→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   108.僕であるために

 食事が終わる頃には、陽もすっかり傾いていた。この季節の昼は短い。冬至を過ぎたばかりなので、余計に。太陽が沈んでしまうと一段と冷え込む。屋根の上に雪が残っているせいだろうか。天気はこれから回復傾向に向かうと予報で言っていた。
 いつもは暗くなるとギターを弾くのは止めているけれど、今日は構わず曲の完成を目指し励んでいる。テーブルと料理は既に片付け、溢歌は布団に包まり壁にもたれ、僕が唄う所を三角座りで眺めていた。普段のつまらなそうと言う表情より、どこか思い詰めたような感じなのが気になる。飲んだお酒がまだ抜け切っていないのか。
「寒いなら、コーヒーでも入れるよ」
 エアコンの暖房をつけているとは言え、電気代がかさむので部屋の中を高温で温めている訳ではない。じっとしているだけだと、外は雪が残っている為やや寒い。
「いいわ。続けて」
 溢歌は首を横に振り、演奏の続きを促す。席を立ち上がろうとしたが溢歌の言葉を受け、改めてギターを握り直した。
 特定のフレーズを繰り返し、言葉を選び、溢歌の顔色を窺う。何を訊いても微笑んで頷くだけしかしなかったので、青空クンの好きなようにやればいいと言う意味に受け取った。しかし相手の好みに合わせるより、自分で選んでいく方が遙かに難しい。
「できあがった青空クンの歌が、私の耳に届くのか、今でも不安なのよ」
 30分程過ぎた頃だろうか、歌詞の書いた紙と僕がにらめっこしている間に、溢歌が突然口を開いた。考えるのを止め、溢歌の方を向く。
「青空クンの考えている事は痛いほどよく解るわ。だからこそ、恐かったりするの。青空クンの歌に込められた想いが、私に全部伝わらないんじゃないかって。そんな自分を許せるとも思えないわ。……私が、青空クンに解って貰おうとしていないのが、きっと一番悪いんでしょうけどね」
 膝を抱えた溢歌が、最後は半ば投げ遣りに言った。
「溢歌は、僕になかなか過去を打ち明けようとしないね。何故?」
「――言っても、仕方ないからよ」
 僕の問いに、溢歌は目を背け答えた。
「言ったところで苦しみが楽になる訳でもない。私は同情が欲しい訳でもないわ。安らげる場所があればそれでいいの。……それに、私の過去を知ってしまったら、青空クンはきっと私を軽蔑するわ。――ううん、どうして私が出会ったばかりの青空クンに簡単に股を開くような人間だったか、思い知る事になるでしょうね。それでもいいの?」
 溢歌は怒るでもなく、内に禍々しいものを秘めたような目で僕を挑発する。何だかとても不気味な雰囲気を感じ、思わず唾を飲む。
「――いいよ」
 ここまで来て僕が否定する訳が無い。覚悟を決め強く頷くと、溢歌はおかしそうに含み笑いをした。
「ふふ、言わないわよ。あそこに住んでいた、おじいさんとの昔話ならしてあげてもいいけど、楽しく暮らしていた時間よりも看病していた時間の方が多分長かったから、面白い話でもないわよ?」
 肩透かしを食らったような感じと同時に、胸を撫で下ろした。聞いてしまうと、足を踏み入れてはいけない場所に潜り込んでしまい、二度と引き返せないような気がしたから。
 それでも僕は一行に構わないけれど、溢歌の奥底に感じる怖さは拭い切れていない。
 怯えた表情を見せていたのか、僕の顔を見て溢歌は小悪魔の笑みを浮かべる。
「私にとっては、血となって肉となっているものでも、他人からすれば、とても奇異なものに映ると思うわ。きっと、青空クンは動揺するでしょうね。明日は大切な自分のバンドの演奏が控えているのに、集中できる?」
 そう言われると、自信が無かった。千夜の家庭の事情を聞いただけで結構動揺した記憶がある。他人事なのに、変に自分を当てはめ考えてしまうから。先程父親の件について溢歌が話した事は、自分の人生経験では想像つかない内容だったので、大きく動揺してはいないけれど。そんな体験を、山程して来たんだろうか?
