049.ホーリーナイト
「こちらにたそさんはいらっしゃいますかー?」
「和美さんの真似するな気持ち悪いだろうこの暇人向こう行け」
声をかけてきたみょーに一瞥くれて、棒読みで台詞を吐く。そのまま構わず無視して次の曲に行こうとしたら、背中に蹴りを入れられた。
「あーっ!俺の大事なコートをーっ!」
「せっかく聴きに来てやってんのにもうちょっと愛想よくしろい」
「別に誰かに聴いてほしいためにここで唄ってるんじゃないっての、くそ……」
蹴られたコートを脱ぐと、背中の部分にくっきりとスニーカーの後がついていた。泣く泣く泥を払ってると、イッコーが前奏を止めて大声で手を振った。
「おーす、和姉」
「こんばんは。どうしたんですか?たそさん」
「みょーの奴に背中蹴られちゃって……」
「もう、あれほど迷惑かけちゃいけないって言ってるのに。ごめんなさい」
代わりに和美さんが頭を下げて謝ってくれる。当の本人は口笛を吹いてあらぬ方向を見てるというのに。
「あーあー、てめーで謝ることもできねーのかー」
「オマエだって和美がいたらまるっきり態度変えるだろーがよ」
毎度の事ながら、顔を合わせるたびにイッコーとみょーは喧嘩ばかりしてる。和美さんはとても仲のいい二人に見えるらしいけど、俺には本気で嫌ってるようにしか思えない。
「愁の奴はどうしてます?」
「期末テストで一生懸命勉強してます。本当は一緒に来て聴きたいらしいんですけどね」
和美さんは口に手を当てて微笑んだ。今日はクリーム色のコートを着てて、このままファッションショーのモデルを飾ってもおかしくないほど綺麗に見える。和美さんが一人で聴きに来ないのも、来る途中で絶対にナンパされるかららしい。それが嫌だからみょーはついてきてるって言うけど、和美さんよりも楽しんでる気がしてならない。
「ほら、ギター貸せギター。オレが次やるから」
「てめーには絶対貸さねー……って、たそから借りんなーっ!」
時既に遅く、俺のギター(イッコーからの借り物)はみょーの手に渡った。早速隣に腰かけて、軽く練習を始める。
俺達二人が深夜の樫鳥屋の前で特訓(?)するようになってから、半月近く経った。夜はかなり冷えこんできて、寒い。それでも俺達はカイロとかを用意して、毎晩ここに唄いに来てる。イッコーも店を手伝う時間を少し早めて、そんなに遅くならないうちに俺と一緒に唄うようにしてくれていた。
愁は学校もあるし、学年末テストの勉強でここには休みの前日にしか顔を出してない。電話で声しか聞けないのは寂しかったりするけど、代わりにイッコーや、こうして和美さんが時々(みょーなんて毎日だ)顔を出してくれてるから満足してる。青空と溢歌に会ってないのは心残りだけど。時々キュウも一人で遊びに来ては、茶化して帰っていく。真夜中に女性一人で歩くのは危ないって毎回言ってるのに、全然聞きやしない。
「はい、これ。差し入れ」
「サンキュ、和姉」
和美さんが手に提げていたコンビニの袋を座ってるイッコーの膝の上に置く。俺達が袋の中身を物色してると、横でみょーが弾き語りを始めた。
はっきり言って、上手くない。和美さんにお願いされたからわざわざ自分達の時間を割いて一から教えてるけど、たったの二週間足らずで俺達みたいに弾き語りができるって言ったら到底無理だ。それでもみょーはとても楽しそうに唄ってて、終わった後も心地いい表情を見せてる。その顔を見るたびに、俺の中でもやもやが溶けていくのを感じた。
ジャムパンとミルクティーを腹の中に入れたら、少し眠くなる。そのまま家に帰りたくなる気持ちを堪えて、みょーにギターを返してもらって一曲唄った。
ためらいはあるけど、今はもう自分の持ち曲も弾き語りできるようになった。要は考え方の問題で、青空の気持ちを歌い上げる事よりも、唄う事そのものを楽しむように意識を置くようになった。そうすると自然に他人に対する唄声の届き方も変わってくる。
自分の気持ち、自分のメロディに頼らなくったって、唄えるんだ。そう思うと、随分と楽になれた気がする。何もいつも肩肘張って唄う必要なんてない。
イッコーに薦められて、いろんなCDを借りてたくさんの唄声を耳にしたのも大きな出来事だった。『discover』はもちろん、名前なんて全く知らない女性ヴォーカルのCDまで引っ張り出してきては俺に貸してくれる。自分でCD屋に足を運んで探すには時間がかかるし、イッコーの持ってるCDはどれも俺の心を揺さぶるには十分のものばかりだった。
惰性でCDを買う事をイッコーは絶対にしないらしい。自分の耳で判別して、本当にいいと思えたものだけを購入してるそうだ。だから俺にはいまいち合わないジャンルのCDを聴いても、どれも頷けた。
