056.傷つけたくなかったのに
「――背、伸びたか?」
「まだ一ヶ月くらいしか経ってないじゃない」
冗談で言ったつもりはなかったんだけど、溢歌は笑って言葉を返してきた。その屈託のない笑顔を見ただけで、心の中に花が咲き渡る。思えば、こうして二人きりでゆっくり話せる時間は愁と会わせて以来、ほとんどなかった気がする。
溢歌は興味津々に、部屋の中にぎっしりと並べられた録音機材を眺め回していた。
「何してんの」
「懐かしいなーって、思ってたトコ」
そう言って、適当に機械のツマミを弄り回す。
「お前、歌嫌いなんじゃなかったっけ」
口にした時には遅かった。溢歌は俺に鋭い眼光を向けてくる。久し振りだから警戒するのをすっかり忘れてた。後悔して唇を噛んでると、溢歌は一転して顔をほころばせた。
「嫌いだけど、今日のライヴを観てると『ちょっといいかも』なんて思ったかな」
照れ笑いするその仕草が、俺の心を和らげてくれる。
「昔、よくこんなレコーディングスタジオに遊びに行ってたの。こんな風にツマミを好き放題弄ってたら、そのたびに怒られてたわ」
「初めて聞いたな、溢歌の昔話」
今までずっと何も言ってくれなかったし、俺も聞かなかった。青空は知っているのかなって、ふと頭をよぎった。
「聞きたい?私の過去」
「聞きたい」
「ひみつ」
俺が即答すると、溢歌は悪戯っぽくそう言って赤い舌を出した。会えば会うほど、溢歌と言う女の子の考えがわからなくなっていく。
ため息をついてると、溢歌が俺のそばに寄って来た。その背丈は愁とさほど変わらなくて、こんな奴に俺は悩まされてたのかって思う。
「着てるんだ、俺のあげたやつ」
溢歌と外で会う時はいつでも、最初に出会った時に渡した俺のジャケットをずっと着てる。下には前に会った時と同じ、模様の入った暗色系の膝までのスカートに黒のストッキングを履いていた。家出して他人の家にずっと住んでたからお洒落に気を遣えないせいもあるんだろうけど、黒のワンピース姿が一番似合ってたと思う。やっぱりもったいない。
「そのほうが嬉しいでしょう?」
そう言われて、苦笑する事しかできなかった。
「溢歌、家に帰るのか?」
このまま何も話さないでこの部屋に二人きりでいたら頭がどうにかなってしまいそうだったので、俺のほうから話題を作った。
「青空クンに訊いたの?」
溢歌は人差し指に耳元の髪の毛を巻きつけて弄びながら、上目遣いに俺を見てくる。
「ああ。それで一緒に帰ってやってくれって頼まれた」
その仕草に見とれてると変に思われるから、俺は名残惜しく顔を背けた。
「どこまで人がいいのかしら、彼」
そんな俺を気にする事なく、溢歌は肩をすくめて両手で髪の毛をかき上げた。言葉は悪いけど悪意で言ってるんじゃないのは、顔を見ればわかる。
「でも、どうして帰るつもりになったんだ?」
率直な疑問をぶつけてみると、溢歌は近くの機材の置かれたテーブルに腰かけて、面倒臭そうな顔を見せた。
「帰るつもりなんてなかったわ。ずっとこうして渡り鳥みたいに過ごしていくほうが簡単で、気が楽でいられるもの。でも、そうやって逃げてばっかりで生きていくのも飽きちゃった。それなら、面倒な事を全部片付けてしまったほうが清々するんじゃないかって、あなたの唄声聴いてたら思ったの」
そばに立ててあるマイクスタンドからマイクを奪って、拳を握り締めて熱唱するふりをしてみせる。どうやら俺の真似をしてるらしいけど、俺はそんなに演歌歌手じゃない。
すぐに飽きたのかマイクをテーブルの上に置いて、溢歌は俺の顔を見つめた。
