055.愛のカタチ
肩の荷がようやく降りた感じだった。真っ白になれたわけじゃないけど、険しい山を一つ超えた感がある。心地良い疲れが全身を襲ってて、気を抜けば深い眠りに落ちてしまいそうだった。
「声、大丈夫ですか?」
目の前のインタビュアーが、俺の喉に視線を落とす。全力で声を振り絞ったから、たった6曲だけだったのに皺枯れ声になってしまった。無理をした分ざらつくような痛みが喉に生まれてるけど、いつものライヴでも唄い終わるとこんな感じだから気になるほどでもない。キュウが言うには、「カラオケで次の日のコトなんてキレイさっぱり忘れて唄いまくった後の声」らしい。大丈夫って答えて、話を次に進めた。
客を全部外にはけた後、熱気の残るフロアを使って盛大な打ち上げが始まった。クリスマスパーティーだから、出演したバンド以外にスタッフのみんなもテーブルを囲んで賑わってる。上のレストランは今頃大忙しなんだろう。次々に運ばれてくる料理も人数が多いからすぐになくなる。イッコーなんてこれのために腹を空かしてたらしくて、手元の皿に料理をてんこもりにしていた。カウンターの横にみょーが描いたポスターの元絵が飾られていて、それを眺めながら和美さんとみょーは楽しく談笑してる。
ライヴが終わった後、関係者席に座ってた雑誌の記者達からインタヴューに答えて欲しいって頼まれた。全員用のインタヴューは終わってて、残ってるのは軽い個人のインタヴューだけだ。隣にアルコールが入って瞼が落ちてきたキュウが座ってる。一応マネージャーの肩書きで横に置いてるけど、ちっとも役に立ってない。順番待ちの千夜は取り残された愁と別のテーブルで話してて、青空は業界の関係者らしい人達に囲まれて何やら話してた。そろそろ、俺達も新しい場所に進まなくちゃいけない時期に来てるのかもしれない。
インタビューが終わって、次は青空の番になる。瞼を閉じてうつらうつら身体を揺らしてるキュウにデコピンを喰らわせると、目を覚まして額を押さえた。
「いった〜い。なにすんのよー」
「寝るのか起きてるのかどっちかにしろ」
反省してるキュウを置いて、青空を呼んだ。周りの人と少し言葉を交わしてから、こっちに来る。
「また明日集まって、ミーティングする必要があるかもね」
すれ違い様に青空は苦笑して、匂わせ振りな台詞を残してインタヴューを受けに行った。キュウは青空に身体を揺さぶられてて、相変わらず眠たそうだ。
溢歌の姿を探してみる。フロアの入口扉に近い壁にもたれて、一人でつまらなさそうにグラスを傾けていた。声をかけようと思って行こうとすると、さっきまで青空と話してた業界の関係者達に捕まった。矢のように飛んでくる質問を焦れながら答えてる俺を、溢歌は冷めた目でじっと見つめていた。
やがて青空のインタヴューも終わると、次は千夜の番だ。愁は俺のそばに来たがってたけど、関係者達と話をしてるのを見て溢歌の元へ近寄っていった。解放された青空は遠くで俺に謝る仕草をして、マスターや井上さんと話を始めた。後で路地裏な。イッコーはいちゃついてる和美さんとみょーの間に割って入って、またごちゃまぜにしてる。飽きない奴というかパワフルな奴というか。
俺がようやく解放された時には、パーティーは中盤に差しかかって一番盛り上がっていた。ステージの上で一発芸をする奴らを見て笑ってる人もいれば、他のバンドのメンバー同士でいろいろ雑談し合ってたり、みんな思い思いの時間を過ごしてる。また来年もここでクリスマスを過ごせたら最高なのに、なんて先走った期待を抱いてしまう。
溢歌と二人きりで話す時間が欲しかったけど、横に愁や他のみんながついてくるから一度も話せる機会がなかった。みょー達と騒いだり他の仲のいいバンドの奴らと話しながら、何度も溢歌が気になって視線を送った。しかし人混みの中で長時間いるのは嫌だったのか、途中から姿が見えなくなった。受付前にでも避難してるのかな。
「なにキョロキョロしてるの?」
愁に何度か訊かれて、俺はその都度適当な言葉ではぐらかした。
「よう、ちょっといいか?」
今の状態で酒を入れると確実に寝るから、せめて小腹だけでも満たしておこうと料理を物色してると、マスターが背中から声をかけてきた。