そうやっていろいろ聴き比べてみると、俺の唄い方はディガー・E・ゴールドに似ている事に気付いた。唄い回しじゃなくて、歌に対する姿勢。
崖っぷちに立たされたような、常にナイフを喉元に突きつけられてるかのような彼の魂の叫び。後の曲になればなるほどその状況は更に切羽詰っていった。最後のアルバムになった3枚目の『Deep Tlue Blue』の、表題曲になった最後の曲でディガーは眠りにつくような唄声を紡ぐ。そしてその後、自殺した。
その生き方は、まるで俺の未来を示してるかのようだった。このまま唄い続けてたら、俺もディガーみたいに逃げ場すら見えなくなっていくんじゃないかって。
俺はそんな死に方、真っ平ごめんだ。何がどう、ディガーをそこまで追い詰めていったのかは知らないし、聞きたくもない。ただ、『discover』のアルバムを全部聴いてて思うのは、底辺に必ず光がある。深い深い海の底に、強い輝きを持った光が眠ってる。それをすくい取れたらディガーは今も生きてたんじゃないかって思う。
俺の人生を、そのままディガーに当てはめてトレースするような真似はしない。俺は俺で、自分の光をこの手ですくい取ってみせる。
「私達がいたら、誰も立ち止まってくれませんね」
帰り道を急ぐ人の流れを眺めて、和美さんがすまなそうに俺に謝ってくる。
「別にギターケースを開いて金をもらうような真似なんてしてませんから。唄ってる時にちょっと立ち止まってくれて、耳を傾けてくれると凄く嬉しいですけど」
そもそも路上で唄ってるのは、自分の唄を再確認して、これからどうやって唄えばいいのか模索するためだ。おかげで一日一日、小さくても必ず新しい発見がある。先週の金曜日なんか、制服を着た女子高生からスーツを着た中年のサラリーマンまで揃って足を止めて、俺達の唄を聴いてくれた。ライヴで満員になった客席を見ても今更驚きもしないのに、路上でたった一人足を止めて聴いてくれただけで涙が出そうなほど嬉しくなる。「この人に今ここで唄を聴かせられた」それだけで、俺の生きてきた意味はあったんだって心底思えるだなんて言ったら、大袈裟かな?
そう考えると、俺は今まで「相手に聴かせる唄」を唄ってなかったように思う。自分自身や青空のために唄ってる歌を、目の前の客に届けてただけ。聴きにわざわざ足を運んでくれた人に感謝はすれ、その人達の事を考えて唄った事は一度もなかった。
イッコーの曲を演奏してる時は大抵、客席は凄まじく盛り上がる。客とステージの間に一体感のようなものが生まれてるように見える。その中で俺は、遠目でギターを掻き鳴らしてる。そういう空気にまだ慣れてないから、つい戸惑ってしまう。
その点俺のステージだと、盛り上がり方も変わる。激しいビートの曲を演奏してる時にみんな手足を動かしたりしても、イッコーの時と違った空気が流れてるのを肌で感じる。それをどう、上手く説明する事はできないけど。
客のみんなは、どうして俺達を観に来るんだろう?
昔からずっと抱き続けてきた疑問が、頭の中を渦巻いて離れない。
『Days』を初めてしばらく経って、そんな不安に押し潰されそうになった想い出がある。ライヴをすっぽかして一人部屋に閉じ篭もって脅えてたのを覚えてる。あの時は解散の危機だったけど、青空が俺を信じてくれたおかげでバンドに復帰できた。
ステージの上でいつか解る時が来ると思って続けてきたけど、結局今日まで答えは見つかってない。一度周りの人間に訊いてみるのもいいかもしれないけど、キュウや愁だと偏った答えしか出てこないと思う。
考えれば考えるほど、知恵熱が出てきそうだ。
「ま、おれ達が『Days』だって気づいて止まるやつもたまにいるけど、そいつらには毎日ここで演ってることなんて言ってねーし。ライヴ観に来るファンばっかりの前でやったって面白味もなんともねーかんな」
イッコーは挑戦的に歯を見せて笑った。
俺達がここに来る時間帯は午後11時過ぎ。遅い時間帯でもこの歩道橋の下は絶え間なく、終電の時間を過ぎるまで人の流れは続く。帰る時間はいつもまばらで、冷えこむ日は風邪を引いたら元も子もないから一時間程度で引き上げたり、調子のいい日は朝方にカラスが鳴くまで唄ってたりする。
「和美を最後までつきあわせるわけにもいかねーじゃん、マジで遅くなるんだから」
そう言うお前は毎日最後までよく付き合ってられるもんだ、みょー。
「ん、どしたの、和姉」
段差に並んで座ってる俺達三人を眺め回す和美さんにイッコーが声をかけると、和美さんはうっすらと微笑み返した。
「こうやって見てみると、本当に面白い組み合わせよねって思ったの」
「ちょい待ち和美、オレも入ってんの?」
「あきらがいるから更に面白いんじゃない」
