→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   109.幸せであるように

 台所にかけてあるジャケットに手を伸ばす溢歌を、僕は慌てて抱き付いて止めた。
「とりあえず、話し合おうよ」
 自分でも突飛な行動をしでかしていると実感する。心臓の鼓動が高鳴り、全身から嫌な汗を掻いている僕を溢歌は半ば呆れたような目を返した。
「話し合うって……青空クンは、私の心の内を全て分かっているでしょう?これ以上一体、何を話すの?」
「いいから、とにかく」
 僕自身この後何がしたいのか判らぬまま、力尽くで溢歌の腕を引っ張る。抵抗する様子は無く、渋々溢歌は僕に引っ張られ、部屋に戻った。
「そうだ、ケーキでも食べよう。ケーキ」
「まだ、料理が残ってるわよ」
 早速冷蔵庫の中から買って来たケーキを取り出す僕を見て、溜め息混じりに溢歌が指摘する。
「甘いものは別腹って言うから大丈夫だよ。全部食べる訳じゃないしね」
 無理矢理納得させ、部屋に戻り椅子の上にケーキを置くと、こたつのテーブルを用意する。溢歌はオレンジジュースのパックと、皿とフォークを用意しその上に置いた。
 しんみりとした空気を振り払おうと、再び暖房をつけ、鼻歌交じりでケーキを準備する。溢歌も反対側に正座し、僕がケーキを分けるのを眺めていた。
「乾杯」
「何に?」
「何でもいいから」
 オレンジジュースの入ったグラスを持たせ、流れに任せ乾杯する。そのまま僕はジュースを一気飲みし、目の前のケーキに勢い良く貪り付いた。
「そんな……ムキになる事無いわよ。青空クンが悪いなんて、私は思ってないわ。――それは、私をずっと見てくれるのが一番嬉しいに決まっているけれど」
「僕はいつだって溢歌の事を見ているよ」
 口の中にスポンジを含ませたまま、揚々に言う。
「そうね。ずっと見てくれているわ。違うのは、二人の間の考え方だけよ」
 溢歌は小さく微笑み、グラスを傾けた。ケーキにもフォークを伸ばし、口に含む。
「美味しいわね。そう言えばケーキなんてここ何年まともに食べた事も無かったわ。、嫌いな奴の顔目がけて、パイみたいにぶん投げた事はあるけれど」
「それは……凄いね」
 バラエティ番組の1シーンを想像してしまった。
「――何も、こうした時間を捨てようってつもりじゃないのよ。ただ、一度距離を置きましょうって事。どのみち私はこの後黄昏クンの所に行く事になるんでしょうけど、そう簡単に事が上手く運ぶとも思えないわ。そしたらまた、すぐ戻って来るもの」
「喜んでいいんだかそうで無いんだか……」
 そんな軽い調子で言われると、反応に困ってしまう。一緒に祝う筈のクリスマスイヴが、どうしてこんな状況になっているのかも未だに理解できなかった。
「それに黄昏クンだと、私の心を埋められるか、それは分からないわ」
 一旦手に持つフォークを置き、天井を見上げ溢歌が呟く。
「だって黄昏クンは、私の身体を求めていないもの。だから今の私の気持ちなんて全く無視してくれちゃって、大喧嘩する事になるんでしょうけど……でもそこには、私にも想像のつかない救いが待っているのかも知れないわ。ただ、隣の垣根の向こうがよく見えているだけのような気もするわね」
 そう話す溢歌は、少し楽しそう。僕はと言えば黄昏への嫉妬心が湧くよりも、溢歌のその飄々とした考えに半ば感心すると同時に、半ばついていけない。
「無いものねだりなのかしら。きっとそうなんだわ。今の状況がマンネリだなんて、とても思わないけれど。ただ、少しずつ耐えられなくなってきている自分がいるのよ」
 ここ半月程の溢歌の言動を思い返してみた。一度家出したあの時から、少しずつ溢歌との間にずれが生まれて来たのかも知れない。そう言えば僕が風邪を引いた時、キスしようとして拒絶されたっけ。あれ以来、肌を重ねる事はあっても一度もキスはしていなかった事に気付く。僕が溢歌を何とかしてあげようと躍起になればなるほど、ずれが大きくなって行ったのは何と皮肉な話か。
