034.正しい恋愛のススメ(初級編)
「…………」
こんなに気まずい食卓は初めてだ。
一触即発の空気とでも言おうか、有無を言わさぬ緊張感が室内に漂ってる。肩にプレッシャーが圧しかかってきて、その重みで今にも潰れそうだ。
テーブルの上には鍋が煮立ってる。すき焼きなんて食うのは何年振りだろう?叔父さん叔母さんの家にいる時は毎年年末になると食べてたのに、こっちに引越してきてからはすっかり疎遠になってしまった。まあ、一人で食べるすき焼きなんて美味くも何ともないと思う。
とはいえこんな空気で食べるすき焼きも味が全くわからない。噛んだものが喉を通り過ぎていく感触が残るだけだ。
長方形のテーブルの幅が狭い面(つまりお誕生日席)に俺が座ってる。そして具の入ったすき焼きの鍋が箸の届く位置に固定してあって、テーブルの残り半分には肉やら玉子やら野菜やらがわんさか置かれてる。
そしてお互いに向き合うように、左右の面に愁と溢歌がそれぞれ座っていた。
俺は二人の顔を何度も盗み見る。愁はこっちも見ないで殺してしまいそうなほど恨みの篭った視線を溢歌に送り続けて、溢歌はその眼光を何事もないように無視して箸を口と鍋に運んでる。
さっきからずっとこの調子だ。数十分前も俺は声もかけられないで、愁と溢歌が無言ですき焼きの準備を続ける様を部屋の隅で脅えながら眺めてる事しかできなかった。
これから始まるであろう修羅場を想像すると、胃が痛くなる。自分が蒔いた種とは言え、まさかここまで強烈だとは思いもよらなかった。
「たそ、入れてあげる」
溢歌が箸を止めて、俺の空になった器を見る。俺がぎこちなく手の中にある器を差し出すと、溢歌は曇り一つない満面の笑みを見せてきた。それが作り物の笑顔なのは普段の無邪気な笑顔を知っていたら一目瞭然だ。
「『たそ』って呼んでいいのはあたしだけ」
器に煮え切った肉と野菜を運ぶ溢歌に、愁は刺しか入ってない言葉を投げかける。溢歌は聞いてない振りをして、てんこもりになった器を俺に渡した。愁は相手を威嚇する狼のように溢歌を睨んで唸ってる。
キュウや和美さんだって俺の事を『たそ』って呼ぶんだけどそれは言わない約束だ。
「野菜の組み合わせが悪いわね」
溢歌はテーブルに並べられた食材を眺めながらぼそりと言った。
「嫌なら食べないでっ!」
愁が間髪入れずに肩をすくめてる溢歌に食ってかかる。今まで相手の出方を伺ってたんだろうか?
「その辺は味付けの仕方でどうとでもなるわ。私が忠告しなかったら食べられたものじゃないすき焼きができていたかもしれないけれど」
「うぐ……」
これに関しては溢歌の言う通りで、愁はすき焼きを自分で作った事がないらしくて、全く関係ない調味料とか鍋に入れようとしてた。溢歌が片言で注意するたびに言葉を詰まらせて、俺の顔を睨んできたもんだ。愁を爆発させないために俺は部屋の片隅で食卓の準備を眺めてたと言っても過言じゃない。いつ愁が包丁で溢歌の背中を刺さないかってずっとどぎまぎしてた。
愁は俺に怒りと救いの視線を送ってくる。俺はしょうがなく、
「別に俺は愁が選んだもんだったら何でも食べられるけどな」
何気ないように言って救いの手を差し伸べた。愁は輝かせた目を俺に向けた後、胸を張って鼻を鳴らす。それでも溢歌は微動だにしないで、勝ち誇ってる愁を無視して肉を食べている。
そして一言。
「今までどんな物食べされられてきたのかしら。可哀想に」
それ以上挑発するのはやめてくれ溢歌。
こいつ絶対に遊んでいやがる。
もしかして黙って俺についてきてエレベータに乗ったのも、紙袋の中を覗いてたのも、俺にキスしようとしてたのも、全部時間稼ぎだったんじゃないかって思えてくる。マンションの下で見せたあの時の意味深な顔は絶対、この状況を誘おうって考えてたんじゃないか?
