029.ひとりにしないで
「俺、唄えなくなっちまった……」
頬を、冷たいものが伝う。
唄えない悔しさと、もう二度と心の中にメロディが湧き上がってこないんじゃないかっていう怖さと、守ってるはずの存在の胸中で泣きじゃくってる自分の情けなさがごちゃまぜになって、しゃっくりが止まらない。
青空と溢歌がキスしてたところなんて、所詮そのきっかけに過ぎなかった。
そして、今はっきりとわかった。
俺は唄があるから生きてたんだって。
唄はいつも俺の隣にあって、心の中のメロディはいつでも口から奏でられるのを待ち望んでいた。
でも、唄だけで生きてきたんじゃない。
唄う相手がいるから、必要としてくれる相手がいるから今日まで生きてきたんだって。
一人で唄ってた時も、ずっと顔の見えない相手に向かって唄い続けていた。
俺の唄を聴いてくれる相手、俺の唄を心の支えにしてくれてる相手。俺の唄で自分の言葉を吐き出せる相手、俺の唄う横で一緒に演奏していたい相手。
俺一人じゃ唄えない。
俺だけじゃ胸の内を全部吐き出せないんだ。
いくら自分のために唄ったって、自分にしか届かない。だから俺はずっと八畳の暗闇で唄うのを止めて、ステージの上で唄い続けてきた。
バンドを始めてからは少しずつ、自分のメロディを形にする事はなくなって、心の奥底に閉じこめていった。その間も形を変えて、深く深く沈んだ場所で研ぎ澄まされていくメロディに気付いてたけど、ベッドの上でくたばってる時も、俺は不意に湧き上がってくるメロディにあえて耳を塞いだ。
どうしてって?メロディが、足枷になると思ったから。部屋に閉じ篭もってる時に俺を支えてくれたものが、外に出ると逆に縛りつけるものになってしまうから。
もしかすると、あの時に、俺のメロディは消えてしまったのかもしれない。
どうしてだろう、失くしてから、それが一番大切だった事に気付くなんて。
溢歌が悪いのか、青空が悪いのか、俺が悪いのか。
でも、ホントは、誰のせいでもない。
俺が一人で暴走した挙句、自爆しただけの話だ。
「よ、よくわかんないけど……涙拭こうよ、たそ」
困った顔をしてどう声をかければいいのか迷ってる愁が、近くに置いてあった鞄からハンカチを取り出して、俺に渡してきた。俺は掌でそれを止めて、愁の身体から離れてYシャツの裾で涙を拭う。
そこでようやくまだ自分が、服を脱いでいないのに気付いた。
いつもなら帰ってきたらすぐ裸になってシーツを一枚身体に巻きつけるのに、精神的にガタがきてたんだろう。ベッドの上で暴れ回ったせいか、着てる服が皺だらけになっていた。
愁が俺を落ちつかせようと、冷蔵庫を開けて、麦茶のボトルを取り出してくる。俺は礼も言わないでそれをひったくって、がぶ飲みした。一気に口の中にいれたせいで、少しこぼれた麦茶が鎖骨の部分を伝っていく。その冷たさにほんの少しだけ頭が冴えた。
「あ、あのさ……スタジオに行ったんだけど、今日は中止だって」
「中止?」
俺が語尾を荒げて訊き返してしまったせいで、愁が少し肩を震わせる。
「うん……イッコーと千夜さんしか集まらなかったから、明日に回そうってキュウが」
ぽつぽつと説明する愁。
「幸い明日の夜にキャンセルが出たから、スタジオは押さえられるって。たそ呼んでこいってイッコーが言ったから、何度も携帯に電話入れたんだけど……一時間経ってもせーちゃんも来なかったから今日は解散。3人ともまだスタジオにいたけど、たそが家にいるかもって思ったから、あたしだけ先に帰ってきちゃった」
愁の心遣いは嬉しかったけど、俺はそれ以上に今の台詞に気になった部分があった。
「青空――来なかったのか?」
俺の渡した麦茶を冷蔵庫にしまいながら、愁が答える。
「うん、携帯繋がらなくって。いつもなら絶対に電源入れてるはずなんだけど。電池切れなのかな?でも、せーちゃんが休むなんて初めてだし……」
心配そうな表情を浮かべる愁。何かあったんじゃないかって思ってるんだろう。でも俺は、あいつが今日来なかった理由を簡単に想像ついた。
溢歌の微笑みがちらつく。
そして、月夜の下、青空の下になって恍惚の表情を浮かべている溢歌の姿を。
もちろんそのビジョンは想像に過ぎないけど、やけにそれが生々しく感じられて、俺の心が憎悪で塗り潰されていく様に思わず吐きそうになった。
「たそ……だいじょうぶ?」
流し台に手をついて口を押さえてる俺の背中を、不安げな顔で愁がさすってくる。
「気分……悪い……」
胃液が逆流して、口元から涎が零れる。港で吐く物を吐いてしまったせいか、いくら蒸せ返っても胃液混じりのよだれしか出て来ない。水道水で不快感が残らなくなるまで口をゆすいで、愁に肩を貸してもらってベッドの上に転がり込んだ。
どうも昔から、怒るとか、憎むとか、他人に対する負の感情が嫌で嫌でたまらない。
他人を傷つける可能性があるから嫌だっていう部分もあるけど、相手を憎んだり怒ったりしてる自分の心が悲しくて哀しくて泣きたくなる。
みょーと殴り合った後は語弊があるけど、その最中も気持ち良かったから何ともなかった。でも、昔は肉体的でも精神的でも、相手を傷つけた後のほとんどはそれこそ絶望に打ちひしがれていた。
人を傷つける事に慣れてしまったのは、いつの頃からだろう?