「多分、青空クンのそばにいた方が、きっと私も安らげるのよ。でも、今ずっと一緒にいたら、青空クンは自分を曲げてしまう事になる。それを自分自身許せないでしょう?……そこまでしてしまう権利、居候の私には無いわ。たとえ私が満たされても、心のどこかに負い目を持つ事になる。でも、すぐに忘れてしまうかも知れないわね。冗談よ」
 僕が難しい顔をすると、溢歌は笑った顔で最後を付け足した。今の僕には冗談も真実に思えてしまうほど、心に余裕が無い。
「先に、ケーキを食べましょう。青空クンも、少し落ち着いた方がいいわ」
 諭すように僕に言い、のんびりとケーキを食す溢歌。僕も一度深呼吸し、口に入れたケーキの味をじっくり味わう事にした。こんな時でも美味しいと思えるのが悲しい。
 まだ昼に食べた物が胃の中に残っているのに、結局溢歌より多くのケーキを食べてしまった。やけ食いなんてほとんど記憶に無い。溢歌は一旦テーブルの上を片付け、食器を水につけ、暖かいコーヒーを入れ部屋に戻って来ると、座布団の上に再び正座した。
「私はね」
 一度咳をついてから、僕の目を見て溢歌は語り出す。
「ギターを捨てて抱いて欲しいって言っている癖に、きっと心のどこかで、青空クンにギターを握り続けて欲しいって思っているのよ。多分、あの日の二人の演奏が忘れられないからなんだわ。あのギターと歌声を聴いてしまったから、今私はここにいるもの」
 溢歌の気持ちが痛いほど伝わって来て、また泣きそうになる。まさか今日、溢歌に別れを告げられこんなにみっともない姿になるなんて思いもしなかった。何も、永遠に会えなくなる訳でもないし、これで全てが終わりな訳でもないのに。
「顔を上げて、ちゃんと私の顔を見て」
 肩を震わせ俯いていると、溢歌が僕に声をかけた。鼻を啜り、顔を上げる。 
「私の好きな青空クンは、今の真っ直ぐ前を向いている青空クンよ。時折こちらを向いてくれない事に、悲しんだり腹を立てたりするけれど」
 言葉の槍が胸に何本も突き刺さる。生活する為とは言え、溢歌と四六時中いられないのは仕方無い。でも、僕もその事をとても悲しんでいたんだ。それも理解した上での、溢歌の発言と思いたい。
「だから、私は帰るわ。このまま黄昏クンの元に転がり込むのか、また一人に戻るのかは分からないけれど――少し、距離を置きましょう?青空クンは私を背負ってしまっているせいで、とても辛そうに見えるもの」
「そんなのいいよ。僕がどれだけ辛くても、溢歌と一緒にいたい」
 すがるように言うと、溢歌は困った顔を浮かべ笑い、両手を前に交差させ背伸びした。
「ありがと。でもね、それとは関係なしに一回家に帰ろうとは思っていたの。青空クンと暮らしていたおかげで、随分と心にゆとりができたもの。それに、しばらく帰ってないから、おじいさんが悲しんでいると思うわ。私自身、少し気持ちを整理したいの」
 そう言う理由なら、とほんの少し心が軽くなる。
「それなら、僕もついて行った方がいいかな?」
「馬鹿ね、青空クンがついて来たら一人で考える時間がなくなってしまうじゃない。ここで一人でいる時は、出会う前に孤独だった頃より寂しさが増す事も何度かあったから……でも青空クンのおかげで、おじいさんに話したい事もたくさんできたもの」
 普段はどれだけ笑っても後ろに影をなびかせているような感じでいるのに、こんな時だけ何て幸せそうに笑うんだろう。その笑顔を、もっとたくさんそばで見ていたい。
 溢歌はコーヒーに口をつけ、大きく息をついてみせた。気付けばすっかり夜になっている。ギターを弾くとか曲を作るとかそんな事は、すっかりどこかへ行ってしまった。
「本当わね、私が青空クンの歌ができるまで、我慢すればいいだけの話なのよ。曲を作るのを苦しんでいるのを隣で観ていて、心苦しいなんて気持ちが起きないのは、きっと私が自分の事しか考えていないからなんでしょうね。青空クンは、その曲を作る苦しみも愛しいと言いそうだけれど。でも、私はね、そんなに苦しんで作った曲なんていらないのよ。鼻歌程度の子守歌で構わないの。多分どんな曲でも、何度も口ずさんでいるうちに私の身体に染み込んでいくんだから」
