中に雑念が入り込んでしまう。少しでも隙を見せれば、そこから暗闇が襲って来るから」
その言葉に、千夜の姿が黄昏とだぶって見えた。
黄昏も、ずっと部屋に籠もっていた時は、暗闇を見ないようにする為にひたすら歌い続けていた。壁の向こうから伸びて来る暗闇を振り払う為に。千夜も、そうなんだ。何かからひたすら逃げる為に、もう一人の自分を創り出している。
「だから、ガチガチに固めてしまうの。見た目も、意識も――でも、必死に作り上げた自分の姿も、一つのアクシデントで簡単に崩れる。それをまた、固め直して――もう何だか……疲れた」
最後の方は投げやりに言葉を吐き、前髪で顔が隠れるくらい力無く項垂れた。
こんなのは、千夜じゃない。見ていて痛々しく、何とかして元気付けてやりたい。
「千夜らしくないなぁ。どんな時でも24時間フル稼働してるような印象があるのに」
「私はロボットじゃない」
元気付けようと明るい声をかけると、下を向いたまま返されてしまった。仕方無く手元のミルクコーヒーに口を付ける。少し冷めてしまい、芯まで体が温かくならない。
「何もできない自分に悩む事だってある――いや、いつだって悩んでいる」
千夜の頭の中は、今どうなっているんだろう。どんな思いが胸に渦巻いているんだろう。すぐ目の前にいるのに、二人の間に物凄い隔たりがある気がして、もどかしい。
そのまま、千夜は俯いたまま押し黙ってしまった。
目配せでカウンターの向こうにいるおやっさんに助けを求める。僕の視線に気付いたおやっさんは、こちらを微笑んで眺めていた。絶対面白がっている。
こんな時、溢歌相手なら両腕で抱きしめてあげるのに。千夜と同じで溢歌も僕に言えない秘密を色々持っているみたいだけど、僕がそばにいる事を態度で示してあげるだけで心安らぐ表情を見せてくれる。
殴られても、嫌われても構わないから、千夜の両手だけでも握り締めてやりたい。
そんな事を考えていると、やがて千夜が口を開いた。
「青空は、こんな私を軽蔑する?」
黒い両の瞳は真っ直ぐに僕を見据えていて、力が無く、潤んでいるように見えた。
溢歌がいなければ、おそらく僕はこの瞬間に恋に落ちていただろう。
「……しないよ。できる訳なんてない。それに、真に軽蔑されるのは僕の方だよ」
軽蔑する理由なんて思い浮かばない。それより自分の臆病さのせいで、黄昏を傷つけてしまいバンドの雰囲気を険悪にした僕の方が責められるべき。
「僕だってそりゃ、言いたくても言えない事の秘密だって一つや二つあるさ。それで周りに迷惑かけている事だって解ってる。でも、今は時間が経過する以外、解決策は無いんだ」
僕の言っている事は何の事か千夜には判る筈も無い。自分の心情を吐露してしまいたくなったから、吐き出しただけ。みっともない事をしているなと自分でも思う。
一つ咳をし、コーヒーを口に含み合間を開け、話を元に戻す。
「結局、似た者同士なんだと思うよ、僕等は。嫌っている人間に似ているだなんて言われると、心外だろうけどさ」
千夜とバンドを組んだのも、きっと運命なんだろうね。黄昏も、他のみんなと似た者同士だと思っているんじゃないかな。
「前にも言ったと思うけど、困った事があれば周りのみんなを頼ればいいと思うよ。悩みを打ち明けるのが嫌だったら、一緒にいるだけでも気持ちが落ち着いたりするからさ。ここで一人鬱憤をドラムにぶつけるのも、実に千夜らしいけどね」
何なら、次にスタジオに入る時は僕も呼んで欲しい。溢歌を説得するのは大変だろうけど、僕もいいリハビリになる。
千夜はすっかり冷めたブラックのコーヒーを一気に飲み干した後、呟くように言った。
「前に言った事を、撤回する」
「え?」
訊き返す僕の顔を、しばらく見つめ続ける。千夜の素顔を見た気がして、瞳の奥に吸い込まれそうに感じた。
「青空――貴方は、頼りにならない人間なんかじゃない」