「何だかやけに疲れた顔してんな、お前」
「疲れてるんだよ」
「まあ、目の覚める話でもしてやっから、青空呼んでこいや」
そう言ってマスターは楽屋の方へ向かう。
「あ、あたし呼んでくるね」
俺を気遣ってか、愁が青空を呼びに行った。とりあえず皿を適当なテーブルに置いて、マスターの後を追う。階段を昇って楽屋の並ぶ通路に出ると、マスターが壁にもたれてそばの灰皿に煙草の灰を落としていた。一本薦められるけど、気持ちだけ受け取っておく。しばらくして、階段を鳴らす足音が聞こえて青空がやって来た。
「何、マスター?」
青空が俺の隣に並ぶと、マスターは俺達の顔を交互に見合わせて真顔で言った。
「お前等、俺の事務所に入らないか?」
どんなセリフが飛んでくるのかと身構えていたら、お馴染みの内容だった。最近はここに顔を出すたびに言われてる。でも、今日のマスターはいつになく真剣だった。
「入らないかって言われても……なあ」
青空と顔を見合わせる。ついさっきまで業界の関係者に何度も誘われてうんざりしてたところだったから、余計に引いてしまう。青空も同じ気持ちだったらしくて、顔をしかめてた。こんな時にキュウが酔い潰れてなかったら大騒ぎになってたに違いない。
「別にお金を貰おうと思って始めたわけでもないし、今のままでやって行けたらそれだけで十分なんですけどね。ただ、凄くなっていけたらいいなって」
「俺も……唄っていられるだけで、それ以外はいらない。今日ステージに立ってみて実感――確信したんだけど、俺は唄うために生きてるんだなって。目の前に俺達の演奏を聴いてくれる人がいれば、それで全然OKかな」
「アホかお前等」
俺達の意見に間髪入れずに、マスターの罵声が返ってきた。
「凄いモンには自然と人が集まってくるもんなんだよ。そんでその凄いモンを、目の前の人だけに見せてどうする。いろんな手段を使って広げてくのが一番理想じゃねえのか」
マスターの言葉に、俺達は何も言い返せなかった。間違ってる事は一つも言ってない。
「凄いモンをアングラだけで堪能してる奴等もいるけどよ、そいつ等って結局それを手前の美学にして、闘う事を放棄してんだ。自分達以外の奴等と闘う事をな。俺はそんな考えは間違ってると思うぜ。どれだけ外で、殻を被らずに裸一貫で闘えるか。それが凄いモン作ってる人間の義務だと思うし、それを手伝うのが俺の役目だと思ってる」
俺達は笑み一つ見せないで、マスターの話を聞いていた。普段の他人を威圧するようで柔らかい普段の目じゃなく、自分の役割を背負った一人の男の目だった。
「いろんなバンドをこの目で見て来たけど、お前等には素質がある。他人の心に強く何かを刻む事ができる素質がな。誰一人としてこのバンドから抜けちまうと、空中分解しちまう。千夜の感情をスティックに直接プラグを差し込んだようなドラミング、イッコーの血液のうねりを流し込むベースラインと弱さを全て振り切った力強い唄声。青空、お前の頭の中にあるモンを具現化するギターリフと、世の中の全てを暴こうとしている歌詞。そしてたそ、お前だけが持っている万人の胸の奥をこじ開ける直接的な唄声。そんな個性のありすぎる面子がお互いを補うようにして、一つのグルーヴを作り上げてんだ。それは他の誰にも真似できない、お前等4人だけでしか奏でられない凄いモンなんだよ」
マスターは吸い終わった煙草を灰皿に擦りつけて、懐からもう一本取り出した。
「今日のライヴを観て確信した。お前等の音楽が世の中に出ないのは絶対間違ってる。第一、プロの有名なミュージシャンも演るこのライヴハウスで、誰よりも支持を得てるのはお前等だ。他のパンクバンド、ダンスミュージックにはない、他のロックバンドにも奏でられない『ロック』を、お前等は鳴らしちまってる。マネージャーっぽいキュウを横につけてるだけで、ほとんど4人であの音楽を鳴らしてんだ。周りにサポートしてくれるスタッフがいたら、これからもっともっと凄くなるに違いねえ。ライヴのポテンシャルを見ててもどうしてこの地域だけでやるのかが不思議なくらいで、今すぐに全国を回っておかしくねえよ。そのためには金がいるから事務所の力が絶対に必要だ。お前等の周辺がにわかに騒がしくなってんのもわかるだろ?みんなこぞって『Days』に注目し始めてる。次にワンマンやった時にゃ、チケット取れない奴が山ほど出てくるだろうよ。そんな奴等のために、音源を残すのもお前等の役割だと俺は思う」
