→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   114.シフクノオト

 マスターに呼ばれ、楽屋へ続くステージ裏の階段を上がり、通路に出る。そこには先に来ていた黄昏と、煙草をふかしているマスターの姿があった。
「何、マスター?」
 黄昏の隣に並び問いかけると、マスターは僕達の顔を交互に見て、真顔で言った。
「お前等、俺の事務所に入らないか?」
 ここに来る前に薄々想像はついていた。これで何度目の誘いになるだろう。
 マスターは元々僕達のバンドを高く評価していて、一年程前くらいからラバーズが経営しているインディーズの事務所に誘われている。断り続けているのはなかなかバンドが安定しないのと、売り物の音源を出そうと言う話がバンド内でまとまっていないから。
「入らないかって言われても……なあ」
 黄昏が困った顔でこちらを見る。ライヴ後のパーティ内でも泊さんを始め、2,3そんな声は上がっていたりするけれど、僕と同じ気持ちらしく黄昏も乗り気じゃない。キュウに相談しようにも、酔い潰れてしまっているので勝手に話を進める訳にもいかない。
「別にお金を貰おうと思って始めたわけでもないし、今のままでやって行けたらそれだけで十分なんですけどね。ただ、凄くなっていけたらいいなって」
 正直な気持ちを僕は述べた。溢歌と離れてまで音楽の道を選んだ分、もう後ろを振り返る気持ちは無く、ずっと続けて行こうとは思っている。しかしそれで生活できるようになるとか、そんな話はここまでバンドが大きくなっていても、どこか現実味が無い。
「俺も……唄っていられるだけで、それ以外はいらない。今日ステージに立ってみて実感――確信したんだけど、俺は唄うために生きてるんだなって。目の前に俺達の演奏を聴いてくれる人がいれば、それで全然OKかな」
「アホかお前等」
 黄昏も僕と同じ気持ちなんだと感心していた矢先、マスターのキツい罵声が飛ぶ。
「凄いモンには自然と人が集まってくるもんなんだよ。そんでその凄いモンを、目の前の人だけに見せてどうする。いろんな手段を使って広げてくのが一番理想じゃねえのか」
 その言葉に僕達は何も言い返せなかった。先程インタビューしてくれた音楽雑誌の女の人も言っていた。音源を発表し、全国の人達に聴かせた方がいいと。
「凄いモンをアングラだけで堪能してる奴等もいるけどよ、そいつ等って結局それを手前の美学にして、闘う事を放棄してんだ。自分達以外の奴等と闘う事をな。俺はそんな考えは間違ってると思うぜ。どれだけ外で、殻を被らずに裸一貫で闘えるか。それが凄いモン作ってる人間の義務だと思うし、それを手伝うのが俺の役目だと思ってる」
 マスターの表情はいつに無く真剣で、それだけ『days』の事を想ってくれている事を理解できる。だからこそ、自分に任せて欲しいと言っているんだろう。
「いろんなバンドをこの目で見て来たけど、お前等には素質がある。他人の心に強く何かを刻む事ができる素質がな。誰一人としてこのバンドから抜けちまうと、空中分解しちまう。千夜の感情をスティックに直接プラグを差し込んだようなドラミング、イッコーの血液のうねりを流し込むベースラインと弱さを全て振り切った力強い唄声。青空、お前の頭の中にあるモンを具現化するギターリフと、世の中の全てを暴こうとしている歌詞。そしてたそ、お前だけが持っている万人の胸の奥をこじ開ける直接的な唄声。そんな個性のありすぎる面子がお互いを補うようにして、一つのグルーヴを作り上げてんだ。それは他の誰にも真似できない、お前等4人だけでしか奏でられない凄いモンなんだよ」
 褒められて嬉しさが先立つより、そこまでマスターが僕達の事を評価してくれているのかと驚いた。吸い終えた煙草を灰皿に押し付け、マスターは新たな煙草に火を付ける。
