031.すれちがうひとたちの心が軋む音
「風呂沸いたから、入れよ」
「やだ」
「…………」
さっきから溢歌はずっとこの調子だ。
部屋の隅で膝を抱えて仔猫のようにうずくまってる。
結局、溢歌は俺の家に連れて帰ってきた。どこへ連れて行こうにも溢歌の身体はすっかり冷え切ってたし、家に送ろうとしたら必死で首を横に振る。幸い愁の分のヘルメットがあったから、それを貸してバイクに乗せてやった。今日は日曜日だし、愁も明日学校があるから俺の家にも来ない。
泣き終わった後、溢歌はほとんど口を聞いてくれなかった。帰宅途中でいろいろ訊いたところでまた錯乱するだけだろうと思ったから、後でじっくり話を聞く事にした。
溢歌は裸足だったので、ずっと俺の背中にしがみついていた。エレベータで一緒になったマンションの住人からは変な目で見られたけど、二人共別に気にする性質でもない。
「おまえなあ、そんな薄着で外にずっといたんだろ?それも裸足で。放っておいたら風邪引いてぶっ倒れるぞ」
「いいもん、どうなったって。私の身体なんだから、あなたには関係ないもの」
俺の顔も見ないで、溢歌はずっと拗ねてる。こいつの考えてる事はさっぱりわからないし、いい加減らちが開かないから俺は強行手段に出た。
「きゃあっ!?」
溢歌の身体に後から両腕を回して、担ぎ上げる。線も細いし小柄なので、比較的軽い。愁よりは出るとこ出てるんだけど。
「きゃーやめてーいやー犯されるーっ!」
「はいはい、それだけ元気があれば十分。この部屋は防音設計だから、いくら騒いだって隣には聞こえないからな、存分に喚きまくれ」
「うーっ……」
じたばたするのも諦めて、溢歌はおとなしくなった。風呂場の扉を開けて、中に溢歌を下ろす。大して広くない浴槽から、ほんのりと白い湯気が上がってる。
「体の芯まで温まるまで出てくるなよ。着替えは用意しておいてやるから、そこのカゴにでも着てる物は放り込んどけ。後で洗濯してやるから」
「変態?」
溢歌が胸元を両腕で隠して、冷めた目で睨んでくる。
「誰がおまえなんかに欲情するか、バカ」
「ひっどーい!今のかなりちょームカ」
「怒ってる暇あるならさっさと入れ」
頭に血が昇ってわめき散らす溢歌を無視して、俺はキッチンに戻った。しばらく風呂場から野次罵倒が飛んで来てたけど、やがてそれも収まって、代わりに湯を浴びる音が聞こえてきた。
冷蔵庫の中からコーンクリームを取り出して、鍋に入れて温める。湯気が立つまで、少しチューハイでも開けて喉を潤した。すぐに酔いが回ってくる。
溢歌にいろいろ訊くのも、何かどうでもよくなってきた。あいつがそばにいるだけで、それだけで十分な気がしたから。
ただ、あの岩場で気付いてしまった事――俺は溢歌が好きなんだって事がずっと胸に引っかかってしょうがない。
つい昨日、愁の事が好きって気付いたばっかりじゃないか。
何二股かけてるんだ、俺は!?
――とはいえ、二人に対する感情は全く別物だって事はわかってる。
愁は俺に尽くしてくれてる。その小さな体で、一生懸命俺の事を見てくれてる健気な奴。だから俺は、その身体をぎゅっと抱き締めてやろうと思う。
すると溢歌は?