「僕に、それだけの器が無いと言う事なのかな?」
 話に衝撃を受け、明日まで引きずってしまう可能性があると言う事なのか。
「器の問題じゃないわ。私はね、青空クンを苦しめたくないのよ。ただ、そばにいる私を見てくれればいい。抱きしめてくれればいいの。それで私も満たされるのよ。一度余計な物を見てしまえば、青空クンは私の事を純粋な目で見てくれなくなる。私も見れなくなるわ。だから言わないの。青空クンのそばに何も考えずにいられる事が、とても素敵な事だと思っているから」
 先程と違い優しい顔で諭すように話す溢歌の気持ちを体中で受け止めていると、その刹那、溢歌の表情が変わった。
「だからこそ、邪魔なのよ。青空クンの歌が」
 憎らしい目を、僕の膝の上にあるギターに向ける。邪魔な物を排除したい、そんな目。
 驚いたのと、背筋が寒くなったのと、あと、悲しくなったのと。色んな感情が、溢歌の目を見て僕の心の中に渦巻く。
 自分の行為を否定されて悲しい?それもある。自分の存在の一部を否定されて悲しい?それもある。しかしそれ以上に、僕のプレゼントを快く受け取ってくれようとしない溢歌の考えが悲しかった。
「青空クンは形のあるもので私を救おうとしているわ。でも、私が本当に欲しいのは形の無いものなのよ。第一、プレゼントなんだから、そんなに肩肘張る事も無いのに。青空クンって、本当に頭にバカが付くほど正直者なんだから」
 肩を落としている僕を慰めようと、溢歌が明るい声で言ってみせる。確かに、この歌で溢歌の心を変えよう!と言う強迫めいた意識があるのは否定できない。
 それだけ溢歌を救ってやりたいと思っている証でもあるのに。
 自分の気持ちと溢歌の気持ち、考えれば考えるほど、がんじがらめになっていく。
「結構これでも私、混乱してるのよ。急激な身の回りの変化に」
 僕の胸の内を察してか、溢歌が小さく舌を出し言った。
「青空クンや黄昏クンと出会うまでの一年くらいは、本当に何も変わらない孤独な日々が続いていたから……。住んでいるのもあんな場所でしょ?おじいさんは近所付き合いがとてもよかったから、寝込んでいる時もたまに様子を見に来てくれる人もいたし、別れの時には私の思ってた以上の人に見送られていたわ……でも、私はね」
 独白を聞いていて、胸が痛くなる。ずっと一人であの家に住んでいて、周囲の住人からは一体どんな目で見られていただろう。そう思うと、やるせなかった。
「もう、すっかりそんな状況には慣れてしまったから。おじいさんと一緒にいた頃はまだ、社交的だった気もするわ。随分遠くの過去のように思えて、あまり思い出せないけれど。でもそれもおじいさんに引っ張られてかしら。こちらに来た当初は、本っっっっ当に人間不信だったわ。世の中の人間全員が敵に見えるくらい」
 『本当』の部分に物凄く力を込め、笑顔を振り撒く溢歌。むしろ笑って話さないと、洒落にならないキツい体験をして来たんだと思う。
「じゃあ、おじいさんの人柄に惹かれてこっちへやって来たの?」
「全然」
 気になって質問してみると、予想外の答えが返って来て椅子からこけそうになった。
「こちらに来るまで、会った事も無かったもの。お母さんから話を聞かされた事もほとんど無かったわ。ただ、親類の中で一番偏屈で頑固な変わり者だって。何かあった時はその人を頼りなさい、みたいな事を言われていたし、あの時は独り身になった私を何とかしようとする人間が多かったから……後先考えずに、逃げるようにこっちへ来たの」
 悪戯をした子供のように照れ臭そうに笑う溢歌。本当に表情が豊かで、七変化。
「おじいさんが倒れるまでの間、そんなに長くなかったけれど、楽しかったわ。これが普通の人生なのかなって思った。私にとって、普通は十分過ぎるほど特別だったのよ」
 溢歌の話を聞くと、黄昏の境遇と被る。天涯孤独になったのも早いし、母親の境遇で育ったのも似ている。似たような境遇の黄昏と、普通の環境で育った僕、そんな二人に溢歌が惹かれたのはごく自然な事のように思えた。
 気付けば、外は完全に太陽が落ちている。隙間のあるカーテンを閉め切り、ギターを持ったまま再び椅子に腰を下ろすと、溢歌が話し足りないように口を開いた。
