→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   107.寄せては返す並の音

 延々と繰り返す漣の音にうなされながら目が覚めた。
 暖房は切っていて、部屋の中が少し冷え込んでいる。隣で溢歌は布団にくるまり眠っていた。エアコンのリモコンに手を伸ばし、暖房をつけ再度枕に後頭部を預ける。
 作っている曲のアルペジオを繰り返す波の音をイメージしているせいか、夢の中にまで映像が浮かんでいた。どうも根詰めると、起きている時に考え込んでいる事が夢にまで雪崩込んで来て目覚めが悪い。疲れが抜けた感じがしないのはいつもの事なので、布団から出て台所へ栄養ドリンクを飲みに行った。
 溢歌と出会ってから、体力が保たなくなり意識を失う事が多くなった。単純に、深夜セックスの終わった後に疲れて寝てしまう。なので栄養ドリンクを飲むのも自然に増えた。とは言えそこまで高額で効果のあるものでもなく、多少体が軽くなる程度のもの。
 まだまだ若い、と言うか20歳なんて体力の最盛期な気もするのに、それでも自然回復じゃ追いつかないのは相当疲弊しているんだろう。年が明けたら、しばらく何も考えないでのんびりしてみるのもいいかもしれない。
 バイトも徐々に休みが増えて来たのでこれからどうしようか。完全に辞めてしまうと生活できなくなるけれど、ライヴの副収入でかなり補填できるようになった。本当ならその分を機材に廻すのが一番理想的なのに、それをせずにギターを触る時間に廻そうとするのが僕らしい。現実は溢歌に触れる時間が増えてしまっている。
 顔を洗い、ストレッチで体の血行を良くし、眠気を覚ます。早速部屋に戻りギターを取り出そうかと思った所で、ふと今日はクリスマスイヴなのを思い出した。
 そろそろ年末なのに今年はあまり実感が湧かない。バイトに入る日数も普段と差は無いし、忙しくて死にそうと言う訳でもない。いや、実際はてんてこまいだろう。
 数日前にクリスマスを祝う為にケーキでも買おうかと溢歌に聞いてみたら、一体何を祝うつもり?と冷めた目線で返された。確かに。
 冷静に判断してもつまらないだけだし、おめでたい日に溢歌が楽しく過ごせた時は最近では少ないだろうと思ったので、ささやかなお祝いでもしたかった。僕と溢歌が出会えた事に。
 なので、後で何か色々ご馳走でも買って来る予定。一人暮らしを始めてからはこんな日にも実家には連絡も取っていないし、帰る気も無い。一応、年が明けた頃には一度戻ってみようと思う。溢歌を連れて行くには、まだ日が浅すぎるか。
 とりあえず、昨夜の汗を流し落とすのと、いつ出かけられてもいいように風呂を湧かす。大体いつもは抱き合った後はそのまま眠ってしまうので、起きた時にシーツは替えるようにしている(と言うか溢歌がやってくれる)。
 ただれているようで妙にその辺、溢歌はしっかりしている。祖父の看病で学んだ事なのかと思うと、少し悲しくもある。
 風呂が湧くのに時間がかかるので、その間に新曲を固めようと思った。この前から溢歌の前でギターを弾いていても、溢歌の為に作っている曲以外を演奏した事は一度も無い。例えライヴが明日に迫っているこの状況でも、いつものように焦って練習しようと言う気持ちにはならない。それだけ二つの事柄が割り切れているのか、それとも千夜とスタジオに何度も入っているから心に余裕が生まれているのか。
 まだ心のどこかで、溢歌に対し目の前で音楽をやる事に引け目を感じているからか。
 指のストレッチを兼ねた、新曲で使うアルペジオの部分を繰り返し練習していると、やがて目を覚ました溢歌が寝ぼけ眼で、椅子に座る僕の方に頭を向けた。
「おはよう。いい夢観れた?」
「ギターの音でどんな夢だったのかも忘れたわ。最悪の目覚めよ」
 冗談なのか本気なのか、眠気に満ちた顔で内心までは読み取れない。何にしろ、溢歌の顔色を窺ってまでギターを持つ事に脅える事は今は無い。嫌われても、この曲だけは届けたいと思っているから。それが今の僕にできる事。
「まだ眠る?」
「どのみちお昼寝するから大丈夫よ」
 昼ご飯を食べた後、溢歌は軽く眠る。夜の情事に備えるかのよう。