何度も何度も自分の中に潜む絶望に直面するのがいい加減嫌になって、俺はある時一つの方法を取った。
心を閉じこめるんだ。
自分に降りかかる全ての感情を見逃すんだ。全てを当然の事として受け止めて。
笑う事も泣く事も止めれば、喜びも悲しみも感じなくなる。
そんなの間違ってる、なんて言う人もいるかもしれないけど、俺にとっては正の感情を投げ出してでもまとわりついてくる負の感情を追い払いたかった。
そう考えると、自然に自分と向き合う回数も減って、生きるのがルーチン化していった。家にずっと篭もって歌を唄い続けていた時が、そのピークだったと思う。まともな神経で二年近くそんな事できるわけがない。
高校を辞めてから本気で笑えたのは、青空に再会してからのような気がする。
今でもその後遺症のせいか、相手を傷つけても自分はそれほど傷つかない心の持ち主になってしまった。こんなのを上手に生きるのに慣れたって言うんだろう、大人は。
でも、その代償として一瞬の激情を自分で抑える事ができなくなってしまった。怒りで頭の中が真っ赤になった時は考えるより先に手が出るし、憎悪で胸の中がどす黒くなった時はその感覚に吐き気を催す。
そして悲しみで絶望に打ちひしがれた時は――
「ごめん、電気……つけて」
「う、うん」
俺が弱々しい声で愁の耳元で囁くと、少し戸惑ってから部屋の明かりをつけてくれた。普段なら俺が電気をつけるのを嫌がってるからだろう。俺もそのほうが良かったけど、このまま明かりのない場所でじっとしてたらあの暗闇に呑みこまれそうな気がして、恐くて恐くてたまらなかったから何も言わなかった。
そこでようやく、まともに愁の姿を見た。
着替えを持ってきてたのか、昼間と違う服装をしている。夜は肌寒いのか、藍色のニットセーターに同色の飾りボタン付きのパンツを履いていた。目立つ服装で夜独りで歩くのはさすがにためらわれるんだろう。
蛍光灯に照らされたその姿が、素直に可愛いって思えた。
「どうしたの?変なものでも拾って食べた?」
愁が見とれてる俺に気付かずにシーツをかけながら、冗談を言ってくる。
「黒猫」
「冗談返せるようならだいじょうぶ、だいじょうぶ」
愁は俺の冗談を笑い飛ばして、キッチンへ向かっていく。
「栄養食でも作る?」
「コーンクリームでいい」
腹に何も入れる気にならなかったけど、温かいものでも飲んだら少しは落ち着くと思った。キッチンから湯を沸かす音が聞こえてくる。俺は何も考えないように必死に努めて、白い天井をぼんやりと眺めていた。目を閉じると、青空と溢歌が抱き合ってる光景と、俺に向けた溢歌のあの微笑みしか浮かんでこないから。
「あー」
声を出してみた。魂も何も篭もってない、ただ間延びした声。あれほど嫌いだった自分の声が、やけに心地良く耳に聞こえるのはどうしてだろう?
「はい、できたよ」
胸の中に眠っていたはずの消えてしまった自分のメロディを探していると、愁が俺にお盆を渡してきた。湯気がたっぷり出てるコーンクリームの入ったカップが二つ乗っている。それを受け取ると、愁は部屋の片隅にあるソファのスツール(小さい椅子)を持ってきて、ベッドで寝ている俺の横へ腰かけた。俺は片方のカップを渡してやって、お盆をベッドの下に立てかける。
ふーふー息を吹きかけ、コーンクリームをすする愁。その仕草一つ一つが、なぜか今はとても可愛らしく見える。
俺も飲もうと思って口をつけるけど、その手を止めて先に一つ質問した。
「なあ、愁」
「なに?」
「おまえ、俺が唄うところ、好きか?」
面と向かって真剣な顔で問いかけて来る俺に、愁は笑いもしないで大きく頷いた。
「イッコーが唄ってるところよりも何千倍も好き。これ、イッコーには内緒だよ」
舌をぺろっと出して、愁はコーンクリームを飲み続ける。それでも心のもやは晴れない。
正直なところ、今の俺がステージに立って唄えるのかどうかすらわからなかった。
心の奥底から唄えるのか?
