→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   057.そして石は転がる - Rolling stone -

 俺は溢歌を連れて、階段を上がってレストラン側から店を出た。もう一度溢歌とあの部屋で続ける気にもなれなかったし、みんなに顔を合わせたくなかった。幸いにも店長が上にいなくて、呼び止められる事もなく外に出れた。
 外は寒かったけど、雪は降っていなかった。道を行き交う人々は足を滑らせないように雪かきされた歩道を歩いて行く。立ち並ぶショーウィンドウの中に、たくさんの装飾の施されたクリスマスツリーが見えた。どこからかジングルベルが聞こえてくる。
「こんな街角に流れる唄も嫌いなのか?」
「黄昏クンが横にいるから気にならないわ。普段は耳栓するけど、それ以前に来ないわ」
「あそこに飾ってある服なんて、溢歌に似合いそうだけどな」
「私そんなに悪趣味じゃないわ。もっと上手い着こなしするもの」
 恋人同士のような会話を繰り広げながら、駅前へ向かう。一度自分のマンションの方角を振り返ったけど、高層ビルの立ち並ぶここから見えるはずもなかった。愁の事を思い返さないように、俺は会話が途切れないように溢歌にいくつも話題を振った。でも、電車に乗ってからは溢歌は生返事をするだけで、ずっと雪の積もった夜の街並を車窓から眺めているだけだった。電車を降りてからは言葉少なに暗い夜道を二人で歩いた。
 俺達の間には、他の恋人達がやるようなくだらない会話なんて必要ない事にそこで気付いた。横にいるだけ、それこそが一番大切だったんだから。
「滑るからおぶって」
「その方が余計危ないだろ」
 雪の多い脇道を通る時に、滑ってもすぐ助けられるように俺は溢歌の手を取った。
「これじゃあなたが滑ったら私まで道連れじゃない」
 言い返す言葉もなかったけど、溢歌は嬉しそうだった。脇道を抜けた後も、溢歌は手を離そうとしなかった。
 いつもの港に出ると、一段と冷たい風が海側から吹き付けてきた。山側の歩道を歩いて、近くの喫茶店の横にある自動販売機でいつものミルクティーを二本買った。
「またこれ?」
 溢歌は苦笑してたけど、俺にとって想い出のあるミルクティーだからしょうがない。半分ほど飲んで、溢歌のと交換した。味は変わらなかったけど、何となく。
 いつもならこの時間には閉まってる喫茶店に明かりがついてて、中から騒ぎ声が聞こえた。どうやらここでもクリスマスパーティーが行われてるようだ。眺めてると突然玄関の扉が開いて、サングラスをかけた黒髪の男が店の階段を転げ落ちた。続いて前にここで見かけた赤髪の女の子が出て来て、男に怒鳴ってる。雑誌かTVで見たような顔だったけど、別人だろう。扉の影から長い栗髪の女性が顔を出して何やら言った後、二人は中に戻っていった。サングラスの男と目が合うと、恥ずかしそうに頭を掻いて二人の後に続いた。
 幸せを満喫してる人間は、世の中にはまだまだたくさんいるらしい。
 溢歌に連れられて、缶を手に一軒家の密集した道を歩く。どうやら漁師の住まいが多いらしくて、周囲に魚の匂いが染み付いていた。そこを抜けて少し歩いた場所にある木造の一戸建ての前で、溢歌は足を止めた。
 玄関上に『時計坂 ■ 溢歌』と木彫りされた表札が掲げられてる。溢歌の隣に誰かの名前が書いてあっただろうところに、マジックか何かで塗り潰したような跡があった。
「似合わない場所に住んでるって思ったでしょ、今」
 溢歌は俺の顔を見て、鋭い目線を投げかけてくる。全くその通りで、最初に出会った時に感じた溢歌の妖精的なイメージとは正反対の朴訥な家住まいだった。
「まあ、な」
「おじいちゃんの家よ。2年前からここに住んでるの」
 玄関の扉に鍵を差しこんで、捻る。中に入って電気をつけてからもう一度外に出て、溢歌は俺から目をそらして言った。
「その……送ってくれて嬉しかったわ。ありがとう」
「慣れてないんだったら無理に言うなよ」
「悪かったわねっ」
 図星だったらしく、溢歌は怒って顔を背けた。俺の笑いが止んだ後に、溢歌は俺に改まって向き直って、寂しげに胸元で手を振った。
「それじゃ、またね」
「嫌だ」
 間髪入れず俺が拒否すると、溢歌は目を丸くした。
「帰らない」
「……愁ちゃんはどうするの?」
 わかってて痛いところをついてきてるのか、こいつは。愁の事を心配してるように全然見えないのも、俺が穿った目をしてるからなのか?
