→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   032.うそうそほんと

 キッチンから漂ってくるいい匂いが鼻について、俺は目を覚ました。
 それこそ物心のつかない子供の頃に、こうした想い出があったような気もする。凄く懐かしい感覚に包まれて、そのままもう一度夢の中へ戻りたくなる。
「黄昏クン、朝ごはんできたわよ」
「おう」
 目覚めの誘いに、俺は何も考えないで返事をした。
 しばしの沈黙。
 眠ってた思考回路が現在の状況を再認識した後、俺はシーツを跳ねのけて飛び起きた。首を激しく動かして周囲を見回す。
「お、起きた起きた」
 溢歌がキッチンから顔を出してきた。一発で眠りから覚めた俺を見て微笑んでる。
 そこから更に昨日の事を思い出すまで3秒かかった。
 頭から一気に血の気が引いていく。でも溢歌は、それが夢だったとでも言わんばかりに無邪気な表情を見せている。
 俺は尋ねてみようかなと思ったけど、またぶり返して口論するのも嫌だったからこっちもいつもと変わらないように努めようと決めた。
「あまりに何気ないから素で返事しちまったじゃないか……」
 多少酒の残ってるぐらぐらする頭を押さえて、俺はTVの上に置いてあったデジタル時計を見た。蛍光緑の文字は、07:12を差してる。
「こんなに早起きしたのは何年振りだ……?」
 愚痴りながらベッドから出ると、寝た時と着てる服が違った。白地のTシャツと黒のアンダーウェア。下着まで変わってる。
 その事実が一体何を表してるのかに気付いた俺は真っ赤になった。愁にもこんな事してもらった覚えはないのに、全く……
「人肌恋しくなったから、ね」
 平然とした表情でさらりと言う溢歌。俺は慌てて下着の中を覗きこんだ。
「……入れた?」
「そこまで獰猛じゃないわ、私も。面白いからしばらく楽しんだけど」
 妖しげな光の宿った目で小さく微笑んで、溢歌は部屋を出て行った。今の台詞はどういう意味だ?想像するだけで、耳の先まで赤くなる。何だか安心したような、損したような変な気分だった。
「材料が適当にあったから作ってみたの」
 ガスコンロの前に戻る溢歌の後姿を眺めながら、俺もキッチンに入る。するとテーブルの上が、これぞ日本の朝ご飯という食卓と化していた。
 とことん和食。
 愁と一緒に朝食べる時だって、冷凍ピザか食パンなのに。人間が違うとこうも違うのかってある意味感心、ある意味呆れた。
「待ってて、あと少しで味噌汁できるから」
 俺が目を覚ました匂いはどうやらこれらしい。ガスコンロの鍋から湯気が漂ってる。
 溢歌はお玉で中身を掬って、手もとの小皿に少しだけ入れた。
「味見」
 そして俺にその皿を差し出してくる。俺は何も言わずに受け取って、味見してみた。
「薄い」
「私の家じゃこれが普通なのっ」
 わざと苦い顔で突き放すように言うと、溢歌は膨れっ面で言い張った。
 何はともあれ、こんなふうにまともに朝食を食べれるのは嬉しい。それ以上は望まなかったから、俺は深く追求しないで席に着いた。
 しばらくすると溢歌はガスコンロの火を止めて、茶碗に味噌汁を掬っていく。その後姿を眺めてると、どこか優しい気持ちになれた。
 溢歌は俺が洋服入れの奥に閉まっておいたパジャマを着てる。そう言えば愁が着替えを置いて行かないから、何も着る物がないんだったか。一瞬素肌にYシャツっていう下品な想像をしてしまったけど、すぐさまその邪念を振り払う。どうやら俺は健全な19歳男子のようだ。
 溢歌が持ってきた味噌汁をテーブルの上に並べると、食卓が揃う。椅子に座って食前の作法をきちんとする溢歌にならって、俺もしょうがなく両手を口の前で合わせた。
 食べる。
 美味い。
 たった二言で終わってしまうけども、作るのに相当手馴れてるのか、どれも水準以上の出来だ。まさか家のオブジェと化している炊飯器まで再生するとは思わなかった。
 溢歌が毎朝こんなふうに朝食を作ってくれるなら、早起きしてもいいかもしれない。なんて思ってしまった俺は、もう昔の面倒臭がりな自分じゃないんだろうな。
「なあ、おまえいつもこんな事してるのか?」
「そうよ、どうして?当たり前じゃない、自分でごはん作るの」
「おまえ、いい奥さんになれるぞ」
「貰ってくれる?」
「どあほう」 
 俺は冷静にツッコミを返して味噌汁をすする。溢歌は顔を膨らまして頬杖をついてるけど、あえて無視する。
