→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   035.悦びとカナシミ

「よォーこそ」
 ここはおまえの家じゃないだろう溢歌。
 玄関から姿を現して俺を迎えてくれる溢歌は、あまりにもこの家に染まりまくっていた。俺はため息をついて、来る途中で買ってきた缶ジュースの入った袋を溢歌に手渡す。
 溢歌を愁に預けてから早4日。
「ほら、上がって上がって」
 俺の手を溢歌が引っ張ってくる。俺は靴を脱ぎ捨てる間もなく家の中へ連れこまれた。
「みょーと和美さんは?」
「学園祭の準備があるから今日は遅くなるって」
 袋の缶を冷蔵庫の中に手際良くしまいながら、溢歌は言った。
 どうやらすっかり居候の生活に馴染んでしまったらしい。愁が溢歌を泊めたいって話したらみょーは反対したらしいけど、案の定和美さんがたしなめて円満に事が運んだって昨日言っていた。
 あの後、愁は毎日学校が終わると制服姿のままで俺の家へ遊びに来ていた。そして、夜になると溢歌がやってくる。そして一緒に夕食を囲んだり俺の部屋で談笑した後、二人一緒に帰って行く。その間、愁は身体を重ねて来る事はしなくなった。
 俺がまた乱暴に愁を抱いたからじゃないだろう。前みたいに、俺を慰めるためにSEXする必要がなくなったからだ。
 それは溢歌の存在が大きかった。
 変わり続ける自分をこの世界に繋ぎ止ようと、俺は溢歌を求めた。でも、その時に求めていた溢歌は月の下で見た溢歌で、今ここにいる、16歳の少女の溢歌じゃない。
 自分の心に流れていたメロディが消えた今、自分が変わっていく事も何も恐れなくなった。それは諦めって言ったほうがいいのかもしれない。
 無理に取り戻そうと躍起になる必要なんてないんだ。何故ならそばに溢歌がいるから。
 俺の中から抜け落ちたメロディの代わりに、溢歌がぽっかり開いた心の穴を埋めてくれる。だから俺は焦る必要もない、怖がる必要もない。手を握ると、溢歌の体温が伝わってくる。俺と同じ赤い血の通った、溢歌の温もりが。
 ようやく俺は、心の平穏を取り戻せた気がする。ある日気付いてしまった欠けた自分の存在。その欠けた部分を埋めようと俺は今までずっとそれを捜し求めてきた。歌を唄う事で、自分の空洞を埋めようとした。八畳一間の暗闇で、ステージの上で。
 俺をもう一度唄う気持ちにさせてくれた溢歌。俺はこの少女に、自分のメロディを、俺の唄を聴かせてやりたかった。そうする事で、俺は完璧に満たされる気がしたから。
 でももう、唄えなくてもいい。その考えが間違ってたのかは今となってはわからないけど、溢歌自身も歌を望んでない。俺が青空と溢歌のキスシーンを目撃してしまって唄えなくなったのも、きっと神様が俺と溢歌を繋いでくれるきっかけを与えてくれたんだと思う事にした。
 俺はようやく、自分のかけらを手に入れた。
 そこでふと、あの絵本の内容を思い出す。
 歌を唄いながら自分のかけらを探し続けた主人公は、かけらを手に入れたらちっとも上手く唄えなくなった。そしてその主人公は、大切なかけらをそっと下ろして旅を続ける。
 絵本の結末通り、いつの日か俺が溢歌を手放して歌を唄う事を選ぶのかもしれない。でもそんな未来の事なんて俺にはちっともわからないし、わかりたくもない。
 好きなひとがそばにいて、俺を満たしてくれる存在がいる。
 何て俺は今、幸せなんだろう。この時間がいつまでも続くのなら、俺は二度と唄えなくなってもいい。あそこに戻らなくても、俺は生きていけるんだから。
 ただ、一つだけ気になる点があった。
「愁はまだ帰ってないんだ?」
 溢歌の部屋に連れてこられて、俺は変に落ち着かない気持ちで訊いた。
「さっき携帯から連絡あったけど、夕食の材料買ってくるから少し遅れるらしいわ」
 部屋の中央に畳んである布団の上に溢歌が腰を下ろしてそう返してくる。
 今日は二人に夕食に招待されたから、わざわざ俺のほうからこっちにやって来ている。みょーがまた怒鳴ってくるんだろうなって思ってたけど、幸い帰りが遅くなるらしいから俺も早めにおいとまするつもりだ。和美さんと会えないのが少し寂しいけど、またぐちぐちあいつの小言を聞かされるのは真っ平ごめんだった。
 ここは一階の居間で、仏壇以外何も置かれてない部屋。仏壇には老人と老婆の遺影が並んで立てかけられていて、亡くなった愁の祖父達なんだろう。この家はおじいちゃんの家だって前に言ってたし。
 二階にも空き部屋は一つあるらしいけど、そこはみょーが作品を置く場所として使っているらしくて、カーテンも閉め切って暗室のようになっている。絵は直射日光やら気温の変化に弱いから、保存用に一部屋丸々使ってるそうだ。ただ、それを教えてくれた愁も中に入った事はなくて、和美さんでさえ入れてくれないらしい。みょーは時々そこに篭って絵を描く事もあるって聞かされた。
 ちなみに残りの二部屋はそれぞれみょーと愁が使ってる。じゃあ和美さんは?