 その言葉を聞き、心の中の重石が弾け飛んだ気がした。しかし次の瞬間、贈ろうとしている歌を否定されているような気がして、落胆する。
「――青空クン、何も私は、青空クンのプレゼントを否定している訳じゃないのよ。ただ、歌よりも私の方をずっと見ていて欲しかっただけ、それだけよ」
 黙り込んでいると、溢歌が僕の様子を気遣い慰めの言葉をかけてくれる。
「じゃあ、出来上がったら、僕の歌を受け取ってくれる?」
「もちろんよ。だって、私の好きな青空クンの歌なんですもの」
 それを聞き、心底胸を撫で下ろす。
「良かった。――僕は、きっと不器用なんだよ。自分を肯定しないと、他人を愛せないんだ。その肯定できるものが今の僕には音楽しか無いから、こんな形になっちゃうんだ。……この二年以上、何も無い自分自身を認める為に、音楽を続けて存在意義を得ようとして来た。だから、それを捨ててまで、溢歌を愛せないんだと思う。……本当は、何もかも捨ててまで好きな相手を選ぶ事ができないなら、それは本当の愛じゃないのかも知れないけど」
 大人なら、こんな事で悩みなんてしないだろう。どちらを天秤にかけるかだなんて、恋愛を知り始めたばかりの人間だから悩んでいるだけ。でも僕達にとってその優先順位はとても大切な事。何故なら心から相手を愛したいし、愛されたいと思っているから。
「愛の定義なんて私には分からないわ。――でも少し、ほっとしているのよ。青空クンが、何もかも捨てて私の事だけ見続けてくれなくて。もちろんそうしたら私は死ぬほど嬉しいし、満たされると思うわ。けれど、その先にあるものだって分かる。私はその結末を心のどこかで受け入れたくなかったから、二人と出会ったのよ。貴方達なら、私を普通の女の子のような生き方に連れて行ってくれるかも知れないと願っているから」
 連れて行きたいと僕が願っても、溢歌は否定するじゃないか。と喉から出かかるのを堪え、飲み込む。ここで言い合いした所で、溢歌が僕の言う事を聞いてくれるとは思えない。むしろますます泥沼にはまりそうな予感がした。
「ねえ、青空クンにとって私は、貴方の思い通りのヒト?」
 考え込み押し黙っていると、憂いを帯びた顔で溢歌が尋ねて来た。
「夢――いつの頃からか心の片隅に思い描いていた、理想の女性に近いかな。でも、こんなに言う事を聞いてくれないなんて……そう考えれば、思い通りじゃないかもね」
 苦笑しつつ、コーヒーを口につける。すっかり温くなってしまい、一気に胃の中に流し込んだ。食べ過ぎで少し苦しいのを我慢する。
「私にとっての理想の、思い通りのヒトは、私を生まれ変わらせてくれる人」
 溢歌は自分の胸に両手を当て、目を閉じる。
「これまで生きて来てずっと続いている悲しみの輪から、私を解き放ってくれる人。――それがどちらなのかは、私には判らないわ。両方かも知れないし、どちらも違うかもね」
 僕にその資格が無く、黄昏にだけあるなんて馬鹿な話は無しにして貰いたい。僕は溢歌の望みを叶えようとしているけれど、受け入れてくれない。いや、僕の選んだ事が正解なのか、それは判らない。もし悪い方向へ向かった場合の事を考えると、前へ踏み出す勇気の無い溢歌を責める事はできなかった。
「青空クンは、これまで生きて来た自分を肯定できる?」
 いきなりの質問に若干戸惑うも、力強く頷いてみせる。辛い事はたくさん経験して来たけれど、もう一度やり直したいとか、生まれ変わりたいとかは思わない。
 僕の表情を見て溢歌は後ろに姿勢を崩し、参った顔で笑ってみせた。
「そうよね。やっぱり――青空クンは、強いわ。地面に足がついているもの。私は無理。おとぎ話みたいに、泥だらけの私に白馬の王子が駆け寄って来て、妃にしてくれるくらい劇的な変化を求めているのよ。これまでの自分が、無くなってしまうくらいに。でもそのくせ、人一倍臆病なのよ。だから青空クンの行動を、素直に信じられないの」
 過去を捨て去るのを頑なに固持しているのに、新しい自分を願っている。そんな弱い自分を痛感しているからこそ、理想と現実の狭間に苦しんでしまう。
「聞いていい?溢歌の過去。何があったのか」