「今更追いかけても、一緒だからな……お前が寝ついてから、帰る」
「……好きにすれば」
 そう吐き捨てて、溢歌は扉を開けたまま中に入っていった。家のあちこちで明かりがついていくのを俺は外でぼんやりと見ていた。
 気持ちに整理をつけてしまうと、幾分心が軽くなった感じはする。でも、あと数時間後に愁と顔を合わせれば、苦い気持ちがこみ上げてくるに決まっていた。俺の白いため息が空に消えていくのを眺めてると、屋根に積もった雪と輝くオリオン座が見えた。
「埃っぽいな」
「誰も住んでないもの」
 中に入ると大して広くない家で、玄関の隣に台所を兼ねた通路があって、部屋が二つしかない上に二階もない。靴を脱ぐ時に手をかけた壁には埃がべっとりついてて、慌てて手を合わせて打ち払った。
「爺さんと二人で住んでたんじゃないのか?」
 そんな事を溢歌は二度目に会った時に言ってた。すると洗面所で顔を洗う溢歌から、さらりと強烈な言葉が飛んできた。
「死んだわ、だから家出したの」
 唖然とした。
 次の瞬間俺は事の重大さに気付いて、猛烈に後悔した。知らなかったとはいえ、溢歌の傷口を抉ってしまったんだから。
 タオルで顔を拭きながら溢歌が戻ってきた。
「死の匂いのするここに残ってると、本当に死ぬかもしれないって思ったから」
 綺麗過ぎて殺風景な和室を眺め回して、溢歌は言った。あまりに無表情なその横顔を、俺はただ見てる事しかできなかった。
「黄昏クンと出会う少し前よ。いきなりってわけじゃないけど。1年以上看護してて、最後の3ヶ月ほどは寝たきりだったわ。心の準備はしていたけど、いざいなくなってみると耐えられなかった。私の最後の身寄りだったから」
 俺はどれだけ、溢歌の想い出がこの場所に残ってるかなんて知らない。だから辛い想い出を掘り返す真似をするつもりもなく、黙って話を聞いていた。
「やれる事も全部やって、肩の荷が降りたのもあるけれど――それ以上に、本当に独りぼっちになってしまったんだなあって。おじいちゃんの最期を看取れて、もうこれ以上生きている必要もなくなったし、いつ死んでもいいかなって。そう思って、毎晩遊びに行ってたあの岩場から飛び降りようって決めた。でも、いざそう思っても、足は前に出なかったわ。あの時の私は死ぬ勇気さえも、そのまま生きる希望さえなかった」
「じゃあ、どうして俺の目の前で――」
 わざわざ見せつけるように、海に向かって飛んでみせたのか。
 溢歌は俺の顔を見て、ほんの少し寂しそうに笑った。
「誰かに私が生きていた事を知って欲しかったのかもしれない。私ってニンゲンが存在していた事を、誰かの胸に残したかったんだと思う……。だから、黄昏クンがあの時いてくれたから、決心がついたの。まさか失敗するなんて思ってもみなかったけど」
 溢歌の告白に俺は愕然とした。俺があの時、あの場所にいたおかげで溢歌は飛び降りたんだ。もしあの時助けられなかったら――そう考えるだけで、背筋が震えた。
「私、一日に3回ぐらい考えてるわ。もう生きなくてもいいかなって。でも、手首を切った事なんて一度もないの。生きるのが嫌になるなんて毎日だけど、そんなひょんな拍子で命を絶とうだなんて思わないわ。青空クンも、同じ事言ってたっけ」
 そんな事を昔、話してたような気もする。溢歌と初めて出会った時に現実離れな存在に思えたのも、溢歌本人がこの世に生きようとしていなかったからなんだろう。
