→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   033.修羅場5秒前

「マジかよ……」
 俺は頭を抱えた。
 溢歌がいない。
 どこかへ消えてしまった。
 革ズボンとYシャツと革靴が1セット揃って消失してる。溢歌が昨日来ていた俺のジャケットもない。
 そして、テーブルに書置きが一枚。
『夜には戻ってくるよよよよーんよーんよーん by溢歌嬢 フォー たそ』
 よくわからない遊び心満載の文章が不釣合いな、丁寧な書体で書かれてる。
 とりあえず、今の俺にはこれを信じるしかない。
 近頃いろいろありすぎて心も身体も疲れてたせいか、夕方までぐっすり眠ってしまった。窓の外に広がる広大な空はオレンジ色に姿を移し変えて、ここから見える水海の観覧車は西日を浴びて輝いている。ベランダに出ると冷たい風が吹き抜けて、マンションの真下に広がる薄れた緑の木々が音を立てて揺れている。
 すっかり秋になってしまったなって痛感する。
 夏は終わって、季節が一巡りしないとまたやって来ない。順番からして次に訪れるのは晩秋、そして冬。春はまだまだ遠い。
 今年の俺は、訪れる季節を切り抜けられるのか?
 ぼんやりと、そんな事を考えてしまう。
 高校を中退した秋、ここに引っ越してきて最初の秋。
 俺はその間、何もする事ができなかった。
 思春期の多感な時期に、家に篭って孤独でいるのが耐えられなかった。いろんな事を一人で考え過ぎて、抱え切れなくなった。街に出て気を紛らわしてもそれが一時凌ぎなんだって事実は遊んでる最中もずっと頭の中にこびりついてたし、本を読んだりCDを聴いたりして他人の様々な世界や考え方に触れたら、それこそ一晩中自分の考えと他人の考えを照らし合わせて頭を回転させ続けたり。
 晩秋を過ぎて冬になるまで、俺はそれを続けてた。何も考えないでベッドの上でくたばるだけでも時間が過ぎていく事を覚えるまで。
 その間、それこそいつ死んでもいいように思ってた。最初の頃はわけもわからない絶望感に捉われて「死にたい」だとか「誰か俺を殺してくれ」だとか考えてた。強盗でも入ってきて、俺と取っ組み合いになって刺してくれないかな、とか、街を歩いてる時に道に飛び出した仔猫がトラックに跳ねられそうになるのを見て、それを助けようと飛び出して代わりに跳ねられるのもいいなとか思ってた。それだけでも、俺が生まれてきた意味はあるんだって思いたかった。
 時間が経つとその気持ちはだんだん変化してきて、「このまま生きててもここで死んでも大して変わらないんじゃないかな、俺」なんて思えてきた。生きる事にも死ぬ事にも意味がない――自分がこの現実にとって不要な存在な気がした。
 誰も周りにいない。両親もいない。学校も辞めた。友達なんて俺の家すら知らない。
 でもそれも結局、自分で選んだんだ。孤独を、一人ぼっちを選んだのは自分だ。
 別に後悔はしてなかった。自分の選んだ道が間違ってるだなんて思わなかったし、誰も歩んでないだろう生き方をしてる自分がほんの少しだけ誇らしく思えた。
 ただ、意味が欲しかった。
 自分がここにいる意味が。
 生きていていい理由が。
 それがわからない。
 いくら考えても、答えが出ない。丸一日考えても答えが出ない。考えれば考えるたびに俺は絶望していった。
 自殺してもよかった。
 ベランダから飛び降りるだなんて簡単だ。自分の気持ちを無視して、ぽんと一歩足を踏み出せばいい。それだけの事なんだから。
 でも、できなかった。
 できなかったんじゃなく、やらなかったって言ったほうが正しいか。
 意味を探しながら生きるのはとてもとても苦しかったけど、それで命を絶とうなんて思わなかった。俺は今自分が生きてる意味さえ見つかればそれでよかったんだから。
 溢歌はあの岩場から、俺の目の前であっさりと海に身投げした。あいつは今、俺が悩み苦しみ抜いてた時期と同じ年齢だ。
 あいつは生きる意味を求めてるのか?俺と同じ考えで苦しんでるのか?それとも、俺には全く想像もつかない絶望を味わってるのか、考える事を諦めてるのか?