青空の書いた曲を唄えるのか?
今となっては自信もなくなったし、唄う気にもなれない。
俺が今まで青空の歌を唄ってきたのは、八畳の暗闇から連れ出してくれた感謝だとか義理だとか薄っぺらい感情なんかじゃない。
青空の気持ちを唄いたかったから。
青空か代弁してくれた俺自身の気持ちを唄いたかったからだ。
でも、いくら自分を奮い立たせてみても、ほんの数時間前まで心の大部分を占めてたはずのその気持ちは甦って来ない。何ならもう二度と思い出さなくてもいいくらいに。
じゃあ、俺がバンドを続ける意味は?
このままだと、イッコーや千夜達と唄い続ける意味がなくなってしまう。でも、それだけは何としても避けたかった。
だって、今まで俺と一緒にステージに立ってくれる人間なんていなかったんだから。
この大切な仲間を今失えば、それこそ俺は八畳の暗闇に戻れもしないで、そこの壁にひっそりと潜んでいる暗闇に呑みこまれてしまうだけだ。
今、俺の横に愁がいる。バンドの横にはキュウがいる。
俺達を見守ってくれてる。
だからせめて、この4人のためだけにでも唄いたい。
そう思っても、俺には唄う曲がなくなってしまった。
自分のメロディすら聞こえてこない今、俺はどうすればいい?
俺は昔、自分自身を生かすために歌を唄っていた。八畳一間の暗闇で。
でも、さっきまでは違ってた。ずっと青空のために唄ってた。溢歌が現れてからは、あいつのためにも唄った。あれだけ歌を嫌がるなんて知らないで。
自分が唄えなくなる原因になるなんて知らずに――
俺の胸の中では、ずっと自分だけのメロディが流れていた。他の人はどうかは知らないけど、ふとした瞬間に自分の好きな曲が頭に思い浮かぶ事があると思う。それと一緒で、俺は自分の心の中に耳を傾けるといつでも感情が奏でるメロディが聞こえてきた。
それがないと、俺は上手に叫べない。音程をなぞるようにしか歌が唄えない。そんなのは『唄う』なんて言わない。ただの声だ。
とはいえ、4人のために唄ったところで、俺は元に戻れるのか?
ああ、もうどうでもよくなってきた。
冷めたコーンクリームを一気に飲み干すと、横で俺の顔をじっと眺めてた愁に尋ねた。
「もし――もし、俺が唄えなくなったとして、」
「うん」
「俺が……二度と唄えなくなっても、愁は俺のそばにいる?」
――沈黙。
そこで言い淀んで欲しくなかった。即答して欲しかった。愁の肩を掴んで揺さぶりたくなる気持ちを必死に堪えて、俺を救ってくれる言葉を待った。
「――いる、よ。いる――ずっといる、たそのそばに」
重い表情で俯いてた愁が、顔を上げて俺の目を真っ直ぐに見て言った。
その言葉だけで、俺は救われた気がした。
「だって、たそってあたしがいないと、洗濯物一つまともに取りこめないし――放っておけないでしょ?だから――だから、たそが唄えなくなっても、あたしはずっといるよ。うん、ずっと――」
俺から壁に立てかけてある茜色の絵に視線を移して、少し言いにくそうに愁は続ける。
本心なのか、それとも嘘なのか、そんなのはどうでもよかった。こうやって、言葉にしてくれるだけで俺の心は潮の引いた海のように平静さを取り戻していく。瞼の裏に焼きついてた岩場の光景も、闇に霞んでいく。
それは逃避だって事は十分承知してたけど、無理矢理そう思わないとそれこそ明日が見えなかった。
「あれ?これ……」
愁は席を立って壁際に投げ捨てられてたペンとノートを拾った。読んでいいものかどうか、俺の顔色を伺っている。
昔、愁が勝手に本棚からノートを取って見ようとした時、俺は怒鳴りつけた。青空に見せる時には恥ずかしさも何もなかったけど、愁が開こうとした瞬間、俺の口から出たのは怒声だった。
勝手に触られたのが嫌だったわけじゃない。青空だったから見せられたんだと思う。でもそれも幼なじみだからじゃない。今だったら、みょーには見せてやろうって思える。
つまり、自分と同じ匂いを持った人間にしか見て欲しくなかったんだ。同じ痛みを分かち合える人間に。
「読んでいいよ」
だから、俺の痛みをわかってくれる今の愁になら読まれても全然構わなかった。
「あとでね」
愁は折れ曲がったページを元に戻してノートを本棚に直すと、飲み終えたカップをお盆に乗せてキッチンへ消えていく。せっかく温かいコーンクリームを作ってもらったのに、冷めてから飲んだせいでちっともおいしくなかった。