「今日のライヴを観て確信した。お前等の音楽が世の中に出ないのは絶対間違ってる。第一、プロの有名なミュージシャンも演るこのライヴハウスで、誰よりも支持を得てるのはお前等だ。他のパンクバンド、ダンスミュージックにはない、他のロックバンドにも奏でられない『ロック』を、お前等は鳴らしちまってる。マネージャーっぽいキュウを横につけてるだけで、ほとんど4人であの音楽を鳴らしてんだ」
 僕達をしっかりと見据え、瞳をギラつかせながらマスターは話を続ける。
「周りにサポートしてくれるスタッフがいたら、これからもっともっと凄くなるに違いねえ。ライヴのポテンシャルを見ててもどうしてこの地域だけでやるのかが不思議なくらいで、今すぐに全国を回っておかしくねえよ。そのためには金がいるから事務所の力が絶対に必要だ。お前等の周辺がにわかに騒がしくなってんのもわかるだろ?みんなこぞって『days』に注目し始めてる。次にワンマンやった時にゃ、チケット取れない奴が山ほど出てくるだろうよ。そんな奴等のために、音源を残すのもお前等の役割だと俺は思う」
 反論の言葉も何一つ出て来ない。黄昏も同じで、マスターの強烈な視線を真正面から受け止め、無意識に拳を固く握り締めていた。
「自分達の音楽に納得してなかったお前等の意見も解る。でも、今日のライヴは前までいた場所から更に突き抜けたステージだった。ここ半年のお前等の成長ぶりはホント化けモンだよ。他の奴等が5年、いや一生かけてもできねえ事を、あっさりやってのけちまう。自分達に自覚はねえだろうが、腐るほどバンドを見てきた俺の目から見てそう思うんだからな。いろいろ要素はあるが、一番変わったのはお前だよ、たそ」
「俺が?」
 不意に話題を振られたので声が裏返る黄昏が、少し咽せる。ライヴで声帯を酷使したせいか、普段より声も掠れていた。
「お前の唄には無限の才能を感じる。音域が広いだとか、唄に感情を込められるとかそんな低いレベルで語るのがバカらしいくらいにな。お前の唄は『感情』そのものだ。人間が人間に訴えかけられる一番単純で難しい事を、お前は最初から知り尽くしてる。唄を届けるって事がどんな事なのか、その肌に刻んでる。だからお前の唄はどこまでも優しくて暴力的だ。今まではずっと自分の内面に深く深く入り込んでいく感じだったが、ようやく外も見始めたようだしな。頭ん中でセンズリばっかりこいてるガキが、初めて女の娘の手を握った時みたいな感じか」
 こんな話の時でも下品なネタを仕込む所がマスターらしい。それはそうと、僕達以上に黄昏の事をこんなにもマスターが評価しているとはとても驚きで、そばにいるのに何だかとても遠くの存在のように思えてしまう。それだけ黄昏には、他人には無い力を秘めていると言う事なんだろう。
「まあ、新しいステップを踏んだ実感はあるけど」
「うん、僕も今なら、音源を残してもいいレベルまで来たと思う」
 僕達は顔を見合わせ、言った。今日のライヴの出来なら、音源を十分売り物にできるレベルになっていると思う。勿論前提で、黄昏を始めメンバー全員がバンド活動に打ち込める必要があるけれど。
「そこで相談なんだが」
 マスターは二本目の煙草を吸い終え、次の煙草を取り出そうと懐から取り出した箱が空なのに気付き、不満そうに灰皿の上に投げ捨てた。話の本題につい身構える。
「お前等も知ってるように、俺はインディーズレーベルの事務所を持ってる。まあ、そっからプロになってる奴等もいるがな。肩書きだけ社長を名乗って、大体は下の奴等に任せてるが……まあ、そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、もしお前等がこれから本格的に音楽活動をするとして、事務所を選ぶ場合――俺達の所に来てくれ。これは誘いじゃない、頼んでるんだ。何なら、頭だって下げたっていい」