 僕は改めて質問してみた。そこを紐解かない事には、いつまで経っても溢歌の本当の気持ちを僕が理解できないだろうから。
「誰の言葉だったかしら。知ってる?人や物が本当に死ぬのは二回あって、一度目はその人や物がこの世から無くなってしまう時、二度目は周囲から本当に忘れ去られてしまう時なのよ。その二度目を迎えさせたくないから、きっと私は忘れる事ができないのよ」
 溢歌は両手を後ろにつき、天井を見上げながら話す。その目には、今まで自分から離れてしまった人達が見えているのだろうか。
「ごめんなさい。今はまだ、語る勇気が無いわ。頭の隅に追いやっている記憶を全部蘇らせると、心が弾け飛んでしまいそうになるから」
 姿勢を元に戻し、僕に謝る。その辛い表情を見ていると、胸が苦しくなった。
「今でもね、振り返りたくなくても振り返ってしまうの。目が覚めている時はいつも自己嫌悪との戦いだわ。私の目にはね、おそらく今が映っていないの。心だけは、過去に置き去りにされたままなのよ」
 そう言い、溢歌は自嘲するように笑った。呪いをかけられたどうしようもない自分を僕に笑ってくれとでも言うように。
「ただ、これだけは言える。パパとママの手を繋いで公園や街中を歩く子供達を見て、どんなに生まれ変わりたいと思ったか。歯軋りしたくなるほど羨ましかった。大人達が、どれだけ私にひどい事をしてきたか。青空クンも分かっているでしょう?私の身体を抱いて、どれだけ性に溺れた人間なのかを。それだけじゃない。愛する人たちに何度も裏切られたわ。そして、私も何度も裏切った。時には自分の手を汚してまでね。この身体に生まれてしまった事を、何度も呪ったわ。死のうと思った。でもできなかった。臆病だったのよ、死ぬ事からも逃げ出したかった。だから、生ける屍になりたかった。私を救ってくれるありえない未来を一抹に思い描いて、現実を見ないようにしていたのよ。だって、おじいさんは私を救ってくれたのに、現実はどこまでも残酷だったもの。結局私は何もできない。誰一人救えないひ弱な人間なのよ。今だって、青空クンや黄昏クンを利用して、無理矢理おじいさんのいた頃のような日々に戻りたいと願ってる。実際青空クンは、それで大切な音楽を奪われようとしているでしょう?ほらね、私は疫病神なのよ。私の周りにいる人間はみんな不幸になるの。どうしてそんな顔をするのよ?それでも僕は幸せだよって言うつもり?だったら私を置いていかないでよ。何で私の大好きな人はみんな幸せそうな笑顔で、私の前から去って行くのよ!?ふざけないでよ、残された私はどうなるの!?どれだけ苦しむと思っているの!?人の気も知らないで!!」
「溢歌、落ち着いて!落ち着いて」
 話していて徐々にヒステリーを起こし、錯乱したように立ち上がり怒鳴り出す溢歌。慌てて席を立ち駆け寄り、両肩を掴み静まらせる。過去を思い出している内に、現在と混ざり合り取り乱してしまったみたいで、大きく目を見開き顔を真っ赤にしていた。
 ようやく溢歌の瞳に僕の姿が映ると、気の抜けたような顔で僕を見上げ、膝を崩しへたり込むと、大きな声で泣き始めた。
「私はっ、わたしはっ……だいすきなひとに、そばにいてほしいだけなのにぃ……」
「いいから、もういいから」
「あっ……」
 落ち着かせる為に溢歌を抱き締め、キスをした。単に状況に流され、唇を奪いたかっただけなのかもしれない。そのまま首筋に舌を這わせ、押し倒す格好になる。溢歌は泣き腫らした顔で何も言わず、僕の行為を受け止めていた。
 口の中に、互いに飲んだコーヒーの味が広がっている。僕達のお腹も食事後なのでだらしなく膨らんでいて、顔を見合わせはにかみ合った。
 これが、最後になるかも知れない。
 そんな思いを頭の片隅に留めながら、溢歌の身体を優しく抱く。結局のところ、この身体から離れたくないだけなんじゃないかと言う考えも脳裏を過ぎったけれど、そんなやましい思いも引っくるめ、溢歌と離れたくなかった。
 布団を敷かず、カーペットの上で。状況の違いもあるのか、いつもと異なる感覚で溢歌を抱き締める。興奮はしているのに、冷静に相手の事が見えている自分がいた。