最後に見せた涙が嘘だとは思わない。あの時漏らした言葉もきっと本心だろう。もし愁があと一分来るのが遅かったら、俺達は永遠に離れ離れになってたと思う。全部推測に過ぎないけど、全部俺の考えてる通りだとしたら相当無茶な賭けをしたもんだ、溢歌も。
「あたしが作ったものなら全部喜んで食べてくれるの!ね、たそ?」
愁は身を乗り出して溢歌に怒鳴ってから、俺に笑顔を向けてくる。でもその張りついた笑顔に、ここで断ったら後で承知しないからって書かれている。俺は冷や汗を垂らしながら無言で頷いた。
溢歌がここで頬杖をついてあらぬ方向を見て一言。
「次から私が全部作ってあげようかしら」
「余計なお世話っ!」
愁がテーブルを叩いて大声を上げる。その衝撃で置いてあった溢歌の器が零れて、白いYシャツに中身がかかった。
「あ、ゴメン……」
「いいからいいから。黄昏クン、流し台の布巾持ってきてくれない?」
「あ、ああ」
俺は慌てて受け答えして、布巾を持ってくる。申し訳ない顔をしてる愁に向けていた溢歌の笑顔が一瞬、俺と目線が合った時に鬼神のような表情を見せたのをしっかりと見逃さなかった。
なあ、俺、逃げ出していいか、神様?
(駄目)
見上げた天井からきっぱりと神様の言葉が返ってきたような気もするけど、幻聴だろう。
懺悔する暇もないまま、修羅場は続く。
「……第一、次に全部作ってあげるってなに!?今日からあたしとたそは一緒に暮らすんだから、横からわけのわからないひとが入ってこないで!」
「ねえ、このYシャツ後で洗濯機に入れておけばいいの?」
「聞けっ!」
汚れたYシャツの裾を指でつまんで俺に訊いて来る溢歌に、愁が物凄い形相で叫ぶ。このやり取り、みょーもやってたな。
顔は全然似てないけど、やっぱりみょーと愁は兄妹なんだなって今実感した。
「あれ、私のために着替え持ってきてくれたんじゃなかったの?」
溢歌はさっきまで紙袋に入れてあった、俺の部屋の床に置いてある着替えを眺める。
おまえ、絶対俺を陥れようとしてるだろう?
「私のためって……たそっ!!」
「はいっ!?」
阿修羅の鬼面で俺の名前を呼んだ愁に驚いて、俺は奇声を上げた。横目で溢歌を見ると、腹を抱えて笑いを堪えるのに必死になってる。
後で路地裏な。俺が生きていればの話だけど。
「いちからせつめいしてもらいましょ〜か〜」
大魔人の如くそびえ立つ愁の背中から地響きが聞こえてくる。
これ以上嘘をついててもしょうがない。俺は泣きたい気持ちを堪えながら、愁に知られたら殺される部分をはしょって手短に説明する。
「愁、前に会わせてくれって言ってたろ……?この子が溢歌、時計坂溢歌」
溢歌を指差すと、俺達二人に向けて笑顔で手を振ってきた。
「どうやって知り合ったのかとかは長くなるから今度にするけど、今、家出してるらしいんだ。着替えも何も持ってなかったから、愁に頼んで持ってきてもらおうって思って電話入れたんだけどさ」
「はぁい、家出少女でーす♪」
嬉しそうに手を上げて笑う溢歌。相手の気に障る行動を進んでやってるように見える。
俺の胸倉を掴んでる愁はジト目で俺を見てくる。いたいいたい、視線が痛い。
「それで?」
あくまでも俺の口から言わせたいらしい、愁の奴。俺は腹を括って溢歌をどうしようとしていたかをきっぱりと言った。
「家に泊めるつもりだった」
「ダメ」
一拍も置かずに愁のダメ出し。
俺は助けてもらおうと溢歌に視線を投げかける。溢歌はその直球を待ってましたと言わんばかりに、悪魔の笑顔で打ち返してきた。
「私が何日も泊めてもらって愁ちゃんが困ることなんてあるの?」
「大ありですっ!」
俺の胸倉から手を離して、本当に楽しそうに笑ってる溢歌に愁が突っかかる。
「どうして?」
「たそは私の彼氏だもんっ!」
次の瞬間、愁がいきなり俺の頭を抱えてくちづけしてきた。すき焼きの味が残った愁の唇が痛くなるほど押し当てられる。
俺は固まりながら、愁の頭で見えないその背後に広がる光景を想像して鳥肌が立った。