「今の私はね、ようやく普通の場所に戻って来られたような気がするの。青空クンにとっては、人生が変わってしまうような初めての体験だし、私にとっても、こうして身内以外の人間と一緒に暮らす事なんてとても新鮮な事だけれど、どこか懐かしい感じがするの。だからこそいつまでも普通でいたい。過去に戻りたくないって思うわ」
 布団から右腕を出し、もみあげから垂れる柔らかい毛を指に巻きながら、正直な気持ちを吐露する。
「おじいさんに、自分の歌は聴かせなかった?」
 ふと、脳裏に浮かんだ事を訪ねてみると、目線を落としたまま答えた。
「看病している時の、気休めの子守歌程度かしら。家で歌うなんてほとんど無かったわ。私が向こうで何をしていたかなんて、聞こうともしなかった。知っているはず無いのに、全部解っているんじゃないかと思った事もあるわ。それだけ、器が大きかったんでしょうね。最初は私も、随分悪さをしたものよ。本当に人間不信だったもの」
 溢歌が徐々に心を開いていく様を想像するだけで、何だか微笑ましかった。
「たまにね、母親が教えてくれた歌を唄うと、凄く喜んでくれた。嬉しかったな……」
 おじいさんの事を思い出し、感傷的になったのか語尾が掠れる。そのまま布団にしばらく顔を埋めたので、次に話し出すまで僕は何もせず待ってあげた。
「あの頃に帰れたらな、って思う時間は、いくつかあるのよ。青空クンにはある?」
 声の調子も戻った溢歌の問いに、しばし語りながら考え込む。
「無い――と言う事は無いかな?今が大変過ぎて、振り返る余裕もほとんど無いのが現状で……僕自身は、そんなに大変な思いをして生きて来たなんて事は無いけれど――いや、当時はそれこそ死ぬほど悩んでいた事なんて無数にあったよね。でも、今振り返れば笑い飛ばせる事だし、かと言ってあの頃に戻りたいなんて考えた事も無いし――」
 人生やり直すより前を向いて行こう、がいつの間にか自分のモットーになっていた。
「やり直したい――黄昏と今ちょっとギクシャクしちゃってるから、元通りにはしたいと言う気持ちはあるよ。でもやり直すとかそう言うのは……あ、でもバンド始めた頃の新鮮な経験は、今でも味わってみたい気持ちがあるかな。そんな全然、振り返るほど何かをして来た訳じゃないけど。……溢歌には、あんまり面白くない話だったかな」
「ううん、大丈夫よ」
 別にトサカに来た様子も無く、穏やかな顔で返事をする溢歌。相変わらず、黄昏の話題を溢歌の前でするのには抵抗がある。こればかりは仕方無い。
「――もしかして、私、青空クンに迷惑かけているかしら?」
「どうしたの、急に?」
 膝を抱え込んだ溢歌が改めて尋ねて来る。
「だって、私がいるから、青空クンと黄昏クンは仲が悪くなってしまったんでしょう?」
 痛い所を突かれ、答えに戸惑う。頭を掻き、答えた。
「そんなの関係――無くは無いけど。でも、溢歌と出会う前にも互いの仲がギクシャクした事は何度もあったし。大体どちらかのワガママに振り回されるパターンで。それに、僕は例え溢歌が迷惑をかけていたとしても、それ以上に大切なものをたくさん貰っているよ」
「……そう言って貰えると、ありがたいわ」
 こちらの正直な気持ちが届いただろうか。僕の言葉に、嘘は何一つ入っていない。
「私は、貴方達二人をずっと昔から知っていたわ」
「え?」
 突然の告白に、一瞬何の事だか分からなくなる。
「まだ、おじいさんが亡くなる前。桜の咲き始める季節だったかしら。貴方達が、岩場でギターを楽しそうに弾き語っているのを、私は遠くから眺めていたの」
「……それって……」
 急速に、脳裏に記憶が甦って来た。二年前、『days』の最初の解散騒動。あの時の、今思うと神懸ったライヴ。無事乗り切ったその後、春の近づいた日に、二人で岩場へ行ったんだ。今でも鮮明に思い出せるあの時。
 僕達二人は、まさに映画のワンシーンの中にいたんだ。
「その時、僕達、すれ違ったよね?」
 恐る恐る、しかし確信的に、尋ねてみる。すると溢歌は、頷いた。
「よく覚えていたわね」
 その言葉に思わず、嬉しさのあまりギターを放り投げ、全身で飛び跳ね奇声を上げたくなってしまった。覚えてくれていたんだ!