 今朝起きた時にはこんな状況になるなんて思いもしなかった。だからこそ、今目の前にいる溢歌をより深く愛せる事ができる。いつもの性欲にまみれた交わりとは違い、これまでに無いほど僕の中に溢歌に対する深い愛情が生まれていた。
「青空クンって、ひどいわね」
 行為が終わると、一気に肌寒く感じる。溢歌は乱れていた服を直しながら、顔を赤らめ笑った。後悔しないように自分の想いを全てぶつけたつもりでも、名残惜しさはある。とにかく溢歌がすっかり泣き止み、笑顔を見せてくれた事が嬉しかった。
「でも、ありがとう。こんなに、心が満たされるSEXは初めてだったわ」
 幸せな気持ちが胸に広がり、どう答えて良いものか分からず、はにかんでみせる。
「けれど、私は青空クンの気持ちを裏切る事になるんでしょうね」
「そう……なるのかな」
 溢歌の言葉で急速に現実に引き戻された気がする。しかし、抱いた満足感のおかげで悲しみは幾分和らいでいた。
「SEXする時、私の体は隅々まで汚れてるって毎回思うの」
 尻餅を付いて座る溢歌が、カーペットの上に視線を落とし呟くように言った。
「でもその度にね、心のどこかに純粋で、綺麗な部分が残っているかもって思うの。そんな部分はすっかり無くなってしまったと思っていたけれど……今のSEXで、まだある事に気付いたわ。好きな相手を想う気持ち――」
 顔を上げ、僕の目を見る。幸せに満ちた表情が、途端に曇る。
「なのに、出て行こうとしているのよね。変なの。……きっと、その気持ちを後になって裏切られるのが怖いから、先に裏切ってしまおうって心のどこかで思っているのよ、私。青空クンが音楽にかまけて、私を置き去りにして行ってしまうかもって」
「そんな事、しないよ」
 何度もそう言っている。溢歌の床にある手の上に自分の手を重ね、答える。
「嬉しいわ。でも、やっぱり怖いのよ。何が怖いって、青空クンは私の思い通りに生きる人じゃないから。ずっと手を繋いでくれていても、視線は別の方向だもの」
 その言葉を否定できず、悲しい気持ちになる。ここで嘘の一つでも言えない自分が情けない。でも、そんな自分も引っくるめての自分なんだろう。溢歌の事を、ギターを手にした状態でずっと観続けていられるか。いられると高らかに宣誓しようと、虚勢を張ろうとしている自分を解っていた。
「猫はね、突然ふらりとどこかへ行ってしまうものなのよ」
 溢歌は僕の手から離れ、ゆっくりと立ち上がった。何だか溢歌が遠くに行ってしまったような想いに駆られ、胸が締め付けられた。
「黄昏を傷つけないと約束してくれる?」
 行かないで、と叫ぶのではなく、先に冷静な気持ちで黄昏の事を考えられる僕は何なんだろう?そんな自分がとても不思議に思えると同時に、情けなかった。
「それは――分からないわ。言ったでしょう?人に優しくできないニンゲンだって」
 両手を広げ、おどけてみせる。そんな仕草が妙に愛しく思えた。
「大体青空クンも、私の身体を簡単に手放したいとは思わないでしょう?」
「……思わない」
 得意気な顔で詰め寄られ、上目遣いで正直に答えると、返答に満足したのか口元を緩ませ顔を離した。
「私も、手放そうとは思わないわ。……もちろん、青空クンのギターもね」
「それって……」
 予想外の言葉に心臓が高鳴る。
「分かっているのよ。自分でも。心の底から青空クンの弾くギターを嫌っていないのは。むしろ、他の音楽と同じように上辺だけで嫌っているのよ。でも、フィルタを外せない。何か、きっかけでもあればいいのに」
 何か、何か無いか。頭を巡らせていると、すぐに答えが一つ見つかった。
「明日のライヴ、観に来てよ。そうすれば、何かが見えて来ると思う」
 やっぱり、僕にできる事はこれしかない。溢歌の心を本当に癒せるのは、きっと歌しか無いんだろうから。
 気持ちが伝わったのか、優しい顔で溢歌が小さく頷いてくれた。
「そうね、ちゃんと観に行くわ。何だか今日は疲れちゃった。もう寝ましょう?青空クンも、大事なライヴがあるんでしょう?」
「朝目が覚めたら、いなくなってたりしない?」