意外な顔をして訊き返すみょーに、悪戯っぽく和美さんが笑みを返した。
「カズくんはストリート系のチーマーみたいで、たそさんは男性モデルのようないでたちで。あきらは今時の大学生。普通、こんな組み合わせは想像つかないもの」
「そう言われても、なー?」
苦笑いをこっちに向けるイッコーにつられて、俺達も笑った。珍しいって言われたって、俺はこの二人と仲間だって思ってるんだから。
「やっぱオレもバンド入ったほうがいいのかな?」
『違う違う』
素で訊いてくるみょーに、すかさず俺とイッコーがハモって否定する。そんな俺達を見て、和美さんは少し羨ましそうな顔で微笑んでた。
「さーてと。話ばっかしてたら身体冷えちまうから、一曲和姉のために唄いますか」
「オレはどうした、オレは」
自分の顔を指差して存在を示すみょーを無視して、イッコーは首を鳴らして準備する。
「あ、俺が先に唄っていいかな?和美さんにどんなものなのか訊いてみたいから」
「ん、いいけど、次オレだかんな」
「え、ちょ、ちょっと……」
突然のことに慌てる和美さんの前で、イッコーがギターのボディを叩いてカウントを取る。俺が唄う時はイッコー、イッコーが唄う時は俺がギターを弾くようにしていた。
打ち合わせなんてしてなくても、イントロを聴くだけで俺のどの曲を演奏しようとしているのか一発で判別できる。この曲は『幸せの黒猫』。
不幸を振り撒く黒猫が屋根の上に逃げた
かなしみ溢れる街を一人見下ろしていた
寄り添う人間達を眺めながら
忌まわしそうに身体を丸めていた
片目のつぶれたカラスが唯一のトモダチ
大声で鳴き叫べば 今日も誰かが死ぬよ
口癖は「人間なんて反吐が出るぜ」
二人嫌われ者の道を歩く
幸せの意味を求めて ずっと探してた
誰かのために生きていたくて 今日もまた探してた
ひとりぼっちの彼女は 猫を見かけるたびに声をかけた
昔飼ってた仔猫に似てて 面影を思い重ねてた
いつもうざったそうに逃げてくけど 嬉しそうに尻尾をふっていた
言葉は通じなくても どこか繋がれた気がした
猫は近づきたくても 距離を取っていた
やさしくしてくれた相手を 失いたくなかったから
いつの日か猫は彼女の家に住み着いた
先の不幸より今の幸せを選んだ
そんな日々を夢見てた
ねたんだカラスが神様に告げ口するまで
間もなくして彼女は倒れた 流行りの病気が身体を襲った
何もできない黒猫は 寝ないで看病し続けた
相手を想って寄り添い 悲しい運命を振り払った
かけがえのない存在が やっと見つかった気がした
幸せばかり続く日々 カラスはそれが悔しくて
「ありったけの不幸を与えて 彼女に車をぶつけよう」
黒猫は彼女をかばった これ以上はもうゴメンだ
自分のせいで誰かが 不幸になるのを見るのは!
決死の思いで飛び出した黒猫 「オレが身代わりになればいい」
それを見ていた神様は 心を打たれて二人を助けた
彼女は猫をこう呼んでやった
幸せの黒猫 幸せの黒猫
目の前の和美さんに唄を届ける。
曲を唄ってる時、青空の事はあまり考えないようにしてる。唄の歌詞にこめられた感情を呼び起こすのは今までと変わらないけど、青空の気持ちを代弁してるわけじゃない。俺の心の底から、からっぽになったところから新しい気持ちを生み出す。
自分が唄ってる事を全身で感じるんだ。
俺は青空の代わりじゃない。俺は俺。俺が本当に自分自身の意志で、相手に唄をうたう。
今はまだ、胸の空洞は空いたままだ。でも、そこに何か、今までと全く違う新しいメロディが湧き上がってくる予感がある。
その予感が一日でも早く、現実になるように。
曲が終わると、全身が軽い虚脱感に襲われる。他人に向けて歌を唄う事がどれだけ大変なのか、今更になって言葉通り身を持って知った。周りの唄うたいから見てみれば、きっと変わり者だとバカにされるに違いない。
「どう、和姉?」
イッコーが気軽な声で訊いてみると、和美さんは俺の顔をじっと見つめて動かなかった。
「……和美?」
みょーが和美さんの顔の前で広げた手を振ってみると、ようやく我に返った。
「あ、ごめんなさい。ぼーっとしちゃって……」
熱にうなされたように上気した顔をさすって、目をぱちぱちさせる。
「まだまだ全然上手く行ってないんだけど……ホント、他人に唄うって難しいです」
俺は本音を漏らして苦笑した。和美さんは俺の言葉に生返事っぽい相槌を打つ。
「あの、その……何て言ったらいいのかよくわからないです」
その口から出てきた感想は、全く参考にならないものだった。
「ただ……ライヴやテープで聴いたものより、今のが一番良かったです、ずっと。」
少し興奮した口調で、和美さんは断言する。そう言われると、気だるい身体に安心感が広がって心が満たされていった。
『たそっ!』