「いや、その、よく覚えていたね……」
 感激に溢れ少し涙腺が潤んでいる自分が解る。運命的なものを感じたからだろうか。
「覚えているわよ。あの日の事。私の中に『うた』が入り込んできたのは、こちらに来て初めての事だったもの。だからあの日の事は、覚えてる」
 溢歌は目を閉じ、遠い春の日を思い出す。僕も目を閉じ、あの頃に思いを馳せる。
「潮風に乗って、ギターの音色と、黄昏クンの歌が私の所まで届いて来たわ。春の潮風に身を任せて、私はずっと二人の歌を聴いていたの」
 あの日を思い出すだけで、どうしてこんなに胸が温かく、そして溢歌と心で繋がっている気持ちになれるんだろう。身体が繋がっている時よりも、強い絆で。
「それなら、声をかけてくれれば良かったのに」
 あれから次に出会うまでに、一年半も遠回りしてしまった。
「あの頃の私は、そんなにやさぐれていなかったわ。おじいさんと暮らし始めて、人間の心を取り戻して行った頃だったし……って言うと、私がまるで獣だったみたいに聞こえてしまうわね。年上の男性に声をかけるのは恥ずかしくなかったのに、声をかけられなかったのは、私自身が恥ずかしく思えたからよ。それだけ、二人の演奏は吟遊詩人の奏でる楽曲みたいに、胸高鳴ったわ。だからこそ、自分の心の醜さに、気付いたの」
 溢歌の言葉に、僕は何と声をかければ良いのか思い浮かばなかった。喜べばいいのか、慰めればいいのか。
「二人のどちらかがあの岩場でギターを弾いたり、歌う時は、隠れて聞きに行ったわ。岩場の見えない位置で、貴方達の曲を楽しんだの。――でもそれも、おじいさんが寝た切りになるまでの話。短い間だったけれど、私の胸にははっきりと刻まれているの」
 誇らしく思えると同時に、溢歌の境遇に心で涙する。素直に喜べない僕の今の表情は、とても奇妙なものに映るだろう。
「でも、今はびっくりするくらい音楽を嫌っているよね」
「……あの頃の普通の私と、今の私は違うわ。普通の生活を失ってしまった絶望は、私の耳をすっかり塞いでしまったの。昔みたいに、青空クンのギターに素直に感動する事はできないわ。寂しさを振り払うには、誰かに抱き締められる方が直接的なのよ」
 言ってから少し後悔してしまった僕の場違いな質問にも、溢歌は丁寧に答えてくれた。僕には祖父を失った溢歌の哀しみを理解できない。今の僕には、その哀しみを癒せる歌を作る事はできるんだろうかと不安になる。
 いや、僕がそう考えてしまう事すら、溢歌は望んでいないんだ。一体どうすればいいんだろう?考えれば考えるほど、悲しみが増して行く。
「もしかして、黄昏に求めているものも、同じ?」
 答えが分かっていても訊いてしまう自分に腹が立つ。溢歌は戸惑い気味に頷いた。
「多分、同じよ。私の知っている人に、心の中にぽっかりと空いた大きな穴を埋めて欲しかったの。だから、貴方達なのよ。そして、二人の代わりはいないの。――でも、きっと、どちらでもよかったのよ」
 ハンマーで後頭部を強く殴られたような衝撃が僕を襲う。――いや、これは分かっていた事だ。溢歌が自分の哀しみを埋める為に、僕達二人に近づいた――と言うと語弊が悪いけれど、自分が助かれば、相手はどちらでも良かった。
 一緒の時を過ごしていて、何となく分かっていた事だ。でも、どうしてこんなに悲しいんだろう。胸に空洞ができたような、涙の出ない悲しみが全身に伝わる。
「実際、私は黄昏クンと数えるほどしか会っていないわ。一緒に過ごした時間も、青空クンとは大きな開きがある。……でも、私にはそんなもの、あまり関係無いのよ。青空クンと出会って、これまでの時間を振り返ってみればキミにも解るでしょう?」