「街角から流れる唄声でさえ私にとっては耳障りな騒音でしかないけど、あなたの唄声だけは別。まるで自分の声みたいに思えるの。私があなたと混じり合いたいって思ったのも、それが理由」
ブラウンの瞳が俺の姿を映し出す。見てるだけで吸いこまれそうな瞳の奥にある溢歌の心の内は、分厚いカーテンが降りていて窺い知る事ができない。
「私が失った唄声をあなたは持ってる」
しかしその言葉を口にする時、溢歌の嘘偽りない本心がが見えた気がした。力を持った言霊が、俺の心を動揺させる。
「それって、どういう――」
「最後の曲、誰に対して唄ってたの?愁ちゃん?」
俺の質問を遮るように、溢歌が話題を切り替えてくる。すっかりまた、人に内心を見せない顔に戻って俺を手玉に取る。深く問い詰めたところで無駄なのはわかり切ってたから、諦めてその話題に乗った。
「誰にって――」
答えは決まってるのに、その次の言葉が出てこなかった。頭の中に、様々な人の顔が駆け巡る。もう一度、俺は頭の中で同じ台詞を口にした。
青空が初めて書いてきたラブソングを、俺は自分の気持ちを伝えようと思って全力で唄った。その相手は――愁じゃない。
「……お前しかいないだろ」
自分に言い聞かせるように、俺は言った。胸のどこかで、錠前の外れる音がした。
「青空が書いてきた詞だったけど……俺は青空のために唄ってない。自分のために、溢歌に自分の気持ちを届けたいって思って唄った」
あれ、変だな――?
今まで一歩置いていたはずの溢歌への気持ちが、心の中に漣のように流れこんでくる。慌てて鍵を閉めようと思っても、一度開いた扉はもう元には戻らなかった。
「お前のおかげで、俺はもう一度歌を唄えたんだ。溢歌に出会わなかったら、俺は今ここにいなかった。凄く感謝してる」
言葉にするのが焦れったいほどに、俺の心は溢歌で一杯になっていった。溢歌に触れたくて、下ろした手が勝手にその華奢な身体へ伸びていく。
「その言葉、愁ちゃんにあげればいいのに」
俺が一歩踏み出そうとしたところに、足を組んだ溢歌が冷めた口調で投げかけた。全身が震えて、我に返る。背中にはYシャツが張りつくほど汗をかいていた。
心を落ち着けるために、大きく息を吸う。冷たい空気が肺の中に流れこんでいった。
「愁はずっと――俺の背中を押してくれてた。だからあいつにも、メンバーのイッコーと千夜、バンドを見守ってくれてるキュウ、和美さん、そしてみょー、全員に感謝してる。愁は俺に唄う歓びを教えてくれた。溢歌は――俺に唄う力をくれたんだ」
「青空クンといい、どうして歯の浮くような台詞を真顔で言えるのかしら」
口に手を当てて、溢歌はおかしそうに笑う。それから俺も、だんだん自分の台詞に恥ずかしくなってきて横を向いた。
「思ってる事を口に出してるだけだ」
「見え透いた嘘を吐かれるよりはそっちのほうが気持ちいいけど、ね」
子供っぽくも大人びてもいない、等身大の溢歌の笑顔が俺の胸を高鳴らせる。時折見せる他の誰にも真似できないこの笑顔、世の中の汚いものに覆い隠されても命溢れる輝く笑顔が俺の心を繋ぎ止めて放さない。
「でも、嬉しかったわ。生きてて良かったって心の底から思えたもの」
「お前だって大袈裟じゃないか」
「かもね」
青空の前でも今と同じような笑顔を見せてたんだろうか?そんな疑問が脳裏をよぎった。できる事ならこの笑顔を一人占めしたいなんて考えるのは俺のワガママか?
「青空クンとの事、何も訊かないんだ」
足を組み返して膝の上に片肘をついて、にやけた顔で溢歌が訊いてくる。俺をからかうのがそんなに楽しいのか?