「でも、黄昏クンと出会ったおかげで、少しは楽になれたかな」
 微笑みを見せるその顔は、とても幸せそうに見えた。そう言ってもらえるとこっちも嬉しい。俺も溢歌と出会ったおかげで唄を、自分自身を取り戻せたんだから。
 溢歌は押入れを開けて布団を取り出した。どうも溢歌のイメージとのギャップが激しくて、困惑してしまう。2年前から住んでるって言ってたけど、それ以前の生活はどうだったのか少し気になった。
「もう寝るのか?」
「今日は疲れたもの。風呂は明日にするわ」
 和室の部屋にそぐわない古びたエアコンのスイッチを入れて、溢歌は俺の目の前で服を脱ぎ始めた。こっちが恥ずかしくなって、慌てて背中を向ける。
「目の前で脱ぐなよ」
「襲おうとしてたのに?」
「……今日は手を出さない、青空と約束したから」
 もう破ってしまったも同然だけど、愁の事も考えるとこれ以上何もする気が起きなかった。青空にも謝らなくちゃいけない。
「いいわよ。その代わり、私が寝るまで横にいて。いてくれるだけでいいから」
 その言葉に、どこか甘い響きが含まれてる気がした。でも、それで溢歌が安心して眠れるんだったら断る必要なんてない。
「わかった」
 溢歌が寝付く頃には終電が走ってないかもしれないけど、その時は歩いて帰ればいい。ここからなら2時間もかからない。何なら愁の家に――とも一瞬思ったけど、今顔を出すのは不自然過ぎるし、みょーと和美さんの時間をぶち壊すわけにもいかない。
 そのまま背を向けてると、着替え終わったのか溢歌が部屋を出ていった。そしてすぐに歯ブラシを口に咥えて戻ってくる。手には別の歯ブラシと歯磨き粉が握られてた。
「……やけに庶民的だよな、こういうとこ」
「そうかしら」
 爺さんと暮らしてたんだから、それもしょうがない。溢歌の着てるパジャマも全然味気のない、赤一色の無地だった。
 歯磨きが終わると溢歌は部屋の照明を落として、布団に入った。横に座って寝るまで見守っててやろうかと思ったけど、薄暗い明かりの下で見る溢歌の顔がどこか寂しそうに見えたので、ジャケットを脱いで一緒に布団に入ってやった。
 俺は全然眠くなかった。心身共に疲れてたけど、これからの事を考えると目が冴えてしょうがなかった。天井にぶら下がる橙色の豆球を眺めてると、いろんな思いが胸の中を駆け回って気が狂いそうになる。
「ん……」
 溢歌が甘い声を上げて、焦れったそうに身体を俺に寄せてきた。そっと肩に手を回して抱き寄せると、溢歌の体温が直に感じられた。
 ほんのりと温かい。
 溢歌の温もりを感じるたびに安心するのは、こいつが妖精だとか俺の妄想だとかじゃない、一人の人間だって事が実感できるからだろう。
 ふさふさの髪の毛、すべすべした肌。まるで人形みたいなその身体に、赤い血液が流れてる。心臓の音が聞こえてきそうだった。
「黄昏クンの身体って温かいよね」
「そうか?」
「身体の冷たい人って、何だか嫌じゃない」
「俺にはよくわからないけどな」
 そう言えば愁の身体も、とても温かかった。今頃、一人で泣いてるんだろうか?布団に包まって横になってると、あれが夢の中の出来事だったようにも思える。
 溢歌は俺の腕の中で目を閉じて、温もりを感じていた。可愛過ぎてキスしたくなるほどいい寝顔だ。俺は溢歌の寝息が聞こえてくるまでじっとしてるつもりだった。
 これから、俺達9人はどうなっていくんだろう?