 安眠を誘い二度寝してもいいように、子守歌の代わりになればとメロディの部分だけを頭から演奏し始める。曲はアレンジも含め、ほぼ完成した。後は歌詞を乗せればと言う所まで来たのに、その肝心の部分がなかなか決まらない。
 『days』の曲を作る時には、黄昏が歌う事前提で、作中に出て来る第三者の存在は聴いてくれる無数の人達を想像していた。『君』や『あなた』と言う二人称でも、曲の物語の相手だったり大雑把な考えの『自分以外の誰か』だったり、黄昏や千夜等モデルがいたとしても、特定の人物を当てはめる事はほぼ無い。
 なので目の前の、すぐ隣にいる相手に歌詞を書く行為は、途方も無い労力がいる事を今になって初めて知った。何が疲れるって、誤魔化しが効かない。むしろ誤魔化せば、相手にその曲が届くはずも無い。
 ましてや音楽を嫌っている溢歌、1%の妥協も許されなかった。
 先人達が女性名をそのまま形にした名曲を数多く遺してこれたのは、そこを乗り越えて来たからだろう。だからこそ、長く人々に愛される曲として語り継がれる。
 曲を奏でている間、溢歌は寝返りを打ち、布団から出ようとしない。どんな気持ちで僕の演奏を聴いているのか、さっぱり分からなかった。
 溢歌の事を理解しようとすればするほど、僕の行動が不器用になってしまうのは何故だろう。ひたすら抱き締め合い、セックスに溺れてしまうのはとても簡単で、気持ちがいい。しかしそれで満足してしまうと何も生み出せない気がした。子供は産み出せる――と言うツッコミはともかく。
 二人でいつまでも抱き合ったまま、年老い死ねるのなら楽でいいのに。かと言い、セミみたいに短い命を燃え上がらせる真似はしたくない。それだと溢歌の心を本当に救った事にはならないんじゃないか。僕はそう思う。
 溢歌は苦しんでいる。だからこそ未来への不安を取り除いてやりたい。僕には溢歌が、自分自身が変わってしまう事に物凄く脅えているように見える。
 目を閉じたままギターを弾き、時折裏庭の向こうを通る電車の音を背中で聞く。カーテンの向こうには二日前の大雪が未だに残っていた。空は昼間なのに薄暗く、小雪が降りそうで降らない。聖夜=雪と言うイメージがあるけれど、僕としてはいつでも穏やかで昼間でも太陽の高さが低い、柔らかい日差しの方が好き。
 メロディとアルペジオを弾いた所で一旦ギターを置き、椅子に腰掛けたまま瞑想に入った。歌詞を、言葉を、胸の中にある溢歌への気持ちを紡ぎ出す事を考える。思い付きで生まれる言葉は山ほどあれど、一日間を置き冷静な頭で見直してみれば色褪せてしまうものばかり。何が正しく、何が間違っているのか。正解の無い無数の取捨選択。
 いっその事ただひたすら、文章にできる溢歌への気持ちを朗読した方が良いのかとも思った事もある。ただ、どうしてもメロディは譲れなかった。岩場で聴いた溢歌の歌声が耳に残っていて、あれに負けないメロディを作りたい思いがあったから。
 多分僕は、この作った曲を溢歌に唄って欲しいんだろうな、と今になって思った。相手への想いを綴った曲を当人が歌うのは少し滑稽な感じもする。けれど、プレゼントされた指輪をいつまでも指にはめているように、いつでも口ずさめるような歌をあげたい。
 どこまでも優しく、溢歌を包み込んであげられるような曲を。
「一緒にお風呂入る?」
 訊いてみると、僕の方へ寝返りを打ち眠そうな顔で小さく頷いた。髪の毛が顔にかかり、お人形さんみたい。一旦湯沸かしを止めに行き、戻った後で溢歌の頭を何度も優しく撫でてやった。気持ちいいのか、安らいだ顔を見せている。
 目覚めている時はなかなか見せてくれない笑顔。いつになれば、僕の目の前でこんな顔を自然に見せてくれるようになるのかな。
 そのまま10分位猫をあやすようにしていると、眠気も取れて来たのか溢歌が上体を起こした。低血圧なのか魂が半分抜けたような顔をしている。黄昏も同じように、目覚めは悪い。本当に二人は良く似ている。そばにいると実感する。
 だからこそ、溢歌は黄昏の事を忘れられないでいるんだろうか。黄昏がまだ溢歌に対してどんな意識を持っているかは、愁ちゃんがいるから分からない。
 溢歌の中から黄昏が消えて無くなる日はあるんだろうか。