 本当に頭を垂れようとするマスターを慌てて制止した。この人なら土下座までしてしまいそうなので怖い。断れなくなってしまう。
「期待してくれるのは嬉しいけど――どうしてそこまで?」
 青空の質問に、マスターが咳払いを一つして答える。
「俺は外部の人間で一番、お前達の演奏を多く見てる。だから青空の詞世界も理解しているし、どの部分を補って、どの部分を伸ばしていけば理想なのかがはっきりと見えてる。つまり、お前等を一番上手く生かせられるのは俺達の事務所だと思ってるって事だ。他の場所に行って名前も訊いた事のないプロデューサーをつけられて、くだらない音楽をやって欲しくねえんだ。お前等の音楽が世に広まるためなら、全面的にバックアップする。もちろん、それ相当の凄いモンを作って貰わなきゃいけねえがな」
 僕達のバンドがいきなり大海に放り出されたようなイメージが浮かび、身震いした。全く未知の世界に期待より不安の方が大きくなる。僕達のバンドがもっと多くの人に認めて貰えるようになる為には必ず通らないといけない道とは言え、足がすくむ。
「……少し、時間をくれませんか」
 逃げるように僕は胃から言葉を吐いた。千夜の受験の事や今後のスケジュール等不透明な部分はあるし、何よりまだ僕自身、覚悟が整っていない。
 そんな僕の気持ちを察したのか、マスターは大きく煙草の息を吐き、頭を掻いた。
「まあ、お前等二人だけで決めるわけにもいかねえもんな。でもイッコーは最初からプロに戻るつもりだったし、千夜だって考えがあって『days』一本に絞ったんだろうからな。遅くなってもいいからよ、いい返事期待してるぜ。じゃ、俺ちょっと上行くから」
 最初からこの場で話が通るとは思っていなかったんだろう、言いたい事を全て言い切り満足したのか、さっぱりとした表情でマスターは引き下がり、突き当たりの階段を上がって行った。その背中が見えなくなると同時に、僕達二人は顔を見合わせ盛大に溜め息を付く。こんなにも真剣にマスターに誘われたのは初めての事だもの。
「青空は、どう思う?」
 黄昏が訊いてきたので、率直な感想を述べた。
「解らない……しばらく考えさせて欲しいかな。黄昏は?」
「俺は……どうだろう?音楽を続けて……大きくなっていく限り、必ずぶつかる問題だろうからな。全く考えてなかったわけじゃないけど、いざ目の前にしてみると変な気分だ」
 どうやら同じ気持ちらしく、参った顔で答える。
「うん、それは解ってたけど……」
 本当にマスターに付いていっていいものかどうかと言う問題もある。気心が知れているだけにやり易いとは思う。しかし様々な条件もあるだろうし、他に手を上げてくれる人もいるかも知れない。音源を作るとなるとお金もかかるし、負担も多い。簡単に決められる問題で無いと言うのは十二分に理解しているので、結論は出せそうにない。
「青空?」
 考え事で黙りこくってしまったので、怪訝そうに黄昏が声をかけて来る。
「ん……やっぱり、じっくり考えないとね。今日は明日集まる事だけをみんなに伝えておいて、この事はその時に話そうか。千夜は受験が終わるまでもうこれ以上バンドに出てくるのは無理っぽいから、明日電話で伝えておくよ」
 千夜には受験が終わるまで、これ以上バンドの事を考えて欲しくない。その方が僕達も安心できるから。
「わかった。じゃあ、そろそろ戻ろう」
 用も終わったので、ホールに戻る為に通路を引き返す。黄昏と二人きりになり、どうしても溢歌の事を考えてしまう。もし溢歌が黄昏の元になびくとして、その時僕は黄昏を許せるのか?溢歌を無理矢理にでも連れ戻したいと考えてしまうのか?