「聞いて悩むだけだったら最初っから訊かない」
ぶっきらぼうに俺が答えると、溢歌は目を細めて口元をほころばせた。
「ホントにあなたってお人好しね」
「よく自分勝手って言われるけどな」
「でも、嫌いじゃないわ、そういうの」
テーブルの上から降りて、溢歌はいきなり俺の胸に飛びこんできた。
「なっ……!?」
突然の事で頭が混乱してる俺に構わず、Yシャツの上から柔らかな頬をなすりつけてくる。外気で少し冷たくなってる溢歌の体温が、服越しに伝わってきた。
「黄昏クンの胸って、凄くあったかい……」
俺の背中に手を回して、甘えん坊の仔猫のように何度も胸に顔を押し付けてくる。
「お、おい」
自分の両手が震えてるのがわかった。このまま溢歌の背中に手を回してもっと甘えて欲しい想いと、青空との約束と愁の顔が俺の中で二律背反する。
「どうしてかしら、青空クンと一緒で、とっても安らぐ……」
とても安心し切った声を出して、溢歌は胸の中に浸ってる。
だけど俺はその本音を聞いて、複雑な想いに駆られた。溢歌の中で、青空と俺の事を天秤にかけているのか。長い間青空の所にいたのに、あいつの想いを振り切って、俺を求めようとしているのか。
どうして人はすれ違ってしまうんだろう?
この世に生きる全ての人間が、理想通りに他人と繋がれるはずなんてない。もちろん俺もその中の一人で、神様みたいに蚊帳の外で世界を眺めて暮らしてるわけじゃない。でも、この寂しい気持ちはどう説明すればいい?溢歌を抱き締めれば、その想いが膨れ上がってしまう。様々な気持ちが複雑に絡み合って、俺はどうすればいいのかわからなくなった。
「あ、あれ?」
ふと、溢歌の両手の力が抜けて、背中から離れた。顔を下に向けると、溢歌の目から零れ落ちるものが見えた。
「変ね、全然そんなつもりなんてないのに――」
慌てて指の腹で涙を拭うけど、思いとは裏腹に次々に溢れ出してくる。
「ちっ、違うのに、私、そんな……」
だんだん涙声になってきて、やがてすすり泣き始める。溢歌の掌はすっかり涙で濡れていた。そんな溢歌を見てると、愛おしさで胸が一杯になる。
「溢歌っ!」
俺の声が、狭いPAに響き渡った。
気付くと俺は、溢歌の身体を抱き締めていた。溢歌は大きく目を見開いて俺を見上げている。慌てて手を離そうとすると、そっと俺に身体を預けて来た。
その瞬間、今まで整理のつかなかった自分の気持ちがはっきりと見えた。愁への気持ち、そして、溢歌への気持ち。そして俺が、どうすればいいのかも。
――ごめんな、愁。
心の中で謝って、俺は溢歌の背中に回した手に力を入れた。強く、強く抱き締める。俺の気持ちを、全身でわかって欲しくて。
溢歌も泣きじゃくりながら、必死に俺に抱きついてくる。感情の糸が切れたのか、まるで一生分の涙を流してるようにも思えた。
腕を緩めて、溢歌の頭を撫でてやる。すると溢歌は安心し切ったのか、全身の力を抜いて俺に寄りかかった。溢歌の顎を上に向けてやると、涙で真っ赤になった目を俺に向けてきた。すがるものが俺しかいない、そんな目で俺の顔をじっと捉えてる。
その泣き顔が可愛くてたまらなくて、俺は軽く唇を重ねてやった。そしてゆっくりと床に押し倒す。溢歌も抵抗らしい抵抗を見せないで、俺を受け入れてくれる。
何度も何度も、溢歌の顔にキスしてやる。溢歌も進んで、唇を触れてきた。その度に、全身で波打つ愛しさに歓びを覚える。
ずっと、こうしたかった。心の奥底に閉じこめてた想いが、溢れんばかりに全身を駆け巡ってる。溢歌が俺の胸の中にいる。それだけで幸せだった。
でも、その想いも長くは続かなかった。
「たそ……?」
頭上から、聞き慣れた声がした。溢歌も声の方向に目を向けたまま固まってる。