幸せに浸ってる間もなく、いきなりイッコーとみょーに肩を片方づつ掴まれて、俺は樫鳥屋の壁際まで引きずられた。
「何だよ」
「オメーに先に唄わすんじゃなかったチクショーッ!」
握った拳を震わせて、イッコーが苦悶の小声を上げる。どうやら、俺が掴みを持っていってしまったのがとても悔しいらしい。
「オマエ金輪際和美一人の前で唄うな、絶対」
因縁つけるような視線を俺に向けて、みょーが腸が煮え繰り返ったような声で迫ってきた。何の事かよくわからなかったけど、身の危険を感じたから素直に何度も頷いてみせた。
「どうしたの?」
「いや、何でもねー、何でもねーって」
首を傾げてい和美さんにみょーが軽く答える。俺はまた二人に肩を掴まれて、元いた場所へ引き戻された。最後に二人の恨みの篭もった視線が飛んでくる。どうして和美さんの前で唄うだけで、こんなに睨まれなきゃならないんだろう。
それはそうと時々強力なチームワークを発揮するな、この二人。
「んじゃ、次はおれん曲聴いてよ、和姉。行くぜ、たそ」
苦笑する暇もなく、俺はイッコーの曲のイントロを弾き始める。
そうやって雑談を交えながら二人の持ち曲を全部吐き出す頃には、すっかり人気もなくなってしまった。みょーも和美さんの気を引こうと必死に演奏するけど、失敗ばかりして笑いを誘う。でも、目の前に和美さんがいればやる気も段違いになるこの集中力は賞賛に値する。イッコーに言わせれば二週間足らずで形になるのは相当早いペースらしい。放っておけば、俺より上手くなるんじゃないだろうか、ギター。
「終電なくなっちゃった……」
和美さんが腕時計を見てぽつりと呟く。あまりに和やかに時間を費やしてしまったせいで、気付いた時には終電の時刻をとうに過ぎていた。みょーの家はここから電車で20分程度なので、歩いたらゆうに2時間弱はかかってしまう。
「どうしようかしら、明日は午後から授業があるのに」
「どうする?和美が帰るんなら一緒についてくぜ。オレだけ後でまた戻ってきて、朝になったらいつもみたくたそん家に世話になるけど」
「勝手に決めるな」
路上ライヴが終わると、みょーは帰るのが面倒臭いって言っていつも俺の部屋に転がりこんでくる。兄妹揃って俺に世話を焼かせるのはどうかと思う。
「じゃあ、先に俺の家に行ってますか?鍵なら渡しますけど」
『ダメ』
俺の提案に間髪入れずにイッコーとみょーがダメ出しをする。
「それなら俺がバイクで送りましょうか?愁の顔も見てみたいし」
『ダメ』
だから俺はお前達に睨まれるような事をやってるつもりはないのに。さっきから、ことごとく俺の提案ばかり却下されてしまう。和美さんが原因なのか?
「じゃあどうするってんだよ」
怒るのを堪えて反論すると、イッコーがさらりと言ってのけた。
「おれん家で寝ればいーじゃん。従姉弟なんだからおやじ達も和姉知ってるし」
なるほど、もっともだった。和美さんも隣で頷いてる。久しぶりにおじさん達の顔を見てみたいのもあるみたいだ。それでも、みょーは膨れっ面でぶつぶつ言ってる。
「そんなら多数決」
厳正なる投票の結果、3対1でイッコーに軍配が上がった。
「んじゃ、和姉送ってくるわ。30分ほどで戻ってくっから」
「それじゃたそさん、おやすみなさい。あきら、また後でね」
和美さんが振り返って、俺達に手を振る。みょーがついて行かないように首根っこを捕まえて、笑顔で二人に手を振り返した。こいつがついて行くと、話がややこしくなる。それに少しばかりイッコーにいい思いをさせてやろうという俺の魂胆があった。
「……ま、しょーがねーか。恋人はここで待つとしますか」
「大丈夫だって。和美さんはイッコーを弟にしか見てないらしいし」
「そんなコトわかってる。ただ、和美が他の男と一緒にいるのが嫌なだけさ」
みょーは少し不機嫌っぽく口にした。確かに俺も、愁が他の男といれば機嫌が悪くなるだろう。溢歌が青空と一緒にいる事に関しては、無論言うまでもない。
溢歌と全然会わないのに、あいつへの想いはちっとも薄れない。今一体何をしてるのか、溢歌の姿を想像すればするほど想いが膨らんでいくから、あえて歌に集中してる。
どのみち放っておいても歯車は勝手に回り出すんだから、わざわざ自分で回す事もない。今二つの問題を同時に目の前にすると、頭が爆発する。それにこの会わない時期は、溢歌との関係を冷静に見つめられるいい機会だと思った。あいつと出会ってからずっと気の休まる日々がなかったんだから、せめて今だけでもじっくり考えていたい。
「愁が俺といる事は?」
「別にぃ。オレはあいつの兄貴だけど、決めんのはアイツ自身だろ。オマエと一緒にいると楽しそうに見えるからいいんじゃねえ?口から出んのはオマエの話題ばっかだし」