「どうしたの?一緒に入るんでしょ?」
 寝間着を脱ぎ出す溢歌に声をかけられ、我に返った。僕もパジャマを脱ぎ、風呂場へ向かう。冬になるとなかなか熱くならないシャワーの出を確かめていると、狭い洗い場に溢歌が入って来た。早速二人で体を洗い流す。
「今日はしないの?」
 溢歌の背中をタオルで擦っていると、向こうから訊いて来た。二人でお風呂に入ると溢歌のうなじや白い素肌にやられて抱きついてしまう事も多いけれど、曲を作るようになってからは自分の体力温存も考え、自制するようになった。
「夜にしているからね。溢歌は休みの日があるけれど、僕なんて毎日のように吸い取られているから」
「人を吸血鬼みたいに言うのね。でも、精力を吸い取るんだから似たようなものかも」
 首だけ振り返った溢歌がいやらしい笑みを浮かべる。
「結構疲れるんだよ?女の人も同じだと思うけどね」
「でも、気持ちいいでしょう?」
「うん、でも……」
「でも……何?」
 言葉が続かなくなった僕に訊き返して来る。
「いや、溢歌が男の人だったらこんなに疲れなくて済むのかなあって」
「何気持ちの悪い事を言っているのよ」
 顔を見合わせ二人苦笑してしまう。何もセックスだけが全てじゃない。溢歌と一緒にいる時間はとてもかけがえのないもの。ただ、セックスへの比重が高いのは事実で、体力的に厳しい時でも蛇のように絡み付かれてしまう時もある。勿論僕は拒む真似はしない。なるべく機嫌を損ねたくないと思ってしまうから。
 一緒にいて気を遣わなくて済むと言う点では、ツーカーで意識が通じ合っている黄昏の方が楽と言えた。でもそれは同性だからで、どちらかが異性ならまた変わっただろう。
 他人と一緒に暮らす事は、思っていた以上に労力を使う。僕には兄妹もいないので、家族がうざったいと感じた事もほとんど無かった。
 溢歌が隣にいるので思う通りにギターが弾けず、参っていた時もある。一人暮らしに慣れていたのもあり、苦労した面もあった。家が狭いのも問題の一つだろう。せめて部屋が二つあればまた違ったのかも。料理している時以外、ほとんどの時間を同じ空間で過ごしている訳だし、プライベートの時間が無い。別に一人にしてくれと言う気持ちは無いけれど……そばにいる方が、心安らげるのは事実だし。
 シャワーで石鹸を洗い流した後、二人で湯船へ。お湯はやや少なめ。二人で入るとすぐに溢れてしまうから。対面に座ると背中に栓のチェーンが当たってしまうので、僕の膝の上に溢歌が座るような形でいつも入る。肩まで浸かった溢歌は、気持ち良さそうに首を震わせた。豊かな髪は、タオルで留めてある。
 両肩に手を置き揉んであげると、色っぽい喘ぎ声を出した。
「興奮させるような声上げないでよ」
「だって、気持ちがいいんですもの。なあに?ここでしてみる?」
「さすがにそれは……」
 湯船ですると雑菌が入りやすくなり女性の方が苦しむと言うのを聞いた事があるので、溢歌がたまにせがんで来ても首を縦に振る事はしない。時折溢歌の方から快楽を求め自棄になって自分の体を差し出しているような感じを受ける時もあるので、注意している。言わないと寒くても薄着でいる所とか、自分の身体を大事にしていない節がある。
 いつ死んでもいいなんて意識の持ち方が、まだ残っているせいだろうか。
 不意に襲う胸が締め付けられる思いに、思わず背中から手を回し溢歌を抱き寄せる。
「いきなりどうしたの?」
「こうして抱き締めておかないと、どこかへ行ってしまいそうな気がして」
 溢歌の身体は小さく、細い。抱き締めていても、すり抜けてしまいそうな感じがある。
「私はね、ここで雨宿りさせて貰っているの」
「何?」
 言葉の意味が解らず、反射的に訊いてしまう。溢歌は小さく笑い、続けた。
「傘も持っていなくて、ざんざんと降り続ける雨に打たれ続けて、すっかり身体も冷えちゃって。このまま風邪を引いて、肺炎でも起こして死んでしまうのかしらと思っていたところに、青空クンを見つけて。ほとんど押しかけ女房なのに、ワガママを言っても、困った顔で聞いてくれて。私は青空クンに拾われた猫みたいなものよ」
「確かに、溢歌は猫みたいだけどね。首筋を撫でたら、ゴロゴロ鳴くし」