恐る恐る顔を上げると、扉の隙間から愁の顔が見えた。口元に両手を当てて、大きく目を見開いて震えてる。
どうしてここに愁がいるんだ、イッコーと一緒に行ったはずじゃなかったのか?そんな事や言い訳を考える前に、俺と目が合うと愁は脱兎のごとくこの場から逃げ出した。
「愁!」
足音を立てて走り去る愁を追いかけようと、慌てて立ち上がって部屋を出て行こうとする。でも、溢歌を置いて行っていいのか?振り返ると、身体を起こした溢歌が無表情で乱れた服を直していた。
愁を追いかければいいのか、溢歌をこのまま残していいのか。
二つの選択に迫られる。
『どーせ、いつかはどっちかを選ばなきゃいけねーんだ』
イッコーの言葉が脳裏をよぎった。多分、今がその時なんだろう。じっくり考えてる余裕なんてない。決断を目の前に迫られて、俺は迷いに迷った。
「何哀れんだ目で、こっち見てるの」
溢歌が怒った顔で俺を睨む。床にへたりこんだその身体は、とても小さく見えた。
「行けばいいじゃない。行って捕まえて謝ればいいじゃない。後で口裏合わせておくから……私の事なんて放っておいて好きな子の後を追えばいいじゃない!」
涙を孕んだ怒声が部屋に反響した。なおも溢歌はヒステリックに叫ぶ。その姿がとても悲しくて、切なくて、胸が痛む。
「そんな目で見なくたって私は一人で生きていけるわ!青空クンだっているもの……。愁ちゃんにはあなたしかいないんだから、さっさと行きなさいよ!私なんか構わないで行けばいい――」
俺は部屋の扉を閉じた。そして、溢歌の前で腰を落として、そっと手を差し伸べた。信じられない表情で、溢歌は目を見開いて俺を見てる。
「どうして……」
枯れた声が、唇から漏れる。俺は愁の影を振り払って、言った。
「好きだから。溢歌が好きだから」
その言葉に嘘はない。愁と重ねた想い出も気持ちも、嘘じゃない。ただ、俺は愁じゃなく溢歌を選んだ、それだけだ。
「どっちを選んだって後悔するに決まってる。だったら俺は、今の自分の気持ちを信じる」
俺は今、溢歌のそばにいてやりたかった。ずっと独りぼっちの、溢歌の隣に。
「どうしようもないバカね、黄昏クンって……」
溢歌は苦笑いを浮かべて、ゆっくりと俺に手を伸ばした。しっかりと手を握ってやると、溢歌も俺の手を離すまいと強く握り返した。その手はとても暖かくて、初めて感じた溢歌の温もりと同じだった。
この温もりを、俺はずっと欲しがってたのかもしれない。
手を取って立たせてやると、溢歌はスカートについた埃を手で払う。そして俺の顔を見て、恥ずかしそうに笑った。
俺は間違ってない、と思う。思いたかった。今更愁に謝る顔なんてないし、許してもらえるわけがない。十分覚悟した上で、俺は溢歌のそばにいる事に決めた。きっと、いや、もう、愁と今までの関係に戻れない。今はよくても、後で死ぬほど後悔するに決まってる。
俺は間違ってないよな?
もう一度、自分に問いかけてみる。誰かにそうだって言って欲しい。正しいなんて言わなくてくれたっていい、間違ってないんだって思いたい。
「俺、間違ってるか?」
急に不安になって、聞こえないくらいの小さな声で呟いてみた。すると溢歌は背伸びして俺の唇にキスをした。
「そんなの、神様にだってわからないわ。黄昏クンは愁ちゃんを泣かせる代わりに、あたしを助けてくれた。それだけの事よ」
慰めの言葉だったのか、俺にはわからなかった。でも、ほんのちょっとだけ楽になれた気がする。だけどこの罪悪感は二度と消えないに違いない。
この場にあるもの全てをぶち壊して、胸のわだかまりを静めたいなんて思った今の俺はきっとどうかしてる。それでも愁の顔が脳裏を掠めるたびに、自己嫌悪に陥っていった。
鎖が絡み合う音が、どこかで聞こえた気がした。