「でもお前、最初反対してたじゃないか」
何気に訊いてみると、意外な答えが返ってきた。
「だって、オマエオレと同じ匂いがするもん」
けらけら笑いながら、みょーは座る俺の肩に手を回してくる。最初にそれを言われた時は腹が立ったけど、会うたびに俺もそんな気がしてきた。路上ライヴの後に家でくだらない馬鹿話から真面目な話までするけど、何と言うか、とても感性が似てる。
「オレじゃあいつを幸せにしてやれなかったからさ、どうかな……って。でも、今幸せみたいだしさ。オレん代わりにオマエがいてくれて良かったよなー、悪い言い方だけど」
組んでいた手で俺の肩を軽く叩いて、みょーはそのまま大理石の段差の上に寝転がった。ひんやりしていて気持ちいいのか、冷水に漬かった時みたいな反応を見せる。
「もし、お前が……愁の兄貴じゃなかったらどうしてた?」
和美さんが持ってきてくれた差し入れの残り物を物色しながら、みょーに訊いてみる。
「うーん、一緒なんじゃねえ?和美を選んだことには変わりねーと思うぜ」
少し間を置いてから、答えが返ってきた。寝転がってるみょーが俺のコートを引っ張って残り物を催促してくるから、最初に目についた鮭おにぎりを手に掴ませてやる。
「だから……オマエが愁を泣かすような真似しなかったら、オレは何も言わないし。それ言っちゃ、オレが和美を泣かしたらイッコーに殴られるんも当然なんだろーな」
「じゃあ、みょーにとって和美さんってどんなひとなんだ?」
寝転んだ姿勢で器用におにぎりを頬張ってたみょーが、全部平らげてから身体を起こして答えた。
「どうしようもないオレのコトを誰よりも一番見てくれるヤツ」
その顔に、へらへらした表情は消え失せてる。普段のだらしない顔を見慣れてるせいか、真剣な表情をした時は特に凛々しく見えた。
「アイツにワガママばっかり言ってるのも十分承知してるぜ、オレ。多分、別れるような酷い言葉を投げつけたコトも一度や二度じゃない。でも、アイツはずっとオレの横で温かい目で見守っていてくれんだ。だからオレもそばにいてやろう……って受け身で考えてるわけじゃねえけど、結果的にはそーなってるよな」
苦笑するみょー。俺も愁に好きでいてくれるから気持ちを返すような感覚はあるから、その思いはよくわかった。
相槌を打ってると、みょーはいきなり思いがけない言葉を俺に投げかけた。
「でも、アイツにオレがどんな愛され方をしてるかなんて二の次なの。オレがアイツをどれだけ好きでいるのか、それのほうが重要でさ」
何気に出た言葉だったんだろうけど、ガツンと来た。
俺はそんなふうにあいつの事を想った事はあるのか?愁が俺の事を見てくれなくなったとしても、あいつへの気持ちを持ち続けるんだろうか?
本当に愁が好きなのか、俺は?
自分の気持ちが信じられなくなるなんて、馬鹿げた話だった。
心の薬箱としてしか、俺はあいつを見てないわけじゃない。愁と一緒にいる一番の理由は多分それだけど、恋愛なんて所詮他人を慰め合ったり、お互いを満たしたりするものだ。
どうやら俺は根っからの疑心暗鬼らしい。それも自分自身に対しての。
ふと、前に和美さんと話してた内容を思い出した。
「純粋に相手を想う気持ちだけで他人のそばにいるなんて事は、それこそ何も知らない子供の頃か全てを受け入れてしまった老後でしかできないんじゃないかしら」
あの時はそうじゃないって否定してたのに、実際は違う自分に気付いて、嫌になる。
考え事をしてたら、みょーの視線に気付いた。それ以上考えるのを止めて話を聴く体勢に戻ると、みょーはそのまま話を続けた。
「失恋なんてしたコトないからよくわかんねーけど。それに気付いてからは、和美の存在をより近くで感じられてさ。オレ、オマエに和美と知り合った頃の話したっけ?」
「そういえば俺は言ったけど、お前のは聞いてない」
「って言っても、オマエみたく全然ドラマチックでも何でもねーんだけど」
笑って言うけど、俺と愁の出会いなんてちっともドラマチックじゃない。ただ、あの時のおかげでバンドを続けてられるんだし、こうして今ここにいるんだから人生って不思議だ。運命だとか信じてるわけじゃないけど、出会いなんて得てしてそういうものだろう。
「大学に入って、そっからただ授業出てるだけじゃつまんねえからサークルにでも入ろうと思ってて。勧誘されて入るんは嫌だったからさ。なんか押しつけられてる感じがするじゃん?だからまずは部活から見てこうって自分の足で構内ぶらついて。そん時にあの部室を見つけちまったんだよなあ、運がいいのか悪いのかわかんねえけど」
みょーが心底まいったような顔を見せた。そういえば、俺はあの部活の名前すら知らない。普段はどんな部活動をしてるんだ、あの部は?
