→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   030.月の妖精

 青空の姿を目にした途端、俺の身体は何かに突き動かされるように歩を進めていく。
 次の瞬間、激しい音がスタジオに鳴り響いた。
「……帰る」
 それだけ吐き捨てて、みんなの止める声も聞かずに外に停めてあったバイクに跨る。慌てて愁もスタジオから飛び出て来て俺のジャケットの袖を掴むけど、ヘルメットと吹かすエンジン音で声が全く聞こえない。
 俺は愁の手を乱暴に払いのけて、バックミラーで後を見ないままバイクで駆け出した。
 どれだけぶっ飛ばしても、赤信号で待機してても、心臓の激しい動悸は静まらない。俺は横にあった電柱をグローブのはめた拳で全力で殴りつけた。内出血しただろうけど、痛みを感じないくらい気持ちが昂ぶってる。
 意外と言うか案の定と言うか、こうなってしまった。最初から結果は見えてたような気もする。
 話を訊くどころじゃなかった。青空を見た瞬間全身の血が逆流して、目の前が真っ赤になった。気付いたら青空は壁際で機材に埋もれて倒れてて、それを見た俺は心底笑った。
 口よりも先に手が出てしまったのを一瞬後悔したけど、このまま青空といたらそれこそ息を引き取るまで殴り続ける予感がしたから、俺のほうから出て行ってやった。イッコー達はまた怒るだろうけど、そんなの関係ない。練習に私情を挟むのは良くない事だと思うけど、別にプロでもないし今はそんな悠長な事言ってられる精神状態じゃない。
 俺は悪くない、青空が悪い。溢歌に手を出した青空が――
 昨日の夜は誰も悪くないって言ってたのに、勝手なもんだ。
 ここまで他人に怒りを覚えたのは初めてだった。いつもなら「しょうがなく怒る」、そんな感じだったのに、今は自分のものだと思ってたものを横取りされてムカついてる。それも青空を殺しても殺しても殺し足りないくらいに。
 昔ならこの激情が冷めた後、それこそ首を括りたくなるくらい落ちてただろう。人を憎みたくなかったのに憎んでしまった自分に絶望して。
 次に青空に会った時には幾分この感情も収まってるだろうけど、もう二度と、今までの関係に戻れないんじゃないか?
 また一つ大切なものを失ってしまった気がするけど、胸の痛みは怒りにかき消されて少しも気にならなかった。
 じゃあどうして俺はいろんなものを失ってしまったんだ?
 その答えはすぐに出た。
 溢歌に会いに行こう。
 行くつもりはなかったけど、青空に話が訊けなかった事もある。
 すっかり夜になってしまったし、今日は雲も少ない。小さく浮かぶ月は最初に溢歌と会った時と同じ三日月だった。月齢はよくわからないけど、溢歌と初めて出会ってから一回りするぐらい時間が経ってたのに気付いて驚いた。ほんの数日前だったような気もするし、もう何年も経ってるような気もする。
 何だかんだ言っても、あいつと会ったのはたったの二回だけなんだった。
 それなのに、俺の心の半分以上はあいつで埋め尽されてる。
 溢歌。
 一体あいつは何者なんだろう?
 爺さんと二人で港の近くに住んでいて、学校にも通ってない。嘘は言ってないんだろうけど、つい勘繰ってしまう。もしかしてあいつは、月の世界から俺をからかいにやって来た妖精なんじゃないか?そう思えてしまうほど、溢歌の存在は非現実過ぎた。周りの人間と全く違う顔立ちをしてるけど、外国人にも見えない。あいつのステップを踏む姿だって、ふわふわと浮いてるように見えるし。
 あいつは俺の事を鏡みたいだって言った。みょーも同じような事を言ってたけど、あいつは鏡に映る俺の輪郭の残り部分だって。
 つまり、二つで一つ。昼と夜、男と女みたいに、どちらが欠けても成り立たない。
 じゃあどうして、昨日の夕方、青空と抱き合ってたんだ?