 バンドの活動にも一区切りついた今、そんな事を考えた。マスターに事務所に入るように頼まれたけど、このまま本格的に音楽活動を始めていくのか。千夜も大学受験がどうなるかわからないし、受かったらもしかするとバンドを辞めて授業に専念するかもしれない。俺としてはこのまま続けていきたいけど、今のまま進んで行けば満足だとは思えなかった。
 目を閉じると、心の奥底で音楽が流れてるのがわかった。心の揺れ動きが音符を作って、それが集まって譜面になる。
 俺だけのメロディが、胸の中で鳴り響いていた。
 このメロディを唄にしたい。
 バンドの演奏に乗せて、みんなに届けたい。イッコーや青空が持ってくるメロディだけじゃなくて、俺のメロディを。そうする事で、俺が何を唄っていくのかが見えてくると思うから。
 青空達やキュウも賛成してくれるだろう。CDを出すならまたみょーにジャケットを頼むのもいい。和美さんも一緒に手伝ってくれたらなお嬉しい。バンドの未来を考えれば考えるほど、俺は湧き上がる興奮を押さえ切れなくなっていた。
 そうやって愁の顔を思い出さないように努めてると、腕の中で溢歌が動いた。小さな掌を服の下から入れてきて、俺の肌に触れる。そのままもう片方の手で服の前を摘んで、口を使って上からボタンを一つずつ外していった。俺の素肌が露になると胸に頬をすり寄せてきて、中指と人差し指の間に挟んで弄り始める。軽い刺激が全身を襲った。溢歌の呼吸にはだんだんと熱が帯び始めて、甘い吐息が小さな唇から漏れる。
「……そうやって、寂しさを紛らわせてきたのか?」
 俺は顔を天井に向けたまま、独り言のように言った。溢歌は俺の胸に舌を何度も這わせて反応を楽しんだ後、掛け布団を払って俺の上に馬乗りになる。
「コレ以外知らないもの、私。」
 そんな自分を再確認するように答えた後、溢歌は上着を脱ぎ始めた。下着をつけてないのか、服の下からすぐに素肌が見えた。部屋の中は暖房がかかっててそれほど寒くない。
「青空クンともそうやって、逃げてきた。いつもいつも夜になったら襲いかかってくる恐怖に飲み込まれないようにSEXに没頭して死に目を背けるの。朝まで忘れていられたら私の勝ち。そうやって毎晩毎晩青空クンの胸に抱かれてたわ。そんな事、私は一つも言わなかったけど、青空クンは何も訊かなかった。遠慮してたのかなんて私にはわからないわ。でも、一度も断らなかったから散々慰み者になってあげた。頭のてっぺんから足のつま先まで、全部。まんざらでもなかったんじゃない?してしまえば、男なんてみんな一緒よ」
 溢歌は話しながら着てる衣服を全て脱いで、生まれたままの姿になった。初めて見る溢歌の裸体は、早熟なのかとても女らしい身体つきをしていてとてもいやらしい。白い肌が橙色の明かりに照らされて、凄く綺麗で幻想的に見えた。
「お前、初めてしたの、いつ?」
 俺の上に跨る溢歌に、視線だけ向けて訊いてみる。
「……何バカな事訊いてるの」
 溢歌は俺の顔に両手を伸ばして、目の前まで顔を近づけてきた。
「あなた、SEXが特別な事だとでも思ってるんじゃない?」
 そして据わった目で俺を見据えて、くだらないと吐き捨てた。
「肌を重ねて女の穴に男の棒を突っ込んで。それだけの事じゃない。たったそれだけで、クスリよりも気持ち良くなれるの。だから私は、一番好きなヒトとSEXしたいだけ。何もかも吹っ飛ばせる、最高の手段だわ」
 溢歌の手が、俺の股間に伸びる。しなやかな指の感触をズボン越しに感じて、俺の意思とは無関係に膨らみ始めた。それでも俺は顔に出さないで、冷めた目で溢歌を見続ける。