鋭い目でマスターが俺達の顔を見てる。威圧されないように、汗の滲む握り締めた拳に力をこめて、負けじと視線を返した。ここで目をそらしたら、マスターの想いを全て無駄にしてしまうし、俺もここで引き下がるつもりは一つもない。横目で見ると青空も同じ気持ちらしくて、瞬きもしないでマスターの顔を見てる。下の賑わいとは全く違って、廊下は誰かが喉元で唾を飲みこむ音が聞こえるほど静かだった。
「自分達の音楽に納得してなかったお前等の意見も解る。でも、今日のライヴは前までいた場所から更に突き抜けたステージだった。ここ半年のお前等の成長ぶりはホント化けモンだよ。他の奴等が5年、いや一生かけてもできねえ事を、あっさりやってのけちまう。自分達に自覚はねえだろうが、腐るほどバンドを見てきた俺の目から見てそう思うんだからな。いろいろ要素はあるが、一番変わったのはお前だよ、たそ」
「俺が?」
いきなり振られて、声が裏返ってしまう。喉に軽く痛みを感じて、少しむせた。
マスターは壁にもたれてた身体を起こして、俺に向き直る。
「お前の唄には無限の才能を感じる。音域が広いだとか、唄に感情を込められるとかそんな低いレベルで語るのがバカらしいくらいにな。お前の唄は『感情』そのものだ。人間が人間に訴えかけられる一番単純で難しい事を、お前は最初から知り尽くしてる。唄を届けるって事がどんな事なのか、その肌に刻んでる。だからお前の唄はどこまでも優しくて、暴力的だ。今まではずっと自分の内面に深く深く入り込んでいく感じだったが、ようやく外も見始めたようだしな。頭ん中でセンズリばっかりこいてるガキが、初めて女の娘の手を握った時みたいな感じか」
露骨過ぎる下ネタが飛び出してきて、青空と苦笑した。
「まあ、新しいステップを踏んだ実感はあるけど」
「うん、僕も今なら、音源を残してもいいレベルまで来たと思う」
俺の言葉を青空がつけ足す。新曲を作ったりするのもいいかもしれない。考えれば考えるほど、俺達の目の前は広がってる気がした。とは言え今まで一寸先も見えない感覚が常に付きまとってた分、得体の知れない不安感も新しく生まれてるのも確かだ。
「そこで相談なんだが」
マスターは二本目の煙草をすり潰して次の煙草を取り出そうと懐から箱を取り出すと、空なのに気付いて不満そうに灰皿の上に投げ捨てた。
「お前等も知ってるように、俺はインディーズレーベルの事務所を持ってる。まあ、そっからプロになってる奴等もいるがな。肩書きだけ社長を名乗って、大体は下の奴等に任せてるが……まあ、そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、もしお前等がこれから本格的に音楽活動をするとして、事務所を選ぶ場合――俺達の所に来てくれ。これは誘いじゃない、頼んでるんだ。何なら、頭だって下げたっていい」
そう言って本当に頭を下げようとするマスターを、青空が慌てて止めた。
「期待してくれるのは嬉しいけど――どうしてそこまで?」
俺が訊くと、マスターは咳一つ払ってから答えた。
「俺は外部の人間で一番、お前達の演奏を多く見てる。だから青空の詞世界も理解しているし、どの部分を補って、どの部分を伸ばしていけば理想なのかがはっきりと見えてる。つまり、お前等を一番上手く生かせられるのは俺達の事務所だと思ってるって事だ。他の場所に行って名前も訊いた事のないプロデューサーをつけられて、くだらない音楽をやって欲しくねえんだ。お前等の音楽が世に広まるためなら、全面的にバックアップする。もちろん、それ相当の凄いモンを作って貰わなきゃいけねえがな」
マスターの目は本気だった。でも、俺達二人の考えだけで決定できる事じゃないし、俺達にとって重大な出来事だからじっくり話し合わなきゃいけない。それに、今決めたところで千夜は受験だから、すぐには活動できない。これからのバンドのスケジュールも今のところ、それが終わるまで全くの白紙だった。
「……少し、時間をくれませんか」