ゆっくりと愁の唇が離れて、放心してる俺の手を取って愁が腕を回してくる。溢歌の顔には笑みが見えてるけど、それが今作ったものなのは明らかだった。
「私があなたの彼氏に手を出すとでも思ってるわけ?」
「一つ屋根の下に若い男女二人が暮らしてたら変な気が起こるに決まってるでしょ!」
愁は足音を鳴らしながら溢歌に詰め寄って行く。
「なら3人で泊まる?夜は楽しいかもね」
溢歌はそこで初めて愁の前で妖艶な笑みを浮かべた。突然表情の変わった溢歌にたじろぐ愁は、頭から火が出るほど真っ赤になってる。俺も想像してみたけど、その光景に目が眩んでしまった。
「きゃ……却下却下却下っ!ダメ、絶対ダメーっ!!」
思わず耳を塞いでしまうほどの愁の悲鳴が部屋につんざく。よく溢歌は至近距離なのに平然な顔をしてられるもんだと感心した。それとも、こいつも盲目になってるのか。
「あ、でももしかしたらずっと泊まることになるかもね、私」
「一日でもダメっ!」
思い出したように呟く溢歌に、血管がはち切れそうなばかりに愁は怒鳴り続ける。
「どーせ子供の家出なんでしょ?家出してみたいから家出してみました、みたいな。そんなの長続きしないんだから、早く家に帰りなさいよ、早く」
愁は俺の前では決して見せない邪険な態度で溢歌を手で追い払う仕草をする。恋というのはこれほど人間を変えてしまうものなのかと思うと、俺は恐怖を覚えた。
溢歌は言い返すと思ったけど、愁の顔を見返しながら無言で黙っている。
涙。
一筋の涙が、溢歌の右頬を伝っていく。綺麗な、涙だった。
愁はそれを見て一瞬怯んだけど、堰を一つついてから溢歌に言葉を浴びせかける。
「涙を流せばいいって思ってるのかもしれないけど、たその目はごまかせてもあたしの目はごまかせないんだから。両親が心配してるんだからさっさと帰っちゃえば?着替えも持たないなんてちゃんと計画した家出じゃないんでしょ?たその家にいけしゃあしゃあと転がりこんで、迷惑かけて。家出した溢歌さんのせいで、どれだけのひとが困ってるかわかんないの?溢歌さんがたその家に泊まったら、あたしがどれだけ嫌な思いするかわかる?別に他のひとの家でも全然いいじゃないのさ。逃げる場所なんていくらでもあるでしょ?ここじゃなくてもいいじゃない。どのみち他人に迷惑かけることは変わらないけどさ」
「おい、待てって愁」
俺は荒い口調で続ける愁の腕を掴んで止めようとする。
これ以上見てられない。渋い顔をして怒鳴られ続ける溢歌も、人が変わったように厳しい表情を見せてる愁も。
「なに、止めないでよたそ」
「溢歌を連れてきたのは俺なんだ」
俺は正直に白状した。このまま続けさせても、きっと溢歌は愁に反論しないだろう。だったら俺が逃げてる場合じゃない。これ以上溢歌を傷つけさせるわけにはいかなかった。
手を払って反論しようとしてくる愁の口に手を当てて、俺は今の気持ちを口にする。
「俺も詳しい事情は知らない。それにこいつには俺と同じで両親もいない。おまえの言ってることは正論だよ、正しい。こいつが俺のそばにいたらおまえが嫌な気持ちになるもわかる。でもな、相手を傷つけようって思って喋るのって、そんなに楽しいのか?」
「……あ」
俺の言葉でようやく愁は冷静さを取り戻して、苦い顔を見せた。胸に罪悪感が広がっているんだろう。いくら好きな人のためにやった事とは言え、俺を想う気持ちだけでそれを覆い隠す事はできないようだった。
「電話で何も言わなかった俺も悪かった。素直に謝る。おまえに変な期待させて、はしゃいでる姿を見てると裏切れなくなって何も言えなくて、こいつとキスしそうなところを見られて……ごめん」
腹を掻っさばいて謝りたいぐらい、俺は申し訳ない気持ちで一杯だった。愁にも、溢歌にも。溢歌は能面のような表情を隠した顔で、目の回りを小さな手で拭ってる。
これだけ言われて何も言い返せなかったのは、どれだけ大人びた姿を見せたところでやっぱり中身が16歳の少女だからか。俺が愁を止めるのがもう少し遅かったら、きっと癇癪を起こして出て行ってただろう。