「兄貴の部屋」
 愁に尋ねるとあっさりと答えが返ってきた。一体あの二人の生活はどうなってるんだろう?知りたいって思ったけど想像はしたくない。
 和室の開いた襖の外に庭が広がっている。鈴虫の声が聞こえてきて、秋真っ盛りなのを感じさせてくれる。庭に立ってる一本の木の下にも落ち葉がたくさん見えた。
 庭の隅に何もいない犬小屋があったけど、俺はすぐに目をそらした。見たくないものを見てしまったような気がしたから、すぐ忘れる事にした。
 ちりちりと、頭の中で記憶がちらつく。永い間振り返ってない想い出だったから全部思い出す前に、早々に蓋をした。
「まだ、帰りたくないのか?」
 俺は庭を眺めたまま、溢歌に尋ねた。少し間を置いて、返事。
「帰る場所なんて、どこにもないから……」
 その言葉の意味はよくわからなかったけど、溢歌がその部分に触れて欲しくないのは明らかだった。まだ少し訊くのが早過ぎたと思って後悔する。
「この部屋ね、何だかぐっすり眠れるの」
 溢歌はそのまま布団の上に仰向けに倒れこんで、天井を見上げた。
「自分の部屋だとかそんな感じじゃなくて、温かい感じ。そこ開けてたら寒いけど」
 くすくす笑って、溢歌は寝返りを打つ。今日は俺と出会った時と同じ黒のワンピースを着ていて、めくれ上がった部分から細くて白い足が顔を覗かせる。溢歌は靴下を履かないほうが好きなのか、ずっと裸足のままだ。
 二人きりになったのは溢歌がこっちに泊まりこんで以来だった。愁の前じゃ訊けなかった事が山のようにあったはずなのに、そのほとんどが溢歌の脆弱な心をえぐってしまいそうで、何も訊けないまま時間が流れていく。
「愁ちゃんは、とってもいい娘なのー」
 もぞもぞと布団の上で身体を動かしながら、溢歌は思いついたままに言葉を並べていく。
「私より年上なのに、妹みたいな感じー。私をなるべく傷つけないように傷つけないように言葉を選んで心を近づけてきてくれるのー。でもねー、間違っちゃって私の気に障るような言葉を言っちゃったら、すぐ謝ってくれるのー。誰かさんとは大違いだよねー」
 俺は言い返そうと思ったけど、布団の上で転がる溢歌の顔を見てしまうと言葉が出ない。
「明星サンはたそみたいー」
 溢歌のその台詞に、俺はどきりとした。
「だらしがなくて、相手の気持ちなんて全然わかってないで、同じヘマばかり何度も繰り返して、謝るのー。でもー、横に和美サンがいるからすぐに注意するんだけど、それでもまたヘマするんだー」
 俺はそういうふうに見られてたのか。とはいえ思い当たる節も数えられないくらい山のようにあるから、ぐうの音も出ない。
「たそにも、横に誰かいてあげなくちゃねー」
 余計なお世話だ。
「和美サンは、お母さんみたいなひとー。しようのないない子を叱りつけて、守ってやってー。たくさんたくさん面倒見てくるから少し窮屈に思える時もあるけど、そこに愛があるからオッケーオッケー」
 溢歌はもう一度寝返りを打って、日差しの下にいる俺に顔を向けてきた。ビー玉のように透き通ってる目で、濁り切った俺の目を射抜く。
「私も、こんな家庭に生まれたかったな」
 その言葉には羨望だけじゃなく、もう一度生まれ変われたらっていう希望、そして今の自分に対する絶望が混じり合ってるように聞こえた。
 俺には両親も兄妹もいなかったけど、自分の生い立ちに満足してる。他人の家族円満な家庭を見てると羨ましかったけど、それ以上に叔父さん叔母さんが俺を本当の息子みたいに育ててくれたから嫉妬も後悔もなかったし、むしろ誇らしく思えた。
 溢歌にだって両親はいない。いや、今は爺さんと二人暮らしをしてるって言っただけで、実際は生きてて別離してるのかもしれない。溢歌の過去に関しては本人の口から話してくれるまで俺はいつまでも待ち続けようって思ってるから、俺は何も知らなかった。
 これほど痛々しい気持ちを溢歌が持つ原因は何なんだ?こいつの刹那的な性格を育んできた過去には何があったんだ?どうして、あれほどまでに唄を嫌がる?