 僕と溢歌は、出会った時から既に惹かれ合っていた。でもそれは、黄昏も同じ。だから二人の間に積み重ねた時間の差で、愛情の度合が大きく変わる訳ではないのだろう。
「貴方達二人は、私に近い。そんな波長を、あの日に聴いた歌に感じていたんでしょうね。そしてそれは、実際に話してみて正しいと思ったわ。青空クンも感じているでしょう?私は二人、どちらも運命の人だと思う」
 言葉にすると軽々しく聞こえてしまうものも、今では強く感じる事ができる。きっと僕達は、出会わずにいる事はできなかった。どこかで惹かれ合っていたんだ。
「だからこそ、許せないんでしょうね。自分の思い通りにいかない相手を。もちろん、私のわがままなのは百も承知だわ。でも、そのわがままも通ってしまうと思ってしまっているのよ。だって運命の人だから」
 裏に女の嫉妬を感じてしまうほど、強い言霊。しかし溢歌の言っている事を、僕は完全に理解できていた。だからこそ、戸惑う。
 膝の上のギターを椅子横に下ろし、大きく深呼吸した。曲を作らないといけない気持ちは、今はどこかへすっかり吹き飛んでしまっていた。
「僕も――溢歌を運命の人だと思う。だからこそ、何とかしたい」
 何だか息が詰まりそうなほど緊張する。溢歌への愛の告白みたいなものか。いや、プロポーズの方が何倍も簡単な気さえしてくる。
「だったら、私の言う事を聞いてよ」
 溢歌は怒気を強め、唾を飛ばし叫ぶ。
「青空クンは私に何をしてあげたいの?ずっと隣でギター片手に歌を聴かせていれば私の心は徐々に晴れてくるとでも言う訳?そんなもので想い出なんて簡単に消えやしないわよ。元気付けようとそばで歌ってくれるのはわかるわ。でもね、私の欲しいのはそんなものじゃないの。第一、青空クンが私に作ってくれている歌は、私を慰めようとしている歌?それとも、私に歌って欲しい歌?」
 最後の言葉に、思わず息が詰まった。
「青空クンの歌には、優しさを感じる事ができるわ。心を癒してくれる。押しつけがましい、一方的な感情とは思わないわ。とても素晴らしい事だと思うの。青空クンの作る歌ならきっと、たくさんの人の心を満たしてあげる事ができるでしょうね。だからこそ、歌を聴きにみんな集まっているのだと思うから」
 感極まっているのか、溢歌の声が震えている。怒りなのか、悲しみなのか。
「言ったでしょう?私にとっての歌は、与えられるものじゃないのよ。歌う事で、自分を感じる事ができるの。でも、自分を感じると言う事は、自分を見つめると言う事。それはとても……苦痛なのよ。だから私は、身を引き裂かれそうな思いで歌うの」
 その溢歌の考えを、僕は頭ごなしに否定する事もできなかった。その考えを変えたいと思い僕が溢歌の為に作っていても、向こうはそれを望んでいない。
 しかし、僕にはそれ以外に溢歌を心から癒せる方法を思いつかない。
「でも、歌わないでいられるなら、そうしたい。青空クンと肌を重ねるのは、それよ。私が一人の時の逃げ場も、それだった。楽でいいの。簡単なのよ。徹底的に染み付いているものですもの、今更こんな自分を否定するつもりはないわ。こんな私を青空クンが何とかしようとしてくれているのも理解している。ヘロイン中毒者みたいなものよ。そう、セックス中毒なのよ、きっと。気持ち良さで満たされたいの。刹那的と分かっていても」
 自虐的で、どこか虚ろな笑い。溢歌は自分の望んでいる事に、未来が無い事を分かっている。何も変わらない事を僕が一々言わなくても分かっている。
 そう、分かっていて、僕にずっと自分の事を見て欲しいとせがんでいる。だからこそ僕が、それを否定してしまうのも溢歌には分かっている。
 このどうしようもない隔たりは、少しずつ目に見え始めて来た。心のどこかで違うと言い聞かせながらも、僕は曲作りに専念していったんだ。