「青空クンや愁ちゃんに義理立てしてるつもり?そんな意固地にならなくたって、これからいくらでも肌を重ね合うんだから」
「愁や青空は関係ない」
 心外な顔で吐き捨てると、溢歌は目を丸くした。でもそれも一瞬の事で、再び妖艶な目で俺を誘う。それを見てると無性に怒鳴りたくなってきたけど、喉元で堪えた。溢歌は構わずズボンのチャックを降ろして、今度は直に触れてくる。ピアノを弾くような感じで、俺に刺激を与えてきた。思わず声が出そうになるのを必死で我慢する。
 溢歌が俺の耳元に顔を近づけて、甘い声で囁いた。
「黄昏クンだって男なんだから、こんなふうに弄ってもらうのが気持ちイイでしょう?愁ちゃんに咥えてもらった事ないんなら、私がしてあげようか?」
「愁はそんなつもりで俺としたりしないっ!」
 俺はキレて、飛び起きて溢歌を怒鳴りつけた。何よりも、愁を馬鹿にしてる事に腹が立った。あいつがどんな想いで俺と身体を重ねてきたのか、何も知らないくせに。
 布団の上に転がった溢歌を睨んで、俺は息を切らせながら言った。 
「お前の言ってる事は間違っちゃいない。間違っちゃいないけど――悲し過ぎるんだよ」
 SEXにだっていろんな形がある。純粋に快楽を貪るだけの行為から、お互いの愛を確かめ合うものまで。どれが一番正しいかなんて答えられない。でも、溢歌の考えにはどこか大切な部分が欠落してるように俺には思えた。
 溢歌はうざったそうに顔にかかった前髪を払いのけて、俺に向き直った。
「何それ?私に同情してくれるわけ?あそこで愁ちゃんを追っかけなかったのも、そういう理由?ばっかみたい。でも、私はそんなヒト嫌いじゃないわ。自分だって一時の快楽の連続で生き延びてるニンゲンだもの、同じ性格で気が合うわね。私を選んで正解だったんじゃない?私の身体の方が愁ちゃんよりいやらしいもの、絶対気に入ると思うわ。一度抱いたら、もう愁ちゃんの事思い出せないくらい忘れられなくなるんじゃないかしら。そしたらどう思うかしらね、あの子。知ってる?他人に憎まれるのって、ヒトを好きになるのと同じくらい気持ちいいの」 
 俺の目をじっと見つめて、意地悪い笑みを浮かべる。その顔が俺には、とても悲しいものにしか映らなかった。
「お前、そうやって自分を創ってて、苦しくないか?」
「――!」
 溢歌は一瞬、明らかに動揺を見せた。すぐに表情を戻すけど、俺は崩れた隙をついて一気に溢歌に詰め寄った。
「それで満足してるんだろ、逃げてるんだろ、違うか?本当は他の人みたいに、好きな人の胸に抱かれて幸せな気持ちで眠りたいって思ってるんじゃないのか?甘えたいんだろ?誰も傷つけたくないって思ってるんだろう?」
 どうして溢歌が他人を傷つけ、嫌われるような態度ばかり取るのかがわかった気がした。
 全ては胸の内の裏返しに過ぎないんだ。本当は誰よりも孤独でいる事を怖がって、他人と繋がる事を望んでる。それは、歌を唄う事で絶望から目を背けて、闇の向こうの光を求めてた昔の俺と同じだった。
「――人の心見透かしたような事言い当てて天狗になってるつもり?冗談じゃないわ。私、他人の心を知った被って話すヒトが一番大嫌いなの」
 溢歌は鼻で俺をせせら笑って、顔を背けた。
「じゃあ、どうして俺の手を取ったんだよ」
 視線を泳がせる溢歌に、俺は厳しく問い詰める。
「誰かにずっと助けてほしかったんじゃないのか?自分を今の場所から救い出してくれる相手をずっと求めてたんだろ?意固地になる必要なんてどこにもないじゃないか」
 真っ直ぐに溢歌を見た。その顔に、人を見下すような高慢な表情はすっかり影を潜めてていた。どこか怯えた目で俺を見てる。
