→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   099.君を連れていくよ

「ぼんやりし過ぎじゃない?」
 僕の上に圧し掛かっている溢歌が顔を覗き込んで来る。明かりを落としていても、豆球の光で輪郭が浮かび上がっている。大きく円らな瞳が綺麗。
「ごめん……ちょっと考え事をしてて」
「肌を重ね合っている時に考え事なんて、相手に失礼だわ」
 頬を膨らまし、繋がっている腰を振る。刺激で呻く僕を見て、面白そうに笑う。まだ弾数を切らせたくないので、もう一度小声で謝った。
 溢歌と体を重ねていても、一向に慣れる気配が無い。他の女性は知らないけれど、素晴らしい肢体の持ち主だと思う。でも、水商売に向いているような印象は受けない。それ以前に年齢からして法律に引っかかるか。
 男を知っている所とか、色々疑問は湧くものの、あえて深く考えない事にしていた。
「私のことなんかより音楽のことばかり考えているの?」
「いや、そうじゃないけど……いや、そうなのかな……」
「どっちよ」
 答えを貰う前に、溢歌が自分の方がいいと裸体を擦り付けてみせる。何とか踏ん張り、彼女のお尻を両手で撫でてみせた。体が跳ね上がった隙に、体勢を立て直し答える。
「最近悩み事が多くって、頭がずっと混乱してるみたい」
 バンドの事や、柊さんの事や、キュウの事や、千夜の事や。今まで一番の悩み事だった溢歌の事なんて、隅に追いやられてしまうほど。
「でも、私と一緒にいる時はそんなこと感じないでしょう?」
「うん……溢歌といると、鎖が解かれた感じがする」
 とても安心できる。このままずっと何もしないで、ただ溢歌と抱き合っていたい。
 しかし、そう感覚が、危うい。
 自分から、足元の梯子を外しているように思えてしまって。
「まるで天に昇って行くような、逆に奈落の底へ落ちて行ってるような……」
「私にはどちらでも構わないわ。ここじゃない場所へ行けるのなら」
 時折溢歌は背筋が寒くなるような発言をしてくれる。言葉のニュアンスにそんな意味も含んでいるんだろうか。
「独りでは恐くても、二人なら大丈夫。快楽は共有するものよ」
 耳元での囁きが甘い誘惑に聞こえる。視線を合わせると完全に虜になってしまう気がしたので、目を合わせず天井の豆球を見つめる。溢歌は小さく溜め息を付き、僕から一旦離れ、添い寝の体勢を取った。
「まだ、捨て切れない?」
「――捨て去るつもりは、ないよ。この世界が続く限り」
 諦めなのか、意地なのか、決意なのか。この世界を終わらせるボタンが用意されていたとしても、僕はまだ押す気にはなれない。
「ここでない場所――か。僕もずっと、そんな場所を望んでいる気がする」
 天井に手の平をかざしてみる。指と指の合間から橙色の淡い光が降り注いでいる。広げた掌を握り締めてみたけれど、何かを掴めるはずも無かった。
「でも、その場所は簡単に辿りつける距離でも無くて、道を歩むだけでもとても大変で――途中で何度も目指す理由を見失ってしまったりして、今こうしてここにいるわけだけど」
 つくづく僕は、不器用な人間だと思う。もう少し上手に生きられたら、今みたいな苦しい思いをしなくて済むのに。自分と言う存在の意味を掴もうとしている為に、正解の無い道を蛇行しながら進んでいる。
「時々、癖みたいなもので自分の生きている理由を真正面から考え込んでしまうんだ」
 溢歌に聴かせると言うより、自分の胸の内を吐き出したくて、口にする。、
 バイトの最中とか、家への帰路の途中とか、食事をしている時とか。不意に、それは襲って来る。自分の今取っている行動が、未来に繋がるのか。未来へ繋げる意味があるのか。心の地図に描く未来は、本当に望んでいる、到達してみたい場所なのか。