 青空が誘ったわけじゃない事だけははっきりしてた。それは俺に向けた溢歌の微笑みが証明してる。
 少しでも不純物のある人間とは繋がれないってあいつは言ってた。その言葉に嘘はないだろう。
 青空でも大丈夫なのか?そう考えると、青空は俺と同じだって事になる。
 それは違う。
 俺は一度も青空と似てる人間だなんて思った事はない。あいつの気持ちを俺が何もためらわずに唄えたのは同じ波長を持ってるからだ。
 でも、それは似てるようで全然違うものだっていう事はわかってた。ベクトルがずれてるんだ。だから、終着点、目指すもの、求めるものが最終的に違う。
 俺が求めてるもの、それは理想とか夢だとか手の届かない場所にあるものだけど、クサい言葉で言ってしまえば「ユートピア」、すなわち楽園だ。
 子供の頃、仲のいい友達と笑い合ってた。それこそ、この世の中に悲しみだとか怒りだとか存在してないって思えるくらいに毎日毎日笑い合ってた。
 楽しい事を素直に楽しいって感じられる。心の底から楽しいって感じられる。楽しい気分ばかり続いても、心は全然麻痺しない。それどころか、もっともっと笑おうって思って気の済むまで遊びまくった。
 いつまでも、そんな楽しい時間が続くって思ってた。
 歳を取るにつれて、そのユートピアが徐々に薄れて、いつの間にか消えてしまうまで。
 どうしてみんな、笑い合っていられないんだろう?
 その疑問は思い始めた頃から今現在も、心の奥底で問い続けている。
 でも俺は、いつの日かそんな楽園が戻ってくるのを信じてる。待ってても戻ってこなかったら、自分で築き上げたいほどに。
 だから俺は、八畳一間に篭る事を選んだ。面倒臭がりな自分の性根にも合っていた。
 子供の頃からその考え方はちっとも変わってない。俺の心の核に深く根づいてしまってて、きっと死ぬまで二度と変わらないだろう。
 今でも、心のどこかで痛みを避けてる節がある。他人と会って嫌な思いをするんだったら、ずっとずっと家に篭っていたい。何度も家を訪れる愁を怒鳴って追い返していたのも、二人でいたらそのほうがお互いにずっと嫌な思いをするって思ったからだ。
 楽しい事もそう感じ取れなくなってしまうほどに。
 本当は傷つけずにいたい。でも、ひととヒトとが触れ合う以上、必ずそこにずれは生じてくる。子供の頃はきっと、そのずれがある事さえ気付かなかったんだろう。だからこそ、ユートピアで過ごせたんだと思う。
 傷つけ合った事さえ一緒に笑い飛ばせるような。
 一度じっくりと、その辺を青空と話した事がある。あいつの言い分はこうだった。
「僕はそんな――そんな夢物語は、物心がついた時にとっくに捨てちゃった。捨てたって言い方はおかしいかな?諦めたって言えばいいのか――これも一緒か。
 君が生きてきて、どれだけの事を経験してきたのかは知らない。だから、僕の言う事に賛同できない部分もあると思う。でもそれは、自分の考えだけが世の中の全てじゃないって事だから、それはちゃんと心に留めておいて。
 ――僕は、そんなユートピアを手に入れられない事を肌で感じてる。『僕は』、だよ。黄昏ならもう一度そこへ辿りつけるのかも知れない。でも僕は無理。無理だし、そんな世界に興味がないんだ。
 僕は『現実』に生きてる。この世界で、この国で、この街で生きてる。楽しい事も苦しい事も、20年分経験して来てる。
 その中で僕が学んだ事は、『生きていくと言う事は、感情が揺れ動く事』。
 苦しい事、悲しい事があるから、楽しい時には心の底から楽しめる。嬉しい時には心の底から笑える。
 だから僕が君の言うユートピアに行けたとしても、きっと何も感じられなくなるマネキンになってしまうと思う。
 感じる事が大切なんだ。何も感じられなくなる前に。
 ずっと笑っていられる人間なんて、この地球上に誰一人として存在してないと思う。もちろん君も含めてね。僕はと言えば、今まで生きてきて悲しい感情の方が多かった気もする。五分五分じゃないね。今は、何か一つ楽しい事が未来で待ってるから、生きてる気がする。バンドだとか、ライヴだとか……他にも山程あるけど。だから目の前に何も見えなかったら、とっくに死んでるんじゃないかな?