青空は慎重に言葉を選んだ。額に汗が浮かんでいる。
「まあ、お前等二人だけで決めるわけにもいかねえもんな。でもイッコーは最初からプロに戻るつもりだったし、千夜だって考えがあって『Days』一本に絞ったんだろうからな。遅くなってもいいからよ、いい返事期待してるぜ。じゃ、俺ちょっと上行くから」
手を振って、マスターは廊下の突き当たりの階段を上がって行った。姿が見えなくなるのと同時に、俺達は顔を見合わせて大きなため息を吐いた。
「青空は、どう思う?」
俺が話を振ると、青空は難しい顔を見せた。
「解らない……しばらく考えさせて欲しいかな。黄昏は?」
「俺は……どうだろう?音楽を続けて……大きくなっていく限り、必ずぶつかる問題だろうからな。全く考えてなかったわけじゃないけど、いざ目の前にしてみると変な気分だ」
いくら頭の中で考えてたところで、実際に直面すると戸惑うのは当然だった。
「うん、それは解ってたけど……」
青空の言葉はそこで途切れた。切羽詰ったような、深刻な顔をしてる。
「青空?」
俺が声をかけると、青空は慌てて笑顔を作った。
「ん……やっぱり、じっくり考えないとね。今日は明日集まる事だけをみんなに伝えておいて、この事はその時に話そうか。千夜は受験が終わるまでもうこれ以上バンドに出てくるのは無理っぽいから、明日電話で伝えておくよ」
「わかった。じゃあ、そろそろ戻ろう」
俺達二人は、横に並んで通路を戻って行く。こうやって肩を並べて青空と歩ける日が戻ってくるなんて嘘みたいだ。
青空の胸の内で、俺の事をどう思ってるかなんてちっともわからない。でも、そんなの全然どうでもよかった。俺だって、青空の全てを許せてるわけじゃない。受け入れられてるわけじゃない。昔からそうだったし、これからもそうだろう。溢歌が現れたおかげで、目に付く部分が大きく見えてしまっただけだ。そう、多分。
「黄昏」
先に階段を降りると、頭上から青空が俺を呼び止めた。天井の蛍光灯の影になって、その表情が上手く読み取れない。
「何だ?」
「溢歌を送ってくれない?家まで」
全然予想もしてなかった言葉が返ってきて、俺はうろたえた。
「いいのか?」
半信半疑に訊き返すと、青空は俺の横まで降りて来て頷いた。
「ようやく、家に帰ろうとしてる。本音を言えばずっとそばにいて欲しかったけど、彼女が選んだ事だから。……でも、今の僕に送る自信なんてないんだ。それに……溢歌もそれを望んでると思う」
「――本当にそれでいいのか?」
胸の中で矛盾した感情が交錯する。青空が溢歌といるのをあれだけ腹を立てて眺めてたのに、今は青空の背中を押そうとしてる。そんな自分を馬鹿野郎と頭の片隅で思いながら、もう一方で自分の行動は間違ってないようにも思える。
青空は俯いたまま、途切れ途切れに言葉を並べた。
「いいの……かな?自分でもよく……わからない。悔しい気持ちもあるし……情けない気持ちもあるんだ。でも、溢歌が家に帰るって言った時には嬉しかったし、寂しかった。多分、後悔すると思う、多分……。けど、もう一度溢歌の事を、もう一度、今度は面と向かって好きだって言えるようになるには、一旦距離を置かないと駄目だと思うんだ。溢歌と初めて出会って、それこそなし崩しに彼女を好きになっていったから……この気持ちを、自分の中で真正面から見つめる事なんて一度もしてなかったし――そうする事で、初めて胸を張って溢歌の前に立てると思う。黄昏と肩を並べられると思う」
最後は俺の目をしっかりと見て、言った。俺よりほんの少し背の高い青空の姿がやけに大きく見えた。こいつも、溢歌と出会った事で成長してる。俺に対する愁の存在もそうだけど、女性という生き物は男を成長させてくれる。
「わかった、ちゃんと送る。それに、溢歌には手を出さない」
いちいち愁の事を口に出してはぐらかすのも違う気がして、そう答えた。
「それこそアンフェアだからな。青空が断腸の思いで譲ってくれたんだ。俺だってあいつと会うのは久し振りで、自分の気持ちも全然わかってない。だから今日は送るだけにしとく。約束する」
「……ありがとう」
青空は小さな声で礼を言った。全く、俺達二人ほど恋愛に対してストレートにぶち当たってる人間はいないんじゃないか?本気でそう思う。