「黄昏」
 階段の前までやって来て、先を下りる黄昏を呼び止めた。
「何だ?」
「溢歌を送ってくれない?家まで」
 口から自然とそんな台詞が出て来て、黄昏は狼狽える。
「いいのか?」
 恐る恐る訊き返す黄昏に、僕は隣に並び頷いた。
「ようやく、家に帰ろうとしてる。本音を言えばずっとそばにいて欲しかったけど、彼女が選んだ事だから。……でも、今の僕に送る自信なんてないんだ。それに……溢歌もそれを望んでると思う」
「――本当にそれでいいのか?」
 念を押して来るのは無理も無い。第一、僕自身敵に塩を送る真似をしていると痛感している。それでも口にしてしまったのは、溢歌の気持ちを最優先に考えてしまったから。
「いいの……かな?自分でもよく……わからない。悔しい気持ちもあるし……情けない気持ちもあるんだ。でも、溢歌が家に帰るって言った時には嬉しかったし、寂しかった。多分、後悔すると思う、多分……。けど、もう一度溢歌の事を、もう一度、今度は面と向かって好きだって言えるようになるには、一旦距離を置かないと駄目だと思うんだ」
 足下に視線を落とし、溢歌との日々を振り返りながら答える。僕の伝えようとしていた想いは溢歌に伝わったけれど、それだけで全てが改善するとは思わない。溢歌の事を相手の思い通りに真正面から見てやれなかった、そんな苦い気持ちが心の底に残っている。何も、僕がこれまでと同じ態度を取り続ける事も無いだろうし、溢歌もまた時間の経過と共に心の変遷があるだろう。その時にまた、深く繋がれる接点を見つける事ができるかも知れない。そのためには、一度自分を冷静に見つめ返せないと。
「溢歌と初めて出会って、それこそなし崩しに彼女を好きになっていったから……この気持ちを自分の中で真正面から見つめる事なんて一度もしてなかったし――そうする事で、初めて胸を張って溢歌の前に立てると思う。黄昏と肩を並べられると思う」
 黄昏の目を射抜くように見据え、最後の言葉を締め括った。負けないように、溢歌に心の底から認めて貰える人間になれるように、大きく胸を張って。
 そんな僕の決意を認めてくれたのか、黄昏は参った顔で笑った。
「わかった、ちゃんと送る。それに、溢歌には手を出さない」
 その言葉に少し安心する。こんな提案をできたのも、これまでに黄昏が溢歌に手を出していないと聞いていたからでもある。それに、僕は溢歌を信じている。
「それこそアンフェアだからな。青空が断腸の思いで譲ってくれたんだ。俺だってあいつと会うのは久し振りで、自分の気持ちも全然わかってない。だから今日は送るだけにしとく。約束する」
「……ありがとう」
 素直に感謝の気持ちが口をついて出た。本当なら愁ちゃんを送らないといけないのだろうけれど、無理なお願いをしてしまったかな。でも、こんな遅い時間に溢歌を一人で帰してしまう訳にはいかない。後で謝っておこう。
 二人でフロアに戻るとパーティも宴もたけなわと言った感じで、それぞれがくつろいでいた。ステージの上で馬鹿騒ぎしていた人達もフロアの片隅で疲れたように壁に背中を預けていたり、酔いがすっかり回ってしまい、わざわざ椅子を用意して眠っている人もいた。フロアでのパーティはオールナイトではないので、終電に乗り遅れるだろう人達はこのまま上の店に上がり、二次会でもやるんだろう。
 『days』のみんなのいるテーブルに戻ると、キュウがテーブルに顔を埋めていた。完全に酔い潰れてしまったみたい。テーブルの上の料理もほとんど無くなっていて、今更ながらにお腹が空いてしまった。他のテーブルを回り、残っている料理を紙皿に乗せ戻って来る。フロアを見回し溢歌の姿を探したけれど、案の定見えなかった。
「あーもーしゃーねーな」
 立ち上がろうとすると足に力が入らずテーブルに再び突っ伏すキュウを見て、イッコーが呆れた表情を浮かべる。仕方無い顔で酔い潰れたキュウを背負う。
「おれんちに置いてくるわ。すぐ戻ってくっから」
「あ、あたしも行く。ごめん、見てくるね」
 相方の愁ちゃんも放っておけないので、二人について行く。キュウにはマスターとの件は明日にでも話しておこう。
 胃袋を早めに満たし、また溢歌を探さないと。
「青空」