 それは全然わからないし、俺が土足で踏みこんでいい場所じゃない。ただ、一人で絶望してただけの俺の轍を踏ませたくない。俺はあの時一人ぼっちだったけど、今の溢歌にはそばに俺がいる。
 助けてやりたい。
 ひどく身勝手な考え方だって事は百も承知だ。そんな自分の得にもならない考え以外に、俺が溢歌を助けて初めて満たされる欲望が山のようにある。そこに蓋をしようなんて思ってもないし、それが至極当然のように思ってる。
 これが3年前なら、汚れてる自分が醜くて醜くて情けなく思えて、差し伸べようとしている手を引っこめてしまってただろう。
 俺が3年間に学んだのは、それだった。
 どれだけ自分が汚れてたって、それを隠して生きる事なんてできない。
 誰かが「人間は生まれた時から罪を背負っている」って言った。それが本当かどうかは別にして、俺は生きるために他人の手垢で自分の心が汚れる事は当然だと思う。
 でも、それを心の底から認めたいだなんて思わないけれど。その想いが、俺がユートピアを求める核なんだって思う。
 汚れる事に慣れてしまったけれど、そんな自分を肯定する気にはなれない。 
 俺がいろいろ考える事をやめてしまったからと言って、答えを探すのを諦めたわけじゃない。だからこそ俺は青空の誘いを受けてステージに立った。
 あそこなら、自分の生きてる意味がいつの日か見つけられるような気がして。
 あれから毎年この時期になると、眠ってた思考回路が作動する。自分の存在意義を見つけろと心が叫ぶ。今まで結論さえ出なかった様々な疑問に終止符を打てと心がわめく。俺の心を開放してくれって、魂が悲鳴を上げる。
 そして俺はあえて耳を塞いで、それを聞かない振りをし続ける。冬が訪れれば、またいつもの何もない日常に戻るんだから。そう、何もない。
 でも、今年は去年までと全然違う。
 溢歌がそばにいる。
 愁がそばにいる。
 みょーがいる、和美さんがいる。キュウがいる。
 俺はこの秋を、どう乗り越えて行くんだろう?そして過ぎ去った冬の後、俺はどうなってるんだろう?
 不安と期待が胸中で交錯する。
 でも、考えていてもいなくても時間は流れて、やがて結果が知らされる。
 なら、脅えてるだけ損ってもんだ。
 この日を精一杯生きよう。訪れる明日も、明後日も。
 そして今は、溢歌をどうするかが先決だ。
 あいつをどうやったら助けられる?
 もしかすると、俺は唄えなくなったけど、代わりに溢歌を助けてやれるようになったんじゃないか?
 胸に手を当てて、心に沈殿するメロディを探す。西日が閉じた瞼の上から刺しこんできて、視界がオレンジ一色に染まる。
 それでも、俺の心はぽっかりと穴が開いたままだ。見当たらない。
 なら、この欠けた部分に、溢歌を受け入れる事ができるんじゃないか?
 あいつは歌を嫌がってる。理由はわからないけど、それこそ自分の生傷のように。
 なら、好都合じゃないか。俺がそばにいてやったって、あいつの傷口に触れる事はない。溢歌の望んでたように、心と心が混ざり合うまで抱き合える。
 そのために身体を重ねる事を望むのなら、俺は構わない。
 俺は目を開いて、右の掌に視線を落とす。溢歌の手を握った俺の手。
 あの温もりは現実なんだ。本当なんだ。
 溢歌は月の妖精なんかじゃなく、この世界に生きてる16歳の女の子なんだ。
 それがわかった今、俺があいつの身体を拒む理由は消えていた。ただ、あいつを求める気持ちはまだ俺の心にはない。心の底から抱きたいだなんて思ってない。
 考え事をしてると、突然玄関のインターフォンが鳴った。おそらく愁だろう。
 そう、俺は愁と溢歌に求めてるものがお互いに違う。だけど、それを言葉にして早々に結論付けるのはやめておく。
 感情なんて、一秒だって同じ形を留めてないんだから。