 指を伸ばし溢歌の首元を優しく撫でてやると、調子良く猫の鳴き声を上げてみせた。
「ペットなんだから、もう少しご主人様らしく扱ってもいいのよ?」
「ペットって……」
 ついオウム返しをしてしまう。ペットみたいに可愛いけれど、勿論対等の人間。
「私は青空クンのもの、なんでしょ?」
 そう言われ、言葉に詰まったまま何とか頷いた。一緒に住んでいても、肌を重ねていても、どうにも恋人と言う感じがしない。それだけ溢歌が掴み所の無い存在だから。
 身体の芯が温まるまで湯船につかる。僕はのぼせる寸前まで浸かるのが好きだけど、溢歌は温まる前に上がろうとする。上がろうとする所を後から抱きかかえ、いい気分になるまで浸かる。浴槽が狭くても、密着できる距離がいい。
 風呂から上がると、この季節は冷えるので急いで身体を拭き、着替えを済ます。暖房をつける前に、床に足を崩す溢歌の髪をドライヤーで乾かす。量がとても多いので、10分位かかるだろうか。リンスのいい匂いと、手触りが良く痛みも無い柔らかな髪質を指で弄ぶのが気持ち良い。自分の髪を乾かす時は面倒な気持ちしか起こらないのに。
「何食べようか?」
 仕度を終え、二人で近所の商店街まで徒歩で買い出しに行く。二日前に大雪が降ったせいで、外の景色はすっかり白くなっている。今年は特に冷え込んでいるような。
 すっかりクリスマスムードで、街灯に設置されたスピーカーからジングルベルが流れている。相変わらず、隣を歩く溢歌の表情はむつかしい。
「一々反応していて疲れない?」
「反応してしまう年頃なのよ」
 もうちょっと肩の力を抜けばいいのにと思っても、仕方無いか。僕ももっと年上の人から見れば一杯一杯に生きているように見えるんだろう。
 溢歌は外食が嫌いなので、一緒に店に入る事は無い。お惣菜を買うのさえ嫌がるけれど、そんなに家には料理器具が揃っている訳でもないので、渋々買っている。今日みたいなローストチキンなんて、家で作るのにはどれだけ手間がかかるやら。
 これだけ溢歌が料理に凝るのは、時間が有り余っているからかも知れない。僕なんかはバイトや音楽に年中明け暮れているから、羨ましくもある。お金があればもっと楽に過ごせるのかな、とは黄昏の素行を見ていて思う。ただそれと引き換えに孤独の身になり苦しんでいた時期もあった訳で、それが幸せとは言い切れない。
 それに僕は自分の手で何かを掴みたくて今の生活をしている。溢歌と出会えたのもその延長線にいたからと思う。突風で顔にかかる髪を首元に払う仕草を見て、そんな事を考える。
 今日はやけに溢歌の色んな表情や仕草に注目してしまう。クリスマスイヴを区切りに考えているからだろうか。買い物をしていても、溢歌の事しか目に入らない感じがする。
 買い物の最中に、キュウから電話がかかってきた。
「ごめん、今日はどうしても外せないんだ。バイトじゃないんだけど」
 昨日や一昨日にも携帯にメールが入っていたし、断りの返事はきちんとしていたのにまだ未練があるのか、何度も誘って来る。明日の打ち上げには出るんだから、それで勘弁して欲しいのが僕の本音。
 第一キュウはキュウでクリスマスパーティを友達と開くんだろうし、場違いな所に溢歌を一人置いて行き、楽しめるとは到底思えない。
「どう?明日はちゃんと来てくれる?」
「またその話?心配しなくても、行くわよ」
 食材を買い終えた後、キュウからの電話の話の続きで明日のライヴの事を溢歌に訊いてみると、いい加減呆れられたのかうざったい表情も見せず生返事で答えた。
「……大体ね」
 一度溜め息をつき、両手に抱える小さな袋を持ち直し、僕に顔を向ける。
「私がライヴハウスでライヴを観た事が無いと思っているの?」
「え、違うの?」
「……何か、色々と勘違いしているようね。でもその方がいいわ。私だって思い出したくないもの」
 何やら意味深な発言をし、溢歌は歩を早めた。
 確かに溢歌ほどの歌唱力なら、ライヴのステージに立っていてもおかしくないし、何度も観に行った事があるだろう。もしかして僕達の事を知っていたのも、ライヴに足を運んでいたからかも知れない。