「何のために辛かったり苦しい思いをしてまで、生きてるのかなって……。何かを成し遂げたい気持ちはあるんだけど、それを心の底から望んでいるのかと、正真正銘の生き甲斐なのかと思うと違う気もして――」
 想像しているだけで幸せなのかも知れない。と言うか、新しい場所を目指しているのに、新しい場所に立っている自分の姿を想像できない。むしろ今の過程の瞬間が自分の全てで、満足はしていなくても受け入れてしまえる。
 辿り着いた事の無い場所なんて、夢でしか無い。だから、不安なんだ。
「自分を生かす為に、無理にでも生き甲斐を探しているような感じ。後先だけどね」
 一々自分の生き方に理由をつけるのはとてももどかしく、疲弊する。
「そんな思いを見つめ過ぎると欝になるばかりだから、深く考えないようにしてる。そんな時間も無いし、日々の生活を送り続けているだけで精一杯だもの」
 そう言って溢歌に笑いかける。僕の愚痴を溢歌は嫌な顔一つせずに聞いてくれていた。
「その方がいいわ。自分の中に深く潜っても、いいことなんてない」
 溢歌は寝返りを打ち、首を僕の方へ傾ける。
「ねえ、青空クンは、私の事、どう見える?」
「どうって……?」
 視界にその顔が一杯になる。至近距離なので、明かりが弱くても輪郭も顔のパーツもはっきり見える。お人形みたいで、とても可愛い。
「見た目や印象じゃなく、心を見て」
 黙ったままその顔を見つめていると、溢歌がじれったそうに言った。
 心……と言われても、溢歌の心はまるで迷路のようで、とても掴み難い。
「やっぱり、壊れているように見える?」
 そう言うと溢歌は、仰向けに寝返りを打ち、胸に両の手を当てた。
 壊れているなんて、考えた事も無い。
「私は、自分で自分の事をおかしな人間だと思っているわ」
 胸の内を洩らす溢歌の顔は、とても真顔で、僕を笑わせようと言っているのではない。
「一つ一つの考え方が、物凄く極端で、矛盾だらけなのに直そうともしないで。最悪な人間だと思うわ。この世で一番嫌いな人間かも知れない」
 いびつ。僕は溢歌の心を、そう解釈していた。
 その歪んだ性格は、話したくない過去から来ているんだろうと言う事は想像つく。だから僕は、溢歌のその性格を嫌ったりなんてしていない。
「でも、許せるの。私と同じ性格の一つを他人が持っていたら、殺してしまいたいほど毛嫌いして許せなくなるのに。どうしてだか分かる?」
 僕に目線を向け、問いかけて来る。考え込むと、先に溢歌が答えを出した。
「それは、自分自身だからよ。」
 自分自身だから、甘えてしまう――と言う事だろうか。 
「だから、人に会わなければ何とも思わない。誰かが周りにいないなら、自分を深く顧みる事もしないわ。でも、とても楽なはずなのに、私には耐えられないの。分かる?」
 僕の答えを訊く前に、溢歌は言葉を続ける。
「一人ぼっちじゃ寂しくて、苦しみに押し潰されそうになるからよ」
 心の悲鳴が聞こえて来るようで、胸が締め付けられた。厳しい顔で押し黙っていたせいか、溢歌は優しく僕に微笑みかけ、体を預けて来る。
「私が青空クンのそばにいるのは、そう言う理由」
 この子は、寂しいんだ。
 孤独でいる事に、耐えられないのだろう。僕には想像もつかないほどの人生を送って来たに違いない。一方僕はと言えば、人生の中で孤独を感じた事はあまり無い。
 両親も健在だし、学生の時も他人との意識の差を感じる事はあっても、孤独とは感じなかった。むしろ、自分から周囲とは違う、ただ一人の人間になろうとしていた。
 唯一無二の存在である事で、自分を証明したかったのだ。
 だから、溢歌の孤独を僕が解ってやる事はできない。ただ、同情する事しか。
 いつの日か、僕も絶望に似た孤独を感じる時がやって来るんだろうか?