 ベランダのガラス戸を閉めて玄関へ急ぐ。チャイムの鳴らす間隔が扉の前にいる人間が愁だって事を知らせてくれる。溢歌がいた形跡を消してから出たほうがいいかなって一瞬考えたけど、どのみち洗濯機の中にある黒のワンピースでばれてしまうし、着替えを持って来させようって思って事前に携帯に連絡を入れたんだから必要ないだろう。
 前に愁に溢歌を紹介してって言われてたけど、実際は会わせたくなかった。二人とも余計な事を口にして泥沼と化していきそうな嫌な予感がするから。
 そして不幸な事に、俺のこういう予感は必ずと言っていいほど当たる。
 溢歌が俺の目の前で身投げした時も、愁と再会した時も、そんなビジョンが明確に頭の中に浮かんでいた。予知だとかそんな超能力じみてるものじゃない。ただ、「ああ、何となくこうなるだろうな」って思った時には、現実は得てしてそういう方向へ動いていくんだ。
 それがいい事悪い事関係なしに。
 俺は今夜訪れる修羅場を想像してげんなりした。収拾がつかなくなった場合は、早々に逃げ出す事にしよう。
 玄関を開けると、膨れっ面をした愁が俺をじっと睨んでそこに立っていた。その異様な迫力に声もかけられない。
「……ごめん」
 しばらくそのまま二人立ち尽くしていた後、俺はその場の空気に耐えられなくなって頭を下げて謝った。すると愁はずかずかと玄関に入ってきて右手に提げている黒の紙袋を俺に渡す。そして無言で靴を脱いで、床を鳴らしながら部屋に上がる。
「どーしてあたしが怒られなくちゃいけないのっ!?」
 愁はいきなり振り向いて、俺を指差して怒鳴りつけてくる。俺は圧倒されながら、徐々に間合いの詰めてくる愁から後ずさった。
「二日連続だよ、二日連続!千夜さんカンカンに怒ってたよ!携帯にいくら連絡入れても出ないし、たそがせーちゃん殴っちゃったからスタジオの空気はずっと悪いし、かと言ってたそを連れ戻してきてもどうしようもないのは目に見えてたから、あたし最後までみんなの練習につき合ったんだよ!?せーちゃんなんてすっかり落ち込んじゃって元気ないし、イッコーは嫌々唄ってるし、千夜さんは言うまでもないし……キュウになんてあたし『たその専属マネージャーなんだから首輪ぐらい繋いでなさいよ』って言われるし……ここで赤根黄昏くんに質問です!あたしのこの怒りは全部どこへぶつければいーんでしょーかっ!?」
 ここで冗談なんて言ったらそれこそ殺される。
「悪かった、ごめん!次の練習は絶対出るから。その時にみんなに謝るから。ホントにごめん!悪い!」
 平謝りしてると、だんだん愁の尻に敷かれてるような気になってきた。よくもまあこれだけ迷惑をかける人間につき合ってるもんだ、愁も。
「当然!!バナナサンデー5つ分とチョコサンデー3つ分約束しないと許してあげない」
 腕を組んで顔を突っぱねる愁。ここまでこいつを怒らせたのも初めてのような気もする。昔ならここで逆に俺が切れて部屋から追い出してたんだろうけど、今はそんな気も全くなかった。だからこそ愁もこんな注文つけてくるんだろう。
 それは俺達が本当の彼氏彼女になってる証でもあった。
「おまえなあ、いくら俺が金持ってるからってふっかけすぎじゃないか?」
「ふーん、ならバイトでもすれば?嫌なら許してあげないもん」
「……働くのは嫌だから食費を削る」
「酒代を削ろうよ」
「わかった、それで妥協しよう」
「あとデート二回も追加。あそこの観覧車と水海水族館」
「……了解。」
 相当ふっかけられたような気もするけど、致し方あるまい。それに何より、愁とこんなふうに話をできるのが俺は嬉しかった。愁には迷惑極まりないだけだろうけど。
「それにしても、片づいてるね、部屋」
 愁はぐるりと部屋を見渡す。俺はどきりとした。もうとっくにバレてるのに、後ろめたい気がしてしまうのは愁に罪悪感を感じてるから?
「あたしがいなくてもちゃんとゴミ出してるんだ。えらいえらい。ようやくたそも心機一転で頑張ってくれるんだ」
 感慨深げに頷く愁。てっきり俺がゴミ袋を出したと思ってる。
 まさか、気付いてないのか?