――その言葉が耳に届いた瞬間、胸の中に温かいものが広がって行く。
「そう言ってもらえると、安心するよ。やっとリーダーらしい仕事ができたのかなって」
僕の想いが、やっと千夜に届いた。そんな実感が湧く。
「そうじゃない」
満足して頷いていると、千夜は頭を横に振った。
「青空は多分、リーダーと言う立場で無くても、誰にでも手を差し伸べる人間だと思う。その性格が――ゆとりのあるその考え方が、少し羨ましい」
「そんな事は……僕にだって、苦手な人間とかはいるよ。いつだって頭パンクしそうだし」
恥ずかしくなり、慌てて謙遜してみせる。
「ともあれ、僕は千夜の力になるよ。そんな騎士みたいに守ってやるなんて大それた事を言うつもりは無いけど、できる限りの事はしてあげるから。役に立つかは不明だけどね」
ここで決め台詞でも吐けばいいのに、つい遠回しに茶化してしまうのが情けない自分。それでも、僕の想いは千夜に届いていると思いたい。
「今は余計な心配はしないで、自分のやらなければならない事だけに集中して頑張って。僕も千夜に大学に合格して欲しいから」
大学進学を蹴った自分の夢を託すようで何だけどね。
「……ありがとう」
千夜は僕から目を離し、柔らかい口調で恥ずかしそうに感謝の言葉を述べた。その仕草が凄くキュートで、つい逆に似合わないと思ってしまった(失礼)。
「話は――これで終わり。私の愚痴に付き合わせて悪い事をした」
大きく息をついてから、晴れ晴れした表情で背を伸ばしケースを手に立ち上がった。
「ちゃんと、キュウと連絡取るようにしてね」
「分かった」
ためらう事無く答えてくれたので、安心する。これ以上僕が余計な忠告をする必要も無い。千夜は大丈夫。
胸を撫で下ろすと、頭の片隅に追いやっていた溢歌の事が途端に気になり出した。急いで帰らないといけない。家は同じ方向だから一緒に帰るかどうか千夜に尋ねてみると、学校帰りに直接寄ったので、水海で着替えると言った。溢歌が待っているので、そこまでで。
おやっさんに挨拶し、引き上げる。予定より一時間以上オーバーしてしまった。
「青空」
カウンターから離れる前に、千夜が僕の名前を呼ぶ。
「次に私がスタジオに入る時――来れる?」
「……もっ、勿論!!」
まさか千夜の方から誘ってくれるなんて思いもしなかったので、反応に遅れた。
「なら予約を入れるけど――別に無理にとは言わない」
「大丈夫大丈夫、問題無いよ。急用が入ったりした時は、ちゃんと連絡入れるから」
「キュウには言わないでおいて。あの子が来るとややこしくなる」
千夜と二人きりで練習する機会なんて、そうそう無い。いつもは横にキュウがいるし。キュウがいなかった頃のバンドを思い出し、音楽への情熱が再燃したように感じた。
おやっさんに話し、次の予約を入れる。千夜も特に次の日時を決めていた訳ではなかったので、バイトのある日と休みの日、どちらにしようか僕がしばし考え、前者にした。休みの日だと途中で溢歌を置いていかなければならない。それは辛い。
とりあえず予約は一つだけ、その次はまたその日に決める事にした。
「次は今回みたいに、途中で切り上げる事はしないから」
「そうなの?」
おやっさんに確認すると、今日は後30分時間が残っていたらしい。僕が来たせいで切り上げたと知り、少しへこんでしまった。酷いや。
予約を終え、店を出る。外はすっかり夜の帳が降りていて、冷え込んでいた。気温差で寒さに震える僕を置き、千夜はさっさと帰路を辿る。
「水海までは一緒なんだから置いていかないでよ」
慌てて駆け寄ると、千夜は鋭い顔でこちらを振り返った。
「一つ言っておく」
僕の鼻先に触れる所まで人差し指を伸ばし、断定する。
「これまでと同じように、私を女として見るな。私も貴様を男として見ていない」
ここまで言われると……どうしようもないくらい、へこむ……。