 考えを巡らせていると、隣にいる溢歌に僕の気持ちが移ってしまう気がしたので、こちらから話を投げかけてみた。
「神様が現実とも時間の輪ともかけ離れた場所へ連れ去ってくれないかって、溢歌は思った事はない?別に、死にたいとかじゃなくて」
 変な誤解を与えてしまわぬように、言葉を付け足す。
「あるわ。でもそれは誰しも持っている逃避願望でしょう?」
「そう――なのかも知れないね」
 世の中の人みんな、今の場所から逃げ出したいのを我慢しながら日常を送っているのかなと思うと、少し悲しくもある。その気持ちにどう折り合いをつけるかが問題なんだろう。
「前に言わなかった?ひたすら泳いで、世界の果てへ行ってみたいって。そこで新しい事が待っているような気がする、そんな思いはみんな心のどこかで持っているもの」
 溢歌は諭すように話す。もしかして自分に向けて言っているのかも知れない。
「それすら嫌で、苦しみやしがらみから解放されるなら、この世から消えてしまえばいい――言葉にするのは単純でも、踏ん切りがつかないものよ。何せ人生は一度きり、電源を落としてしまうと二度と明かりがつくことはないわ」
 人生はテレビゲームのようにはいかない。失敗したからと言ってリセットボタンを押すなんてできない。押してからでは、やり直しは利かないのだから。
「それに、新しい場所へ連れ去ってくれる人がいたとしても、辿り着いた所でもまた同じことの繰り返し。何故ならそれが現実だもの。理想郷なんてあるはずないの――多分、自分が全く新しい人間に生まれ変わらない限り」
 ぽつぽつと話す溢歌のか細い声が、胸を打つ。今すぐ抱きしめてやりたくなる。溢歌は目線をそばの枕に落としたまま、呟き続ける。
「心安らげる場所ほど、自分の立ち位置がわからなくなる。満たされ過ぎているとそれ以上自分の存在価値が見出せなくなってしまうから。そして馬鹿みたいに無理矢理心の中に空白をこじ開けて、ピエロみたいに嘆き悲しむの。そしてまた逃避願望が生まれる」
 自分から痛みを求めていく――それがこの少女の業みたいなものなのか。苦しみの中でしか自分の存在を確認できないなんて、何て哀れなんだろう。
「溢歌はこの生活に満足してないの?」
 否定されるのを怖がりつつ、恐る恐る尋ねてみる。
「もちろん、満足しているわ。そして私はピエロじゃない。安息の場所が見つかったのに、わざわざ出て行く真似なんてしない。自ら時を止めて、限りない幸せを満喫する怠惰なフールよ」
 素直に喜べない、複雑な心境。幸せを満喫したくてもできない、強迫観念めいたものが溢歌の生き方となっているんだろう。穏やかな食卓でちゃぶ台をひっくり返してしまうような発言や行動を取る事がよくあるのも、そこが起因なのか。
 それとも、僕がそんな彼女の鎖を外してしまえるような幸せを作っていないと言う事なのか。自分の態度を顧みて、頑なに否定できないのが心苦しい。
「青空クンがこの場所を壊そうとしない限り、私はここにいるわ」
 そんな僕の気持ちを汲み取ったのか、溢歌はうっすら微笑み、僕の顔に手を当てた。頬に温もりが伝わって来る。岩場にいる時はとても冷えている体温も、ここだと温かい。
「悩みくらい、聞いてあげるわよ?小難しい話はごめんだけれど」
 それは僕の台詞だよ、と内心思い、はにかんだ。何も話さずに自分一人で解決するのが正しいのだろうけれど、そのせいで今後誤解が生まれる可能性があるのだとしたら、正直に話しておく事に決めた。
 上体を起こし、この前千夜にスタジオで出会い、帰りが遅くなった理由を説明する。その日は用事があった事は伝えたが、千夜の事は話さないでおいた。
「好きなの?その子が」
「そ、そんなんじゃないよ。ただ、自分の仲間が落ち込んでるのを見て心配してるの」