溢歌は俺に尽くしてくれてるわけでも何でもない。むしろ突っかかってくる。
いろいろ考えてみたけど、上手く言葉にできない。
もしかして、溢歌の言う通りなのかなって思ったりする。
鏡に映る自分の残りの部分。月の表と裏側みたいなもの。そこの本棚に置いてある絵本の言葉を借りて言うなら、不完全な自分のかけら。
二つが揃って、初めて一つになれる。
そう考えると、自然と自分の感情に納得がいく。
今だって、まるで溢歌と暮らしてるのが当然のように感じている。昨日までそこにいたのは愁だったのに。
愁が家に来た時は、いつもびくびくしていた。いつ、愁を怒らせるのか、泣かせるのか。感情が、考え方がはまらない部分があるのは当たり前で、出っ張った部分がいつぶつかり合って嫌な思いをするのか、そればかり考えていた。
なのに溢歌とは、ぴったり合いそうな気がしてくる。いくらぶつかり合っても、すっぽり元の鞘に収まるような。どこまでも自然なんだ。
「ねえねえ、黄昏クーン」
湯気の立つ鍋を眺めてると、風呂場から溢歌の俺を呼ぶ声が聞こえた。火を止めて、風呂場の前に行く。扉の前に置いてあるカゴの中に溢歌の着てた黒のワンピースが折り畳まれてて、思わず音を立てて唾を飲みこんでしまった。
「何」
「一緒に入らない?」
「脱いだ奴、洗濯機の中に入れとくからな」
「ぶー」
聞かなかった振りをして、カゴの中の服を洗濯機の中に放りこむ。溢歌は頬を膨らませてたけど、構わず無視する事にした。
これが愁だったら、俺はしばらく試行錯誤の末、一緒に入ってたかもしれない。その光景を想像して、思わず立ち眩みしてしまった。
できあがったコーンクリームを用意した二つのカップに入れる。それを両手に持って、俺は風呂場のドアを足で叩く。
「一緒に入る気になった?」
湯船につかる音の聞こえる浴槽から、溢歌の甘ったるい声が響いた。
「バカ、コーンクリーム持ってきてやったんだ。開けていいか?」
「覗かないでね」
言ってる事が180度違う。
俺は苦笑しながら足でドアを開けた。中から湯気が溢れ出てきて、少し怯んでしまう。換気扇すらつけてないらしい。
溢歌は蓋の半分閉じた浴槽から顔を出していた。ウェーブのかかった髪は水気を帯びてうなじに貼りついてる。その姿を見ただけで、俺は顔を赤らめてしまった。湯気で溢歌が俺の動揺に気付いてくれない事を祈る。
「はい、これ」
浴槽の蓋の上に左手のカップを置いて、すぐさまドアを閉めようとする。
「何照れてるの?」
すると、くすくす溢歌が笑ってる。
「水が外に跳ねるから閉めようとしただけだ」
「開けててもいいのに。そこにたそが座ったら大丈夫じゃない」
ドアの隙間から、溢歌がにんまりと笑ってる。俺はしょうがなくドアを開けて、背中を溢歌に向けて段差の部分へ腰かけた。少し濡れてるせいか、尻に水滴が染みこむ。
「はーごくらくごくらく」
コーンクリームをすすって、溢歌はオヤジ臭い至福の声を上げる。さっきまで部屋の隅でうずくまって頑なに風呂に入るのを嫌がってたのはどこのどいつだ。
愁と違って、こいつといると調子が狂うな。
俺も黙ってコーンクリームをすする。俺も身体を冷やしてたから、喉を通って全身に温もりが広がる様は本当に天国だった。溢歌が出たら、後で俺も風呂に入ろう。
「ねえ……」
背中から、湯の跳ねる音と一緒に大人びた妖艶な声が聞こえた。背筋を指で撫でられてる感じがして、身体が小刻みに震える。
「一緒に入る気はないからな」
俺が強情ばると、溢歌の笑い声が聞こえてきた。
「違うってば。どうして、何も訊かないのかなって」
まさか溢歌のほうから切り出してくるとは思わなかった。
「……訊いても一緒だって思ったから」
俺はそう吐き捨てて、カップに口をつける。その熱さに唇が火傷しそうだ。
「一緒じゃないわ。知ってるのと知らないのとじゃ、その人の気持ちは大きく変わるもの」
俺に諭すように溢歌は言って、大きく息を吸った。次の瞬間水面が派手な音を立てる。少しだけ振り向いてみると、溢歌が浴槽に潜っていた。水の中から顔を出すと同時に、俺は何事もなかったようにまた背中を向ける。
「知りたくないわけじゃないでしょう?」
「……むしろ知りたい」
溢歌の誘惑に、俺は正直に胸の内を明かした。溢歌は楽しそうに鼻を鳴らす。こっちはちっとも楽しくない。
「それなら、一番たそが知りたがってることを教えてあげる」
いつになく真剣な溢歌の声色に、全身に緊張が走る。溢歌が次に口を開くまでの時間、俺は自分の心臓の鼓動しか耳に聞こえなかった。
「したよ、あの子と。」
俺は手に持っていたカップを離して、後を振り返った。陶器のカップが音を立てて床に転がる。溢歌は浴槽からほんの少し顔を出して、水面にじっと視線を落としている。
「SEXしたの。あの後。たそに青空クンとキスしてるところ見られた後。」
溢歌は顔を上げて俺の目を見て、はっきりとした口調で、一言一言をじっくり噛み締めるように言った。
俺の中で、何かが激しい音を立てて崩れていく。
初めて出会った時の溢歌の顔が浮かぶ。悪戯っ子のように無邪気な笑顔、ヒステリックに怒った顔、迷子になった子供のような泣き顔、娼婦のような魔性の微笑み、そして俺が最初に溢歌をはっきりと見た時の、泣きたくなるほど胸を掻きむしられる切なげな表情。
青空の顔が一緒に浮かんでこなかったのはどうしてだろう?