 溢歌は興奮している自分に気付いたのか、一度背中の壁にもたれ、大きく息をついた。興奮して赤くなっている顔を冷やす。呼吸が整い落ち着いた所で、再び口を開いた。
「別にいろいろ理屈をこねて青空クンを否定したい訳じゃないの。ただ、青空クンにどれだけ頼りにしていいと言われても、素直に身を委ねる事ができないのよ。依存し過ぎると後になってどれだけ反動があるかは、何度も身を持って経験しているから。それに――」
 顔を上げ、僕を正面からしばらく見つめ、そしてその目線を悲しそうに外した。
「私だけをずっと見て欲しいと思っていても、青空クンはそうじゃないわ」
 胸の奥底まで、深く刃が突き刺さる。
「ただ、抱き締められていたいだけなのよ。私。」
 再び僕に視線を合わせた溢歌の目尻は、うっすらと涙が溜まっていた。
 その言葉通り、僕は立ち上がり溢歌のそばへ行き、肩を寄せ抱き締めればいいのか?いいや、そんな安直な問題ではない。自分が溢歌の過去を振り払う事に固執しているのも分かる。知らぬ間に、音楽への情熱を絶やさない為に溢歌の心の闇を利用しているのでは無いかとさえ思えて来る。バンドへの熱意を取り戻した今、僕自身の真意さえ、見えなくなっているような気がする。
 この状況を解決する最良策は無いの?
 泣きそうな顔で自問自答を繰り返していると、溢歌は指で涙を拭うと膝を崩し、頭ごと背中を壁に預けた。
「きっと、裏切られるのが怖いのね。青空クンが私を捨てて、ギターを手にどこかへ行ってしまうんじゃないかって。青空クンには青空クンの生き方があるのは理解しているつもり。けれどそれを全て捨て去ってでも、私を見続けていて欲しいって思ってしまうの」
 溢歌が僕に望んでいる事、それは出会った時からきっと変わっていない。かくいう僕は溢歌と出会い、好きな人と共に同じ時間を過ごす事の素晴らしさを知った。けれど僕には、捨てられないものがあった。
「青空クンが仕事や用事で出かけている間、私がどんな気持ちでこの部屋の中で膝を抱えているのか……ううん、言葉では説明できないし、きっと青空クンにはわからない。場所は違っても、畳の上に敷いた布団の上で虚ろな目で、ただ漠然と世の中から切り離されたような感覚で時が過ぎるのをただひたすら待つ気持ち。不安でたまらないのよ。二度と青空クンが戻って来ないんじゃないかって、思ってしまう事もあるの」
 溢歌が身の震えを止めるように、自分の両肩を抱く。でも、それは僕も同じ。ちょっと目を離した隙に、溢歌がいなくなってしまっているんじゃないかって。そんな妄想に心の何処かでいつも脅えている。
「まだ、独り身になった時の方が苦しまずに済んだ。だってもうこれ以上、喪うものは無いから。でも今は、青空クンがいるから――青空クンが私のたった一つの拠り所だから。
一時でも長く、好きな人の温もりを感じていたいのよ」
 そう言うと、溢歌はゆっくりと膝にかけている布団を外し、立ち上がった。白のワンピースを着た全身像を見て、こんなにも小さかったのかと思った。その細い身体に、一体どれだけの苦痛が刻まれているのだろう。
 かつて僕や黄昏が体験したような絶望を、きっと溢歌も感じている。でも、その性質は大いに異なるものかも知れない。もっと想像もつかない範疇のものと思う。
 溢歌は素足で歩を歩め、僕の元へ近寄って来る。気付けば、エアコンのタイマーが作動して暖房が切れていた。少し部屋の中が肌寒く感じる。
「私はただのさびしがりや」
 うっすら微笑むと、溢歌は僕の膝の上に腰を下ろした。何だか溢歌の体がギターより軽く感じてしまい、ふと涙腺が緩む。
「でも、たとえ僕がいなくなったとしても、黄昏がいるんだよね」
「それは……」