「……とりあえず……鍋食べよ。話はそれから」
場を取り繕おうと愁は小声で言って、自分の席に戻った。俺も座ってる溢歌の肩に軽く手を置いてやる。俺を見上げた溢歌の顔が、緊張が緩んだのか泣き顔になる。目尻に浮かんだ涙をそっと拭ってやって、俺も席に戻った。
3人とも言葉を交わさないまま、鍋を囲む。沈んだ部屋の空気に、俺は食べたすき焼きの味がちっともわからなかった。
永い永い食事が終わって、食器を片づける。愁は一人でやろうとしていたけど、溢歌が言葉少なに手伝おうとしてきたので、一緒に後片付けをし始めた。俺も手伝おうと思ったけど、二人にやんわりと断られる。しょうがないのでその二人の後姿を壁にもたれて眺めてると、何故だか涙が出そうになった。
「ねえ、たそ」
食後に俺の部屋で3人集まって、コーヒーを飲む。ソファのスツールに座ってた愁が顔を上げて、ベッドに腰かけてる俺に切り出してきた。
「……溢歌さん、あたしの家に連れていっていい?」
思いがけない台詞に、俺と溢歌は驚いて愁の顔を見た。
「何を冗談……」
ソファに座ってる溢歌が笑い飛ばそうとするのを止めて、愁は続ける。
「あたしの家には今、和美さんと兄貴しかいないしさ。部屋なら余ってるし。服ならあたしのだけじゃなくて和美さんのもあるし、和美さんはあの性格だから絶対OKしてくれると思うしさ」
愁の提案に都合の悪い部分は一つもなかった。愁の家だとここからも近いし、いつでも会いにいける。みょーがどう出るかはわからないけど、きっと和美さんに押し切られるに違いない。あの人は性根の世話焼きたがりみたいだから。
「そうやって、私と黄昏クンを離す気?」
溢歌がコーヒーをすする手を止めて、上目で愁を見る。
「うん」
愁は動じる事なく頷いた。そのあまりの潔さに俺は感服してしまう。ほんの少し片眉を吊り上げる溢歌に構わず愁は言葉を続ける。
「溢歌さんの家庭事情も知らないで好き勝手に言ったあたしも悪かったし、さっきのそのお詫びの意味もこめてさ。あたしもこれなら枕を高くして眠れるし、たそもあたしの家に遊びに来てくれるし、あたしがここに遊びに来てもたそしかいないし。ほら、万事OK」
確かにそれだと、愁が学校に行ってる間も俺がそっちの家に行けば、溢歌の面倒は見られる。溢歌がこっちに来るのは許さないだろうけど。
今はできるだけ溢歌のそばに誰かいたほうがいいのはわかってたから、暇があれば和美さんも手伝ってくれるだろう。
「どう思う?」
俺は溢歌に訊いてみた。俺は一向に構わなかったけど、こういうのは本人の意志を尊重したほうがいい。
「黄昏クンがやれって言うんなら……」
溢歌は髪の毛をかき上げて憂いのある目で俺の顔を見てくる。それを見て愁が少し顔をしかめたけど、一々気にしてたら何も始まらない。
「でも、本当にいいのか?」
俺は愁に念を押してみる。本当なら溢歌を一秒でも早く追い返して、俺と二人きりになりたいはずだろう。だけどさっきみたいに一方的に自分の事だけじゃなく、今は俺や溢歌の事も考えてくれてる。その心遣いがとてもありがたく思えて、胸に染みた。
「うん、あたしは全然OKOK。それにね、」
愁がどこか遠くを見つめて、自分を戒めるように小さな声で呟いた。
「あたしも一回溢歌さんと同じように家出したことあるから」
思い当たる節があった。
みょーが言ってた。一週間ぐらい家に帰って来なかった事があったって。
「逃げるように家飛び出してさ、トモダチの家に勝手に転がりこんで。学校にも行かないでずっとその子の部屋で毛布にくるまって泣いてたの」
そのトモダチの名前は言わなくてもわかる。
「勝手なやつでしょ。でもね、そのトモダチはあたしを見捨てるどころか学校まで休んで、ずっと横にいてくれたの。ホントなら学校の友達とワイワイ話したり、いつもみたいに夜遊びしたかったって思うのにさ」
愁は目を閉じて、その時の想い出を瞼の裏に甦らせている。その顔をとても羨ましそうに見てる溢歌に気付いて、俺は何も知らないこいつの過去に引っかかりを覚えた。