 口の中に手早くハッシュポテトを運んでいると、千夜に声をかけられた。手元のサワーで口の中の物を飲み込み、向き直る。さすがの千夜も大一番を無事乗り切った安堵感と疲れからか、いつもの固い表情も随分と緩んで見えた。
「少し、いいか?」
「……うん、いいよ」
 まだ溢歌がここにいる事を祈りつつ、やや離れた人のいないテーブルに二人で移る。黄昏はみょーさんに絡まれ、和美さんがそれをたしなめていた。
「さすがに今日は、疲れた」
 手元の紙コップに視線を落とし、千夜が瞼の落ちた目で呟く。満足感に満ちているとは言え、今日はいつも以上に神経を張りつめていたに違いない。
 結局、前回騒ぎを起こしたあの連中の姿は最後まで見えなかった。きっと心のどこかで再び悪夢を見せられる可能性があると思っていたんだろう。僕もずっと心配していたけれど、どうやら杞憂に終わった。千夜にとっては本番で前回失った名誉を挽回する事や急遽作り上げた新曲を演奏する事より、そちらの方が不安でいただろう。
「毎度のように無茶させてごめんね、千夜」
「いい。無茶には慣れている。それに、こちらこそ礼を言いたいくらい」
「千夜が素直に感謝の気持ちを口にするなんて珍しいね」
 僕が言うと千夜は少し怖い表情を見せ、その後緊張を緩め微笑んだ。
「今日が、一応最後だから。これからしばらくは、受験に専念する……髪を跳ねさせたり、この服を着る事も無い。だから今日は、本当に最後のつもりで叩いた」
 その決意を、僕は心から尊敬した。千夜は本当に身も心も『days』に尽くしてくれている。ずっと様々なバンドを掛け持ちし、助っ人として叩いていた千夜を大きく変えたのは僕達かも知れない。僕自身数え切れないくらい助けて貰い、言葉では表し切れないほどの感謝の念を抱いている。
「明日のミーティングは任せておいて。後で電話で連絡するよ」
「すまない」
 僕の気遣いを千夜は快く受け取ってくれた。
「ふうっ」
 千夜は前髪をかき上げ、手元の飲み物を一気飲みする。その姿がとてもセクシャルで、格好良いと思えた。今日のパーティでもたくさんの男性に声をかけられただろう。
「何だか今日のライヴは、少し昔を思い出した」
「昔?」
 千夜の漏らした言葉に反応すると、しばし考え込む仕草を見せ、答える。
「……私がドラムに没頭するようになった頃の事。何もしないでいると、不安と圧迫感に襲われそうになっていたあの頃……私は、いつもステージでは何も持って行かないようにしている。余計な雑念を捨て払って、ただ一心に楽器を奏でる。そうする事で、私は私のままでいられるようになれた」
 珍しく千夜が語り出しているので、僕は聞き手に回り横で頷く。
「お前達と出会うまで、ずっとそうだった――私はただ、自分の為だけにドラムを叩いていたから」
 そう言い、ステージを眺める。今は酔った人達が壇上で騒いでいてドラムは置いていないけれど、千夜の目にはドラムが映っているんだろう。
「いや、おそらく今も変わらない。でもあの頃は、ずっと一人で叩いていた。どれだけ多くのバンドをかけ持ちした所で、どれだけ大人数でステージに上がった所で、一人で叩いている感覚は消えなかった」
 千夜は自分の手を見つめる。手の平にはスティックを握り締めできたマメが何カ所もあった。男の僕なんかと比べるとさほど大きくも無い。触れてみればきっと指の皮も厚いに違いない。
「でもそれは、千夜自身が望んでいたのかもね」
 僕の直球過ぎる言葉に大きく反応する事も無く、素直に頷いた。
「……確かにそんな気がする。誰かを寄せ付けようなんて思っていない。だから私は、こんな格好でドラムを叩く。それで構わなかったの。なのに、お前達がやって来たんだ」
「そんな人を悪者みたいに」
 睨まれたので苦笑する。確かに、かなり強引な誘い方をしたと振り返ってみれば思う。今の僕が、あれ程真っ直ぐに行動できるかと言えば難しいかも。それだけ僕は千夜の腕前に惚れ込んでいたし、バンドをメンバー揃えて始動させたかった。
「初めて誘った時、5万円とか言ってたっけ」
「あ、あれは……!単に、手っ取り早く断る口実が欲しかっただけ。……悪かった」
 昔の思い出話にうろたえた千夜が視線を外し、素直に謝る。その仕草が妙に可愛らしい。その考えは解っていたし、千夜自身思い出したくない恥ずかしい出来事なんだろう。