 僕の頬に手を伸ばして来た溢歌の手が止まる。
「黄昏には彼女がいるから、諦めているの?最初から自分の全てを見てくれない事を分かっているから、僕の所へ来たの?正直僕にはどちらが保険なのか判断つかないよ」
 酷い事を言っていると自分でも思う。本当にかけたい言葉は、こんな冷たい言葉じゃないのに。溢歌の本心をえぐり出そうとしてばかりいる。
「青空クンって、本当に意地悪ね。全部言わないと、駄目?」
 上目遣いで精一杯ぶりっ子してみせる溢歌を、頷きもせず、ただひたすらに見つめる。しばらく互いの間に沈黙が流れ、僕の真剣な表情に降参した溢歌が肩を竦めた。
「今の私は、他人を求めているのよ。でないと、押し潰されてしまうもの」
 その発言には、重みがあった。執拗に僕を求めるのは、孤独でいたくない想いの反動から来ている事ぐらい理解できる。
「私は黄昏クンも諦めていない。だって運命の人だもの。本当なら、どちらも手に入れたいわ。でも、それは無理な話よね。どちらも、片方に物凄く嫉妬しているもの。それだけ求められる私は、とても幸せなのかも知れないけれど――」
 溢歌は頷き加減でちらちらと僕を見る。自分が原因で僕と黄昏の間に亀裂が入っている事に、負い目を感じているんだろうか。そこまでは、読み取る事ができない。
「私が青空クンを選んだのは、単に時間のアヤよ。それに、黄昏クンは、私と身体の繋がりを求めていないわ。不思議なものね、二人とも私を見る目は同じなのに、性欲の対象なのかはまるで正反対」
 そうなの?と少し驚く。確かに黄昏は自分から女性についての話はほとんどしない。愁ちゃんが彼女だし、全く興味が無いなんて事も無いだろう。浮世離れした溢歌を、どこか神格化して見るか、触れてみたいと思うか、その違いなのか。
 溢歌は肩にかかった長い髪を背中に払い、僕の膝から退いた。少し寂しい気持ちになる。
「二人のピース、どちらも私の身体にぴったりとはまるのよ。後はただ、相性だけ。今の青空クンと私は、ちょっとそこがずれてきちゃっているのかもね」
 いざ、溢歌の口から僕達の仲がおかしくなって来ている事を言われると、重く響く。無理に作った笑顔が、余計に僕をしんみりさせた。
 溢歌が項垂れる僕の前に立ち、影ができる。見上げると、はにかむ顔があった。 
「そのまま、前を向いていて。それがきっと、本当の幸せなのよ」
 え?
 一瞬、意味が分からなかった。しばらくして、その言葉の真意を理解する。
「それって……そんなの」
 あまりに突然の事にそれから先の言葉が続かない。え、今日ってクリスマスイヴだよね?それなのに何で僕達はこんな話をしているの?二人でいる事を祝う日でしょ?まだ料理だって残っているじゃない。僕もギターを置くから、温め直して二人で食べようよ。
 頭の中で矢継ぎ早に想いが言葉になる。伝えたい言葉が溢れ過ぎて口から出ない。
 溢歌がそばにいれば、僕は僕でいられる。着飾る事も無く、自分のありのままの姿を晒し出せる相手がそばにいるのは、物凄く気が休まる。純粋過ぎる溢歌に振り回される事もよくあるけれど、それさえも引っくるめて愛しい。
 だからこそ、離したくないんだ。
「ありがとう、青空クン。言葉ではもう、感謝し切れないわ」
 僕が手を伸ばすと、溢歌はゆっくりと一歩後ろへ下がり、絡み合った絆を解いた。
「私、帰るわ。今の青空クンとは、一緒にいられない」
 名残惜しそうに僕を見て、やがて黄昏のジャケットがかけられてある台所へ歩み出す。
暖房の為閉め切ったガラス戸を開けた時、溢歌が振り返り悲しそうに微笑んだ。
「私は人に優しくできないニンゲンなのよ」


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