「なあ……一つ訊いていいか?」
「また泣かす気?」
 俺が断ると、溢歌は間髪入れずに返して来た。するとやっぱり、昨日の事は夢じゃなかったんだって改めて自覚する。
 どこまでも自分が嫌になっていく。
 なるべく表情に出さないようにしてるけど、きっと目の前の溢歌にはバレバレなんだろう。みんなに普段から嘘つけない顔してるって言われてるし、感情を押さえるのがどうも苦手だ。
 俺は昨日の二の舞にならないように、恐る恐る訊いてみた。
「おまえ……昨日、ずっと俺を待ってたって言ってたよな」
 溢歌は箸を口に運ぶ手を止めて、上目で俺を見てくる。怯むのをぐっと堪えて、俺は言葉を続けた。
「あの岩場で、雨の日も、生理のもって。俺、おまえの言葉を信じて……一度も行かなかった。悪い事したな、ごめん」
 土下座したいぐらい俺は罪悪感に襲われていた。俺は自分の事ばっかりいつもいつも考えてて、溢歌の気持ちを一つも考えてやれないまま愁と家でただれていたんだ。
 情けない。
 本当に溢歌に会いたいなら、雨なんて気にしないで岩場に行けばよかったんだ。なのにそうしなかった。愁がそばにいたからじゃない。ただ、自分の意志が弱かっただけの話だ。
 宙ぶらりんになってた気持ちを放っておいて。
 顔もまともに見れないでいると、溢歌は平然と食卓に箸を運んでる。
「何言ってるの?冗談よ冗談」
 は?
 溢歌はあっけらかんと言った。こっちが茫然としてる隙に俺の皿に手を出してきて、卵焼きをつまんでひょいと口の中に入れる。俺は怒る以前に頭の中が真っ白になってて、次の言葉が出てこなかった。
「あっさり他人を見限るような私がそんなことするわけないじゃない。青空クンと寝たのは本当だけど、後は全部嘘。嘘」
 『嘘』っておまえ、そんなわけないだろう?あれだけ真剣な顔で俺に反論してたくせに。
「それが本当かどうかなんて、私にしかわからないわ。その本人が言ってるんだから、嘘」
「自分に嘘なんていくらでもつけるじゃないか」
 そう、自分の気持ちを偽るなんて簡単にできる。
 俺もずっと本心に目を背けて唄うのをやめてたし、他人と繋がりたいって思いながら傷つくのが嫌でずっとベッドの上で独りくたばっていた。
 でも、それだとその場凌ぎで欲望は満たされるけど、心は乾いたまま。だからまた、繰り返し繰り返し問題に直面してはちっとも学習しないで過ちを続ける。
 その悪循環から抜け出すきっかけを作ってくれた溢歌だからこそ、俺は引き下がれない。
「嘘で真実を塗り固められることはできるわ」
 どこか物憂げな表情で、溢歌は呟く。そうやって生きていく自分のを肯定してるかのように。
「でもそれが本当だったって事実は変わらないだろ?」
「……それでも、黄昏クンに言った事は嘘なの。変な期待させて悪かったわね」
 肩にかかった髪を鬱陶しそうに払いのけて、溢歌は食事を続ける。
「俺の事が好きなのも?」
 俺は溢歌の目をじっと見据えて訊いた。色素の薄い溢歌の瞳に俺の顔が映ってる。
「自分で考えなさいよ、ばか……」
 溢歌は目を伏せて拗ねるように小さく呟いて、手元に置いてあるグラスを傾けた。
 和食に……グラス?
「おまえ、もしかしてそれ……」
 嫌な予感がして、俺は溢歌の手の中にあるグラスに入った赤色の液体を指差す。すると溢歌はにんまりと笑って、グラスの中身を一気に飲み干した。
「黄昏クンだって飲んでるでしょ?お酒なんて飲んだことないけど、中々いけるじゃない」
 未成年はお酒を飲んじゃいけません。俺もだけど。
「没収」
 俺は溢歌の隣の椅子に置いてあったワインを戸棚にしまう。後で溢歌がブーイングを飛ばしてるけど、耳の遠い老人の振りを貫き通す。
「ごちそうさま」
 その後は無言で素早くご飯を食べて、空になった食器を流し台に放りこんだ。おかわりを進めてくる溢歌にやんわりと断って、もう一度ベッドに戻る。俺は基本的に小食だし、腹も一杯になったのでまた眠気が襲ってきた。ベッドに豪快に倒れこむと、キッチンから溢歌の盛大なため息が聞こえてきた。
「っ」
 そのまま夢の中へ旅立とうとした時、恐ろしい考えが頭の中に浮かんで俺は飛び起きた。
 目が覚めたら溢歌がいない、そんな気がしたんだ。
 よくよく考えて見れば、こうして俺の家で朝食を作ってくれてる事さえ奇跡のように思える。いつ出て行ってもおかしくない、そんな状況だったのに。
 それとも溢歌は、どこにも帰りたくないんだろうか?