 あまりに単刀直入に言うものだから、うろたえてしまう。怒るものだとばかり思っていたのに、別段嫉妬している様子にも見えない。帰りが遅くなると不機嫌になるのに、別の女性の話を出されても表情一つ変えないのがちょっと怖い。
「なら悩む必要なんてないじゃない。連絡して、直接会えばいいのよ」
「でも、それだと溢歌は怒らない?」
「動こうとする度に私を天秤にかけてくれているのね。嬉しいわ」
 心なしか棘があるような気がする。
「青空クンの全てを私色に染めることなんてできないわ。逆も同じ」
 そう言って溢歌は僕の匂いのする枕に頬を埋めた。
「私が求めているのは、この安らげる場所。それを享受してくれる青空クンよ。もし私が何もかも思い通りにしたいのなら、この部屋で目につく楽器は全て捨てるわ。もちろん青空クンと四六時中離れない。ずっとそばにいる。でもそこまですると狂った人としか言い様がないでしょう?押しかけ女房な私だけれど、分別はわきまえているつもり」
 本当は、全てを取り払い僕と一緒にいたいと思っている。しかしそうすれば僕が怒ってしまうのは分かり切っているから。
 互いが完全に重なり合うまで想うと言う事は、とてもとても難しい。
「青空クンの心だって、私には繋ぎ止めることはできないわ」
「そんな悲しい事、言わないでよ。始めから見限られているようで……」
「ごめんなさい。言葉が過ぎたみたい」
 溢歌は謝ると寝返りを打ち、僕に背を向けた。無理な相談だと分かっているのに口に出してしまうのは、それだけ僕を求めていると言う事。
「私だって、自分でもわからなくなる時があるくせに――」
 親指の爪を噛み、呟く溢歌の言葉の意味は理解できるようで、できなかった。
「話していていつの間にか立場が逆転していたね。ちょっと紅茶でも入れようか」
 布団から出ると、暖房がかかっているとは言えひんやりと感じる。台所へのスライド戸を開けると冷気が僕を襲う。全裸のままなのですかさず湯沸かしの準備をし、逃げるように部屋へ戻った。ガスコンロの火の音を聞きながら、あぐらをかいた状態で布団にくるまる。溢歌は何も話そうとしなかったので、僕も何も話さないでおいた。
「ここ20年生きて来て、今でもずっと気にかけている事があるんだけど――」
 お湯が沸いてから、インスタントの紅茶を二人分淹れて来る。僕も溢歌も口は濯いでおいた。部屋の電気をつけ直そうとしたら、豆球のままでいいと言われたのでそのまま。
「他人を想う気持ちって、言葉で分別できるほど自分の中で区切られていないと言うか。好きも恋愛感情も友情も。親子愛とか、信頼とか、単語にすると色々種類があるように見えるのに、自分の中じゃ『ただ相手を思う気持ち』で並列なんだよね」
 あくまで僕自身の事を言っている訳で、何も諭しているのではない。むしろ、自分の頭の中にあるものを口に出して整理していた。
「そして、その思いの大きさなんて不等号なんかで整理できなくて――」
 そこでカップに軽く口をつけてみるとまだ熱く、すぐに唇を離す。
「多分僕は、失ってから気付くんだ。無くしたものの大切さに。現に――黄昏は僕の手の中を離れてしまっていて。何とかして元の状態に戻したいけど、そんな機会も……勇気も無くてさ。自分が臆病なせいで、ズルズルと引きずっちゃって」
 黄昏だけでなく、バンドも同じように失ってしまいそうで怖い。結局僕は、どれか一つを捨てる勇気さえ無く、未練たらしく欲しがるもの全てを抱え込んでいる。
「私がいるから?」
「そ、そんなんじゃないよ!」
 溢歌に問いかけられ、反射的に否定する。確かに溢歌の事で黄昏とこじれてしまっているけれど、全てが溢歌の責任とも思わない。答えを出せずにいる僕が元凶と思う。
「――黄昏と再会したその日から、多分分かっていたんだ。僕は黄昏を外の世界に連れ出したかった。悪い言い方をすれば僕が成熟する為に黄昏を利用した……って事になるけど。二人一緒に成長できればって心の底から思っていたんだ」