 一人でいるとね、悲しさが付き纏って来るんだ。孤独だっていう気持ちもあるけど、それだけじゃない。もっともっと……言葉じゃ上手く説明できないけど、それこそ世の中の悲しみが全部自分一人に圧し掛かってくるような……やりきれない気持ちになるんだ。
 僕はあまり他人と付き合うのが好きじゃない。でも、一人じゃいられない。一人でいる時も、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たり……そうやって誰かの作った作品に触れる事で、孤独から目を反らしてるんだよ。作品の中には、その人の人間が詰まってるからね。もちろん、直接人間と話したりしてる方が刺激的だし、感情の起伏も多いけど。
 歌詞を書く時?それだって、自分と向き合ってるから孤独だって思わないんだ。きっと、感情に触れていたいんだろうね。ずっとベッドの上に寝転がって死体のように転がっているのが一番だって言ってる君とはそこが違う。でも僕は、そんな君を羨ましく思える。
 どれだけ悲しくなってもいいんだ。いつまで経っても慣れないけど、その方が楽しい時に目一杯笑えるからさ。99%の悲しみが目の前にあっても、残りの1%の喜びが光輝いて見えれば、それだけで僕は生きていける。
 そういう生き方しかできないんだよ。」
 そう言ってはにかんだ青空の顔を、俺はずっと忘れない。
 俺は何も言えなかった。でも、しっかりと自分の生き方を認識してる青空を尊敬したし、そんな青空とトモダチなのを誇りに思えた。
 それに比べて一体溢歌は、何を求めてるんだろう?
 溢歌の求めてるものを持ってるのは、俺じゃなくて青空かもしれない。俺のほうが不純物で、青空のほうが薬の可能性だってある。俺達二人の持ってるものは、それこそ他人から見てみれば同じもののようにしか見えないかもしれないんだから。
 そう考えると、俺はぞっとした。
 溢歌に必要とされてない自分、独りよがりで自爆して唄えなくなった自分、大切なトモダチである青空を殴った自分。そのどれもが、俺を奈落の底へ突き落とすのに十分だった。
 必死でその考えを振り払う。例えそうだとしても、俺が誰一人として必要のない人間になってしまったしても、後悔はしない。
 溢歌に唄いたい気持ちは、本当だったんだから。
 街を抜けて踏切を渡ると、海はすぐそこだった。同じ街だから岩場まではそれほど時間がかからない。
 毎度の場所にバイクを止めて、道路を横切って喫茶店横の自動販売機へ向かう。溢歌と会う前にあのミルクティーを飲むのが習慣になってしまったらしい。歩道に上がる時に、サングラスをかけた粋のいい兄ちゃんと栗色の長髪のおしとやかな女性が自転車を二人乗りして横切って行く。喋りながら心の底から笑い合うその姿に、一瞬ユートピアの影がちらついた。
 まだ明かりの灯ってる喫茶店を眺めながら、温かいミルクティーを喉に流しこむと、バイクの風で冷え切っていた身体が芯からあったまるのを感じた。そういえば一ヶ月前は冷たいのを飲んでいたのに、今はホット。雨降りが続いたせいもあるのか、一気に冷えこんだ感じがする。
 さすがに青空に対する怒りも引いてきた。まだ胸の部分にしこりが残ってる感じはあるけど、しょうがない。このしこりが取れて、また一緒に笑い合える日が来る事を祈ろう。これだけは放って置いても、時間が消してくれない事はわかっていた。