『連れていって』
 今までいた場所はもう嫌なんだろうか?
 そこで培ってきた自分の全てを捨てて、違う自分になりたいんだろうか?
『どこか遠くに連れていってよ』 
 全ての想い出を捨てて、楽になりたいのか?
 別に俺は溢歌の考えがそうだとしても、咎める気はない。俺だって今までずっと逃げてる人生を送ってるから反論する資格もさらさらないし、もし一緒に逃げたいんだったら俺も手を貸してやりたい。
 だからとりあえず真っ先に、溢歌を俺の家に連れて来たのかもしれない。
「なあ……」
「今度は何?」
 俺がキッチンに戻って話しかけようとすると、溢歌が部屋に入ってきて不機嫌な顔で突っかかってきた。
「大丈夫、寝てる間にどこかに行ったりしないから」
 俺の訊こうとした答えを見透かしたように言って、溢歌はベッドの上に転がりこむ。シーツにくるまって顔を押し付けて、こっちに視線を送りながら染みついた俺の匂いを嗅ぐ。 そのあからさまで挑発的な行為がやけに淫靡でどぎまぎしたけど、『君子危うきに近づからず』の諺にあるように、俺は気にしない振りをして押入からもう一枚のシーツを取り出して、壁際のソファの上で横になった。溢歌も腹が膨れて眠いのか、ごろごろ猫のようにベッドの上で転がってる。
「帰らないのか?」
 眠気の襲う頭でうとうとしながら、尻をこっちに向けてうつ伏せにくたばってる溢歌に尋ねてみる。
「帰りたくないの」
 突っ張って言い返してくる溢歌。俺は一向に構わないしむしろ喜ばしいんだけど、愁が絶対に納得してくれるわけがない。
 ソファのそばにある充電器にささったままの携帯には案の定、着信履歴が残ってた。留守番センターに確認してみると、愁の伝言が入ってる。やっぱり今日の夕方に来るらしい。仲直りして以来、毎日来てるような気がしなくもない。前は一週間に1、2度来るくらいだったのに。
「じゃあ、いつまでいる気なんだ?」
「たそがまた別の遠いところへ連れて行ってくれるまで」
 溢歌はまたとんでもない注文を俺につけてくる。青空に身柄を引き渡してもいいんじゃないかって一瞬思えたけど、さすがに気分が悪いのですぐにその考えを打ち払った。
「おまえ、俺の事使い勝手のいい人間だって思ってないか?」
「68%」
 よくわからない受け答えをする溢歌に、俺はため息をしかつけない。
「でも、このままじゃ着る服すらないしな……どうしたもんかな」
「自分で服買うくらいのお金ならあるわ」
「おい……本気でずっとここにいるつもりか?」
 今の溢歌は家を飛び出してきた子供と変わらない。こいつの家庭事情なんて深く訊こうなんて思わないけど、このまま居着いてもらうのはそれはそれで問題だ。
「悪い?」
 溢歌は寝転がったままベッドから抜け出して、俺のほうへ床を這いつくばってにじり寄ってくる。サイズの合わないパジャマの胸元から白い肌が覗いてるのが俺の薄目に入る。
 下着のない黒のワンピースといい、今の姿といい、男を挑発しているようにしか見えない、こいつの着こなし方は。俺はそんな溢歌の妖艶な笑みで誘ってくるのを見てると、なぜか逆に興冷めしてしまうんだけども。
 まるで相手にしてない俺に気付いて、溢歌は眉を吊り上げてぽかぽか拳を振り下ろしてくる。俺は無視してシーツにくるまった。
「別に悪くないけど……」
 俺が言い淀んでると、溢歌はしたり顔でお互いの唇が触れ合うくらい身体を近づけてきた。
「わかった、彼女でもいるんでしょ?」
「なっ……!?」
 言葉に詰まってうろたえてる俺に、図星とばかりに溢歌は鼻高々に胸を張る。
「これだけルックスが良くてバンドのヴォーカルやってるんだから、それこそ彼女の4人や5人はいるんでしょうなあ」
 口元を押さえて、急にオヤジ臭い下卑な笑いを浮かべる溢歌。本当にころころと性格や表情を変えるその姿に敬意さえ覚えてしまう。
「いるか、バカ。バンドの世話をしてくれる子とかいるけど、全然そんなんじゃないし」
「それなら身の回りの世話をしてくれる子は?」
 どうでもいいけど、俺の心の中を何度も何度も覗いてくるのはやめてくれないか?