 と、いう事は、
「その袋に着替え入れてるんだけど、一度にたくさん持って来れないから三日分だけ持ってきたよ。ちゃんとパジャマも入れてるし」
と、いう事になる。
 マズい。
 マズ過ぎる。
 今まで生きてきた中で一番マズい。
 ――愁の奴、俺と同棲する気でいやがる。
 俺はてっきり着替えを用意してくれって電話した時点で、愁は溢歌が俺の部屋に来てる事をわかってるとばかり思ってた。俺から愁の携帯に電話するなんて今まで一度もなかったし、いきなりこっちから電話を入れたら緊急事態だって事ぐらい気付くと思ってたんだけど、愁はそれを俺が心を入れ替えたって解釈してるらしい。部屋をきちんと片づけてるのも、ゴミ袋を出してるのも、食器を全部洗って戸棚に戻してるのも、全部。一昨日昨日と俺が散々みんなに迷惑かけてたのも、愁の勘違いを増幅させる原因になってるのかもしれない。まあ、溢歌がいるなんて一言も言ってない俺も悪い。
 女は盲目になった時が一番怖い。
 これはイッコーの持論で、それで昔酷い目にあったらしい。詳しくは話してくれなかったけど、あれだけ眉を細めて苦渋たっぷりに言った時のイッコーの顔は忘れようがない。
「洗濯物は干した〜?」
 洗面所から愁の声が飛んでくる。俺は喉から心臓が飛び出そうになった。全力で洗面所に駆けこむと、愁が洗濯機の蓋を開けて覗きこんでるところだった。
 俺はその時ほど死にたいと思った事はない。
 だけど、愁は顔をほころばせて蓋を閉じた。
「ちゃんと洗濯物も干してるじゃん。やるねー、たそ」
 頭を撫でようとしてくる愁をほっぽり出して、俺は猛ダッシュでベランダのガラス戸を開けて物干し竿を見た。昨日の夜に洗濯機の中に入れてあった洋服が全部干されている。さっきは考え事をしてて全然気付かなかった。
 そして、溢歌の黒ワンピースと下着が目に飛びこんできた。
 俺は速攻でその二つを取りこんで、部屋に戻る。ベッドのシーツの下にそれらを隠すと、今度は小棚の上に溢歌の書置きを置いてあるのが見えた。息つく暇もないまま、それをポケットの中にしまう。
 すると今度はソファの上に置いてあるもう一枚のシーツが目に入った。慌ててシーツを畳んで、ワンピースを更に隠蔽するために広げたシーツの上に重ねる。
「なにしてんの?」
 後から愁に声をかけられて、俺は胸が爆発しそうなほど心臓が高鳴った。ぎこちない笑いを浮かべながら、首から上だけ振り向く。
「シ、シーツを畳んでたんだ、だんだん寒くなってきたから、もう一枚出してさ。裸でシーツ一枚で寝てたんじゃ風邪ひくし、エアコン代もバカにならないから」
 俺は適当にその場凌ぎの嘘を思いつくままに並べ立てる。普段の愁なら俺の態度を見て首を傾げるんだろうけど、
「さっすがたそ。ちゃんと考えてるんだ」
素直に感心して上機嫌になっている。
 完全に盲目だった。
 こんな状態で溢歌と鉢合わせさせるわけにはいかない。愁は鼻歌を唄いながら、キッチンに戻って冷蔵庫の中を覗きこんでる。
「あれ、自分で食事つくったんだ?」
「あ、朝……じゃなくて昼に腹減ってたから適当に……」
「レシピメモに書いて置いてあったもんね。いつでも作れるようにって。おいしかった?」
「ま、まあ……」
「じゃあ、今度あたしもたその手料理食べさせてもらおっかな」
 愁は俺の気持ちとは裏腹にますます上機嫌になっていく。もうここまで来たら、本当の事なんて言えるわけがない。
 俺は足りない頭で必死に考える。どうする、どうする、どうする!?