でも、愁のおかげですっかり心が安らいだ。心地良い眠気が襲ってくる。
「明日はちゃんと練習でようね。せっかく復帰したんだしさ」
流し台でカップを洗う音に紛れて、愁の声が飛んできた。
唄えるのかどうかわからないけど、明日はスタジオに行こうと思う。これ以上ここで考えてたって結論も出ないし、何よりも青空に会って溢歌との関係を聞きたかった。きっと明日は青空も出てくる。今日と同じように夕方の岩場で溢歌と抱き合ってなかったなら。
せっかく薄れていった記憶をもう一度掘り返すような真似をしようとは思わない。だから今は溢歌にも会いたくないし、明日は愁と一緒にスタジオへ入って寄り道せずに帰ろうと思った。
会えるわけない、あの微笑みを見せられた後じゃ。
どこまでも無邪気で、淫魔のようないやらしい笑顔。
それだけで脳髄までとろけそうになり、心が捕われてしまったような錯覚に陥る。
あんな女を好きになってたのか、俺は――?
溢歌に対する自分の感情がますますわからなくなる。
次、心が落ち着いてから、もう一度溢歌に会いに行こう。
もしかしたら、それっきりになるかもしれない。魔性の瞳に捕らえられて、二度と逃れられなくなるかもしれない。
どちらに転んだとしても、俺は手放しで喜べないような気がしてならなかった。
「服、脱がなくていいの?」
突然愁が俺の上に乗っかって、顔を覗きこんでくる。脱ぐのも面倒臭くなるほど心が疲れてたし、このまま寝てもよかったけど、俺は愁の腕を掴んで誘ってみた。
「おまえが脱いでくれたら脱ぐ」
すると愁は目を大きく見開いて顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせる。
「どうした?」
「だ、だって、たそから誘ってくれたなんてはじめてだし……」
そういえば、いつもは勝手に愁が俺に絡みついてくるんだった。無人のビルで抱いた時も誘われてだったし、最初なんて俺が無理矢理犯す最悪の状況だった。
多分、いつもより可愛く見えたから、自分から抱き締めたくなったんだろう。愁に対する自分自身の気持ちもようやく理解できたのもあると思う。
俺が腕を放すと、愁は俺に確認を取るように訊いてくる。
「う、嬉しいけど……でも、たそはそれでいいの?」
何を言ってるのかよくわからなかった。俺がためらう必要がどこにある?
「いいも何も、俺がおまえを抱きたいって思うのはそんなに悪い事?」
「違うよ、逃げるためにあたしを抱いていいのかってこと」
心臓を矢で射抜かれたような気がした。
自分でも無視しようとしてた内心を指摘されて愕然としてる俺に、愁は詰め寄ってくる。
「セックスの気持ちよさになにもかも忘れて、大切なものを置き忘れたままにしていいの?」
「置き忘れたも、何も……」
消えてしまったんだ。
どこかに行っちゃったんだよ。
「じゃあ、おまえは一緒に探してくれるって言うのか!?」
俺は乗っかっている愁の身体を跳ね除けて、逆に飛び乗る。
「探したいよ、一緒に。でも……」
「でも!?」
愁は大粒の涙を目に溜めて、ぽつりと言った。
「たそ一人で探さなきゃ、意味ないじゃない……」
その言葉を聴いた瞬間、俺の弱い心を塗り潰すように一気に欲望が広がって行った。
初めて愁を犯した時と同じ、黒とベージュが混じり合った甘美な感覚。
逃避なのはわかってた。
これじゃ何も解決しないのはわかってた。
でも、逃げなきゃ耐えられない時だってあるんだ。
俺は弱い。救いようのないほど弱い人間なんだから。
欲望が頭から消え去った後で、残るのは虚無と絶望と後悔だけなのは目に見えてる。それでも俺は、この一時の欲望に全てを委ねていたかった。
俺は涙を流してたのかもしれない。五感はどこまでも研ぎ澄まされてたけど、目に映る光景に心を背けてるのでよくわからない。
それでも、抱き合う可愛い愁の肌の温もりだけは逃すまいと思った。肌の隅から隅まで、愁の温もりを刻もうと思った。それが、俺がこいつにできる唯一の謝罪だったから。
「ずっとそばで、応援してあげるからね……」
小さな胸の中で泣きじゃくる自分の泣き声が、やけに遠く聞こえた。