「その時が最初かな、ああ、あたしは今までずっと自分のことしか考えないで生きてきたんだなあって思ったの。どれだけ自分が身勝手な子供だったのかって。それからやっと他人の気持ちがわかるようになってきたのかな」
瞼を開いて、愁は溢歌に微笑んだ。刺も妬みも何もない、優しい笑顔で。
こんな笑顔も見せるんだって正直驚いて、俺は改めてこの子を好きになってよかったって思えた。
その相手を思いやる気持ちが若干空回りしてる部分は否めないけれど、愁は一生懸命他人を好きになろうとしてる。俺には到底そんな真似はできない。
俺にはどこか他人を見限ってる部分があるから。
この世界にいるみんなが今の愁のように本当に相手の事を好きになろうとしてるのなら、それこそとっくの昔にユートピアは存在してたと思う。
だからこそ、俺は他人を見限る。自分の周りには自分を好きでいてくれるひとだけいればいい。自分を愛してくれる相手にだけ、自分の全てを曝け出したい。
それが、俺が他人とつき合っていく唯一の方法だ。
「だから、溢歌さんも気にしなくていいよ。あんなこと言ったけどさ、どうせ他人に迷惑かけないと人間生きていけないんだし。あの時トモダチに助けてもらった恩をここで返すチャンスでもあるしさ。ね?」
笑顔で誘ってくる愁を、溢歌は警戒した目で瞬きもせずにずっと見てる。その光景はまるで、仲間を欲しがる仔猫が尻尾を立てて気を許そうとしない野良猫にゆっくりと近づいていく様に見えた。
少しの沈黙。
そして溢歌は口を開いた。
「わかったわ、よろしく……」
それは空気に溶けてしまいそうなほど微かな声だったけど、はっきりと耳に聞こえた。溢歌は少し赤らめた顔を背けて、コーヒーカップを口につける。俺と愁は顔を見合わせて、口元をほころばせた。
「よしっ!じゃあ決まり!これ飲んだら行こっか、溢歌さん」
愁は威勢よく立ち上がって、キッチンから別の紙袋を持ってくる。
「おいおい、何も今いきなりじゃなくったってもう少しゆっくりしていけば……」
「こーゆーのは思い立ったが吉日ってね♪それに女の子二人じゃ、夜遅くなったら危ないでしょ?たそもバイクで送れないし」
たしなめる俺を横目に、愁は床に置いてた自分の着替えを黒の紙袋に入れる。
「じゃあ、家まで送っていくから。それでいいだろ?」
俺が立ち上がろうとすると、愁はそれを手で静止した。
「たそが来たら二人だけの話ができないじゃない。取り合いになるのも嫌だから、今日はおとなしく家でじっとしてて。ね、溢歌さん?」
話を振られた溢歌は口元を押さえて笑いを堪えてる。やっと気を許してくれたのか、俺の前で見せるいつもの笑顔が戻ってきてくれた。
「あのさ、愁ちゃん何歳?」
あまりにおかしくて目尻に浮かぶ涙を指で拭って、溢歌は愁に尋ねる。
「あたし?あたしは16、高校二年生」
「何だ、年上だったの」
「ええっ!?」
愁は本気で驚いてる。今までずっと年上だと思ってたらしい。
「愁より出るとこ出てるしな」
思わず本音が口をついて出てしまい、俺の頭上に愁の拳骨が落ちてきた。溢歌は腹を抱えて大笑いしてる。
「あたしも16だけど、学年は一つ下なの。学校は行ってないけどね」
「あ、そうなんだ……」
少し気まずい表情を見せて、愁は黙りこんだ。学校に通うのが当然だと思ってる愁には、衝撃があったのかもしれない。俺が高校を中退した事を話した時も同じ顔を見せたっけ。
「学校に行くだけが女の人生じゃないもの、気にすることないわ。それより、着替えていい?このぶかぶかの汚れたYシャツのままで外に出るわけにもいかないし」
溢歌はソファから腰を上げて、愁の手に持った紙袋の中を指差す。
「あ、ごめん、汚したのすっかり忘れちゃってた。はい」
愁が謝って、紙袋を渡す。溢歌はしばらく紙袋の中を覗きこんで選んでから、ワイン色のTトップスと茶色がかった膝丈のスカートを取り出した。
「さあて、溢歌ちゃんのストリップショーのはじまりはじまり〜」