「そんなつもりなんてないわ。私はただ――」
「ただ、何だよ」
 いい加減逃げ惑う溢歌を追い駆け回すのも嫌になって、俺はとっておきの台詞を使った。
「俺はもう一人のお前なんだろ?お前の考えてる事ぐらい、全部わかってる」
 そう言ってくれたのは、溢歌、おまえじゃないか。
「素直になれよ」
 せめて俺の前だけでも、殻を外したありのままの心を見せて欲しかった。そうして好きな人の心を、優しく抱き締めてやりたかった。
 俺はそっと溢歌の手に自分の手を重ねた。驚いたのか少し肩を震わせたけど、抵抗はしなかった。
 長い沈黙が、部屋を流れた。エアコンの音も壁時計の時を刻む音も、耳に入ってこない。俺はその間ずっと、溢歌の顔を見つめ続けた。溢歌が言葉を返してくれるまで、俺はずっとずっと待ち続けた。
 俺達の時間を動かしたのは、溢歌の涙だった。
「だって、だって、どうすればいいのかわからないもの――」
 一筋の涙が頬を伝い、光を受けて輝く。その泣き顔に、心を釘付けにされてしまった。今まで見た溢歌のどんな顔よりも、可愛くて、綺麗だった。
 肩を震わせて、溢歌は髪を振り乱して叫んだ。
「今まで誰も、私をそんな目で見てくれなかったもの!どうすれば好きになって貰えるかばかり考えてるくせに、好きになって貰うのが怖かった!他人に愛される感覚がわからなくて、ずっとずっとSEXに逃げてた。私の好きな人は全員私を裏切ってきた、お父さんも、お母さんも、おじいさんも、あのヒトも……。初めから裏切られるのがわかってるなら、他人を好きにならなければいい、そう思ってた!だからどれだけ私を見てくれてる人でも、ずっとおもちゃみたいに掌で弄んでたわ。そうする事で私の心は満たされる。でも、生きてる限りすぐに退屈と絶望が襲ってくる。それなら繰り返すしかないじゃない。自分の思い通りのヒトが目の前に現れてくれない限り、繰り返すしかないじゃない!――私を好きになってくれて、私も好きになれるヒトが現れるまで――」
 その声は、やがてすすり泣きに変わっていった。力なくうなだれて、布団の上に大粒の涙を零す。その涙に篭っている溢歌の想いを考えるだけで、俺も貰い泣きしそうになった。
 やっと、溢歌が初めて心を見せてくれた。死ぬほど嬉しくて、俺は安心して胸を撫で下ろした。これで心を閉ざしてしまったらもう二度と溢歌を救えないって思ってたから。
「じゃあ、俺が最初の人になってやる」
 俺は重ねた手を握り締めて、子供みたいに泣きじゃくる溢歌に力強い声で言った。
「俺がお前を、そんな鎖の輪を絶ち切って楽にしてやる。でも、俺がお前を裏切らないなんて言い切れるほど強くもない」
 溢歌は顔を上げて、戸惑った顔を見せる。でも、俺の目と握り締めた掌の温もりで信じてもらえると思って、言葉を続けた。
「だけど俺は、お前を裏切らない精一杯の努力はする」
 これが俺にできる、たった一つの約束だった。
「ずっと俺は、たくさんの人を裏切ってきた。俺を育ててくれた叔父さん叔母さん、死ぬまで顔を知らなかった母さん、学校の友達、そして……愁も。みんなの想いを裏切って、今日まで生きてきたんだ。でもそんなのもうたくさんだ。一番大切なひとぐらい、俺への想いに応えてやりたい。俺が絶対に裏切らない、一番最初の人にしてやりたいんだ」
 俺は生まれて来なかったほうがよかったのかもしれない。一人暮らしを始めて、壁の向こうに広がった暗闇を眺めてるとそんな事ばかり考えてた。誰の期待にも応えられないまま、金と退屈を貪って何もしないで生きるだけの自分。結局人間にとって、『生きる事は裏切る事』なんだろう。だからと言って俺はそんな自分を正当化なんてできなくて、ずっと罪の意識に苛まれ続けてた。それは今でも変わらない。