 前みたいな思いはもうこりごりなので心配して尋ねると、可笑しそうに微笑んだ。
「しないわよ。だってまだ、今日の料理が残っているじゃない?青空クン一人で、全部食べ切るつもり?」
 こんな時にでも冗談っぽく言ってみせるので、僕は胸を撫で下ろした。過去を思い出し取り乱したりしたけれど、すっかり元の溢歌に戻っている。
 少し上から人を見下したような感じで、冗談めいた言動で手玉に取り、からかってみせる。そんな溢歌が僕は本当に好きなんだと心の底から思えた。
 ギターもテーブルも片付け、早速寝る準備を始める。パジャマに着替え、一緒に歯を磨き、仲良く布団に入る。いつもと変わらない光景に、思わず笑いが吹き出てしまった。
「ねえ、溢歌。サンタって、いつまで信じてた?」
 電気を消し、眠る前に尋ねてみた。この日にしか訊けない、ありふれた質問。
「何言ってるの?今だってずっと信じてるわよ」
 何の躊躇いもなく、さらりと答える溢歌。ああ、これが溢歌だよね。胸の中に温かいものが広がって行くのを感じ、繋いだ右手を握りしめたまま、夢の世界へ誘われた。
 本当ならずっと起きて、電気でもつけ溢歌の横顔を夜が明けるまで観続けていたいと思った。それなのに眠りこけてしまったのは、安心していたからなんだろうか?今の溢歌とは結果的にすれ違ってしまったけれど、心と心が通じ合っている事を確認する事ができたので、少しくらい離れても心配無いと思えたからなのか。
 夢の中、僕は音楽のたゆたう大海の上を溢歌と二人でボートに乗って楽しんでいた。
 目が覚めたのは、薄暗い朝。真っ先に隣で溢歌が眠っているのを確認し、ほっとする。眠る前に繋いでいた手は今も握られていて、少し汗ばみ、温かい。以前にもこんな風に溢歌と一緒に眠った事があったのを思い出し、自然と微笑みが零れる。
 枕の向こうを確認してみても、サンタの贈り物は届いていなかった。けれど、頭の中に夢の中で聞いたメロディがいくつも反響している。握られた溢歌の手を名残惜しい気持ちでゆっくり離し、布団から出て薄暗い中、歌詞を書き留めているノートを探る。
 こんな早朝だと、突然メロが浮かんだ時にはいつも布団を被り、音を奏でていた。今ギターを弾くと眠っている溢歌を起こしてしまうので、代わりに鼻歌を歌い、音符をノートの空白に記入して行く。記入の仕方が黄昏のノートばかり読んでいた影響か似ているのを再確認し、小さく吹き出してしまう。
 しばらくして、後ろで僕の鼻歌に気付いた溢歌が目を覚ました。
「……いいメロディね」
 振り返り、笑ってみせる。明かりの無い部屋で溢歌の顔はうっすらとしか見えなかったけれど、とても優しく暖かみのある表情を見せた気がした。
 それから太陽が昇り、街が完全に動き始めるまでの短い間二人で、お風呂に入ったり、昨日の残り物の料理を温め直しテーブルを囲み一緒に食べたり、布団を干したり簡単に部屋の掃除をしたり、いつもの休みの日と変わりない時間を送った。
 今日の日の全ての行動を、深く心に刻み込もうとする僕がいた。
「まだ仮歌だけど、聴く?」
 合間にギターを用意する態度を取って訊いてみると、溢歌は微笑みを返す。
「せっかくの機会なんだから、私が戻って来た時にでも完成した歌を聴かせて貰うわ。その方が楽しみがあっていいもの。さっきの鼻歌も、とても良かったわよ」
 そんな事を言われてしまうと、また一から曲を練り直してしまわないといけない。苦笑しつつ、溢歌の期待に応えられるようにしようと思った。
「送った方がいい?」
「そこまででいいわ。名残り惜しくなっちゃうでしょう?」
 そして、別れ。永久の別れでは無いけれど、二人で過ごした時間は一旦ここで止まる。
 太陽も昇り、少し暖かさを感じる時間に溢歌は家を出る。黄昏のジャケットを羽織るだけの必要最低限の荷物。二人で暮らすようになってから買った着替えはいつでも取りに来られるように、家に置いておく事にした。
「駅まで送る?」
「いいわ。歩いて帰るから。一人で色々考え事しながら帰りたいのよ。今日は空気が澄んでいるから、きっと雪の残る街並も綺麗だわ」