 しかし何も、僕達以外のライヴを観ろと言っている訳じゃない。今回はイベントなので、出番は30分程度。何とか溢歌が我慢してくれる事を祈る。僕も、ステージの上で溢歌の事を思慮し演奏がおざなりにならないよう気をつけないと。
 冬風に吹かれ、荷物を持ったかじかむ手を何度も上からさすり、帰路につく。溢歌が素手なのに、僕だけ手袋をしているなんて真似はできない。どうしてキュウといい、女の人は寒さに耐えられるのかな。剥き出しの太股なんか見ている方が寒くなる。
 戻って来る頃には、目が覚めてから既に3時間近く経過していた。溢歌といると何だか妙に時間が過ぎるのが早い。充実している時間ほど、あっと言う間に時が過ぎるもの。
 早速料理の準備を始める溢歌の隣で、米を炊く。この形はもはや習慣になっている。
「手伝う?」
「青空クンは、自分の事をしていれば?」
 少し棘の含んだ言い方で断られた。狭い台所だし、黄昏の家みたいにダイニングキッチンと自室が分かれていないので、料理の仕込みを手伝うのもままならない。お金が貯まったら、もう少し広い場所へ引っ越した方がいいのかな。
 とりあえず買って来たものを冷蔵庫に入れるのを手伝い、部屋に戻った。溢歌の方から見える角度の位置に椅子を置き、ギターを用意する。手を動かしながらこちらを一瞥し、黙々と溢歌は準備を続けた。
 どうも今日の溢歌は、表情が硬い。僕がギターを持つから、言葉を交わす量が最近は以前より減っている感じもある。その分僕は音で感情を届けているつもりでいるけれど、それが伝わっているかどうかは分からないし、言葉にして訊いてもいない。
 楽譜スタンドに、歌詞の書かれた紙を置く。散文的な、山のように溢れた単語と文。これを、パズルピースのようにメロディに当てはめてゆく。簡単に終わりそうで、答えの見えない長く苦しい作業。しかし十分やる気に溢れていた。
 明日はライヴ当日だし、今日頑張るしかない。ただ日付が変わる前に仕上がるなんて思いもしないし、溢歌を満足させられるような歌詞ができ上がるとも思えない。
 別に急ぐ必要は無い。明日も明後日も、溢歌と一緒にいるんだから。
 胸の内の想いを伝えるように、歌詞を乗せた曲を1フレーズ毎に歌い出す。溢歌の表情はあえて見ないようにした。感覚的にしっくり来る、来ない、フレーズによってどれだけ文字数を上下できるか、歌詞の前後の繋がりを考えながら歌う。しばらく没頭していると、台所から香ばしい匂いと共にプライパンの上を油が跳ねる音が聞こえて来た。
 いざ歌詞をつけると、曲の構成を変えたくなったりする。その度に細部のアレンジをしたり、小節を継ぎ足したりカットしたりする。僕の中にある溢歌への想いを全て形にしようとすると確実に冗長になってしまうので、そこは十分気をつけている。
「できたわ」
 あれこれやっている内に、料理を終えた溢歌が声をかけて来た。束ねた髪を溜め息混じりに解き、畳んだ布団の上に疲れた体を投げ出す。
「寝るの?」
「休憩よ。足、マッサージしてくれない?いつもより疲れちゃった」
 カーペットの上に投げ出された素足が、スカートの下から垣間見える。ギターを手放す時間が惜しいと思いながらも、渋々3分間程マッサージをしてあげた。気持ち良いらしく、声をかけないと本当に眠ってしまいそう。
「仕込みだけじゃなく全部作っちゃったんだね」
 台所を覗いてみると、ささやかなパーティーの料理が所狭しと並べられていた。まだ夕方にもならない時間帯だけど、冷める前に食べた方が美味しい。一秒でも早く仕上げたいと思っているのでギターを弾く時間が減ってしまうのは、少し残念。
「お料理、運ぶ?」
 椅子に立てかけたギターを見つめていると、隣に立っていた溢歌に声をかけられた。はにかみ頷き、テーブルを用意し食事の準備をする。料理の皿でテーブルはすっかり埋まってしまった。小さなケーキは置き切れないので冷蔵庫に閉まってある。
「メリークリスマス、でいいのかな?」
「いいんじゃないかしら。深い事考えても仕方ないわ」
 向かい合うように座り、シャンパンで乾杯する。普段は和食に偏りがちな溢歌も、今日はクリスマスっぽい洋食を作っている。いつものように、舌鼓を打ちつつ談話する。