「――バンドを厳選して、正式加入でかけ持ちの数を減らした時、『days』は残った。メンバーの相性は最悪だけれど、お遊びだけでやっているような連中と違って、私が何かを得られる可能性のあるバンドだと思ったから。正直、あの頃はこのバンドがこれまで続くと思っていなかった」
「そんな酷い」
 思わず笑い飛ばす。リーダーの僕ですら思っているんだから、メンバーが感じていない筈は無い。しかしこう言葉にされると少し悲しいものがある。
「それが本当の気持ち。いつ解散しても大丈夫なように覚悟はしていた。なのに気付けばこのバンド一本に絞っている自分がいて――依存している自分がいる。おかしなものだ。気付けばステージに立つ時も、お前達の事を見ている。それに――」
 千夜は視線を僕や黄昏達に向ける。
「それに、何だか、護られているような気がする。キュウも含めて、このバンドに」
 今ここにキュウはいないけれど、その言葉を聞いたら心底喜んだろう。無論、僕も嬉しい。僕達が作り上げた『days』がメンバーに必要とされている事が。
『……貴様達なら信じられると思った。それだけ』
 正式加入した時、千夜はこんな事を呟いていた。だからこそ僕達も相手を信じる事ができる。その想いが、僕達を繋いでいるんだと実感していた。
「生真面目なんだね、千夜って。恥ずかしがる事なんて無しに、言えるんだもん」
「別に――そんな気持ちはない。率直に言っただけ。本当、このバンドなら――」
 何かを言いかけようとしたのに、次の言葉は続かなかった。手に持つ飲み物の中身を全て飲み干し、肩で一息ついてみせる。心なしか、視線が和らいでように見えた。
「長話して悪かった。そろそろ私も一足先に引き上げるつもり。しばらくは電話だけのやり取りになる……こちらの都合で、すまない」
「いいよいいよ、ずっと前から決めていた事なんだしさ。千夜が無事大学に合格してくれれば、僕達の肩の荷も下りるしね」
「そう言って貰えると、助かる」
 僕達に迷惑をかける事を千夜も気にしていたんだろう。一見して自分勝手と思われがちな千夜だけど、単に心に余裕が無いだけで、その負担を周りの人間が軽くしてあげると心を開いてくれる事が分かった。ほんの少しずつでも状況が好転している。これからまだまだ千夜と一緒にやって行くつもりでいるんだから、互いを信頼できる状況と言うのはとても好ましい。
「終電は大丈夫?」
 念の為訊いてみると、千夜は少し固まった後にやや苦い顔で呟く。時刻を確認するのを忘れていたみたい。僕も同じ路線の電車だし自分も心配しないといけないけれど、男の僕が乗り逃した所でアテはいくつかある。
「多分……大丈夫。逃してしまったら、おやっさんの所にでも行く」
「ああ、そう言えば今日もやっているって言ってたね。せっかくだから、僕も顔でも出そうかな……」
 こんな寒い日でも深夜に営業しているのがおやっさんの凄い所。このまま一人で帰った所で、また孤独に苛まれ泣いてしまいそうなので行ってみてもいいかと思った。
「元気だな、青空も。それだけ音楽に打ち込める気持ちがあるなら、頼もしい」
 千夜に違う意味に取られてしまったけれど、悪くない。
「アタシも、アタシも行く〜ッ!」
「キュウ!?」
 突然フロアの入り口から大声が飛んで来たので振り返ってみると、酔っ払ったキュウが大きくこちらに手を振っていた。バランスを崩し倒れそうになる所を、横にいるイッコーに抱き留められる。そのまま千鳥足なキュウを連れ、こちらへ来た。
「悪ィ、復活しちまって……どうしても戻るって聞かなくてよ。千夜と離ればなれになるのがイヤだっつーんだから」
「おねーさま、アタシを置いていかないでぇ〜」
「…………。」
 物凄く奥歯に物が詰まったような顔で千夜がキュウを見ている。周囲の人間の視線が興味ありげに集まって来て、さすがに堪えきれなくなったのか千夜がキュウの腕を引っ手繰ると、そのままステージ裏に連れて行く。
「ちょっとこっちへ来て」
「ああん、おねーさまーっ」
 嬉しそうに引っ張られて行くキュウ。千夜もキュウの気持ちが分かっているから、邪険に扱えないんだろう。イッコーが参った顔で二人の行き先を眺めていた。
「だいじょーぶかねありゃ……」