 手に持ったカップをお盆の上に置き、姿勢を正す。溢歌も正座したままカップを両手に抱え、僕の話に耳を傾けている。
「でもそれは、どちらかが手を離して独り立ちできるようにって事と同じ。どちらが依存する訳でもない、自分の力で生きていけるようになる事。才能とか、自分に足りない部分を補ってくれるのとはまた別で、自信が持てるようになる事」
 黄昏が僕と同じように相手を求めているのかどうかは知らない。でも僕は、黄昏を同じステージに上げたかった。一人で外の世界へ出られる、強い力を持って欲しかった。
「僕はずっとそれを求めていて――溢歌が僕達の前に現れなくても、別れと言うか……旅立ちの日は訪れるはずで。そして黄昏は、独り立ちできるまで成長しているように見える」
 溢歌は何か言いたそうな顔をしたまま、黙って僕を見ている。
「こうして言葉にすると、ようやく自分の気持ちが見えて来た気がする」
 話をしながら、自分の中に一つの確信めいた答えが生まれていた。
「怖いんだよ、僕は。まだ自分の足で立てるくらいに成長してないのに、黄昏に置いていかれてしまうのが。その理由を、僕自身が作ってしまった気がして――悔しいんだ」
 今、僕が黄昏を、『days』を失ってしまうと両足で立てるとは思えない。今は溢歌が支えになってくれているけれど、自分一人の力で立つ事はおそらく二度とできないだろう。
 そんな弱い自分を、心のどこかで認めなくなかった。
 一息つき、カップを再び手にするといい案配に紅茶も冷めていた。
「青空クンって、強くなろうと必死なのね」
「え?」
 溢歌の言葉に顔を上げると、少し困ったような顔で首を横に振った。
「私は無理。どんなに成長したって、一人で生きていけるなんて到底思えないわ」
 ああ、そうか。
 今の溢歌の言葉でようやく気がついた。
 自分一人の力で何とかしようとする、それが僕の業なのだと。
 一体何を躍起になっていたんだろう。僕はずっと、一人でいようとしていたのか。黄昏が唯一無二の親友である事は変わりないけれど、本当は僕は心の底で、誰かの力に頼らなくても独り立ちできる強さを求めていたんだ。
 呆然となっていると、溢歌が言葉を続け、我に返った。
「――探していたのよ。苦しみを和らげてくれる相手を。でもね、あなた達じゃないと駄目だったの。他の人間じゃ、私を助けられない。ただ男の体が目当てなら、きっと誰でも構わないのよ。でもそれだと、私が満たされない……」
 前に、溢歌は僕が必要と言った。それは僕の心のどこかに、安らげる場所を見つけたからなのだろう。一緒にいて自分が満たされる所があるからだろう。
 他人と繋がると言う事は、きっとそう言う事なのだ。
「良かった」
 すっかり冷め切った紅茶を飲み干し、僕は安堵の息を漏らす。
「僕がそばにいて、溢歌の心が満たされているなら、他に何もいらないよ」
 溢歌の為に、隣にいよう。そして僕も、溢歌を欲しがっている。
 彼女の存在は、自分の強さと引き替えにできないから。 
「溢歌と抱き合っている時は、黄昏の事を考えなくて済むんだ。ただ僕は、目の前の人間を優先的に愛してしまう節があるみたいだから……溢歌に繋ぎ止めておいて欲しいな」
「私に?」
 意外な事を頼まれ、目を丸くする溢歌。どんなに僕が溢歌の事を愛していても、目の前の誘惑や状況判断に負けてしまう事があるのはキュウとの件で痛感しているので、そばにいる人に念を押しておいた方が僕も安心できる。
「溢歌はもっと、僕を求めて欲しい」
 相手の深い色をした両の瞳を見つめ、言う。
「そうすれば、僕もよそ見をしなくて済むから」
 真剣に話しているのに、おかしな内容だと思う。こんな事、お願いしなくても普通怒る、相手は。でも溢歌の事だから、言わないより言っておいた方がいい。