 俺には到底想像もつかなかったけれど、溢歌が自分の過去に耐え切れなくなった時には力一杯抱き締めて一緒に苦しみを分かち合ってやろうって思った。それができるなら。
 外の木が秋風に揺れる。どうして秋はこんなに人を物悲しくさせるんだろう?季節を移し変える自然が、人に情緒を忘れないようにしてるんだろうか。
「ねえ、どうして何も訊かないの?」
 溢歌は体を起こして、俺を見上げた。しばらく溢歌と視線を合わせてたけど堪えられなくなって、目をそらして頭を掻く。
「どうせ訊いても答えないんだろ?」
「都合の悪い事以外なら」
 溢歌はそう言って誘ってくるけど、どうしたらいいものかしばらく迷った。愁はまだ帰ってくる気配がないけど、多分こいつの身の上話でも聞かされたら中途半端なところで終わってしまうだろう。
 だから俺は溢歌にとって今一番都合の悪い事を訊くことにした。
「今日はどうして出かけないんだ?」
 すると溢歌は少し苦い顔をして、黙り込んだ。
 ここ数日、外はずっと晴れてる。先月の雨降りが嘘のように雲一つない空が頭上に広がってる。だから今、あの岩場から海を眺めたら、きっと素晴らしい光景に出会えるだろう。夏とはまた違う、秋の宝石に。
 溢歌は愁と知り合った日も合わせてここ五日間、夕方になると姿を見せない。あの日に青空と会ってた事に関しても、横に愁がいたからずっと宙ぶらりんになったままだ。
 俺が溢歌と青空の関係を知ったところで、青空に対する感情がより憎しみに偏るだけで、メリットは何の一つもない。だけど、それを訊かない事には本当に枕に頬を埋めて眠れない。多分それは単純に『嫉妬』とかいう感情だと思う。今まで経験した事のない気持ちだから上手く説明できないけど。
「生理だもの」
 溢歌はぶっきらぼうに吐き捨てて、部屋を出て行こうとする。俺は溢歌の腕を取って、逃げようとするのを押さえた。
「待てよ」
「ちょっと気分が優れないからトイレに向かうだけ。悪い?」 
 力の緩んだ俺の手を払いのけて、溢歌は部屋を出ていく。俺はどう声をかければいいのかわからなかったから、溢歌が戻ってくるまで時間を持て余しながら庭を眺めていた。
「お待たせ」
 しばらくして、溢歌がガラスのコップ二つと紙パックのオレンジジュースを持ってきた。俺は黙って片方のコップを受け取って、畳に腰を下ろす。溢歌も布団の上に座って、俺のコップにオレンジジュースを注いでくれた。
 俺は溢歌が青空の事を話してくれるまで待った。自分から訊いたら、前みたいに乱暴に喰ってかかってしまうって思ったからだ。俺だって、できるだけ穏便に済ませたい。
 傷つける事傷つく事が嫌なくせに、どうして俺は自らそれを選んでしまうんだろう?自分の学習能力のなさを恨みたくなる。
「青空クンとは、毎日してるよ」
 溢歌の告白に、俺は心臓が凍りつきそうになった。溢歌はコップを手の中で転がして、オレンジジュースの波打つ水面に視線を落としている。
「どっちが求めてるのかは私にもよくわからないわ。ただ、SEXの最中は互いに混ざり合えて溶け合ってる感じがするから、拒む真似はしないけれど」
 どうしてこの少女が年相応に合わない表情を見せるのか、俺は気になった。普段は愁よりも子供っぽい面を見せているのに、性の話になると突然和美さんよりも熟女な笑みを見せる。俺を岩場で誘っていた時から生娘じゃないような気は薄々感じてたけど、これも溢歌の過去と関りがあるんだろうか?