 アパートの前で溢歌は楽しそうに一回転してみせる。一昨日の雪がまだ街の景色に残っていて、太陽の光を吸い込み白く輝いている。
「すぐに後を追いかけて来たりしないで、本番までにギターの練習しておくのよ?」
 人差し指を立て、外行きの格好ですっかり送る気満々でいる僕に釘を刺す。すっかり見破られている。しかしここは溢歌の言う通り、今日の夜の事を考えておいた方がいいのかもしれない。ショックでギターを握れるのかどうか少し不安ではある。
 一息つくと、白い息になって澄んだ空気に消える。家に帰れる決心のついた溢歌を送り出せる日が、こんなに天気が良くて良かった。
「気持ちの整理がついたら、戻って来るといいよ。待ってるからさ」
「ええ。あれだけ啖呵切っておいて、出戻りなんてみっともないけれど」
 次がある事を祈る。でないと、心が折れて僕はここで膝から崩れ落ち、泣いてしまう。
「溢歌……」
「もう二度と会わないような顔をしないでよ。言ったでしょう?私達は運命の人だって」
 自分でも眉をハの字にしているのが解るくらい悲しい顔をしていたので、励ますように溢歌は笑ってみせた。別れの時は男の方ほどみっともないとはよく言ったもので、溢歌の方が笑顔が輝いている分、割り切っていられるように見えた。
 いさ、この時が来ると、かけたい言葉は山程あるのに、何を口にすれば良いのか分からない。寂しさや悔しさや感慨深さや感謝の気持ちや、様々な感情が一斉に襲って来て、どうすればいいのか分からなくなりその場に立ち尽くすしか無かった。
 そんな僕の真正面に溢歌は立つと、丁寧におじぎをしてみせた。
「また、夜にね。ありがとう、青空クン」
 幸せそうな笑顔で手を振り、僕に背を向け歩き出す。すぐにでもその背中に飛び付きたい気持ちを堪え、抑えの利かない足を力尽くで踏み締める。去り行く溢歌の背中を見送る間、角を曲がるまでに数回溢歌はこちらを振り返り、名残惜しそうに手を振った。そんな溢歌らしからぬ仕草で、どれだけ僕に感謝していたかが解る。
 だからこそ嬉しくもあり、悲しかった。
 姿が見えなくなってもその場にしばらく立ち尽くし、弾かれたように走り自宅の部屋に駆け込む。後ろで玄関扉の閉まる音がし、部屋の静寂が全身に伝わって来た。自分のついた溜め息がやけに大きく聞こえる。そのまま転がるように、上着を着たままカーペットの上へ身を投げ出した。
 広い。6畳一間ってこんなに大きかったっけ。
 前に一度溢歌がいなくなった時も感じたけれど、その時以上に広く感じる。これは、溢歌が本当にそばからいなくなってしまった喪失感なんだろうか。
 天井を見上げたまま溢歌との想い出を振り返ろうとしたのを、すぐに頭の回転を止めた。体を起こし上着をハンガーにかけ直し、溢歌に言われた通りギターの練習でも始める事にする。弦を奏でても、そばで嫌な顔を浮かべる相手はいない。とても自由。
 でもその自由が、とても苦痛に思えた。今日のステージで演奏する曲を一から通しで演奏してみようと思いギターを握るも、一曲目の途中で耐えきれなくなり止めた。
 肩にかけたギターを下ろし、大きく息を吐く。我慢しても、止め処ない内からの感情の洪水が氾濫していた。
 がらんどうになった部屋で、壁にかけてあるみょーさんに貰ったあの岩の絵を外し、座る自分の目線に合うように壁に立てかける。背筋を丸め膝を抱え、そのカラフルな岩をまばたきする自分を感じながら見つめ続ける。
 音も無い部屋で、溢歌との想い出が無数に溢れて来る。気付くと僕の目尻から、自然と涙が溢れていた。
「溢歌ぁ……」
 堰を切ったように嗚咽を漏らし、泣く。人生でこんなに泣いた事は無いと思えるくらい、声を上げ咽び泣く。何ともみっともない自分に声をかけてくれる相手もいないのが余計に悲しく、更に涙が溢れ出て来る。
 面と向かって好きと言える女性ができたのは、生まれて初めての経験だった。
 だからこそ、僕は、ありったけの想いを解き放ち、泣き崩れた。


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