 愁だけなら何とかなる。たまに数日でも連続で泊まっていかないかって誘うつもりだったって言えば、愁が勝手に勘違いしてただけで済む。チョコサンデー一つ追加は免れないだろうけど、愁の事はそれで解決する。
 でもそれだと溢歌を放り出してしまう事になる。まさか一緒に泊めるわけにもいかないし、今の溢歌から一日でも離れてしまえば、それこそ身投げものだ。なら青空かイッコーにでも預かってもらうか?でも青空に溢歌を会わせたくないし、イッコーにいきなり見知らぬ少女を数日泊めてやってくれって頼んだところで、ひんしゅくを買うだけに決まってる。体裁なんて気にしてる場合じゃないけど、俺が念を押してもあいつの性格なら愁に絶対告げ口するだろう。キュウは論外だし、千夜なんて携帯の番号さえ知らない。じゃあみょーにでも頼むか?ただの自爆以外の何物でもない。和美さんは?あの人の家庭事情なんて俺が知るわけないじゃないか。
 3年前の晩秋にもこれだけ一つの事柄に対して考え抜いた事はないんじゃないだろうか。俺は今、とても貴重な経験をしてる気がする。二度と経験したくないけども。
『二兎を追う者は一兎も得ず』
 こんな時に限って余計な中国の諺が頭に浮かぶ。悪いか!?一度に二人の女の子を好きになって悪いのか、神様!?
 ちょっとだけ悪い気はしたけど、俺は間違ってないと自分に言い聞かせる。言った者勝ち、意志の強い者が勝つ。
 あまりの焦り様に全身の血の気が引いていくようだ。一気に数年分歳を食った気がする。
「ねえ、聞いてる?」
「うおっ!?」
 いつの間にか目の前に愁がいて、俺は思わず奇声を上げて飛びのいてしまった。変なポーズで固まってる俺を見て、愁はくすくす笑ってる。
「今冷蔵庫見たら、あんまり食べ物入ってなかったしさ、今日はぱーっと大盤振る舞いで行こうかなって思ってるから、スーパーにでも買い物に行かない?一緒に」
「お、俺は……」
 遠慮しとくって言おうとしたけど、俺がここで断る理由なんてない。俺はいつもなら大体その場に流されて頷くか、面倒臭いから行かないって言うけども、今後者を選んだら愁が泣くのは確実だし、頑なに断る俺の態度に疑問を持つかもしれない。今ここで溢歌の事を勘付かれちゃ困る、滅茶苦茶困る。
「行くよね?」
 満面の笑顔を向けてくる愁。
 どうしてここで断る事ができよう。
 焦りと絶望と後悔と千に一つの希望を胸に秘め、俺はスーパーの野菜売り場にいた。
 気が気でない俺を連れて、愁は楽しそうに買い物を続けてる。隙を見て絶対抜け出さねば、と思った。
「恋人同士みたいだね、こーしてると」
「あ、ああ……」
 他人の目なんてどうでもいい。俺はどうやって溢歌と愁を会わせないで最良の方法を取れるかを、家を出てからここで買い物をしてる間もひたすら考えていた。
 もちろん、結論は出ていない。
 ぎこちない返事を続ける俺を照れてるもんだと愁は勘違いして微笑んでる。そりゃあこんなふうに一緒に買い物するなんてデートの時以外全然なかったから、嬉しいんだろう。こっちに愁の輝く笑顔が向けられるたび、俺はだんだん罪悪感に苛まれていく。
 人間はかくもすれ違う生物なんだって思うと、悲しくなる。違う意味で俺は泣きたかったけど。
 愁に悟られないように、ちらちらとスーパーのガラス戸の外を見る。まさか溢歌がここを通るなんて思ってないけど、一秒でも早く家に戻りたかったから。スーパーの時計はPM6:45を指していて、外は日が落ちて暗くなりつつある。
 何か口実をつけて抜け出さなくちゃいけない。いろいろどうしようか尋ねてくる愁にうわの空で返事を続けながら、買い物につき合う。ほとんど必要な物が揃ってレジに並ぶところで、俺は後ポケットから財布を取り出して一万円札を抜いた。
 と、そこでガラス戸の向こうに、見慣れた少女の顔が横切った。一瞬だったけど、見間違えるわけがない。
「ごめん、金降ろして来る!」
 俺は手の中の札を愁に手渡して、返事も聞かないままに外へ駆け出した。
 夜の商店街を猛然と駆けて行って、家路を辿る。二つ目の角を曲がったところで、ウェーブの後髪が目に飛びこんできた。
「溢歌っ!」