恐いもの見たさで訊いてみようかと思ったけど、本当に怖かったら嫌なのでやめた。
「おもしろそうだから足を踏み入れたら誰もいなくてさ。あの部室って、わけのわかんねえもんばっかり置いてるだろ?適当に眺めてたら、部活のチラシを手に持った新入生がオレをそこの人間だと思って声をかけてきたわけ。それが和美」
話を聞くと、それはそれで十分ドラマチックな出会いのような気もするんだけどな。
「とりあえず少し引っかかったから来てみただけで、入るつもりはないって言ってた。何だか異様な雰囲気が部室の中に充満してたからさ、オレもここはやめようと思って。それから、暇だったから一緒に適当な部活を探したのが最初」
軽い身振り手振りを加えながら、みょーは楽しげに話を聞かせてくれる。
「まあその日は結局決めないまま、その場で別れて。ホントその場限りだと思ったんよね、アイツ美人だし。喋り方も上品だしさ、オレとは全然別世界の人間だなあって一緒に歩きながら感じてたんだけど。学部と学科が一緒だったのは後で知ってね。んで、そこからが笑っちまう話なの。次の日いきなり拉致されてさ」
「拉致?」
いきなり耳慣れない言葉が出てきて、つい素っ頓狂な声を上げてしまった。みょーは笑おうともしないで、俺を見て大きく頷いてる。
「うん、拉致としかいいようがない、アレは」
その単語から連想して頭を捻ってみても、ちっとも絵が浮かばない。
「ホラ、山崎いるじゃん。アイツ留年しててさ、オレ達より一つ上なんだけど。どうやら部室の中に隠しカメラ設置してたらしくてよ、その中にオレと和美が映ってたから連れてきたって。だから和美も一緒に拉致られてきて」
一体どんな部員がいるんだ、山崎さん以外に?俺はまだあの人以外にみょーの部活のメンバーを誰も見てない。想像してみると、ちょっと背筋がぞっとした。
「そこで何があったのかははしょるけど、面白そうだから和美と一緒に入って。そっから自然と仲良くなって、今に至るってわけ。よくよく考えれば、オレ達二人が入ること自体おかしい部活なんだけど、あそこ」
省略した部分を訊いてみたい気もしたけど、次の機会に回す事にする。
みょーは苦笑して、姿勢を崩してその場で横になった。服が汚れる事くらい少しも気にしてないみたいだ。
「和美は会った最初からオレに気があったらしくて。まああそこにいる人間なんて奇人変人ばっかだし、当然といえば当然のような気もしたんだけど学部内ですげえ人気だったからな、和美のヤツ。つきあって下さいって、向こうから言ってきたんだぜ?やっぱり最初は冗談なんじゃねえかって思ったりしたけど」
少し驚いた。そりゃまあ、みょーから告白するなんて絵は考えられない。きっと、絵を描いてる時の姿でも気に入ったんだろう。イッコーも惚れっぽいって言ってたし。
だけど、周りの人間より当の本人が一番びっくりしてたみたいだ。俺がみょーの立場になったとしても、多分そう思う。高嶺の花が手元に飛びこんでくるなんて普通、ない。
「大分経ってからそのへん和美に訊いて、ようやく納得したって感じ?」
「どうって言ってた?」
「そりゃ秘密」
俺の質問にすぐさま含み笑いで返してきた。それ以上俺も詮索するつもりはなかった。
「でも、おまえいいのか?和美さんはちゃんと授業に出てるのに、休学してこんなところで俺達と一緒にいて。ちゃんと卒業するんだろう?」
ここ数日持ってた疑問を、みょーにぶつけてみる。すると他人事のような感じでみょーは興味なさげに答えた。
「するんじゃねーの、多分」
「多分ってな……」
頭が痛くなったけど、俺だって人の事は言えない。
「そういうオマエはどう?このままプロになるんだろ?どーせオマエらの実力からすればそんなの楽勝だし」
手を伸ばしてギターを掴むと、みょーは大振りなストロークで和音を鳴らす。
「そこまで……考えてなかった。考えようなんて思いもしなかったな」
「何で?食いたいだとかそういう思いはないの?」
「いや、それ以前に……今まで1ヶ月先の自分すら想像しないで生きてきたから」