「キュウは千夜にゾッコンだから……。これから千夜も忙しくなって、しばらく直接顔を合わせる機会が無くなるから、寂しいんだよきっと」
「そーそー、大好きな相手とはいつでもそばにいるってのがベストなんだぜ」
 顔を赤くしたみょーさんが絡んで来る。こちらも随分と酔っているみたい。
「てめーが言うなあああああ」
「こらヤメロヤメロヤメ」
 逆鱗に触れたのか、イッコーがみょーさんのこめかみを両手でぐりぐりする。それを可笑しそうに隣で和美さんが眺めていた。スキンシップと思われているらしい。
「何だか仲いいよね、二人」
「おれが見張ってないとこいつが和姉にベタベタベタベタすっから」
「何で他人のカノジョを見張らなきゃいけねーんだよ」
「おれが胸糞悪いからに決まってんだろ」
 またぎゃーぎゃー喚き合っている二人。気になったので和美さんに尋ねてみた。
「和美さんとイッコーって、知り合いなんですか?」
「ええ、従姉弟なんです。バンドやっている事は聞いていたけれど、青空さんや黄昏さんと一緒とはこの前まで知らなくて。小さい頃のカズ君もよく知っているんですよ」
 ああ、納得。どうしてイッコーがみょーさんにちょっかいを出すのか理解できた。姉を他人に取られたような感覚なんだろう。みょーさんが妹の愁ちゃんを黄昏に取られ、いい気持ちにならないのと同じ気持ちか。
 それでもイッコーにはまた別の感情があるような気もしたけれど、深く詮索する事は今の所は止めておこう。イッコーの方から話してくれる事もあるだろう。
「あ、戻って来た」
 話がついたのか、酔いどれのキュウを支えながら千夜が戻って来る。
「仕方ないので、キュウは私が送る」
「は〜い、家に送ってもらうのれ〜す」
「やれやれ……」
 みょーさんを振り解いたイッコーが溜め息をつく。キュウは嬉しそうに千夜の腕にしがみついていて、もう千夜はそちらに顔を向けないようにしていた。
「じゃあ、そろそろ僕達はお開きにする?……あれ、愁ちゃんは?」
 周囲を見回しても、イッコーと一緒に行った筈の愁ちゃんの姿が無い。同時に、黄昏と溢歌の姿も無かった。同じようにホールを見回すイッコーが口を開く。
「んー、愁ちゃんはおれが一人でキュウを送ってくつって、そのまま店に残したけど」
「そーいやたそもいねーな。あいつー、まーた愁連れ出しやがったのか〜。声ぐらいかけろってんだ」
「まあまあ」
 和美さんがみょーさんをたしなめる。けれど僕は、そうは思えなかった。だって溢歌がいないもの。
「ちょっと、見てくるね。みんなもそろそろお開きの準備をしておいてよ」
 みんなに言い残し、受付前の方まで一旦足を運ぶ。3人が見当たらない事を確認するとその足で再びホールに戻り、ステージ裏から楽屋へ向かう。中に入ると、黄昏のギターも置かれたまま。そのまま裏の階段から一階の店に上がっても、姿は見えなかった。
「泊さん」
「あれ、青空君、どうしたの?」
 カウンターでお酒が回っている泊さんを見つけたので、訊いてみる。
「溢歌はどこへ行ったか知りませんか?」
「溢歌……?あれ、もう帰っちゃったのかな?先に帰るような事は言っていたけど……久し振りに会った今日の所は嫌われちゃったから、間を置いてまた訪ねる事にするよ」
 そう言い、泊さんは隣の席の人と会話を始めてしまった。この人と溢歌の関係もまた謎な訳だけど、それは後回しにしておこう。店内を見回した後、スタッフに溢歌の外見を伝え尋ねながら皆の所に戻るも、良い反応は無かった。黄昏も愁ちゃんもいない。途中携帯電話で黄昏にかけてみても、案の定留守録に繋がってしまう。
 きっと黄昏が、溢歌を家まで送ってくれているんだろう。考え込むと心がどす黒く染まってしまいそうな気がしたので、断腸の思いで振り切った。
「愁ちゃんに電話かけた?」
「ん、先に帰るってメールが来てた。たそと一緒に帰ったんだろ」
 キュウに訊くと、帰り支度をしていたみょーさんから反応が返って来た。おそらく家の方に帰ったのかなと思う。
「じゃあ、私達は先においとまさせてもらいますね」
「じゃーなー!たそにも正月にでも初詣行こうぜって伝えといてくれ」
 一足先にみょーさんと和美さんが退席する。キュウは楽しそうに別れの手を振っていた。イッコーは納得しない顔をしているけれど、噛みついたりまではしない。