 裏切り続ける事が俺の業だとしても、せめて溢歌だけは信じさせて欲しかった。
「だからお前も、俺を見続けてて欲しい。それじゃなきゃ、愁はもっと悲しむと思う」
 酷い言い草だと自分でも思う。でも、そうする事で愁の痛みがほんの少しでも和らぐと信じてるから。気安く頼んでるんじゃない、溢歌への俺からの願いだった。
「――どうした?」
 口を開けて、溢歌は泣き腫らした目で俺を見上げている。
「何も、言葉が浮かばなくて――」
 恥ずかしそうに俯いた溢歌の視線の先に、俺達の重ね合った手があった。俺もそれを眺めていると、幸せな気持ちで胸が一杯になった。
 俺は間違ってなかった。間違ってなかったんだ。
 泣き笑いの顔を浮かべている溢歌を見てると、やっと自分の決断に確信が持てた。
 しばらくそのまま二人で重ねた手を眺めてると、溢歌がくしゃみをした。俺は笑って脱ぎ捨てた服を拾ってやる。
「ジロジロ見ないで」
 どうして裸まで見られてるのに、着替えだと恥ずかしがるんだろう?とりあえず俺もこのままだと寒いから、背中を向けて服を着直した。
 仕切り直して、二人で布団に包まる。さっきよりも幸せな気分だった。溢歌も顔を赤くして、俺の顔を覗いてる。その顔がたまらなく可愛くて、俺は溢歌の身体をしっかりと離さないように包み込んだ。
「お前が寝るまでこうして抱き締めておいてやるから、ぐっすり眠れよ。朝起きた時には俺はいないけど、家の場所はわかったから連絡くれたら駆けつけられるし、これからしばらくライヴはないから俺もゆっくりできる。何なら、俺の唄を聴きたいんなら――スタジオの練習を観に来てくれたっていい。青空だってきっと喜んでくれる」
 ようやく、スタートラインに立てた気がする。溢歌との日々は、これから始まるんだ。
「俺はお前のそばにいるから。ちゃんと胸に刻んでおいてくれ、な?」
「うん……」
 俺の言葉に、溢歌は何度も頷いていた。
「ほら、やればできるじゃん。いい子だな、溢歌……」
「からかわないでったら……」
 子供をあやすように頭を撫でてやると、溢歌は甘えた声を出して小さく笑った。
 それから2,3分もしないうちに、溢歌の寝息が聞こえてきた。散々泣きまくったから疲れてたんだろう。ずっと胸に抱え込んでいた想いを吐き出せて楽になれたのもあると思う。今日はきっと、いい夢を見れるに違いない。
 緊張の糸がほぐれたせいか、気付くと眠ってしまっていた。慌てて目を開けて携帯電話の時計を確認すると、時刻は夜中の2時を回っていた。
 顔を横に向けると、溢歌の顔が目の前にあった。静かな寝息を立てて熟睡してる。俺の手に溢歌の両手が触れていた。おそらく無意識の内に手を取ったんだろう。
 溢歌の寝顔を見てると、眠り姫を連想した。まるで絵本の中から切り取ったようだ。今までの、心を閉ざして一時の快楽で日々を乗り切ってた姿とは全然違う。
 さっき溢歌は自分の過去を匂わせる台詞をいくつか言っていた。両親がいなくて独りなのは俺と共通してるけど、想像もつかないような子供時代を送ってきた事は容易に想像ついた。
 それに、『あのヒト』って誰だ?
 ニュアンスからすると恋人みたいだった。もしかするとそいつが、溢歌をあんな姿にしてしまった原因なのかもしれない。そう思うと腸が煮えくり返りそうになるけど、決めつけるには早過ぎた。
 溢歌が過去を話してくれた時、俺は心からこいつを受け止められるんだろうか?
 俺は溢歌の心を癒せるのか?