その言葉に嘘はない。今だって、年末のクリスマスライヴまでの事しか頭にないし、その先の事なんてちっとも考えてない。プロになろうと思って唄ってるわけじゃないし、曲を聴かせて金をもらう事に興味なんてない。もちろん、唄う事が仕事にできたらそれは最高なんだろう。でも、どう生きようとこの先もずっと唄えれば何も文句はなかった。
唄わないと、俺の存在価値は微塵もなくなってしまうから。
そう考えて、ハッとした。
以前、溢歌さえいれば唄えなくたって構わないなんて思ってた自分がいた。失った部分をあいつが埋め合わせてくれるって思ってたから。
でも、それは違う。俺のメロディは、何物にも代える事ができないんだ。
唄えなくなった価値の無い自分を愁に繋ぎ止めてもらおうって考えた事もあった。だけどそんなの、ただの弱音だ。もし唄えないままずっと生き続けてれば、俺の魂は日も経たずに愁の手さえすり抜けてしまう。
切羽詰ってる事に変わりはない。身を削る思いで一曲一曲唄い続けていくのも、俺がこの世界にいられる希望をまだ捨てたくないから。愁や溢歌を、仲間を置いて一人転がり落ちる真似だけは絶対にしたくない。
『俺一人死んだところで、世の中は何も変わらないんじゃないか?』
バンドを始めるまで、そんな疑問をずっと背中に突き付けられていた。ただ理由もなく死にたいわけじゃなくて、俺がいなくなったところでこの世に何も問題もない。そんな強迫観念が強く胸を締め付けてたからこそ、死ぬわけにはいかなかった。
あの頃自分を救うためだけに唄ってた数え切れないメロディ。今思えば、俺はあれをきっと、誰かに届けたかったんだ。
いつかこの先出会うだろうひとたちへと。
光を信じてずっと闇の先を見続けて、絶望すら感じられないほど意味を持たない自分自身と闘い続けてたんだ。そう思う事で、自分に存在意義を持たせていた。
俺が今死んだら、哀しんでくれる人間がいる。そう思えるだけで、俺はようやく無から開放された気がする。
少し涙ぐみそうになるのを堪えて、俺は続けた。
「だから未来だとか、そういうのは部屋に閉じ篭ってた時に全部見えなくなってしまって……あの頃の考えがまだ抜け切れてないんだろうな、きっと。俺が今日まで生きて来られた事自体信じられないくらいだし。でも……でも、親の遺してくれた金もいつか尽きるんだろうな、その時にはどうするのかな、だけどそれより早く死んでるよな。そう思ってた、ずっと。他の人も同じだと思うけどな。だって、1年後の自分の未来さえ想像つかないだろう?俺だってまさか愁とつき合うだなんて思ってもみなかったし」
「でもみんな、薄々と大きなビジョンを描きながら生活してるぜ。その通りになるのかどうかは別としてさ」
「じゃあ、みょーはどうするつもりなんだ?」
さっきからお互いに相手の腹の探り合いばかりしてる。
「オレは……絵だけで食えるわけないって思ってるけど」
憮然とした態度でみょーが答えた。肩透かしを食らった気がして前につんのめりそうになる。
俺よりも、みょーのほうがよっぽど自分の腕で食っていけるだろう。謙遜じゃなく、みょーの絵を初めて見せてもらった時、本気で凄いものを描いてるって思ったのに。
戸惑ってる俺を見て、みょーがきちんと説明する。
「そんな否定的な意味じゃなくてね、漫画でも描いてるんなら話は別よ?だけど本当に絵画?芸術としての絵ってのはそうそう売れないし、そんな買った人間しか楽しめないようなもんを創りたいって考えてもなくて……。小説の挿絵だとか、イラストを描く人間もいるからさ、そっち方面で何とかしようって思ってんだ」
言いたい事はわかるけど、どうも素直に納得できない。そんな俺の想いに気付いたのか、みょーが一度頷いて、熱い口調で続けた。
「やっぱり、イラストと絵って違うんだよ。創った作品を1枚いくらで売るだとか、そんな気は特になくってさ。別にどっちをやりたいとかってないんだよね、オレ。だからイラストは仕事で、絵は自分のためって切り離して考えていければいいんじゃないかって。オレって描ければ他はもうどうだっていいヤツだしね。後は和美がそばにいればいいや」
最後の締めが、みょーらしい。見かけによらず、きちんと自分の進もうとしてる道を頭の中にビジョンとして思い描いてるその姿に感心してしまう。それに引き換え、俺は一体何なんだろう?唄う事だけ考えてたいっていうのは、所詮ガキの考えなのか?