 空き缶をくずかごに捨てると、堤防を降りて岩場に向けて歩き出す。大海原から吹きつけてくる潮風が冷たい。十分厚着してきてよかったって心底思う。
 港を抜けると、明かりのない岩場が目の前に広がっている。今は雲に三日月が隠れていて、その先端に溢歌がいるのか見当がつかない。雲が晴れるまで待っててもよかったけど、俺の足は自然に前へ出ていた。
 段差を登って行くと、先端に人影を確認できた。しゃがみこんでるようだけど、シルエットだけじゃよくわからない。でもその人影が溢歌だって事を俺は確信していた。
 最後の段差を登ると、眼前に三日月に照らされた大海原が広がった。揺らめく水面に月光が反射して、岩に砕ける漣さえ吸いこんでしまう。そこにはあるはずのない永遠が存在してるように思えた。
 岩場の先端に、溢歌がいた。
 俺のジャケットを羽織った背中を向けて、三角座りでその光景を眺めている。足音を立てる俺の存在にも気付いてない。
 岩場の先端ギリギリに座ってる溢歌の横に、サンダルが二つ綺麗に並べられて置いてある。それはいつでも岩礁に飛び込める彼女の意志表示に思えた。
 声をかけていいものかどうかしばらく迷ったけど、意を決して少女の名前を呼んだ。
「溢歌」
 少女の肩がびくんと震える。
 もう一度、勇気を振り絞って名前を呼ぶ。
「溢歌」
 少女が振り返る。三日月の後光に照らされたその顔には驚きと安堵が混じり合っていた。
 両方の大きなつり目から大粒の涙が湧き出て、月の光できらめくそれは白い頬を伝う。
 今ここに俺がいるのが信じられないのか、口を開けたまま見開いた目で俺を見ている。
 俺が一歩踏み出そうとすると、溢歌はよろめくようにゆっくり立ち上がった。そのまま後に落下するんじゃないかって思えて心臓が激しく高鳴る。変な気を起こさないように心の中で必死に祈った。
 溢歌は俺のジャケットの下に素肌の上から黒ワンピースだけ羽織ってて、いつものように素足だった。こんな格好でいたら寒いに違いない。何時間ここにいたのかはわからないけど、雪のような肌の白さは冷え切ってるせいもあるようだった。
 岩場の先端に立ち尽くしてる溢歌が、溢れ出る涙もそのままに、言った。
「連れていって。私を、どこか遠くに――連れていってよ、お願い――」 
 そして、俺の胸に飛びこんでくる。
 俺はしっかりと溢歌の身体を受け止めて、抱き締めてやった。その身体はこの世のものとは思えないくらいとても冷たくて、弱々しかった。
 訊きたい事や言いたい事は山ほどあったのに、頭の中から全部吹っ飛んでしまった。そんな事よりも、今、俺の胸の中に溢歌がいる――それが何よりも嬉しかった。
 どこへ連れていけばいいかなんてわからない。この海の見える岩場じゃないならどこでも、そこが新しい場所ならどこでも構わないんだろう。
 赤ん坊のように溢歌は俺の胸に顔を擦り付けて泣きじゃくっている。何があったのかなんて知る由もない。でも、彼女の悲しみを和らげられるのなら、俺はどんな事でもしようと思った。
 溢歌の顎を指で持ち上げて、唇を重ねる。
 驚いてたけど、溢歌は目を閉じて俺の唇を受け入れた。
 強く、強く。
 そして。
 ああ。
 俺は気付いてしまった。
 ずっと抱いてた溢歌に対する気持ちが、『好き』なんだって事に。
 気付かないほうがよかった。でも、気付いてしまった。
 どこかで、鎖が絡み合う音が確かに、聞こえた。


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