「イッコーはどうするの?」
 尋ねてみると、しばし唸った上で答える。
「んー、まだたくさん知り合い残ってっしな。どーせ上で二次会でもやるんだろ、それに顔出すわ。この調子だと明日はキュウもダウンしてそーだし、別にムリして集まらなくてもいーぜ。ま、夕方くらいにでも連絡入れるわ。キュウはおめーらに任せた」
 無責任な事を言うと、そのままイッコーはトイレに向かった。残された3人、顔を見合わせる。とにかくここは引き上げ、荷物を楽屋に取りに戻る事にした。イッコーの分と黄昏のギターはスタッフに預け、裏口から地上階に上がりマスターに挨拶した後、外に出る。まだ街並に残る雪の影響か、とてもひんやりしていて思わず引き返したくなる。
「で、どうするの?」
「どうするも何も、連れて行くしかない。終電に乗り遅れるといけないから、途中までの道になるけれど」
「ああんおねーさま、冷たい〜」
 まだアルコールの抜けないキュウが千夜に手を伸ばす。もうさすがに、それを見ても溜め息をつく事も無くなっていた。出る前にお茶を飲ませたのに、あまり効果が無い。
「今日は珍しく星が明るいね」
 ネオンと今の時間でも多くの人が往来する駅前までの道を歩きながら、夜空を見上げると冬の星座が見えた。もう終わりとは言え、今日がクリスマスなのを実感する。
「千夜は今日のライヴ、しばらく叩かなくてもいいくらい十分満足できた?」
 訊いてみると、千夜はしばらく考える素振りを見せ、答える。
「……ずっと叩かない日々なんて、これまでほとんど無かったから判らない。今はやり遂げた感じはあっても……叩けない事がストレスに感じて勉強がはかどらない事があるかも知れない」
 少し冗談っぽい言い回しに、千夜の心にゆとりができている事を思わせる。
「もしそんな状態になったら、学校帰りにでもおやっさんところに行けばいいよ」
「――ええ。おやっさんのスタジオが、学校の近くにあればいいのに」
「けどそれだと、千夜が叩いている所を学校の人達に見られるかもしれないよ」
「それは困る!いや、もう卒業だから構わないのか……でも……」
 妙に動転する千夜が可愛い。おそらく学校の同級生は、千夜がこんな格好で水海のライヴハウスでドラムを叩いているだなんて想像もしていないだろう。何だか変身ヒーローみたいで面白い。
「大学合格して、合流した時にはまた違った格好になっているのかな、バージョンアップとか」
「人を漫画やアニメの変身少女みたいに言うなっ」
「あ〜それアタシ見た〜い!おねーさまがきらびやかなカッコでポーズ決めるトコ〜」
「お願いだから余計な口を挟まないで、キュウ」
 こんな風に他愛も無い雑談をしながら千夜と歩ける事が嬉しかった。出会った当初の声をかけてもひたすら冷たくされる時に比べれば、嘘みたいな今の状況。
「そう言えばキュウの家ってどっち?」
 駅への道を途中まで歩いた所で、聞くのを忘れていた事に気付いた。結局、僕が家まで送る羽目になってしまっている。
「あれ?もう曲がる所通り過ぎたわよ〜」
 周囲を見回し平然と答えるキュウに、僕達二人は溜め息をついた。
「じゃあ、私は先に行くから。留守電でも入れてくれれば返事ができる機会もあると思う。青空、キュウをちゃんと家まで送ってあげて」
「や〜、アタシもついていく〜。せめて駅まで〜」
 キュウは泣きつこうとするも、これ以上千夜を困らせるのは良くない。僕がキュウを引き留めると、千夜はすまなそうに僕の目を見て頷いた。
「キュウ。そんな顔しなくても、しばらくしたらまた会えるから」
「うん……」
 いつにない優しい顔で千夜が諭すと、キュウもこれ以上わがままを言わず素直に納得した。
「気をつけて帰ってね。そんな格好でも、女性の夜道の一人歩きは危ないから」
「……分かってる。それじゃ、春にまた」
 女性扱いされる事が嫌いな千夜も、今日は僕の言葉を快く受け入れてくれた。素っ気無い去り際の言葉を残し、僕達に背を向け早足で駅に向かう。
 またね、千夜。
 心の中で、僕はその背中に声をかける。キュウは名残惜しそうに、隣で千夜の名前を呼び、後ろ姿が人混みに見えなくなるまで手を振り続けていた。


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