 青空ですら叶わなかった事が、本当にできるのか?自信はあまりないけど、やるしかない。ここで逃げたら、愁に会わせる顔がない。
 溢歌を起こさないように、俺はそっと布団から抜け出した。手を離すのは名残惜しかったけど、これからはいくらでも繋げるって思えば、少しは寂しさも紛れた。
 ジャケットを持って部屋を出る前に、頬っぺに軽くキスしてやった。俺に気付きもしないくらい、幸せそうな顔で眠ってる。
「バイバイ」
 口の中で小さく呟いて、俺は家の外に出た。すっかり冷えこんで寒かったけど、風が吹いてないからマシだった。ジャケットを羽織って、帰路を急ぐ。雲は少なくなってて、凍てついた夜空にたくさんの光が散りばめられていた。
 電車も終わってるから、バイクで帰る時の道を辿って歩いていく。何故か頭に浮かぶのはとりとめのない事ばかりで、愁や溢歌の顔はちっとも出てこなかった。寒過ぎて頭の回転が止まってるのかもしれない。ただ、一秒でも早く帰ろうと気が早まっていた。今更になって現金なもんだ。帰る途中ですれ違う通行人は誰もいなかった。
 マンションに戻って来た時には時刻は4時前になっていた。頬は外の空気ですっかり冷えて固まってる。雪が残ってるからバイクには乗れなかったけど、路面が乾いてたとしても地獄を見るだけだったから徒歩でよかった。キュウの様子を見にイッコーの家に顔を出そうかとも思ったけど、今更時間を潰すのも気が引けた。
 エレベーターに乗った時、初めて愁に何て言おうか考えた。一つも言葉が出て来ないまま、無情にも最上階に着いてしまった。
 マンションの最上階から見える夜の街並はネオンに包まれていた。観覧車はクリスマスサービスなのか赤色に照らされてる。海の彼方には無限の闇が広がっていた。
 家の前に立ち、俺は玄関の扉を、その扉の向こうを眺めた。
 俺が傷つけてしまったひと。
 俺が裏切ってしまったひと。
 この扉の向こうで、俺を待ってる。愁は絶対ここで、俺の帰りを待ち続けてる。
 逃げようなんて思わなかった。身構える事も覚悟する事もなく、いつもと同じように扉を開ける。もちろん鍵はかかっていなかった。
「ただいま」
 俺の声が間抜けに響く。玄関と台所は電気がついてたけど、誰もいない。足元に視線を落とすと、乱雑に脱ぎ捨てられた愁の靴があった。俺はそれをきちんと揃えて、家に上がる。フローリングの床を踏み締める音が、やけに心臓に悪かった。
「愁?」
 台所の先、俺の部屋の電気が消えてる。部屋の前まで歩くと、中に誰かいるのがわかった。部屋に入って、すぐ横にあるスイッチを入れる。数回点滅して、明かりがついた。
 愁がいた。
 壁にもたれて、俺の枕を抱えて三角座りでこっちを見上げてる。
 俺の姿が明かりに照らされると、愁は大粒の涙を零し始めた。その時、今まで沈黙してた後悔と罪の意識が津波のように押し寄せてきた。
「すぐに追ってきてくれるって、信じてたのに――」
 掠れた愁の声が、部屋に響いた。泣き喚いて泣き喚いて、声を嗄らしたのか。
 ――俺は、何て事をしてしまったんだろう。
 脆弱な俺の心は激流に飲みこまれて、悲鳴を上げる。
「ずっとずっと、たそのこと、信じてたのに――」
 愁は泣いた。枕に顔を埋めて、泣いた。
 罪の意識が、心臓を深く抉る。息ができないほど、胸が苦しかった。
 俺は、何て事をしてしまったんだろう。
 事の重大さに、今になって気付いた。
 俺の胸に飛びこむ事もしない。俺の頬を叩くわけでもない。愁はそこで膝を抱えて、ずっと泣いていた。その泣き声を聴いてるだけで、俺の心はナイフで削られていく。
 逃げ出したかった。全速力でこの場から逃げ出して、溢歌の元へ帰りたかった。だけど、足は思い通りに動かない。
 何て声をかければいいのかわからなかった。愁の泣く姿を見ながら、俺はどうすればいいのかわからなかった。
 悩んだ末、俺の口から出てきたのは、とても陳腐で、何の慰めにもならない言葉だった。
「……ごめん、愁……」
 その声も、届いたかどうかはわからない。俺は泣きじゃくる愁から目を外せないまま、ずっとその場に立ち尽くしていた。
 ――石の転がる音が、確かに聞こえた。

                        →to be Rolling Stone.


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