いやらしい笑みを浮かべてから、溢歌はステップを踏みながらYシャツのボタンを外していく。俺達の前で。
「ストップストップぅ〜っ!!」
愁は慌てて溢歌の背中を押して、二人は風のようにキッチンへ消えて行った。しばらく壁の向こうから言い合う声が聞こえた後、着替えの終わった溢歌を連れて愁が戻ってきた。
「七五三」
「ひっどーい!今の激ムカ、8割5分3厘」
言ってる事が相変わらずよくわからないけど溢歌は怒ってるらしい。
普段愁が同じ服を着てる時は素直に似合ってるって思えるのに、どうして素材が違うとこうも変に見えてしまうんだろう?黒のワンピース姿のイメージが強過ぎるせいか、それ以外の服を着てるとどうも不釣合いに思えてしまう。
「まあまあ、家にもまだまだ服はあるんだし、和美さんにも借りればいいから。ちょっと大きいけどさ」
頬を膨らまして突っかかって来る溢歌を愁がなだめる。二人のやり取りを見てると、ついさっきまでキッチンで修羅場を繰り広げていただなんて全然思えない。
何はともあれ、仲良くなってくれて俺は心底胸を撫で下ろした。
ちなみに、和美さんは愁よりも一回りほど背が高い。溢歌は愁より2、3cm低い位で、体型的にはさほど変わりがない。出っ張りの部分は別にして、だけどな。
しばらくわいわい騒いた後、二人は靴を履いて玄関の外に出た。俺も玄関の前で見送る。
「じゃあ、いっちゃんは預かってくね」
「預かられてきます、艦長」
「誰が艦長だ」
敬礼のポーズを取っている溢歌にツッコミを入れる。『いっちゃん』とは、つい10分前に愁が命名した溢歌の仇名。最初はくすぐったいのか顔を赤くして戸惑ってたけど、すぐに慣れたようだ。その顔は、本当に子供っぽく見えた。
「あ、そうだ愁」
俺は大切な事を思い出して、愁を呼んだ。すぐさま俺のそばへやってくる。
「だいじょうぶ、食べたりしないから」
「おまえは食人鬼か」
軽く頭を小突くと、愁は小さく舌を出した。
「溢歌がそっちにいる事、バンドの奴らに黙っていてくれないか?キュウにも」
「どうして?」
怪訝そうに尋ねてくる愁に顔を近づけて、溢歌に聞こえないように小声で話す。
「あいつ、歌に嫌な思い出があるらしいんだ。前にそれで泣きわめいた事があったし、あれでも今はかなり落ちこんでるみたいだから、そっとしておいてやってくれないか?」
「うん、わかった。兄貴と和美さんにも頼んでおくね。キュウは口が軽いし」
「ごめんな」
俺は今日愁に迷惑をかけた分のすまない気持ちを全てこの一言にこめて、謝った。愁は首を横に振って、俺に笑顔を向けてくる。
「ん、いいよ全然。いっちゃんと出会えてあたしも嬉しかったし」
愁のやさしい気持ちが伝わってきて思わず抱き締めたくなったけど、後に溢歌がいるから必死で震える手を引っ込めた。
「また明日来るね、バイバイ」
「お邪魔しましたあ、黄昏クン〜」
二人笑顔で手を振って、扉の影に消えて行く。ようやく肩の荷が下りた気がしてその場にへたりこもうとすると、愁が玄関に駆けこんできた。
「あ、それと」
ずかずかと詰め寄ってきて、俺の耳を引っ張る。痛がる俺を無視して、耳元に唇を近づけてきて訊いてきた。
「いっちゃんとなにかした?」
「何って?いでででで」
俺が訊き返すと愁は容赦なく耳をつねってくる。
「今まで赤根黄昏が時計坂溢歌とスキンシップした回数を嘘偽りなく述べよ」
現国のテストの問題みたいな質問をしてくる愁。嘘をついたところで溢歌が本当の事を言いそうな気がしたから、俺は正直に答えた。
「キス二回、それ以上はなし」
すると愁はもう片方の耳をつまんできて、同時に思いっきり耳たぶを引っ張った。激痛が走って耳元で何かがちぎれるような嫌な音が聞こえた気がする。
「はい、これでおしおきは終了。おやすみー」
うずくまる俺に慰めの言葉一つかけないでさっさと退散する愁。玄関の扉が閉まると一気に疲れが押し寄せてきて、俺は両耳を押さえながら床に崩れ落ちた。
「神様のバカヤロウ……」