 愁の事を隠し切れるわけもないから、俺はしょうがなくぶっきらぼうに頷いた。
「同棲?」
 とんでもない事をさらりと言いのけるなこいつは。
 一瞬脳裏に『通い妻』なる単語が浮かんだけど、すぐに消去した。
「違う違う。高校生だぞ、あいつまだ」
 言ってしまってから、後悔した。口に手を当てて固まってる俺の頬を、溢歌が悪戯っ子の笑みを浮かべながら指で突っついてくる。
「……まあ、今は家に置いててやってもいいけど。服はあいつに何枚か貸してもらえば大丈夫だし。それにおまえ……」
 歌が嫌いなんだろ?
 後の台詞は、口から出てこなかった。月夜の下で見せた涙をまた見たくなかったから。
 溢歌がここにいれば、絶対に唄と関る機会が訪れてしまう。今の俺は歌を唄う事ができないけど、俺の今の生活が音楽と、バンドと共にある事には変わりない。その時に溢歌が俺のそばから離れていってしまうんじゃないかって危惧してしまう。
 昨日の夜、夜の岩場で独りうずくまってたあの背中を思い出す。
 俺が行かなかったら、そのまま身投げしてたんじゃないかって思えてならない。
 今の溢歌は凧だ。上空の乱気流に呑まれて、今にもちぎれそうな糸で必死にしがみついてる、凧。慎重に扱わないとあっという間に風にさらわれてしまう。強がってるのかわからないけど、自分が親とはぐれた迷子のようにひとりぼっちだって寂しがってるに違いない。俺も独りでベッドの上でくたばってた時期があるから、その気持ちはわからなくもない。ただ、俺の場合は孤独に慣れ過ぎて何とも思わなくなってしまったけれど。
 もし今ここで、俺が溢歌に唄えなくなった事を告白したら、どう思うんだろうか?
 仲間ができたと思って安心するのか?唄えなくなった俺を嘲笑うのか?それとも意外にも涙を流して同情してくれるのか?
 どちらにしても、溢歌の心を落ち着かせてやる事ぐらいはできるかもしれない。唄えなくなったのはこいつがきっかけだったのに、憎しみはちっとも浮かんでこなかった。
「なあ、溢……」
 俺が意を決して告げようとした時、目を閉じた溢歌が綿埃のように俺の上へ被さってきた。慌ててると、そのまま全身の力の抜けた身体がずるずると床に崩れていく。
「ごめんなさい……眠る……」
 うわ言のように呟いて、溢歌はすぐさま寝息を立てた。さっきまでキッチンでてきぱき動いてたのが嘘のように。
 ワインで酔いが回ったのか、それとも疲れ切ってる身体を無理矢理引きずって俺のために朝食を作ってくれたのか。
 まさか、溢歌がそんな相手に気を遣う事をしてくれるわけないだろう。きっとアルコールに慣れてないんだ。
 俺は勝手にそう納得して、寝てる溢歌を両手で抱えてベッドの上に寝かせてやった。寝顔は起きてる時と違って可愛いんだけど。悪戯っ子や妖艶な表情は影を潜めて、どこにでもいる16歳の少女の顔で眠りについてる。
 シーツをかけてやろうとすると、溢歌が俺の腕を掴んできた。起こしたのかと悪い気になったけど、どうやら無意識らしい。
 俺はソファで寝ようって思ってたけど、溢歌と一緒に眠る事にした。別にやましい気持ちなんて一つもない。ただ、溢歌のそばに誰かいた方がいいんじゃないかって思えただけ。
 シーツに包まって、肩を並べて眠る。俺は自分の右手を、溢歌の左手にそっと重ねた。
 しっかりと握る。
 溢歌の体温を肌で感じる。
 そこで俺は初めて、心の底からこの少女が人間なんだなって思えた。
 バカだって思う人間がいるかもしれない。でも、今まで俺に見せてくれた表情は全部、月の妖精のものだったんだ。
 それがわかっただけでも俺はとても安心できて、一気に夢の中へ落ちていった。
 溢歌の涙に気付く事なく。


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