膨らんだ疑問をみょーにぶつけるのを堪えて、話題を変えてみた。
「そういえば和美さんはどうして大学に行ってるんだ?仕事でもする気なの?」
するとみょーは途端に不機嫌そうな顔をして、さばさばと答えた。
「アイツはだから、絵で食えるような人間になりたいワケ」
足元に転がる小石を掴んで、歩道の反対側の鉄柵に投げつける。心地良い金属音が歩道橋の下に響いた。
「ちょっと言葉が違うか?美術界を変えていけるような作品、そういうのを作っていこうとしてる。オレには想像もつかない世界よ。同じ『絵』だけど、やってるのは」
和美さんの絵の話になると機嫌の悪くなる理由がやっとわかった。
「オレはそのへん、もう何も言わないコトにしてんだ。それがアイツのやりたいコトなら、好きにやればいい。でも、オレのやりたいのは違うぜって」
「違うって?」
みょーはもう一度小石を拾って、手のひらでそれを転がす。
「ああ、だから……そんな一部の絵に精通した人しかわかんねーところではしゃいでたところで、つまらねーっていうか。ほら、ゲルニカって知ってる?ピカソの」
「それくらい、いくら世間に疎い俺だって知ってる」
中学の美術の教科書で見た記憶がある。絵の細部まで覚えてるわけじゃないけど、何やら凄いものを見た感じがした。その時はガキで何もわかってなかったから、今見ればまた違った印象を受けるに違いない。
「わりーわりー。でさ、あの絵ってホントにみんなに認められてるじゃん?それこそ絵なんて全く知らない人の心まで動かしてさ。うん、オレはあーゆー絵を描きたい」
みょーの視線は、真っ直ぐ前を向いていた。その先にあるものをしっかりと見据えて、突き進む意志を持った強い目。同性の俺が言うのも何だけど、カッコいい。和美さんはきっと、時々見せるこの黒い瞳に引きこまれたんだろう。
俺がその目に見惚れてると、急にみょーがこっちに振り向いた。
「それで言ったら、オレのやろうとしてるコトを音楽でもうやってんだ、オマエは」
「俺が?」
突然自分の話を振られて、声が裏返った。みょーは頷いて、小石を鉄柵に放り投げた。放物線を描いて、今度は柵の隙間を抜けて行く。
「自分で気付いてるのかわからねーけど、生き様とかそういう部分を無視してさ、誰の魂でも揺さぶれるもんを唄ってる気がすんの」
「でも俺は、青空の歌詞を唄ってるだけで……」
「関係ないって、どんな唄でも」
面と向かって言われると恥ずかしいから弁解しようとする俺に、みょーはぴしゃりと言った。真正面で見据えられると、こいつの気持ちがはっきりと伝わってくる。
「それこそチンケな唄でもオマエが唄うだけで名曲に聞こえたりするもんだと思うぜ」
「そんなものかな?」
「だからもう少しテメエの技量を自覚しろって」
みょーは呆れ返った顔で、俺の額を人差し指で小突いてくる。そのままそっくり今の言葉を返したい気持ちは山ほどあるんだけど。
「オレはオマエみたいなヤツがプロになるのが一番いいって思うけどさ」
「まあ、考えとく」
これ以上この話題を続けてると疲れるから、軽く受け答えして終わらせた。
「それにしても遅いな、イッコーの奴」
かれこれ30分くらい経っただろうか、まだ帰って来ない。じれったそうに口にしてみるけど、遅れてくるのは何となく感付いていた。みょーも気になってるのか、イッコーの去った方向を何度もちらちら見てる。
「あ、そーそー」
と思ったら突然こっちに話しかけてきた。
「何だよ」
「なあ、クリスマスライヴ、あそこのライヴハウスでやるんでしょ?」
「そうだけど」
「ポスターとかもうできてんの?」
何が言いたいのか全く見当がつかないけど、とりあえず答えておく。
「マスターに聞いたわけじゃないからわからないけど……一月前にチケットを売り出すはずだから、もうできてるんじゃないかな。ただ……」
「ただ?」
「ラバーズが企画したイベントのポスターのデザイン、全部マスターが考えてるんだ。ちなみに……受付の井上さんを始め、みんなに不評」
今までのポスターを思い出すだけで、つい苦笑してしまう。大体はライヴで撮った写真をベースにデザインされているんだけど、何と言うか、その、暑苦しい。見る人間が引いてしまうようなものばかり選んでるけど、本人にはそれが一番カッコいいらしい。
「んじゃあさ、オレが描いていいかな?」
絶好の機会とばかりに、みょーが鼻を鳴らして立候補してきた。
「そりゃ……俺もみょーが描いた絵のほうがいいと思うけど……もうできてるし」
「オマエもそう思うんだったらさ、ほんのちょっと刷るだけでいいから。金も一切いらないし、まじめに描くからさ。な?」
意外な顔でしどろもどろに答えるしかできない俺に、両手を合わせてみょーが頼みこんでくる。ここで口約束を交わしてもマスターに直接話を訊いてみないとわからないから、その旨をきちんと伝える事にした。
「わかった、話は通してみるけど断られても文句言うなよ」
「やーりぃ♪」
指を鳴らして嬉しそうに跳ね回るみょー。無邪気と言うより、ただのガキだ。
「なあ、どうしていきなりそんな事?学祭が終わって暇になったから?」
「んー、それもある」
俺が訊くとみょーははしゃぎ回るのを止めて、段差に腰を下ろした。
「何っつったらいーんだろ……オマエらがみんな頑張ってんのに、オレだけ隣で眺めてるだけじゃつまんねえじゃん?何かの形で参加したいっつーかさ。それに……」
「それに?」
みょーはそこで言葉を途切らせて、面と向かって俺をびしっと指差した。
「オマエにだけは負けたくねえ」
強い視線を俺に投げかけてくる。だから俺も負けじと睨み返した。
そのまま真剣な顔で睨み合ってると、不意にバカらしくなって笑いがこみ上げてきた。俺が笑い出すのと同時に、みょーも同じ気持ちだったのか思いっ切り吹き出す。
二人の笑い声が夜の街に響き渡った。