 ダッシュして、少女の名前を呼ぶ。俺の服を着てた溢歌は声に気付いて振り返った。虚ろな目で俺を見てたのも一瞬の事で、瞬きが終わると普段の無邪気な顔に戻っている。 
「どうしたの、たそ?そんなに慌てて」
「いいから!」
 俺は構わず溢歌の手を掴んで家路とは別の道へ引っ張っていこうとする。溢歌は乱暴に手を振り払って、俺を睨みつけた。
「どこ連れていく気?家は向こうじゃない」
「いいから、俺の言う事を聞いてくれ、頼む」
「いきなり人の腕鷲掴みにして引っ張って行って、それが人に物を頼む時のセリフ?」
 溢歌はかなりご立腹のようだった。無理もない。俺を無視してマンションに向かう溢歌を追いかけて、家に行かないように頼む。
 何だかアメリカの映画でこれと同じようなシーンを見た事があるような気がする。まさか自分がその主役になるなんて思っても見なかった。
「わかった、謝るから。ちょっとの間、いやしばらく外で待っててくれないか?」
「どうして?両親でも来てるの?」
「違う、また別の人なんだけど、あまり他人と会うのが好きじゃないんだ」
「それで、その人が帰るまで外で待っててって言うの?この寒い中」
「マンションの下でもいいから。あ、でも、もしかしたらその人、家に泊まっていくかもしれない」
「で、私は用済みだから家に帰れって?連れてきたのはあなたじゃない」
「違うって、そうじゃなくて。その人が帰ったらいつまでも家にいて構わないから。だからちょっとだけ辛抱してくれないか?三日、いや二日でいいから」
 必死に弁解する俺に、溢歌は冷たい視線を向け続ける。いつの間にか俺達はマンションの下まで来ていた。いつもの黒猫が入口で俺を出迎えている。
 俺は言わないでおこうって決めてた最終手段を口に出した。
「そんなに家に帰るのが嫌だったら、青空の家に泊めてもらえばいい」
「さっき青空クンと会ってきたばかりなのに?」
 ……え?
 茫然となってる俺を尻目に、溢歌はマンションの中に入ろうとする。
 俺は我に返って、溢歌の手を取って無理矢理隣の廃ビルとマンションの隙間へ連れこんだ。溢歌は懸命に振り解こうとしたけど、か弱い少女の力が男の俺に敵うはずもない。
 溢歌の胸倉を掴んで、マンションの壁に押し付ける。
「ちょ……何よ!大声出すから!」 
「おまえ、また青空と寝たのか?」
 俺が拳に力を入れると、溢歌は首を絞められて唸った。
「いた……苦しい、黄昏クン……」
「寝たのか!?」
「たそ?」
 俺が大声で溢歌に詰め寄ると、マンションの入口のほうから愁の俺を呼ぶ声が聞こえた。とっさに溢歌の口を塞いで、影になってる場所へ二人隠れる。
 愁がちょこんとこっちを覗きこんできたけど、すぐに首を傾げて引っこんだ。
 しばらく経って俺がため息をついてると、指に痛みが走った。
「いつまで押さえてるのよ、このばか」
 どうやら溢歌が噛んできたらしい。人指し指に歯型が残ってる。溢歌は俺の腕の中からするりと抜け出すと、乱れた髪の毛を整えて俺を睨んだ。
「なるほど、あれが他人と会うのが好きじゃないひとなんだ、ふーん」
 足元に転がってる小石を蹴飛ばして、溢歌は意味ありげに鼻をさすっている。
「私が用無しになるのもわかるわ。用無し、洋ナシ、愛媛の二十世紀梨」
 二十世紀梨は鳥取県だ。いや、そんなツッコミを入れてる場合じゃない。
 溢歌はぶつぶつ何か言いながらさっき愁の顔を出した虚空を見つめている。俺は溢歌が何か良からぬ事を企んでる気がしてならなかった。
「それなら、私は家にでも帰りますか」
 俺の予想とは裏腹に、溢歌は何気ない顔で呟いて背伸びした。 
「帰るって……本当に?」
 光があまり届かないせいか、溢歌の表情がどこか暗く見えるのは気のせいだろうか?
「だって他に行くとこないもの。反抗期の家出少女は三日坊主で家に帰る、ってね」
 溢歌は俺に笑顔を返して、マンションの前に戻る。このまま溢歌を帰していいものかどうか俺は迷った。愁とはいつでも会えるけど、溢歌は今回を逃したらもう二度と会えないかもしれない。
 もしかして俺は、大切なものを失くそうとしてるんじゃないのか?どちらかの少女は絶対に傷ついてしまう、俺のせいで。
 なら、今本当に救いを必要としてる相手のほうを選ぶのが正解なんじゃないのか?