「……少し、不安なんだ。最近、移り気な自分に気付いちゃって。おそらく、他人に尽くしたいって言う普段からの気持ちが、そうさせているのかもしれない」
 千夜への意識も以前と何一つ変わっていないものの、一緒に練習する内にいかがわしい方向へ走ってしまうとも限らない。
「だから溢歌は、首輪をつけて引っ張って。そっちに行かないようにって」
 茶化して言ってみせるけれど、心からのお願い。溢歌に、僕を捨てて欲しくないから。その為に、溢歌を裏切る真似はしちゃいけないよね。
「犬みたい」
「そうやって、相手と手錠を繋いでいた方がいいじゃない」
 二人でおかしそうに笑い合う。どうして彼女の笑顔は、こんなにも僕を惹き付けるんだろう。
「私はよそ見していいの?」
「駄目」
 溢歌の疑問はすかさずシャットアウト。僕の元を離れた場合、溢歌が向かう場所なんて一つしか無いもの。何だかんだで、僕も結構嫉妬深い。
「……だなんて、無理に強要させたくもないけどね。溢歌はその天真爛漫な奔放さも、大きな魅力の一つだから」
「女の子には少し謎めいたところがある方が、男の子は目を惹かれるって事かしら?」
「そう言う事」
 慣れないウインクして微笑んでみせる。しかし心のどこかで、僕と黄昏を並べた時に溢歌は本当に僕を選んでくれるのかと言う心配があるのも事実。もし黄昏の元へ行ってしまった場合、僕は一人の状況を耐えられるのかな?なので愁ちゃんの存在が、かなり大きな保険になっていたりする。連れて来てくれたキュウには心から感謝しないと。
「私の事、嫌な女だと思わないの?」
 カップを置き、溢歌が顔にかかる髪を払い除け尋ねて来る。
「何で?」
「だって……その、色々してるじゃない」
 単純に疑問に思い問い返すと、目線を外し言いにくそうに答えた。迷惑をかけていると言う自覚がある所が、とても可愛らしい。
「それも全てひっくるめて、僕は溢歌の事が好きだと思っているよ」
 溢歌と一緒にいて、踊らされている自分が楽しい。手のかからない女の子よりも、自分の手から容易くすり抜け、奔放に動き回る少女の方が僕は好き。
 ふわふわと妖精みたいなのに、蜃気楼のように幻じゃなく、強い存在を感じさせる。
 空になったカップを乗せたお盆を片付け、僕は溢歌に微笑む。
「いつの日か、二人で新しい世界へ行けたらいいね」
 虚無ではなく、希望と幸せに満ちた世界へ。溢歌となら、行ける気がするんだ。
 台所から部屋に戻ると、溢歌はとても安らいだ顔で敷布団の上に横たわっていた。
「何だか、凄く落ち着く」
 風呂から上がった後のような火照った表情で、天井を見上げている。
「これが幸せって気持ちなのかしら」
 溢歌の本当に幸せそうな顔を見て、こちらも気分が良くなる。僕がそばにいる事で溢歌の凍った心が氷解していくのなら、こんなに嬉しい事は無い。
 僕は彼女の為にこの世界に存在しているんだと、心の底から言えるから。
 寝る準備をし、電気を消す。すぐ隣にいる溢歌の息遣いが耳に心地良い。寝顔を確認しようと首を傾けると、溢歌と目が合う。頭を撫でてやると、小さな唇が動いた。
「私がもし、突然目の前からいなくなったら、その時は探してくれる?」
 この幸せな状況に不安があるのか、確認するように尋ねて来る。心配性な溢歌が何だか微笑ましかった。
「勿論だよ」
 僕が溢歌を見捨てる訳無いじゃないか。
「ちゃんと見つけてね。お願いよ」
 念を押してくる溢歌の頭を胸に抱え、何度も何度も優しく撫でてやった。
 この幸せな時間が永遠に続きますように。
 そう繰り返し心の中で呟きながら、夢の中へ落ちて行った。
 しかし。
 また、溢歌はいなくなった。


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