「私、祝日はあまりピンと来ないの。365日、ずっと同じ日が続いている感じで」
「昨年のクリスマス?覚えていないわ。つい最近まで、昨日の事は忘れるようにしていたの。わざと記憶力を働かせないようにしているのよ。その方が、気が軽くていいの」
「クリスマスパーティ?前にも言ったでしょう?騒がしいのは嫌いなのよ。パーティで人が楽しんでいるところなんて見ると、心がささくれ立って来るの。僻み?つくづく嫌な人間ね、私って」 
「でもね、自分が好きって思える人間がこの世の中にいるの?って思う時があるの。もちろん、好きな部分を大事にしている人はいると思うわ。でも嫌いな部分の方が実は多くて、目を背けたくなるのが普通じゃないかしら」
「私の好きな部分……そうね、この外見かしら?両親に感謝するわ。もし私が不細工に生まれてきていたら、多分もうとっくに崖から身を投げ出しているもの」
「歌?歌は好きとか嫌いとか、よく判らないわ。愛しているとか、憎いとか、それもよく判らない。ただ……仕方ない、と思う事はあるわ。生まれる場所は性別や家を選べないようにね。私にとっての歌は、そう言うものよ」
 今日の溢歌は、僕の分のカクテルバーを口に含んだせいか、やけに饒舌になっている。一緒に暮らし始めてからはお酒を家で飲む機会は完全に0になっていたので、溢歌のアルコール耐性は知らない。僕自身はストレスからの逃避の為に飲んでいただけで、そばに溢歌がいるようになってからは酒の力を借りる必要性は全く無くなっていた。
 食事の手を止め、どこか遠くを見ながら話す溢歌。憂いを帯びたその表情を見ていると僕も心臓を掴まれる想いがし、食事を口に運ぶ手を止めていた。
「自分の唄う歌に、いちいち嫌悪感で嘆いていても仕方ないものね。私にとって、歌は自分の身体を傷つける茨で、また自分の身体を癒す薬でもあるのよ。本当なら捨ててしまえるのが一番楽な方法なんだろうけど――そしたら私、消えてしまうわ」
 そこまで言って笑みを浮かべる溢歌の業は、神様の仕業なんだろうか。自分の背中を鞭で痛めつけ懺悔をする信者の姿を思い浮かべてしまった。
「でもね、周りから音楽が耳に入ると、駄目なの。自分でも解らないほど、拒否反応を起こしてしまうのよ。過去を思い出させてしまうスイッチみたいなものなのかしら。小さい頃は、そんな事無かったのに。母親の唄ってくれた歌は、大好きだったわ」
「あの……溢歌の母親って、どんな人?」
 恐る恐る、訊いてみる。怒鳴り返されるかと思ったら、にこやかな笑みを浮かべ溢歌は答えた。
「どんな人って……優しかったわ。言ったかしら?私に歌を教えてくれたのも、お母さんよ。そばにいない時は、教えてくれた歌をずっと口ずさんでいたわ」
 柔らかな表情で話す溢歌の言葉を聞いているだけで、情景が思い浮かぶ。これだけ母性的な顔を見せる溢歌は、初めてかも知れない。
「じゃあ、父親は?」
 話の弾みで訪ねてみると、一瞬溢歌は表情を強張らせ、身体を震わせた。
「そう……ね。私、本当の父親の顔は写真でしか知らないのよ。――その、赤ん坊だった頃にいなくなってしまって。再婚相手は……あんなのは、父親でも何でもないわ。私にとっての父親は、その後母親が連れてきた人よ」
 何だか妙に生々しい話になってしまい、急に現実に引き戻された感じがした。浮き世離れな妖精のような雰囲気を漂わせる溢歌がそう言う事を語ると、変に現実味がある。
 溢歌の苦しんでいる過去は、その辺が関係しているのだろうか。自分の本当の父親を知らないと言う気持ちは、どんなものなんだろう。僕には全く想像がつかない領域なので、ショックを受けるどころか言葉の上辺しか理解できないでいた。
「――それ以上は、止めておきましょう。祝いの席で話す話題じゃないわ」
 一方的に溢歌は話題を切り、僕の方に置いてあったカクテルバーの残りを手元のグラスに注ぎ込み、一気に飲み干した。ほんのり頬と耳元が赤くなる。
「とりあえず、食べましょう?残したものは後で温めればいいわ」
 会話に没頭してしまったせいで、せっかくの料理も何だかすっかり冷めてしまった。


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