「興味あるんだ?」
 溢歌がくすぐったい笑みを浮かべて俺に徐々ににじり寄って来る。本当に、男を誘う技量はとんでもないものを持ってるって思う。
 でも、こっちだってそう易々と誘いに乗るようなバカじゃない。
「保護者としてな」
「あ、ひっどーい!私子供じゃないのに」
 頬を膨らませて溢歌がぽかすか殴ってくる。俺はジュースが零れないようにコップを離れた畳の上に置いてから、溢歌の両手首を掴んで真正面から見据える。
「わかってる」
 溢歌は口を少し開けて、突然真剣な表情をした俺を何事かと見てる。俺が少し両手に力を入れると、溢歌が小さな悲鳴を上げて顔をしかめた。
「だから俺を何度も誘ったり、青空と好きなだけSEXできるんだろ?」
「何ソレ、嫉妬?余計なお世話だわ」
 俺を睨みつけて、溢歌は歯を噛み合わせる。
「黄昏クン、何か勘違いしてない?私はあなたのものでもない、私だけのものなの。私はあなたじゃないし、あなたは私じゃない。私は私。わかる?」
 禅問答を並べて、哲学じみた台詞を吐く溢歌。俺は喋り続ける溢歌を睨みつけながら、大人しく黙っていた。
「私はあなたのかけらじゃないし、半身でもない。私の身体には私といういのちが存在してるの。だから私は自分で物事を考えて行動するの。一番いい選択肢を選ぼうと思ってね。青空クンと毎日SEXしてるのも、私が今一番必要なことだと思ったからそうしてるだけ。壊れてしまった自分をその度に確認して、その度に悲しみに暮れるの。まだ汚れてない綺麗な部分が心に残っていて欲しいって、本当に何もかも忘れるくらい混ざり合えたら気持ちいいのにって思ってるのに。後に残るのはいつも痛みと快感の余韻とひとりぼっちの私だけ。ちっとも学習しないの、私。同じことばかり繰り返して、二度と戻れない深みに自分から足を踏み入れていってる。自分を傷つけて、他人を傷つけて、そうやって自分の存在をここに刻むことしかできないの。知ってる、ハリネズミの話?ハリネズミは自分の身体に無数の針を持ってるから、相手とスキンシップを図ろうとしたら向こうを傷つけてしまうんだって。でも私は構わないわ、どれだけ相手が傷つこうがこっちが満足できればいいの。周りの人間全員傷つけたって、私のこころが満たされればいいの。そうしていつの日か自分が溶けて消えてなくなるのを待ち望んでる。それすらも鬱陶しくなった時には何度も死のうとしてるわ。こんな世の中、こんな私自身をあっさり見限ってしまったほうが手っ取り早いんでしょうね。でもできないの、できない。どうしてって、そんなの簡単なことよ。生きていたいだけ。意味なんてないわ。でも適当に生きてても楽しいことなんてこれっぽっちもありゃしない。だから仕方なく自分から笑うの、とぼけるの。楽しいことだけ求めるの。キモチイイことだけ求めていたいの。だから私はSEXする。嫌な気持ち全部から目を背けて、終わった後に余計悲しくなるのがわかってても。ドラッグみたいなものよ。一人でいる時はずっと股ぐらを弄ってるわ。何度も、何度も。気を失いそうなほど頭の中を真っ白にして、壊れた人形みたいに惚けてしまうの。でも、その時に何も想像したりしない。他のひとなら好きな相手のことを想ったり、毒にもならない欲望の捌け口を用意したりするんでしょうけれど、私は何もしない。他人を求めてるわけじゃないもの。他人と繋がりたいわけじゃないもの。だから私はSEXするの。
 何その同情じみた顔、吐き気がするわ。他人の気持ちなんて本当にわかりっこないくせに、知ったような振りして悲しもうとするなんて。あなたに私の何がわかるって言うの!あなたは私じゃないのに!あなたと私は違うのに!」
 俺は泣いていた。
 ヒステリックに叫ぶ事しかできない溢歌の魂の叫びが、涙を流せない少女の代わりに俺の瞳から零れる。
 胸があつくて、あつくて、何かを考えるたびに泣きたい気持ちがこみ上げる。俺の気持ち、溢歌の気持ちが心の中で混ざり合って涙が生まれ、頬を伝う。
 溢歌は大きく肩で息をして、俺の顔を睨み続けている。
 俺は例え溢歌が傷つくとしても、どうしても言わなくちゃいけない言葉を口にした。
「悲しい奴だな、おまえ。」
 パシィッ!!