 どっちも傷つけないで上手くいくなんて土台無理な話だったのか?
 様々な考えが頭の中で渦巻く。溢歌は振り返って俺の顔をじっと眺めている。捨てられた仔猫が拾ってくれる人間を待ち続けてる目で。
「溢……」
 俺が声をかけようとすると、溢歌はとっさにマンションの隙間へ隠れた。俺が何事かと呆然となってると、マンションの玄関から愁が姿を現した。
「たそ、お金引き出せた?」
「あ、ああ……どうしたんだ?またどこか行くのか?」
「買い忘れ。戸棚よく見たら味つけの調味料がなくってさ。すぐ戻ってくるから」
 俺に軽く手を振って、愁はサンダルでぱたぱたと夜道を駆けて行く。角を曲がったのを確認してから、溢歌がいやらしい笑顔を浮かべて戻って来た。
「らぶらぶですなあ、お代官様」
「誰がお代官様だ」
 こいつのたまに見せるオヤジ臭い部分は、誰の影響なんだろう?
 俺はため息を一つついて、マンションに入って行く。
「ほら、ワンピース返すから来いよ。着てる服は全部やるから」
 俺が顎でエレベータを差すと、溢歌は何も言わずに俺の後をついてきた。入口の前にいた黒猫が一声鳴いて、廃ビルへ姿を消していった。
「あの子の名前は?」
「藍染 愁」
「いい名前ね」
 エレベータの中で交わした言葉はこれだけだった。
 最上階で降りて、一番突き当たりの部屋へ向かう。鍵を開けて中に入ると、キッチンのテーブルの上は買い物袋でてんやわんやになっていた。
 溢歌を玄関で待たせて、俺はベッドの下に隠してたワンピースと下着を取り出して戻ってくる。愁が持ってきた紙袋の中身を全部抜き出して椅子の上に置いて、俺は溢歌の服を中に入れようとした。
「皺ついてない?」
「後でアイロンかけてくれ」
「…………」
 つむじを巻いてる溢歌を横目に服を入れて、黒の紙袋を渡す。その中をほんの少しの間覗いてたけど、軽くため息ついてから俺に笑顔を向けた。
「じゃあ、私帰るね。今までありがと。」
 まるで最後の別れのように、溢歌ははにかんで言った。俺の胸に重い痛みが走る。
「……なあ、やっぱり――」
 堪られなくなって今の気持ちを口に出そうとすると、溢歌は俺の唇にその柔らかい人差し指を当ててきた。その仕草がとても美しくて、可愛くて、悲しかった。
「元々私が無理言って連れてきてもらったんだし、これ以上甘えてられないもの」
 違う。
 俺は全然構わない。いくらでも甘えてくれていい。愁を傷つけたって構うもんか。
 だって、おまえだって本当は俺と一緒にいたいんだろ?
 溢歌はゆっくりと指を離して、その指で自分の唇をなぞった。
「気にすることないわ。愁ちゃんを泣かせないでね」
 お互いの気持ちは一緒なのに、どうしてすれ違わなけりゃいけないんだろう。
 溢歌は俺に背を向けて、扉の外に出る。その後姿が、ジャケットの下に隠れた小さな肩が震えてるのがわかる。
「バイバイ。」
 それだけ言い残して、溢歌は満面の笑顔で手を振って帰ろうとした。
「溢歌っ!」
 俺は自分の衝動を押さえられなくなって、好きな女の子の名前を呼んだ。玄関を出て、驚いた顔で固まってる溢歌に近寄る。
「――ダメじゃない、来ちゃ……ダメなのに……」
 溢歌は涙腺を緩ませて、俺を見上げる。その顔はとてもとても切なくて、俺も涙を流しそうになった。
 溢歌が目を閉じて、俺にそっと唇を近づけてくる。俺もゆっくりと目を閉じて、唇が触れ合うその時を待った。
「ちょおっと待った――――――――――っ!!」
 と、次の瞬間、突如廊下に大絶叫が響き渡った。俺達は目を開けて声の方向を振り向く。
 そこには大きく肩で息を切らした愁の姿があった。


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