「どうしたの?あれだけ誘ってもちっとも乗ってくれなかったくせに」
少し拗ねるような口調で溢歌は俺を突き放す。
違う。
抱きたくなかったんだ、おまえを。
一度でも抱いてしまったら、そのまま風に溶けていってしまいそうで。妖精の国に帰って行ってしまいそうで。
俺の目の前からおまえが消えていく姿を見たくなかったんだ。
両の歯を砕けそうなほど強く噛み締めて、俺は拳を横のドアに叩きつけた。溢歌が驚いて、水面に音を立てる。
「ちがう……」
「何が違うの?」
俺が漏らした言葉に、溢歌はすぐさま横槍を入れてくる。
「私の裸を一度も正面から見たことないくせして、どうしてそんなに悔しがるの?それなら青空クンに寝取られる前に抱けばよかったじゃない、私の身体を。どうせ、SEXしたいなんて最初から思ってなかったんでしょう?」
その言葉に俺は切れた。
「おまえに俺の気持ちなんてわかるか!!」
自分でも信じられないくらいに俺は怒り狂っていた。溢歌はそんな俺を冷ややかな目で見つめてる。少女の面影は全くなくて、肝の据わった大人の女性の顔をしている。
「わからないわ」
溢歌は俺に冷酷に、絶望的で残酷な言葉を告げた。
「わかるわけないでしょう?だって私とあなたは違うニンゲンだもの」
「おまえ、俺のこと鏡みたいだって自分で……!」
猛然と反論する俺の言葉を最後まで聞かずに、溢歌は更に叩きつけてくる。
「鏡は所詮鏡。いくら綺麗に混じり合えても、あなたと私は違う人間なの」
わかってる。そんなこと、わかりきってる、そんなこと!
ユートピアが存在しないんだって、みんな違う人間だからなんだよ!
頭ではわかってるけどそれでも心は認めようとしない。だから俺は溢歌に反論しようと、思いつくままに理由を並べ立てる。
「まだほんのちょっとしか会ってない女の子とSEXできるか!?」
「それはあなたの言い分。時間なんて関係ないわ。援助交際だったら名前すら知らない人間と肌を重ねるし、お金で。それは例外の一つだけれど、基本はどれだけ相手のことを好きになるか、それだけのこと。青空クンと会ったのもあの時が初めてだもの」
「じゃあおまえはあいつの事が好きなのか!?」
「いつまで経っても抱いてくれない黄昏クンよりはね。私ずっと待ってたのに、雨の日も、生理の日も。あなたと最後に会った日からずっと、毎日夜が来ると傘を差して、痛むおなかを押さえて、あそこでずっと待ってた。なのに来てくれなかった。わかる、この気持ち!?」
「……好きだったのか?俺を……」
「過去形じゃないわ。今も好き。でも、その形は水面のように変わるもの」
溢歌はあっさりと俺に告白して、浴槽の湯を片手で掬い上げる。そのほとんどは掌から零れて、水面に還っていく。そして掌に残った分を、俺目がけて軽くかけてきた。俺はそれを避けようとしないで、身体に浴びる。
「……混ざり合えたのかよ」
俺は震える声も隠そうとしないで、独り言のように小さく呟く。
「何?聞こえないわ」
「青空とはぐちゃぐちゃになるまで混ざり合えたのかよ!」
俺は悲しみを全て怒りに変えて絶叫した。
沈黙が響き渡る。
浴槽の音も、二人の呼吸も、自分の心臓の音も聞こえない、静寂。
そして。
溢歌は涙を流した。
「あ……」
溢歌の頬を、一筋の涙が伝っていく。俺は茫然と、その様を見ていた。
「――わからないわ。だって私、もうとっくの昔に壊れてるんだもの――」
次の瞬間、糸が切れたように溢歌は大声で泣き始めた。両手で顔を押さえて、赤子のように泣きじゃくる。大粒の涙が掌から零れて、湯船に音もなく消えていく。
俺はこれ以上溢歌の泣く姿を見てられなくなって、風呂場の扉を閉めた。
床に転がったカップを拾う。幸いひびは入ってなさそうだった。まだ半分以上残ってたコーンクリームが床に零れてる。洗面所の下に置いてあったぞうきんをそこに被せて、俺はキッチンへ戻った。
カップを流し台に入れて、冷蔵庫を開ける。500mmの缶ビールを取り出して、一気飲みした。口内に麦の苦味が広がっていく。
途中何度も戻しそうになるのを堪えて、全部飲み干した。
空き缶を捨てて、千鳥足で自分の部屋まで歩いて、ベッドに身を投げる。
ここにいても、溢歌の泣き声は届いてきた。胸を抉られるその声に必死に耳を塞ごうと、シーツを頭に被せてくるまる。
酒が十分入って、眠気が増してくる。
もう、何も考えたくない。この世界に、この現実にいるのがたまらなく嫌だ。
でも、それでも明日はやってくる。
絶望的な気分に駆られながら、俺は数分前の溢歌の涙を思い出す。
「……最低だ、俺って。」
俺は何も慰めの言葉をかけてやれなかった。
何も。