フロアに戻ってくると、パーティーはいい頃合を迎えていた。完全に酔い潰れてカウンターに突っ伏して寝てる人もいれば、早めに引き上げる人達もいる。食べ終わった食器の皿は重ねられて、残った料理は酒のツマミになっていた。
「あ、戻ってきた」
愁のそばに行くと、隣でキュウがテーブルに突っ伏していた。
「頭がぐらんぐらんすんの……」
「わかったから帰って寝ろ」
「送ってあげたほうがいいかな?」
「放っておいたら絶対にここで寝泊まりするから、そのほうがいいと思う」
「だだだだいじょーぶー、アタシはまだまだあるけーるー、のー」
「全然だいじょーぶじゃねーじゃん」
いつの間にかそばにいたイッコーが立ち上がろうとしてたキュウの背中を叩くと、再びテーブルに崩れ落ちた。これじゃ、一人で歩いて帰れそうにない。
「あーもーしゃーねーな。おれんちに置いてくるわ。すぐ戻ってくっから」
「あ、あたしも行く。ごめん、見てくるね」
酔い潰れたキュウを背中にしょって、イッコーがフロアを出て行く。愁も心配だから俺に謝って後をついて行った。俺もキュウ一人にするより、その方が絶対に安全だと思う。
青空は千夜と話をしてた。今日のライヴで汚名返上できたからか、いつになく満足そうだ。千夜のほころんだ顔を見るのも少しづつ増えてきたように思う。端から見ていると一瞬二人が恋人同士のようにも見えたけど、もちろん目の錯覚だ。
「どーしてオマエは一歩先にばっか行くんだコンニャロ」
残っていた料理を食べてると、いきなりみょーが後から両拳で俺のこめかみを捻ってきた。凄まじく痛い。
「何する気だおまえ……っ」
「こら、あきら、何やってるのっ」
涙を堪えてこめかみを押さえてると、和美さんがやって来てみょーを叱りつけた。どうやらどこにいてもすぐさま駆けつけられるように見張ってるようだ。悪ガキそのままだな、みょーの奴。
「オマエのライヴ見るたんびに、創作意欲が腸で煮えくり返るんだよ」
変な言葉遣いで突っかかってくるみょー。
「褒め言葉なんです、一応」
和美さんが後でフォローした。つくづく和美さんも大変だと思う。
「悔しかったらここまで来てみろ」
わざと挑発する言葉を選んでやると、単純なみょーはすぐにムキになった。
「ああ行ってやるよ、行ってやるともさ!来年1年でオマエより絶対高い場所に立ってやるからな、見てろよ!オマエが見た瞬間に土下座して靴にキスしたくなるほどすげえモンを作ってやるよ!和美!証人な」
「え、ええ」
びっくりして慌てて頷く和美さん。周りの奴らも面白がって、俺達を見てる。
「靴にキスはないだろ、変態じゃないんだから」
「オレがいつ変態だって言ったよ、愁にあんなコトまでやらせてんのに」
みょーの言葉に、俺は口の中のフライドチキンを吹き出した。和美さんが悲鳴を上げる。
「愁に何訊いたんだ、おまえ!?」
「あれ、カマかけただけだったのに。なにか愁にやましーコトでもしてんのかな、たそちゃーん?」
「こ、この野郎っ……」
いやらしい顔でほくそ笑んでるみょーを殴ろうと拳を震わせてると、溢歌がステージ横の通用口に入っていくのが目に入った。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「お、おい」
みょーに手を出すのを止めて、慌ててその場を離れる。何やら後でいろいろ言ってたけど一つも耳に入らなかった。頭の中は溢歌で一杯になってたから。
溢歌の後に続いて通用口に入って、階段を昇る。この通路には2つの楽屋が並んでて、脇に入った廊下にトイレと、反対側に機材置場やPAが並んでる。
廊下には誰もいなかった。帰る前に楽器を取りに来る人達も今は見当たらない。下と違ってやけに静まり返ってるのが薄気味悪かった。
トイレかと思って少し覗いてみたけど、女子用は電気がついてなかった。じゃあ、一体どこに行ったんだ?
首を傾げて廊下を一通り歩いてみると、PAの扉が少し開いていた。扉を開けると、中の機材を眺めてた少女が振り返った。顔にかかったウェーブがかった明るい髪を払いのけて、普段と変わらないキツイ目を俺に向けてきた。
「何だ、あなただったの」
溢歌のその声には、どこか安らぎが感じられた。