「そんなこと、自分が一番わかってるわっ!」
 俺は強く叩かれた右頬を押さえて、涙の溢れ続ける目で溢歌を見下ろした。溢歌が心の悲鳴を上げるたび、俺の目から涙が湧き出ていく。
 永遠とも思える時間お互いに顔を見合わせたまま、黙りこくっていた。
 そして溢歌はワンピースの胸元のボタンを外して、俺の右手を取ってそっと服越しにそのふくよかな胸に押しつける。
 俺の掌にワンピースの生地越しに、柔らかな感触があった。ただ、心臓の鼓動までは伝わってこない。
「……なら、そう思うのなら、今ここで、私とSEXしてくれる?」
 溢歌はその褐色の瞳に俺の泣き顔を映して、言った。
 いつもの甘ったるい誘い方と違う。凛とした意志の強い済んだ声だったけれど、俺には哀願してるようにしか聞こえなかった。
「今、ここで――?」
 俺は戸惑った。
 溢歌に、そんな悲しい生き方をさせていたくない。俺と、溢歌の鏡のような存在である俺と交わる事で、他人と繋がる生き方が、他人を愛する生き方があるって教えたかった。それは青空や他の人間じゃ無理で、俺にしかできないと思った。
 でも、もうすぐ愁が帰ってくる。途中で止めたらそれこそ溢歌を余計に傷つけるだけだし、愁に気付かれたらあいつを悲しませてしまう。
 俺が迷ってると、溢歌はそんな俺の表情を読んでせせら笑った。
「愁ちゃんに見つかることも怖がってる奴が私を助けようなんて思わないで!他人を傷つけるのが恐いくせに別の人間を救おうと思うなんてガキの考えだわ。自分が傷つくことも嫌がって保守的になってるようじゃ誰一人救えやしない。そんなことすらわからないの?もしかしてあなた、世の中全部のニンゲンと心から繋がろうって思ってるんじゃない?図星?」
「ああ」
 俺は怯む事なく溢歌の言葉に頷いた。一瞬溢歌は言葉を詰まらせたけど、すぐに苦い顔を作って俺を鼻で嘲る。
「理想だとか夢だとか並べ立てて現実に目を背けてる愚か者でしかないわ、あなた」
「心の底からそう思ってるんだ。だから俺は俺のやり方でやる」
 溢歌の手を取って、俺は対称になるようにその掌を自分の胸に当てた。心臓の位置で相手に鼓動が伝わるように、しっかりと押し付ける。
「どうしても傷つけてしまうのなら、そのひとにそれ以上の喜びを与えてやればいい。傷口を塞ぎこんでしまうほどのやさしさで」
 掌から伝わる感触に困惑して、溢歌は俺にすがりつくような視線を向けてきた。
「溢歌、おまえは、愁を傷つけても構わないって言うのか?本当にそれでいいのか?」
 俺はあえて溢歌に答えを選ばせる。
「俺はおまえが望む通りにやる」
 もしそれで愁を傷つける事になったとしても、後悔はしない。
 俺は溢歌を信じてるから。
「私、私は――」
 溢歌が視線を宙に泳がせて答えに迷ってると、玄関からチャイムが聞こえてきた。そしてすかさず扉が開いてばたばたと物音が続く。
 そっと溢歌の手を離してやると、溢歌も俺の手を離した。俺は涙の乾いた自分の顔を軽く手で拭う。この顔で愁の前に出るわけにはいかない。
「今度答えを聞かせてくれな」
 俺は溢歌の頭にぽんと手を置いて、洗面所に顔を洗いに行ってから買い物袋をたくさん抱えた愁を出迎える。溢歌と二人きりで家にいた事に愁は頬を膨らませていたけど、幸い俺達のやり取りを勘づかれる事はなかった。
 部屋を出て行く時に溢歌が何か呟いてたけど、小声過ぎて中身は聞き取れなかった。


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第2巻